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第二章
第七話
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私は音瑠とともに、イスカとの待ち合わせの場所に向かった。
音瑠のアトリエの最寄駅から電車一本で行ける場所だった。電車だけなら一時間ほどで着く。
午後三時頃、車内は下校の学生で多少混んでいた。
私は音瑠と隣り合って座る羽目になった。そうでなくとも離れて座るのは不自然だから、どのみち一緒に座っていただろうが。
私は端の席をとり、音瑠から逃れるように、仕切り板に身を預けた。
私は今日あたり洗濯しようと思っていたいつものジャージで、音瑠はネイビーブルーのワンピースに、白に近いベージュのカーディガンを羽織っていた。
私は隣の音瑠の横顔に、軽く視線を向けて尋ねる。
「あの人って何者なの?」
「イスカちゃんのこと?」
「そう」
「イスカちゃんは十年前ぐらいから、シスシスで占い師として活動してて、ファンのシスターもいっぱいいるんだよ。すごい人気があって、本当ならなかなか会えないの。それに占いだけじゃなく、まるで心でも読んでるみたいに、こっちの悩みに的確なアドバイスをしてくれるんだ」
シスシスは女性同士のマッチングサイトの略称だった。音瑠は有名人と知り合いなことを自慢するかのような調子だった。
「いくらぐらいなの?」
「ん?」
「一回占ってもらうのに」
「私は十万円ぐらいかな」
「えぇ……」
軽い気持ちで聞いた私は、思わず引いてしまった。それに音瑠が慌てた様子で補足してくる。
「あ、私が気持ちで払っているだけだから! シスターによって払える金額が違うから、一万円の人もいるし、一回で百万円ぐらい払っている人もいるみたいだよ」
「いや、えぇ……」
何の補足にもならないどころか、余計に引いてしまった。
「それにイスカちゃんはたくさん払うシスターとばかり会うわけじゃなくて、本当に必要な人にはタダでも会うよ」
「そんなん何とでも言えるし、実際は分からないじゃん……」
イスカのコミュニティがどういうものか分からないが、私には理解できない世界のようだった。
「なんか買わされたりしないの? というか今日行っても大丈夫なの?」
「そんな変なもの買わされたりしないよ」
そう音瑠がおかしそうに笑った。
「あのお茶は? あれもイスカに買わされたんじゃないの?」
「あれはイスカちゃんが体にいいからって勧めてくれて、フリマサイトで買ったやつだよ。サイトを通さないで定期で購入すると安くなるから、私は直接買っているけど」
それもイスカが意図的に利益誘導しているように思えた。これ以上詳細を聞くことが怖くなってきたので、話題を変えることにした。
私は常々、占い師に対して思っていることがあった。
「未来を占えるなら、人から金を巻き上げないで、自分で宝クジでも買って当てればいいのに」
「それはダメなんだって」
「どうして?」
「未来はあらかじめ決まってるんだって。未来の出来事も、その先の時点から見ると過去になって、私たちが今と思っている時間も未来から見ると過去になるから、私たちの意識は過去の堆積をなぞっているだけなんだって。だから大きく運命を変えると、その分の整合性を世界全体でとるから、それだけ大きな反動があるらしいんだ。だから宝クジの当たりだけ買うとか、大きく運命が変わることをすると、最悪の場合、その人が死んでしまった方が運命の誤差が少ないから、死んでしまうかもしれないんだって」
もっともらしい理由づけだ。と思った。
「音瑠は信じているの? イスカのこと」
「うん。イスカちゃんのおかげで、こうして南帆ちゃんと一緒にいられるし」
「は? どういうこと?」
「イスカちゃんにね、南帆ちゃんに素直な気持ちを伝えて、どんなことがあっても一生懸命お手伝いをすれば、一緒にいられるってアドバイスをしてもらったの」
私はそれに何か言おうとして、上手く言葉にできず呑み込んだ。
そんな誰でもできるような、当然なアドバイスをありがたがってる音瑠も音瑠だが、まんまとイスカの思い通りになっている自分自身に怒りを覚えた。この忌まわしい音瑠が私につきまとうのは、イスカの差し金ということか。そしてその通りになっている私自身がひどく滑稽に思えた。
「それでイスカは、未来のことをどうやって知るの?」
「イスカちゃんの話だと、未来を見て知って、過去や現在に戻っているだけ、って言ってた」
確かにそんなことを言っていた。
「音瑠はその話を信じるの?」
「うん。そうとしか思えないから。それにイスカちゃんが言ってたんだけど、人それぞれ今いる時間は違ってて、今見ている、話している相手は、もしかしたら過去かもしれないし未来かもしれないんだって。なんとなく分かるけど、不思議な感じだよね」
「たとえば私が今話している音瑠は、音瑠にとって過去かもしれないってこと?」
「うん。だけどイスカちゃんの話だと、普通の人は重力の影響を受けるから、基本的には地球が宇宙にある位置が今になるんだって」
「それじゃ私と音瑠の今は同じ今ってこと?」
「えっと、厳密には、人が知覚できるのは5分の1秒程度の連続で、それも脳が知覚するまでにラグがあるから、私たちが認識できるのはすでに起きたことなんだって。だから厳密には過去になるらしいよ」
分かるような分からない話だった。話は分かるのだが、すとんと落ちてくるような実感がなく、手放しに理解できるものではなかった。
「まあいいや」
「うまく説明できなくてごめんね。イスカちゃんならもっと分かりやすく教えてくれるから、聞いてみて」
別に私は彼女がどうやって未来のことを知るのか、どうやって占いをするのか興味はない。私が彼女に聞きたいことは、そんなことではなかった。
* * *
私たちは駅前で待ち合わせをしていた。
約束の時間まで、まだ少しあった。
「少し早く着いたね。ちょっと散歩する?」
「そうだね」
初めて来る場所は周辺に何があるのか気になった。
それに駅前は道が狭く、居酒屋や焼肉屋が並んでいて、人通りがあり、長居するには不向きな場所だった。どこかに座って休める場所があればいいのだが。
駅から少し歩くと、堤防下を流れる河川があった。川沿いには街路樹があり、西日に葉がきらきらと光っていた。川辺には欄干があり、その柵の間から緑色の川面が見えた。
音瑠は寄り添うように私の隣を歩く。不快に思ったが、突き放すのも面倒で、好きにさせておいた。少し冷たい夕方の風が吹いたと思うと、音瑠がカーディガンを私の肩にかけてきた。
「少し風があるから。体、冷やさないようにね」
お前はお母さんか、と思ったが、私は返事も何もしなかった。
私たちは欄干の前に立ち、淀んだ川面を眺める。
「前にイスカちゃんとほかのシスターの人たちとお花見したことがあるんだけど、春になると川沿いに桜並木が一斉に咲いて綺麗なんだよ」
「ふーん」
今は緑の葉をきらきらと光らせる街路樹は桜だったようだ。
「こんにちは」
不意に声をかけられた。
声は川沿いの欄干にもたれた女性から発せられた。
音瑠は驚いて振り返る。私は驚くよりも寒気がした。
「あ、イスカちゃん! あれ、待ち合わせって駅前じゃなかった?」
「うん、そうだよ。ただ音瑠ちゃんたちが先に着くと思ったから、そしたらここにいるかなって」
「さすがイスカちゃん!」
二人は楽しげに談笑していた。私はその二人から少し距離を取る。
その私をイスカが見て微笑んだ。その顔は西日を受けて、黄金色に光り、ハレーションを起こしてぼやけて見えた。
「南帆ちゃんも、会えて嬉しいよ」
「どうも……」
乙女桜イスカ。今日は髪を解き、黒いゆったりとしたワンピースを着ていた。腰には紐のような帯をつけている。その腰から下、スカート部分には桜のような花柄が刺繍されていた。ただ桜にしては花弁の先が丸いので、別の花かもしれない。あるいは簡略化した図案か。以前、着ていたガウンの家紋のような刺繍に似ていた。
そこまでつぶさに見たのは、彼女は和風のものや和柄を好む傾向があり、それらをどこで買っているのか少し興味があったからだ。もしかしたら自前で仕立てているのかもしれない。
「それじゃ行きましょう。近くに喫茶店があるの」
「楽しみ!」
私たちは川沿いの道を行く。イスカと音瑠が隣り合って歩くのに、私はついて行った。
ただこのままついて行くのも癪だと思った。
「焼肉」
「え?」
音瑠が振り返る。
「焼肉がいい」
それに音瑠は困った顔をした。
「私はいいけど……」
イスカのことを気にかけているようだった。
それに私は苛立ちを覚えた。私が焼肉がいいと言っているのだから、イスカは関係ないだろう、そんなことを思ってしまった。
イスカは気にした様子もなく微笑む。あの微笑みだ。作り物のような笑顔。人喰いの怪物の微笑。
「私もいいよ」
「駅前にあったよね?」
今私たちが歩いて向かっている方向とは反対側だった。
「だけどまだ開くまで一時間ぐらいあるから、それまで喫茶店で時間を潰しましょう。この辺、駅前にしかないから。ちょっと歩いてもいいなら、他にもあるけど」
「南帆ちゃん、どうする? あんまり駅から遠いと、帰り大変かも」
「分かった……まずは喫茶店でいい……」
私は仕方なく承諾した。
川沿いには、何軒か店が連なっていた。町中華か定食屋か、居酒屋か分からない店と、スナック風の店、閉店したのか看板のない店、その並びの端にイスカ指定の喫茶店はあった。
喫茶店というよりもバーのような雰囲気の店だった。少し手狭な店内で、壁際のテーブル席に座る。私と音瑠の並びに、イスカが向き合う形だった。
「何飲む? 私、カフェインが苦手でね、レモネードにしようかな」
イスカは喫茶店に誘っておいて、コーヒーでも紅茶でもないものを注文する。
音瑠もそれを真似る。
「今日は暖かかったからね。私も少し汗ばんだから、同じのにしようかな」
「私も──」
と言おうとして、彼女たちと同じものを注文するのも癪だった。
音瑠が横からメニューを覗き込む・
「南帆ちゃん、体冷やすとよくないから、温かいのにしたら?」
「そうする。ホットココアで」
注文が済んだところで、私はイスカに聞く。
「それで、私に何か用があったんじゃないの?」
イスカは微笑む。
「そう、南帆ちゃんにね。私がというよりも、南帆ちゃんが私に用があるんじゃないかな、って思って」
イスカの声は不思議な響きがあった。耳に心地よく、甘いような、いつまでも聞いていたいと思える声だった。この声は警戒しなければならない。食虫植物が獲物を誘う匂いと同じだ。
「それも得意の占いで分かったわけ?」
「うーん。そういうことでいいよ」
私がイスカに対して抱く違和感。彼女は私たちの行動を先回りしている気がする。彼女の言う通り、彼女は少し先の未来にいるのだろうか。
