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第二章
第六話
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私は音瑠といつものように朝食をとる。
今日の朝食は、ツナとたまごサンドに、サラダ、ポタージュスープ。いつも私が起きる頃には彼女が準備してくれていた。
そして例のお茶。私はげんなりした気持ちで、綺麗なグラスに注がれたそれを見る。
音瑠のほとんど唯一の美徳としては、グラスや小物がオシャレなことだった。
透明なグラスには乳白色でひまわりを思わせる図案が配されていた。色のある液体を注ぐとその図案がはっきりと浮かぶ。麦茶やお茶類を注ぐと清涼な雰囲気がした。
水を飲むにしても、安っぽいコップだと味も楽しみもない。もしカットの入ったグラスなら光の反射を楽しんだり、底部の重いものならずっしりとして何か特別に感じるし、少し気分を変えて飲むことができる。ただ結局注がれるのがあの毒茶なのだから、どんなに綺麗なグラスでも台無しだった。
「南帆ちゃん、昨日何かあったの?」
「え?」
私は毒茶に顔をしかめた気でいたが、音瑠には違って見えたようだった。
「別に」
「そう……」
私が素っ気なく返すと、音瑠がしゅんとする。私はそれに思わず何か優しい言葉をかけそうになったが、サンドウィッチを大きくかじってその言葉を呑んだ。
別に音瑠の機嫌を取る必要も、顔色をうかがう理由もない。ただ、あとで私の自慰でも手伝わせれば、気をよくするだろう。
「ごちそうさま」
「うん。お昼は何が食べたい?」
「音瑠と同じのでいいよ」
「パスタでもいい?」
「いい」
「分かった」
音瑠が嬉しそうに微笑む。何がそんなに嬉しいのか。
私は彼女に背を向けて寝室に戻った。一人で考えたいことがあった。なくても一緒にいる理由はないが。
ベッドに身を投げ出して、昨日のこと、今朝のことを考える。
昨日私は小夜子と再会した。しかし今朝、小夜子と一緒にいた女性、アンナの連絡先が消えていた。昨日のことは妄想か幻覚だったのだろうか。そもそも妄想ではない証拠が一つもない。
ただ私は、昨日見たものが妄想や幻覚だと、どうしても思えなかった。小夜子と交わした言葉、懐かしく切ない気持ち、アンナが私へ向けていた敵意、それらがすべて嘘だったとは思えない。私はまだ私が正気であることを信じたいだけなのかもしれないが。
しかし確かに交換したはずのアンナの連絡先が消滅していたのは事実だ。私は小夜子と再会していない、私の頭がおかしくなって彼女に会ったと思い込んでいた、と考えれば辻褄が合う。
ただもう一つの可能性としてはアンナが私のアカウントをハッキングして、自身の連絡先を消去したのではないだろうか。そんなことが本当に可能かどうか分からないが。
そんな私の正気を証明するためには、小夜子の近況を知る必要がある。もし私の記憶が間違っていなければ、私が正気ならば、それは彼女の不幸を証明することになる。それならば彼女が無事で、正直私が狂っている方がいいとさえ思えた。
私自身の正気を証明することが重要とは思えないが、今の小夜子がどうしているか、心配な気持ちが込み上げてきた。
とにかく私の正気、あるいは狂気を証明するとしても、小夜子の今を知らなければならない。
小夜子とは大学三年の夏から、ずっと連絡をとれていない、行方も分からないままである。
まずは素直に小夜子のアカウントに連絡を送ってみることにした。五年近く前に送った私のメッセージは、機種変更の際に消えてしまった。同じように彼女も履歴が消えて、私のメッセージに気づいていないだけの可能性もある。
とにかく当たり障りない文面を送ってみた。
『久しぶり。昨日のことだけど、アンナさんの連絡先をちゃんと登録できなかったみたいで。こっちにも連絡しました。気づいたら返信がほしいです。今度三人で会おう』
すべては私の妄想で、小夜子に会った事実などなく、この文面を見た彼女が困惑しても、気づいて連絡さえ返してくれたら私は安心できる。
次に私と小夜子の共通の知人に、小夜子の近況を尋ねようと思ったが、一つ問題があった。私は小夜子以外に親しくしていた人がいなかった。何人かは会話をしたことがあったり、同じ講義を受けていたこともあるが。連絡先も知らなければ、SNSで探そうにも、ろくに顔と名前も覚えていなかった。
