2 / 5
第二話
クールな上司の提案
しおりを挟む
あの衝撃的な雨の日から、十年が経った。私、伊藤椿(いとう つばき)は、地元の大学を卒業後、大手貿易商会社であるここ、宝月貿易で営業事務として働き始め、今年で二年目になる。営業事務の主な業務は、お客様からの電話対応。他にも発注作業、受注管理などと、表立って働く営業の人に比べれば、地味なことが多いけど、賑やかな場所が苦手は私には向いていると思う。
「伊藤さん」
名前を呼ばれて振り向くと、千賀部長がいた。今日も奥さんからプレゼントされたという、動物のネクタイピンをつけている。
「千賀部長、お疲れ様です」
「お疲れ様です。頼んでいた見積書、出来ていますか?」
「はい、こちらです」
千賀部長は見積書に目を通すと「はい」っと頷いた。
「いつもながら早くて助かります。急なお願いだったのにありがとね」
「いえ」
千賀部長は、物腰が柔らかい穏やかな人。私たち部下がミスをしても、頭ごなしに怒るような人ではない。営業課が和気藹々としているのは、千賀部長のような人がいるからだ。
「そういえば、聞いたかい? 明日ついに、うちの御曹司様がアメリカから帰国するらしい」
(副社長が……)
宝月隼人(ほうづきはやと)金融業や飲食業、ホテル業など幅広く事業を行う、日本企業三本の指に入る大企業、宝月ホールディングスの次期総帥。グループ会社である宝月貿易は、彼が副社長を務める会社でもある。
「伊藤さん、副社長に会ったことは?」
「入社した頃、一度だけご挨拶をした程度です」
私が入社してすぐに、副社長はアメリカへ渡った。日本に帰ってくるのは二年ぶりだ。
「そうだったか。厳しいところもあるけど、根は優しい方だから、きっと伊藤さんもすぐに打ち解けられるよ」
「そうですね」
千賀部長にはそう言ったけど、私は彼が苦手だった。初めて会った時、なぜか彼は私を怪訝そうに私を見てきた。最初は何か粗相をしてしまったのかと思ったけど、考えれば考えるほどに、彼に嫌われるような理由は思い当たらなかった。
(会社では、なるべく会わないよう気をつけよう。私はこの仕事を失うわけにはいかないんだから)
営業組が帰ってくる前に、ミーティングで使う資料を印刷しておかなければならない。デスクを離れ、印刷機の前に立つ。
「ねえ、あのニュース見た?」
「見た見た。びっくりだよね。まさか、愛人の子だったなんて」
どこからともなく聞こえてきた同僚の話に手を止めてしまう。
「私、あの俳優、好きだったんだけどなー。なんか愛人の子ってだけで、見る目変わるわー」
「確かに。なんか不純?って感じするよね」
(不純、か……世の中でも、そんな風に思われるんだな)
『__汚れた血よ』
(ああ……嫌なこと思い出しちゃった)
頭から振り払うようにして、止めていた手を動かした。
♧♧♧
就業時間を告げるチャイムが鳴ると、椅子から立ち上がり、早々に退社する。地下鉄に乗り三つ目の駅で下車。そこから徒歩で五分ほど歩くと、その建物は見える。
病室に行くと、お母さんはベッドの上で上体を起こし、静かに窓の外の景色を眺めていた。
「お母さん」
声をかけると、振り向いたお母さんの表情はパッと華やかになる。
「椿!」
私はベッドの端にあった椅子に腰掛けた。
「毎日、来てくれなくてもいいのに」
「私がお母さんに会いたいから来てるんだよ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「はい」っと、来る前に駅前で買ってきた、お母さんの大好物の水羊羹を渡すと。お母さんは「あら」っと、嬉しそうに紙袋から箱を取り出す。
(また少し、痩せたな……)
病院着を着てベッドの上にいるお母さんは、日に日に衰弱しているような気がした。
(お母さんは明るくて思いやりのある人。それなのに、どうしてお母さんだけが、こんな思いをしないといけないんだろう)
二年前、お母さんの体に悪性の腫瘍が見つかった。手術をしようにも、できた場所が悪く、完全に取り除くのは難しいと言われた。抗がん剤治療を続けるも、大きな回復は見られない。もしかしたら、お母さんはこのまま死んでしまうのではないかと、私は怖くて仕方がなかった。
