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第一話②
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私は羽鳥さんと親しくなれて嬉しかった。
今まで私は、学校で話す相手は加藤さんしかいなかった。その加藤さんには、私とは違って、当然ほかにも友達がいる。そして私は加藤さんの友達の中でも、特に彼女と親しいわけでもなかった。
中学生になって初めて、加藤さん以外の話し相手ができて、私は少しだけ前向きな気持ちで学校に行くことができた。
私は学校に行くのが嫌だった。それは友達がいないからではない。
私のクラスにはいじめがある。
砂村大麗花──砂村さんはクラスの女王様で、同じ小学校出身の生徒を何人か、取り巻きに従えていた。私は彼女とは、小学校の学区が違ったので、中学で初めて出会った。
彼女に口答えしたり、機嫌を損ねた子は、徹底的に攻撃された。無視をしたり、物を隠したり、そんな生易しいものじゃない。殴ったり蹴ったり、刃物で切られる。それは教師も対象だった。彼女を注意した教師はその日のうちにリンチされ、足の爪をすべて剥がされたらしい。
そして彼女は常に誰か一人をターゲットにしている。そのターゲットの子は『ブタ』と呼ばれ、今は三人目だった。
加藤さんが、砂村さんと同じ小学校だった子から聞いた話によると、親が暴力団とか、気に食わない子を自殺に追い込んだなど、怖い噂があった。
教室に入ると、まだ砂村さんの姿はなかった。私は少し気が楽になった。彼女がいるだけで場の空気が重たくなる。
教室には加藤さんが先にいて、窓際で、ほかの友達とお喋りしていた。
私は目が合ったので軽くお辞儀した。加藤さんは私に気づいて、笑顔で手を振ってくれる。
私は廊下側から二列目の、一番後ろの席。私はこの席で本当によかったと思うと同時に、出席番号順に並ぶ時が本当に嫌だった。背の順で前の方になったのは救われた気分だった。
私が席に着くと、加藤さんがこちらに向かってくるところだった。
「咲良さん、おはよう」
「あ、おはよう……」
「数学の宿題やった?」
「うん……でも、わからないところあって……」
「見せて!」
加藤さんは私が数学が、ほかの科目も苦手なことを知っている。休み時間や空き時間に、よく私の勉強を見てくれた。
「ほら、この問題、間違っているよ」
7ー(ー6)=1
「え、え……」
「7引く6は1だけど、7からマイナス6を引けば、7足す6と同じことになるんだよ」
「あ、うん……」
「だからこの答えは──」
7ー(ー6)=13
「これが正解」
中学生で最初に習った正負の数さえ、私はまったくわかっていなかった。
加藤さんは勉強ができる。それなのに私のことを馬鹿にしたりしないで、優しく教えてくれた。
「もうすぐ中間テストだからね。一緒に頑張ろう」
「うん……」
加藤さんは私の隣に屈んで、私の教科書やノートを開き、重要な部分に印や注釈をつけてくれる。
そんな彼女を見ていたら、小学生の時のことを思い出してしまった。
加藤さんには、ほかに普通の友達がたくさんいて、どうして私なんかに構ってくれるのか、聞いてしまったことがある。それに加藤さんは笑顔で「だって私たち友達じゃん」、そう言ってくれたのが本当に嬉しかった。
* * *
予鈴が鳴った。
「あ、そろそろ席に戻らないと」
加藤さんが自席に戻る。出席番号順の席で、加藤さんは私と同じ列の先頭だった。彼女ができるだけ、明るくふるまっていることに私は気づいていた。彼女の席の隣は──
不意に教室のドアが開く。教室の中が静まり返った。誰もが動きを止めた。呼吸さえも。
砂村さんだった。左右の髪を耳の上より高いところで結んで、後ろ髪はそのまま垂らしている。顔立ちは整っていて、目尻の高いアーモンド型の目と、寄せたような眉根に、意志の強そうなきつい印象を受ける。ただ彼女を知らない人が見たら、可愛らしい少女に見えるかもしれない。初めて彼女を見た時、私も可愛い女の子がいると思った。
砂村さんは取り巻きを三、四人引き連れて、教室の中に入ってくる。
教室の中に、押し潰されるような沈黙が降りた。彼女と取り巻き以外、すべての人の呼吸さえも止まったように思えた。
それに砂村さんは気づいてか、不機嫌そうに教室内を見回す。
「ブタがいないじゃない」
その一言に、取り巻きさえも顔を引きつらせた。一人を除いて。
その取り巻きの一人、姫山さんは無表情のまま、一言も発さない。
姫山鞠依──最初の『ブタ』が彼女だった。姫山さんがなぜブタにされたのかは知らないが、砂村さんに逆らったり、機嫌を損ねた子はブタにされる。今は三人目。次のブタが決まると前のブタは解放される。