私はすでにイスカが、千里眼や未来予知のようなことができる、あるいはそれに類似した何か超能力のようなものを備えていると信じ始めていた。あるいは期待していた。
本当はただ異常に勘が鋭かったり、洞察力に優れているだけの人かもしれない。
とにかく今は怪しげな占い師だろうが、手相占いやおみくじにさえ縋りたいほど手詰まりだ。
「まあいいや。あんたに聞きたいことがあるんだよね」
イスカの得体の知れない力が本物である前提で、こちらの知りたい情報を引き出す。その情報が正しいかどうかは後から検証すればいい。
ただイスカとの対話は、心理的に優位に立たれ、精神的に支配される懸念があった。それが彼女の目的で、信者を増やす手段かもしれない。
言葉選びは慎重に、簡潔に、つけ込む隙を与えてはいけない。そう気を引き締めた。
イスカは相変わらず、何の感情もうかがえない微笑を浮かべていた。
「いいよ。その前に、一つだけ警告させて。その二人には近づかない方がいいよ。あなたが殺されてしまうから」
「は?」
私はあれほど警戒していたのに、一瞬で揺さぶられてしまった。
「二人って、誰のこと?」
まだ私は誰の話もしていない。それなのに二人と人数を言い当ててきた。確かに私は小夜子とアンナ、二人のことを聞こうと思っていた。
当てずっぽうに言っている可能性もあるが、私を動揺させるのに十分だった。
「私はまだその二人のことは知らないけど、南帆ちゃんはその二人を知っているから、このままだとどちらかに、あるいは二人に殺されてしまうかもしれない」
「どういうこと?」
「私に分かるのは南帆ちゃんが、その二人の手がかりを探していること。そして殺されてしまうこと。もしかしたらその二人は関係ないかもしれないけど、他に殺されるような心当たりがあるのなら気をつけて」
「ないけど……」
そもそも小夜子が、あるいはアンナが私を殺す理由が分からない。ただアンナの冷たい目を思い出すと、あの瞳には私に向けられた殺意と憎悪がこもっていた。アンナが私を殺すというのは、妙に説得力があった。
私はそんなに恨まれるようなことを、見ず知らずの彼女にしたのだろうか。
そして二人のことを妄想や幻覚だと思っていた私に対し、話す前から二人について何か知っているイスカの口ぶりは、私が彼女たちに会ったことを肯定されているように感じられた。
いや、まだ小夜子とアンナのことと決まったわけではない。
「私が誰について、何について聞くのか分かっているんだ」
「うん。それはもう答えたことだから」
「なら、教えてよ。私の知りたいこと」
「それは簡単だけど、こうして私が干渉した以上、これから起こる出来事は誤差程度には変動してしまうから、ちゃんとあなたの口から聞いた事実を残したいわ」
どうしてもイスカの口から、本来彼女が知り得ない情報として、二人の名前を引き出したかった。しかし彼女はそのことを避けたい様子だった。
このまま押し問答をしても埒があかない。今は彼女に備わっている、何か超能力のようなものを検証するのが目的ではない。
私は一つ目の質問をすることにした。
「あんたみたいに、あったことをなかったことにしたり、あるいは別の結果に変えることができる人は、他にもいるの?」
「二人知っているけど、一人はまだ」
意図は測りかねたが、一人ないしは二人いるということか。
「その中に、アンナという名前の人はいる?」
「その中にはいないよ。ただ私が知らないだけで、他に生まれている可能性があるから。ただもしかしたらニジカちゃんが知っているかも。聞いてみるね。でも彼女は意外と口が堅いからな」
イスカが認識していないだけで、他にも同じことができる人がいる可能性があることが分かった。そして今上がった人物は、イスカの協力者か何かだろうか。
「言っておくけど、南帆ちゃんもその候補の一人だからね」
「は?」
そこでレモネードが二つ、ホットココアが一つ届く。
こんな話をしているのを、他の人に聞かれたくないので私は黙った。
店員が去ったのを見計らって、私は次の質問をする。
「ある人が今どこにいるか、その人の過去に何があったか、あなたは占うことができる?」
「ある意味ではできるけど、ある意味ではできない。私がやってるのは、正確には占いではないことは、前回話したよね? 私は過去と未来、今とは違う別の時間にいて、未来で知ったことを話してるだけ」
「その人の未来を見て、今教えてもらうことはできる?」
「私が得られる情報は万能じゃないの。未来の私が知り得ること、全時間の私を通して知り得ることしか、私は知ることができない」
「じゃあ、分からないってことか」
「だからね、未来の時点で私と南帆ちゃんが会って、そこでそれまでに起きた出来事を教えてくれていたら、その情報を持ち帰ることができるんだけど。少なくとも未来の南帆ちゃんは、そのアンナさんと小夜子さんの情報を、私には教えてくれていないから分からない」
私はぞっとした。まだ小夜子の名前は伏せていたはずだ。私は音瑠を横目で見る。私たちの会話に入れず、居心地悪そうにストローでレモネードを飲んでいた。音瑠は私の口から、小夜子の名前を聞いて知っていたかもしれない。それを彼女が裏でイスカに教えたのか、あるいは家の中に盗聴器が仕掛けられているのかもしれない。それか本当に未来の私との会話で、イスカは小夜子の名前を知ったというのだろうか。
「結局、その二人のことを調べている途中で南帆ちゃんが殺されちゃうから、その二人が南帆ちゃんの死に関係していると私は思ったの。だから気をつけてね」
「いや、待って。なんで小夜子の名前を知ってるの? やっぱり盗聴してたの?」
「ああ、いつも失敗しちゃうんだよね。そうなるから知らないふりしたかったんだけど。どうも記憶がごちゃごちゃになって、つい先のことまで話しちゃうんだよね」
イスカは照れたように笑った。
彼女はこのキャラクターを崩さないので、問いただすだけ時間の無駄だ。このまま話を進めるしかない。
「その小夜子のことを、知る方法はある?」
「その小夜子さんとはどんな関係なの?」
「別に。ただの友達」
この世界ではただの友達なのだから嘘ではない。
「そう。それで、南帆ちゃんはどんなことが知りたいの? ──ああ、ごめん。過去に戻って、あなたが直接本人に聞くのはどうかな?」
「は?」
「小夜子さんの、失踪した理由を知りたいんでしょ? 私が過去に戻って、その人に接触しても信頼されていないから教えてもらえないだろうし、かといって過去の南帆ちゃんに接触しても、まだ私のことを知らないわけだから同じことだと思うの」
失踪したことまで彼女は知っていた。私と入谷先生の通話を盗聴されていたか、本当に未来のことを知っているのか。
「だからね。南帆ちゃん自身が過去に戻って、その小夜子さんに聞いてみたら? 彼女が何に悩んでいたのか。なぜ失踪したのか。直接彼女にその理由を聞いてみたら?」
「さっきから何を言っているの?」
「たとえば南帆ちゃんが彼女と会った最後の日、もしくは何か心当たりのある日に戻って、直接彼女に聞いてみたらどうかな、って」
「そんなこと、できるわけ──」
否定しようとしたが、イスカは何か方法を知っているのか。
私にもそんなことができると彼女は言っている。
「どうやったら、そんなことできるの?」
「私と同じ体質、状態になることで、できるはず。誰でもできるわけじゃないけど、南帆ちゃんにはその可能性がある。どう、試してみる?」
イスカをどこまで信用していいか分からない。彼女が何かの宗教団体を運営しているかは知らないが、これが勧誘の手段なのかもしれない。
「私は私と同じことができる人、可能性のある人を探していたの。その候補の一人が南帆ちゃん、あなたよ」
「どうしてそんなことをしているの? 何が目的?」
「世界の滅亡を阻止するため」
「は?」
「そんなことよりも、小夜子さんの失踪の理由を知りたいなら、私が手助けしてあげる。その前に私の質問にも答えて。アンナさんというのはどんな人なの? この前は聞き忘れちゃったから」
「誰かは分からない。すごい美人。小夜子が前に言っていた恋人かもしれない。事故で手足を失った小夜子の介護をしていた。連絡先を交換したんだけど、今日になったら消えてた」
「それで私のように、過去を変えることができると思ったんだね」
「まあ。完全に信じたわけじゃないけど」
「続きは私の家で話そうか。ここから近いんだ」
イスカはいつの間にかレモネードを飲み終えていた。私のココアはすっかり冷め切っていた。音瑠が手持ち無沙汰にストローで底の氷を揺らしていた。
私はイスカがレモネードを飲んでいた姿を見た覚えがない。しかし同時に飲んでもいたような気がした。彼女が病院に来た時と、アンナの連絡先が消えた時と同じ、奇妙な感覚がした。
「どうする?」
「どうって……」
完全にイスカのペースに乗せられている。この流れは危険に思えた。
「小夜子さんのことが知りたいんでしょ? 彼女に何があったか」
「分かった……行く……」
「よかった」
イスカが微笑み、席を立つ。
「あ、焼肉はどうするの? 食べてからにする?」
「いや、いい……」
私はもともとお腹が空いていたわけではないが、食べようと思えば食べられる程度に小腹は空いていた。しかしその気もすっかり失せてしまった。
* * *
イスカの家は駅の反対側にあるらしい。
イスカが先頭で、その後ろを私たちがついて行く。
向かう途中、高架をくぐり、そのまま沿って歩く。高架下には書店や雑貨屋があった。また高架の向かいには、二階建てのアパートが連なって、紫色を微かに帯びた夕闇の中、暖色光が漏れていた。
私は少し遅れ気味に歩く、横の音瑠を見る。
「音瑠は行ったことあるの?」
「え?」
考え込んでいるような、気が塞いでいるような様子に、思わず声をかけてしまった。それに音瑠が瞳を輝かせて私を見る。
私はもう興味がなかった上に、口に出したくなかったのだが、仕方なく続ける。
「イスカ、さんの家……」
彼女に敬称をつけるのに抵抗があったが、呼び捨てにするほど親しくもない。
「私も初めて。どんなところに住んでいるのかな」
敬愛しているかどうかは分からないが、心酔しているイスカの家に招かれたのだから、もっと嬉しそうにしてもいいものだが。音瑠の表情は夕闇の中で沈んで見えた。
私はイスカの背中を見る。私自身が過去に戻って、小夜子から事情を聞き出すことを提案されたが、意味が分からなかった。
そもそも過去に戻るとはどういうことなのか。イスカ自身は時間を移動していることを主張していて、そう考えれば辻褄の合う言動もある。
しかしその時間の移動というものが、どういうものか分からない。彼女は目の前にいながら、過去に干渉したり、その時点では知り得ないことを口にした。
