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第五章 第二節 出発準備

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 ずっと一緒に話し続けていた人間が、いきなり人を殺しているわけがない。マイトは自分が疑われないように、厠に向かう際もキトリを連れて、外で音を聞かせていた(どちらかというとこれはキトリの提案であり、マイト自身も提案に少し嬉しそうにしていたと言われている)。完全に、マイトはキトリの近くにいるだけであり、他のどこにも向かいはしていない。キトリは知っている。これは確実に冤罪である。

「ねえ、もしかして……」
「お察しの通り、六百七十六人のうち、俺が本当に殺した人数は……十六人だ」
「えーっと、残り六百六十人はマイトじゃなくて……もしかして」
「俺はわかってるんだからな、全部言うんじゃない」

 この数値、もしくはそれ以上に冤罪を着せられている。そう確信したキトリは、何かの準備をしているマイトにかける質問を変えた。

「どこか行く宛はあるの?」
「裏口から出ればいい、そこからの方が山、近いしな」
「本当に行く宛がないんだ……」

 裏口脱出を提案したマイトは、静かに村を発つ準備をしていた。ずいぶん前から計画していたかのように、その動きは一時の隙もなく、息を吐く間も無く準備を終えていた。本人は『山に入る前に、身を清めておこう』という気分になっており、他所の耳にはちょっとした家出もしくは参拝気分、といったように聞こえるところだろう。
 対してキトリの準備といえば、非常食を用意している程度だった。こんなに早く向かうつもりはなかったようで、手は終始止まっていた。その様子を聞き兼ねたマイトは、少しだけ話題を振った。

「なあ、お前の家族だったんだろう? 俺に関わったせいで、こんな惨劇を聞いてしまって……よく平気でいられるな。俺だったら、取り乱しているかもしれない……」
「確かに、私の家族ではあったんだけど……本当に根絶やしにされているのかな、あの人だったら、子どもは逃すはずなんだけど……」
「根拠は?」

 そう言われると、キトリも少し考えなければならなかった。子どもが好きな人はたいてい良い人である、とされているし、実際にもそうである。だが、マイトはもちろん、現在のキトリにとっても疑問に感じるところはあった。
 と言った理由も、『子どもが好き=良い人』という先入観を用いて、何かしら悪巧みをしている可能性も否めないからだ。否めない、というよりは、していると言い切った方がいいかもしれない。

「……依頼主である村長が死んでしまったから、お前との火山討伐の話はお流れになる。きっとこのまま、俺一人で挑むだろう。だが、もし付いて行きたいと言うなら、付いてきてくれて構わないさ」

 マイトはそう高らかに宣言しているが、腕は震え続けていた。技術的には不可能ではないだろうし、なんと言ってもマイトは人殺しの達人である。しかし、最初の殺人は自分から行ったとはいえ、不本意だったのだろう。そうでなければ、今も震え続けている腕は一体何になるのだろうか。隠し通そうとしていたマイトの気持ちに触れたキトリは、そっと付け加えた。

「マイト一人きりでも、肉体は大丈夫な気がする。でも、心が大丈夫じゃないかってところは、心配で……正直、足手まといだと思うけど、もし良かったら」
「そう言うと思っていたぞ! どんな苦難に遭ったって、お前を捨てたりはしないから。むしろ、守るべきものがある戦いははじめてだから、少し血が湧くぐらいだ!」

 今の一言は本音だっただろうが、わりと余計な一言だった。意気揚々と言ってしまった後悔を、マイトは背負った。このような経験なら、マイトの短い人生の中でも千回近くある。その千回の中で最も強く後悔していた。
 好きな人の前で、うかつに発言してしまった場合、婚期が遠ざかる。マイトにとって結婚など夢のまた夢の夢だが、少しだけ淡い期待も持っていたとされている。一方のキトリは、『戦いが好きなんだなあ』とだけで、気にも留めていなかったと言う。

