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第二章 車内でも隣には
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ゆきは抱っこのままソファーを前を少し離れ、当たるものがなさそうなスペースでうろうろ遊んでいたが、本の整頓以外では重いものをほぼ持たないゆきのギブアップは早く、海知を下ろしてその目線の高さにしゃがむ。
「さっき言ってたけど海知くん、おやつ貰いに来たの?」
「うん、れいぞうこにゼリーあるって」
「そうなんだ、私が勝手に開けられないからママに聞くね。汐織さん、冷蔵庫からゼリー出してもいいでしょうか?」
ソファーで二人スマホ片手にいろいろと話しているところをしゃがんだままそっと割って入って、確認を取る。
「あ、ごめんなさい」
ゆきは笑顔で首を振り、海知の肩に手を置く。
「大丈夫ですよ、海知くんの分、渡してもいいですか?」
どうかそのまま話していて欲しいというゆきの思いが伝わったようで、汐織は世話を掛ける済まなさと有難さが同居した複雑な笑顔を見せた。
「ごめんね、お願いしても?」
ゆきは大きく頷き、立ち上がる。
「はい、じゃあ海知くん一緒にみようか」
「うん!」
海知に手を引かれて冷蔵庫まで行き、手を掛け開けようとまでする海知を手伝って中をのぞく。
当然海知には見えないが、精いっぱい背伸びをしている姿の微笑ましさを感じつつ、ゆきが後ろから抱っこして持ち上げて見せる。
「この箱かな」
ゆきが白い箱を見つけて持ち上げようとすると片手ではとても無理だと悟り、海知を下ろし、両手でも結構な重量なそれをキッチンのシンク横の作業スペースに置く。
開けると、ジャムのようなガラス瓶に入ったフルーツゼリーが十個並んでいた。
「さちちゃんのぶんもだよ」
ギリギリ顔を出せる高さのキッチンの縁を持ち、見えない箱の中を覗こうとする海知の前に瓶を三つ並べる。
「沙茅ちゃんは何味が好き? ももとオレンジとぶどうがあるよ」
「さちちゃんはもも、ぼくはみかん」
「承知しました」
恭しく慇懃に頷くゆきがぶどうのゼリーを戻している横で海知が首を捻る。
「ちょ、うち?」
「分かりましたってことだよ、承知しました」
「ちょうちちまちた?」
幼児特有の舌っ足らずな話し方でもこれまではっきり聞き取れていた言葉が突然変わり、ゆきは幼児の破壊的可愛さにやられながら微笑む。
「海知くんだとまだ使う言葉じゃないから心配しないで」
けれど悔しかった海知が口の中で言えない言葉を繰り返しているのを上から見守りながら、一緒に入っていた小さなプラスチックのスプーンを二本取り出し、これで子供でも食べられるのかとゆきは思案することになる。
勝手にあちこち開けられず目に付くところにないだろうかと、背後に飾られるように並べられた食器などを確認する。
「ちょ、ちょう、とう、あ、おばあちゃん」
海知の声にゆきが振り返ると、微笑む喜美がキッチンの向かいに立っていた。
「私もゼリー食べたいわ」
僅かに驚いたゆきだったが箱を開けて、中身を喜美の方に向ける。
「どれにしますか?」
「何があるの?」
ゆきが説明し始める前に、海知が先に取りだされていたゼリーの瓶に手を伸ばし掴む。
「ぼくゼリーもっていってくる」
すぐにでも走っていきそうな海知をゆきは引き留める。
「あ、待って。この小さなスプーンでいい?」
ゼリーと一緒に入っていた個包装されたプラスチックのスプーンを見せると海知が慌てて頷く。
「うん」
「じゃあ二つお願いします」
両手が瓶で塞がれているので丁度良くあった胸ポケットにゆきがスプーンを忍ばせる。
「ありがとう」
どういたしましてとゆきの見送る声を背に海知は小走りで和室へ帰って行った。キッチンからは汐織と時枝が座っているソファーは見えないが、和室の入り口は見えるはずで、中には父親の大翔もいるので、問題ないだろうとそのままゆきは見送った。
目雲の母はその間ニコニコとしたまま腕を組んで片手を頬に当てて二人の様子を見ているだけだった。
ゆきは無事に和室に入った海知を確認してから、喜美にゼリーの説明をする。
「ゼリー三種類ありますよ」
