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第三章 美しき騎士の追憶
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アルバートの母親は、王宮を出て南にある家で、一人で暮らしていると言う。
思えば、王妃であるアルバートの母親の姿を王宮で少しでも見かけることもなかった。
ヒーデルと別々に暮らしていることについて、アルバートは、「パパは、ママを本気では愛せなかった」と言った。
馬車の中、過ぎていく景色を横に、エルダは一心にアレンを救いたいという気持ちを大きくさせていた。
「エルダ、大丈夫?」
向かいに座るアルバートに顔を覗き込まれる。すっかり、回復したアルバート。痩せ細ってしまった身体も、今では元通りだ。
「少し、緊張しているかもしれませんね」
「エルダも?」
「もって……アルくんもですか?」
「うん、実は」
照れくさそうに、はにかむアルバート。母親に会いに行くのは、久しぶりだと言っていたが、そのせいだろうか。
(久しぶりに、アルくんの年相応な姿を見た気がするな)
そんなアルバートの姿に嬉しくなるエルダ。
きっとアルバートの母親も、今日、アルバートが来ると知って嬉しかったに違いない。親にとって、子供はいくつになって子供だ。
(アレン様のお母様も、アレン様に、会いたいと思っていらっしゃらないのかな……)
「あの、アレン様のお母様は、今どちらにいらっしゃるのですか?」
密かに気になっていた。ダニエラが、今どこで何をしているのか。記憶を忘れたとしても、今のアレンを知っているのか。
「……分からないんだ。知っているとしたら、国王だけだと思う」
「お国に、帰られたということは?」
エーデル国の王女であったダニエラ。あの一件以来、国に帰っていてもおかしくはない。
「それは、ないかな」
すぐに否定するアルバート。
「なぜですか?」
そう問うと、アルバートは言葉を詰まらせているようだった。
「ごめんなさい……無理には」
「いや、エルダには、全て知ってほしいから。どんな些細なことでも」
(アルくん……)
「呪いの子を産んだとされるダニエラ様を、エーデルは不吉な存在とみなした。だから、国に帰ることは許されなかったんだ」
「そんな……」
それは、あまりにも理不尽すぎることだ。
二人が会うことは、もう叶わないのだろうか。
しばらくして、馬車は小さな木製の家の前で止まった。
(ここが、アルくんのお母様の……?)
てっきり王宮のような佇まいの家を想像していたが、目の前にある家は、庶民的な造りをしていた。
半信半疑になりながら馬車を降り、アルバートの後に続く。
庭は綺麗に手入れが施されていて、花たちは生き生きしていた。
アルバートがノックすると扉が開かれた。
「いらっしゃい。待っていたわ」
開いた扉の先にいたのは、アルバートによく似た女性で、すぐにアルバートの母親だと分かった。
彼女はアルバートを抱きしめると、エルダに見据えた。
「あなたがエルダさんね。アルバートから話は聞いているわ。いつも息子がお世話になっています。母のマリアです」
「こんにちは。今日は、お時間をいただきましてありがとうございます」
律儀に頭を下げるエルダに、マリアは笑みをこぼす。
「そんな堅くならなくてもいいのよ」
マリアはにっこりとエルダに笑いかけた。
顎下まで伸ばされた、癖毛のオレンジ色の髪は、ふわふわと横に広がっていて、可愛らしい雰囲気が、どことなく、アルバートを連想させた。
「入って」
家の中は、壁に仕切りはなく広々としていたが、はやり王妃が住む場所にしては質素な家だった。
「どうぞ」っと、ソファーに腰掛けるように言われ、会釈をして腰掛ける。
今は使われていない暖炉の上には、幼き日のアルバートの写真が飾られていた。
少しして、テーブルに紅茶が置かれる。
自らエルダ達を出迎え、キッチンで湯を沸かし、紅茶を淹れてくれたところを見るに、使用人らしき人物もいないのだろう。
「ママ、手紙でお話していたことだけど」
アルバートが、早速本題に切り出す。
マリアは紅茶を一口飲むと、膝の上に乗せていたソーサーの上に置いた。
「ええ……でも、その前に、少し昔話をしてもいいかしら?」
膝の紅茶に視線を落とすダニエラ。
「ダニエラ……あの子は、私の親友よ」
マリアがアレンの母、ダニエラと出会ったのは、まだ十代の頃だった。親戚にあたるヒーデルが婚姻することになり、マリアは王宮を訪れた。
その日は、二人の婚約を祝うためのパーティーが開かれていた。だが、ダニエラは緊張と不安から、部屋の中から姿を消したのだ。王宮中、使用人や貴族が必死になって探すも、ダニエラの姿は見当たらなかった。
パーティー会場である庭園に、中々、姿を現さないダニエラ。パーティーに参加していた貴族達には、ヒーデルがなんとかカバーするも、そろそろ限界だった。
主役がいないなんて、パーティーにならないが、どうにかする気などマリアにはなかった。しかし、お手洗いに行った先、偶然にも、マリアはダニエラを見つけてしまったのだ。
ほっとこうと思った。自分には関係ないと。だが、マリアは出来なかった。
声をかけると、ダニエラは肩をびくつかせ、恐る恐る振りいたと思うと、マリアに飛びつき、幼い子供のように声をあげて泣いた。
自分の中で体を小さくし、震えるダニエラを、マリアは突き放せなかった。
マリアは拍子抜けした。これが、本当にエーデルの王女なのかと。てっきり威勢のいい女性なのかと思ったが全然だった。
