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第四話③
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保健室には誰もいなかった。
私はエリザちゃんに支えられながら、ベッドの上に座らされる。
こんなことが前にもあったのを思い出した。私が加藤さんに追いかけられて転んだ時、エリザちゃんが助けてくれた。
エリザちゃんはいつも私のことを助けてくれる。
「どこか痛いところない?」
「腕と、胸とお腹が……」
「見てみようか。上、脱がすね」
私はエリザちゃんにブレザーを脱がされる。リボンタイに手をかけられた時、思わず身構えてしまった。エリザちゃんは気にした素振りもなく、私のタイを解き、ブラウスのボタンに指をかける。私はエリザちゃんに下着姿を見られるのが、なんだか不安で恥ずかしかった。姫山さんに脱がされた時はただただ怖いだけで、エリザちゃんに裸を見られたけれど、その時は恥ずかしいとか考えている暇もなかった。
露わになった私の腕の外側には、内出血の跡が赤くシミのように広がっていた。
「骨は折れてないみたいだね。手や指にしびれるような感じはしない?」
「うん、平気……」
じんじんと痛むけれど、エリザちゃんが心配するような症状はなかった。
「お腹は?」
不意にエリザちゃんが私のキャミソールをまくった。
「え……」
「もってて」
私はエリザちゃんに裾を渡されて、自分で持った。まるで私からエリザちゃんに裸を見せるようなかたちになった。
以前、彼女に裸を見られているけれど、その時は助けられたことに安心して気にならなかった。それなのに今、彼女に見られることが不安で仕方なかった。
エリザちゃんは私の体に顔を近づける。彼女の息が肌に触れた気がして、体がビクッとした。おもむろに彼女はその冷たい指で私の胸をなぞる。
「ん……」
変な声が漏れそうになって、私は必死に堪えた。
「少し内出血しているけど、腕ほどじゃないね。少し触るよ」
エリザちゃんは手のひらを私の胸に重ねる。
いやらしい手つきではないけれど、私の体が警戒して強張るのが分かった。エリザちゃんに下心なんてあるわけがないのに。
私はお母さんやお姉ちゃんほど胸がない。そもそも膨らみもほとんどない。そんなものを触っても何も楽しくないだろう。
そう分かっているのに、なんだか緊張して、じんわりと汗がにじんでくる気がした。呼吸も早くなっていく。そのことを知られるのが恥ずかしくて、私は息をするのを我慢した。
「骨は問題なさそうだね」
エリザちゃんが手を離す。
「ほかに痛いところはない?」
「右の足首が……」
「見せて」
エリザちゃんが私の前に屈み、右足を持ち上げて、上履きと靴下を脱がした。素足にエリザちゃんの顔が近づく。彼女の頭が私の腰の高さにあって、変な気分になった。とっさにスカートを手で押さえる。
「安心して、軽い捻挫みたい」
エリザちゃんが顔をあげて微笑む。
「足首に湿布を貼るね。腕の打ち身は冷やすといいよ。用意するから待っててね」
「ありがとう……」
私はそんなエリザちゃんに、単純なことに、彼女の気持ちに応えたいと思ってしまった。
ただ私はまだ彼女のことをよく知らない。それが私を不安にさせた。
エリザちゃんは今日一日、何もなかったように、いつもどおりの彼女だった。私に優しく微笑んでくれる。
エリザちゃんが何を考えているのか、どうして私のことを好きなのか、私には彼女が分からない。
私はエリザちゃんの用意した氷枕を両腕に当てられ、ベッドに寝かされた。足首には湿布。貼られるときに、エリザちゃんの指より冷たくて少し驚いた。
「しばらくそのまま冷やしててね。冷たくなってきたら少し離して、また冷やすんだよ」