ゆきが箱から出して三つ並べて見せると、一つを指さしてこれと喜美は言う。
「ももですね、沙茅ちゃんと一緒ですね」
「一緒に食べましょう」
「私もいただいてしまっていいのでしょうか」
「もちろんよ」
喜美の華やかそのものとさえ言えるその微笑に、ゆきは引き込まれていた。
「ありがとうございます、じゃあ私はぶどうにします」
ダイニングテーブルの席の一つに座った喜美の前にゆきがゼリーの蓋を開けて置き、スプーンの袋から出して渡す。
「ありがとう」
喜美にはそうさせる雰囲気があり、ゆきも持ち前のノリの良さでそのオーラのようなものを失礼ながら楽しみだしていた。
「いえ」
ゆきは喜美につられて笑みが零れるのを自覚しながら、その独特の雰囲気に程よい緊張と喜美に対する敬服の念が生まれることに存在の偉大さを感じていた。
それは恋人の母親だからというものではないこともゆきは同時に理解している。
「こちらどうぞ」
喜美に隣の席を示され素直にゆきは自分の分のゼリーを持ってそこに座る。
「いただきます」
ゆきが言うと喜美も優雅な動作で小さく手を合わせる。
「いただきます」
ゆきは喜美がひと匙口に含むのを見てから自分もひと口食べた。
「あ、美味しい」
想像以上だった味わいにゆきは思わず声が零れていた。
「本当ね」
「これパティスリーのですよね、お取りせなんでしょうか」
ゼリーの色彩を見せるため、小さなロゴしか印刷されていない瓶を持ち上げゆきはまじまじと見つめる。
喜美はゆきのそんな様子を隣りから眺めている。
「そうねぇ、大翔が持ってきたものだから」
「じゃあ後でお礼と一緒に聞いてみます」
「それがいいわね」
喜美ののんびりとした口調と絶やさない笑顔が麗し気な雰囲気をさらに際立てて、ただゼリーを並んで食べているだけでゆきは優美な気分になっていた。
「ねぇ、ゆきさん」
「はい」
すっかりゼリー夢中になっていたゆきは、喜美の声に反射的に返事をしていた。
喜美は表情を変えないままじっとゆきを見ている。
「結婚しないの?」
驚きや動揺よりその言葉は意外なほどすんなりとゆきに響いた。
変わらない飛び切りの笑顔の喜美に、その言葉への思い浮かんだ自分の答えのせいでゆきはドギマギとしてしまう。
「え、あの、まだお付き合いを始めたばかりで」
「結婚するつもりがなくても、お付き合いするの?」
「いえ、それは」
反射的に頬を染めるゆきにますます喜美は笑顔を深くしてさらに矢継ぎ早に言葉を重ねる。
「結婚式はするでしょ?」
「え、式ですか」
ゆきはライトに煌めくゼリーに目が向く。
「子供の事は?」
「えーと」
「たくさんいた方がいいわよ」
目雲の母は終始楽しそうに笑っていた。
「やめろッ」
大きな声に視線を向けると、今までにないほどの怖い顔をした目雲が立っていた。
「目雲さん?」
「ゆきさん、帰りましょう」
戸惑うゆきの腕を握り、目雲は立ち上がらせる。
それを喜美が目を追う。
「もう帰るの?」
目雲は母のきょとんと子供の様にあどけなく不思議そうに首を傾けるその仕草にさえ苛立ちを募らせ、激しい言葉を吐きそうになるのを堪え、ただそのせいで声が冷たくなる。
「母さん、余計なことは言わないと約束したはずだ」
「余計なことなんて何も言ってないわ」
おっとりと微笑みながらそう言われ、目雲は険しい表情のまま目を伏せ怒りを鎮めるように肩で深呼吸をする。
ゆきを土間の手前まで連れて行くと、そこで一旦手を放した。
そして諦めたように呟いた。
「そうだろうな、あなたには何も分からないんだ」
「周弥?」
「ゆきさん、行きましょう」
目雲が素早く二人分のコートとカバンを持ち、状況を飲み込めず立っていることしかできないゆきの手を再度掴み引く。
「あ、今日はありがとうございました。失礼します」
それぞれの場所から悲痛な表情な大人たちがゆきにも見えたが、なんとか笑顔でお礼だけ言うことができた。
「また来てね」
喜美にこやかに手を振られて、ゆきはなんとか微笑み会釈を返し、目雲に手を引かれるまま目雲が出した靴に足を入れる。
「もう二度と来ることはない」
土間で靴を履く瞬間目雲が突き放すように残した言葉にゆきはやや困惑しながら、靴を履きつつ和室から顔を出して手を振る子供二人に手を振り返して玄関を出た。