侵略家で、滑稽な真似ばかりするエーデル。そんな国に生まれ、物のように扱われるダニエラ。これは、親交を深めるということを建前にした、国同士が円滑にことを進めるための婚姻。いわば、ダニエラは人質同然。知り合いも、心が寄り添える相手もいないこの国に、身一つやって来たのだ。怖いのも仕方がない。
気づけば、マリアはダニエラに手を差し出していた。
その後、マリアの付き添いの元、ダニエラはどうにか、パーティーに参加することが出来た。
パーティーの後、マリアはヒーデルに釘を刺した。「あの子を幸せにしないと許さない」と。そう言ったマリアに、ヒーデルは少し驚いたように目を丸くした。マリアが人のために何かを言うなんことが珍しかったのだろう。
「ああ」と目を細めたヒーデルは、ダニエラの笑顔を見つめていた。二人が相思相愛であることは、口に出されずともマリアは理解した。
その後も、ダニエラとマリアの交流は続き、二人はなんでも話し合える良き友人となった。
自分よりも年下のダニエラは、マリアを実の姉のように慕った。
それから、ダニエラとヒーデルは二人は正式に夫婦となり、ダニエラはレディート国の王妃となった。
マリアは今でも鮮明に覚えている。ダニエラが嬉しそうに自分の元へ来たことを。
「お腹に子供がいる」ヒーデルと私の子だと、ダニエラは温かな笑みを浮かべてそう言った。
こんなにも幸せそうなダニエラを見たのは初めてだった。
日々大きくなるお腹をさすり、幸せそううなダニエラ。ダニエラとヒーデルは、生まれてくる赤ん坊を待ち望んでいた。
そして、アレンが生まれ、今度は幸せに涙を流すダニエラ。やっと、ダニエラにも、本当の幸福が訪れた。
生まれたばかりのアレンは小さく、脆く、一人では生きていけない。ダニエラは、「私がこの子を守っていかなきゃ」と一生懸命に子育てをしていた。
それなのに、神はダニエラに残酷な運命を突きつけた。
アレンは、人操の才を持っていた。それは、ダニエラにとって、受け入れられない事実だった。
ダニエラは、自分を責めた。普通に産んであげられなかった自分のせいだと。私があの子を不幸にしたと。どんなにマリアが、そんなことはないと否定しようとも、ダニエラは聞く耳を持たなかった。
全ては、母である自分の責任。
最初こそ、どうにか他に手はないかと考えていたヒーデルも、日に日に、心を病ませていくダニエラを前に、打つ手を失っていった。
そして、あの日、ヒーデルはダニエラの記憶を消した。
二人、愛し合った全てを。
「私は、ヒーデルを怒鳴散らしたわ。あの子を幸せにしてくれると約束したのにって。でも……あの人が一番辛いのよね……」
話の最中、組まれていたマリアの手は、きつく結ばれていた。親友を救えなかった悔しさと、何も出来ずにいた自分に苛立ちを感じていたようだった。
当事者である二人を見てきたマリアにとっても、アレンの過去は、計り知り得ないほどの苦悩と悲しみで包まれていた。
「あの子、記憶を消される前に言ったの。ヒーデルをお願いって。あの人は、一人では生きていけないからって」
「それで、国王陛下とご結婚なされたのですね」
「ええ、純潔の王位継承者を産むためにも、私は条件の良い相手だったし、それがダニエラの願いでもあったから。でも、ヒーデルはダニエラしか愛せないから。この子には悪いと思ったけど、私はアルバートを産んですぐに王宮を離れたわ。あの人、私を見るとあの子を思い出して、辛い顔をするから」
(アルくんも、そんなこと言ってた。国王陛下のダニエラ様への愛は、簡単な気持ちで割り切れるものじゃないんだ)
隣にいるアルバートは、複雑そうな顔をしていた。どんな形であったとしても、自身の出生も深く関わっているのだから。
それに話している時も、今も、マリアの気持ちが音となって伝わっているのだろう。
「少し、前置きが長かったわね」
立ち上がったマリアはキッチンへ行き、冷めてしまった紅茶を淹れなおしてくれた。
再び席に着くと、マリアは言う。
「それで、あなた達が聞きたかったことは?」
「初代、レディート国、国王のユリウス・レディート様は、ママも知っての通り、アレンと同じ人操の才を持っていた」
「……ええ、よく知ってるわ」
暗く、伏せられるマリアの瞳。
それでも、アルバートは話を続ける。
「じゃあ、ローズ様のことは?」
「ローズ……? 確か、ユリウス様のお妃になられた方よね」
「うん、その方の姓が、マディソンであったことが分かったんだ」
「えっ……マディソン? それってつまり……」
「僕らの先祖だよ」
どうやら、アルバートだけではなく、マリアも、ローズが自分の先祖であることを知らなかったようだ。
「そんなこと、一体どこで分かったの?」
「私が、禁じられた倉庫で、ユリウス様に関する書物を見つけて分かりました」
「禁じられた、何……?」
眉間に皺を寄せるマリア。
禁じられた倉庫は、王位継承権のあるものだけが、中に入ることが許されて、書物の内容を知ることを許されている。そのため、王族であるマリアであったとしても、その存在は知らない。
本来、エルダのような身分の者が、禁じられた倉庫に入ることなど、断じて許されない。万が一、国王陛下の耳に入るようなことがあれば、了承してくれたクラウトは首を刎ねられかねない。それだけではない。その掟を知っていて協力したアルバートも、例外ではないだろう。
そうまでして、託された想い。自分はそれを繋げなければならない。
エルダは、膝の上に置いてあった手をぎゅっときつく握る。
すると、その手の上に、アルバートの手が重ねられた。
エメラルド色の瞳が揺れ動く。
心強くも、優しく頷くアルバート。
(アルくん……ありがとう……)
エルダもは力強く頷き返すと、マリアを見た。
