春の残骸

葛原そしお

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第二章

第十一話

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 イスカと約束の日。
 私とイスカは駅前で待ち合わせをした。音瑠も一緒に来たがったが、キスをして黙らせた。
 この怪物と引き合わせたのは音瑠だが、この怪物がいなければ私は末期ガンで死んでいた。音瑠のことを恨めしくは思うが、恨んではいない。
「今日は来てくれてありがとう」
「約束、忘れないでよ」
「うん。もちろん」
 イスカとの約束。二度と私たちに干渉しないこと。そして小夜子のことを解決すること。
 後者については、どの程度イスカのことを信用していいか疑問だった。できれば自分で解決したかったが、結局、小夜子や杏奈のことは、あれ以上何も分からなかった。
「頼んだものは用意してくれた?」
「もう知ってるんでしょ?」
「うん、ありがとう」
 イスカに頼まれたもの。
『自分で撮った写真を百枚以上、できれば思い入れのある写真がいいな。スマートフォンにデータで保存しておいて。当日使うから』
 そう言われても、小夜子との思い出のないこの世界では、ろくに思い入れのある写真はなかった。仕方がないので、音瑠の作った料理と、音瑠自身の写真を何枚か撮って枚数を水増しした。
 私がカメラを向けると、音瑠ははにかみながらピースサインをした。裸に剥いてやろうかと思ったが、イスカに見られるかもしれないのでやめた。
 しかしそんなものを用意させて、何に使うのだろうか。
「それで、今日は私に何をさせるの? また死ねばいいの?」
「そうだね」
 イスカはいつものあの微笑を浮かべて平然と言った。
「だけど今回は、未来にいってみようか」
「未来に?」
 私としてはもう一度、過去に戻って、小夜子の失踪の真相を探りたかった。過去に戻ったとしても、何かを変えたり、事態を好転させられるとも思えなかったが。
「どうやって?」
 前回、過去に戻る際は、当時抱いた感情が座標となった。未来にはどうやって行くのか。
「過去に戻るのと同じ要領だよ。未来のある時点で抱いた、強い感情や感覚が座標になる」
「いや、そもそも未来のことなんて知らないし、分かりようがなくない?」
「南帆ちゃんならできるはずだよ。その感覚を南帆ちゃんはよく知っているから」
「意味が分からない」
 私はこれ以上イスカの相手をするのが面倒になった。