「りんご、好きでしょ?」
「うん」
隣の方からもらったりんごがあると、お母さんは看護師さんから借りた果物ナイフで、器用にりんごの皮を剥き始めた。
真っ白なお皿に、みずみずしいりんごが並べられていく。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「どうして、お父さんのこと好きになったの?」
「どうしたの急に」
「ちょっと……ふと気になって」
お母さんとは極力、家の話をしないようにしてきた。お母さんにとって、良い気分になることではないから。
お母さんは果物ナイフを置くと、静かに言った。
「寂しそうに見えたから、かな」
「寂しそう……? お父さんが?」
私の問いに「うん」っと、頷くお母さん。
「あなたのお父さんは、名家の跡継ぎとして生まれ、自由に生きることが許されなかった」
旧華族。明治時代から戦後まであった日本の貴族制度。私の実のお父さんは、その旧華族である安斎家の当主。そして、私はお父さんと、その愛人であったお母さんの間に生まれた。
「地位と引き換えにあったのは孤独。そんな彼を、私は一人にできなかった……でも、同情なんかじゃないわよ。彼の隣は、いつも居心地が良かったの」
お父さんは、本妻との間に子供ができなかったことから、私を正式な子として安斎家に迎え入れた。だけど、使用人を含めた一族の人間は、良い顔をしなかった。純潔ではない私は、周りから汚れた血だと罵られ、愛人であるお母さんは、安斎の屋敷に足を踏み入れることも許されず、私と会えるのも月に一度だけ。成長するにつれて、私はそんな生活に嫌気が差して、高校を卒業した後は安斎の家を出て、バイトで貯めたお金で一人暮らしを始めた。
「一緒にいたかった。だけど、お母さんは一般家庭の出だったし、身分違いだったのよ。お父さんもおじいちゃんに逆らえなくてね。せめてもと思って、お母さんを愛人とした」
「でも、そんなのお父さんの勝手だよ」
私はお父さんが憎い。治療費は払ったとしても、お見舞いにすら一度も来たことがない。お母さんの気持ちなんて、全然考えてない。
「お母さんはいいのよ。どんな関係でも、お父さんと繋がっていたかったから。でも……あなたには苦労をかけてしまったわね」
お母さんは、絶対にお父さんのことを悪く言わない。どんな思いをしようとも、愛する人の傍にいられたのなら、それは幸せなことだと思っている。そんなお母さんに、娘の私がしてあげられること。せめて、この先は少しでも、温かな日々を過ごしてほしい。
すっかり細くなってしまったお母さんの手を取り握る。
「お母さん、もう少しだけ待ってね。もう少ししたら、一緒に暮らせる。安斎の家からの援助なんて受けずに、二人で生きていこう」
「うん……ありがとう椿」
お母さんが心から笑える日々を、私が作ってみせるんだ。
売店から戻ると、何やら病室の前に人だかりができていた。一瞬、お母さんの容体が急変したのかと焦ったけど、どうやらそういうことではないらしい。なぜなら、女性たちが色めき立っていた。
「どうかしたんですか?」
近くにいた看護師に話しかけると、ぐいっと腕を掴まれた。
「あなた、あの方とどういうご関係??」
「え? 誰のことですか?」
「ほら、あそこ!」
そう言われ、彼女の視線の先を追うと、そこには端正な顔立ちをした、一人の男性がいた。お母さんは、男性と楽しそうに談笑している。品のある佇まいに、見るからに高そうなスーツをスタイルよく着こなしている。言われなくとも、彼が上流階級の人間であることは明白だった。
(あの横顔、どこかで見た気が……)
「椿!」
名前を呼ばれ体をビクつかせる。私に気づいたお母さんが、病室の中に入るように言ってきた。女性たちの鋭い視線を受けながら、私は顔を俯かせ、渋々、病室の中に入り、男性がいる正面の位置に立った。
「こちら、宝月隼人さんよ」
「えっ……」
その名前に、思わず顔を上げた。
(嘘……!)