小走りに近い歩きになっていたゆきだったが、目雲にとってはこれが普通の速度かもしれないとそんなことを思ったりした。
車に着くと目雲が助手席のドアを開け、ゆきが乗り込むと、まるで逃げ出すように目雲は車を発進させた。
車を走らせ始めてからも、しばらく黙ったままだった目雲にゆきはとりあえず話しかけることから始めた。
「えっと、目雲さん?」
「すみません」
「いえ」
色のない声で謝られ、目雲の心情がいつも以上に分からない。
ゆきも目雲が自分に対して怒っているわけではないと感じてはいたものの、きっかけは自分にあるのかもしれないと状況から思わずにはいられなかった。
「あの、話をしていたのがダメでしたか?」
「ゆきさんは何も悪くないです。すべてあの人が悪いんです」
運転中だから勿論正面から視線を逸らすことはないが、それだけの理由じゃなくいつにもまして無表情で冷たい印象をゆきに抱かせる。
けれどその言い方に嫌悪感が存分に滲んでいたことがゆきには不思議で仕方なった。
「あの人……、お母様ですか?」
「ゆきさんに言わなくてもいいこと言っていたでしょう」
「聞いてましたか?」
運転しながら一瞬見たゆきのどこか含みのある表情に、目雲は自分の予想があったっていたと確信した。
「途中からですが」
「あ、そうですか」
ゆきは気まずそうに視線をさ迷わせた。
「深い意味はないので」
ゆきはあくまでも自分の発言に対して言ったのだが、目雲はもう自分の想像が母の言動にしか向いていなかったので、ゆきも母に気を使っているのだと勘違いした。
「あの人はわざわざ口に出す必要ないことを言うんです」
「そうですか?」
「あれ以上言うようだったら、いくら母でも何していたか分かりません」
何という部分に来るのは、たぶん暴力的なのことなのかなと、実際はないだろうと思いながらも、ゆきはそう言ってしまうほどなのだと、目雲の心中を察する。
「目雲さんにもそんな一面あるんですね」
「あの人はずっとそうです。兄の奥さんにも弟の奥さんも距離を取られています」
「だからなんだか最初雰囲気がおかしかったんですね」
和室の重力がそこだけ強くなっているような、風のない日の生ぬるさだけが感じられる空気感の謎が解けた。
「あの人には人の気持ちが分からないんです。お嬢様育ちだからと許されるものではありません」
ゆきも唐突な話題だった認識はあるが、どこかであれくらいは想定内で特別異常なことを言われたとも思っていなかった。
「そんなに怒らなくても本当に大丈夫ですよ」
ゆきも目雲の言わんとしていることは喜美との会話を振り返れば分からないではない。ゆきは目雲が受け取った印象とは違う物を抱いていたので溌剌としていられるのだが、目雲はそれを信じない。
「大丈夫ではないですよね」
「いえ、本当にただお話? アドバイス? あれは――」
「無理しないで下さい」
珍しくゆきの言葉を遮った目雲にゆきは戸惑う。
「無理なんかしてなくて」
「わざわざ傷つけに連れてきたようなものです」
赤信号で止まったが目雲がゆきの方を向くことはない。ただじっと前を見つめている。
ゆきは表情を緩め目雲の謎の罪悪感を受け止めつつも、あの場で喜美を振り切って和室に戻ることが最善だったかと少し反省する。ただ今日を乗り越えたとしても、同じことは将来必ず起こっただろうとも確信の近いものを感じた。
だからきちんと伝えなくてはならないと思う。
「傷ついたりしてませんよ」
できるだけ穏やかにけれどきっぱりと否定する。けれど目雲は弱弱しい声を出す。
「そんな優しい嘘つかないで下さい」
「嘘なんて――」
「僕はあなたを失いたくない!」
激情を顕わにする目雲の恐慌状態にゆきの感情は複雑になる。
想われているが故の不安なのだろうとは分かるが、冷静さをここまで失わせる理由が過去にあることも分かってしまう。
「目雲さん……」
どう声を掛けるべきか、ゆきも迷う。
信号が青に変わり、また走り始めるが沈黙が支配する車内は痛々しい雰囲気だった。
再度赤信号で止まったことで、冷静になれたのかハンドルに抱え込むように額を付け俯いた目雲は暗く静かに呟く。
「すみません」
明らかに落ち込む目雲を見て、ゆきは考えを変えた。