それらに合理的な説明をつけたり、トリックを探すことは可能だが、いったんは信じることにした。今重要なことはイスカの能力の真偽ではなく、小夜子の情報を得ることだ。その方法がたとえ荒唐無稽な、不条理で不合理なものだとしても。
不意にイスカが振り返る。
「南帆ちゃんも、記憶が二つあるんだよね」
「どうしてそう思うの?」
そのことをイスカや音瑠に、誰にも話した覚えがなかった。しかし私が入院していた時、イスカが訪ねてきた際、私が本当は死んでいたはずのことを彼女は知っていて、私が違和感を抱いていることにも気づいていた様子だった。
「南帆ちゃんも私と同じなら、そのはずだから」
イスカが私に目をつけたのは、私が彼女と同じ体質だと考えているからのようだった。
私は素直に認めることにした。
「うん……あるけど……」
「それはどんな?」
私は音瑠がいるので、話すことに抵抗があった。もう一つの記憶の内容を、彼女には知られたくない気がした。
イスカに対して本当のことを話す必要があるか分からないが、どうして記憶が二つあるのか理由が知りたかった。
とりあえず小夜子のことや音瑠にしたことは隠す。
「私のもともとの記憶では、末期ガンで入院していて、本当は今頃死んでいたはずだった。だけどこの世界では、ガンが早期発見されて、手術で除去することに成功して、こうして生きている」
「そうだね。私の記憶とも一致する。南帆ちゃんは、記憶が二つ以上あることに疑問を感じない?」
「変だとは思う。あんたにも同じように、記憶が二つあるの?」
「私にもあるよ。起きたことが起きなかったことになった今のこの世界の記憶と、起きなかったことになる前の元の世界の記憶。あるいは起きなかったことが起きたことになった世界、その結果が選ばれる前の世界、選ばれなかった世界の記憶もね」
「そう……それは、パラレルワールドみたいなものってこと?」
「前にも言った通り、世界は一つだよ。同時にいくつもの可能性があって、いくつもの分岐があるけれど、未来で起きたことに向かって集約されていくの」
「じゃあこの記憶はなに?」
「南帆ちゃんは、記憶のメカニズムがどうなっているか、どのぐらい知っている?」
「脳の海馬だったかに記憶されるんだっけ?」
「もう少し具体的に言うと、感覚刺激を受けると、脳のシナプスという神経細胞の結びつきが変化して、回路を作って記憶を保持するの。だから私たちは記憶することができるし、思い出すことができる。ただ何らかの影響で過去が変わった時、普通の人はね、そのシナプスの回路さえも過去から遡って置き換わってしまうから、そのことを認識できないの」
「それじゃどうして私たちは、変わる前の過去を覚えているの?」
「南帆ちゃんはアカシックレコードって知っている?」
「聞いたことはある」
それに私はいよいよ本格的に怪しくなってきたなと思った。
「アカシックレコードっていうのは、時間や空間を超越した存在で、宇宙の始まりから終わりまでのすべてが記録されている、霊的な情報アーカイブのこと。同時にそこにはあらゆる可能世界が記録されている」
そんなものがあると思っているのか、と反駁したかったが堪える。
「人やすべての動物、生物、無機物さえ、すべての記憶はそこに保存されていて、記憶を思い出す時には、そこから情報を引き出しているの。シナプスの回路は、そこにアクセスして情報を引き出すための鍵。何かを覚えているということは、その鍵を持っているということ。そして私や南帆ちゃんは、その鍵の形が違うから、なかったことになった過去を覚えていて、思い出すことができるの」
「私たちはそのアカシックレコードにアクセスできるってこと?」
口にしてみて、我ながら寒々しく感じた。
「今はその理解でいいよ」
「そう……」
イスカの話は理解できるが、信じられるかは別の話だった。
* * *
イスカの先導でしばらく歩くと、寂れた住宅街に出た。すっかり日は暮れて、辺りは夜の闇に包まれ、街灯が心許なく照らしていた。
私はイスカが、信者から巻き上げた大金で、都心部にある五十階以上の超高層マンションの数億円する部屋で、高級シャンパンでも飲んでいそうなイメージがあったので、こんなところに彼女が住んでいるのが意外だった。
実際はオートロックもない、築三十年以上のアパートの二階に彼女は住んでいた。
玄関をくぐるとキッチンがある。手狭なキッチンにはシンクとコンロがあり、調理スペースはわずか。そのスペースは茶筒や、茶葉や香辛料の瓶が占めていた。
キッチンを抜けると、六帖ほどの居住スペースに出る。ワンルームの質素な部屋だった。
部屋の中にはベッドと、ローテーブルと座椅子、窓際に観葉植物があった。その植物は私の背よりも高そうだった。幹自体は低いが、その先端から密生した枝葉が高く伸び、輪状に広がっていた。葉は鳥の羽のような、ナイフにも似た形で、いくつも連なっていた。テーブルの上には球状のオブジェクトがあり、安定するように脚状のスタンドで固定されていた。家庭用プラネタリウムのプロジェクターと思われた。
怪しげなパワーストーンや神棚のようなものがあって、買わされるのではないかと警戒していたが、それらしいものは一つもなかった。
「座る場所がなくてごめんね。ベッドに腰掛けてて」
私と音瑠は言われた通りにする。
「お茶入れてくるね」
イスカがキッチンに向かう。どうせ例のお茶だろう。
拒否しようと思ったが、今はイスカの機嫌を損ねるのは避けたい。
私は隣に座った音瑠を見る。喫茶店からずっと口数が少なくなっていた。
「緊張しているの?」
「え?」
「いや、別に」
気にかけていると思われたくないので、私は話を切り上げた。
もしかしたら私とイスカの会話に引いているのかもしれない。
「南帆ちゃん……」
「なに?」
「あの……ううん、なんでもない……」
歯切れの悪い調子だった。
「どうしたの? お腹でも痛いの?」
それに音瑠は少し泣きそうな顔で私を見た。
「小夜子さんって、南帆ちゃんとどういう関係なの?」
「ただの大学の時の友達だけど」
「本当に?」
「本当だけど」
音瑠はずっと小夜子のことが気になっていたのか。そういえば彼女は一度、小夜子と会っているのだが、あの時の女性が小夜子だとは知らないだろう。そのことを教えても意味はないのでわざわざ言わなかった。
そのうちイスカが湯呑みを三つ、トレーにのせて戻ってきた。それをローテーブルの上に置く。イスカは向かいの床に正座した。
「どうぞ」
「このお茶ってなんなの?」
色からして音瑠に飲まされているのと同じものと思われた。なぜこんな不味いお茶を好き好んで飲むのか。彼女の味覚がどうかしているのか。
「私の意識は未来や過去、時空を自由に移動することができるんだけど。それは実験や研究の結果、特定の化学物質が、脳のある領域に影響していることが原因だと分かったの」
私の質問の仕方が悪かったのだろうか。ただもともと聞きたかった話をしているので、遮らないことにした。
「その化学物質は自然界にありふれて存在していてね、普通の人の体の中にも存在しているの。私の場合は、その成分がほかの人よりも多い体質みたい。だからほかの人も、私と同じ体質になれば、私と同じように意識の時空移動ができるようになるかもしれない」
「それでどうやってほかの人を同じ体質にするの?」
「その化学物質は特定の植物にも含まれていてね。たとえばミカンの皮とかにも含まれているんだけど、そのままだと人の体の酵素によって分解されてしまうから、それを阻害する成分と組み合わせて、独自のブレンドを作ったの」
そこまで聞いて私はようやく理解した。
「あんたは自分の信者に飲むよう誘導して、その人たちの体質を改造していたってこと?」
「そういうことになるね」
イスカは相変わらずあの微笑を浮かべていた。
私は知らないうちに彼女に体を改造されていたと思うと、知らぬ間に体内で増殖していた腫瘍のような、おぞましい悪意を彼女に感じた。
化学物質、ということは、何らかの幻覚作用のある麻薬か何かではないのか。もしかしたら私の体験したすべては、その麻薬が見せた幻覚なのかもしれない。その可能性の方が最もあり得そうだった。
私は音瑠の顔を見た。彼女はそのことを気にした様子もなく、何かぼんやりとしていた。まだ小夜子のことを気にしているのか。
「音瑠は知っていたの?」
「え?」
「やばいもの飲まされているって」
「音瑠ちゃんやほかのシスターの子たちはね、私と同じように未来を知ったり、過去を変えられるようになりたいの。だから騙したりなんてしてないよ」
それなら音瑠は知った上で私に飲ませていたことになる。私は音瑠を睨んだ。
「何を考えて私に飲ませたの?」
「え、私、そんなつもりじゃ……」
「音瑠ちゃんを責めないであげて。あなたを救うために仕方のないことだったの」
「意味がわからない……」
「あなたの病気が分かった時点で、あなたはもう手遅れだった。まだ間に合ううちに病気が見つかるように誘導しようにも、その時点ではあなたは音瑠ちゃんの言うことなんて聞かないでしょ。私とあなたの間にも接点はない。だから南帆ちゃん自身が過去を変えるしかなかった」
「私は過去を変えた覚えはない……具体的にどうやるのかも分からない……」
「覚えていないだけだよ。だから、本当に過去に戻れるかどうか、試してみよう。小夜子さんのことを知りたいんでしょ?」
小夜子のことを持ち出すのは卑怯だった。
たとえ小夜子との思い出が、すべて幻覚で嘘だったとしても、私はそのことを確かめたかった。それはまだ信じたいだけかもしれないが。
「……それで、このお茶を飲めばいいの?」
「ううん。それとこれ──」
イスカはどこからか取り出した小さなプラスチックのケースを、テーブルの上に置く。そのケースの中には錠剤がいくつか入っていた。
「この薬を飲んでほしいの。これによって引き起こされるヴィジョンから、私はアラベスクと呼んでいる」
「これを飲めば過去に行けるってこと?」
「誰でもできるわけじゃない。音瑠ちゃんやほかの人じゃ駄目。アラベスクに含まれる化学物質が脳に作用して、私と同じ状態を部分的には再現できる。だけど脳の特定部位の活動までは再現できない。だから私は、私と同じように過去が変わったことを認識できる人を探していたの。私と近い脳を持つ人を。それが南帆ちゃん。あとは化学物質の濃度を私に近づければ、あなたならきっとできるはず」
早い話が幻覚剤だ。私は彼女たちによって薬漬けにされて、長い悪夢を見ていたに過ぎないのかもしれない。そしてこの女も、音瑠も、何が現実で妄想なのか区別がつかなくなっているのだ。
拒絶して、この部屋を出て、二度とイスカや音瑠と会わなければ、私は日常を取り戻せる。簡単なことだ。躊躇う理由はない。
「試しに一錠、飲んでみて。過去への行き方は、私が誘導してあげるから。もし死んでも私がなかったことにするから安心して」
この女は不穏なことを平然と言った。
