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10.ソアーヴェ侯爵リオネッロ
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もう少しだけ、アルミオがプレッシャーに弱い人間であればすでに血を吐いて昏倒していたに違いない。
それだけ侯爵から感じる圧力は強かった。
しかし、アルミオには言っておきたいことがある。
「若輩者であり、まだクレーリア様のことを何か知っているとは言えません。ですが、この数日の間だけでも、クレーリア様が見ておられる世界の広さがわかりました。その一助となれるのであれば、光栄なことと存じます」
些か敬語が怪しい感じはあるが、伝えたかった内容は言えた。
ちらりと様子を窺うが、侯爵はまっすぐにアルミオを見据えたまま真顔で続きを待っているようだった。
「……多くの、そう、多くの人々がお嬢様の理念に共感し、その手助けや護衛として共にありたいと考えています。それは、私が直接彼女たちから聞いたことです」
「信頼されている、と」
「間違いなく」
「確か、助手として使っている双子と、暴斧のパメラだったな。他にもいるのか?」
「少なくとも、屋敷でお嬢様を好ましく思っていない者はいないと思います。これは護衛をする者として気を付けて見ていたことなので、間違いありません」
この侯爵邸は、貴族の私邸でありながらクレーリアの研究所であり、ベルトルドなどが出入りしていることからわかる通り、同時に警察組織の一部として利用されている。
故に平民たちが出入りし、時には死体が運び込まれることもあるのだが、屋敷の者たちが混乱や嫌悪を明確にしていることは見たことが無い。
忌避している者はいるかも知れないが。
「……領地のことは、下の者たちと娘に任せてきた。特に屋敷の中のことは。わたしは一年のほとんどを王城か王都の私邸で過ごしているからな」
侯爵の言葉には、クレーリアに対する愛情が感じられた。同時に、寂しさが見える。
「この子は特別なのだ。親の贔屓目は別にしても、どこで仕入れたかわからぬ知識を披露しては周りの大人を驚かせてきた」
ガラス製品についてもクレーリアが主導して発展させたものである、と侯爵は語った。
クレーリアの「知識」によって侯爵領は間違いなく豊かになっており、就業者が増えて経済は順調に回っている。そのうえ、侯爵家本来の仕事である「断罪」に関しても、侯爵は期待しているという。
「いくつかの貴族家が企んだ不正を潰すことができたのも、娘のおかげだ。敵は増えたが、それは今さらというものだ」
侯爵は立ち上がり、戸棚から取り出したウィスキーをグラスへと注いだ。このグラス一つでも、平民が数年働いてようやく手に入れることができるかどうかという高級品である。
「君も飲むか」
「折角のお誘いですが……」
「そうか」
クレーリアには聞かない。彼女が酒を好まないことくらいは知っているのだ。代わりに手ずから水を用意するあたりも、クレーリアに対する愛情の証だとアルミオは思った。
「ありがとう、お父様。それで、今日お帰りになられた理由を窺っても?」
水を受け取ったクレーリアが、ようやく口を開いた。
「陛下が、お前にお会いになりたいそうだ」
酒を一口呷り、侯爵は続ける。
「園遊会やダンスパーティーなどではなく、お前の話を聞きたいらしい。具体的な話は無かったが、恐らくは領地で行っている警察組織の運用について聞きたいのだろう」
「そうですか」
短い返事には、了承とも拒否とも取れない響きがあった。相も変わらず平坦である。
そんな平坦な声音のままではあるが、クレーリアはそこから早口が止まらなかった。
「では、いくつか資料をお持ちするべきでしょう。特に遺体解剖に関するデータは写しを作らねばなりませんね。必要であれば、サンプルをお持ちすることも考えておきますが、城内に遺体を持ち込むのは些か憚られますね。敷地内にどこかお部屋をお借りできれば良いのですが。もし差し支えなければ陛下の方で新鮮な遺体をご用意いただければ助かるのですが」
「待て。待て待てクレーリア。ちょっと待て」
「どうかされましたか?」
「お前がどうかしているのだ。良いか、陛下はお前の話を聞きたいと言われているのであって、お前が行う解剖を見たいというわけではない」
「百聞は一見に如かず、と申します。例えば窒息死でも水死と溢死では死後の状態には大きな違いが……」