目雲が安心できればそれでいいのだから、ゆきと喜美との会話を理解してもらう必要はないのではないかと。
進行方向に見えるファミレスを指さしてゆきは微笑んだ。
「ちょっと休憩してから帰りましょうか」
「さっき言ってたけど海知くん、おやつ貰いに来たの?」
「うん、れいぞうこにゼリーあるって」
「そうなんだ、私が勝手に開けられないからママに聞くね。汐織さん、冷蔵庫からゼリー出してもいいでしょうか?」
ソファーで二人スマホ片手にいろいろと話しているところをしゃがんだままそっと割って入って、確認を取る。
「あ、ごめんなさい」
ゆきは笑顔で首を振り、海知の肩に手を置く。
「大丈夫ですよ、海知くんの分、渡してもいいですか?」
どうかそのまま話していて欲しいというゆきの思いが伝わったようで、汐織は世話を掛ける済まなさと有難さが同居した複雑な笑顔を見せた。
「ごめんね、お願いしても?」
ゆきは大きく頷き、立ち上がる。
「はい、じゃあ海知くん一緒にみようか」
「うん!」
海知に手を引かれて冷蔵庫まで行き、手を掛け開けようとまでする海知を手伝って中をのぞく。
当然海知には見えないが、精いっぱい背伸びをしている姿の微笑ましさを感じつつ、ゆきが後ろから抱っこして持ち上げて見せる。
「この箱かな」
ゆきが白い箱を見つけて持ち上げようとすると片手ではとても無理だと悟り、海知を下ろし、両手でも結構な重量なそれをキッチンのシンク横の作業スペースに置く。
開けると、ジャムのようなガラス瓶に入ったフルーツゼリーが十個並んでいた。
「さちちゃんのぶんもだよ」
ギリギリ顔を出せる高さのキッチンの縁を持ち、見えない箱の中を覗こうとする海知の前に瓶を三つ並べる。
「沙茅ちゃんは何味が好き? ももとオレンジとぶどうがあるよ」
「さちちゃんはもも、ぼくはみかん」
「承知しました」
恭しく慇懃に頷くゆきがぶどうのゼリーを戻している横で海知が首を捻る。
「ちょ、うち?」
「分かりましたってことだよ、承知しました」
「ちょうちちまちた?」
幼児特有の舌っ足らずな話し方でもこれまではっきり聞き取れていた言葉が突然変わり、ゆきは幼児の破壊的可愛さにやられながら微笑む。
「海知くんだとまだ使う言葉じゃないから心配しないで」
けれど悔しかった海知が口の中で言えない言葉を繰り返しているのを上から見守りながら、一緒に入っていた小さなプラスチックのスプーンを二本取り出し、これで子供でも食べられるのかとゆきは思案することになる。
勝手にあちこち開けられず目に付くところにないだろうかと、背後に飾られるように並べられた食器などを確認する。
「ちょ、ちょう、とう、あ、おばあちゃん」
海知の声にゆきが振り返ると、微笑む喜美がキッチンの向かいに立っていた。
「私もゼリー食べたいわ」
僅かに驚いたゆきだったが箱を開けて、中身を喜美の方に向ける。
「どれにしますか?」
「何があるの?」
ゆきが説明し始める前に、海知が先に取りだされていたゼリーの瓶に手を伸ばし掴む。
「ぼくゼリーもっていってくる」
すぐにでも走っていきそうな海知をゆきは引き留める。
「あ、待って。この小さなスプーンでいい?」
ゼリーと一緒に入っていた個包装されたプラスチックのスプーンを見せると海知が慌てて頷く。
「うん」
「じゃあ二つお願いします」
両手が瓶で塞がれているので丁度良くあった胸ポケットにゆきがスプーンを忍ばせる。
「ありがとう」
どういたしましてとゆきの見送る声を背に海知は小走りで和室へ帰って行った。キッチンからは汐織と時枝が座っているソファーは見えないが、和室の入り口は見えるはずで、中には父親の大翔もいるので、問題ないだろうとそのままゆきは見送った。
目雲の母はその間ニコニコとしたまま腕を組んで片手を頬に当てて二人の様子を見ているだけだった。
ゆきは無事に和室に入った海知を確認してから、喜美にゼリーの説明をする。
「ゼリー三種類ありますよ」
ゆきが箱から出して三つ並べて見せると、一つを指さしてこれと喜美は言う。
「ももですね、沙茅ちゃんと一緒ですね」
「一緒に食べましょう」
「私もいただいてしまっていいのでしょうか」
「もちろんよ」
喜美の華やかそのものとさえ言えるその微笑に、ゆきは引き込まれていた。