それは紛れもなく、あの宝月隼人だった。
(どうして、副社長がここに? なんでお母さんの病室にいるの?? というか、帰国は明日のはずじゃ……)
私は何が何だか分からず、混乱した。
「あなたが勤める会社の副社長をされている方なんですってね。入院しているのを知って、わざわざお見舞いに来てくださったのよ」
ご丁寧に花束まで持ってきてくれたようで、お母さんは嬉しそうに胸に花束を抱えていた。
(一体、何がどうなって……)
「あ、あの……」
「お母様」
低く、凛とした声に遮られる。
「少し、椿さんと二人でお話してもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんよ」
彼の問いに、お母さんはにっこりと笑って答える。
何を考えているのか読み取れない視線が、私に向けられる。
「……」
「……」
そして、彼はそのまま病室を出ていった。
(……付いて来いってことだよね)
彼の後を追い、私は一階のカフェテリアへ移動した。
「コーヒーは飲めるか?」
「あ、はい……」
改めて目にした彼は、この世のものとは思えないほどに美しかった。
(特にこの瞳……)
色素の薄い金色ぽい瞳は、鷹のように鋭くも気高かった。
じっと見入ってしまっていると、ふとこちらを向いた彼と目が合った。
「きょ、今日は、わざわざすいません……ありがとうございます」
(どうしよう……まともに見れない)
運ばれてきたコーヒーに口をつける彼。カチャッっと、カップをシーサーの上に置いただけの小さな音が、胸に響く。
「今日、ここに来たのは。もう一つ理由がある」
「……?」
(何を言われるんだろう。まさか、会社を辞めさせられたり……)
膝の上に置いていた両手をギュッと握り、ゴクリと唾を飲み込む。
そして、彼は信じられないことを口にした。
「俺の妻になってくれないか」
「……はい?」
(今、なんて言ったの……?)
「聞こえなかったのか? 妻になってほしいと言ったんだ」
(妻……? この人は、いきなり何を言っているの?)
私の戸惑いなどに気づきもせずに、彼は話を進めていく。
「この歳になると、結婚はまだかと、孫の顔が見たいだとか色々とうるさく言われる。一人息子であることから、父も心配していて、迷惑をかけてきた分、安心させたいと思っている」
「……失礼ですが、副社長はおいくつですか?」
「今年で二十八になる」
「えっ!」
思わず出てしまった声に、慌てて口を塞ぐ。
「なんだ? もっと老けて見えたか?」
「い、いえ……」
(大人びている雰囲気があったから、てっきり三十にはなっているかと……)
「でも、だからと言って、どうして私なんですか……?」
副社長のような人だったら選び放題なのに、綺麗なわけでもスタイルがいいわけでもない、いかにも普通という言葉が似合う私を選ぶなんて。
「君は、旧華族、安斎家の令嬢だろ?」
「えっ……」
(なんで、それを……)
私が安斎の娘であることは会社には言っていないし、誰にも話していない。面倒事を避けたくて、わざわざ母方の姓である伊藤を名乗っているのに、どうして彼がそれを知っているのか。
「どうして、副社長がそのことをご存知なんですか?」
「調べたからだ」
(調べた?……なんでそんな必要が)
すると、副社長は苦しそうに顔を歪めた。それは、彼の印象からは想像つかないように、苦渋に満ちた表情だった。
「お母さんに聞いたよ。……あまり、体調が良くないって」
(お母さん、病気のこと副社長に話したの……? というか、なんで副社長がそんな心配を……他人事のはずでしょ?)
「君が俺と結婚してくれたら、お母さんの医療費は工面する。無論、安斎からの援助を受けなくて済む」
(__ああ……そういうことね。これは、互いの利益のためのもの)
つまり、政略結婚。この人は、旧華族の血を引く私をお飾りの妻にして、後継ぎとなる子供がほしいだけ。
(私ってば、馬鹿だな)
彼が、お母さんのことを、まるで自分のことのように苦しそうにするものだから、私は淡い期待をしてしまった。もしかしたら彼が、自分を大切に思ってくれえているかもなどと。冷静に考えてみれば、彼のような高貴な存在が、私自身などを好きになるはずがない。汚れた血も持つと言われたを。
「少し、考えさせてくれませんか」
「分かった。だが、あまり待たせてくれるなよ? それはもう十分だ」
(……どう言う意味?)