 私たちは広大なキャンパスの中の、ある研究室に向かっていた。その研究室のある棟の前に着いたのは午前十一時。
「研究室にはIDがないと入れないから、ちょっと待ってね」
 ちょうどそこから一人の女性が現れた。
 背の高い、目を奪われるほどの美女だった。長い黒髪に、透き通るような白い肌。手足はすらりと長い。私より二十センチは背が高そうなのに、私の顔より小顔なのではないだろうか。白衣の胸ポケットに、おそらく眼鏡の、黒縁の耳にかける部分がのぞいていた。
 顎の細い形の整った輪郭に、切れ長の目は奥二重で、烏羽玉のような深く黒い瞳をしていた。細い鼻に、朱色の唇は、下唇に少し厚みがあった。
 すぐに彼女が待ち合わせをしている相手だと分かったのは、彼女に向かってイスカが手を振ったからではなく、今この瞬間に現れたからだ。
「ニジカちゃん、おはよー」
「ああ」
 ニジカと呼ばれた美女は冷たく返す。
 やはり彼女だった。彼女は私たちの前に立つ。
 次に彼女はその切れ長の目、烏羽玉のように黒い瞳を私に向ける。
「そちらが、今日のモニターの方?」
「はい」
 私は彼女の視線に射すくめられて、思わず声が上擦りそうになった。
「そう、南帆ちゃん。彼女は特定の条件下で、私と同じように時間を移動できるの」
 そんなことをいきなり言われて、私まで頭がおかしいと思われたらたまらない。ただ否定するわけにもいかず、気恥ずかしかった。
 しかしニジカは気にした様子もなく、態度を変えず、淡々としていた。
「アサバニジカです。よろしく」
「蛍野です。よろしくお願いします」
 アサバニジカは名刺を取り出す。私はそれを受け取った。
 名刺を見て、彼女の名前は「浅羽虹架」と書くことが分かった。隣に「分子脳科学研究所・研究員」とあった。
「虹架ちゃんは大学院の博士課程で、学生なんだよ。たぶん南帆ちゃんと同い年だと思う」
「そうなんだ。どんなことを研究しているんですか?」
「ヒトの脳神経系や代謝における量子効果、意識の生理基盤などについて研究している」
 イスカと同じぐらい言っていることが分からなかった。ただイスカが煙に巻くような、ペテン師のような言動なのに対し、虹架には理知的な雰囲気があった。この対極にあるような二人の間に交流があるのが意外に思えた。
 イスカが親しげに虹架の肩を叩く。
「虹架ちゃんの実家はね、大学や研究室に多額の出資をしているの。だから好き放題、設備や機材を使うことができるんだ」
 どうしてこんなところに連れてこられたのか分かってきた。
 イスカは私で人体実験をするつもりなのだろう。
「私の頭を切り開いて、脳みそでも取り出すつもり?」
「そうだね。南帆ちゃんの脳をスライスして、断面図をとるよ」
 私はぞっとした。
 虹架は呆れた様子で言う。
「電磁波によって脳の活動を、非侵襲的に調べるだけだ。外科的な侵襲行為は一切ない」
「冗談だよ」
 イスカの冗談は笑えない。過去も未来も好きに変えられる彼女の倫理観は壊れている。
「それじゃ研究室に行こう。今日のスケジュールを確認しようか」
「ああ。詳細も含めて打ち合わせしよう」
 並んで歩く虹架とイスカの後ろに私はついていった。