「ありがとうございます、じゃあ私はぶどうにします」
ダイニングテーブルの席の一つに座った喜美の前にゆきがゼリーの蓋を開けて置き、スプーンの袋から出して渡す。
「ありがとう」
喜美にはそうさせる雰囲気があり、ゆきも持ち前のノリの良さでそのオーラのようなものを失礼ながら楽しみだしていた。
「いえ」
ゆきは喜美につられて笑みが零れるのを自覚しながら、その独特の雰囲気に程よい緊張と喜美に対する敬服の念が生まれることに存在の偉大さを感じていた。
それは恋人の母親だからというものではないこともゆきは同時に理解している。
「こちらどうぞ」
喜美に隣の席を示され素直にゆきは自分の分のゼリーを持ってそこに座る。
「いただきます」
ゆきが言うと喜美も優雅な動作で小さく手を合わせる。
「いただきます」
ゆきは喜美がひと匙口に含むのを見てから自分もひと口食べた。
「あ、美味しい」
想像以上だった味わいにゆきは思わず声が零れていた。
「本当ね」
「これパティスリーのですよね、お取りせなんでしょうか」
ゼリーの色彩を見せるため、小さなロゴしか印刷されていない瓶を持ち上げゆきはまじまじと見つめる。
喜美はゆきのそんな様子を隣りから眺めている。
「そうねぇ、大翔が持ってきたものだから」
「じゃあ後でお礼と一緒に聞いてみます」
「それがいいわね」
喜美ののんびりとした口調と絶やさない笑顔が麗し気な雰囲気をさらに際立てて、ただゼリーを並んで食べているだけでゆきは優美な気分になっていた。
「ねぇ、ゆきさん」
「はい」
すっかりゼリー夢中になっていたゆきは、喜美の声に反射的に返事をしていた。
喜美は表情を変えないままじっとゆきを見ている。
「結婚しないの?」
驚きや動揺よりその言葉は意外なほどすんなりとゆきに響いた。
変わらない飛び切りの笑顔の喜美に、その言葉への思い浮かんだ自分の答えのせいでゆきはドギマギとしてしまう。
「え、あの、まだお付き合いを始めたばかりで」
「結婚するつもりがなくても、お付き合いするの?」
「いえ、それは」
反射的に頬を染めるゆきにますます喜美は笑顔を深くしてさらに矢継ぎ早に言葉を重ねる。
「結婚式はするでしょ?」
「え、式ですか」
ゆきはライトに煌めくゼリーに目が向く。
「子供の事は?」
「えーと」
「たくさんいた方がいいわよ」
目雲の母は終始楽しそうに笑っていた。
「やめろッ」
大きな声に視線を向けると、今までにないほどの怖い顔をした目雲が立っていた。
「目雲さん?」
「ゆきさん、帰りましょう」
戸惑うゆきの腕を握り、目雲は立ち上がらせる。
それを喜美が目を追う。
「もう帰るの?」
目雲は母のきょとんと子供の様にあどけなく不思議そうに首を傾けるその仕草にさえ苛立ちを募らせ、激しい言葉を吐きそうになるのを堪え、ただそのせいで声が冷たくなる。
「母さん、余計なことは言わないと約束したはずだ」
「余計なことなんて何も言ってないわ」
おっとりと微笑みながらそう言われ、目雲は険しい表情のまま目を伏せ怒りを鎮めるように肩で深呼吸をする。
ゆきを土間の手前まで連れて行くと、そこで一旦手を放した。
そして諦めたように呟いた。
「そうだろうな、あなたには何も分からないんだ」
「周弥?」
「ゆきさん、行きましょう」
目雲が素早く二人分のコートとカバンを持ち、状況を飲み込めず立っていることしかできないゆきの手を再度掴み引く。
「あ、今日はありがとうございました。失礼します」
それぞれの場所から悲痛な表情な大人たちがゆきにも見えたが、なんとか笑顔でお礼だけ言うことができた。
「また来てね」
喜美にこやかに手を振られて、ゆきはなんとか微笑み会釈を返し、目雲に手を引かれるまま目雲が出した靴に足を入れる。
「もう二度と来ることはない」
土間で靴を履く瞬間目雲が突き放すように残した言葉にゆきはやや困惑しながら、靴を履きつつ和室から顔を出して手を振る子供二人に手を振り返して玄関を出た。
小走りに近い歩きになっていたゆきだったが、目雲にとってはこれが普通の速度かもしれないとそんなことを思ったりした。
車に着くと目雲が助手席のドアを開け、ゆきが乗り込むと、まるで逃げ出すように目雲は車を発進させた。