テーブルの上に携帯番号が書かれた名刺を置き「連絡をくれ」と言い、彼はカフェテリアを出て行こうとする。遠ざかってゆくその背中を見て、なぜか、あの雨の日の光景がフラッシュバックした。
(……まさか、ね……)
「伊藤さん」
名前を呼ばれて振り向くと、千賀部長がいた。今日も奥さんからプレゼントされたという、動物のネクタイピンをつけている。
「千賀部長、お疲れ様です」
「お疲れ様です。頼んでいた見積書、出来ていますか?」
「はい、こちらです」
千賀部長は見積書に目を通すと「はい」っと頷いた。
「いつもながら早くて助かります。急なお願いだったのにありがとね」
「いえ」
千賀部長は、物腰が柔らかい穏やかな人。私たち部下がミスをしても、頭ごなしに怒るような人ではない。営業課が和気藹々としているのは、千賀部長のような人がいるからだ。
「そういえば、聞いたかい? 明日ついに、うちの御曹司様がアメリカから帰国するらしい」
(副社長が……)
宝月隼人(ほうづきはやと)金融業や飲食業、ホテル業など幅広く事業を行う、日本企業三本の指に入る大企業、宝月ホールディングスの次期総帥。グループ会社である宝月貿易は、彼が副社長を務める会社でもある。
「伊藤さん、副社長に会ったことは?」
「入社した頃、一度だけご挨拶をした程度です」
私が入社してすぐに、副社長はアメリカへ渡った。日本に帰ってくるのは二年ぶりだ。
「そうだったか。厳しいところもあるけど、根は優しい方だから、きっと伊藤さんもすぐに打ち解けられるよ」
「そうですね」
千賀部長にはそう言ったけど、私は彼が苦手だった。初めて会った時、なぜか彼は私を怪訝そうに私を見てきた。最初は何か粗相をしてしまったのかと思ったけど、考えれば考えるほどに、彼に嫌われるような理由は思い当たらなかった。
(会社では、なるべく会わないよう気をつけよう。私はこの仕事を失うわけにはいかないんだから)
営業組が帰ってくる前に、ミーティングで使う資料を印刷しておかなければならない。デスクを離れ、印刷機の前に立つ。
「ねえ、あのニュース見た?」
「見た見た。びっくりだよね。まさか、愛人の子だったなんて」
どこからともなく聞こえてきた同僚の話に手を止めてしまう。
「私、あの俳優、好きだったんだけどなー。なんか愛人の子ってだけで、見る目変わるわー」
「確かに。なんか不純?って感じするよね」
(不純、か……世の中でも、そんな風に思われるんだな)
『__汚れた血よ』
(ああ……嫌なこと思い出しちゃった)
頭から振り払うようにして、止めていた手を動かした。
♧♧♧
就業時間を告げるチャイムが鳴ると、椅子から立ち上がり、早々に退社する。地下鉄に乗り三つ目の駅で下車。そこから徒歩で五分ほど歩くと、その建物は見える。
病室に行くと、お母さんはベッドの上で上体を起こし、静かに窓の外の景色を眺めていた。
「お母さん」
声をかけると、振り向いたお母さんの表情はパッと華やかになる。
「椿!」
私はベッドの端にあった椅子に腰掛けた。
「毎日、来てくれなくてもいいのに」
「私がお母さんに会いたいから来てるんだよ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「はい」っと、来る前に駅前で買ってきた、お母さんの大好物の水羊羹を渡すと。お母さんは「あら」っと、嬉しそうに紙袋から箱を取り出す。
(また少し、痩せたな……)
病院着を着てベッドの上にいるお母さんは、日に日に衰弱しているような気がした。
(お母さんは明るくて思いやりのある人。それなのに、どうしてお母さんだけが、こんな思いをしないといけないんだろう)
二年前、お母さんの体に悪性の腫瘍が見つかった。手術をしようにも、できた場所が悪く、完全に取り除くのは難しいと言われた。抗がん剤治療を続けるも、大きな回復は見られない。もしかしたら、お母さんはこのまま死んでしまうのではないかと、私は怖くて仕方がなかった。