卒業アルバムに顔写真や名前が載っていただろうか。小夜子と一緒に一度見たきりで、ろくに思い出せなかった。おそらく実家の私の部屋にあると思うが、まだ帰りたくはなかった。
私はそこで思い出した。
大学三年の後期、彼女の研究室で発表資料を準備していた時だ。私の所属していた古代美術史ゼミの担当、入谷槇子先生にあることを聞かれた。当時、彼女は三十代前半だったと思う。若々しく可愛い女性だった。
「蛍野さん、西塚さんと仲良い? 一緒に講義を受けているの見たことあったなと思って」
この記憶では、小夜子に恋人がいて、私たちは付き合っていなかった。それでも私は想いを寄せていて、彼女と友人でいた。
「はい。そうですけど、どうかしました?」
「西塚さん、後期になってから大学に来てないでしょ? 何か知らない?」
「私も連絡がつかなくて……」
私は毎日彼女のことを気にはかけていたが、どうすることもできずにいた。彼女の一人暮らしのマンションにも行ったが留守だった。
大学生になると、いつの間にか退学している学生も珍しくない。事情はそれぞれあるだろうが、私の専攻からも、年に二人か三人は大学からいなくなっていた気がする。小夜子にそんな予兆はなかったが、連絡がつかない以上、彼女の事情は分からなかった。
「先生は、小夜子のこと何か知っているんですか?」
「私も知らなくて。もし何か知っていることがあったら教えて」
「はい」
なぜ入谷先生が小夜子を気にかけるのか不可解だったが、大学の先生なのだから学生のことを気にかけるのは当然なのだろう程度に思った。そのうち何事もなかったように小夜子が戻ってくるとも、私は祈るような気持ちで信じていた。
しかし彼女が再び大学に来ることはなかった。彼女が不在の卒業式で、私は悲しい気持ちになったのを覚えている。
大学を卒業して三年以上が経ったが、入谷先生とは卒業後も交流があった。彼女のセミナーや講演会があれば、私は予定を空けて参加していた。
もともと私は大学に入る前から、入谷先生のことを知っていた。私が学芸員になろうと思ったのも、大学に進学したのも、入谷先生がきっかけだった。先生とは卒業後も、何度も会う機会があったが、小夜子のことを話題にしたことはなかった。多忙な彼女を煩わせるのに気が引けたのか、私が知らないのに誰かが何かを知っているのが嫌だったのかもしれない。
その入谷先生に最後に連絡をしたのは半年前だった。悪性腫瘍が発見され、休職する直前に、私の方から彼女のセミナーなどの日程を尋ねていた。返信はあったが、それ以降、私から連絡をしていなかった。病気のことを、休職することをどう伝えたらいいか、わざわざ伝える必要があるか悩み、そのまま今に至っていた。
それほど頻繁に連絡を取っていたわけではないが、ここまで間が開くのは初めてで、休職したことを黙っていたことが、なんとなく気まずかった。
『お久しぶりです。ご連絡が遅くなり申し訳ありません。諸事情により先生の講演に伺えず、大変残念に思っております』
こんな書き出しでいいだろうか。
『というのも先日、手術をする必要のある病気を患い、無事手術が完了しました。お恥ずかしいことですが、現在は休職中の身です』
と書き連ねて、そこで話題が広がるのは嫌だなと思った。
私は小夜子のことについて聞きたかった。
『私が学生だった当時、西塚小夜子という同期生がいたこと、先生は覚えていらっしゃいますか? 大学三年生の後期から出席せず、ついに卒業まで彼女は復帰しませんでした。彼女がその後どうなったのか、何かご存知ありませんか?』
そう入谷先生にメールを送った。
もしかしたら小夜子は私の卒業後に復学し、どこかで元気に暮らしているかもしれない。私が見たものはただの幻覚で、小夜子が事故に遭った事実などなければいい。
この行為が私の狂気を証明する結果になっても構わない。
ただどうしても小夜子の今が知りたい。
* * *
入谷槇子先生との出会いは、小夜子や音瑠以上に、私の人生に大きな影響を与えた。
先生と出会ったのは、大学に入る前、高校三年の時だった。
当時、私は音瑠のいる高校を辞めて、通信制の高校に通っていた。
通信ではレポートや課題を自宅でやり、それを提出するだけだったので、ありあまるほど時間があった。私はその時間を利用して、美術館や博物館などを巡っていた。