車を走らせ始めてからも、しばらく黙ったままだった目雲にゆきはとりあえず話しかけることから始めた。
「えっと、目雲さん?」
「すみません」
「いえ」
色のない声で謝られ、目雲の心情がいつも以上に分からない。
ゆきも目雲が自分に対して怒っているわけではないと感じてはいたものの、きっかけは自分にあるのかもしれないと状況から思わずにはいられなかった。
「あの、話をしていたのがダメでしたか?」
「ゆきさんは何も悪くないです。すべてあの人が悪いんです」
運転中だから勿論正面から視線を逸らすことはないが、それだけの理由じゃなくいつにもまして無表情で冷たい印象をゆきに抱かせる。
けれどその言い方に嫌悪感が存分に滲んでいたことがゆきには不思議で仕方なった。
「あの人……、お母様ですか?」
「ゆきさんに言わなくてもいいこと言っていたでしょう」
「聞いてましたか?」
運転しながら一瞬見たゆきのどこか含みのある表情に、目雲は自分の予想があったっていたと確信した。
「途中からですが」
「あ、そうですか」
ゆきは気まずそうに視線をさ迷わせた。
「深い意味はないので」
ゆきはあくまでも自分の発言に対して言ったのだが、目雲はもう自分の想像が母の言動にしか向いていなかったので、ゆきも母に気を使っているのだと勘違いした。
「あの人はわざわざ口に出す必要ないことを言うんです」
「そうですか?」
「あれ以上言うようだったら、いくら母でも何していたか分かりません」
何という部分に来るのは、たぶん暴力的なのことなのかなと、実際はないだろうと思いながらも、ゆきはそう言ってしまうほどなのだと、目雲の心中を察する。
「目雲さんにもそんな一面あるんですね」
「あの人はずっとそうです。兄の奥さんにも弟の奥さんも距離を取られています」
「だからなんだか最初雰囲気がおかしかったんですね」
和室の重力がそこだけ強くなっているような、風のない日の生ぬるさだけが感じられる空気感の謎が解けた。
「あの人には人の気持ちが分からないんです。お嬢様育ちだからと許されるものではありません」
ゆきも唐突な話題だった認識はあるが、どこかであれくらいは想定内で特別異常なことを言われたとも思っていなかった。
「そんなに怒らなくても本当に大丈夫ですよ」
ゆきも目雲の言わんとしていることは喜美との会話を振り返れば分からないではない。ゆきは目雲が受け取った印象とは違う物を抱いていたので溌剌としていられるのだが、目雲はそれを信じない。
「大丈夫ではないですよね」
「いえ、本当にただお話? アドバイス? あれは――」
「無理しないで下さい」
珍しくゆきの言葉を遮った目雲にゆきは戸惑う。
「無理なんかしてなくて」
「わざわざ傷つけに連れてきたようなものです」
赤信号で止まったが目雲がゆきの方を向くことはない。ただじっと前を見つめている。
ゆきは表情を緩め目雲の謎の罪悪感を受け止めつつも、あの場で喜美を振り切って和室に戻ることが最善だったかと少し反省する。ただ今日を乗り越えたとしても、同じことは将来必ず起こっただろうとも確信の近いものを感じた。
だからきちんと伝えなくてはならないと思う。
「傷ついたりしてませんよ」
できるだけ穏やかにけれどきっぱりと否定する。けれど目雲は弱弱しい声を出す。
「そんな優しい嘘つかないで下さい」
「嘘なんて――」
「僕はあなたを失いたくない!」
激情を顕わにする目雲の恐慌状態にゆきの感情は複雑になる。
想われているが故の不安なのだろうとは分かるが、冷静さをここまで失わせる理由が過去にあることも分かってしまう。
「目雲さん……」
どう声を掛けるべきか、ゆきも迷う。
信号が青に変わり、また走り始めるが沈黙が支配する車内は痛々しい雰囲気だった。
再度赤信号で止まったことで、冷静になれたのかハンドルに抱え込むように額を付け俯いた目雲は暗く静かに呟く。
「すみません」
明らかに落ち込む目雲を見て、ゆきは考えを変えた。
目雲が安心できればそれでいいのだから、ゆきと喜美との会話を理解してもらう必要はないのではないかと。
進行方向に見えるファミレスを指さしてゆきは微笑んだ。
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