「りんご、好きでしょ?」
「うん」
隣の方からもらったりんごがあると、お母さんは看護師さんから借りた果物ナイフで、器用にりんごの皮を剥き始めた。
真っ白なお皿に、みずみずしいりんごが並べられていく。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「どうして、お父さんのこと好きになったの?」
「どうしたの急に」
「ちょっと……ふと気になって」
お母さんとは極力、家の話をしないようにしてきた。お母さんにとって、良い気分になることではないから。
お母さんは果物ナイフを置くと、静かに言った。
「寂しそうに見えたから、かな」
「寂しそう……? お父さんが?」
私の問いに「うん」っと、頷くお母さん。
「あなたのお父さんは、名家の跡継ぎとして生まれ、自由に生きることが許されなかった」
旧華族。明治時代から戦後まであった日本の貴族制度。私の実のお父さんは、その旧華族である安斎家の当主。そして、私はお父さんと、その愛人であったお母さんの間に生まれた。
「地位と引き換えにあったのは孤独。そんな彼を、私は一人にできなかった……でも、同情なんかじゃないわよ。彼の隣は、いつも居心地が良かったの」
お父さんは、本妻との間に子供ができなかったことから、私を正式な子として安斎家に迎え入れた。だけど、使用人を含めた一族の人間は、良い顔をしなかった。純潔ではない私は、周りから汚れた血だと罵られ、愛人であるお母さんは、安斎の屋敷に足を踏み入れることも許されず、私と会えるのも月に一度だけ。成長するにつれて、私はそんな生活に嫌気が差して、高校を卒業した後は安斎の家を出て、バイトで貯めたお金で一人暮らしを始めた。
「一緒にいたかった。だけど、お母さんは一般家庭の出だったし、身分違いだったのよ。お父さんもおじいちゃんに逆らえなくてね。せめてもと思って、お母さんを愛人とした」
「でも、そんなのお父さんの勝手だよ」
私はお父さんが憎い。治療費は払ったとしても、お見舞いにすら一度も来たことがない。お母さんの気持ちなんて、全然考えてない。
「お母さんはいいのよ。どんな関係でも、お父さんと繋がっていたかったから。でも……あなたには苦労をかけてしまったわね」
お母さんは、絶対にお父さんのことを悪く言わない。どんな思いをしようとも、愛する人の傍にいられたのなら、それは幸せなことだと思っている。そんなお母さんに、娘の私がしてあげられること。せめて、この先は少しでも、温かな日々を過ごしてほしい。
すっかり細くなってしまったお母さんの手を取り握る。
「お母さん、もう少しだけ待ってね。もう少ししたら、一緒に暮らせる。安斎の家からの援助なんて受けずに、二人で生きていこう」
「うん……ありがとう椿」
お母さんが心から笑える日々を、私が作ってみせるんだ。
売店から戻ると、何やら病室の前に人だかりができていた。一瞬、お母さんの容体が急変したのかと焦ったけど、どうやらそういうことではないらしい。なぜなら、女性たちが色めき立っていた。
「どうかしたんですか?」
近くにいた看護師に話しかけると、ぐいっと腕を掴まれた。
「あなた、あの方とどういうご関係??」
「え? 誰のことですか?」
「ほら、あそこ!」
そう言われ、彼女の視線の先を追うと、そこには端正な顔立ちをした、一人の男性がいた。お母さんは、男性と楽しそうに談笑している。品のある佇まいに、見るからに高そうなスーツをスタイルよく着こなしている。言われなくとも、彼が上流階級の人間であることは明白だった。
(あの横顔、どこかで見た気が……)
「椿!」
名前を呼ばれ体をビクつかせる。私に気づいたお母さんが、病室の中に入るように言ってきた。女性たちの鋭い視線を受けながら、私は顔を俯かせ、渋々、病室の中に入り、男性がいる正面の位置に立った。
「こちら、宝月隼人さんよ」
「えっ……」
その名前に、思わず顔を上げた。
(嘘……!)
