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第一章 隣の部屋に住む人は

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 春の雰囲気が確実に感じられるようになってきた四月頭、桜があちこちで舞っていた。

 バイトと打ち合わせを終えたゆきは、帰宅ラッシュを避けるため本屋を探索して思いのほか満喫し過ぎてから電車に乗った。いつもの改札をでると、駅前広場のベンチの前を通り過ぎる。

「よ!」

 声に反応して振り向くと楽しそうな宮前が軽く手を挙げて座っていた。

「あれ、宮前さんこんなところで何してるんですか?」

 手招きで呼ばれるままにゆきは近寄っていく。

「思ったより仕事早く片付いたから待ち伏せ。ゆきちゃん急ぎ?」

 誰をとは聞かずともゆきにも分かったので、質問にだけ答える。

「帰るだけですから急いではないですよ」
「帰ったら仕事する?」
「そうですね」
「あぁ残念、暇だったらごはん誘おうと思ったのに」
「今日はお気持ちだけ」
「じゃあちょっとだけ俺とお喋りするのは? もうすぐ周弥来るからそれまで」

 ゆきは笑顔で頷く。

「いいですよ」
「横座って、座って」
「ありがとうございます」

 促された席にふわりとゆきは座った。空はすっかり暗くなっていたが、駅前は明るく舞い落ちる花弁がよく見えた。

「ごめんね、あれからなかなか誘えなく。俺が忙しくなっちゃって」

 もちろん目雲もそうだろうと言われなくても分かる。

「年度末はいろいろと忙しくなりますね」
「ゆきちゃんも?」
「私も一応個人事業主なので、事務手続きが増えて。それ以外は日々変わらずですよ。バイト先の送別会とかはありましたけど、学生さんのバイトも多いので卒業祝いとか就職祝いとか、ちょっと前に就活とかで辞めた人も呼んだりして毎年それでそんな時期だなって実感します」
「確かにね、俺も取引先の担当者の変更とかで普段以上に挨拶と自己紹介しあったよ、まあ時期関係なくそんなことしょっちゅうしてるんだけど」
「お疲れ様です」

 ゆきが労えば、宮前もお互いねと笑った。

「そうだ、あのプレゼントもありがとね」
「いえ、こちらこそ。結局私がご馳走してもらってばっかりですね」
「一緒に美味しくご飯食べてるんだからせめてもお礼だよ、それにゆきちゃんはちゃんとお返しもしてくれるでしょ」
「見合ってる気はしませんが」

 ゆきの苦笑いを宮前は笑顔で無視しながら組んでいた足を投げ出して、足先をパタパタと動かす。

「今日履いてくればよかった。ちょっとだけ違うプレゼントってのが良いよね、あの靴下履き心地いいよ」

 目雲と宮前で少し贈る物の内容を変えたのは選びに行った時にそれぞれ良さそうな物が見つかったらだったので、お世辞でも気に入ってると示されるとゆきは少し安心した。

「そう言ってもらえるとほっとします」
「俺が営業だからでしょ?」

 ゆきは微笑みながら頷く。

「私の思考回路が単純なことを早くも見抜いているとは」
「靴下なんかマジで消耗品だし、清潔なハンカチも絶対持ち歩くようにしてるから」

 営業職はよく歩くとイメージがあったゆきは疲労軽減と掲げられていた靴下を見つけて、原理はよく分からなかったが宮前なら面白がりそうだと選んでみた。
「優秀な営業マンの心得ですか?」
「そうそう、よく分かってるね。それにさ、周弥はゆきちゃんの言葉は素直に受け取るし」
「それは、何でしょうか?」
「最初に俺が誘った鍋の時が最初かな。あの時、ゆきちゃん、周弥にお酒はって聞いたんだよ」
「覚えてますよ。カフェインを控えてるっておっしゃてたので、アルコールも同じようにされてたらと思って聞いたんです」
「そうそう、それ。それで周弥は飲むって答えたんだよ。それでちょっとびっくりしたんだよね」

 幼馴染だからこそ何か思うところがあったのだろうとゆきには全く予想ができなかった。

「びっくりですか?」
「ゆきちゃんが最初に助けた時、酒での醜態晒してたわけでしょ。ちょっと前のあいつだったら、そのあとゆきちゃんにお酒はって聞かれたら飲まないようにするか、その時のこと思い出して謝るかすると思ったんだけど、素直に飲むって答えたからゆきちゃんの事信頼してるなって」

