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第零章 千年目の彼岸桜 後編
0-37 妖狐の慟哭
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* * * * * * * *
今度は、目の前が真っ暗になっていた。
結局、狐珱の努力も虚しく、自力で脱出することは出来なかった。
しかし、彼は外の世界へと出られている。
何故出られたのか、それは足元のある物が如実に語っていた。
「何故じゃ……何故、抵抗しなかった!」
狐珱は牙を剥き出しにし、それに向かって怒鳴りつける。
彼の足元にあるのは、最早ヒトの原型を留めていない、嘗ての友の姿であった。
それは小屋の外に捨て置かれており、真っ赤な血が死後間もないことを示していた。
彼は人間に簡単に殺されるほど柔ではない。
無抵抗で、されるがまま鍬を振り下ろされ、身体をバラバラにされるまで蹂躙されたのだろう。
狐珱の封印を解く最後の鍵は、珀蓮の死であった。つまり、彼は元々死ぬ気だったのだ。
「ふざけるな! 儂はまだお主に文句を言っておらんぞ!!」
肉塊は何も答えない。
「この阿呆め! 散々儂をこけにしよって! 自分だけ勝手に逃げるのか!?」
肉塊は何も話さない。
「悔しかったら言い返してみよ! ほら、どうした!!」
肉塊は何も返さない。
「この、愚か者! 愚か者めが……!!」
狐珱は膝から崩れ落ち、血で汚れた地面に拳を叩き付ける。何度も何度も『愚か者』と叫びながら。
ぽつ、ぽつ、と雨が降り始める。
まばらだった雨は段々と強くなり、大粒の雨となった。雨は血を洗い流し、狐珱の身体を濡らす。
前髪から滴る水が目の中へと侵入する。その水は間もなく目から溢れ、顎へと流れ落ちた。
*
うずくまっていてもどうしようもないと判断した狐珱は、珀蓮の亡骸を桜の下に埋めることにした。
せめて、葬るときは人間として葬ってやろうと思ったのだ。
珀蓮が恋い焦がれていた桜は、残念ながら未だに花を咲かせていない。桜が咲いた姿を見ずに、彼はこの世を去ってしまった。
深く掘った穴に、身体の一つ一つを丁重に葬ってやる。この時も、狐珱の口だけは珀蓮を罵っていた。
「ふぅ」
全ての部位を穴に入れ、土を被せて埋めると、狐珱は一息ついた。
「儂がここまでやってやったのじゃ、感謝しろ」
上からの物言いは無理をしているようで、口元がひくひくと動いていた。
狐珱は目を閉じ、珀蓮の言葉を思い出す。
『何があっても、怒らないでください』
フッと笑いが込み上げる。
狐珱はいつものように飄々とした態度で、墓標に言ってやった。
「儂は、お主などの為に怒らぬ」
そして友に背を向け、天を仰いだ。雨はまだ止んでいない。
「左様ならば、また相見えるその時まで」
九尾の狐はそう言い残すと、どこかへと姿を眩ませてしまったのであった。
* * * * * * * *
無実の青年が惨殺されて数日が経つ。
桜はまだ咲かない。
そして、雨は未だに止まない。
小百合は大木の桜の下で、傘もささずに佇んでいた。
妖怪が里を襲撃してきた日、兄のように慕っていた人が化け物として殺された。
家の中で保護されていた彼女は、今朝方、その事を父から知らされたばかりだった。
父の話が信じられなくて、丘の上の小屋まで走った。だが、そこに望む人は居ない。
同じく、相棒の妖怪狐も居なくなっていた。
小百合は恩師の面影を追い求め、桜の木の下へ来ていた。
きっと、此処には居る筈だと。小屋に居ないときは、いつも桜を眺めていたのだから……。
小百合の足元には掘られた形跡があった。恐らく、この場所に何かが埋められているのだろう。何かとは何だ。
「……珀蓮先生」
彼女はその場にしゃがみこみ、膝を抱えて丸まってしまった。
服が雨に濡れ、肌に冷たさが伝わるまで染みている。それでも、肩が震えているのは寒さの所為ではないとわかっていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
最後まで、恐怖の眼差ししか向けられなかった。もっと自分が頑張れば、殺される必要が無かったのではないか。
