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第三章 第三節 健康診断(1) 挿絵あり

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 いきなり、宿泊者が増えたから。少しだけ宿の中でいさかいが起きて、最終的には剣や槍を持ち出しての戦乱に発展してしまった。それでも、どうにかその場を治めた女性がいた。先ほどの話で出た、カルライン=マイトの幼なじみである、引っ込み思案の巫女である……何度もこの言い方をすると、書物として出版された際に両腕を超える厚みの本になってしまうため、今さっき手に入った史料から、彼女の名を引用する。かの巫女の名は、『レトカセナ=エレカ』だ。
 エレカは、キトリやマイトが潤滑に、そしてちゃんと休息がとれるように交渉してくれた。今回の火山討伐は、みょうに気合が入っているように思えたからだ。とは言うものの、エレカはそれ以前を知らない。思ったならば、覆せないのだ。

 事態は動き始めに移る。
 マイトがどうにか予言をしたため、予定を作っている。その頃キトリは、なんと寝坊をしていた! もちろん理由はある。きのうの出来事があまりにも衝撃的で、当の本人であるマイト以上に大混乱していたからだ。ふたりはどういう関係なのか、そして何があったか。ちゃんとした答えをもらうまで、キトリは夜中興奮して寝付けないだろうし、今でさえ、寝ている。
 虚脱状態に移ったマイトは動く気力さえ出せず、ずっと寝台のうえに座っていた。こんな時、この世界に対して皮肉を言ってくれる友人がいれば、少しは気が楽になったかもしれない。しかし、その友人はもういない。最初から、この世にはいない。事実を知っていてなお、マイトは彼を求めるし、同時に、『これ以上仲良くしないでほしい』と願い続けていた。
 マイトの泊まる部屋の扉へ、規則正しく優しい拳が下される。中の住人が一切動こうとしないと理解すると、拳は動きを止めた。そして、拳の主は。エレカはふと呟いた。

「……お兄ちゃん」

 そんな呼び方をする存在が、マイトにいたはずがない。いいや、いたかもしれない。しかしそれはあり得なかった未来の話。いまとは違う、別の道を歩んだ歴史。だから、マイトは無視して、ひとりだけで自分の世界へ逃げ込む。エレカは様子を察して、扉の前から立ち去った。

 ようやく、キトリが起き上がったところである。外の様子を聞いてみて、自分がどれだけ寝過ごしたか知り、少しだけ落ち込む。だが逆に思うところもある。『一日が短くなったら、動く時間も減るから実質疲れないのでは?』と。キトリは部屋から出て、あ……昼ごはんを食べに行こうとする。扉を開く。……いる。

「こんにちは、ミファースのお嬢さん。少しばかり時間は、空いているだろうか?」

 キトリは口ぶりから、きのうちょっと揉めた呪術師と理解するが、それよりも寝起きでお腹が空いているので、断るための言葉を考える。が、とりあえずキトリは、思いの丈をぶつけてみる。

「きのうの海藻丼は大きさが本当に凄かったですね~私なんてさっき起きたばっかりなのに、まだきのうの食事がお腹の中に残っている気がするんですよ。きょうの献立は言葉の煮付けらしいですよ。私はお腹が空いているので、この辺で。じゃ!」

 面倒な会合を断るための言い分……略して『言葉の煮付け』作戦である。キトリにとって、この作戦は防衛でもあり、攻撃でもある。変に絡んでくる男がいれば、自分の静寂を守るためにあえて気が狂ったふりをする。この断り方を続けていると、だんだん友人が消えていく。キトリにとっても、この呪術師とマイトが変な絡みをされていると気が気でなくなるし、捕食対象として認知されていて怖いので、逃げられるならそれに越したことはない。それに、ここで完全に縁が切れたら、火山討伐の障害も減る。キトリにとっては、勝算しかない作戦だ。しかし。

「あまり、はらわたの調子が良くないんだな? 義務感だけで飯をかき込んでもよろしくない……嘘、なんだろう? 嘘までついて、私から逃げてどうするつもりだ? 私が怖いのか?」

 重低音でここまで完全に論破されると、キトリも『はい、そうです』としか言えなくなってしまう。もちろん、最後の問いでさえ。それは嘘ではないから。
少しずつ、呪術師の足がキトリのほうへ近づいてゆき、木材が軋む。今から何をされるものか、キトリは驚きながらも足を地面に固定してしまい、動けない。声を出そうにも、金縛りのような、痺れる感覚があって動かせない。喉自体でさえ、この事態においては味方ではない。ついに、キトリの肩に手が回り込み、右頬をすり抜けて髪をかき抱いて、誘惑するような距離感で呪術師がささやく。