「うん……」
「私、お姉さんに連絡しておくね。迎えに来てもらう?」
「ううん、平気……」
「そう。それじゃハナちゃんの荷物は私がもっていくから、一緒に帰ろう」
重い教科書は教室に置いていってもいい気がしたが、また隠されたりしたら怖いので、エリザちゃんの言葉に甘えることにした。
「うん、ありがとう……」
「どういたしまして」
エリザちゃんがにっこりと笑う。
* * *
私はベッドでしばらく横になっていた。
ただ先生の許可をもらわず勝手に使っているので、私は落ち着かなかった。
私はエリザちゃんに言われた通り、腕が冷えすぎて痛くなってきたら離して、少ししてからまた氷枕にのせた。
エリザちゃんが教室に私の荷物をとりに行って、もう三十分は経っただろうか。
いつまで経ってもエリザちゃんは戻ってこない。保健室から教室まで、普通に歩いても二、三分ぐらいで着くと思う。私の遅い足でも五分はかからない。
エリザちゃんは私の席を知っているから、荷物をとって戻ってくるのに、十分もかからないのではないだろうか。
私の中に、さっきとは別の不安が生まれた。
加藤さんは砂村さんに私のことを伝えに行ったようだった。もしかしたら砂村さんはまだ学校に残っているのかもしれない。
エリザちゃんは三組の教室に行った。そこで砂村さんに会って、彼女の身に何かあったのではないだろうか。
砂村さんはエリザちゃんに借りがあって、それで私へのいじめはなくなったけれど。あの砂村さんが、どんな理由があるにせよ、誰かの言うことを聞くとは思えなかった。もしかしたら邪魔をしたエリザちゃんのことを憎んでいるかもしれない。
加藤さんが砂村さんに私をブタに戻すように言って、そのことで二人がもめて、エリザちゃんが砂村さんに傷つけられるかもしれない。
考えれば考えるほど、不安な気持ちが大きくなった。
私のせいで、もしも彼女がひどい目に遭ったら。そんなことがあってはならない。
私は体中が痛いけれど、怖いけれども、教室まで彼女を探しに行くことにした。
保健室は校舎の一階にあって、私たちの教室は二階にある。服がこすれたり、一歩ごとに痛みが響くけれど、私は教室に向かった。
二階に昇った時、いつの間にか雨がやんでいることに気づいた。
廊下の窓からは、ちぎれた雲と晴れた空が広がっていた。西に傾いた日差しは黄色みを帯びて、影は青かった。
廊下には誰もいない。校舎にも人の気配はなかった。一年生は十七時には完全下校で、部活動の部屋は地下や別棟の校舎にあったと思う。外の、ぬかるんだグラウンドにも誰もいなかった。今日の雨で運動部は休みか、体育館にいるのかもしれない。
妙な静けさが、私の不安を加速させた。
ようやく私のクラス、三組の教室の前に差しかかった時、前側のドアが開いていることに気づいた。話し声が聞こえてくる。
私はその声がエリザちゃんと、砂村さんだと分かった。私はとっさに息をひそめて、壁際に隠れる。
「私、もう嫌よ……こんなことするの……」
「もう少しだけ、お願い」
「だって……それなら、私でいいじゃない……?」
「ダリアちゃんはダメだよ」
「どうして……?」
「だってダリアちゃんは、私の親友だから」
二人が何の会話をしているのか分からないが、険悪な雰囲気はなかった。それよりもエリザちゃんが砂村さんのことを親友と言ったのが気になった。二人の間に何かあるのは分かっていたけれど、そんな親密なことは知らなかった。
「どうして、あの子なの……?」
「ときめいちゃったから」
「確かに、エリザの好きそうなタイプではあるけれど……」
エリザちゃんはいつもと変わらないか、それ以上になめらかにしゃべっていた。対して砂村さんの声はどこか弱気に聞こえた。
「ハナちゃんね、とっても可愛いの。小さくて弱々しくて、怯えながら、健気に生きている姿が愛しくて。こんな気持ちになったの初めて」