今となってはどうしようもないことであるが、小百合は何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。
「う、うぅ……」
暫く泣いていると、不意に雨が止んだ気がした。
しかし、雨の音はまだ続いているし、視界には雨粒が見える。止んでいるのは、小百合の上だけだ。
『小百合さん、風邪を引いてしまいますよ』
「せんっ——!」
振り返れば、そこには汰助がいた。手に傘を持ち、小百合の上で雨を遮っている。
彼は小百合の剣幕に目を見開きつつも、彼女を心配するように眉をハの字にした。
「小百合、風邪引くぞ」
「……汰助、か」
「んだよ。あからさまに落ち込まれると、こっちも傷つくんだけど」
「ご、ごめん……」
汰助が口を尖らせると、小百合は申し訳なさそうに身を竦ませた。
「いいよ」
彼は優しく微笑み、小百合の隣に座る。
「仕事は?」
「こんな雨じゃ無理だろ?」
「そうだね」
小百合は短い会話を終了させると、また元の場所に視線を戻した。
「これ……」
汰助が視線を向けるのは桜の根元。
掘り返され、埋められた形跡がある場所。微かに土が盛り上がっており、墓標として捉えることもできる。
「先生の亡骸さ、綺麗さっぱり消えちまったんだってさ」
唐突に切り出された話題に、小百合は何も返せなかった。
「噂では、実はまだ死んでなくて、身体を集めて姿を眩ましたとか……馬鹿だろ? 皆どんだけ先生を化け物扱いしたいんだよ……」
汰助は拳を握り、額に持って行った。
「馬鹿は俺だよ! 俺も先生を化け物扱いしちまった!!」
彼は自分の顔を殴りつけ、『馬鹿野郎、馬鹿野郎』と繰り返す。思い出すのは、訳も分からず恐怖した自分の姿。
「……汰助は、鬼の姿を見たの?」
ここで、小百合はやっと口を開く。
「あぁ、見た。最初は先生だなんて判らなかったよ」
汰助は頭を抱え、薄く笑った。今でも、あの光景を思い出してしまうと、震えが止まらない。
「ちょっと色々あって逃げたんだけどさ、俺を見る顔が、悲しそうな先生の顔と一緒だったんだ」
化け物に怒鳴られ、恐怖に駆られて逃げ出したときのこと。
汰助は鬼が追ってこないかを確認するため、一度振り向いたのだ。鬼は——珀蓮は追って来ず、悲しげな表情で汰助を見送っていた。
そこで彼は気付いたのだ。自分はとんでもないことを仕出かしてしまったのだと。
「そっか」
小百合は汰助の話を聞くと、小さく頷いた。
「だけど、これだけは信じて」
彼女は汰助の手を掴み、力強い目で彼を見つめる。
「先生は皆を守るために戦ったの」
これが珀蓮への報いになるとは思えない。それでも、小百合は珀蓮の無実を誰かに訴えたかったのだ。
「あぁ、信じる。だからこそ、俺は謝りに来たんだよ」
汰助も力強く頷き、視線を桜に向けた。
彼はどうやら、ここに珀蓮が居ると踏んでいるようだ。
「……やっぱり、ここに?」
「多分な。俺は狐珱が先生を葬ったんだと思う。あいつも居ねぇから、真相はわからねぇけど」
「きっとそうだよ」
狐珱本人は居なくなってしまった。でも、彼なら珀蓮をしっかりと弔ってくれた筈だ。悪態をつきながらも、人に優しいのは知っていたから。
汰助と小百合は墓標に向かって手を合わせる。
「先生、ごめんなさい……」
こんなことを言っても、許してくれないかもしれない。ただ、ひとつのけじめとして、二人は頭を下げたのだった。
***
あれから一ヶ月経った。
雨は降り続けている。梅雨でもないのに、ここまで雨が続くのは明らかに異常だ。
強い雨で畑の土は流れ、川も氾濫寸前。外を出歩く人も減り、店の売上も急落している。
人々は珀蓮の祟りなのではないかと思い始めた。死してもなお、人々に牙を剥き続ける。彼は恐ろしい疫病神なのだと。
一方、珀蓮の教え子たちは彼の無実を説いていたが、人々は『鬼に魅入られた』と言って相手にしなかった。
そして、彼らは次第に白い目で見られるようになった。
読み書き計算、歴史などの様々な教養は優秀なものであったが、『鬼に教育を受けた』というだけで異端児として扱われたのだ。
また、繰り返される。意味のない惨劇が。