ただ巡るのも飽きてくるもので、スタッフによるギャラリートークや、講師によるセミナーにも参加するようになった。
入谷先生と出会ったのは、シルクロード関連の美術品や考古資料を展示している博物館だった。そこで彼女は講演を行なっていた。確か『シルクロード以前・ラピスラズリの道』だったと思う。私はそれに参加した。
ラピスラズリは青色の石で、金色の斑点や白い縞模様が入っていることがある。それは夜空とそこに浮かぶ星々を連想させた。
その美しさから、西はメソポタミアやエジプト、東はインドや中国、果ては日本にまで伝わった。
ラピスラズリはアフガニスタン東北部のバダフシャンが古代から主要な産地で、今でも宝石として使用できる品質のものは、ここから採掘されるものだけとされる。アフガニスタンは西アジアに位置し、西にイラン、南にパキスタンと国境を接している。
ラピスラズリは人類の歴史の中でも、工芸品や美術品として利用された鉱物では最古のものとされる。古代世界ではビーズとして用いられ、後には砕いて粉末にし顔料として使われた。
交易の痕跡として、紀元前7000ー5500年頃のパキスタン地域にある新石器時代の遺跡から、アフガニスタン産のラピスラズリのビーズが発見されている。
紀元前3600年頃にはシュメール文明のあった北部メソポタミアにも伝わり、装身具や工芸品に用いられた。メソポタミア地域では紀元前2700年頃に最盛期を迎え、『ウルのスタンダード』と呼ばれる、横長の箱にラピスラズリや赤色石灰岩、貝殻を固着したモザイクの施された工芸品が作られた。
古代エジプトでも紀元前3000年頃の遺跡から装飾品として出土している。紀元前1323年頃に没したツタンカーメン王の、幸いにも盗掘をほとんど受けなかった墓から、ラピスラズリを使用した装飾品が発見されている。ファラオという言葉から真っ先に連想するであろう、フードを広げたコブラを思わせる頭巾を被った黄金のマスクと、腕飾りのスカラベにラピスラズリが使用されていた。
シルクロードと呼ばれるユーラシア大陸を横断する、地中海と中国をつなぐ長大な交易路が出現するのが紀元前2世紀以降であり、それよりはるか以前から西方世界にはラピスラズリの道があったことになる。
東方世界では、紀元前2世紀以降に開かれたシルクロードの交易によってもたらされた。日本では8世紀に伝わり、方形や半円形のラピスラズリを留めた革帯が正倉院に収蔵されていた。
このラピスラズリの流通から、当時の交易の広がりと人々の移動を知ることができた。
私はそのダイナミックな歴史背景と、そうして作られた当時の工芸品に魅せられた。私は入谷先生の講演内容を、その場では話半分も分からなかったが。
講演会の後、私が展示物を見ていると、たまたま先生とすれ違った。声をかけてくれたのは彼女からだった。
「さっき、講演会にいたよね」
「はい」
「君は高校生かな? 古代の芸術や工芸品に興味があるの?」
「なんとなく美術に興味があって。こういうのも面白いですね」
「作品を鑑賞する上で、その作品の物語を知るだけじゃなく、その背景や歴史を学ぶのも楽しいよ。この材料はどこから来たのか、その作品ができるまでにどれだけの人が関わっているのか。そういうことを知ると、その時代背景が立体的に見えてくるのがすごく面白いよ」
そう入谷先生は笑った。それを見たら、久しぶりに穏やかな気持ちになれた。そのせいか、私は思わず聞いてしまった。
「私、美術に関わる仕事がしたいんです。でも絵は描けないから、そしたら他にどんなのがありますか?」
「そしたら学芸員なんていいんじゃないかな?」
「学芸員?」
「博物館や美術館で、作品の収集や保存をする仕事。その作品の価値や背景を調べたり、作品やその技法が社会に与えた影響や歴史を研究したりするお仕事」
絵を描く道を諦めた私にとって、それは何か天啓のように思えた。何度も美術館や博物館に通っているのに、今まで考えもしなかった。展示物は見ても、その裏側まで気を回したことがなかった。
そんな形で関わることができるのか。作る側でなくても、芸術やその表現の歴史を学んだり、作品や造形物に触れたり、保存する仕事もいいなと思った。学芸員として働く未来の自分が見えた気がした。