「ユリウス様は、ローズ様のおかげで、破滅から遠のくことが出来たと言われています。どんな小さなことでも構いません。そのことについて、マリア様がご存知なことがあれば、教えていただきたいのです」
(アレン様のために出来ることは、なんでもしたい……誰が、どんな風に思おうとも)
マリアは立ち上がると、窓際に立った。
外に広がる小さな庭園を見つめる。
「私も、明確なことは分からないの。ただ、祖母から聞いた話では、ローズ様は慈悲深い方だったそうよ」
ローズが生涯の中で愛したのは、ユリウスただ一人だと言われている。その一途で清い想いに、ユリウスの呪いの弱まり、破滅を遠退かせることが出来たのではないかと、マリアは言った。
マリアはくるりと体を回転させ、エルダを見た。
「あなた、恋をしているでしょ」
「どうして、そんなこと……」
「私は鼻がいいの」
「ママは、嗅覚の才を持っているんだ」
嗅覚の才は、人から発せられる香り、体臭で、人の想いを読み取る。この才の人の前では、嘘は通じないと言う。
(だから気持ちが……)
「フローリストのあなたに分かりやすく伝えるなら……そうね、あなたが纏う香りは、コスモスの花の香りよ」
「コスモス……」
コスモスの花言葉は、愛情を意味する言葉が多く、秋に桜のようなピンク色の花を咲かせることから、秋桜とも呼ばれている。
それは、まさしく、純真な愛を示す花。
(……もし、マリア様の言う通り、私がコスモスのような気持ちを持っているのだとしたら、私がアレン様を想い続けることこそが、アレン様を救うことにならないのだろうか……)
「私は……アレン様を、アレン様を愛し続けます」
(諦めない。何があっても、あの方を愛するということだけは)
エルダの肩に、そっとマリアの手が置かれる。
「そうね。何があっても、アレンを愛してあげて。ダニエラの代わりと言ってはなんだけどお願いね」
唇を噛み締め、涙ぐみながら、エルダは頷いた。
日が暮れだした頃、二人はマリアの家を後にした。
帰り道、エルダは馬車の中で居眠りをしてしまった。夢の中にいたアレンは、まだ幼く、その大きな瞳から溢れる涙を、必死に払っていた。
誰かに助けを求めることも出来ずに。
「……アレン……様……」
「……」
エルダの頬を伝う温かな涙。アルバートは、その涙を優しく指で拭った。
王宮に戻る頃には、空はオレンジ色に輝いていた。
善は急げと言う。マリアから聞いた話をアンジェリーナ達にも話そうと、二人がいる客間に向かおうとしている時だった。
人の話し声が聞こえ、アルバートと足を止める。
(あれって……)
黄金色に輝く髪色。
そこにいたのは、アレンだった。
その傍には、一人の男性がいた。
男性は肩で息をして、呼吸も荒く、苦しそうにしていた。
「部屋に戻りましょう」
そう言い、アレンが男性に手を伸ばす。
だが、
「触るな……!!」
男性は冷たくアレンの手を振り払う。
「……申し訳ありません」
壁をつたいながら歩く男性。
アレンは何も言わず、男性を見ていた。
(アレン様……)
っとそこで、男性が崩れ落ちるように地面に膝をつく。
「パパ……!」
アルバートが男性の元へ駆け出す。
(パパ……ということはあのお方が、ヒデール国王)
アルバートに続き、エルダもヒーデルの元へ。
ヒーデルの前に跪くアルバート。
「パパ、大丈夫?」
アルバートが心配そうにヒーデルの顔を覗きこむ。
「問題ない……」
額からは冷や汗が出ている。大丈夫ではなさそうだ。
「部屋に戻ろう」
「そうはいかない。こうしている間にも、エーデルは何をしてくるか……」
話しながら咳き込むヒーデル。どうやら、相当体の具合が良くないみたいだ。
「今は安静にしてなきゃダメだよ。お願いだから言うことを聞いて」
強く懇願するアルバート。その姿に、ヒーデルは渋々了承したのか、頷いた。
「エルダ、部屋にお水を持ってきてくれる?」
「は、はい……!」
ヒーデルはアルバートに支えられながら、部屋に戻って行く。
二人の姿が見えなくなると、アレンはそのまま立ち去ろうとする。
「ア、アレン様……」
横を通りすぎるアレンに、咄嗟に手を伸ばすエルダ。しかし、アレンはその呼びかけに応じることなく立ち去ってしまった。
その背中は、とても小さく、悲しそうだった。
部屋に入ると、ヒーデルは安定した呼吸を繰り返しながら眠りについていた。先ほどよりも容体は落ち着いたみたいだった。
エルダは、サイドテーブルにグラスと水入れを置いた。
「パパ、もうずいぶん前から体調が良くないんだ。お医者さんが言うには、治療をしても一時的なものにしかならないって」
ベッドの横、腰掛けたそアルバートは、不安げにそう言う。
「そうだったのですね……」
(そんな状態だったなんて、全然知らなかった)
「アレン様はこのことを」
「うん、知ってる」
「……そうですか」
(だからさっきも、あんな真剣になって、陛下に部屋にお戻りになられるように言ってたんだ)
「パパ、治療を拒んで、毎日、公務ばかりするんだ。僕がもっと王子としてしっかりしていれば、もっと力があればこんなことには……」
悔しそうに拳を握るアルバート。自分の未熟さを痛感しているようだった。
国王が病を患っている。君主が危機的状況だと知れば、エーデルは間違いなくレディートを潰しにかかるだろう。
(早く何か解決策を考えないと。戦争をせずに、アレン様と国を救う方法を)
「私、マリア様からお聞きしたこと、アンジェリーナ様達に話してきます。アルくんはここにいて下さい」
そう、エルダを部屋を後にしようとした時だった。
「待て」
低く掠れた声が、エルダを呼び止める。
アルバートの声ではない。
その声は、どこかアレンに似ていた。
振り向くと、寝ていたはずのヒーデルが目を覚ましていた。
(国王陛下……!)