   *  *  *

 私たちは虹架の案内で研究室に入る。
 研究室にはデスクや作業台以外に、冷蔵庫のようなものがあった。デスク上にはパソコンや顕微鏡があり、薬品類の並んだ棚もあった。
「適当にかけてくれ」
 虹架はパソコンの前の椅子を回転させ、私たちの方を向くように座る。イスカがキャスター付きの椅子を引いて座った。私もそれに倣う。
「今日はフウカちゃんはいないんだ」
「君は危険だ。今日は来ないように伝えてある」
「そう、残念。会いたかったな」
 すっかりイスカは虹架にも警戒されているようだった。
 ただイスカは虹架に対して気安い様子で、当の虹架は音瑠のようにイスカを心酔している様子はない。
「改めて。浅羽虹架だ。脳科学を研究している。そのテーマの一つに、人の知覚、因果関係に反する、未来予知の検証がある。人に未来を予知する知覚があるのか、その場合、脳のどの領域が影響しているかの研究をしている。今回はその実験に協力していただけるとのことで感謝する」
「蛍野南帆です。イスカに脅されて来ました」
 虹架はイスカを軽く睨む。イスカは気にした様子もなく微笑んでいた。
「南帆ちゃんはね、私の用意した薬で、過去に戻ることに成功したんだ」
「そうか」
「実際に過去で、彼女と会うことにも成功したんだよ。証拠見る? 私と南帆ちゃんが知り合ったのはつい最近なんだけど、五年前の過去で、彼女と連絡先を交換して友達になったの。その証拠に連絡を取り合った記録があるよ」
 こんな話を聞かされて、普通の人なら正気を疑うだろう。そもそも五年前から連絡を取り合っていた記録があるからといって、何の証明になるのだろうか。イスカの穴だらけの論理を聞いていると、こちらが恥ずかしくなってきた。
 それに対して虹架は表情を変えず、淡々としていた。
「それで彼女に予知実験を受けてもらい、君との比較データを収集するのが目的というわけか」
「そういうこと」
 私は虹架の様子に違和感を覚えた。彼女にイスカを疑っている感じがない。
「浅羽さんはイスカの話を信じているの?」
「ああ」
 意外な返事だった。
「長い付き合いだからね。虹架ちゃんが高校生の頃からだから、この時点だと、もう十年ぐらいになる?」
「九年だ」
「そうだっけ? ちょうど私が家出した頃に出会ったんだよね」
「君が家出したのはその一年前だろう」
「そうだったっけ?」
 イスカは家出していたのか。私は彼女に関心がなさすぎて、生い立ちも何も知らなかった。
「二人が長い付き合いなのは分かったけど、浅羽さんはどうしてイスカのことを信じているの? 正直、胡散臭いと思うけど」
「私は何度も、実験で彼女の能力を検証し、実際に未来を予知する知覚が備わっているものと確信している」
 イスカが私に向き直る。
「虹架ちゃんはね、本当は過去に戻る研究をしているの。未来を知ることと、過去を変えることは同じことだから。虹架ちゃんにはどうしても変えたい過去があるの」
 一瞬、虹架の顔に不快そうな表情が過った。私としても個人の事情を、こんな形で聞くのは本意ではない。
 イスカは気づいた様子もなく続ける。単に気にしていないだけかもしれない。
「私たちはね、時間移動の仕組みを研究しているの。虹架ちゃんは私の脳を研究して、時間移動を再現することが目的。私はそれをさらに拡張して、誰でも時間を移動できるようにするのが目的。それはなぜか、南帆ちゃんにはもう教えたよね」
「じゃあ自分の脳みそで実験すればいいじゃない」
「私の場合は、オンオフを切り替えた状態が曖昧だから。だから普通の脳の状態から、時間移動している状態の比較データが欲しいの。それに南帆ちゃんの平常時の脳の状態と、普通の人の脳を比較することで、何がどう違うかも分かるはず」
「それでもう一回、私は死ねばいいわけだ」
 イスカは相変わらずあの微笑を浮かべていた。
「そう。今回の実験は『アラベスク』使用前後の脳の状態を比較して、時間移動に関係する脳の領域を特定すること。そしてその領域に作用する有効成分、化学物質の特定。被験者は南帆ちゃん」
「私はこの実験に賛同できない」
 不意に虹架が反対を表明する。彼女の語気は微かに厳しかった。
「どうして? 虹架ちゃんの研究も大きく前進するよ」
 イスカは不思議そうだった。
「被験者が死ぬことを前提としたものを、研究者として認めることはできない」
「私がなかったことにするから平気だよ。誰かが死んだ事実はなくなる。この世界は断絶するけど、実験の記憶は私が保持するから安心して。それかあなたも直接ここに来たら?」
「再現実験は一定の蓄積ができている。私の未来での研究が完成すれば、その必要はない」
「でもそれじゃ結局、あなたの目的は達成できない。これが必要なことだということは分かっているはず。特別な機材や技術を用いずに、時間を移動することができれば、誰もが不幸を避けて、幸せに生きられる世界が実現できる。その世界では誰も予期せぬ災害や、不慮の事故や事件で死ぬことはない。みんな寿命まで生きることができるようになるんだよ。この意味があなたには分かるよね?」
 虹架は逡巡しているようだった。
 二人の問答は別にどうでもよかった。私は二人をよそに、心も体も凍てついていくのが分かった。
「私はイスカが約束を守ってくれればそれでいい。さっさと済ませよう」
 この日を選んだということは、イスカは私が実験を受ける未来を知っていたはず。それならばこのやりとりは何の意味ももたない。私がこの後、死ぬことが決まっている。そう思うと、死の瞬間の感覚が蘇ってきた。
 早く終わらせて、帰って音瑠を抱きたかった。