「私、大学で古代美術史の講義をやってるから、もし興味があったら来てみて」
そう言って先生は私に名刺をくれた。そこには彼女の名前と大学名、連絡先が記載されていた。
その後、私は彼女にメールをして、何度か講義の見学に行った。研究室で話し込んだこともある。
そして私は学芸員になる夢を抱いた。そのために彼女のいる大学に進学し、ゼミに入った。
* * *
メールを送信したが、入谷先生からいつ返信が来るか分からない。
何か他に手立てはないか。
私は小夜子の名前で検索をかけてみた。もしも本当に事故に遭っていたのなら、ニュースになっているかもしれない。しかし同姓同名の別人も出てこなかった。
やはり私の頭がおかしいだけなのか。
私は小夜子が無事であるのなら、私の頭がおかしい方がいい。ただあの幻覚があまりにもリアルすぎて、彼女が無事であることをどうしても確認したかった。
不意に私のスマートフォンが振動した。電話がかかってきたようだ。画面を見ると、入谷槇子先生からだった。彼女から電話がかかってくるのは予想外だった。
私は急いで電話に出る。
「はい、蛍野です」
『蛍野さん、久しぶり。入谷です』
「お久しぶりです」
『今、電話してても平気?』
「はい、平気です」
『手術って、何があったの? 聞いても問題ない? 言いたくなかったら言わなくてもいいから』
「いえ。単純にガンで、その手術で入院してました」
電話口の向こうで先生が息を呑んだ音が聞こえた。
『それで、もう治ったの?』
「いちおうは。定期的な診察と、薬を飲み続ける必要がありますけど。どうしても体質的なものなので、再発のリスクが高いので」
『そうなんだ。お仕事は、どうするの?』
「しばらく休職して、考えようかと。手術は成功しましたけど、どうしても体の方が。もしも展示品や収蔵品を傷つけたらと思うと、怖いですからね」
『もし、蛍野さんがよかったら、私のアシスタントやってみる? テキストベースで退屈かもしれないけど』
「ありがとうございます。むしろ興味があります」
『今度、調子がいい日に研究室においでよ。いろいろお話ししよう』
「はい、ぜひ」
『それか私の方から蛍野さんの最寄りまで行くよ? 今どこ住んでいるの?』
「今友人の家にお世話になってまして。私の方からお伺いさせていただきます」
『そう? 分かった。待っているね』
私は久しぶりに穏やかな気持ちになった。
しばらく連絡をしなかったから、入谷先生に忘れられているか、よく思われていないのではないかと心配だったが、彼女は初めて会った頃から変わらなかった。
『でも声の感じから、蛍野さんが元気そうでよかった』
「たぶん先生と話してるからですよ」
入谷先生は、高校を辞めて不安だった頃、進学や将来のイメージをもたせてくれた。大学ではゼミの担当として就職活動の応援をしてくれた。
私の人生で一番の恩師だった。
『そういえば、西塚さんのことだったよね』
「はい」
微かに入谷先生の声のトーンが変わった気がした。
『西塚さんのこと、前にも蛍野さんに聞いたよね? 当時、先生たちの間で問題になったんだけど、彼女、いわゆる家出をして行方不明になったの。置き手紙もあって、自らの意思で失踪する旨が書かれていたらしくて』
「そうだったんですね……」
『黙っててごめんね。彼女のプライベートに関わることだから、私もあなたに話していいものか判断がつかなくて。先生同士でも、他の学生に悪影響を与えるからって、口外禁止が取り決められていたの』
「いえ。小夜子が自分の意思で失踪して、私に何も言ってくれなかったのだから、しょうがないと思います。それから彼女は見つかったんですか?」
『私も大学も、その後どうなったのかは知らないの。結局、保護者の方が退学手続きをしてしまったから。ただ自殺のおそれがない一般家出人の場合、捜索願が出されても、警察が積極的に探すことはないから。ニュースになったりしてないってことは、無事でいるってことだと思う』
「小夜子の実家の住所とか連絡先って、教えてもらうことできます?」
『蛍野さんなら問題ないと思うけど、一度私の方から、西塚さんの実家に連絡して許可をもらうね。そしたら蛍野さんに改めて伝えるよ』
「すみません、お手数をおかけします」
それから私たちは他愛もない世間話をして、電話を切り上げた。