私は小夜子のことを知るためにここに来た。怪しげな占い師の占いにさえ縋ろうと思った。もしかしたら今までのことすべてが、この女のせいで見た幻覚なのかもしれない。それでもこの先に進むには、こうするしかないと思えた。
私はまだ小夜子とのことを信じたかった。だから錠剤に手を伸ばす。
突然、その手を音瑠が掴んだ。
「やめなよ、南帆ちゃん。南帆ちゃんが死んじゃうなんて嫌だ……」
「別に死ぬと決まったわけじゃないし、万が一、中毒死しても平気よ。私がそのことをなかったことにするから」
「でも……」
仮に全員が薬物中毒で、妄想を現実と思い込みこんなやりとりをしているのなら、むしろ滑稽で笑えてきた。
どのみち私はそんなに長く生きられない。それならここで私が中毒死して、ほかに犠牲者が出るのを阻止できれば、私の人生にも意味があったというものだ。
「いいから、離して」
音瑠は泣きそうな顔を俯かせ、手を離した。
私はケースの蓋を開け、錠剤を一つ取り出す。その白い扁平な円形の錠剤は、表面が粗く、正規の販売しているものではなく、個人が製造したものであることが察せられた。
「そういえば音瑠、なんでさっきから元気ないの? 小夜子のこと、音瑠には関係ないでしょ?」
どうせ死ぬかもしれないのなら、最期に聞いておこうと思った。これが致死の薬だと知っているから、それで気が塞いでいるのか。
「だって南帆ちゃん、その小夜子さんって人のこと好きなんでしょ?」
「いや、ただの友達だって」
「南帆ちゃんがその人を好きなことぐらい分かるよ……」
「別にどうこうしたいとかないから。失踪した理由が知りたいだけ」
どうして私は音瑠に言い訳しているのだろうか。
確かに無関係となった私が、小夜子のことに体を張る理由はない。しかし私には彼女と過ごしたもう一つの記憶があるから、今の彼女が苦境にあるのなら力になりたかった。
「それにその人に関わると、南帆ちゃんが殺されちゃうんでしょ……」
音瑠はイスカが言ったことを全面的に信じているようだった。
「それが本当かどうかも、これで分かるじゃん。イスカの言っていることが本当なら、この薬で私は過去に戻れる。嘘だったら戻れない。私が殺されるっていうのが嘘だって証明になる」
「そう、だけど……」
それに音瑠には関係のないことだ。そう言ってしまえば、音瑠も引き下がるだろう。しかし私は言えなかった。
「これが終わったら、一晩私の体好きにしていいから」
そんな最低なことしか言えなかった。
「……え?」
音瑠が期待するような目で私を見る。
日頃の世話代と思うことにした。すでに肉体関係があるようなものだから、今更抵抗もなかった。
私は錠剤を、あの不味いお茶で流し込む。
最期に飲むものとしては、最低の組み合わせだった。
* * *
イスカの説明では、過去へ戻るには、意識を過去に同調させる必要があるとのことだった。
戻れる過去は思い出や印象に残っている日。その時に抱いた強い感情や感覚が座標になる。その時の感情を思い出し、その感情とリンクすることで過去に戻れるらしい。
未来へ行く場合も同様だが、その場合は未来の感情や感覚とリンクする必要があるので、特別な手順を踏む必要があるとのこと。
「ただ記憶にあっても、過去が変わって無くなってしまった日、この世界と地続きではない過去には戻ることができないから。気をつけてね。それと過去に戻っても、なるべくその日のとおりにね。あまり逸脱した行動をとると、あなたの時間が壊れてしまうから」
そんな説明を受けながら、仰向けに寝て、二十分ほど経っただろうか。
「どう? 体に何か変化を感じる?」
「心臓の音がうるさい……」
心音が鼓膜を震わすように聞こえた。体中が熱くなり、掌や首周りが汗ばんでいくような感覚がした。背中が火傷するように熱い。
頭の中をごちゃごちゃと掻き回されているような、不快な感覚がした。
瞼を閉じると、幾何学模様のような、水玉模様のような、ある種のパターンをもったノイズが浮かび上がってくる。これは瞼の裏、あるいは網膜の毛細血管やそこを流れる赤血球だろうか。
「今何が見えている?」
「赤い砂漠」
生まれつき全盲の人が見る光景は、赤い砂漠と書かれていたのは何の小説だったか。私は明るい場所で目を閉じると、いつも赤い砂嵐のようなものに覆われた光景が見えた。
その砂粒は赤と思わせて、白や青、緑に光っているようにも見える。よく見れば赤よりも白の方が多いかもしれない。白は青を帯びているかもしれない。確かに見えているのに、その姿も色も不確かだった。
その姿を確かめようと意識を凝らすと、たちまち別の姿や色に変わってしまう。だから本当はどんなものなのか、今をもっても分からない。
「その砂漠には、どんなものがある?」
「幾何学模様。砂嵐が一定のパターンに従って変化していく。曼荼羅みたい」
今日はいつもより形が明確に見えてきた。
イスカに飲まされた変な薬の影響かもしれない。アラベスクとはよくいったもので、曼荼羅ノイズは万華鏡のように姿を変え、集合と離散を繰り返して、さまざまに姿を変えていく。
耳鳴りが激しくなっていった。心臓の音も聞こえないほどに、耳元で暴風が吹いているようだった。
「体が重い……」
体中を締め付けられるような、押し潰されるような圧力を感じた。
「今、重力の壁にぶつかっているの。そのまま、沈んでいくのをイメージして。過去に向かって沈んでいくのを」
そんなことを言われてもよく分からなかった。
イスカは続ける。
「戻りたい日を思い出して。その時の思い出も。感情も」
私が戻りたい日。大学三年の夏。いや、夏休みの前。最後の試験があった日。それが私が小夜子に会った最後の日だった。ただその時の私は彼女と会うのが、これが最後とは思っていなかった。彼女に対する切ないような、甘い感情は思い出せたが、この淡い感情を座標にすることはできるだろうか。
あの日、ほかに何かあっただろうか。
そうだ、私は小夜子に告白してふられたのだ。そのことを思い出した。その時の胸の痛みも蘇ってきた。
忘れていたわけじゃない、信じられなかっただけ。
小夜子と交際していた過去がなくなっているのに、小夜子に告白してふられていたなど、信じられなかった。
私は小夜子のことを今でも好きな感情から目を逸らしたかった。
私たちがただの友達だったのなら、この世界も受け入れることができた。
「南帆ちゃん、頑張って!」
音瑠の見当違いの応援が聞こえた。
そしてイスカの声がした。
「あと、あのことを忘れないでね」
その声が聞こえたのを最後に、私は白い光に包まれ、体の感覚が拡散していくのを感じた。
それは死の感覚によく似ていた。
◆ ◆ ◆
いつの間にか耳鳴りや、あの感覚が消えていた。
眠りから覚めたことを察した。朝になっている。
目を開くと、私は違和感に襲われた。
音瑠の寝室でも、イスカの部屋でもない。すぐに私は実家の自室にいることに気づいた。
私は本当に過去に戻れたのだろうか。これも幻覚か、あるいは幻覚から覚めただけなのではないか。
本当は私はあのあと、今まで昏睡状態で、それで実家に運ばれたのかもしれない。
そうだとしたら何の意味もない。
私は起き上がり、これが過去である証拠を探す。
服をまくって手術痕を確認してみる。あの五つの傷がなく、まっさらな、だらしのない私の体があった。またスマートフォンを手に取ってカレンダーを確認すると、五年前の七月であることが分かった。
これが妄想の中でなければ、私の意識は五年前の私の体に移動し、大学三年の夏に戻ったことになる。
過去に戻ることに成功した。
私はリビングに向かう。そこにはママと、妹の星凛がいた。ママはキッチンでサラダを作っている。星凛は朝食を半分ほど食べたところだった。
星凛は中学の制服を着ていた。当時、彼女は中学三年生で夏休み前。星凛は私を見ると露骨に嫌そうな顔をした。この頃にはすでに彼女に嫌われていたのを改めて痛感した。
「おはよう、南帆ちゃん。今日試験でしょ。遅刻しないようにね」
「おはよう、ママ……」
ママの言葉で、決して星凛が中学時代の制服でコスプレしているわけではなく、本当に過去に戻ったことを確信した。
朝食は白米と味噌汁に、昨日の夕飯の残りのコロッケ。私はコロッケでご飯を食べられないタイプなので、ふりかけをかけて食べる。
久しぶりにママの料理が食べられて、懐かしい気持ちになり、思わず泣きそうになった。
「ごちそうさま」
朝食を済ませた星凛がさっさと家を出て、学校へ向かう。私とは目も合わせなかった。
当時は、受験を控えて苛立っているだけ、程度に思っていたが、随分と嫌われていたらしい。
「ママ」
「なに?」
ママが私の前にサラダを置いて、向かいに座る。ママもこれから朝食のようだった。
「私、星凛に何かした?」
「え? さあ?」
「星凛が私と口を利かなくなったの、高校辞めた時からだよね。何か聞いてない?」
それにママは困った顔をした。
「どうかな。まあ思春期だし、いろいろあるんでしょ」
ママは昔からあまり頓着しない人だった。よくいえば気にしない人、悪くいえば気が付かない人。私はママのふんわりした雰囲気が好きだけれど。
私は朝食を済ませると、大学へ向かう。
午前中の二時限目と、午後の四、五時限目にテストがあった。小夜子とは五時限目のテストが一緒だ。
まさかテストまで過去をなぞらなければいけないのか。もし受けなかったらどうなるのだろうか。過去が変わって、最悪私は留年してしまうことになるのだろうか。
そもそもこれは本当に過去の世界なのだろうか。私の脳内にある記憶が再生されているだけではないのか。ただ質感はリアルで、夢の中にいるとは思えなかった。
イスカは何と言っていたか。意識だけが時間を移動することを。移動した先の世界について。
そこで私は電車に揺られながら、イスカの言葉を思い出した。
「あのことを忘れないでね」
それは過去に戻ったら、彼女に連絡するというものだった。
私はシスシス──正式名称『シスター×シスター』という女性同士のマッチングサイトにアクセスする。そこで『乙女桜イスカ』のアカウントを見つける。
顔写真はないが、プロフィールや投稿から間違いなく彼女だった。投稿の中身は有料になっていて見られないが、無料でも読む気はないが、件名に『あなたの天命を教えます』、『未来はすでに決まっている、未来は変えられる』、『記憶の秘密とアカシックレコード』などとあった。
イスカの話では、私が過去に干渉した結果、もしかしたら私が死んだ世界に変わってしまうかもしれない。そうなった場合、イスカが修正するので、過去に接点を作る必要があるとのことだった。
私はアカウントを作成して、彼女に連絡する。
「もし過去に戻れたら連絡してね。過去の私には分からないけれど、今の私に分かる内容を送ってもらえれば、私もその時点に戻るから。向こうで会おうね」
彼女はそんなことを言っていた。