淡々と、しかし溢れる熱量を押さえきれない様子のクレーリアから目を離し、侯爵はアルミオへと視線を向けた。
「……本当に屋敷の者たちに慕われているのか?」
「間違ったことは言われておりませんし、実際に結果も出されておられますので……」
「こういうことを言い出したときは、何かの呪いにでもかかったのかと思ったものだ」
クレーリアに少し落ち着けと言って、侯爵はグラスを置いた。
「クレーリア。お前が他の貴族家からどう思われているか、自覚しているか?」
「聞こえてくることもありますが、あまり気にしておりません」
「伴侶を探すのも大変なのだが」
「私は自分で探しますので、どうぞお父様はお気になさらず。それよりも謁見はいつのお話ですか。せめて三日はいただきたいのですが。随伴も数名必要です」
クレーリアの言う随伴は、身の回りの世話をする者たちとは別の、双子の助手たちを指しているのだろう。侯爵はそれを理解しているのか、わかったと頷いた。
「では、陛下に謁見の調整をご相談しておく。準備が出来たら帝都の屋敷に移動しなさい。……死体は持ってくるなよ?」
「仕方ありません……」
心底残念そうにするクレーリアは、準備があるのでと立ち上がると、グラスの水を一気に飲み干した。腰に手を当ててグラスを傾ける姿は、容姿とは裏腹に勇ましい。
「では、失礼します。アルミオさんはお話が終わったら執務室へ。運び出す資料の整理の手伝いをお願いします」
「かしこまりました」
立ち上がって一礼したアルミオは、侯爵に促されて再び着席した。
「君にも王都に来てもらう」
「よろしいのですか?」
「クレーリアの護衛なのだ。当然だろう。王都の土地勘がある者が護衛にいるのは好ましい。幾人か追加の護衛を付けるが、娘は大仰なことだと嫌がるのでな……」
最初は厳格な父親のもとで育ったクレーリアに同情すら覚えていたアルミオであったが、この短い時間の中でどちらかと言えば侯爵への同情が強くなりつつあった。
「予め話しておくが、娘は奇妙なことに王国の誰も知らないことを知っている。思いつくとか、発見するとかではない。知っているのだ」
「侯爵閣下の薫陶の賜かと思っておりましたが……」
アルミオの賛辞に、侯爵は苦笑で返した。
「あれは特殊だ。そう表現するほかない。……他国のある宗教では、魂は巡り巡って他の人間として生まれ変わると信じられているらしい。あるいはそれが正鵠を射たもので、娘はどこか他所の世界からの生まれ変わりなのかも知れぬ」
「そのようなことが……ですが、そう考えると納得できるのはわかります」
「若いと理解が柔軟で良いな。中央の老人連中の中には、娘を忌み子のように扱う奴までいる始末だ。事実を事実として受け止める勇気を失った連中のたわ言など無視しておいても良いのだが」
そういう連中に権力があるのが問題だと侯爵は言う。
「阿呆どもが早まったことをしでかすとも限らぬ。奉公の学生に言うのもおかしな話だが、護衛をしっかり頼む」
侯爵が頭を下げると、アルミオは慌てて椅子を降りて膝を突いた。
「どうぞ、侯爵閣下におかれましては依頼などではなく、ご命令として下知くださいますよう。男爵家の後継として、過分な期待を頂いただけでも光栄の至りでございます」
「そう言ってくれると、助かるよ。君の父上には良く伝えておこう。陛下にも君のことは話しておくよ」
その言葉はアルミオにとって最高の褒美であり、同時に強烈なプレッシャーでもあった。
国王に名前を憶えられたとなれば、卒業後の正騎士としての配置はかなり期待できる。出世競争において最高のスタートを切れるのだ。しかも侯爵からの口利きとなれば王としても無視はできないはずで、かなり確実な「推薦」を得たに等しい。
しかし同時に、何か問題が発生すればアルミオの名は国王に汚点と共に記憶されてしまう。
そうなれば、正騎士にすらなれずに田舎に戻ることになるだろう。
ヴェッダ男爵家には不名誉な評判が立ち、貴族同士の付き合いからも弾かれてしまうことになる。婚約者のニルデも離れてしまうかも知れない。
最大のチャンスであり、最大のピンチでもある。
父親のためにも、領地の民衆のためにも、理想の家庭を築くためにも、失敗は許されない。
クレーリアの手伝いをするため、と侯爵の許しを得て談話室を辞したアルミオは、一度着替えるために自室へと戻った。
制服を脱ぎ、室内での護衛に適した装備に着替えると、自分の両頬を強く叩いた。
「……泣きそう」
たった二年間、上位貴族の家で大過なく過ごすだけ。それが奉公という制度のはずだった。
ところが、アルミオの場合は「恐ろしい噂があり、それが半分以上事実である侯爵家令嬢に仕え」、「日常的に命を狙われる状況で護衛をし」、「付き添いで王城へと向かうことになり」、「何か問題が起きれば将来が閉ざされる」ことになった。
どこで何を間違えたらこうなるのか。確かに、立派な騎士として活躍するために――半分は婚約者に格好いいと思ってもらうために――小さい頃から剣の稽古に励み、訓練校でも良い成績を取れた。その結果がこれなのか。
「親父……ちょっと恨むぞ」
訓練校に行けば、貴族の仲間が作れる。横のつながりがあれば領地で問題が起きた時に助け合いができるし、中央の情報も入ってきやすい。
何より金がかからない。
そう言って騎士訓練校入りを勧めた父親。再会したら殴ってしまうかも知れない。
「覚悟を決めるしかない。とにかく、準備をしっかりしておこう」
まずクレーリアが準備を万端にしておくのが肝要ではないか。王城内で襲われる心配はないだろうから、彼女が過不足なく国王の期待に応えることが一番重要だと考えたアルミオは、急ぎ彼女の執務室へ向かった。
そこで彼が見た者は、大量の書類だけでなく、切り取られた頭部やら左手やらの標本にまみれてブツブツと独り言を言いながら書き物に集中している令嬢の姿だった。
「あなたはこれをお願いします。丁寧に、綺麗に書き写すのですよ。こちらのガラスペンを使ってください。インクが切れたら私が補充しますので。とりあえずあの机を使ってください」
部屋に入るなり、イルダがどっさりと書類を渡してきた。大量の羊皮紙は重く、ガラスペンは折れそうで扱いが怖い。
「あの……」
「口よりも手を動かしてください。お嬢様が必要と言われた書類はまだ沢山あります。書き損じなどしたら許しませんよ」
見れば、エレナも部屋の一角で黙々と資料の書き写しを続けている。いつもならこちらを睨みつけて何かを言ってきそうなものだが、そんな余裕はないらしい。
「は・や・く」
「わかりました……」
その日から三日間。アルミオはこれまで座学の授業で書いてきた量を軽く凌駕する文字数を書くことになる。
これなら剣を振っていた方がマシだと思いながら徹夜してどうにか書き上げ、ようやく部屋を出た時に見えた太陽の光は、妙に黄色く見えたという。
そうして、碌に心の準備をする余裕もないまま、アルミオはクレーリアの護衛として王都へ向かうことになった。
それだけ侯爵から感じる圧力は強かった。
しかし、アルミオには言っておきたいことがある。
「若輩者であり、まだクレーリア様のことを何か知っているとは言えません。ですが、この数日の間だけでも、クレーリア様が見ておられる世界の広さがわかりました。その一助となれるのであれば、光栄なことと存じます」
些か敬語が怪しい感じはあるが、伝えたかった内容は言えた。
ちらりと様子を窺うが、侯爵はまっすぐにアルミオを見据えたまま真顔で続きを待っているようだった。
「……多くの、そう、多くの人々がお嬢様の理念に共感し、その手助けや護衛として共にありたいと考えています。それは、私が直接彼女たちから聞いたことです」
「信頼されている、と」
「間違いなく」
「確か、助手として使っている双子と、暴斧のパメラだったな。他にもいるのか?」
「少なくとも、屋敷でお嬢様を好ましく思っていない者はいないと思います。これは護衛をする者として気を付けて見ていたことなので、間違いありません」
この侯爵邸は、貴族の私邸でありながらクレーリアの研究所であり、ベルトルドなどが出入りしていることからわかる通り、同時に警察組織の一部として利用されている。
故に平民たちが出入りし、時には死体が運び込まれることもあるのだが、屋敷の者たちが混乱や嫌悪を明確にしていることは見たことが無い。
忌避している者はいるかも知れないが。
「……領地のことは、下の者たちと娘に任せてきた。特に屋敷の中のことは。わたしは一年のほとんどを王城か王都の私邸で過ごしているからな」
侯爵の言葉には、クレーリアに対する愛情が感じられた。同時に、寂しさが見える。
「この子は特別なのだ。親の贔屓目は別にしても、どこで仕入れたかわからぬ知識を披露しては周りの大人を驚かせてきた」
ガラス製品についてもクレーリアが主導して発展させたものである、と侯爵は語った。
クレーリアの「知識」によって侯爵領は間違いなく豊かになっており、就業者が増えて経済は順調に回っている。そのうえ、侯爵家本来の仕事である「断罪」に関しても、侯爵は期待しているという。
「いくつかの貴族家が企んだ不正を潰すことができたのも、娘のおかげだ。敵は増えたが、それは今さらというものだ」
侯爵は立ち上がり、戸棚から取り出したウィスキーをグラスへと注いだ。このグラス一つでも、平民が数年働いてようやく手に入れることができるかどうかという高級品である。
「君も飲むか」
「折角のお誘いですが……」
「そうか」
クレーリアには聞かない。彼女が酒を好まないことくらいは知っているのだ。代わりに手ずから水を用意するあたりも、クレーリアに対する愛情の証だとアルミオは思った。
「ありがとう、お父様。それで、今日お帰りになられた理由を窺っても?」
水を受け取ったクレーリアが、ようやく口を開いた。
「陛下が、お前にお会いになりたいそうだ」
酒を一口呷り、侯爵は続ける。
「園遊会やダンスパーティーなどではなく、お前の話を聞きたいらしい。具体的な話は無かったが、恐らくは領地で行っている警察組織の運用について聞きたいのだろう」
「そうですか」
短い返事には、了承とも拒否とも取れない響きがあった。相も変わらず平坦である。
そんな平坦な声音のままではあるが、クレーリアはそこから早口が止まらなかった。
「では、いくつか資料をお持ちするべきでしょう。特に遺体解剖に関するデータは写しを作らねばなりませんね。必要であれば、サンプルをお持ちすることも考えておきますが、城内に遺体を持ち込むのは些か憚られますね。敷地内にどこかお部屋をお借りできれば良いのですが。もし差し支えなければ陛下の方で新鮮な遺体をご用意いただければ助かるのですが」
「待て。待て待てクレーリア。ちょっと待て」
「どうかされましたか?」
「お前がどうかしているのだ。良いか、陛下はお前の話を聞きたいと言われているのであって、お前が行う解剖を見たいというわけではない」
「百聞は一見に如かず、と申します。例えば窒息死でも水死と溢死では死後の状態には大きな違いが……」
淡々と、しかし溢れる熱量を押さえきれない様子のクレーリアから目を離し、侯爵はアルミオへと視線を向けた。
「……本当に屋敷の者たちに慕われているのか?」
「間違ったことは言われておりませんし、実際に結果も出されておられますので……」
「こういうことを言い出したときは、何かの呪いにでもかかったのかと思ったものだ」
クレーリアに少し落ち着けと言って、侯爵はグラスを置いた。
「クレーリア。お前が他の貴族家からどう思われているか、自覚しているか?」
「聞こえてくることもありますが、あまり気にしておりません」
「伴侶を探すのも大変なのだが」
「私は自分で探しますので、どうぞお父様はお気になさらず。それよりも謁見はいつのお話ですか。せめて三日はいただきたいのですが。随伴も数名必要です」
クレーリアの言う随伴は、身の回りの世話をする者たちとは別の、双子の助手たちを指しているのだろう。侯爵はそれを理解しているのか、わかったと頷いた。
「では、陛下に謁見の調整をご相談しておく。準備が出来たら帝都の屋敷に移動しなさい。……死体は持ってくるなよ?」
「仕方ありません……」
心底残念そうにするクレーリアは、準備があるのでと立ち上がると、グラスの水を一気に飲み干した。腰に手を当ててグラスを傾ける姿は、容姿とは裏腹に勇ましい。
「では、失礼します。アルミオさんはお話が終わったら執務室へ。運び出す資料の整理の手伝いをお願いします」
「かしこまりました」
立ち上がって一礼したアルミオは、侯爵に促されて再び着席した。
「君にも王都に来てもらう」
「よろしいのですか?」
「クレーリアの護衛なのだ。当然だろう。王都の土地勘がある者が護衛にいるのは好ましい。幾人か追加の護衛を付けるが、娘は大仰なことだと嫌がるのでな……」
最初は厳格な父親のもとで育ったクレーリアに同情すら覚えていたアルミオであったが、この短い時間の中でどちらかと言えば侯爵への同情が強くなりつつあった。
「予め話しておくが、娘は奇妙なことに王国の誰も知らないことを知っている。思いつくとか、発見するとかではない。知っているのだ」
「侯爵閣下の薫陶の賜かと思っておりましたが……」
アルミオの賛辞に、侯爵は苦笑で返した。
「あれは特殊だ。そう表現するほかない。……他国のある宗教では、魂は巡り巡って他の人間として生まれ変わると信じられているらしい。あるいはそれが正鵠を射たもので、娘はどこか他所の世界からの生まれ変わりなのかも知れぬ」
「そのようなことが……ですが、そう考えると納得できるのはわかります」
「若いと理解が柔軟で良いな。中央の老人連中の中には、娘を忌み子のように扱う奴までいる始末だ。事実を事実として受け止める勇気を失った連中のたわ言など無視しておいても良いのだが」
そういう連中に権力があるのが問題だと侯爵は言う。
「阿呆どもが早まったことをしでかすとも限らぬ。奉公の学生に言うのもおかしな話だが、護衛をしっかり頼む」
侯爵が頭を下げると、アルミオは慌てて椅子を降りて膝を突いた。
「どうぞ、侯爵閣下におかれましては依頼などではなく、ご命令として下知くださいますよう。男爵家の後継として、過分な期待を頂いただけでも光栄の至りでございます」
「そう言ってくれると、助かるよ。君の父上には良く伝えておこう。陛下にも君のことは話しておくよ」
その言葉はアルミオにとって最高の褒美であり、同時に強烈なプレッシャーでもあった。
国王に名前を憶えられたとなれば、卒業後の正騎士としての配置はかなり期待できる。出世競争において最高のスタートを切れるのだ。しかも侯爵からの口利きとなれば王としても無視はできないはずで、かなり確実な「推薦」を得たに等しい。
しかし同時に、何か問題が発生すればアルミオの名は国王に汚点と共に記憶されてしまう。
そうなれば、正騎士にすらなれずに田舎に戻ることになるだろう。
ヴェッダ男爵家には不名誉な評判が立ち、貴族同士の付き合いからも弾かれてしまうことになる。婚約者のニルデも離れてしまうかも知れない。
最大のチャンスであり、最大のピンチでもある。
父親のためにも、領地の民衆のためにも、理想の家庭を築くためにも、失敗は許されない。
クレーリアの手伝いをするため、と侯爵の許しを得て談話室を辞したアルミオは、一度着替えるために自室へと戻った。
制服を脱ぎ、室内での護衛に適した装備に着替えると、自分の両頬を強く叩いた。
「……泣きそう」
たった二年間、上位貴族の家で大過なく過ごすだけ。それが奉公という制度のはずだった。
ところが、アルミオの場合は「恐ろしい噂があり、それが半分以上事実である侯爵家令嬢に仕え」、「日常的に命を狙われる状況で護衛をし」、「付き添いで王城へと向かうことになり」、「何か問題が起きれば将来が閉ざされる」ことになった。
どこで何を間違えたらこうなるのか。確かに、立派な騎士として活躍するために――半分は婚約者に格好いいと思ってもらうために――小さい頃から剣の稽古に励み、訓練校でも良い成績を取れた。その結果がこれなのか。
「親父……ちょっと恨むぞ」
訓練校に行けば、貴族の仲間が作れる。横のつながりがあれば領地で問題が起きた時に助け合いができるし、中央の情報も入ってきやすい。
何より金がかからない。
そう言って騎士訓練校入りを勧めた父親。再会したら殴ってしまうかも知れない。
「覚悟を決めるしかない。とにかく、準備をしっかりしておこう」
まずクレーリアが準備を万端にしておくのが肝要ではないか。王城内で襲われる心配はないだろうから、彼女が過不足なく国王の期待に応えることが一番重要だと考えたアルミオは、急ぎ彼女の執務室へ向かった。
そこで彼が見た者は、大量の書類だけでなく、切り取られた頭部やら左手やらの標本にまみれてブツブツと独り言を言いながら書き物に集中している令嬢の姿だった。
「あなたはこれをお願いします。丁寧に、綺麗に書き写すのですよ。こちらのガラスペンを使ってください。インクが切れたら私が補充しますので。とりあえずあの机を使ってください」
部屋に入るなり、イルダがどっさりと書類を渡してきた。大量の羊皮紙は重く、ガラスペンは折れそうで扱いが怖い。
「あの……」
「口よりも手を動かしてください。お嬢様が必要と言われた書類はまだ沢山あります。書き損じなどしたら許しませんよ」
見れば、エレナも部屋の一角で黙々と資料の書き写しを続けている。いつもならこちらを睨みつけて何かを言ってきそうなものだが、そんな余裕はないらしい。
「は・や・く」
「わかりました……」
その日から三日間。アルミオはこれまで座学の授業で書いてきた量を軽く凌駕する文字数を書くことになる。
これなら剣を振っていた方がマシだと思いながら徹夜してどうにか書き上げ、ようやく部屋を出た時に見えた太陽の光は、妙に黄色く見えたという。
そうして、碌に心の準備をする余裕もないまま、アルミオはクレーリアの護衛として王都へ向かうことになった。
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