「だからって、こんなやり方しなくても……咲良さんや加藤さんをブタにする必要があったの……?」
「傷ついて、誰も信じられなくなって、ひとりぼっちになったハナちゃん。その彼女を私が支えて、守ってあげるの。この世界で私たち二人きりになれば、きっと彼女も私のことを好きになってくれるはず。そのためには、加藤さんが邪魔だった。だから二人が憎み合うように、ハナちゃんが加藤さんを怖がるように仕向ける必要があった」
私は全身から血の気が引いていくのを感じた。砂村さんが私をいじめていたのは、エリザちゃんが指示していたことなのか。加藤さんを生き物係にして、私たちが憎しみ合うよう仕向けたのも。
こんな話を聞いても、私が思ったことは、エリザちゃんに捨てられるのではないかということだった。
聞かなかったことにすれば、私たちの関係は変わらないはず。このまま保健室に戻って、何もなかったようにふるまえばいい。
エリザちゃんのことが怖い。あの砂村さんさえも従えて、あそこまでのことをさせた。同じ人間だとは思えなかった。
それでも、そのことを知らないふりをしていれば、きっとエリザちゃんは私にとって優しい友達のままのはず──
不意に誰かに手首を掴まれた。
「ひっ──」
突然のことに心臓が跳ね上がり、私は声が漏れてしまった。私の手首を掴んだのは姫山さんだった。いつの間にか彼女がいた。
姫山さんは無表情に私を見ていた。彼女は私の腕を引っ張り、私は抵抗する間もなく、教室の中に連れ込まれた。
私の声に気づいてか、エリザちゃんと砂村さんが私たちの方を見ていた。
「不注意。聞かれてた」
姫山さんが二人に告げる。
エリザちゃんはいつものように微笑んでいた。砂村さんは、今まで見たこともない顔をしていた。彼女は眉を寄せて、困ったような、怯えたような、私のことを憐れむような目で見ていた。
私はその二人を見て、生きた心地がしなかった。
「エリザちゃん……」
「あーあ、聞かれちゃった」
エリザちゃんの表情はいつもと変わらない。
何も聞いていない、そう言ったら、なかったことにできるのではないだろうか。そんなふうに思えた。
「ハナちゃん、私のこと嫌いになった?」
「え?」
「ダリアちゃんに、ハナちゃんをブタにするようにお願いしたのはね、私なの。孤立したハナちゃんを私が助けることで、ハナちゃんが私のことを好きになってくれると思ったんだ」
それにどう返したらいいか分からなかった。
「ハナちゃん、私のこと好き?」
「うん……」
「今でも?」
「うん……」
「私、ハナちゃんにひどいことしたんだよ。ブタにされて辛くなかった? なるべくハナちゃんが怪我する前に、私がとめる予定だったんだけどね。それまで苦しくて辛くなかった?」
ブタになった一週間は地獄のようだった。
「そんなことした私のこと、まだ好きでいてくれるの?」
「うん……」
それ以外にどう答えたらいいのだろう。もし私が嫌いだ、好きではないと言ったら、彼女は私のことをどうするだろうか。
エリザちゃんは晴れやかに笑う。
「わぁ、嬉しい。私もね、ハナちゃんのこと、大好きだよ。だからね、こんなことしたんだ」
私を孤立させて、エリザちゃん自身にすがらせる、それが彼女の望み。それが叶ったのだから、もうこれ以上、何も起こらないはず──
「それじゃ、ハナちゃん、私の恋人になってくれるよね?」
「え?」
かすかにエリザちゃんの表情が曇った。
「私のこと嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ……」
「私のこと好きなんでしょ?」
「うん……」
「それなら、問題ないよね。私の恋人になって」