私はじっと、真っ暗になったスマートフォンの画面を見ていた。そこに反射する私の顔がうっすらと浮かんだ。
入谷先生も小夜子の近況を知らなかった。
そして小夜子は事故ではなく、行方不明になっていた。それは新しく明らかになったことではないが、家庭の事情や本人の病気で大学をやめたわけではなく、本人の意思で失踪したことが分かった。
なぜ小夜子は失踪しなければならなかったのだろうか。その失踪を宣言する置き手紙、彼女の家族に連絡が取れたら、それを見せてもらうことは可能だろうか。
もし見ることができれば、何か分かるかもしれない。しかし私にそのことを伝えずに失踪している以上、私には知られたくないことなのかもしれない。当時、それほど親しくなかった共通の知人も、ただ話題に上がらなかっただけかもしれないが、彼女が失踪した事情、および失踪自体を知らないようだった。ただ大学にいない、音信不通のだけ。別に珍しくも異常なことでもない。
この世界の彼女にとって、私も伝える必要のない部外者の一人でしかなかったのだろう。
それでも白昼の幻のように見た小夜子。手足を失い、恐ろしい美女に車椅子を押される小夜子。あの小夜子が私に向けた気遣いと優しい言葉。
どうしてもそれらが私の妄想や幻覚とは思えなかった。
イスカのことが頭をよぎった。
仮にすべて幻覚ではなかったとしたら。私は行方不明になっていた小夜子と再会したことになる。アンナの連絡先が消えたことは、そのアンナがイスカのように、ヨーグルトをプリンにしたように過去を置き換えていたとしら。
そんなことができる人が、もしかしたらこの世界に何人もいるのかもしれない。
イスカなら、何かを知っているのではないだろうか。
* * *
正直、小夜子については手詰まりだ。
イスカのことを信頼しているわけではないが、今は藁にもすがりたい気持ちだった。
もしイスカが変な対価を求めてきたら、その時は拒絶すればいい。
とにかく名刺の番号に連絡すればいいのか。ただどう連絡すればいいだろうか。彼女は連絡してほしい、改めて会いたいと言っていたが、それなりに無礼な態度をとった自覚があるので、どの面下げてという気もする。
いったん音瑠に相談しよう。
私は寝室を出てリビングに降りると、ちょうど音瑠が出てくるところだった。
「あ、南帆ちゃん、ちょうどいいところに」
「どうしたの?」
「ねぇ、南帆ちゃん。あの、お願いがあるんだけど……」
「なに?」
「イスカちゃんが、また南帆ちゃんに会いたいって……」
「は?」
「南帆ちゃんが、私に用事があるはずだから、って連絡があったんだけど……」
音瑠は本当に困っている様子だった。私があまりイスカのことを快く思っていないことを知っているのだろう。
「分かった。会う。いつ?」
「今日の午後四時ごろ、お茶でもしないかって……」
「急だね。まあ話が早くていいか」
「よかった……」
音瑠がほっと溜め息をつく。彼女にしてみれば、気を遣う二人の板挟みになって気苦労があるのだろう。
しかしなぜこのタイミングでイスカからコンタクトがあったのか。私はさっきイスカのことを思い出し、彼女を利用しようと考えた。その心の中を見透かされているようで気持ちが悪かった。
たとえばこの家に盗聴器や隠しカメラが仕掛けられていたとして、果たして私はイスカに会いたいような口ぶりや、態度を示したことがあっただろうか。仮に音瑠が逐一私の様子をイスカに報告していたとして、私が会いたいと思っていることに気づくだろうか。
私が小夜子のこと──そこまで分からないにせよ、何かに思い悩んでいるのを察知して、先回りして手を打ってきた。それがうまくハマったにすぎないのではないか。そう考えるのが一番現実的だ。しかしその方が非現実的に思えた。
いったい私の世界はどうなってしまったというのか。得体の知れない何かに運命を支配されている気分がした。本当は私は死んでいて、それと知らず地獄にでもいるのだろうか。
今日の朝食は、ツナとたまごサンドに、サラダ、ポタージュスープ。いつも私が起きる頃には彼女が準備してくれていた。
そして例のお茶。私はげんなりした気持ちで、綺麗なグラスに注がれたそれを見る。
音瑠のほとんど唯一の美徳としては、グラスや小物がオシャレなことだった。
透明なグラスには乳白色でひまわりを思わせる図案が配されていた。色のある液体を注ぐとその図案がはっきりと浮かぶ。麦茶やお茶類を注ぐと清涼な雰囲気がした。
