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第七章 第一節 山頂の愛

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 無言のまま、ふたりは山路を登り続けた。そしてようやく、頂上へと足を運ぶ。噴火まであと三日、それまでの間に体力を回復して、決着をつけなくてはならない。
 ……というのも、九合目の半ばに差し掛かったあたりで、キトリが腹痛を訴えたからである。彼女が体調を崩してから、ふたりは休む頻度を増やした。一日中、洞穴の中で横になっていた日もあった。一方マイトは、寝込んでいるキトリを、襲おうとは思わなかった。キトリのちょっとした仕草に女性性を感じたとしても、幼いころにかけられた呪いが、頭の中を横切ってくるから。
 ただ、その呪いが、キトリだけではなくマイトをも延命し、この状況の救いになるとは、誰も予測し得なかった。無駄に精を撒き散らすと、寿命はあっという間に来る。

 噴火まで、後一日。きょう中に頂上の少女を仕留めなければ、また村は灰まみれになり、愚かな歴史が繰り返される。これまでの歴史の中で、マイトのように、人間の身にはあまりにも重すぎる愛を受け、生殖を不可能にされた子どもが何人いただろうか。おそらく、ひとつの自治体が形成されるぐらいの人数が犠牲になっているだろう。人口規制は環境破壊を未然に防ぐという点では、理想的である。しかし、その中にもしも、未来に起こるであろう問題を解決できる人間が生まれるとしたら……今更それがどうした、と言う話になるが、ナヤリフスの罪は意外と重い。人類がいずれ背負う罪をあらかじめ背負っておく、そのあり方こそが、邪神の説く『愛の形』ではないだろうか……

 そのような考えを持ちながら、キトリとマイトは歩を進める。次第に周りの空気が凍りつき、呼吸器官に傷を負わせて来るようになった。雨が切削加工できないような地面を踏んで、おびただしくそれでいて規則的に生えた苔を踏んで。さまざまな存在を踏む旅を経て、ふたりはようやく山頂へ辿り着いた。まず、姿勢を整え、呼吸を楽にする。すると、少女の声が聞こえた。神話は、本当だった。少なくとも、高山病で狂った登山者が聞いた幻、などではなかった。

「あなたが、わたしの友達になってくれる人?」

 少女の声は、疑惑を発していた。
 ふたりは、『どういう話を受けて、そういう解釈になったんだ?』と顔を合わせ、疑問に思った。少女の髪や体毛は川のように長く伸び、毛量はこの山の木々よりも多く、足の皮膚などは角質だけになっていた。柔らかな女性の影など、どこにもない。肌は砂のように荒れ、服はもう局部を隠す程度でしかない。女性を思わせる要素は、ことごとく抜け落ちている。しかし何万年も生きてきたにも関わらず未だ、年若い頃の面影のある声。声だけが、『少女』という概念を繋ぎ止めていた。

「友達だって言うなら、わたしのお願いを聞いてよ。お願いを聞いてくれたら、何をされたって構わないし、何だってしてあげるから……」
「なんだ、その言い草は……」

 少女の言葉に、マイトは驚く。
 その言葉遣いは、会話の切り出し方は、かつての経済を思い出させた。物々交換よりも前、原始的な交易に近かった。できる行動同士を交換し、成果を交換する。この考え方が、この考え方で人間に接している現実が、少女がはるか太古の人間であると証明していた。たとえか弱い幼児であったとしても、何もできないと知られればすぐに捨てられてしまう、そのような太古の人間。
 マイトが少しだけ、悩んでいる素振りをしていた。その隙にとでも言わんばかりに、少女は自分の苦しみを語り始めた。

「心臓の動きを数えるにもとうに飽きた! 月経の数だってもう数える気力なんてない! 周期だってもうどうでもいい! 星が何度爆発したか! 赤い月が何度も昇って、沈んできたか! そんな長い、長い命をずっと、ずっとずっとずっとずっとずっと味合わされてきたの! もうわがままは言わないから、いい子にするから、愛してほしいなんて二度と言わないから、生まれてきてよかっただなんて二度と思わないから、わたしはわたしだけの地獄に行くから、早く、早く、できるだけ早く」