 泥酔ていたのは何か事情があると思い込んでいて、さらに日常的に不調がある方が印象の強かったゆきは単純に勧めていいものか知りたかっただけでも、もう少し言葉を足すべきだったと反省する。

「そうだったんですか。言われれば嫌味な聞き方でしたね、申し訳ないです。目雲さんが気を使ってくれたのかもしれません」

 目雲が多くを語らず頷てくれたのは完全に優しさだっただろうと今だったら思う。
 けれど宮前は大げさに手を振る。

「ごめんごめん、そういう意味じゃないよ。ちゃんと俺にも周弥を心配してくれてるんだなって分かったから。もしかしたらだけど、ゆきちゃんも周弥にはちゃんと言いたいことが伝わるって理解してるから聞いたんじゃない?」

 話しやすさは感じていたが、それは目雲が汲み取ってくれたり雰囲気を穏やかにしてくれているからだと分かってはいた。

「いえ、あまり物事深く考えてなかっただけで恥ずかしいです。ただ目雲さんの優しさに甘えてる自覚はあります」
「いやいや、それくらい普通だって。むしろもっと甘えても良いと思うけど、周弥の方が遥かにいろいろ世話になってるんだからさ」

 宮前の中で倒れていた目雲を介抱したのが余程のインパクトだったのだなと、その後何も目雲の役に立つようなことはしていないのにも関わらずとゆきは思う。
「宮前さんも優しいですね」

 話をしていると駅の方を見ていた宮前が反応した。

「あ、周弥」

 宮前が軽く指さす方へゆきも視線を向ける。

「あっ」

 ゆきも姿を発見して、さらにその変化に気付く。
 すぐに二人が目に入ったらしい目雲も少し小走りでやってきた。
 ゆきはまずは立ち上がって挨拶する。

「こんばんは、目雲さん」
「ゆきさん、こんばんは」

 正面に立った目雲を見上げて、ゆきは確信をもってにっこりと笑顔になった。

「目雲さん髪切りました? すっごくお似合いです」

 黒髪で前髪を分けていることは変わりないが、全体的に短くなって爽やかさが増している。

「ありがとうございます」

 ゆきにだけまっすぐ向けられた目雲の顔に、まるで目雲の視界には入っていなかったように見事に気にされていなかった宮前はそんなことにも慣れたもので気も留めない。

「ちょっと時間ができたから、やっとちゃんと切れたんだってさ。それまで自分で適当に切ってたんだって、凄くない?」

 宮前も立ち上がって、少し高い目雲の肩に肘を乗せたりする。それを目雲が視線だけで咎めて、ゆきと宮前を見比べるように視線を移動させる。

「二人でこんな所で何を?」

 宮前とゆきは思わず視線を合わせると、笑ってしまう。そして声揃える。

「「待ち伏せ」です」
「待ち伏せ?」
「とりあえず帰ろうぜ」

 訝し気な目雲を置いていくように宮前が歩き出す。

「お仕事お疲れさまでした、帰りましょうか」
「はい」

 ゆきが宮前と偶然出会ったことを話しながら、駅前を抜けて人込みが落ち着く場所まで歩くと、先を行く宮前が二人を振り返った。

「今度さ、ゆきちゃんのバイトしてるところ食べに行ってもいい?」

 器用に歩きながら後ろに話掛ける宮前に、もちろん、とゆきは頷く。

「とっても美味しいですよ」
「ゆきちゃんはお昼に入ってるんだよね? 折角だから働いてる時に行きたいな」
「曜日の固定はしてないので、平日のどこかなんですが。前日に連絡を貰えれば入ってるかお答えしますよ」
「仕事の邪魔をするなよ」

 いつも以上に怖い顔の目雲だが、完全に後ろ向きに歩き始めた宮前はのぞき込むように目雲を見て楽し気だ。

「お前も行く?」
「昼は予定が合わないだろ」
「だよねぇ、俺だけ行くね。外回りのついでに寄るよ」

 笑う宮前にゆきも笑顔で太鼓判を押す。

「ランチはそういうお客さん向けなのでおススメですよ」
「定食屋さんだもんね、楽しみ」

 クルリとまた前を向いた歩く宮前に目雲がさらに注意をする。

「あと、ゆきさんを寒いところに座らせておくな」
「大丈夫ですよ、いつでも寒さ対策は万全なので寒くなかったです」

 ゆきは羽織っているいつものストールをぎゅっと巻いて示し、宮前が流石に苦笑で目雲に抗議した。

「俺だって震えてる子を無視するほど冷血じゃないわ」

 玄関の前で別れるまで、三人でそんな会話をしていた。




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