   *  *  *

 私は検査着に着替える。金属類、といっても私はアクセサリーなどはつけていないが、スマートフォンや財布などをロッカーにしまう。
 私の隣でイスカも着替えていた。彼女は荷物と上着をしまい、白衣を着るだけだったが。
「緊張する?」
 イスカが心配しているとも、からかっているともとれる調子で言った。
「別に」
 実験室に入ると、見覚えのある装置があった。
 立てかけれた円筒形の機械に、そこから延びる検査台。MRIの装置だ。円筒形は強力な磁場を発生させるコイルだったと思う。ただそれは私の知っているものよりも奥行きがなかった。カットする前のバウムクーヘンと、カットした後のバウムクーヘンぐらい違う。
 MRIはガンの検査で、何度か経験したことがあった。検査の後、モニターに映し出された私の断面を見ながら、医者に余命を宣告された瞬間は、地面が割れて底なしの暗闇に落ちていくような感覚とともに思い出せた。
 この短いバウムクーヘン、fMRIは頭部の検査だけらしい。だから余計な奥行きがないのだろう。またあの狭い空間に押し込められると思うと、それだけで憂鬱だったが、頭だけなら気が楽だった。
「fMRI、被験者の脳に電磁波を当て、断層画像を取得する。それにより神経細胞の代謝、血流の変化から、脳の活動状態を知ることができる。およそ三十分ほどの検査になる」
 私は虹架に案内されて検査台に寝る。頭の位置に、頭部を囲うように、ヘッドギアのようなものがあった。そこに私は頭を入れる。
 その私の前に、虹架がモニターを設置する。
「君が提供してくれた写真と、こちらで用意した画像をランダムに表示していく。その際に、君の脳の活動を記録し、特定領域における変化を調べる」
 私の写真はこれに使うために用意させたようだ。
「もしも未来を予知できるのなら、その画像が表示されるよりも先に、脳の特定領域が変化するの。どこだっけ? 大脳皮質とか、記憶に関わる部分だったかな。とにかくその脳の活動の変化で、未来を予知しているか検証するのが、この実験の目的だよ。私はもう百回ぐらいやったかな」
「十八回だ」
「そう」
 虹架はこの実験をイスカ以外にも行っているのだろうか。もしそうなら、ほかにも時間移動できる人物を知っているかもしれない。
「イスカ以外にもそんなことができる人はいるの?」
「乙女桜イスカ以外に、今のところ有意な数値を示した被験者はいない」
「私の『アラベスク』で時間移動に成功したのは南帆ちゃんが初めて。どんな結果が出るか楽しみ」
「外部からのコントロールでも、理論上は再現可能だ」
 虹架の口ぶりから、イスカが薬物を使って私に時間移動させたように、虹架も第三者を時間移動させることができるのだろうか。
 それなら赤星杏奈は、イスカではなく虹架によって過去に戻り、過去を変えたのか。
「赤星杏奈を知っている?」
「赤星杏奈?」
 イスカは赤星杏奈を知らないと言った。赤星杏奈はイスカの『アラベスク』以外の方法で過去に戻っている可能性がある。
 虹架の表情と声音は、なぜその名前が出たのか、怪訝そうな反応だった。
「私、彼女と知り合いなの」
 私は試しに嘘をついてみた。それに一度は会って連絡先を交換しているのだから、知らないわけではない。
「そうか。赤星杏奈とは高校時代の同級生だ」
 私はパズルがうまく組み上がったような、目当てのピースを見つけたような、高揚した気分になった。
「最近会った?」
「いや」
 私が杏奈と小夜子に会った日、その足で杏奈が虹架に会いに行った可能性を考えたが。どうやらそうではないらしい。虹架が私を信用しておらず、本当のことを話していないだけかもしれないが。
 あるいは虹架に会ったという過去も変えたのか。その場合、過去を変えたという事実ごとなくなり、過去は変わらないような気がするが、そのパラドックスはどうなっているのだろうか。考えただけで頭痛がする。
 もしかしたら赤星杏奈は、それこそイスカと同様、薬物や道具に頼らず、過去に戻ることができるのかもしれない。
「彼女もイスカのように過去に戻れることを知っている?」
「そのはずはない。彼女には実験に協力してもらっているが、乙女桜イスカのように時間を移動する能力はない」
 とにかく虹架が杏奈と知り合いだということが分かった。
「小夜子は?」
 そこでふと思って、すぐに考えを改めたが、小夜子自身が過去に戻れる可能性はないだろうか。しかしそれなら事故をなかったことにすればいい。手足を失ったままでいるとは思えない。
「西塚小夜子は、一度だけ会ったことがある。十年前、赤星杏奈の友人で、実験に協力してもらった。その一度だけだ。君は西塚小夜子とも知り合いなのか?」
「大学の同期で、それで赤星杏奈のことも知った」
「西塚小夜子、彼女は元気にしているのか?」
「え?」
 虹架が小夜子を気にかけたのも意外だったが、彼女が行方不明になっていることを知らないのか。
「赤星杏奈から聞いてないの?」
「特に何も」
「小夜子は五年前に失踪して行方不明になっているんだよ」
「え?」
 虹架が怪訝そうな顔をした。
「それは──」
 どういうことだ、と聞こうとしたのだろう。
 虹架は思い直した様子だった。
「いや、実験室の利用時間が決まっている。測定が終わった後、詳しく話を聞かせてくれないか?」
「いいけど」
 虹架が小夜子に対して関心を示したのが意外だった。
「私たちは隣のモニタールームにいるから。もし何かあったら手元のブザーを押して知らせてね」
 イスカが気遣うのがおかしかった。このあと私を殺すくせに。
 イスカと虹架が実験室を後にする。私は検査台で頭部を固定され、顔を向けることができなかったので、気配と音だけで察した。
 検査台が上昇し、頭部が円筒形の中に入っていく。
 そして岩石が打ち砕かれ、それをすり潰すような轟音が鳴る。装置が起動したのだ。コイルに電気が流れることで、いろいろ何かが起きてそういう音がするらしい。
 そのうちモニターに画像が表示される。
 見知らぬ風景だった。南国の写真か、青空に椰子の木。
 次に私の撮った写真が映った。大学生の時、小夜子と行った美術館の写真。その時の私の中にあった感情が込み上げてきた。
 そこからは淡々と、一定の間隔で画像が表示されていった。