水を飲むにしても、安っぽいコップだと味も楽しみもない。もしカットの入ったグラスなら光の反射を楽しんだり、底部の重いものならずっしりとして何か特別に感じるし、少し気分を変えて飲むことができる。ただ結局注がれるのがあの毒茶なのだから、どんなに綺麗なグラスでも台無しだった。
「南帆ちゃん、昨日何かあったの?」
「え?」
私は毒茶に顔をしかめた気でいたが、音瑠には違って見えたようだった。
「別に」
「そう……」
私が素っ気なく返すと、音瑠がしゅんとする。私はそれに思わず何か優しい言葉をかけそうになったが、サンドウィッチを大きくかじってその言葉を呑んだ。
別に音瑠の機嫌を取る必要も、顔色をうかがう理由もない。ただ、あとで私の自慰でも手伝わせれば、気をよくするだろう。
「ごちそうさま」
「うん。お昼は何が食べたい?」
「音瑠と同じのでいいよ」
「パスタでもいい?」
「いい」
「分かった」
音瑠が嬉しそうに微笑む。何がそんなに嬉しいのか。
私は彼女に背を向けて寝室に戻った。一人で考えたいことがあった。なくても一緒にいる理由はないが。
ベッドに身を投げ出して、昨日のこと、今朝のことを考える。
昨日私は小夜子と再会した。しかし今朝、小夜子と一緒にいた女性、アンナの連絡先が消えていた。昨日のことは妄想か幻覚だったのだろうか。そもそも妄想ではない証拠が一つもない。
ただ私は、昨日見たものが妄想や幻覚だと、どうしても思えなかった。小夜子と交わした言葉、懐かしく切ない気持ち、アンナが私へ向けていた敵意、それらがすべて嘘だったとは思えない。私はまだ私が正気であることを信じたいだけなのかもしれないが。
しかし確かに交換したはずのアンナの連絡先が消滅していたのは事実だ。私は小夜子と再会していない、私の頭がおかしくなって彼女に会ったと思い込んでいた、と考えれば辻褄が合う。
ただもう一つの可能性としてはアンナが私のアカウントをハッキングして、自身の連絡先を消去したのではないだろうか。そんなことが本当に可能かどうか分からないが。
そんな私の正気を証明するためには、小夜子の近況を知る必要がある。もし私の記憶が間違っていなければ、私が正気ならば、それは彼女の不幸を証明することになる。それならば彼女が無事で、正直私が狂っている方がいいとさえ思えた。
私自身の正気を証明することが重要とは思えないが、今の小夜子がどうしているか、心配な気持ちが込み上げてきた。
とにかく私の正気、あるいは狂気を証明するとしても、小夜子の今を知らなければならない。
小夜子とは大学三年の夏から、ずっと連絡をとれていない、行方も分からないままである。
まずは素直に小夜子のアカウントに連絡を送ってみることにした。五年近く前に送った私のメッセージは、機種変更の際に消えてしまった。同じように彼女も履歴が消えて、私のメッセージに気づいていないだけの可能性もある。
とにかく当たり障りない文面を送ってみた。
『久しぶり。昨日のことだけど、アンナさんの連絡先をちゃんと登録できなかったみたいで。こっちにも連絡しました。気づいたら返信がほしいです。今度三人で会おう』
すべては私の妄想で、小夜子に会った事実などなく、この文面を見た彼女が困惑しても、気づいて連絡さえ返してくれたら私は安心できる。
次に私と小夜子の共通の知人に、小夜子の近況を尋ねようと思ったが、一つ問題があった。私は小夜子以外に親しくしていた人がいなかった。何人かは会話をしたことがあったり、同じ講義を受けていたこともあるが。連絡先も知らなければ、SNSで探そうにも、ろくに顔と名前も覚えていなかった。
卒業アルバムに顔写真や名前が載っていただろうか。小夜子と一緒に一度見たきりで、ろくに思い出せなかった。おそらく実家の私の部屋にあると思うが、まだ帰りたくはなかった。
私はそこで思い出した。
大学三年の後期、彼女の研究室で発表資料を準備していた時だ。私の所属していた古代美術史ゼミの担当、入谷槇子先生にあることを聞かれた。当時、彼女は三十代前半だったと思う。若々しく可愛い女性だった。
「蛍野さん、西塚さんと仲良い? 一緒に講義を受けているの見たことあったなと思って」
この記憶では、小夜子に恋人がいて、私たちは付き合っていなかった。それでも私は想いを寄せていて、彼女と友人でいた。
