解剖令嬢

井戸 正善

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16.誰かの遺体

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 遺体にはいくつかの殴打痕がある。
 クレーリアは慎重に全身を確認したのだが、特に上半身に集中しており、棒状のもので打たれたものと拳によるものが半々といったところだ。
「イルダさん、記録を」
「問題ありません。どうぞお嬢様、進めてくださいませ」

 緊張の色は見えるが、イルダもエレナもいつも通りに動けている。
 椅子を並べた簡易の解剖台であり、いつもよりも低くやりにくそうな部分はあるが、王からも良く見える高さにするため仕方がない。
 アルミオは一歩引いた場所で見守りつつも、先ほどの近衛騎士が見せた表情が気になっていた。

 この人物は誰だろう。
 遺体の正体について、王も近衛も、近侍たちも何も言わなかった。
「……陛下。この人物について伺っても?」
「今回は秘しておく。死体から何が読みとれるかを純粋に知りたい」
「かしこまりました」

 クレーリアと王の会話は短かったが、これでアルミオが遺体の正体を確認する術は断たれたと言って良い。王が断言したのなら、誰も答えを口にするまい。
 全ては、クレーリアの腕前にかかっている。
「骨折部分はありませんね。殴打された跡がいくつかありますが、どれも回復途中です。死因ではなく生きている間に付いた傷です」

 視認した後は、前進に触れていく。
 目で見ただけではわからない皮膚の変質や骨折などを確認するものだ。クレーリアは指先で感触を確認する中で、腹部を押さえて手を止めた。
「腹腔内出血? ろっ骨の骨折はしていないようだけれど……」
「説明を、頼めるか」

 クレーリアの独り言に、王が質問を挟んだ。
 結論はまだですが、と前置きをして口を開いたクレーリアは、腹部に血か水が溜まった状態であると話した。
「では、腹を開いて確かめるのか」
 王の言葉に周囲の者たちは息をのんだが、クレーリアの返答はさらに上を行く。

「いいえ。疑いがあるからとそこだけを調べるのでは、重要なものを見落とす可能性があります。確認するのは“全ての場所”です」
 クレーリアはイルダに指示してメスを受け取ると、迷いなく遺体の胸元をV字に斬り裂き、さらに鳩尾から下に向けて縦に斬る。
 Y字状の切れ目を開くと、皮膚組織と筋肉を開き、胸骨や肋骨が露わになる。

「う……。陛下、申し訳ありませんが……」
 腹部をメスが通った瞬間に、ぷしゅ、と音を立てて黒い血液があふれ出すと、文官の一人がうめき声をあげ、王は追い払うような手つきで退場を許可した。
 凛として立っていた近衛も、この光景には少々顔色を失っていた。
「腹部の出血は……脾臓からですね。何か強い衝撃で脾臓が破裂したのでしょう」

「それが、死因というわけですか。腹を殴られて死んだ、と」
 初めて近衛騎士が口を開いた。
 まるでそれがわかっていたかのような口ぶりであったが、クレーリアは違うと断言した。
「これは死因ではありません。出血は多いですが、致死量には少ないのです。これだけの体格ですから、この程度の出血では失血死はしません」

 もっとも、当人は死ぬほど痛くて苦しかっただろう、と彼女は付け足した。
「放置していれば、そのまま失血死していたでしょうけれど、この方の死因は別にあります」
 腹部の打撲による脾臓破裂。地獄の苦しみを味わいながらも、彼は別の理由で死んだのだ。
 クレーリアはイルダとエレナの手を借りて、続きを始める。
 工具のようなものを取り出し、遺体の肋骨を上から順番に切断すると、胸骨ごとごっそりと取り外した。

「通常の臓器の状態とは異なりますが……」
「良い、説明を頼む」
 王は多少顔色を悪くはしているが、目を逸らそうとはしなかった。
「何が妙で、その原因は何か」
「あちこちに溢血点いっけつてん……小さな血管が破れたことによる血の斑点が見られます。こちら、目の周囲の粘膜にも」

 それは呼吸困難に因る遺体に特徴的なものである。
 本来であれば遺体全体にも見られるはずだが、背中にある死斑に紛れてしまっているのだろうか。遺体の状況によって現れる現象が違うのだが、内臓の溢血は顕著に出ている。
「窒息死、ですね」
「窒息……!」