 暴発し切った死への欲動を喉に乗せ、少女はがなり立てていた。きっと、声帯も傷だらけだろう。そして、マイトの返答を待つでもなく、少女はお願いをしてきた。

「わたしを、ころして」

 今を生きるキトリとマイトにとっては、想像しがたい痛みであっただろう。『死ぬべき時に死ねない』という、現実は。しかしキトリは、少女の様子から感じ取ってしまった。つゆも知らない人に対して、殺してほしいと頼むこむその態度……多くを語らず、ただ長く生きすぎた苦しみだけを語る、その話……少女を想うたびに、キトリの腕は震え、弓を持ち続けるだけで精一杯になる。構えもつがえもできないような、一種病的な震え。どうにか押し殺してきた涙を少しだけ、露出してしまう。涙の味は、鉄の味をしていた。
 想像できない太古からの悲しみに、そんな相手を今から殺すと考え、震えるキトリの背中に触れ、マイトは囁きかけた。

「いいか、キトリ? 血て汚れる腕は、俺の腕だけでいい。お前の腕は清廉で、汚れなく美しい……罪を被る人間は、俺だけでいいんだ」

 続けてマイトは、キトリに対して『二十歩下がるように』と言いつけた。長い武器を扱う以上、同行者に当たる可能性もあるから。キトリは素直におずおずと、安全な場所へ向かい、観戦体制に入った。キトリが移動し、腰を落ち着ける音を聞き届けたマイトは、大剣を構え、真っ正面から少女に斬りかかる。

「でも、殺されるのは怖い! この先が見えない、未来が想像できないから……ごめんなさい、少しだけ抵抗します」
「なっ……!」

 しかし、そう簡単にはやられてくれなかった。
 なんと、少女は自分の髪を一本抜いて、自分と同じ背丈の、少女を一人、生成してしまったから。太古の昔から、女性の長い髪には魔力が宿ると言われている。長ければ長いほど、魔力も手入れの厄介さも増える。少女の髪は長さに比例して、摩擦が多いにも関わらず、枝毛の一本もなかった。レッテンスパイン内ではありふれた高さの山であるとはいえ、山頂からほとばしる川に匹敵するほどの長さの髪。ちょっとした旅行にでも行けるだろうし、ひとつの群地を滅ぼしたり、惑星を破壊できるほどの魔力があるはずだ。それを、自分の分身を作るだけにしか使わなかったあたり、少女の人生経験のなさと、人生経験を失った年月の重みがある。

「お前が憧れたそれが今、近づいてきているというのに、どうしてお前はそれを怖がる? 安らかな死を迎えられないから、他人に与えてもらえるように、願っていただろう?」
「『母さん』が言っていたから……一度生まれた生物は、できる限り生きようとするって。自殺なんて考えるのは、広い宇宙の中でも人間くらいだ、とも言ってたから……今の私は生物じゃないから、抵抗しなきゃいけないの……そうしなきゃ」

 マイトは驚いた。あのナヤリフスを、『母さん』と呼んでいる人間がいたのだから。そこまで絶対的に信用しないとならないほど、命を握られているか、単にそれだけ懐いているだけなのか……どちらにせよ、よほど実母に愛想を尽かしているか、実母以上に愛情を以って育てられたかでもしなければ、このように呼ぶはずがない。少女の身の上も踏まえると、両方の可能性があるが、少女は自分の命を捨てたいと思っているから、他にも可能性はあるはずだ。例えば、彼によって強制的に『懐いた』と認識を書き換えられている、など。マイトの知っているナヤリフスは、そのような人形遊びで満足するはずはないが……マイトは同じ者に傷つけれられた被害者として、そう考えた。
 少女がまた髪を抜き、分身を生み出す。二十万年間、触り心地だけを優先されて整えられた髪だから、毛量が異様だ。いつかの神話の再現のように、本体の気配をかき消すほどの量の分身が現れた。今のマイトは、これまでの殺人の功績からか、これを喜ばしく思っていた。実際には冤罪だが、キトリの身を守り、自身を守るための応援歌としては役に立つ。

「生物である条件なんて無い! 心臓が一度でも動いたなら、呼吸を自力で一度でもできたなら、そんなささいな条件でいい! 誰しもが、今生きている誰しもが、過去の人生の中で一度は経験しただろう!? お前はもうとっくに生物だし、人間なんだ! だからお前には、死ぬ権利だってあるし、生きる権利だってもちろん、ある!」
「でも、『母さん』は……」
「あいつの話を信用するな! あいつの話の真実は、陸地の割合ぐらいしか無いんだぞ!」