ブタになった子がどんな目に遭うか。ブタは砂村さんの前で、二足で歩くことは許されない。四つん這いで歩き、毎朝砂村さんの上履きにキスをするのが日課だった。そしてそれはまだ序の口。
三人目のブタの子は、まだ登校していないらしい。このまま彼女が登校してこなければ、砂村さんは次のブタを選ぶかもしれない。
私は砂村さんに睨まれるようなことはしていないはず。そもそも砂村さんとは一度も話したことがない。出席番号が前後だけど──きっと砂村さんは私なんて知らないはず。何度もそう自分に言い聞かせた。
キリキリとお腹が痛んだ。
なるべく考えないように、私はうつむいて、開いたノートの文字列に視線を移す。数学の教科書から書き写した公式と、加藤さんが書いてくれたアドバイスがあった。それに集中しようとすると、文字や数字の列が浮かび上がって、どこかに泳いでいってしまうような錯覚がした。内容が少しも頭に入ってこない。
「ブタは?」
砂村さんが誰かに問いかけた。私に声をかけたわけではないのに、私はもう文字を読むことができなかった。
砂村さんに、うわずって震えた、知っている声が答えた。
「知らない、です……」
加藤さんの声だとすぐに分かった。
加藤さんの席は砂村さんの隣だった。
私は思わず顔を上げる。
砂村さんは加藤さんの前に立ち、彼女を見下ろしていた。
「あなた、今なんて言ったの?」
加藤さんの後ろ姿が震えていた。
「え? あ、あ……本当に、私、知らない……」
「私は、ブタは? って聞いたの。それであなたは、私に知らないって答えたわけ?」
「は、はい……」
「私の質問に、知らないって答えたわけね」
「え、え?」
それ以外にどう答えたらいいのか。加藤さんはもともと、今のブタの子と接点はない。知らなくて当然なのに、砂村さんはそれが気に食わないようだった。
本鈴が鳴った。砂村さんは何も言わず、自分の席に座る。五分もない、ほんの二、三分ぐらいのことだった。それなのに何時間も経ったような気がした。
私はこの時、安堵している自分がいることに気づいた。
私じゃない。加藤さんが砂村さんに目をつけられた。
そう思った自分に、目眩がしそうなほどの、ひどい嫌悪感を覚えた。
小学生の頃から、友達のいない私に、友達のように接してくれた加藤さんに対して、私は思ってはいけないことを思ってしまった。
今まで私は、学校で話す相手は加藤さんしかいなかった。その加藤さんには、私とは違って、当然ほかにも友達がいる。そして私は加藤さんの友達の中でも、特に彼女と親しいわけでもなかった。
中学生になって初めて、加藤さん以外の話し相手ができて、私は少しだけ前向きな気持ちで学校に行くことができた。
私は学校に行くのが嫌だった。それは友達がいないからではない。
私のクラスにはいじめがある。
砂村大麗花──砂村さんはクラスの女王様で、同じ小学校出身の生徒を何人か、取り巻きに従えていた。私は彼女とは、小学校の学区が違ったので、中学で初めて出会った。
彼女に口答えしたり、機嫌を損ねた子は、徹底的に攻撃された。無視をしたり、物を隠したり、そんな生易しいものじゃない。殴ったり蹴ったり、刃物で切られる。それは教師も対象だった。彼女を注意した教師はその日のうちにリンチされ、足の爪をすべて剥がされたらしい。
そして彼女は常に誰か一人をターゲットにしている。そのターゲットの子は『ブタ』と呼ばれ、今は三人目だった。
加藤さんが、砂村さんと同じ小学校だった子から聞いた話によると、親が暴力団とか、気に食わない子を自殺に追い込んだなど、怖い噂があった。
教室に入ると、まだ砂村さんの姿はなかった。私は少し気が楽になった。彼女がいるだけで場の空気が重たくなる。
教室には加藤さんが先にいて、窓際で、ほかの友達とお喋りしていた。
私は目が合ったので軽くお辞儀した。加藤さんは私に気づいて、笑顔で手を振ってくれる。
私は廊下側から二列目の、一番後ろの席。私はこの席で本当によかったと思うと同時に、出席番号順に並ぶ時が本当に嫌だった。背の順で前の方になったのは救われた気分だった。
私が席に着くと、加藤さんがこちらに向かってくるところだった。
「咲良さん、おはよう」
「あ、おはよう……」
「数学の宿題やった?」
「うん……でも、わからないところあって……」
「見せて!」
加藤さんは私が数学が、ほかの科目も苦手なことを知っている。休み時間や空き時間に、よく私の勉強を見てくれた。
「ほら、この問題、間違っているよ」
7ー(ー6)=1
「え、え……」
「7引く6は1だけど、7からマイナス6を引けば、7足す6と同じことになるんだよ」