エルダは頭を下げた。
「いい……」
「しかし」
「私がいいと言っているんだ」
顔を上げるように言われ、エルダは背筋を伸ばす。
アルバートに支えられ、上体を起こす国王は、威厳のある眼差しでエルダを見据える。
体が弱体していようとも、気高き王は確かに存在しているのだ。
「君は、一体何者なんだ」
「彼女は、僕が推薦した王宮専属のフローリストです」
アルバートがそう答えると、ヒーデルは首を横に振る。
「それは知っている。そうではなく……君はどうして、そうもあいつにこだわるんだ」
国王が示すあいつ、それがアレンのことだと言うことは、考える間もなく分かる。
その質問に対して、以前のエルダであれば、口を噤んでいただろう。気持ちをさらけ出すことに、躊躇していただろう。
だが、今はもう違う。
真っ直ぐに、揺るぎない視線を国王に向ける。
それは、覚悟の決めた人間の瞳だ。
「君は、あいつが恐ろしくないのか」
「私は……」
無意識に握った拳に力がこもる。
「私は、アレン様を失うことほど、恐ろしいと思うことはありません」
冷酷無慈悲な彼は、確かに存在している。国益のためといえど、彼は多くの人を殺めている。それは変わることのない真実だ。
だが、それが彼の全てではない。
「私は、アレン様が心お優しい方だと言うことを知っています」
今まで自分にしてきてくれたことだけではない。村が被害を受けた時も、アレンは腕の良い医者を派遣し、騎士たちを増員させた。それは、民の命と安全を一番に考えているから出来ることだ。
「アレン様には、心から笑えるようになってほしい。自分を愛してほしい……一緒に、生きてほしい……」
(ううん、それだけじゃない)
「私が共に生きたいのです」
(その切なく伏せられた瞳の奥にある苦しみも、悲しみも、痛みも、全て分かち合いたい。だって、私はあなたを愛しているから……アレン様……)
「……そうか」
ヒーデルはそう言うと、コップに水を注ぎ、飲み干す。
そこで、ドアがノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたのはクラウトだった。
「ご報告があります」
「なんだ」
「ベーベル国から連絡があり、これ以上、婚姻を先延ばしする場合は、婚姻を白紙にすることも考えると」
「なるほど」
ヒーデルはアルバートに視線を送る。
「……もう随分待たせてしまっているのは事実だしね。仕方がない。アンジェリーナには、明日にでもベーベルに向かってもらおう」
「では、そのように手配させていただきます」
アルバートの言葉にクラウトはそう言うと、いつも通りの流暢な一例をし、部屋を出ていく。
エルダはヒーデルに深々と一礼すると、クラウトの後を追った。
「クラウトさん…!」
エルダの呼びかけに、クラウトは足を止める。
「あの……本当によろしいのですか」
「……何がです?」
振り向いたクラウトは、平然としていて、いつも通り涼しい顔をしている。
「何がって、アンジェリーナ様のことに決まっているじゃないですか。このままだと、本当に結婚されてしまわれます」
(それも、明日にはベーベルに向かわれるんて、急すぎる)
「クラウトさん」
「私にどうしろと?」
眉間に皺を寄せ、複雑に顔を顰めるクラウト。
「私情のために、国と民を危険に晒せとでも言うのですか? そんなことをすれば、あなたの愛するアレン様だって、生きてはいられないかもしれない」
「……」
「すいません。今のは流石に言い過ぎました」
片手で頭を抱え込み、深くため息をつくクラウト。何度もそんな彼を見てきたが、今の彼は本当に追い込まれている様子だった。
(このままでは、クラウトさんは、アンジェリーナ様への想いに、押しつぶされてしまう)
「ないです……」
「え?」
歯を食いしばり、声を絞り出す。
「口にすることが許されない想いなんて、そんなものあるはずがありません……! アンジェリーナ様、私におしゃってくれました。私の気持ちを言っていいと。きっと、きっとそれは、ご自分が言いたくて、本当は言いたくて仕方がないことがあるのに、言えないことがあるから。だから私にそう言って下さった」
クラウトを困らせることを言っていることは分かっている。それでも、それでもやっぱり納得出来なかった。
「二人がこのままお別れをしてしまうのは、私は、嫌です……」
せめて、後悔のない別れをしてほしい。
「はあ……」
浅く息をつくクラウト。
「あなたと言う人は、どうしてそうも頑固なのでしょうね」
根負けしたようにそう言うと、踵を返す。
「どちらへ」
エルダがそう問いかけると、クラウトは足を止めず答える。
「アルバート様に、少しだけ時間を遅らせていただけるよう、お願いしてみます」
一度、足を止めるクラウト。
数秒、窓の外に広がる海を見つめると、覚悟を決めたように歩みを進めた。
思えば、王妃であるアルバートの母親の姿を王宮で少しでも見かけることもなかった。
ヒーデルと別々に暮らしていることについて、アルバートは、「パパは、ママを本気では愛せなかった」と言った。
馬車の中、過ぎていく景色を横に、エルダは一心にアレンを救いたいという気持ちを大きくさせていた。
「エルダ、大丈夫?」
向かいに座るアルバートに顔を覗き込まれる。すっかり、回復したアルバート。痩せ細ってしまった身体も、今では元通りだ。
「少し、緊張しているかもしれませんね」