『デカケツクサレビッチ』
私はそう送った。この件名なら確実に彼女も分かるだろう。
音瑠のアトリエの最寄駅から電車一本で行ける場所だった。電車だけなら一時間ほどで着く。
午後三時頃、車内は下校の学生で多少混んでいた。
私は音瑠と隣り合って座る羽目になった。そうでなくとも離れて座るのは不自然だから、どのみち一緒に座っていただろうが。
私は端の席をとり、音瑠から逃れるように、仕切り板に身を預けた。
私は今日あたり洗濯しようと思っていたいつものジャージで、音瑠はネイビーブルーのワンピースに、白に近いベージュのカーディガンを羽織っていた。
私は隣の音瑠の横顔に、軽く視線を向けて尋ねる。
「あの人って何者なの?」
「イスカちゃんのこと?」
「そう」
「イスカちゃんは十年前ぐらいから、シスシスで占い師として活動してて、ファンのシスターもいっぱいいるんだよ。すごい人気があって、本当ならなかなか会えないの。それに占いだけじゃなく、まるで心でも読んでるみたいに、こっちの悩みに的確なアドバイスをしてくれるんだ」
シスシスは女性同士のマッチングサイトの略称だった。音瑠は有名人と知り合いなことを自慢するかのような調子だった。
「いくらぐらいなの?」
「ん?」
「一回占ってもらうのに」
「私は十万円ぐらいかな」
「えぇ……」
軽い気持ちで聞いた私は、思わず引いてしまった。それに音瑠が慌てた様子で補足してくる。
「あ、私が気持ちで払っているだけだから! シスターによって払える金額が違うから、一万円の人もいるし、一回で百万円ぐらい払っている人もいるみたいだよ」
「いや、えぇ……」
何の補足にもならないどころか、余計に引いてしまった。
「それにイスカちゃんはたくさん払うシスターとばかり会うわけじゃなくて、本当に必要な人にはタダでも会うよ」
「そんなん何とでも言えるし、実際は分からないじゃん……」
イスカのコミュニティがどういうものか分からないが、私には理解できない世界のようだった。
「なんか買わされたりしないの? というか今日行っても大丈夫なの?」
「そんな変なもの買わされたりしないよ」
そう音瑠がおかしそうに笑った。
「あのお茶は? あれもイスカに買わされたんじゃないの?」
「あれはイスカちゃんが体にいいからって勧めてくれて、フリマサイトで買ったやつだよ。サイトを通さないで定期で購入すると安くなるから、私は直接買っているけど」
それもイスカが意図的に利益誘導しているように思えた。これ以上詳細を聞くことが怖くなってきたので、話題を変えることにした。
私は常々、占い師に対して思っていることがあった。
「未来を占えるなら、人から金を巻き上げないで、自分で宝クジでも買って当てればいいのに」
「それはダメなんだって」
「どうして?」
「未来はあらかじめ決まってるんだって。未来の出来事も、その先の時点から見ると過去になって、私たちが今と思っている時間も未来から見ると過去になるから、私たちの意識は過去の堆積をなぞっているだけなんだって。だから大きく運命を変えると、その分の整合性を世界全体でとるから、それだけ大きな反動があるらしいんだ。だから宝クジの当たりだけ買うとか、大きく運命が変わることをすると、最悪の場合、その人が死んでしまった方が運命の誤差が少ないから、死んでしまうかもしれないんだって」
もっともらしい理由づけだ。と思った。
「音瑠は信じているの? イスカのこと」
「うん。イスカちゃんのおかげで、こうして南帆ちゃんと一緒にいられるし」
「は? どういうこと?」
「イスカちゃんにね、南帆ちゃんに素直な気持ちを伝えて、どんなことがあっても一生懸命お手伝いをすれば、一緒にいられるってアドバイスをしてもらったの」
私はそれに何か言おうとして、上手く言葉にできず呑み込んだ。
そんな誰でもできるような、当然なアドバイスをありがたがってる音瑠も音瑠だが、まんまとイスカの思い通りになっている自分自身に怒りを覚えた。この忌まわしい音瑠が私につきまとうのは、イスカの差し金ということか。そしてその通りになっている私自身がひどく滑稽に思えた。
「それでイスカは、未来のことをどうやって知るの?」
「イスカちゃんの話だと、未来を見て知って、過去や現在に戻っているだけ、って言ってた」
確かにそんなことを言っていた。
「音瑠はその話を信じるの?」
「うん。そうとしか思えないから。それにイスカちゃんが言ってたんだけど、人それぞれ今いる時間は違ってて、今見ている、話している相手は、もしかしたら過去かもしれないし未来かもしれないんだって。なんとなく分かるけど、不思議な感じだよね」
「たとえば私が今話している音瑠は、音瑠にとって過去かもしれないってこと?」
「うん。だけどイスカちゃんの話だと、普通の人は重力の影響を受けるから、基本的には地球が宇宙にある位置が今になるんだって」
「それじゃ私と音瑠の今は同じ今ってこと?」
「えっと、厳密には、人が知覚できるのは5分の1秒程度の連続で、それも脳が知覚するまでにラグがあるから、私たちが認識できるのはすでに起きたことなんだって。だから厳密には過去になるらしいよ」
分かるような分からない話だった。話は分かるのだが、すとんと落ちてくるような実感がなく、手放しに理解できるものではなかった。
「まあいいや」
「うまく説明できなくてごめんね。イスカちゃんならもっと分かりやすく教えてくれるから、聞いてみて」
別に私は彼女がどうやって未来のことを知るのか、どうやって占いをするのか興味はない。私が彼女に聞きたいことは、そんなことではなかった。
* * *
私たちは駅前で待ち合わせをしていた。
約束の時間まで、まだ少しあった。
「少し早く着いたね。ちょっと散歩する?」
「そうだね」
初めて来る場所は周辺に何があるのか気になった。
それに駅前は道が狭く、居酒屋や焼肉屋が並んでいて、人通りがあり、長居するには不向きな場所だった。どこかに座って休める場所があればいいのだが。
駅から少し歩くと、堤防下を流れる河川があった。川沿いには街路樹があり、西日に葉がきらきらと光っていた。川辺には欄干があり、その柵の間から緑色の川面が見えた。
音瑠は寄り添うように私の隣を歩く。不快に思ったが、突き放すのも面倒で、好きにさせておいた。少し冷たい夕方の風が吹いたと思うと、音瑠がカーディガンを私の肩にかけてきた。
「少し風があるから。体、冷やさないようにね」
お前はお母さんか、と思ったが、私は返事も何もしなかった。
私たちは欄干の前に立ち、淀んだ川面を眺める。
「前にイスカちゃんとほかのシスターの人たちとお花見したことがあるんだけど、春になると川沿いに桜並木が一斉に咲いて綺麗なんだよ」
「ふーん」
今は緑の葉をきらきらと光らせる街路樹は桜だったようだ。
「こんにちは」
不意に声をかけられた。
声は川沿いの欄干にもたれた女性から発せられた。
音瑠は驚いて振り返る。私は驚くよりも寒気がした。
「あ、イスカちゃん! あれ、待ち合わせって駅前じゃなかった?」
「うん、そうだよ。ただ音瑠ちゃんたちが先に着くと思ったから、そしたらここにいるかなって」
「さすがイスカちゃん!」
二人は楽しげに談笑していた。私はその二人から少し距離を取る。
その私をイスカが見て微笑んだ。その顔は西日を受けて、黄金色に光り、ハレーションを起こしてぼやけて見えた。
「南帆ちゃんも、会えて嬉しいよ」
「どうも……」
乙女桜イスカ。今日は髪を解き、黒いゆったりとしたワンピースを着ていた。腰には紐のような帯をつけている。その腰から下、スカート部分には桜のような花柄が刺繍されていた。ただ桜にしては花弁の先が丸いので、別の花かもしれない。あるいは簡略化した図案か。以前、着ていたガウンの家紋のような刺繍に似ていた。
そこまでつぶさに見たのは、彼女は和風のものや和柄を好む傾向があり、それらをどこで買っているのか少し興味があったからだ。もしかしたら自前で仕立てているのかもしれない。
「それじゃ行きましょう。近くに喫茶店があるの」
「楽しみ!」
私たちは川沿いの道を行く。イスカと音瑠が隣り合って歩くのに、私はついて行った。
ただこのままついて行くのも癪だと思った。
「焼肉」
「え?」
音瑠が振り返る。
「焼肉がいい」
それに音瑠は困った顔をした。
「私はいいけど……」
イスカのことを気にかけているようだった。
それに私は苛立ちを覚えた。私が焼肉がいいと言っているのだから、イスカは関係ないだろう、そんなことを思ってしまった。
イスカは気にした様子もなく微笑む。あの微笑みだ。作り物のような笑顔。人喰いの怪物の微笑。
「私もいいよ」
「駅前にあったよね?」
今私たちが歩いて向かっている方向とは反対側だった。
「だけどまだ開くまで一時間ぐらいあるから、それまで喫茶店で時間を潰しましょう。この辺、駅前にしかないから。ちょっと歩いてもいいなら、他にもあるけど」
「南帆ちゃん、どうする? あんまり駅から遠いと、帰り大変かも」
「分かった……まずは喫茶店でいい……」
私は仕方なく承諾した。
川沿いには、何軒か店が連なっていた。町中華か定食屋か、居酒屋か分からない店と、スナック風の店、閉店したのか看板のない店、その並びの端にイスカ指定の喫茶店はあった。
喫茶店というよりもバーのような雰囲気の店だった。少し手狭な店内で、壁際のテーブル席に座る。私と音瑠の並びに、イスカが向き合う形だった。
「何飲む? 私、カフェインが苦手でね、レモネードにしようかな」
イスカは喫茶店に誘っておいて、コーヒーでも紅茶でもないものを注文する。
音瑠もそれを真似る。
「今日は暖かかったからね。私も少し汗ばんだから、同じのにしようかな」
「私も──」
と言おうとして、彼女たちと同じものを注文するのも癪だった。
音瑠が横からメニューを覗き込む・
「南帆ちゃん、体冷やすとよくないから、温かいのにしたら?」
「そうする。ホットココアで」
注文が済んだところで、私はイスカに聞く。
「それで、私に何か用があったんじゃないの?」
イスカは微笑む。
「そう、南帆ちゃんにね。私がというよりも、南帆ちゃんが私に用があるんじゃないかな、って思って」
イスカの声は不思議な響きがあった。耳に心地よく、甘いような、いつまでも聞いていたいと思える声だった。この声は警戒しなければならない。食虫植物が獲物を誘う匂いと同じだ。
「それも得意の占いで分かったわけ?」
「うーん。そういうことでいいよ」
私がイスカに対して抱く違和感。彼女は私たちの行動を先回りしている気がする。彼女の言う通り、彼女は少し先の未来にいるのだろうか。
私はすでにイスカが、千里眼や未来予知のようなことができる、あるいはそれに類似した何か超能力のようなものを備えていると信じ始めていた。あるいは期待していた。