死人の預かり知らぬところで、着々と悲劇の根は張り巡らされていた。
その根源は人々の恐怖か、誰かの悪意か、それとも——。
今度は、目の前が真っ暗になっていた。
結局、狐珱の努力も虚しく、自力で脱出することは出来なかった。
しかし、彼は外の世界へと出られている。
何故出られたのか、それは足元のある物が如実に語っていた。
「何故じゃ……何故、抵抗しなかった!」
狐珱は牙を剥き出しにし、それに向かって怒鳴りつける。
彼の足元にあるのは、最早ヒトの原型を留めていない、嘗ての友の姿であった。
それは小屋の外に捨て置かれており、真っ赤な血が死後間もないことを示していた。
彼は人間に簡単に殺されるほど柔ではない。
無抵抗で、されるがまま鍬を振り下ろされ、身体をバラバラにされるまで蹂躙されたのだろう。
狐珱の封印を解く最後の鍵は、珀蓮の死であった。つまり、彼は元々死ぬ気だったのだ。
「ふざけるな! 儂はまだお主に文句を言っておらんぞ!!」
肉塊は何も答えない。
「この阿呆め! 散々儂をこけにしよって! 自分だけ勝手に逃げるのか!?」
肉塊は何も話さない。
「悔しかったら言い返してみよ! ほら、どうした!!」
肉塊は何も返さない。
「この、愚か者! 愚か者めが……!!」
狐珱は膝から崩れ落ち、血で汚れた地面に拳を叩き付ける。何度も何度も『愚か者』と叫びながら。
ぽつ、ぽつ、と雨が降り始める。
まばらだった雨は段々と強くなり、大粒の雨となった。雨は血を洗い流し、狐珱の身体を濡らす。
前髪から滴る水が目の中へと侵入する。その水は間もなく目から溢れ、顎へと流れ落ちた。
*
うずくまっていてもどうしようもないと判断した狐珱は、珀蓮の亡骸を桜の下に埋めることにした。
せめて、葬るときは人間として葬ってやろうと思ったのだ。
珀蓮が恋い焦がれていた桜は、残念ながら未だに花を咲かせていない。桜が咲いた姿を見ずに、彼はこの世を去ってしまった。
深く掘った穴に、身体の一つ一つを丁重に葬ってやる。この時も、狐珱の口だけは珀蓮を罵っていた。
「ふぅ」
全ての部位を穴に入れ、土を被せて埋めると、狐珱は一息ついた。
「儂がここまでやってやったのじゃ、感謝しろ」
上からの物言いは無理をしているようで、口元がひくひくと動いていた。
狐珱は目を閉じ、珀蓮の言葉を思い出す。
『何があっても、怒らないでください』
フッと笑いが込み上げる。
狐珱はいつものように飄々とした態度で、墓標に言ってやった。
「儂は、お主などの為に怒らぬ」
そして友に背を向け、天を仰いだ。雨はまだ止んでいない。
「左様ならば、また相見えるその時まで」
九尾の狐はそう言い残すと、どこかへと姿を眩ませてしまったのであった。
* * * * * * * *
無実の青年が惨殺されて数日が経つ。
桜はまだ咲かない。
そして、雨は未だに止まない。
小百合は大木の桜の下で、傘もささずに佇んでいた。
妖怪が里を襲撃してきた日、兄のように慕っていた人が化け物として殺された。
家の中で保護されていた彼女は、今朝方、その事を父から知らされたばかりだった。
父の話が信じられなくて、丘の上の小屋まで走った。だが、そこに望む人は居ない。
同じく、相棒の妖怪狐も居なくなっていた。
小百合は恩師の面影を追い求め、桜の木の下へ来ていた。
きっと、此処には居る筈だと。小屋に居ないときは、いつも桜を眺めていたのだから……。
小百合の足元には掘られた形跡があった。恐らく、この場所に何かが埋められているのだろう。何かとは何だ。
「……珀蓮先生」
彼女はその場にしゃがみこみ、膝を抱えて丸まってしまった。
服が雨に濡れ、肌に冷たさが伝わるまで染みている。それでも、肩が震えているのは寒さの所為ではないとわかっていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
最後まで、恐怖の眼差ししか向けられなかった。もっと自分が頑張れば、殺される必要が無かったのではないか。
今となってはどうしようもないことであるが、小百合は何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。
「う、うぅ……」