「エルダも?」
「もって……アルくんもですか?」
「うん、実は」
照れくさそうに、はにかむアルバート。母親に会いに行くのは、久しぶりだと言っていたが、そのせいだろうか。
(久しぶりに、アルくんの年相応な姿を見た気がするな)
そんなアルバートの姿に嬉しくなるエルダ。
きっとアルバートの母親も、今日、アルバートが来ると知って嬉しかったに違いない。親にとって、子供はいくつになって子供だ。
(アレン様のお母様も、アレン様に、会いたいと思っていらっしゃらないのかな……)
「あの、アレン様のお母様は、今どちらにいらっしゃるのですか?」
密かに気になっていた。ダニエラが、今どこで何をしているのか。記憶を忘れたとしても、今のアレンを知っているのか。
「……分からないんだ。知っているとしたら、国王だけだと思う」
「お国に、帰られたということは?」
エーデル国の王女であったダニエラ。あの一件以来、国に帰っていてもおかしくはない。
「それは、ないかな」
すぐに否定するアルバート。
「なぜですか?」
そう問うと、アルバートは言葉を詰まらせているようだった。
「ごめんなさい……無理には」
「いや、エルダには、全て知ってほしいから。どんな些細なことでも」
(アルくん……)
「呪いの子を産んだとされるダニエラ様を、エーデルは不吉な存在とみなした。だから、国に帰ることは許されなかったんだ」
「そんな……」
それは、あまりにも理不尽すぎることだ。
二人が会うことは、もう叶わないのだろうか。
しばらくして、馬車は小さな木製の家の前で止まった。
(ここが、アルくんのお母様の……?)
てっきり王宮のような佇まいの家を想像していたが、目の前にある家は、庶民的な造りをしていた。
半信半疑になりながら馬車を降り、アルバートの後に続く。
庭は綺麗に手入れが施されていて、花たちは生き生きしていた。
アルバートがノックすると扉が開かれた。
「いらっしゃい。待っていたわ」
開いた扉の先にいたのは、アルバートによく似た女性で、すぐにアルバートの母親だと分かった。
彼女はアルバートを抱きしめると、エルダに見据えた。
「あなたがエルダさんね。アルバートから話は聞いているわ。いつも息子がお世話になっています。母のマリアです」
「こんにちは。今日は、お時間をいただきましてありがとうございます」
律儀に頭を下げるエルダに、マリアは笑みをこぼす。
「そんな堅くならなくてもいいのよ」
マリアはにっこりとエルダに笑いかけた。
顎下まで伸ばされた、癖毛のオレンジ色の髪は、ふわふわと横に広がっていて、可愛らしい雰囲気が、どことなく、アルバートを連想させた。
「入って」
家の中は、壁に仕切りはなく広々としていたが、はやり王妃が住む場所にしては質素な家だった。
「どうぞ」っと、ソファーに腰掛けるように言われ、会釈をして腰掛ける。
今は使われていない暖炉の上には、幼き日のアルバートの写真が飾られていた。
少しして、テーブルに紅茶が置かれる。
自らエルダ達を出迎え、キッチンで湯を沸かし、紅茶を淹れてくれたところを見るに、使用人らしき人物もいないのだろう。
「ママ、手紙でお話していたことだけど」
アルバートが、早速本題に切り出す。
マリアは紅茶を一口飲むと、膝の上に乗せていたソーサーの上に置いた。
「ええ……でも、その前に、少し昔話をしてもいいかしら?」
膝の紅茶に視線を落とすダニエラ。
「ダニエラ……あの子は、私の親友よ」
マリアがアレンの母、ダニエラと出会ったのは、まだ十代の頃だった。親戚にあたるヒーデルが婚姻することになり、マリアは王宮を訪れた。
その日は、二人の婚約を祝うためのパーティーが開かれていた。だが、ダニエラは緊張と不安から、部屋の中から姿を消したのだ。王宮中、使用人や貴族が必死になって探すも、ダニエラの姿は見当たらなかった。
パーティー会場である庭園に、中々、姿を現さないダニエラ。パーティーに参加していた貴族達には、ヒーデルがなんとかカバーするも、そろそろ限界だった。
主役がいないなんて、パーティーにならないが、どうにかする気などマリアにはなかった。しかし、お手洗いに行った先、偶然にも、マリアはダニエラを見つけてしまったのだ。
ほっとこうと思った。自分には関係ないと。だが、マリアは出来なかった。
声をかけると、ダニエラは肩をびくつかせ、恐る恐る振りいたと思うと、マリアに飛びつき、幼い子供のように声をあげて泣いた。
自分の中で体を小さくし、震えるダニエラを、マリアは突き放せなかった。
マリアは拍子抜けした。これが、本当にエーデルの王女なのかと。てっきり威勢のいい女性なのかと思ったが全然だった。
侵略家で、滑稽な真似ばかりするエーデル。そんな国に生まれ、物のように扱われるダニエラ。これは、親交を深めるということを建前にした、国同士が円滑にことを進めるための婚姻。いわば、ダニエラは人質同然。知り合いも、心が寄り添える相手もいないこの国に、身一つやって来たのだ。怖いのも仕方がない。
気づけば、マリアはダニエラに手を差し出していた。
その後、マリアの付き添いの元、ダニエラはどうにか、パーティーに参加することが出来た。
パーティーの後、マリアはヒーデルに釘を刺した。「あの子を幸せにしないと許さない」と。そう言ったマリアに、ヒーデルは少し驚いたように目を丸くした。マリアが人のために何かを言うなんことが珍しかったのだろう。