 マイトは剣を振り回して少女の分身を倒し、無駄に説教しようとしていた。それだけマイトが優勢なのかと思われるが……戦況は喜ばしくなかった。問題は、持久力である。
 今の状況では、マイトが力尽きるか、少女の全身が禿げ上がるまで戦いは続くだろう。そしてこの高度の戦場(高山は酸素が薄いので、呼吸が苦しくなる)、これまでの旅路の長さから、マイトが力尽きる方が早いだろう、と推測できる。今のマイトは何も考えず、ただ殺戮しているだけ。だが、永遠などないのだからそのうち、マイトの体力は尽きるだろう。また少女は髪を抜き、少女にして、マイトに殺される。その繰り返し……キトリは物陰から、今一番必要な言葉を放った。

「マイト! その子の髪の毛を、切ってあげて! 腰くらいまで切れば、きっとすぐ決着がつけられる、はず!」
「確かに、場が狭くて戦いづらいと思っていた。なら、この少女の分身はどこから……」

 言いかけて、マイトも気づいた。キトリの言わんとしている言い伝えの内容に、それを踏まえたナヤリフスの狙いについて。最も近くにいるはずの者が、少女の苦しみについて知っておきながら対処していない。殺そうと思えば殺せた、そんな距離にいたはずなのに、未だ少女は生きている。少女を生かし、山の頂上に捕らえたままにしておく……そこにナヤリフスにとっての利点があると考えるだろう。同時に、少女の髪は魔力の宝庫であり、ここさえ断ち切れば後が楽になる。少なくとも、マイトにとっては。

「ていねいに整えられた髪の毛を、こんなにたくさん生やすなんてな。だが、その長さだと色々不便だろう? 切って整えてやろう」

 少女の許可を待たず、マイトは大剣で少女の髪を切り裂いた。一瞬で。長く続いた歴史という織物が、一点で引き裂かれたようだった。少女の毛髪の断面は平面的になり、定規で描きやすい髪型に変わる。これまで山頂で固定されていた毛髪たちが、山の斜面を滑り落ちていく音がした。少女から離れた髪の毛はひとつの生物になって、陸地の終わり端まで一直線に向かっていく。惑星の球体に描かれた線が、消えた。今ごろ、海溝の住人たちが大量の餌を手に入れて、驚いているところだろう。

「わたしだって、伸ばしたくて伸ばしたわけじゃない……」
「知っているさ。だが、黙って殺される気は無いんだろう? だからさっきまで抵抗していたんだろう?」

 いきなり身軽になった現実に、少女はまず驚いた。少女が若干嘆くように、消え入るような声で語りかける。マイトは少女へ近づいて、少女の顎を持って、あの悪癖を晒してしまった。そう、彼の悪癖とは『頑張れば上手くなれそうな人に対して、めちゃくちゃに口を出してしまう』である。しかもその上、軽く自分語りまで始めてしまった。キトリも何も言わず、そっと受け入れている。

「俺はとっくの昔に大罪人だよ。だから地獄にも行けず、この現世をさまよっているんだ……お前は前に、『わたしはわたしだけの地獄に行く』と言っていたよな? 地獄に行けるだけ、お前はずっと人間としてマシな部類じゃないか。学習の機会を与えてもらえるのだから……お前は間接的にとは言えども、人を殺した。そこに至る理由がきっと、必ずあるはずだ。あくまで俺は死後の世界に関しては門外漢だが、今のお前だったら。『次の人生は、きっといい人生になる』とだけ、言っておこうか」
「あなたは……何者なの……?」
「今から死ぬ人間が訊く内容じゃないな。お前とは少しだけ、道を違えた人間だ、とだけ言っておこう……今まで、お疲れ様」

 それが、少女との最後の会話だった。ねぎらいの言葉を一通りかけた後、少女の胸を一思いに貫く。マイトの一刺しは、長く続いた歴史を終わらせた。生物として酷使され続け、異常なほどの長命を生き続けた少女の肉体。その体からは、一滴の血液も飛び出さなかった。

 物語は、ここでは終わらない。
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