どう答えたらいいのか分からなかった。どうして恋人にならなければいけないのかも。この話を聞く前の私は、彼女を受け入れることもどこか考えていた。しかしこの話を聞いたあとで、すぐに受け入れる気にはなれなかった。
エリザちゃんが私の手をとる。その冷たい感触に、私は思わず手をふりほどいてしまった。
エリザちゃんの顔から表情が消える。
「ハナちゃん、選んで。私の恋人になるか、ダリアちゃんのブタになるか」
「え?」
「だってそうでしょ。ハナちゃんはダリアちゃんのブタがいいから、私の恋人になってくれないんだよね」
「ちがう……」
「じゃあ、私の恋人になってよ」
私は勘違いしていたことに気づいた。私には選択肢なんてなかった。
エリザちゃんの恋人になることがどういうことかは分からない。砂村さんのブタになることの意味はよく分かっている。
「はい……」
「私の恋人になってくれるの?」
私はうなずいた。
それにエリザちゃんは晴れやかに顔を綻ばせた。
「やったー、嬉しい! ねぇ、ダリアちゃん、聞いた? ハナちゃん、私の恋人になってくれるって」
「よかったわね……」
「マリーちゃんも」
「おめでとう」
「本当に嬉しい」
エリザちゃんが私を抱きしめる。彼女の髪が頬に触れる。そのむず痒さよりも、階段から落ちた時の打ち身が、ずきりと痛んだ。
エリザちゃんが私の頬に両手を添える。
「これでハナちゃんは私の恋人」
彼女の顔が近づく。私は顔を逸らすことができなかった。怖くて目をつぶった。
「大好きだよ、ハナちゃん」
唇が重ねられた。弾力のある何かゴムのようなものを押しつけられたような感触だった。私にとって初めてのキスだった。
なぜか涙がこぼれた。頬を伝う感触で分かった。どうして涙がこぼれたのか分からない。
唇が離れる。私は目を開けると、エリザちゃんの琥珀色の瞳に映る、私と目が合った。
「ハナちゃん、私に証をちょうだい。恋人同士になった証を」
「やだ……怖い、やだ……」
彼女の瞳に映る、琥珀に閉じ込められた私は、怯えたような表情で、目で私を見ていた。
私はエリザちゃんに支えられながら、ベッドの上に座らされる。
こんなことが前にもあったのを思い出した。私が加藤さんに追いかけられて転んだ時、エリザちゃんが助けてくれた。
エリザちゃんはいつも私のことを助けてくれる。
「どこか痛いところない?」
「腕と、胸とお腹が……」
「見てみようか。上、脱がすね」
私はエリザちゃんにブレザーを脱がされる。リボンタイに手をかけられた時、思わず身構えてしまった。エリザちゃんは気にした素振りもなく、私のタイを解き、ブラウスのボタンに指をかける。私はエリザちゃんに下着姿を見られるのが、なんだか不安で恥ずかしかった。姫山さんに脱がされた時はただただ怖いだけで、エリザちゃんに裸を見られたけれど、その時は恥ずかしいとか考えている暇もなかった。
露わになった私の腕の外側には、内出血の跡が赤くシミのように広がっていた。
「骨は折れてないみたいだね。手や指にしびれるような感じはしない?」
「うん、平気……」
じんじんと痛むけれど、エリザちゃんが心配するような症状はなかった。
「お腹は?」
不意にエリザちゃんが私のキャミソールをまくった。
「え……」
「もってて」
私はエリザちゃんに裾を渡されて、自分で持った。まるで私からエリザちゃんに裸を見せるようなかたちになった。
以前、彼女に裸を見られているけれど、その時は助けられたことに安心して気にならなかった。それなのに今、彼女に見られることが不安で仕方なかった。
エリザちゃんは私の体に顔を近づける。彼女の息が肌に触れた気がして、体がビクッとした。おもむろに彼女はその冷たい指で私の胸をなぞる。
「ん……」
変な声が漏れそうになって、私は必死に堪えた。
「少し内出血しているけど、腕ほどじゃないね。少し触るよ」
エリザちゃんは手のひらを私の胸に重ねる。