「今から、出店の裏へ連れて行こうと思っている。少し、話さないといけないからな……安心しろ。いい子にしてくれれば、すぐに終わるから」

 キトリはぽかんとして、呪術師の言葉を噛みしめた。そして少々押し付けがましい声が、キトリに『従わない余地はない』と、強烈に思わせる結果になる。ぼんやりとしていたキトリは、いつの間にか苦しいほど切実に抱きしめられて、頭を撫でられている事実を受け止められないでいた。それでも気を取り直したキトリは、ふと思い立って、これ幸いと呪術師の心臓の音を聞こうとする。これだけ近くなれば、少しは聞こえるはずだ……その瞬間、離され、キトリは宙ぶらりんになる。よほど大切な人にしか、聞かせないつもりだろうか?

 それからの道はやけに長かった。『呪いの師って言うぐらいなんだから、時間短縮の何かを使ってくれ』と思うくらいに、長かった。
 道中、村はずれの社に寄った。そこには週一くらいの頻度で交換される、お神酒が置いてある。お神酒はこの一帯の山にいる、神に捧げられていた。無礼にも、呪術師は飲み干して、手を合わしていく。なぜ、彼は怒られていないのか……? 昔、キトリが小さかった頃、社のお神酒に手を出そうとした時、どこからか現れたおじさんに怒鳴られ、それ以来から社には近づかないようにしていた。そもそも、この社に近づく人間は、お神酒を交換する係になった人間しかいないはずである。キトリは、理由を調べたくなった。しかし呪術師は、何も語らなかった。まるで、当たり前の毎日であるように。

 きょうは、誰かの子どもとその母親が、庭で遊んでいた。向こうでは夫婦が仲良くしていて(もちろん外でできる程度の行為で)、あちらでは男性が道の真ん中で寝ている。ふたりは寝ている男性を避けて歩く。道中でキトリは、村中の人間の思考がふだんと同じようになっている現実を知る。その理由は後で分かり、きのう入った布の通り道の前に、『戸締り中』と刻まれた、簡素で小さな立て看板が建ててあったから、だった。

「この村の住民が皆、耳が鋭いのかどうかは知らないが、この看板を引き抜くと……」

 呪術師が座り込んで、雑草の根っこを抜くかのように、看板を軽々と引き抜く。すると、周りから歓声が湧き上がり、女性たちが現れ始める。キトリは驚いて、何をしたか聞こうとしたその瞬間、看板は元の場所に刺し直され、女性たちは自分のあるべき場所へ戻っていった。

「このように、客が現れる」

 今度マイトに教えてやろう、と体験を語るべく、キトリは記憶を始めた。
 彼らは店の周りを回って、布の番犬のいない入り口を通る。歩きくたびれたキトリは、呪術師に対してひとときの休みを要求し、こころよく提供された椅子に腰掛け、足の疲れがなくなる時を待つ。呪術師の方も、事前の準備が必要らしかった。
 慌ただしく、しかしそれでいて落ち着いた様子で呪術師がなんらかの準備をしている音景を聞きながら、キトリはこの『裏口』について観察していた━━あまり人を入れないからだろうか、どことなく空気がだらけていて、運動する気がいを感じさせてくれない。湿度も若干高いから、床にきのこが生えているかもしれない、そしてそのきのこが薬の材料になっているかもしれない、とさえ、キトリは考える。それにしては清潔で、虫が入ってこないように払われている。いったい、使用目的はなんだろうか……歌うべき体を持たぬ魂が、そこらかしこに命を響かせている声が聞こえる。彼らに対して、呪術師は一切の慈悲もくれてやらず、放置をしていた。

 なんらかの不穏な目的をキトリは感じ取ったが、それを口に出せばおそらく実現されるだろう。恐れて、何も言えなくなっていたところに、キトリの名を呼ぶ声がした。準備ができたのだろう、キトリは椅子を発ち、呪術師の待つ方向へ向かう。足の方はずいぶんと休めたらしく、『今なら山を越えて歩けますよ』と言うような元気さだった。確かに、この地を離れればいっそ楽にはなれるだろうが……キトリは、その選択を許したくなかった。
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