暫く泣いていると、不意に雨が止んだ気がした。
しかし、雨の音はまだ続いているし、視界には雨粒が見える。止んでいるのは、小百合の上だけだ。
『小百合さん、風邪を引いてしまいますよ』
「せんっ——!」
振り返れば、そこには汰助がいた。手に傘を持ち、小百合の上で雨を遮っている。
彼は小百合の剣幕に目を見開きつつも、彼女を心配するように眉をハの字にした。
「小百合、風邪引くぞ」
「……汰助、か」
「んだよ。あからさまに落ち込まれると、こっちも傷つくんだけど」
「ご、ごめん……」
汰助が口を尖らせると、小百合は申し訳なさそうに身を竦ませた。
「いいよ」
彼は優しく微笑み、小百合の隣に座る。
「仕事は?」
「こんな雨じゃ無理だろ?」
「そうだね」
小百合は短い会話を終了させると、また元の場所に視線を戻した。
「これ……」
汰助が視線を向けるのは桜の根元。
掘り返され、埋められた形跡がある場所。微かに土が盛り上がっており、墓標として捉えることもできる。
「先生の亡骸さ、綺麗さっぱり消えちまったんだってさ」
唐突に切り出された話題に、小百合は何も返せなかった。
「噂では、実はまだ死んでなくて、身体を集めて姿を眩ましたとか……馬鹿だろ? 皆どんだけ先生を化け物扱いしたいんだよ……」
汰助は拳を握り、額に持って行った。
「馬鹿は俺だよ! 俺も先生を化け物扱いしちまった!!」
彼は自分の顔を殴りつけ、『馬鹿野郎、馬鹿野郎』と繰り返す。思い出すのは、訳も分からず恐怖した自分の姿。
「……汰助は、鬼の姿を見たの?」
ここで、小百合はやっと口を開く。
「あぁ、見た。最初は先生だなんて判らなかったよ」
汰助は頭を抱え、薄く笑った。今でも、あの光景を思い出してしまうと、震えが止まらない。
「ちょっと色々あって逃げたんだけどさ、俺を見る顔が、悲しそうな先生の顔と一緒だったんだ」
化け物に怒鳴られ、恐怖に駆られて逃げ出したときのこと。
汰助は鬼が追ってこないかを確認するため、一度振り向いたのだ。鬼は——珀蓮は追って来ず、悲しげな表情で汰助を見送っていた。
そこで彼は気付いたのだ。自分はとんでもないことを仕出かしてしまったのだと。
「そっか」
小百合は汰助の話を聞くと、小さく頷いた。
「だけど、これだけは信じて」
彼女は汰助の手を掴み、力強い目で彼を見つめる。
「先生は皆を守るために戦ったの」
これが珀蓮への報いになるとは思えない。それでも、小百合は珀蓮の無実を誰かに訴えたかったのだ。
「あぁ、信じる。だからこそ、俺は謝りに来たんだよ」
汰助も力強く頷き、視線を桜に向けた。
彼はどうやら、ここに珀蓮が居ると踏んでいるようだ。
「……やっぱり、ここに?」
「多分な。俺は狐珱が先生を葬ったんだと思う。あいつも居ねぇから、真相はわからねぇけど」
「きっとそうだよ」
狐珱本人は居なくなってしまった。でも、彼なら珀蓮をしっかりと弔ってくれた筈だ。悪態をつきながらも、人に優しいのは知っていたから。
汰助と小百合は墓標に向かって手を合わせる。
「先生、ごめんなさい……」
こんなことを言っても、許してくれないかもしれない。ただ、ひとつのけじめとして、二人は頭を下げたのだった。
***
あれから一ヶ月経った。
雨は降り続けている。梅雨でもないのに、ここまで雨が続くのは明らかに異常だ。
強い雨で畑の土は流れ、川も氾濫寸前。外を出歩く人も減り、店の売上も急落している。
人々は珀蓮の祟りなのではないかと思い始めた。死してもなお、人々に牙を剥き続ける。彼は恐ろしい疫病神なのだと。
一方、珀蓮の教え子たちは彼の無実を説いていたが、人々は『鬼に魅入られた』と言って相手にしなかった。
そして、彼らは次第に白い目で見られるようになった。
読み書き計算、歴史などの様々な教養は優秀なものであったが、『鬼に教育を受けた』というだけで異端児として扱われたのだ。
また、繰り返される。意味のない惨劇が。
死人の預かり知らぬところで、着々と悲劇の根は張り巡らされていた。
その根源は人々の恐怖か、誰かの悪意か、それとも——。
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