いやらしい手つきではないけれど、私の体が警戒して強張るのが分かった。エリザちゃんに下心なんてあるわけがないのに。
私はお母さんやお姉ちゃんほど胸がない。そもそも膨らみもほとんどない。そんなものを触っても何も楽しくないだろう。
そう分かっているのに、なんだか緊張して、じんわりと汗がにじんでくる気がした。呼吸も早くなっていく。そのことを知られるのが恥ずかしくて、私は息をするのを我慢した。
「骨は問題なさそうだね」
エリザちゃんが手を離す。
「ほかに痛いところはない?」
「右の足首が……」
「見せて」
エリザちゃんが私の前に屈み、右足を持ち上げて、上履きと靴下を脱がした。素足にエリザちゃんの顔が近づく。彼女の頭が私の腰の高さにあって、変な気分になった。とっさにスカートを手で押さえる。
「安心して、軽い捻挫みたい」
エリザちゃんが顔をあげて微笑む。
「足首に湿布を貼るね。腕の打ち身は冷やすといいよ。用意するから待っててね」
「ありがとう……」
私はそんなエリザちゃんに、単純なことに、彼女の気持ちに応えたいと思ってしまった。
ただ私はまだ彼女のことをよく知らない。それが私を不安にさせた。
エリザちゃんは今日一日、何もなかったように、いつもどおりの彼女だった。私に優しく微笑んでくれる。
エリザちゃんが何を考えているのか、どうして私のことを好きなのか、私には彼女が分からない。
私はエリザちゃんの用意した氷枕を両腕に当てられ、ベッドに寝かされた。足首には湿布。貼られるときに、エリザちゃんの指より冷たくて少し驚いた。
「しばらくそのまま冷やしててね。冷たくなってきたら少し離して、また冷やすんだよ」
「うん……」
「私、お姉さんに連絡しておくね。迎えに来てもらう?」
「ううん、平気……」
「そう。それじゃハナちゃんの荷物は私がもっていくから、一緒に帰ろう」
重い教科書は教室に置いていってもいい気がしたが、また隠されたりしたら怖いので、エリザちゃんの言葉に甘えることにした。
「うん、ありがとう……」
「どういたしまして」
エリザちゃんがにっこりと笑う。
* * *
私はベッドでしばらく横になっていた。
ただ先生の許可をもらわず勝手に使っているので、私は落ち着かなかった。
私はエリザちゃんに言われた通り、腕が冷えすぎて痛くなってきたら離して、少ししてからまた氷枕にのせた。
エリザちゃんが教室に私の荷物をとりに行って、もう三十分は経っただろうか。
いつまで経ってもエリザちゃんは戻ってこない。保健室から教室まで、普通に歩いても二、三分ぐらいで着くと思う。私の遅い足でも五分はかからない。
エリザちゃんは私の席を知っているから、荷物をとって戻ってくるのに、十分もかからないのではないだろうか。
私の中に、さっきとは別の不安が生まれた。
加藤さんは砂村さんに私のことを伝えに行ったようだった。もしかしたら砂村さんはまだ学校に残っているのかもしれない。
エリザちゃんは三組の教室に行った。そこで砂村さんに会って、彼女の身に何かあったのではないだろうか。
砂村さんはエリザちゃんに借りがあって、それで私へのいじめはなくなったけれど。あの砂村さんが、どんな理由があるにせよ、誰かの言うことを聞くとは思えなかった。もしかしたら邪魔をしたエリザちゃんのことを憎んでいるかもしれない。
加藤さんが砂村さんに私をブタに戻すように言って、そのことで二人がもめて、エリザちゃんが砂村さんに傷つけられるかもしれない。
考えれば考えるほど、不安な気持ちが大きくなった。
私のせいで、もしも彼女がひどい目に遭ったら。そんなことがあってはならない。
私は体中が痛いけれど、怖いけれども、教室まで彼女を探しに行くことにした。
保健室は校舎の一階にあって、私たちの教室は二階にある。服がこすれたり、一歩ごとに痛みが響くけれど、私は教室に向かった。