「はい。そうですけど、どうかしました?」
「西塚さん、後期になってから大学に来てないでしょ? 何か知らない?」
「私も連絡がつかなくて……」
私は毎日彼女のことを気にはかけていたが、どうすることもできずにいた。彼女の一人暮らしのマンションにも行ったが留守だった。
大学生になると、いつの間にか退学している学生も珍しくない。事情はそれぞれあるだろうが、私の専攻からも、年に二人か三人は大学からいなくなっていた気がする。小夜子にそんな予兆はなかったが、連絡がつかない以上、彼女の事情は分からなかった。
「先生は、小夜子のこと何か知っているんですか?」
「私も知らなくて。もし何か知っていることがあったら教えて」
「はい」
なぜ入谷先生が小夜子を気にかけるのか不可解だったが、大学の先生なのだから学生のことを気にかけるのは当然なのだろう程度に思った。そのうち何事もなかったように小夜子が戻ってくるとも、私は祈るような気持ちで信じていた。
しかし彼女が再び大学に来ることはなかった。彼女が不在の卒業式で、私は悲しい気持ちになったのを覚えている。
大学を卒業して三年以上が経ったが、入谷先生とは卒業後も交流があった。彼女のセミナーや講演会があれば、私は予定を空けて参加していた。
もともと私は大学に入る前から、入谷先生のことを知っていた。私が学芸員になろうと思ったのも、大学に進学したのも、入谷先生がきっかけだった。先生とは卒業後も、何度も会う機会があったが、小夜子のことを話題にしたことはなかった。多忙な彼女を煩わせるのに気が引けたのか、私が知らないのに誰かが何かを知っているのが嫌だったのかもしれない。
その入谷先生に最後に連絡をしたのは半年前だった。悪性腫瘍が発見され、休職する直前に、私の方から彼女のセミナーなどの日程を尋ねていた。返信はあったが、それ以降、私から連絡をしていなかった。病気のことを、休職することをどう伝えたらいいか、わざわざ伝える必要があるか悩み、そのまま今に至っていた。
それほど頻繁に連絡を取っていたわけではないが、ここまで間が開くのは初めてで、休職したことを黙っていたことが、なんとなく気まずかった。
『お久しぶりです。ご連絡が遅くなり申し訳ありません。諸事情により先生の講演に伺えず、大変残念に思っております』
こんな書き出しでいいだろうか。
『というのも先日、手術をする必要のある病気を患い、無事手術が完了しました。お恥ずかしいことですが、現在は休職中の身です』
と書き連ねて、そこで話題が広がるのは嫌だなと思った。
私は小夜子のことについて聞きたかった。
『私が学生だった当時、西塚小夜子という同期生がいたこと、先生は覚えていらっしゃいますか? 大学三年生の後期から出席せず、ついに卒業まで彼女は復帰しませんでした。彼女がその後どうなったのか、何かご存知ありませんか?』
そう入谷先生にメールを送った。
もしかしたら小夜子は私の卒業後に復学し、どこかで元気に暮らしているかもしれない。私が見たものはただの幻覚で、小夜子が事故に遭った事実などなければいい。
この行為が私の狂気を証明する結果になっても構わない。
ただどうしても小夜子の今が知りたい。
* * *
入谷槇子先生との出会いは、小夜子や音瑠以上に、私の人生に大きな影響を与えた。
先生と出会ったのは、大学に入る前、高校三年の時だった。
当時、私は音瑠のいる高校を辞めて、通信制の高校に通っていた。
通信ではレポートや課題を自宅でやり、それを提出するだけだったので、ありあまるほど時間があった。私はその時間を利用して、美術館や博物館などを巡っていた。
ただ巡るのも飽きてくるもので、スタッフによるギャラリートークや、講師によるセミナーにも参加するようになった。
入谷先生と出会ったのは、シルクロード関連の美術品や考古資料を展示している博物館だった。そこで彼女は講演を行なっていた。確か『シルクロード以前・ラピスラズリの道』だったと思う。私はそれに参加した。
ラピスラズリは青色の石で、金色の斑点や白い縞模様が入っていることがある。それは夜空とそこに浮かぶ星々を連想させた。
その美しさから、西はメソポタミアやエジプト、東はインドや中国、果ては日本にまで伝わった。