 登山準備は共同作業と化した。キトリに登山の知恵は含まれていないため、野外生活に詳しいマイトに色々教えてもらいながら、必要な物資を揃えていく。とは言っても、ちょっとした避難場所を作るなら、キトリの方が少しばかり慣れている。平地であればすぐにでも設営できるし、少し傾いている程度であれば、足で地ならししてやればいい。洞穴があれば作業が楽だ。木の枝を集めて穴を塞げば、雨も雪も怖くない。
 非常食と水分の確保は重要である。マイトに『非常食に適した食事』の話を聞きながら、キトリは袋穀物を甘辛く煮詰めた料理を大量製作している。袋穀物は無味な食べ物だが、中にはたくさんの栄養素が含まれている。それを手に取りやすいよう、口が進みやすいように味をつけているのだ。糖液と茄子辛子の切り刻まれた遺体を混ぜ、煮詰めている間にも一つ、非常食を作り始める。力芋を力のままに押し固めて直方体状にして、腐ったりカビが生えてきたりしないようにこれまた糖液で膜を形成させる(この料理を『力任せの塊』と呼ぶ)。力芋は皮を剥いて、中のでんぷんを露出させておく。それを直方体に固められるような機材に放り込み、押し固める。これ以上押せないほどに固まったら取り出して、糖液をかけて冷暗所で乾燥させる。この二種類だけでも基本的な動きには十分だが、やはり人間。肉や野菜類が恋しくなる生き物である。
 正直、野菜なら食べれそうな山菜を少しばかりいただく程度でいいのだが、肉はそうともいかない。山には凶悪な闇夜獣がおびただしく生息しているが、彼らの肉は硬く、常食に適していない。また、倒せるとも限らず、全滅も予測できるぐらいだ。かと言ってこの村周辺および、山周辺と山に生息している虫どもは、食べるのに少々手間がかかる上、まったく栄養素がない上、まずい。そんな虫を手間かけて調理しても、百匹食べたところで腹五分目にも足りない。そのため、キトリとしては干し肉か、それに値する栄養素のある何かを探していた。

「ねえマイト、お肉はどうする? 今の干し肉の量だとちょっと、足りなくなるかも」
「肉なら、地鳴鳥の卵で十分だぞ? 山に行けば手に余るほど採れるからな。だからと言って無闇に追いかけ回すと、村の農耕物を荒らしにかかってくるだろうから、一つの手にそれぞれ一個、ぐらいで構わない」
「卵! でも、調理はどうするつもり? 卵液のまま飲むと、お腹を壊すかもしれないよ」
「それはそうだな、温石も持っていくか。殺菌の足しにはなるだろ」

 キトリに知恵を教えていく段階で、マイト自身も知恵の選別ができた。嘘を教えれば最悪目的が達成できなくなる状況だから、必要な情報だけを教えるには、経験と知識を混ぜ、判別しなければならない。マイトとしては、この時点で『キトリは役立っている』と思った。このような荒事に関わらないで、結婚生活を営む場合、きっといい母親になれるだろうから。
 今のキトリは、以前のように敬語調ではなく、砕けた態度で話している。マイトと一緒にいるこの状況に、どことなく安心しているからだろう。罪の重さに差はあっても、形質的には非常によく似ていたから。その事実が両者を落ち着けさせた。
 非常食もあらかたできたので、携行用の袋に詰め込んだ。それをさらに、登山の時に扱いやすいように、大きな袋に詰め込んでいく。キトリは非常食を奥に詰めるか前に詰めるかで悩んだが、足の速い非常食から食べられるように、前の方に置いた。力任せの塊は糖液で覆ってあるが、若干カビに纏われやすい。
 キトリが一緒に登山してくれるおかげで、マイトの背中の負担が半分になった。それは同時に『袋を二つ用意する必要』がある。どちらかの袋に非常食や水を偏らせて、もう一方は必須道具を詰め込むか、もしくは両方に同じ量を均等に配分するか。偏らせた場合、どちらかが遭難もしくは失踪した時に詰む。均等にしておいた方が問題にはならないだろう。
 必須道具。何が必要かをキトリは知らない。こう言う知識は年にしては異常に知っているマイトに聞いてみる……と言うより、勝手に語り始めた。

「縄と鉤金を忘れてはいけないぞ。山登りにはかなりの準備が必要だからな。まず布地と酒、これらはとっさの時の消毒に役立つ。布地自体は集められるだろうが、酒はうちの在庫だと……神事があるときに配られるから……キトリ、ちょっと山の神の祠からお神酒を盗ってきてくれないか?」
「いいの?」
「良いに決まってるじゃないか! ついでにいくつか潰せておけたら弱体化も狙えるぞ!」