「ああ」と目を細めたヒーデルは、ダニエラの笑顔を見つめていた。二人が相思相愛であることは、口に出されずともマリアは理解した。
その後も、ダニエラとマリアの交流は続き、二人はなんでも話し合える良き友人となった。
自分よりも年下のダニエラは、マリアを実の姉のように慕った。
それから、ダニエラとヒーデルは二人は正式に夫婦となり、ダニエラはレディート国の王妃となった。
マリアは今でも鮮明に覚えている。ダニエラが嬉しそうに自分の元へ来たことを。
「お腹に子供がいる」ヒーデルと私の子だと、ダニエラは温かな笑みを浮かべてそう言った。
こんなにも幸せそうなダニエラを見たのは初めてだった。
日々大きくなるお腹をさすり、幸せそううなダニエラ。ダニエラとヒーデルは、生まれてくる赤ん坊を待ち望んでいた。
そして、アレンが生まれ、今度は幸せに涙を流すダニエラ。やっと、ダニエラにも、本当の幸福が訪れた。
生まれたばかりのアレンは小さく、脆く、一人では生きていけない。ダニエラは、「私がこの子を守っていかなきゃ」と一生懸命に子育てをしていた。
それなのに、神はダニエラに残酷な運命を突きつけた。
アレンは、人操の才を持っていた。それは、ダニエラにとって、受け入れられない事実だった。
ダニエラは、自分を責めた。普通に産んであげられなかった自分のせいだと。私があの子を不幸にしたと。どんなにマリアが、そんなことはないと否定しようとも、ダニエラは聞く耳を持たなかった。
全ては、母である自分の責任。
最初こそ、どうにか他に手はないかと考えていたヒーデルも、日に日に、心を病ませていくダニエラを前に、打つ手を失っていった。
そして、あの日、ヒーデルはダニエラの記憶を消した。
二人、愛し合った全てを。
「私は、ヒーデルを怒鳴散らしたわ。あの子を幸せにしてくれると約束したのにって。でも……あの人が一番辛いのよね……」
話の最中、組まれていたマリアの手は、きつく結ばれていた。親友を救えなかった悔しさと、何も出来ずにいた自分に苛立ちを感じていたようだった。
当事者である二人を見てきたマリアにとっても、アレンの過去は、計り知り得ないほどの苦悩と悲しみで包まれていた。
「あの子、記憶を消される前に言ったの。ヒーデルをお願いって。あの人は、一人では生きていけないからって」
「それで、国王陛下とご結婚なされたのですね」
「ええ、純潔の王位継承者を産むためにも、私は条件の良い相手だったし、それがダニエラの願いでもあったから。でも、ヒーデルはダニエラしか愛せないから。この子には悪いと思ったけど、私はアルバートを産んですぐに王宮を離れたわ。あの人、私を見るとあの子を思い出して、辛い顔をするから」
(アルくんも、そんなこと言ってた。国王陛下のダニエラ様への愛は、簡単な気持ちで割り切れるものじゃないんだ)
隣にいるアルバートは、複雑そうな顔をしていた。どんな形であったとしても、自身の出生も深く関わっているのだから。
それに話している時も、今も、マリアの気持ちが音となって伝わっているのだろう。
「少し、前置きが長かったわね」
立ち上がったマリアはキッチンへ行き、冷めてしまった紅茶を淹れなおしてくれた。
再び席に着くと、マリアは言う。
「それで、あなた達が聞きたかったことは?」
「初代、レディート国、国王のユリウス・レディート様は、ママも知っての通り、アレンと同じ人操の才を持っていた」
「……ええ、よく知ってるわ」
暗く、伏せられるマリアの瞳。
それでも、アルバートは話を続ける。
「じゃあ、ローズ様のことは?」
「ローズ……? 確か、ユリウス様のお妃になられた方よね」
「うん、その方の姓が、マディソンであったことが分かったんだ」
「えっ……マディソン? それってつまり……」
「僕らの先祖だよ」
どうやら、アルバートだけではなく、マリアも、ローズが自分の先祖であることを知らなかったようだ。
「そんなこと、一体どこで分かったの?」
「私が、禁じられた倉庫で、ユリウス様に関する書物を見つけて分かりました」
「禁じられた、何……?」
眉間に皺を寄せるマリア。
禁じられた倉庫は、王位継承権のあるものだけが、中に入ることが許されて、書物の内容を知ることを許されている。そのため、王族であるマリアであったとしても、その存在は知らない。
本来、エルダのような身分の者が、禁じられた倉庫に入ることなど、断じて許されない。万が一、国王陛下の耳に入るようなことがあれば、了承してくれたクラウトは首を刎ねられかねない。それだけではない。その掟を知っていて協力したアルバートも、例外ではないだろう。
そうまでして、託された想い。自分はそれを繋げなければならない。
エルダは、膝の上に置いてあった手をぎゅっときつく握る。
すると、その手の上に、アルバートの手が重ねられた。
エメラルド色の瞳が揺れ動く。
心強くも、優しく頷くアルバート。
(アルくん……ありがとう……)
エルダもは力強く頷き返すと、マリアを見た。
「ユリウス様は、ローズ様のおかげで、破滅から遠のくことが出来たと言われています。どんな小さなことでも構いません。そのことについて、マリア様がご存知なことがあれば、教えていただきたいのです」
(アレン様のために出来ることは、なんでもしたい……誰が、どんな風に思おうとも)
マリアは立ち上がると、窓際に立った。
外に広がる小さな庭園を見つめる。