二階に昇った時、いつの間にか雨がやんでいることに気づいた。
廊下の窓からは、ちぎれた雲と晴れた空が広がっていた。西に傾いた日差しは黄色みを帯びて、影は青かった。
廊下には誰もいない。校舎にも人の気配はなかった。一年生は十七時には完全下校で、部活動の部屋は地下や別棟の校舎にあったと思う。外の、ぬかるんだグラウンドにも誰もいなかった。今日の雨で運動部は休みか、体育館にいるのかもしれない。
妙な静けさが、私の不安を加速させた。
ようやく私のクラス、三組の教室の前に差しかかった時、前側のドアが開いていることに気づいた。話し声が聞こえてくる。
私はその声がエリザちゃんと、砂村さんだと分かった。私はとっさに息をひそめて、壁際に隠れる。
「私、もう嫌よ……こんなことするの……」
「もう少しだけ、お願い」
「だって……それなら、私でいいじゃない……?」
「ダリアちゃんはダメだよ」
「どうして……?」
「だってダリアちゃんは、私の親友だから」
二人が何の会話をしているのか分からないが、険悪な雰囲気はなかった。それよりもエリザちゃんが砂村さんのことを親友と言ったのが気になった。二人の間に何かあるのは分かっていたけれど、そんな親密なことは知らなかった。
「どうして、あの子なの……?」
「ときめいちゃったから」
「確かに、エリザの好きそうなタイプではあるけれど……」
エリザちゃんはいつもと変わらないか、それ以上になめらかにしゃべっていた。対して砂村さんの声はどこか弱気に聞こえた。
「ハナちゃんね、とっても可愛いの。小さくて弱々しくて、怯えながら、健気に生きている姿が愛しくて。こんな気持ちになったの初めて」
「だからって、こんなやり方しなくても……咲良さんや加藤さんをブタにする必要があったの……?」
「傷ついて、誰も信じられなくなって、ひとりぼっちになったハナちゃん。その彼女を私が支えて、守ってあげるの。この世界で私たち二人きりになれば、きっと彼女も私のことを好きになってくれるはず。そのためには、加藤さんが邪魔だった。だから二人が憎み合うように、ハナちゃんが加藤さんを怖がるように仕向ける必要があった」
私は全身から血の気が引いていくのを感じた。砂村さんが私をいじめていたのは、エリザちゃんが指示していたことなのか。加藤さんを生き物係にして、私たちが憎しみ合うよう仕向けたのも。
こんな話を聞いても、私が思ったことは、エリザちゃんに捨てられるのではないかということだった。
聞かなかったことにすれば、私たちの関係は変わらないはず。このまま保健室に戻って、何もなかったようにふるまえばいい。
エリザちゃんのことが怖い。あの砂村さんさえも従えて、あそこまでのことをさせた。同じ人間だとは思えなかった。
それでも、そのことを知らないふりをしていれば、きっとエリザちゃんは私にとって優しい友達のままのはず──
不意に誰かに手首を掴まれた。
「ひっ──」
突然のことに心臓が跳ね上がり、私は声が漏れてしまった。私の手首を掴んだのは姫山さんだった。いつの間にか彼女がいた。
姫山さんは無表情に私を見ていた。彼女は私の腕を引っ張り、私は抵抗する間もなく、教室の中に連れ込まれた。
私の声に気づいてか、エリザちゃんと砂村さんが私たちの方を見ていた。
「不注意。聞かれてた」
姫山さんが二人に告げる。
エリザちゃんはいつものように微笑んでいた。砂村さんは、今まで見たこともない顔をしていた。彼女は眉を寄せて、困ったような、怯えたような、私のことを憐れむような目で見ていた。
私はその二人を見て、生きた心地がしなかった。
「エリザちゃん……」
「あーあ、聞かれちゃった」
エリザちゃんの表情はいつもと変わらない。