それは紛れもなく、あの宝月隼人だった。
(どうして、副社長がここに? なんでお母さんの病室にいるの?? というか、帰国は明日のはずじゃ……)
私は何が何だか分からず、混乱した。
「あなたが勤める会社の副社長をされている方なんですってね。入院しているのを知って、わざわざお見舞いに来てくださったのよ」
ご丁寧に花束まで持ってきてくれたようで、お母さんは嬉しそうに胸に花束を抱えていた。
(一体、何がどうなって……)
「あ、あの……」
「お母様」
低く、凛とした声に遮られる。
「少し、椿さんと二人でお話してもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんよ」
彼の問いに、お母さんはにっこりと笑って答える。
何を考えているのか読み取れない視線が、私に向けられる。
「……」
「……」
そして、彼はそのまま病室を出ていった。
(……付いて来いってことだよね)
彼の後を追い、私は一階のカフェテリアへ移動した。
「コーヒーは飲めるか?」
「あ、はい……」
改めて目にした彼は、この世のものとは思えないほどに美しかった。
(特にこの瞳……)
色素の薄い金色ぽい瞳は、鷹のように鋭くも気高かった。
じっと見入ってしまっていると、ふとこちらを向いた彼と目が合った。
「きょ、今日は、わざわざすいません……ありがとうございます」
(どうしよう……まともに見れない)
運ばれてきたコーヒーに口をつける彼。カチャッっと、カップをシーサーの上に置いただけの小さな音が、胸に響く。
「今日、ここに来たのは。もう一つ理由がある」
「……?」
(何を言われるんだろう。まさか、会社を辞めさせられたり……)
膝の上に置いていた両手をギュッと握り、ゴクリと唾を飲み込む。
そして、彼は信じられないことを口にした。
「俺の妻になってくれないか」
「……はい?」
(今、なんて言ったの……?)
「聞こえなかったのか? 妻になってほしいと言ったんだ」
(妻……? この人は、いきなり何を言っているの?)
私の戸惑いなどに気づきもせずに、彼は話を進めていく。
「この歳になると、結婚はまだかと、孫の顔が見たいだとか色々とうるさく言われる。一人息子であることから、父も心配していて、迷惑をかけてきた分、安心させたいと思っている」
「……失礼ですが、副社長はおいくつですか?」
「今年で二十八になる」
「えっ!」
思わず出てしまった声に、慌てて口を塞ぐ。
「なんだ? もっと老けて見えたか?」
「い、いえ……」
(大人びている雰囲気があったから、てっきり三十にはなっているかと……)
「でも、だからと言って、どうして私なんですか……?」
副社長のような人だったら選び放題なのに、綺麗なわけでもスタイルがいいわけでもない、いかにも普通という言葉が似合う私を選ぶなんて。
「君は、旧華族、安斎家の令嬢だろ?」
「えっ……」
(なんで、それを……)
私が安斎の娘であることは会社には言っていないし、誰にも話していない。面倒事を避けたくて、わざわざ母方の姓である伊藤を名乗っているのに、どうして彼がそれを知っているのか。
「どうして、副社長がそのことをご存知なんですか?」
「調べたからだ」
(調べた?……なんでそんな必要が)
すると、副社長は苦しそうに顔を歪めた。それは、彼の印象からは想像つかないように、苦渋に満ちた表情だった。
「お母さんに聞いたよ。……あまり、体調が良くないって」
(お母さん、病気のこと副社長に話したの……? というか、なんで副社長がそんな心配を……他人事のはずでしょ?)
「君が俺と結婚してくれたら、お母さんの医療費は工面する。無論、安斎からの援助を受けなくて済む」
(__ああ……そういうことね。これは、互いの利益のためのもの)
つまり、政略結婚。この人は、旧華族の血を引く私をお飾りの妻にして、後継ぎとなる子供がほしいだけ。
(私ってば、馬鹿だな)
彼が、お母さんのことを、まるで自分のことのように苦しそうにするものだから、私は淡い期待をしてしまった。もしかしたら彼が、自分を大切に思ってくれえているかもなどと。冷静に考えてみれば、彼のような高貴な存在が、私自身などを好きになるはずがない。汚れた血も持つと言われたを。
「少し、考えさせてくれませんか」
「分かった。だが、あまり待たせてくれるなよ? それはもう十分だ」
(……どう言う意味?)