「私も、明確なことは分からないの。ただ、祖母から聞いた話では、ローズ様は慈悲深い方だったそうよ」
ローズが生涯の中で愛したのは、ユリウスただ一人だと言われている。その一途で清い想いに、ユリウスの呪いの弱まり、破滅を遠退かせることが出来たのではないかと、マリアは言った。
マリアはくるりと体を回転させ、エルダを見た。
「あなた、恋をしているでしょ」
「どうして、そんなこと……」
「私は鼻がいいの」
「ママは、嗅覚の才を持っているんだ」
嗅覚の才は、人から発せられる香り、体臭で、人の想いを読み取る。この才の人の前では、嘘は通じないと言う。
(だから気持ちが……)
「フローリストのあなたに分かりやすく伝えるなら……そうね、あなたが纏う香りは、コスモスの花の香りよ」
「コスモス……」
コスモスの花言葉は、愛情を意味する言葉が多く、秋に桜のようなピンク色の花を咲かせることから、秋桜とも呼ばれている。
それは、まさしく、純真な愛を示す花。
(……もし、マリア様の言う通り、私がコスモスのような気持ちを持っているのだとしたら、私がアレン様を想い続けることこそが、アレン様を救うことにならないのだろうか……)
「私は……アレン様を、アレン様を愛し続けます」
(諦めない。何があっても、あの方を愛するということだけは)
エルダの肩に、そっとマリアの手が置かれる。
「そうね。何があっても、アレンを愛してあげて。ダニエラの代わりと言ってはなんだけどお願いね」
唇を噛み締め、涙ぐみながら、エルダは頷いた。
日が暮れだした頃、二人はマリアの家を後にした。
帰り道、エルダは馬車の中で居眠りをしてしまった。夢の中にいたアレンは、まだ幼く、その大きな瞳から溢れる涙を、必死に払っていた。
誰かに助けを求めることも出来ずに。
「……アレン……様……」
「……」
エルダの頬を伝う温かな涙。アルバートは、その涙を優しく指で拭った。
王宮に戻る頃には、空はオレンジ色に輝いていた。
善は急げと言う。マリアから聞いた話をアンジェリーナ達にも話そうと、二人がいる客間に向かおうとしている時だった。
人の話し声が聞こえ、アルバートと足を止める。
(あれって……)
黄金色に輝く髪色。
そこにいたのは、アレンだった。
その傍には、一人の男性がいた。
男性は肩で息をして、呼吸も荒く、苦しそうにしていた。
「部屋に戻りましょう」
そう言い、アレンが男性に手を伸ばす。
だが、
「触るな……!!」
男性は冷たくアレンの手を振り払う。
「……申し訳ありません」
壁をつたいながら歩く男性。
アレンは何も言わず、男性を見ていた。
(アレン様……)
っとそこで、男性が崩れ落ちるように地面に膝をつく。
「パパ……!」
アルバートが男性の元へ駆け出す。
(パパ……ということはあのお方が、ヒデール国王)
アルバートに続き、エルダもヒーデルの元へ。
ヒーデルの前に跪くアルバート。
「パパ、大丈夫?」
アルバートが心配そうにヒーデルの顔を覗きこむ。
「問題ない……」
額からは冷や汗が出ている。大丈夫ではなさそうだ。
「部屋に戻ろう」
「そうはいかない。こうしている間にも、エーデルは何をしてくるか……」
話しながら咳き込むヒーデル。どうやら、相当体の具合が良くないみたいだ。
「今は安静にしてなきゃダメだよ。お願いだから言うことを聞いて」
強く懇願するアルバート。その姿に、ヒーデルは渋々了承したのか、頷いた。
「エルダ、部屋にお水を持ってきてくれる?」
「は、はい……!」
ヒーデルはアルバートに支えられながら、部屋に戻って行く。
二人の姿が見えなくなると、アレンはそのまま立ち去ろうとする。
「ア、アレン様……」
横を通りすぎるアレンに、咄嗟に手を伸ばすエルダ。しかし、アレンはその呼びかけに応じることなく立ち去ってしまった。
その背中は、とても小さく、悲しそうだった。
部屋に入ると、ヒーデルは安定した呼吸を繰り返しながら眠りについていた。先ほどよりも容体は落ち着いたみたいだった。
エルダは、サイドテーブルにグラスと水入れを置いた。
「パパ、もうずいぶん前から体調が良くないんだ。お医者さんが言うには、治療をしても一時的なものにしかならないって」
ベッドの横、腰掛けたそアルバートは、不安げにそう言う。
「そうだったのですね……」
(そんな状態だったなんて、全然知らなかった)
「アレン様はこのことを」
「うん、知ってる」
「……そうですか」
(だからさっきも、あんな真剣になって、陛下に部屋にお戻りになられるように言ってたんだ)
「パパ、治療を拒んで、毎日、公務ばかりするんだ。僕がもっと王子としてしっかりしていれば、もっと力があればこんなことには……」
悔しそうに拳を握るアルバート。自分の未熟さを痛感しているようだった。
国王が病を患っている。君主が危機的状況だと知れば、エーデルは間違いなくレディートを潰しにかかるだろう。
(早く何か解決策を考えないと。戦争をせずに、アレン様と国を救う方法を)
「私、マリア様からお聞きしたこと、アンジェリーナ様達に話してきます。アルくんはここにいて下さい」
そう、エルダを部屋を後にしようとした時だった。
「待て」
低く掠れた声が、エルダを呼び止める。
アルバートの声ではない。
その声は、どこかアレンに似ていた。
振り向くと、寝ていたはずのヒーデルが目を覚ましていた。
(国王陛下……!)