何も聞いていない、そう言ったら、なかったことにできるのではないだろうか。そんなふうに思えた。
「ハナちゃん、私のこと嫌いになった?」
「え?」
「ダリアちゃんに、ハナちゃんをブタにするようにお願いしたのはね、私なの。孤立したハナちゃんを私が助けることで、ハナちゃんが私のことを好きになってくれると思ったんだ」
それにどう返したらいいか分からなかった。
「ハナちゃん、私のこと好き?」
「うん……」
「今でも?」
「うん……」
「私、ハナちゃんにひどいことしたんだよ。ブタにされて辛くなかった? なるべくハナちゃんが怪我する前に、私がとめる予定だったんだけどね。それまで苦しくて辛くなかった?」
ブタになった一週間は地獄のようだった。
「そんなことした私のこと、まだ好きでいてくれるの?」
「うん……」
それ以外にどう答えたらいいのだろう。もし私が嫌いだ、好きではないと言ったら、彼女は私のことをどうするだろうか。
エリザちゃんは晴れやかに笑う。
「わぁ、嬉しい。私もね、ハナちゃんのこと、大好きだよ。だからね、こんなことしたんだ」
私を孤立させて、エリザちゃん自身にすがらせる、それが彼女の望み。それが叶ったのだから、もうこれ以上、何も起こらないはず──
「それじゃ、ハナちゃん、私の恋人になってくれるよね?」
「え?」
かすかにエリザちゃんの表情が曇った。
「私のこと嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ……」
「私のこと好きなんでしょ?」
「うん……」
「それなら、問題ないよね。私の恋人になって」
どう答えたらいいのか分からなかった。どうして恋人にならなければいけないのかも。この話を聞く前の私は、彼女を受け入れることもどこか考えていた。しかしこの話を聞いたあとで、すぐに受け入れる気にはなれなかった。
エリザちゃんが私の手をとる。その冷たい感触に、私は思わず手をふりほどいてしまった。
エリザちゃんの顔から表情が消える。
「ハナちゃん、選んで。私の恋人になるか、ダリアちゃんのブタになるか」
「え?」
「だってそうでしょ。ハナちゃんはダリアちゃんのブタがいいから、私の恋人になってくれないんだよね」
「ちがう……」
「じゃあ、私の恋人になってよ」
私は勘違いしていたことに気づいた。私には選択肢なんてなかった。
エリザちゃんの恋人になることがどういうことかは分からない。砂村さんのブタになることの意味はよく分かっている。
「はい……」
「私の恋人になってくれるの?」
私はうなずいた。
それにエリザちゃんは晴れやかに顔を綻ばせた。
「やったー、嬉しい! ねぇ、ダリアちゃん、聞いた? ハナちゃん、私の恋人になってくれるって」
「よかったわね……」
「マリーちゃんも」
「おめでとう」
「本当に嬉しい」
エリザちゃんが私を抱きしめる。彼女の髪が頬に触れる。そのむず痒さよりも、階段から落ちた時の打ち身が、ずきりと痛んだ。
エリザちゃんが私の頬に両手を添える。
「これでハナちゃんは私の恋人」
彼女の顔が近づく。私は顔を逸らすことができなかった。怖くて目をつぶった。
「大好きだよ、ハナちゃん」
唇が重ねられた。弾力のある何かゴムのようなものを押しつけられたような感触だった。私にとって初めてのキスだった。
なぜか涙がこぼれた。頬を伝う感触で分かった。どうして涙がこぼれたのか分からない。
唇が離れる。私は目を開けると、エリザちゃんの琥珀色の瞳に映る、私と目が合った。
「ハナちゃん、私に証をちょうだい。恋人同士になった証を」
「やだ……怖い、やだ……」
彼女の瞳に映る、琥珀に閉じ込められた私は、怯えたような表情で、目で私を見ていた。
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