私を支配するあの子

葛原そしお

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第二話③

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 給食の時間になると、隣の席の子と机が向かい合うように向きを変えて、六人単位の班を作る。
 給食中は談笑する子もいれば、黙々と食べる子もいた。その中でブタの子だけは、床に置かれた給食を、四つん這いで手を使わずに食べる。それが私たち一年三組の日常風景で、今は私がそのブタだった。
 クラス担任の先生もいるが、彼女は砂村さんにリンチされてから、この光景を黙認していた。
 私の給食が準備されるまで、私は教室の後ろで正座して待つ。両手は床に接するように前に出す。両手を床にさえつけていれば、砂村さんに咎められることはない。ずっと四つん這いでいるのは体力的にきつかった。
「ほら、加藤さんがあなたのために、餌をつくってくれたわよ」
 私は声の方を振り向く。砂村さんが自席から笑いながら私を見ていた。
 配膳の列から加藤さんが、お椀を手にこちらへ向かってくる。
「はい、これ……」
 加藤さんは不快そうに、私の前にそのお椀を置いた。
 今日の給食の、ご飯もおかずもスープもデザートも牛乳も、すべて一緒に入れて、ぐちゃぐちゃに混ぜたものだった。食べたものを吐き出したような、そんな見かけをしていた。
 これがブタの餌。
 私はただじっとそれを眺めていた。
 全員の配膳が済むと、今日の日直の子が気怠そうな声で言う。
「給食の準備ができました。いただきます」
 それにほかの生徒たちも唱和する。
 食器の音、咀嚼する音、談笑する声が漏れ聞こえてきた。誰も私のことを気にかけたり、わざと馬鹿にする子もいない。誰もがこの光景に慣れていた。
「何してるの?」
「え、あ……え……」
 不意に砂村さんが私に言った。それに教室中が静まり返った。
「さっさとしろよ」
「はい!」
 こんなもの食べたくない。ただもし食べることを拒絶したら、砂村さんに何をされるか分からない。以前、二人目か三人目のブタの子が拒んだ時、ダンゴムシやミミズを食べさせられていた。
「ブタって雑食なのよ。肉や野菜も食べるの。逆に塩分や糖分の多いものは食べさせちゃダメ。つまり人間が食べるものね。きっとそれで給食を食べたくないのね。だからあなたのために、採ってきてもらったわ」
 それさえも拒めば暴力で、それらを無理矢理に食べさせられていた。
 私は土下座するような姿勢で、顔をお椀の中に近づける。
「おい!」
 突然怒鳴られ、私は驚いて砂村さんを見る。
「お礼は?」
「あ、あ……」
 砂村さんの表情が険しくなっていく。
「ありがとうございます……」
「違うだろ」
「え、え……」
「お前はブタだろ。それならブタの言葉で話せ」
 どう言えばいいのか分からなかった。私が戸惑っていると、砂村さんが苛立ったように足を揺すり始める。加藤さんが私を睨んでいた。
「ブ、ブヒブヒブヒ、ブヒブヒ……」
 それに砂村さんは大笑いした。
「このブタすごいわ、ありがとうって言えるわよ!」
 私はひどく惨めな気持ちになって、涙を堪えることができなかった。
 そのためか、鼻が詰まって、給食は味がしなかった。味が感じられなかった。
 昔、お姉ちゃんと喧嘩した時、お母さんの作ってくれたご飯の味が感じられなくなったことを思い出した。大好きなお母さんの料理なのに。次の日にはお姉ちゃんと仲直りして、いつものように味が感じられるように戻った。
 私は目をつぶって、何も考えないように、ただ餌を食べ切ることだけに集中した。
 手を使わずに、四つん這いになって、上体を倒して食べるのは大変だった。下アゴを使って、舌も使って、すくいとるようにして食べる。膝も痛い。体を支える両腕が疲れて震えてくる。
 残飯のような餌は、冷たいような温いような、お粥のような食感だった。
 ようやく食べきって、体を起こした。少しでも楽な姿勢になりたかった。
 それに砂村さんが気づいた。
「生き物係ぃ、ブタがお代わりだって」
「え……」
 私は唖然とした。
 加藤さんが無言で私の前のお椀をとり、再び私の餌を準備する。
 私はもう泣く気力もなかった。
「吐くなよ。反芻するのは牛や羊。ブタは反芻しないから。それでも吐いたら、そのゲロ、全部食わせるから」
 私の前にまた餌が用意された。

   *  *  *

 放課後になると、砂村さんはさっさと教室を出て行った。
 その際に加藤さんが声をかけられていた。
「生き物係。話があるから、一緒に帰りましょう」
「はい……」
 背中に手を回され、加藤さんはうつむいて、砂村さんに連れていかれた。砂村さんはもう加藤さんのことを名前で呼ばなくなった。
 私はそれに安堵した。少なくとも今日はもうおわったのだ。
 砂村さんと加藤さんがいなくなって、私は緊張感が解けたせいか、涙がこぼれてきた。いくつもの水滴が頬を伝っていくのを感じた。私は気づくと嗚咽を漏らしていた。そう自覚した時、なぜか私自身のことなのに、心と体が別にあるようで、ひとごとのように感じられた。
 顔を覆って泣いた。この世界から、私を隠してしまいたかった。
 誰一人、そんな私に声をかけてくれる子はいなかった。
 もしかしたら私は本当にいなくなっていたのかもしれない。そうでなくとも、誰も私に声をかけないことは分かっていたけれど。
 ようやく涙が尽きた頃には、教室には私しかいなかった。
 教室の照明はいつの間にか消されていて、日直の子が消して帰ったのかもしれない。
 教室には、西日が斜めの影を落として、少し黄色みを帯びた光が差し込んでいた。
 窓の方を向くと、二階から見える景色、木々の梢が見えた。梢は風に揺れていた。微かにこすれる音が窓越しに聞こえる。カサカサと、ザワザワと。
 私はもう、歩き方さえも忘れたような気になって、ただぼうっとそれを見ていた。
 どれだけの時間そうしていたのか。
「咲良さん、どうしたの?」
 不意に名前を呼ばれて、私は驚いて振り向いた。
 教室の前のドアから、羽鳥さんが心配そうに私を見ていた。
「何かあったの?」
 羽鳥さんが教室に入ってくる。彼女の波打つ黒髪が揺れた。たぶん足早に私の方へ駆け寄ってきてくれたのだろう。しかし私には彼女がスローモーションに見えて、まるで水の中を渡ってくるように思えた。
「羽鳥さん……」
 助けて。そう口にしそうになってしまった。
 彼女に助けを求めて、何が解決するだろうか。砂村さんの怒りを買い、余計にひどい目に遭うことが容易に想像できた。それに羽鳥さんを巻き込んでしまうかもしれない。そもそもクラスの違う彼女に助けを求めることも、意味がないように思えた。
 羽鳥さんの手が、私の肩に触れた。その瞬間、枯れたと思っていた涙が再び溢れた。その私を羽鳥さんは抱きしめてくれた。
「つらいことがあったんだね」
 私は涙で彼女の制服を汚してしまうことが申し訳なかった。それでも今だけは、彼女に甘えることを許してほしかった。
 彼女に包まれて、私は何もかも投げ出したい、私をこのままずっと隠していてほしい、そんなことを願ってしまった。
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