エルダは頭を下げた。
「いい……」
「しかし」
「私がいいと言っているんだ」
顔を上げるように言われ、エルダは背筋を伸ばす。
アルバートに支えられ、上体を起こす国王は、威厳のある眼差しでエルダを見据える。
体が弱体していようとも、気高き王は確かに存在しているのだ。
「君は、一体何者なんだ」
「彼女は、僕が推薦した王宮専属のフローリストです」
アルバートがそう答えると、ヒーデルは首を横に振る。
「それは知っている。そうではなく……君はどうして、そうもあいつにこだわるんだ」
国王が示すあいつ、それがアレンのことだと言うことは、考える間もなく分かる。
その質問に対して、以前のエルダであれば、口を噤んでいただろう。気持ちをさらけ出すことに、躊躇していただろう。
だが、今はもう違う。
真っ直ぐに、揺るぎない視線を国王に向ける。
それは、覚悟の決めた人間の瞳だ。
「君は、あいつが恐ろしくないのか」
「私は……」
無意識に握った拳に力がこもる。
「私は、アレン様を失うことほど、恐ろしいと思うことはありません」
冷酷無慈悲な彼は、確かに存在している。国益のためといえど、彼は多くの人を殺めている。それは変わることのない真実だ。
だが、それが彼の全てではない。
「私は、アレン様が心お優しい方だと言うことを知っています」
今まで自分にしてきてくれたことだけではない。村が被害を受けた時も、アレンは腕の良い医者を派遣し、騎士たちを増員させた。それは、民の命と安全を一番に考えているから出来ることだ。
「アレン様には、心から笑えるようになってほしい。自分を愛してほしい……一緒に、生きてほしい……」
(ううん、それだけじゃない)
「私が共に生きたいのです」
(その切なく伏せられた瞳の奥にある苦しみも、悲しみも、痛みも、全て分かち合いたい。だって、私はあなたを愛しているから……アレン様……)
「……そうか」
ヒーデルはそう言うと、コップに水を注ぎ、飲み干す。
そこで、ドアがノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたのはクラウトだった。
「ご報告があります」
「なんだ」
「ベーベル国から連絡があり、これ以上、婚姻を先延ばしする場合は、婚姻を白紙にすることも考えると」
「なるほど」
ヒーデルはアルバートに視線を送る。
「……もう随分待たせてしまっているのは事実だしね。仕方がない。アンジェリーナには、明日にでもベーベルに向かってもらおう」
「では、そのように手配させていただきます」
アルバートの言葉にクラウトはそう言うと、いつも通りの流暢な一例をし、部屋を出ていく。
エルダはヒーデルに深々と一礼すると、クラウトの後を追った。
「クラウトさん…!」
エルダの呼びかけに、クラウトは足を止める。
「あの……本当によろしいのですか」
「……何がです?」
振り向いたクラウトは、平然としていて、いつも通り涼しい顔をしている。
「何がって、アンジェリーナ様のことに決まっているじゃないですか。このままだと、本当に結婚されてしまわれます」
(それも、明日にはベーベルに向かわれるんて、急すぎる)
「クラウトさん」
「私にどうしろと?」
眉間に皺を寄せ、複雑に顔を顰めるクラウト。
「私情のために、国と民を危険に晒せとでも言うのですか? そんなことをすれば、あなたの愛するアレン様だって、生きてはいられないかもしれない」
「……」
「すいません。今のは流石に言い過ぎました」
片手で頭を抱え込み、深くため息をつくクラウト。何度もそんな彼を見てきたが、今の彼は本当に追い込まれている様子だった。
(このままでは、クラウトさんは、アンジェリーナ様への想いに、押しつぶされてしまう)
「ないです……」
「え?」
歯を食いしばり、声を絞り出す。
「口にすることが許されない想いなんて、そんなものあるはずがありません……! アンジェリーナ様、私におしゃってくれました。私の気持ちを言っていいと。きっと、きっとそれは、ご自分が言いたくて、本当は言いたくて仕方がないことがあるのに、言えないことがあるから。だから私にそう言って下さった」
クラウトを困らせることを言っていることは分かっている。それでも、それでもやっぱり納得出来なかった。
「二人がこのままお別れをしてしまうのは、私は、嫌です……」
せめて、後悔のない別れをしてほしい。
「はあ……」
浅く息をつくクラウト。
「あなたと言う人は、どうしてそうも頑固なのでしょうね」
根負けしたようにそう言うと、踵を返す。
「どちらへ」
エルダがそう問いかけると、クラウトは足を止めず答える。
「アルバート様に、少しだけ時間を遅らせていただけるよう、お願いしてみます」
一度、足を止めるクラウト。
数秒、窓の外に広がる海を見つめると、覚悟を決めたように歩みを進めた。
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