 二十分ほどして、モニターが暗転し、コイルの轟音がやむ。検査台が降りた。
 虹架が入室してくる。私は体を起こす。
「少し休憩をしよう。申し訳ないが、なるべく影響を排除したいので、水でいいだろうか?」
「ありがとう」
 私たちはモニター室に移動する。
 モニター室は実験室の隣にあり、窓から中の様子が見えるようになっていた。
 イスカは六面もあるディスプレイに表示された、私の断面を真面目な顔で見ていた。
「何か分かった?」
「うーん、全然分かんない」
 珍しく真面目な顔をしていたから、医者か研究者のような知見があるのかと思ったが拍子抜けだった。
「もし予知的感覚が働くとしたら、画像が表示されるよりも先に、大脳皮質において信号の逆流が起こるはずだが、それはなかった」
「普通の脳みそってこと?」
「ただ側頭頭頂接合部の活動が、一般の人よりもわずかに活発だった。ここは側頭葉と頭頂葉の交わる領域で、認知機能に関わり、左脳側では言語処理にも関係している。ここの機能が損なわれると、健忘症やアルツハイマー病、統合失調症を引き起こす。また自己や他者の区別、精神的な自分の身体のイメージ、心の機能にも関与している」
「そこが活発だとどう違うの?」
「起きながら夢を見ている状態といえるかもしれない」
「ふーん」
 話を聞いてもよく分からなかった。
「掛けてくれ」
「ありがとう」
 私は虹架が引いてくれた椅子に座った。そして水を入れたグラスを差し出されたので受け取った。私は一口飲んで喉を潤す。
「それで小夜子のことは、杏奈からなんて聞いているの?」
「つい先月、ふと気になって尋ねてみた。その際に赤星杏奈は、もうずっと会っていないので、今どうしているかは知らないと答えた」
 それはおかしい。あの二人は一緒に暮らしているか、密接な関係のはずだ。
 さすがに小夜子ママや英美香に話すのは気が引けたが、小夜子とは一度会っただけの虹架には、多少の事情を話しても構わないだろう。
「私は四日前、偶然、小夜子と再会したんだけど、五年前に事故に遭って彼女は手足を失っていた。その彼女と一緒にいて、車椅子を押していたのが赤星杏奈だった。そしてその時、彼女と連絡先を交換したんだけど、翌日になると連絡先が消えていた。だから私は彼女が過去に戻れると思ったの」
 虹架は私への視線を切って、何か考えている様子だった。
「心当たりがあるの?」
「いや。彼女には、薬物や外部補助なしに、時間移動をすることができるか、能力の開発実験に協力してもらっている。しかしその際に、有意な結果は得られなかった」
「そう……」
「ただ彼女の脳には、松果体に嚢胞があったが、これは珍しいものではない。ありふれたもので、無症候。良性で手術の必要はない。それに時間移動に関する脳の領域とは別の場所にある」
 虹架はなおも考え込んでいる様子だった。
「南帆ちゃん、次はこれを飲んで」
 不意にイスカがあの錠剤を私の前に差し出す。それに私は息を呑んだ。
 次はイスカの用意した『アラベスク』を使用する。それはもう一度、私が死ぬことを意味していた。
 目的を達成した後、イスカが私を蘇生してくれる保証はない。
 寒気がした。やはり音瑠にも来てもらえばよかった。