本当はただ異常に勘が鋭かったり、洞察力に優れているだけの人かもしれない。
とにかく今は怪しげな占い師だろうが、手相占いやおみくじにさえ縋りたいほど手詰まりだ。
「まあいいや。あんたに聞きたいことがあるんだよね」
イスカの得体の知れない力が本物である前提で、こちらの知りたい情報を引き出す。その情報が正しいかどうかは後から検証すればいい。
ただイスカとの対話は、心理的に優位に立たれ、精神的に支配される懸念があった。それが彼女の目的で、信者を増やす手段かもしれない。
言葉選びは慎重に、簡潔に、つけ込む隙を与えてはいけない。そう気を引き締めた。
イスカは相変わらず、何の感情もうかがえない微笑を浮かべていた。
「いいよ。その前に、一つだけ警告させて。その二人には近づかない方がいいよ。あなたが殺されてしまうから」
「は?」
私はあれほど警戒していたのに、一瞬で揺さぶられてしまった。
「二人って、誰のこと?」
まだ私は誰の話もしていない。それなのに二人と人数を言い当ててきた。確かに私は小夜子とアンナ、二人のことを聞こうと思っていた。
当てずっぽうに言っている可能性もあるが、私を動揺させるのに十分だった。
「私はまだその二人のことは知らないけど、南帆ちゃんはその二人を知っているから、このままだとどちらかに、あるいは二人に殺されてしまうかもしれない」
「どういうこと?」
「私に分かるのは南帆ちゃんが、その二人の手がかりを探していること。そして殺されてしまうこと。もしかしたらその二人は関係ないかもしれないけど、他に殺されるような心当たりがあるのなら気をつけて」
「ないけど……」
そもそも小夜子が、あるいはアンナが私を殺す理由が分からない。ただアンナの冷たい目を思い出すと、あの瞳には私に向けられた殺意と憎悪がこもっていた。アンナが私を殺すというのは、妙に説得力があった。
私はそんなに恨まれるようなことを、見ず知らずの彼女にしたのだろうか。
そして二人のことを妄想や幻覚だと思っていた私に対し、話す前から二人について何か知っているイスカの口ぶりは、私が彼女たちに会ったことを肯定されているように感じられた。
いや、まだ小夜子とアンナのことと決まったわけではない。
「私が誰について、何について聞くのか分かっているんだ」
「うん。それはもう答えたことだから」
「なら、教えてよ。私の知りたいこと」
「それは簡単だけど、こうして私が干渉した以上、これから起こる出来事は誤差程度には変動してしまうから、ちゃんとあなたの口から聞いた事実を残したいわ」
どうしてもイスカの口から、本来彼女が知り得ない情報として、二人の名前を引き出したかった。しかし彼女はそのことを避けたい様子だった。
このまま押し問答をしても埒があかない。今は彼女に備わっている、何か超能力のようなものを検証するのが目的ではない。
私は一つ目の質問をすることにした。
「あんたみたいに、あったことをなかったことにしたり、あるいは別の結果に変えることができる人は、他にもいるの?」
「二人知っているけど、一人はまだ」
意図は測りかねたが、一人ないしは二人いるということか。
「その中に、アンナという名前の人はいる?」
「その中にはいないよ。ただ私が知らないだけで、他に生まれている可能性があるから。ただもしかしたらニジカちゃんが知っているかも。聞いてみるね。でも彼女は意外と口が堅いからな」
イスカが認識していないだけで、他にも同じことができる人がいる可能性があることが分かった。そして今上がった人物は、イスカの協力者か何かだろうか。
「言っておくけど、南帆ちゃんもその候補の一人だからね」
「は?」
そこでレモネードが二つ、ホットココアが一つ届く。
こんな話をしているのを、他の人に聞かれたくないので私は黙った。
店員が去ったのを見計らって、私は次の質問をする。
「ある人が今どこにいるか、その人の過去に何があったか、あなたは占うことができる?」
「ある意味ではできるけど、ある意味ではできない。私がやってるのは、正確には占いではないことは、前回話したよね? 私は過去と未来、今とは違う別の時間にいて、未来で知ったことを話してるだけ」
「その人の未来を見て、今教えてもらうことはできる?」
「私が得られる情報は万能じゃないの。未来の私が知り得ること、全時間の私を通して知り得ることしか、私は知ることができない」
「じゃあ、分からないってことか」
「だからね、未来の時点で私と南帆ちゃんが会って、そこでそれまでに起きた出来事を教えてくれていたら、その情報を持ち帰ることができるんだけど。少なくとも未来の南帆ちゃんは、そのアンナさんと小夜子さんの情報を、私には教えてくれていないから分からない」
私はぞっとした。まだ小夜子の名前は伏せていたはずだ。私は音瑠を横目で見る。私たちの会話に入れず、居心地悪そうにストローでレモネードを飲んでいた。音瑠は私の口から、小夜子の名前を聞いて知っていたかもしれない。それを彼女が裏でイスカに教えたのか、あるいは家の中に盗聴器が仕掛けられているのかもしれない。それか本当に未来の私との会話で、イスカは小夜子の名前を知ったというのだろうか。
「結局、その二人のことを調べている途中で南帆ちゃんが殺されちゃうから、その二人が南帆ちゃんの死に関係していると私は思ったの。だから気をつけてね」
「いや、待って。なんで小夜子の名前を知ってるの? やっぱり盗聴してたの?」
「ああ、いつも失敗しちゃうんだよね。そうなるから知らないふりしたかったんだけど。どうも記憶がごちゃごちゃになって、つい先のことまで話しちゃうんだよね」
イスカは照れたように笑った。
彼女はこのキャラクターを崩さないので、問いただすだけ時間の無駄だ。このまま話を進めるしかない。
「その小夜子のことを、知る方法はある?」
「その小夜子さんとはどんな関係なの?」
「別に。ただの友達」
この世界ではただの友達なのだから嘘ではない。
「そう。それで、南帆ちゃんはどんなことが知りたいの? ──ああ、ごめん。過去に戻って、あなたが直接本人に聞くのはどうかな?」
「は?」
「小夜子さんの、失踪した理由を知りたいんでしょ? 私が過去に戻って、その人に接触しても信頼されていないから教えてもらえないだろうし、かといって過去の南帆ちゃんに接触しても、まだ私のことを知らないわけだから同じことだと思うの」
失踪したことまで彼女は知っていた。私と入谷先生の通話を盗聴されていたか、本当に未来のことを知っているのか。
「だからね。南帆ちゃん自身が過去に戻って、その小夜子さんに聞いてみたら? 彼女が何に悩んでいたのか。なぜ失踪したのか。直接彼女にその理由を聞いてみたら?」
「さっきから何を言っているの?」
「たとえば南帆ちゃんが彼女と会った最後の日、もしくは何か心当たりのある日に戻って、直接彼女に聞いてみたらどうかな、って」
「そんなこと、できるわけ──」
否定しようとしたが、イスカは何か方法を知っているのか。
私にもそんなことができると彼女は言っている。
「どうやったら、そんなことできるの?」
「私と同じ体質、状態になることで、できるはず。誰でもできるわけじゃないけど、南帆ちゃんにはその可能性がある。どう、試してみる?」
イスカをどこまで信用していいか分からない。彼女が何かの宗教団体を運営しているかは知らないが、これが勧誘の手段なのかもしれない。
「私は私と同じことができる人、可能性のある人を探していたの。その候補の一人が南帆ちゃん、あなたよ」
「どうしてそんなことをしているの? 何が目的?」
「世界の滅亡を阻止するため」
「は?」
「そんなことよりも、小夜子さんの失踪の理由を知りたいなら、私が手助けしてあげる。その前に私の質問にも答えて。アンナさんというのはどんな人なの? この前は聞き忘れちゃったから」
「誰かは分からない。すごい美人。小夜子が前に言っていた恋人かもしれない。事故で手足を失った小夜子の介護をしていた。連絡先を交換したんだけど、今日になったら消えてた」
「それで私のように、過去を変えることができると思ったんだね」
「まあ。完全に信じたわけじゃないけど」
「続きは私の家で話そうか。ここから近いんだ」
イスカはいつの間にかレモネードを飲み終えていた。私のココアはすっかり冷め切っていた。音瑠が手持ち無沙汰にストローで底の氷を揺らしていた。
私はイスカがレモネードを飲んでいた姿を見た覚えがない。しかし同時に飲んでもいたような気がした。彼女が病院に来た時と、アンナの連絡先が消えた時と同じ、奇妙な感覚がした。
「どうする?」
「どうって……」
完全にイスカのペースに乗せられている。この流れは危険に思えた。
「小夜子さんのことが知りたいんでしょ? 彼女に何があったか」
「分かった……行く……」
「よかった」
イスカが微笑み、席を立つ。
「あ、焼肉はどうするの? 食べてからにする?」
「いや、いい……」
私はもともとお腹が空いていたわけではないが、食べようと思えば食べられる程度に小腹は空いていた。しかしその気もすっかり失せてしまった。
* * *
イスカの家は駅の反対側にあるらしい。
イスカが先頭で、その後ろを私たちがついて行く。
向かう途中、高架をくぐり、そのまま沿って歩く。高架下には書店や雑貨屋があった。また高架の向かいには、二階建てのアパートが連なって、紫色を微かに帯びた夕闇の中、暖色光が漏れていた。
私は少し遅れ気味に歩く、横の音瑠を見る。
「音瑠は行ったことあるの?」
「え?」
考え込んでいるような、気が塞いでいるような様子に、思わず声をかけてしまった。それに音瑠が瞳を輝かせて私を見る。
私はもう興味がなかった上に、口に出したくなかったのだが、仕方なく続ける。
「イスカ、さんの家……」
彼女に敬称をつけるのに抵抗があったが、呼び捨てにするほど親しくもない。
「私も初めて。どんなところに住んでいるのかな」
敬愛しているかどうかは分からないが、心酔しているイスカの家に招かれたのだから、もっと嬉しそうにしてもいいものだが。音瑠の表情は夕闇の中で沈んで見えた。
私はイスカの背中を見る。私自身が過去に戻って、小夜子から事情を聞き出すことを提案されたが、意味が分からなかった。
そもそも過去に戻るとはどういうことなのか。イスカ自身は時間を移動していることを主張していて、そう考えれば辻褄の合う言動もある。
しかしその時間の移動というものが、どういうものか分からない。彼女は目の前にいながら、過去に干渉したり、その時点では知り得ないことを口にした。
それらに合理的な説明をつけたり、トリックを探すことは可能だが、いったんは信じることにした。今重要なことはイスカの能力の真偽ではなく、小夜子の情報を得ることだ。その方法がたとえ荒唐無稽な、不条理で不合理なものだとしても。
不意にイスカが振り返る。