 そう言ってマイトは手斧と瓶と瓶のふたを差し出した。本当に粉々にしておいてほしいようだ。今のマイトは完全に付け狙われているため、うかつに外を歩けない。日を跨いだとはいえども、やはり家の外の暴徒は収まる気配が全く無い。そんなマイトの家から少女が一人出たら、どれだけの騒ぎになるだろうか?少なくとも、マイト本人が出てくるよりはマシだとは思われる。複雑な思いを込めて、キトリは外に繋がる表口の扉に手をかける。

「あとついでに温石と砥石と炭も取ってきてくれ! 道中で足りるか、不安なんだ!」

 もはや、おつかいか何かだった。だが、キトリ本人としては特に、嫌な気持ちはなかった。
 マイトは少し隠れ、その様子を聞いたキトリは安心して、扉を開いた。

「おや? キトリじゃないか。その様子だと、マイトと同衾していたのか?……随分とませているんだな、人間の女を連れ込むなどとは」

 後をつけてきていたのだろうか? ナヤリフスがそこに、何食わぬ顔で立っていた。まるで付いてゆくのが当たり前、と言わんばかりに。周りにいたはずの暴徒の姿は聞こえず、芝居が終わったように帰っていったようだ。もしくは……暴徒も全て、ナヤリフスが作り出した幻だったのか。もはや何も聞く必要はないだろうと感じたキトリは、何も言わず扉を閉め、鍵をかけた。

「どうした?」
「マイト、もう間に合わないよ。ナヤリフスさん、もう、いるから」

 キトリがそう言うなり、用意していた袋と、用意しかけていた道具を一まとめにして、マイトは立ち上がり、走り始めた。その様子を、中の様子を知っているように、鍵をかけたにも関わらず、ナヤリフスは軽々と扉を開けてきた。

「母さんはなんでも知っているんだぞ? お前の好きな料理の味も、好きな匂いも、好きな音も、好きな手触りも。この世界の成り立ちについてだって、お前の好きな体位だって……私の体で覚えこまされた快楽は、凄かっただろう? 人間ごときでは満足できないだろう?」

 ナヤリフスの顔が家の中に入ってきた瞬間、早々にマイトは裏口から逃げていった。キトリはこれまで用意していた袋を背負い、少しだけでも足止めになれるように、ナヤリフスの前に立った。
 彼独特の癖になるような低く、うねるような声で放たれた、共同生活の記憶。それを否定するのは、マイト自身を否定するのと同じである。しかし、受けた心の傷と痛みは本物だ。その中でせめて、自分で疑惑を晴らせる話題を選び、キトリは語る。

「大変な誤解をされていると思うんですけど、私とマイトは、そんな関係ではありません! きのう彼とはたくさん話しました。にも関わらず、あの人は一度も、私に触れはしなかったのです!」
「触れて欲しかったのか?」

 キトリは、自分が少しだけ求めていた欲望に気づかれて、口を押さえた。誤解を解くために、疑惑を晴らすために話したはずなのに━━これ以上、下手に喋るわけにはいかない。相手は、わずかな息遣いの変容、わずかな声色の上下など、語り手のちょっとした機微から深層心理を読み取ってしまえる呪術師だからだ。
 すぐ前に立っているキトリを押しのけて、ナヤリフスが侵入しようとしてくる。キトリは扉を閉めて押さえ込もうとする。先ほどまで人の形をしていたそれが、とろけて液状化し、扉を押し壊そうとしてくる。その様子を聞いて、キトリは軽く腰を抜かした。強い恐怖で、足腰をやってしまった。
 そんなキトリを気にかけて、マイトが駆け寄ってきた。キトリは何とか立ち上がり、マイトの手を取る。

「キトリ! そいつは話を聞かない! 早くこっちへ来い!」

 マイトの何とか絞り出したような勇気のある声が、今となってはキトリの希望になっていた。そしてこの一週間で、マイトが何に怯えていたかがキトリにはわかった。そして、これから戦う敵の正体についても、そのようだ。
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