「あ、うん……」
「だからこの答えは──」
7ー(ー6)=13
「これが正解」
中学生で最初に習った正負の数さえ、私はまったくわかっていなかった。
加藤さんは勉強ができる。それなのに私のことを馬鹿にしたりしないで、優しく教えてくれた。
「もうすぐ中間テストだからね。一緒に頑張ろう」
「うん……」
加藤さんは私の隣に屈んで、私の教科書やノートを開き、重要な部分に印や注釈をつけてくれる。
そんな彼女を見ていたら、小学生の時のことを思い出してしまった。
加藤さんには、ほかに普通の友達がたくさんいて、どうして私なんかに構ってくれるのか、聞いてしまったことがある。それに加藤さんは笑顔で「だって私たち友達じゃん」、そう言ってくれたのが本当に嬉しかった。
* * *
予鈴が鳴った。
「あ、そろそろ席に戻らないと」
加藤さんが自席に戻る。出席番号順の席で、加藤さんは私と同じ列の先頭だった。彼女ができるだけ、明るくふるまっていることに私は気づいていた。彼女の席の隣は──
不意に教室のドアが開く。教室の中が静まり返った。誰もが動きを止めた。呼吸さえも。
砂村さんだった。左右の髪を耳の上より高いところで結んで、後ろ髪はそのまま垂らしている。顔立ちは整っていて、目尻の高いアーモンド型の目と、寄せたような眉根に、意志の強そうなきつい印象を受ける。ただ彼女を知らない人が見たら、可愛らしい少女に見えるかもしれない。初めて彼女を見た時、私も可愛い女の子がいると思った。
砂村さんは取り巻きを三、四人引き連れて、教室の中に入ってくる。
教室の中に、押し潰されるような沈黙が降りた。彼女と取り巻き以外、すべての人の呼吸さえも止まったように思えた。
それに砂村さんは気づいてか、不機嫌そうに教室内を見回す。
「ブタがいないじゃない」
その一言に、取り巻きさえも顔を引きつらせた。一人を除いて。
その取り巻きの一人、姫山さんは無表情のまま、一言も発さない。
姫山鞠依──最初の『ブタ』が彼女だった。姫山さんがなぜブタにされたのかは知らないが、砂村さんに逆らったり、機嫌を損ねた子はブタにされる。今は三人目。次のブタが決まると前のブタは解放される。
ブタになった子がどんな目に遭うか。ブタは砂村さんの前で、二足で歩くことは許されない。四つん這いで歩き、毎朝砂村さんの上履きにキスをするのが日課だった。そしてそれはまだ序の口。
三人目のブタの子は、まだ登校していないらしい。このまま彼女が登校してこなければ、砂村さんは次のブタを選ぶかもしれない。
私は砂村さんに睨まれるようなことはしていないはず。そもそも砂村さんとは一度も話したことがない。出席番号が前後だけど──きっと砂村さんは私なんて知らないはず。何度もそう自分に言い聞かせた。
キリキリとお腹が痛んだ。
なるべく考えないように、私はうつむいて、開いたノートの文字列に視線を移す。数学の教科書から書き写した公式と、加藤さんが書いてくれたアドバイスがあった。それに集中しようとすると、文字や数字の列が浮かび上がって、どこかに泳いでいってしまうような錯覚がした。内容が少しも頭に入ってこない。
「ブタは?」
砂村さんが誰かに問いかけた。私に声をかけたわけではないのに、私はもう文字を読むことができなかった。
砂村さんに、うわずって震えた、知っている声が答えた。
「知らない、です……」
加藤さんの声だとすぐに分かった。
加藤さんの席は砂村さんの隣だった。
私は思わず顔を上げる。
砂村さんは加藤さんの前に立ち、彼女を見下ろしていた。
「あなた、今なんて言ったの?」
加藤さんの後ろ姿が震えていた。
「え? あ、あ……本当に、私、知らない……」
「私は、ブタは? って聞いたの。それであなたは、私に知らないって答えたわけ?」
「は、はい……」
「私の質問に、知らないって答えたわけね」
「え、え?」
それ以外にどう答えたらいいのか。加藤さんはもともと、今のブタの子と接点はない。知らなくて当然なのに、砂村さんはそれが気に食わないようだった。
本鈴が鳴った。砂村さんは何も言わず、自分の席に座る。五分もない、ほんの二、三分ぐらいのことだった。それなのに何時間も経ったような気がした。
私はこの時、安堵している自分がいることに気づいた。
私じゃない。加藤さんが砂村さんに目をつけられた。
そう思った自分に、目眩がしそうなほどの、ひどい嫌悪感を覚えた。
小学生の頃から、友達のいない私に、友達のように接してくれた加藤さんに対して、私は思ってはいけないことを思ってしまった。
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