 王は唸っただけだが、近衛騎士は驚愕したように声を漏らした。
「どうか、されましたか?」
「い、いや、失礼しました。どうぞ、続けてください。陛下、遮ってしまい申し訳ありません」
 王は気にせず続けよとクレーリアを促した。
 その間にも、遺体を運んできてそのまま待機している騎士たちや、文官たちも落ち着かない様子を見せ始めていた。

「肺に水はありません。溺れたわけでは無いのですね。であれば……」
 クレーリアがメスを遺体の喉に当てた。
 鋭く砥ぎあげられたそれは、何の抵抗もなく喉から気管をまっすぐに切り開き、中に入っていた異物に行き当たる。
「これですね」

 丁寧に切開された気管から取り出されたそれは、血液にまみれた一塊の何か。
 シャーレに取り出して洗浄すると、いくつかの粒が貼りついて固まったものだとわかる。
「何かの薬のようですね。多量の丸薬を固めたような……」
「陛下……私にはその薬に見覚えがございます」
 話を遮り、近衛騎士は苦し気に申し出た。

「そうか……。クレーリア、中断してすまぬ。彼の話を聞きたい」
「私にも聞かせていただけますか」
 王の許可を得て、近衛騎士は自分の懐からいくつかの黒い粒を取り出した。
「同じものを私も持っております。騎士隊の多くが持っているもので、通常は鎮痛剤として使用するものです」

 この話を聞いて最も衝撃を受けたのはアルミオだったかも知れない。
 騎士訓練校の生徒である彼だが、そのような物を使っているとは初耳だったからだ。むしろ、そのようなものに頼らずに済む精神力を鍛えろとまで言われるというのに。
 近衛が言うには、この丸薬は騎士隊内で密かに共有されているもので、王城の医師たちが調合しているものらしい。

「まさか、これに毒が入っているとは……」
「毒? いいえ、これが死因ですが、これは毒ではありませんよ」
 クレーリアは淡々と語る。
 死因は誤飲である、と。
「おそらく、この方は痛み止めだとわかって飲み込んだのでしょう。ただ、苦しさのあまりに多量に飲み込んだうえ、気管に入ってしまったのです」

 無理やりに飲ませたわけでもない。口腔内に傷がないので、誰かが押し込んだとは考えにくかったからだ。
「喉を押さえた跡がありますが、向きと大きさから見て彼自身の手の跡です。腹痛に耐えきれず鎮痛剤に頼ろうとして、誤飲したものと思われます。……エレナ、記録を」
 エレナが素早く記録をしたものに目を通したクレーリアは、受け取ったペンで手早くサインを入れ、王へと近づき一礼と共に差し出した。

「私の検視解剖はこのように行います。どうぞ、ご確認ください」
「……見事である。と同時に、この件を解決してくれたこと、嬉しく思う」
 王は嘆息と共に近衛騎士へと視線を向けた。
「後程、部隊に周知しておくように。本件は事故である、と。クレーリア、自殺の可能性はないのだな?」

「あえて喉に薬を詰まらせるような方法をとるとは思えません。事故だと考えるのが自然だとは思いますが……それは周囲の状況を捜査する者の考えることと存じます」
「なるほど……」
「ただ、この丸薬については見直すべきでしょう。大量に飲む必要があると言われているのであれば問題ですし、表面が濡れると粘性を持つのは危険です」

 クレーリアの言葉に王も近衛騎士も頷いていた。
「よろしい。あとの処理はお前に任せる。ここは良いから、疑心暗鬼になっている隊内を落ち着かせ、遺族に説明してきなさい。……後で、クレーリアにも説明を。彼女にはそれを知る権利があるだろう」
「かしこまりました。クレーリア様、この度は助かりました。詳しくは後程ご説明させていただきますが、非常に助かりました」

「私は、私の仕事をしたまでです」
 クレーリアに一礼し、近衛騎士は訓練場を出て行った。
 遺体はすぐにイルダたちによって縫合され、縫い目が痛々しいながらも元の精悍な男性の姿を取り戻した。
 アルミオには、心なしか遺体が安心したような表情をしているように見える。

「クレーリア。お前の提出した案件については、大臣たちとの会議にて検討することを約束しよう。場合によっては再び大臣たちの前でお前の腕前を披露してもらう可能性もある」
「かしこまりました。彼女たちを連れて、いつでも参上いたします」
 双子たちは自分に水を向けられて、驚いたような嬉しいような、反応に困った様子で互いを見ていた。