   *  *  *

 再び私は実験室の検査台に乗る。
 脈拍が速くなっているのが分かった。熱っぽく、頭もぼんやりしてくる。
 私は抗議の目をイスカに向けた。
「思ったんだけど、過去や未来に移動できるのなら、どうしてすでにそれが起きた時点に移動しないの? わざわざこうして付き添わなくても、未来ではすでに起きたことになっているんでしょ?」
 わざわざ私が死ぬほどの思い、死の恐怖にさらされる必要があるのだろうか。イスカは私が死ぬのを見て楽しんでいるのではないだろうかと思った。
「誰かの行動に干渉し、未来を誘導しても、本来の歴史の引力の方が強いの。実際に私自身が観測することによって、改変した歴史を時間軸に定着させることができるんだ」
 そういうものか、と思って引き下がるしかなかった。
「それでどうやって未来に移動するの?」
「南帆ちゃん、自分が死んだ瞬間を覚えている?」
「二回も死んでるからよく覚えている」
「それなら、未来で死ぬ瞬間を思い出してみようか」
「は?」
「未来で死ぬ瞬間、その感覚を思い出してみて。それが座標になるから」
 イスカの話では、私は未来で殺される。その日に移動しろと言っているのだ。
「どうやって死ぬのか分かれば、その運命を回避できるかも。そうすれば音瑠ちゃんを悲しませずに済むよ」
 音瑠のことなんて──そう反発しかけて、事実、今の私は彼女を悲しませたくない気持ちがあった。
「私はどうやって死ぬの?」
「さあ」
 イスカの無責任な返しに私は苛立った。
「一週間後、南帆ちゃんの実家に、南帆ちゃんの首だけが届くよ。その四日前に南帆ちゃんは行方不明になる。死因は不明。首の切断面に生活反応がないことから、死んだ後に切断されたみたい」
「なにそれ……」
 私の恐怖などよそに、イスカは続ける。
「安心して。過去で死んだ場合は、その先の未来がなくなるから本当に死んでしまうけど。未来で死んだ場合、もとの時間に戻るだけだから、気にしなくて平気だよ。あと、未来の記憶は定着しにくいから、起きたらすぐに書いた方がいいよ」
 そう言って、いつの間にか用意した鉛筆とメモ帳を渡してくる。
「南帆ちゃんが死んだのを確認したら、過去で睡眠薬にすり替えておくから。安心して」
 何を安心しろというのだろうか。
 検査台は再びバウムクーヘンの中へ。
 少しして、またコイルが軋み出す。あの轟音だ。さっきよりうるさく感じたが、音もどこか違うように思えた。岩石の砕けるような音だったものが、耳の奥で反響しているような、雷雲が大気を震わすような音に聞こえた。
 そのうち淡々と画像が映し出されていく。見覚えのない、どこか海外の遺跡。砂漠に赤煉瓦で積み上げた、台形のピラミッドのような姿をしていた。あれは中東の、イラク周辺にある古代メソポタミアの遺跡だったろうか。次にはどこかの針葉樹の森が映し出された。それを見ても特に何も感じない。
 気づくと頭が割れるように痛かった。頭の中で毛細血管が膨張して、破裂を繰り返しているような感覚だった。
 目のピントも合わなくなる。光が滲んで、ぼやけて見えた。
 そのうち重力が増して、全身が押し潰されるような、圧迫感を覚えた。
 押し潰された私は、その重圧から、私の輪郭が流出していく錯覚を抱いた。
 私という存在が拡散し消滅していく感覚。
 痛みも、重力も、私の輪郭も薄らいでいく。
 白い光に包まれていく。いや、白い光へと分解されていくのか。
 前よりも死の感覚に、死そのものに近づいている気がした。
 穏やかなぬるま湯に浸かっているような感覚。それに身を任せれば気持ちよくなれるのに、それに身を任せてはいけないという直感がせめぎ合った。
 死にたくない──今更そんなことを思った。私は小夜子のことを想った。次に音瑠を想って、私の節操のなさに自己嫌悪した。