「南帆ちゃんも、記憶が二つあるんだよね」
「どうしてそう思うの?」
そのことをイスカや音瑠に、誰にも話した覚えがなかった。しかし私が入院していた時、イスカが訪ねてきた際、私が本当は死んでいたはずのことを彼女は知っていて、私が違和感を抱いていることにも気づいていた様子だった。
「南帆ちゃんも私と同じなら、そのはずだから」
イスカが私に目をつけたのは、私が彼女と同じ体質だと考えているからのようだった。
私は素直に認めることにした。
「うん……あるけど……」
「それはどんな?」
私は音瑠がいるので、話すことに抵抗があった。もう一つの記憶の内容を、彼女には知られたくない気がした。
イスカに対して本当のことを話す必要があるか分からないが、どうして記憶が二つあるのか理由が知りたかった。
とりあえず小夜子のことや音瑠にしたことは隠す。
「私のもともとの記憶では、末期ガンで入院していて、本当は今頃死んでいたはずだった。だけどこの世界では、ガンが早期発見されて、手術で除去することに成功して、こうして生きている」
「そうだね。私の記憶とも一致する。南帆ちゃんは、記憶が二つ以上あることに疑問を感じない?」
「変だとは思う。あんたにも同じように、記憶が二つあるの?」
「私にもあるよ。起きたことが起きなかったことになった今のこの世界の記憶と、起きなかったことになる前の元の世界の記憶。あるいは起きなかったことが起きたことになった世界、その結果が選ばれる前の世界、選ばれなかった世界の記憶もね」
「そう……それは、パラレルワールドみたいなものってこと?」
「前にも言った通り、世界は一つだよ。同時にいくつもの可能性があって、いくつもの分岐があるけれど、未来で起きたことに向かって集約されていくの」
「じゃあこの記憶はなに?」
「南帆ちゃんは、記憶のメカニズムがどうなっているか、どのぐらい知っている?」
「脳の海馬だったかに記憶されるんだっけ?」
「もう少し具体的に言うと、感覚刺激を受けると、脳のシナプスという神経細胞の結びつきが変化して、回路を作って記憶を保持するの。だから私たちは記憶することができるし、思い出すことができる。ただ何らかの影響で過去が変わった時、普通の人はね、そのシナプスの回路さえも過去から遡って置き換わってしまうから、そのことを認識できないの」
「それじゃどうして私たちは、変わる前の過去を覚えているの?」
「南帆ちゃんはアカシックレコードって知っている?」
「聞いたことはある」
それに私はいよいよ本格的に怪しくなってきたなと思った。
「アカシックレコードっていうのは、時間や空間を超越した存在で、宇宙の始まりから終わりまでのすべてが記録されている、霊的な情報アーカイブのこと。同時にそこにはあらゆる可能世界が記録されている」
そんなものがあると思っているのか、と反駁したかったが堪える。
「人やすべての動物、生物、無機物さえ、すべての記憶はそこに保存されていて、記憶を思い出す時には、そこから情報を引き出しているの。シナプスの回路は、そこにアクセスして情報を引き出すための鍵。何かを覚えているということは、その鍵を持っているということ。そして私や南帆ちゃんは、その鍵の形が違うから、なかったことになった過去を覚えていて、思い出すことができるの」
「私たちはそのアカシックレコードにアクセスできるってこと?」
口にしてみて、我ながら寒々しく感じた。
「今はその理解でいいよ」
「そう……」
イスカの話は理解できるが、信じられるかは別の話だった。
* * *
イスカの先導でしばらく歩くと、寂れた住宅街に出た。すっかり日は暮れて、辺りは夜の闇に包まれ、街灯が心許なく照らしていた。
私はイスカが、信者から巻き上げた大金で、都心部にある五十階以上の超高層マンションの数億円する部屋で、高級シャンパンでも飲んでいそうなイメージがあったので、こんなところに彼女が住んでいるのが意外だった。
実際はオートロックもない、築三十年以上のアパートの二階に彼女は住んでいた。
玄関をくぐるとキッチンがある。手狭なキッチンにはシンクとコンロがあり、調理スペースはわずか。そのスペースは茶筒や、茶葉や香辛料の瓶が占めていた。
キッチンを抜けると、六帖ほどの居住スペースに出る。ワンルームの質素な部屋だった。
部屋の中にはベッドと、ローテーブルと座椅子、窓際に観葉植物があった。その植物は私の背よりも高そうだった。幹自体は低いが、その先端から密生した枝葉が高く伸び、輪状に広がっていた。葉は鳥の羽のような、ナイフにも似た形で、いくつも連なっていた。テーブルの上には球状のオブジェクトがあり、安定するように脚状のスタンドで固定されていた。家庭用プラネタリウムのプロジェクターと思われた。
怪しげなパワーストーンや神棚のようなものがあって、買わされるのではないかと警戒していたが、それらしいものは一つもなかった。
「座る場所がなくてごめんね。ベッドに腰掛けてて」
私と音瑠は言われた通りにする。
「お茶入れてくるね」
イスカがキッチンに向かう。どうせ例のお茶だろう。
拒否しようと思ったが、今はイスカの機嫌を損ねるのは避けたい。
私は隣に座った音瑠を見る。喫茶店からずっと口数が少なくなっていた。
「緊張しているの?」
「え?」
「いや、別に」
気にかけていると思われたくないので、私は話を切り上げた。
もしかしたら私とイスカの会話に引いているのかもしれない。
「南帆ちゃん……」
「なに?」
「あの……ううん、なんでもない……」
歯切れの悪い調子だった。
「どうしたの? お腹でも痛いの?」
それに音瑠は少し泣きそうな顔で私を見た。
「小夜子さんって、南帆ちゃんとどういう関係なの?」
「ただの大学の時の友達だけど」
「本当に?」
「本当だけど」
音瑠はずっと小夜子のことが気になっていたのか。そういえば彼女は一度、小夜子と会っているのだが、あの時の女性が小夜子だとは知らないだろう。そのことを教えても意味はないのでわざわざ言わなかった。
そのうちイスカが湯呑みを三つ、トレーにのせて戻ってきた。それをローテーブルの上に置く。イスカは向かいの床に正座した。
「どうぞ」
「このお茶ってなんなの?」
色からして音瑠に飲まされているのと同じものと思われた。なぜこんな不味いお茶を好き好んで飲むのか。彼女の味覚がどうかしているのか。
「私の意識は未来や過去、時空を自由に移動することができるんだけど。それは実験や研究の結果、特定の化学物質が、脳のある領域に影響していることが原因だと分かったの」
私の質問の仕方が悪かったのだろうか。ただもともと聞きたかった話をしているので、遮らないことにした。
「その化学物質は自然界にありふれて存在していてね、普通の人の体の中にも存在しているの。私の場合は、その成分がほかの人よりも多い体質みたい。だからほかの人も、私と同じ体質になれば、私と同じように意識の時空移動ができるようになるかもしれない」
「それでどうやってほかの人を同じ体質にするの?」
「その化学物質は特定の植物にも含まれていてね。たとえばミカンの皮とかにも含まれているんだけど、そのままだと人の体の酵素によって分解されてしまうから、それを阻害する成分と組み合わせて、独自のブレンドを作ったの」
そこまで聞いて私はようやく理解した。
「あんたは自分の信者に飲むよう誘導して、その人たちの体質を改造していたってこと?」
「そういうことになるね」
イスカは相変わらずあの微笑を浮かべていた。
私は知らないうちに彼女に体を改造されていたと思うと、知らぬ間に体内で増殖していた腫瘍のような、おぞましい悪意を彼女に感じた。
化学物質、ということは、何らかの幻覚作用のある麻薬か何かではないのか。もしかしたら私の体験したすべては、その麻薬が見せた幻覚なのかもしれない。その可能性の方が最もあり得そうだった。
私は音瑠の顔を見た。彼女はそのことを気にした様子もなく、何かぼんやりとしていた。まだ小夜子のことを気にしているのか。
「音瑠は知っていたの?」
「え?」
「やばいもの飲まされているって」
「音瑠ちゃんやほかのシスターの子たちはね、私と同じように未来を知ったり、過去を変えられるようになりたいの。だから騙したりなんてしてないよ」
それなら音瑠は知った上で私に飲ませていたことになる。私は音瑠を睨んだ。
「何を考えて私に飲ませたの?」
「え、私、そんなつもりじゃ……」
「音瑠ちゃんを責めないであげて。あなたを救うために仕方のないことだったの」
「意味がわからない……」
「あなたの病気が分かった時点で、あなたはもう手遅れだった。まだ間に合ううちに病気が見つかるように誘導しようにも、その時点ではあなたは音瑠ちゃんの言うことなんて聞かないでしょ。私とあなたの間にも接点はない。だから南帆ちゃん自身が過去を変えるしかなかった」
「私は過去を変えた覚えはない……具体的にどうやるのかも分からない……」
「覚えていないだけだよ。だから、本当に過去に戻れるかどうか、試してみよう。小夜子さんのことを知りたいんでしょ?」
小夜子のことを持ち出すのは卑怯だった。
たとえ小夜子との思い出が、すべて幻覚で嘘だったとしても、私はそのことを確かめたかった。それはまだ信じたいだけかもしれないが。
「……それで、このお茶を飲めばいいの?」
「ううん。それとこれ──」
イスカはどこからか取り出した小さなプラスチックのケースを、テーブルの上に置く。そのケースの中には錠剤がいくつか入っていた。
「この薬を飲んでほしいの。これによって引き起こされるヴィジョンから、私はアラベスクと呼んでいる」
「これを飲めば過去に行けるってこと?」
「誰でもできるわけじゃない。音瑠ちゃんやほかの人じゃ駄目。アラベスクに含まれる化学物質が脳に作用して、私と同じ状態を部分的には再現できる。だけど脳の特定部位の活動までは再現できない。だから私は、私と同じように過去が変わったことを認識できる人を探していたの。私と近い脳を持つ人を。それが南帆ちゃん。あとは化学物質の濃度を私に近づければ、あなたならきっとできるはず」
早い話が幻覚剤だ。私は彼女たちによって薬漬けにされて、長い悪夢を見ていたに過ぎないのかもしれない。そしてこの女も、音瑠も、何が現実で妄想なのか区別がつかなくなっているのだ。
拒絶して、この部屋を出て、二度とイスカや音瑠と会わなければ、私は日常を取り戻せる。簡単なことだ。躊躇う理由はない。
「試しに一錠、飲んでみて。過去への行き方は、私が誘導してあげるから。もし死んでも私がなかったことにするから安心して」
この女は不穏なことを平然と言った。
私は小夜子のことを知るためにここに来た。怪しげな占い師の占いにさえ縋ろうと思った。もしかしたら今までのことすべてが、この女のせいで見た幻覚なのかもしれない。それでもこの先に進むには、こうするしかないと思えた。