「ソアーヴェ侯爵、夕食を共にしたい。クレーリアと共に来ると良い」
「畏まりました。クレーリア、陛下にお礼を」
「はい、お父様。陛下、夕食を楽しみにしております」
「余も楽しみにしておる。だが、夕食の席での話題は解剖以外で頼む」
 にっこりとほほ笑むクレーリアがうなずくと、王はわずかに安堵の表情を見せて退席した。

 王が文官たちと共に去り、遺体が運び出され、残されたのはクレーリア一行と案内役のみとなった。
 殺風景な訓練場にはわずかに死臭が漂っている。
「見事な腕前でした、お嬢様」
 アルミオが声をかけると、クレーリアは振り返った。

「ふふ、少し疲れました」
 冷静に見えても内心で緊張していたのだろうか。クレーリアの微笑みには言葉通りに疲労感が窺える。
「夕食までは時間があります。どうぞお休みください」
「そうします。イルダさん、エレナさん。二人ともお疲れ様でした」

 揃って緊張から解き放たれてぐったりとしていた二人は、クレーリアと共にゆっくりと歩いて戻っていく。
 それを最後尾から見ていたアルミオは、一先ず最大の難所は乗り切ったと実感していた。
 あとは、ロザリンダの件が問題なく解決すれば良いのだが。そう考えていた矢先に、一人の使用人が彼に近づいてきた。

「失礼します。アルミオ・ヴェッダ様。ソアーヴェ侯爵閣下がお呼びです。すぐに来ていただきたいのですが」
「俺、ですか? お嬢様ではなく」
「はい、アルミオ様だけをお呼びするように、と」
 クレーリアがいる前で声をかけたあたり、絶対に隠しておきたいわけでもないだろうとはわかる。しかしアルミオ一人を呼び出す理由は何か。

「アルミオさん。こちらは大丈夫ですから、お父様のところへ」
「わかりました。では、失礼します」
 そうして連れられるがままに向かった先で、アルミオを待っていたのはソアーヴェ侯爵ともう一人、侯爵領で上級捜査官として活躍しているベルトルドだった。
「疲れているところに呼び出して悪いが、状況はあまり良くない」

 侯爵に続けて、ベルトルドが状況を説明してくれた。
「騎士訓練生ってのは優秀だね。早速だけど事件は進展しているよ」
 実は彼がいること自体は不思議ではなかった。訓練生たちが何かを発見した場合に対応するため、侯爵が呼び出しているとアルミオは聞かされていたからだ。
「遺体が見つかった。……ロザリンダ様の使用人、馭者をやっていた人物だ。たぶん撲殺だと思う」

「ロザリンダ様本人は?」
 アルミオの問いに、ベルトルドは否定で返した。
「まだ見つかっていない。見つかった現場は貴族街近くの路地だが、特に血痕などは無かった。争った形跡はあったけれどね。馬車もあったよ」
 ロザリンダの姿だけが無いのだ。

「侯爵閣下。お嬢様にお伝えしましょう」
「だが……」
 侯爵が迷っているのは明白だった。
 御前解剖と言うべき舞台を終えたばかりであり、その疲労はピークにあるだろうこと。使用人とはいえ知人の遺体を解剖させるのかという葛藤。そして、その結果友人の死を知るのではないかとの恐れ。

 それでも、アルミオはクレーリアには伝えるべきだと主張した。立場を考えれば不敬ともとれる行動だが、彼はクレーリアの信念を知っているからこそ、退かない。
「お嬢様を現場へお連れするべきです。それでこそ、この件は解決すると思います」
 アルミオには捜査の知識はない。学校で教わった、触り程度のことしかない。だが、今の状況で誰が最も正確に答えを導き出せるかは知っている。

 しばし悩んでいたが、侯爵は決断した。
「陛下に、状況をお伝えしてくる。これは貴族間の争いである可能性が高いとして、当家が調査に入り、クレーリアもそれに参加する、と」
 ベルトルドも侯爵の判断に賛成し、行動はすぐに開始された。
 こうして、ロザリンダ失踪事件は誘拐事件として王国貴族の事件となった。

 斯くてその解決を期待する視線は、クレーリアに注がれる。
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