   ◆  ◆  ◆

 私は痛みで目を覚ました。
 頬を叩かれたようだった。痛みでそう理解した。
「起きて」
 誰かの声がした。もう一回頬を叩かれる。首がもげるかと思った。
「いたい、やめて……」
 喉がガラガラで、うまく声が出なかった。
 目を開くと、ぼんやりとした白い輪郭が見えた。その輪郭に目を凝らすと、白いランジェリー姿の女性だと分かった。
「おはよう、南帆ちゃん」
 そう声を発した彼女は、滑らかな輪郭に、細い鼻、薄い唇。二重の大きな瞳に私を映していた。ブラウンの髪は編み込んで、後ろにまとめてあるようだった。
「赤星杏奈……」
 なぜ彼女が目の前にいて、下着姿なのだろうか。
 白いランジェリーはレースで透けて、露わになっている肌は艶やかで扇情的だった。余計に不可解なのは、その足に黒いレインブーツ、手には光沢のある手袋をしていることだった。
 その杏奈と向かい合う形で、私は窓のない部屋にいた。空気が薄いような、重いような違和感から、どこかの地下室にいるのかもしれない。
 異様な状況に、私は現状を理解できなかった。さっきまで私は虹架の実験に付き合っていた。その実験の最中、未来に行ったはず。私が殺される日に。
 それならこの日が、今この状況が、私が殺される瞬間ということか。
 私は彼女から距離を取ろうとした。しかし腕が持ち上がらない。立ち上がることもできない。そこで私は全裸で、手足を拘束され、椅子に座らされていることに気づいた。
 私の両腕は椅子の後ろで、手首を重ねるように縛られている。両足首と両膝も縛られ、腰を椅子に縛り付けられているようだった。
「なにこれ……」
 全身の肌が粟立つのを感じた。急いで逃げないと。
 そう思って拘束を解こうとしたが、何度手足を動かしても、縄が緩む気配はなかった。麻縄というやつだろうか。むしろ動けば動くほど食い込んで痛かった。
「こうして二人っきりで話すのは初めてだよね」
 杏奈が近くのテーブルの上から、何かを手にする。革の鞘を被せられたそれは、少し曲がった形の柄があった。杏奈は手袋をした手で柄を握り、革の鞘からそれを抜くと、分厚い、鈍い銀色の刃が姿を現した。ナイフだ。そんなものをどうするつもりなのか、私は知っていた。それで私の首を切り落とすのだ。
 全身の血の気が引く。体がすくんだ。それなのに私は逃げることもできなかった。
 分かりきっていたことだが、杏奈は私を殺す気だ。
 杏奈は艶やかに、イスカとは違う、妖しげな微笑みを浮かべていた。
 ナイフを手にした杏奈が私に歩み寄ってくる。私は逃れようとしても、もがいて、椅子を軋ませることしかできなかった。
 どうしてこんなことになったのだろうか。私がこの未来に着く前、私の身に何が起きたのか。この状況を脱出する役に立つとは思えないが、私は直前に起きたことを思い出す。
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