私はまだ小夜子とのことを信じたかった。だから錠剤に手を伸ばす。
突然、その手を音瑠が掴んだ。
「やめなよ、南帆ちゃん。南帆ちゃんが死んじゃうなんて嫌だ……」
「別に死ぬと決まったわけじゃないし、万が一、中毒死しても平気よ。私がそのことをなかったことにするから」
「でも……」
仮に全員が薬物中毒で、妄想を現実と思い込みこんなやりとりをしているのなら、むしろ滑稽で笑えてきた。
どのみち私はそんなに長く生きられない。それならここで私が中毒死して、ほかに犠牲者が出るのを阻止できれば、私の人生にも意味があったというものだ。
「いいから、離して」
音瑠は泣きそうな顔を俯かせ、手を離した。
私はケースの蓋を開け、錠剤を一つ取り出す。その白い扁平な円形の錠剤は、表面が粗く、正規の販売しているものではなく、個人が製造したものであることが察せられた。
「そういえば音瑠、なんでさっきから元気ないの? 小夜子のこと、音瑠には関係ないでしょ?」
どうせ死ぬかもしれないのなら、最期に聞いておこうと思った。これが致死の薬だと知っているから、それで気が塞いでいるのか。
「だって南帆ちゃん、その小夜子さんって人のこと好きなんでしょ?」
「いや、ただの友達だって」
「南帆ちゃんがその人を好きなことぐらい分かるよ……」
「別にどうこうしたいとかないから。失踪した理由が知りたいだけ」
どうして私は音瑠に言い訳しているのだろうか。
確かに無関係となった私が、小夜子のことに体を張る理由はない。しかし私には彼女と過ごしたもう一つの記憶があるから、今の彼女が苦境にあるのなら力になりたかった。
「それにその人に関わると、南帆ちゃんが殺されちゃうんでしょ……」
音瑠はイスカが言ったことを全面的に信じているようだった。
「それが本当かどうかも、これで分かるじゃん。イスカの言っていることが本当なら、この薬で私は過去に戻れる。嘘だったら戻れない。私が殺されるっていうのが嘘だって証明になる」
「そう、だけど……」
それに音瑠には関係のないことだ。そう言ってしまえば、音瑠も引き下がるだろう。しかし私は言えなかった。
「これが終わったら、一晩私の体好きにしていいから」
そんな最低なことしか言えなかった。
「……え?」
音瑠が期待するような目で私を見る。
日頃の世話代と思うことにした。すでに肉体関係があるようなものだから、今更抵抗もなかった。
私は錠剤を、あの不味いお茶で流し込む。
最期に飲むものとしては、最低の組み合わせだった。
* * *
イスカの説明では、過去へ戻るには、意識を過去に同調させる必要があるとのことだった。
戻れる過去は思い出や印象に残っている日。その時に抱いた強い感情や感覚が座標になる。その時の感情を思い出し、その感情とリンクすることで過去に戻れるらしい。
未来へ行く場合も同様だが、その場合は未来の感情や感覚とリンクする必要があるので、特別な手順を踏む必要があるとのこと。
「ただ記憶にあっても、過去が変わって無くなってしまった日、この世界と地続きではない過去には戻ることができないから。気をつけてね。それと過去に戻っても、なるべくその日のとおりにね。あまり逸脱した行動をとると、あなたの時間が壊れてしまうから」
そんな説明を受けながら、仰向けに寝て、二十分ほど経っただろうか。
「どう? 体に何か変化を感じる?」
「心臓の音がうるさい……」
心音が鼓膜を震わすように聞こえた。体中が熱くなり、掌や首周りが汗ばんでいくような感覚がした。背中が火傷するように熱い。
頭の中をごちゃごちゃと掻き回されているような、不快な感覚がした。
瞼を閉じると、幾何学模様のような、水玉模様のような、ある種のパターンをもったノイズが浮かび上がってくる。これは瞼の裏、あるいは網膜の毛細血管やそこを流れる赤血球だろうか。
「今何が見えている?」
「赤い砂漠」
生まれつき全盲の人が見る光景は、赤い砂漠と書かれていたのは何の小説だったか。私は明るい場所で目を閉じると、いつも赤い砂嵐のようなものに覆われた光景が見えた。
その砂粒は赤と思わせて、白や青、緑に光っているようにも見える。よく見れば赤よりも白の方が多いかもしれない。白は青を帯びているかもしれない。確かに見えているのに、その姿も色も不確かだった。
その姿を確かめようと意識を凝らすと、たちまち別の姿や色に変わってしまう。だから本当はどんなものなのか、今をもっても分からない。
「その砂漠には、どんなものがある?」
「幾何学模様。砂嵐が一定のパターンに従って変化していく。曼荼羅みたい」
今日はいつもより形が明確に見えてきた。
イスカに飲まされた変な薬の影響かもしれない。アラベスクとはよくいったもので、曼荼羅ノイズは万華鏡のように姿を変え、集合と離散を繰り返して、さまざまに姿を変えていく。
耳鳴りが激しくなっていった。心臓の音も聞こえないほどに、耳元で暴風が吹いているようだった。
「体が重い……」
体中を締め付けられるような、押し潰されるような圧力を感じた。
「今、重力の壁にぶつかっているの。そのまま、沈んでいくのをイメージして。過去に向かって沈んでいくのを」
そんなことを言われてもよく分からなかった。
イスカは続ける。
「戻りたい日を思い出して。その時の思い出も。感情も」
私が戻りたい日。大学三年の夏。いや、夏休みの前。最後の試験があった日。それが私が小夜子に会った最後の日だった。ただその時の私は彼女と会うのが、これが最後とは思っていなかった。彼女に対する切ないような、甘い感情は思い出せたが、この淡い感情を座標にすることはできるだろうか。
あの日、ほかに何かあっただろうか。
そうだ、私は小夜子に告白してふられたのだ。そのことを思い出した。その時の胸の痛みも蘇ってきた。
忘れていたわけじゃない、信じられなかっただけ。
小夜子と交際していた過去がなくなっているのに、小夜子に告白してふられていたなど、信じられなかった。
私は小夜子のことを今でも好きな感情から目を逸らしたかった。
私たちがただの友達だったのなら、この世界も受け入れることができた。
「南帆ちゃん、頑張って!」
音瑠の見当違いの応援が聞こえた。
そしてイスカの声がした。
「あと、あのことを忘れないでね」
その声が聞こえたのを最後に、私は白い光に包まれ、体の感覚が拡散していくのを感じた。
それは死の感覚によく似ていた。
◆ ◆ ◆
いつの間にか耳鳴りや、あの感覚が消えていた。
眠りから覚めたことを察した。朝になっている。
目を開くと、私は違和感に襲われた。
音瑠の寝室でも、イスカの部屋でもない。すぐに私は実家の自室にいることに気づいた。
私は本当に過去に戻れたのだろうか。これも幻覚か、あるいは幻覚から覚めただけなのではないか。
本当は私はあのあと、今まで昏睡状態で、それで実家に運ばれたのかもしれない。
そうだとしたら何の意味もない。
私は起き上がり、これが過去である証拠を探す。
服をまくって手術痕を確認してみる。あの五つの傷がなく、まっさらな、だらしのない私の体があった。またスマートフォンを手に取ってカレンダーを確認すると、五年前の七月であることが分かった。
これが妄想の中でなければ、私の意識は五年前の私の体に移動し、大学三年の夏に戻ったことになる。
過去に戻ることに成功した。
私はリビングに向かう。そこにはママと、妹の星凛がいた。ママはキッチンでサラダを作っている。星凛は朝食を半分ほど食べたところだった。
星凛は中学の制服を着ていた。当時、彼女は中学三年生で夏休み前。星凛は私を見ると露骨に嫌そうな顔をした。この頃にはすでに彼女に嫌われていたのを改めて痛感した。
「おはよう、南帆ちゃん。今日試験でしょ。遅刻しないようにね」
「おはよう、ママ……」
ママの言葉で、決して星凛が中学時代の制服でコスプレしているわけではなく、本当に過去に戻ったことを確信した。
朝食は白米と味噌汁に、昨日の夕飯の残りのコロッケ。私はコロッケでご飯を食べられないタイプなので、ふりかけをかけて食べる。
久しぶりにママの料理が食べられて、懐かしい気持ちになり、思わず泣きそうになった。
「ごちそうさま」
朝食を済ませた星凛がさっさと家を出て、学校へ向かう。私とは目も合わせなかった。
当時は、受験を控えて苛立っているだけ、程度に思っていたが、随分と嫌われていたらしい。
「ママ」
「なに?」
ママが私の前にサラダを置いて、向かいに座る。ママもこれから朝食のようだった。
「私、星凛に何かした?」
「え? さあ?」
「星凛が私と口を利かなくなったの、高校辞めた時からだよね。何か聞いてない?」
それにママは困った顔をした。
「どうかな。まあ思春期だし、いろいろあるんでしょ」
ママは昔からあまり頓着しない人だった。よくいえば気にしない人、悪くいえば気が付かない人。私はママのふんわりした雰囲気が好きだけれど。
私は朝食を済ませると、大学へ向かう。
午前中の二時限目と、午後の四、五時限目にテストがあった。小夜子とは五時限目のテストが一緒だ。
まさかテストまで過去をなぞらなければいけないのか。もし受けなかったらどうなるのだろうか。過去が変わって、最悪私は留年してしまうことになるのだろうか。
そもそもこれは本当に過去の世界なのだろうか。私の脳内にある記憶が再生されているだけではないのか。ただ質感はリアルで、夢の中にいるとは思えなかった。
イスカは何と言っていたか。意識だけが時間を移動することを。移動した先の世界について。
そこで私は電車に揺られながら、イスカの言葉を思い出した。
「あのことを忘れないでね」
それは過去に戻ったら、彼女に連絡するというものだった。
私はシスシス──正式名称『シスター×シスター』という女性同士のマッチングサイトにアクセスする。そこで『乙女桜イスカ』のアカウントを見つける。
顔写真はないが、プロフィールや投稿から間違いなく彼女だった。投稿の中身は有料になっていて見られないが、無料でも読む気はないが、件名に『あなたの天命を教えます』、『未来はすでに決まっている、未来は変えられる』、『記憶の秘密とアカシックレコード』などとあった。
イスカの話では、私が過去に干渉した結果、もしかしたら私が死んだ世界に変わってしまうかもしれない。そうなった場合、イスカが修正するので、過去に接点を作る必要があるとのことだった。
私はアカウントを作成して、彼女に連絡する。
「もし過去に戻れたら連絡してね。過去の私には分からないけれど、今の私に分かる内容を送ってもらえれば、私もその時点に戻るから。向こうで会おうね」
彼女はそんなことを言っていた。
『デカケツクサレビッチ』
私はそう送った。この件名なら確実に彼女も分かるだろう。
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