テーブルの上に携帯番号が書かれた名刺を置き「連絡をくれ」と言い、彼はカフェテリアを出て行こうとする。遠ざかってゆくその背中を見て、なぜか、あの雨の日の光景がフラッシュバックした。
(……まさか、ね……)
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
大人な軍人の許嫁に、抱き上げられています
真風月花
恋愛
大正浪漫の恋物語。婚約者に子ども扱いされてしまうわたしは、大人びた格好で彼との逢引きに出かけました。今日こそは、手を繋ぐのだと固い決意を胸に。
希薄な私が誇れるもの。
三月べに
恋愛
紅羽赤音が誇れるものは、物語。誰とも深く繋がれなくとも、描ける物語を誇りに生きていけると思っていた。
だが、母の結婚式に出会った公安の若きエース・雲雀冬也がファンと名乗って見つめてきた。
「良ければ俺が護衛をします」
事件を機に、雲雀が護衛でそばにいることになったのだが……。
冷静冷徹な二人が時折悶えるお話。
私の好きなひとは、私の親友と付き合うそうです。失恋ついでにネイルサロンに行ってみたら、生まれ変わったみたいに幸せになりました。
石河 翠
恋愛
長年好きだった片思い相手を、あっさり親友にとられた主人公。
失恋して落ち込んでいた彼女は、偶然の出会いにより、ネイルサロンに足を踏み入れる。
ネイルの力により、前向きになる主人公。さらにイケメン店長とやりとりを重ねるうち、少しずつ自分の気持ちを周囲に伝えていけるようになる。やがて、親友との決別を経て、店長への気持ちを自覚する。
店長との約束を守るためにも、自分の気持ちに正直でありたい。フラれる覚悟で店長に告白をすると、思いがけず甘いキスが返ってきて……。
自分に自信が持てない不器用で真面目なヒロインと、ヒロインに一目惚れしていた、実は執着心の高いヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。
この作品は、エブリスタ及び小説家になろうにも投稿しております。
扉絵はphoto ACさまよりお借りしております。
再会したスパダリ社長は強引なプロポーズで私を離す気はないようです
星空永遠
恋愛
6年前、ホームレスだった藤堂樹と出会い、一緒に暮らしていた。しかし、ある日突然、藤堂は桜井千夏の前から姿を消した。それから6年ぶりに再会した藤堂は藤堂ブランド化粧品の社長になっていた!?結婚を前提に交際した二人は45階建てのタマワン最上階で再び同棲を始める。千夏が知らない世界を藤堂は教え、藤堂のスパダリ加減に沼っていく千夏。藤堂は千夏が好きすぎる故に溺愛を超える執着愛で毎日のように愛を囁き続けた。
2024年4月21日 公開
2024年4月21日 完結
☆ベリーズカフェ、魔法のiらんどにて同作品掲載中。
幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜
葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在
一緒にいるのに 言えない言葉
すれ違い、通り過ぎる二人の想いは
いつか重なるのだろうか…
心に秘めた想いを
いつか伝えてもいいのだろうか…
遠回りする幼馴染二人の恋の行方は?
幼い頃からいつも一緒にいた
幼馴染の朱里と瑛。
瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、
朱里を遠ざけようとする。
そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて…
・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・
栗田 朱里(21歳)… 大学生
桐生 瑛(21歳)… 大学生
桐生ホールディングス 御曹司
ふたりは片想い 〜騎士団長と司書の恋のゆくえ〜
長岡更紗
恋愛
王立図書館の司書として働いているミシェルが好きになったのは、騎士団長のスタンリー。
幼い頃に助けてもらった時から、スタンリーはミシェルのヒーローだった。
そんなずっと憧れていた人と、18歳で再会し、恋心を募らせながらミシェルはスタンリーと仲良くなっていく。
けれどお互いにお互いの気持ちを勘違いしまくりで……?!
元気いっぱいミシェルと、大人な魅力のスタンリー。そんな二人の恋の行方は。
他サイトにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる