解剖令嬢

井戸 正善

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3.検視官クレーリア

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 アルミオ自身、人の死体を見るのは初めてではない。
 騎士訓練校の実習で森へ入った時に、野犬に襲われたであろう遺体を発見したことがあるし、訓練中の事故で級友を失ったこともある。
 彼らは貴族の一員ではあるが、いざ戦闘となれば平民から集められた兵たちを率いて前線へ赴く役目を担う。訓練は決して生易しいものではない。

 動物であれば狩猟を行い獲物を解体したこともあるが、人の遺体を見慣れているというわけではない。
 台の上に載せられた遺体には外傷が見当たらず、まだ十代の後半といった年齢の女性は目を閉じているだけのように見える。
 そばかすが特徴的な顔は青白く、うっすらと開いた口から見える前歯は一本だけ欠けていた。
 今まで見てきた死体のどれよりもきれいで、しかしそれだけに、今まで経験したことのない形の「死」である。

 クレーリアは遺体の前面を確認すると、助手として動いている使用人たちに手伝わせて遺体を横に傾け、背面を見ていく。
 背中に広がる死斑を見て、アルミオは改めてそれが死体であることを実感していた。
「検視は見ることから始まります。この女性は今朝、自宅で首を吊った状態で発見されました。見つけたのは彼女の恋人……婚約者だそうです」

 淡々と語る間に、クレーリアは身長を計測し、瞳や髪の色などを確認していく。
「自殺、ですか」
「そうかも知れません。ですが、違うかも知れない。それを知るために彼女を検視する必要があるのです。侯爵領では、病院以外での死亡で捜査担当者が必要と判断した場合は検視を行うことになっています」

 しかし、アルミオは首を傾げた。
 遺体の首すじにはロープの跡が残っており、それは顎の下から耳の後ろに向けて斜めに続いていた。首を吊って自殺したのは発見時の状況からも遺体の見た目からも明らかではないだろうか。
 そう考えていると、いつの間にかクレーリアの視線が自分に向いていることに気付いた。

「どう、思われますか?」
 意見を聞かれて、答えて良いものか迷ったが、アルミオは待たせることの方が問題だと考え、正直に答えた。
「首の跡を見ると、首を吊った自殺……だとしか私には考えられません」
「……あなたの一人称は“俺”でしょう。不自然な発音に聞こえますから、普段通りでかまいませんよ」

 そんなことまで調べられているのかと驚くアルミオから目を離し、クレーリアは再び遺体を横向きに寝かせると、遺体のうなじ部分を指さした。
「ここにも擦過痕があるのがわかりますか?」
 それは首をぐるりと回ったロープの跡が続いたものであり、左右から首をぐるりと一周してきたものが交差している。
「ロープの……あれ? どうして首の真後ろまで跡が付くのですか?」

 首を傾げたアルミオに、クレーリアはまた一瞬だけ笑みを見せた。
 今度ははっきりと笑顔が確認できたのだが、それが何を示しているのかわからなかった。気づいた直後には、すでに真顔に戻っていたことで、聞く機会を逃してしまった。
「そうですね。首を吊っただけであれば、ロープの跡は首の前面から側面、場合によってはやや後ろにまで跡が残ります。しかし、真後ろに来ることはまずありません」

「う……」
 小さな刃物を取り出したクレーリアが、遺体の首を背後から縦に斬り裂くと、クリップを使って皮膚を開いた状態で固定し、筋肉を鉗子で開いていく。
 突然の動きに呻き声を漏らしてしまったアルミオだが、目を逸らすことはできなかった。
「頚椎が左右からの圧迫で骨折しています。しかし、頚椎の椎間板は外れていません」
「つまり……ロープを使って首を絞められて殺されたというのですか……」

 クレーリアの笑顔が再び向けられるが、アルミオはその美しい相貌に心を奪われるような余裕などなかった。
 どうやら正解を答えることができたらしい安堵で頭がいっぱいだった。
「足場をなくして勢いよく吊り下げられたならば、頚椎は外れる可能性があります。また、左右からの圧迫で骨折する可能性は低いのです。何か強い力で首を絞められたのは間違いありません」

「自殺じゃ、ないのですね」
「彼女は結婚を控えていました。婚約者の話では特に悩みなどがあったとは聞いていないそうです。……彼女がなぜ自死を選んだのか訳が分からず、彼は嘆き悲しんでいたそうです」
 話を聞くアルミオの脳裏には、自分の婚約者ニルデの姿が浮かんでいた。もし、彼女が突然自死を選んだとしても、現実を受け入れられないだろう。

「私は、このために検視を行っています」
 記録を付けたクレーリアは、通常の手順として胸部を切り開き、呼吸器や循環器、消化器などの損傷を確認して死亡時にはこれと言った疾患は無く健康体であったと結論付けた。
 死亡直前にも食事をとっていたことを胃の内容物で確認する。
「パンとソーセージ。セロリ。いつもの食事といった感じですね」

 一通りの検視を終えたクレーリアは、助手たちに縫合を任せてエプロンと手袋を外すと、アルミオを誘って屋敷のバルコニーへと向かった。
 そこには、彼らを待っていたかのようにティーセットが用意されている。
「疲れたでしょう」
 ねぎらいと共に勧められるままにクレーリアの向いに座ると、アルミオの目の前に置かれたカップに使用人が温かい紅茶を注いでくれた。

「あの子……。亡くなった女の子は、幸福を手に入れる直前で命を落としました。事故ではなく、恐らくは他殺。殺されたのです」
「痛ましい、と思います」
 遺体の子は平民である。貴族の中には平民の生死など毛ほども気にしない者もいるが、クレーリアは真剣に彼女の人生に、その死に哀悼を捧げている。

 冷静に遺体を切り開いていた姿とは真逆の、優しく暖かな心根が感じられる印象に、アルミオは安心感と不安を同時に覚えていた。
「あの子は、王都やその他の領地であれば単なる自殺として処理されたでしょう。彼女が平民であることも理由ですが、単純に真実を探るための技術を持ち合わせていないからです」
 アルミオは同意するように頷いた。騎士も犯罪捜査に関わることがあるので、座学では少しだけ触れたことがあるのでわかる。

「私が検視しなければ……あの子の声に耳を傾けなければ、彼女を殺害した人物は探されることすらなかったのです」
 紅茶を一口だけ含み、唇を軽く湿らせたクレーリアは視線を敷地内から見える街並みへと向けていた。
「……私に関する噂も色々と耳に入っています。全くの誤解もあれば、面白おかしく脚色したものも」

 アルミオは思わず目を逸らした。自分が級友たちと話していたことを思い出す。
「いずれ、わかってもらえると思います。でも、多くの人は私を怖がっていますし、敵意を持っている者もいるのです」
「わた……俺に、お嬢様をお守りすることをお望みですか」
「あなたは騎士訓練校で飛びぬけて剣術の才に優れ、観察眼もあり思考も柔軟だと聞きました。危険ではありますが、受けていただければ嬉しいのですが……」

 選択権はアルミオにある、と言葉の上ではなっているが、実際はどうか。
「解剖を見ても問題無いようでしたし、私の理念を理解できるのではないかと思ったのです。これまで奉公の候補で来られた人は幾人かいましたが、誰も耐えられませんでしたから」
 かちり、とソーサーにカップを戻したクレーリアは、そっと立ち上がりバルコニーの向こう、夕暮れが近い町を手で示した。

「私の目的は、私の知識と技術で理不尽な悲しみに答えを示すこと。この町に、領地に、国に、正確に正義が執行される仕組みを作ることです。……あなたは奉公という形なので二年間だけではありますが、手伝ってくれませんか?」
 わからないことは沢山あった。
 クレーリアはどうしてそのような希望を抱いているのか。その知識や技術はどこから手に入れたのか。なぜ奉公人から護衛を選ぶ必要があるのか。

 だが、それを考える以上にアルミオは、クレーリアの技術と理念を目の前にして興奮が抑えられなかった。
 騎士を目指す彼にとって魅力的すぎる誘いである。戦争で戦うこととは違う、暴動を押さえることとも違う、もっと理知的で民衆の感情に寄り添う形での、民のための騎士の姿につながる目標が見えてしまっている。

 ただただ二年間、我慢して誰かの護衛や側仕えをやる羽目になると考えていた数時間前の自分が信じられないほど、アルミオはこれからの二年間で自分がどれほどの知識と経験を得られるのだろうかと期待が膨らむのを押さえられない。
 気づけば、椅子を転げ落ちるように跪いたアルミオは、誓いを述べていた。
「微力ながら、お嬢様のお力になれましたならば幸甚の至りでございます」

「……ありがとう。それでは、アルミオさん。これからよろしくお願いします」
「どうぞ、俺のことは呼び捨てで構いません」
「そう……では、アルミオ。私の執務室に案内しましょう。私は普段、そこに居ますから」
 クレーリアが自ら案内してくれるということで、アルミオはわくわくしながら後に従う。
 すれ違う使用人たち誰もがクレーリアには恭しく一礼し、アルミオには会釈する。本当に多くの使用人がいるようで、顔をおぼえるだけでも苦労しそうだ。

「さあ、ここが私の執務室です。基本的に朝八時にはここに居ますから、アルミオも同じくらいの時間には準備を済ませてここに来るようにしてください」
「かしこまりました」
 中を見ておいて、とクレーリアが鍵を開けて中に入るのを、アルミオは慌てて追いかけた。本来ならアルミオがドアを支えて然るべきなのだが、なぜかクレーリアは興奮気味にさっさと入ってしまったのだ。

「……えっ」
 中に入ったアルミオは絶句してしまった。
 一つは、部屋の広さと豪奢な照明、貴重であるはずの透明なガラスを使った瓶がずらりと並ぶ棚。この部屋だけでいったいどれだけの金が使われているのか、計算するだけでも気が遠くなりそうなことに。

 そしてもう一つ。
 件のずらりと並んだガラス瓶の中身だ。
「……こ、これは……」
「標本です。様々な症例によって亡くなった遺体から、特徴のある部分を切り取って保存液に入れて保管しているのです。貴重な資料なのですよ」

 眼球や内臓だけでなく、頭部が半分欠けた生首や、折れ曲がった手足や骨などがずらり並んでいる。
 狩りで得た剥製などとはまるで違う。ここに並んでいるのは人の死の記録であり、事実がリアルにそのまま残されているのだ。
「は、はは……。あの、護衛の場合は廊下にいるのが基本かと思うのですが」

「そうかも知れませんが、あなたには意見を求めることもあるので、私が室内にいるときは常に室内で待機をお願いします」
 逃げ損ねた。
 いくつかの標本の視線を感じながら、アルミオは思ったよりも困難な奉公人生活になりそうだと考えていた。
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