ラピスラズリはアフガニスタン東北部のバダフシャンが古代から主要な産地で、今でも宝石として使用できる品質のものは、ここから採掘されるものだけとされる。アフガニスタンは西アジアに位置し、西にイラン、南にパキスタンと国境を接している。
ラピスラズリは人類の歴史の中でも、工芸品や美術品として利用された鉱物では最古のものとされる。古代世界ではビーズとして用いられ、後には砕いて粉末にし顔料として使われた。
交易の痕跡として、紀元前7000ー5500年頃のパキスタン地域にある新石器時代の遺跡から、アフガニスタン産のラピスラズリのビーズが発見されている。
紀元前3600年頃にはシュメール文明のあった北部メソポタミアにも伝わり、装身具や工芸品に用いられた。メソポタミア地域では紀元前2700年頃に最盛期を迎え、『ウルのスタンダード』と呼ばれる、横長の箱にラピスラズリや赤色石灰岩、貝殻を固着したモザイクの施された工芸品が作られた。
古代エジプトでも紀元前3000年頃の遺跡から装飾品として出土している。紀元前1323年頃に没したツタンカーメン王の、幸いにも盗掘をほとんど受けなかった墓から、ラピスラズリを使用した装飾品が発見されている。ファラオという言葉から真っ先に連想するであろう、フードを広げたコブラを思わせる頭巾を被った黄金のマスクと、腕飾りのスカラベにラピスラズリが使用されていた。
シルクロードと呼ばれるユーラシア大陸を横断する、地中海と中国をつなぐ長大な交易路が出現するのが紀元前2世紀以降であり、それよりはるか以前から西方世界にはラピスラズリの道があったことになる。
東方世界では、紀元前2世紀以降に開かれたシルクロードの交易によってもたらされた。日本では8世紀に伝わり、方形や半円形のラピスラズリを留めた革帯が正倉院に収蔵されていた。
このラピスラズリの流通から、当時の交易の広がりと人々の移動を知ることができた。
私はそのダイナミックな歴史背景と、そうして作られた当時の工芸品に魅せられた。私は入谷先生の講演内容を、その場では話半分も分からなかったが。
講演会の後、私が展示物を見ていると、たまたま先生とすれ違った。声をかけてくれたのは彼女からだった。
「さっき、講演会にいたよね」
「はい」
「君は高校生かな? 古代の芸術や工芸品に興味があるの?」
「なんとなく美術に興味があって。こういうのも面白いですね」
「作品を鑑賞する上で、その作品の物語を知るだけじゃなく、その背景や歴史を学ぶのも楽しいよ。この材料はどこから来たのか、その作品ができるまでにどれだけの人が関わっているのか。そういうことを知ると、その時代背景が立体的に見えてくるのがすごく面白いよ」
そう入谷先生は笑った。それを見たら、久しぶりに穏やかな気持ちになれた。そのせいか、私は思わず聞いてしまった。
「私、美術に関わる仕事がしたいんです。でも絵は描けないから、そしたら他にどんなのがありますか?」
「そしたら学芸員なんていいんじゃないかな?」
「学芸員?」
「博物館や美術館で、作品の収集や保存をする仕事。その作品の価値や背景を調べたり、作品やその技法が社会に与えた影響や歴史を研究したりするお仕事」
絵を描く道を諦めた私にとって、それは何か天啓のように思えた。何度も美術館や博物館に通っているのに、今まで考えもしなかった。展示物は見ても、その裏側まで気を回したことがなかった。
そんな形で関わることができるのか。作る側でなくても、芸術やその表現の歴史を学んだり、作品や造形物に触れたり、保存する仕事もいいなと思った。学芸員として働く未来の自分が見えた気がした。
「私、大学で古代美術史の講義をやってるから、もし興味があったら来てみて」
そう言って先生は私に名刺をくれた。そこには彼女の名前と大学名、連絡先が記載されていた。
その後、私は彼女にメールをして、何度か講義の見学に行った。研究室で話し込んだこともある。
そして私は学芸員になる夢を抱いた。そのために彼女のいる大学に進学し、ゼミに入った。
* * *
メールを送信したが、入谷先生からいつ返信が来るか分からない。
何か他に手立てはないか。
私は小夜子の名前で検索をかけてみた。もしも本当に事故に遭っていたのなら、ニュースになっているかもしれない。しかし同姓同名の別人も出てこなかった。
やはり私の頭がおかしいだけなのか。
私は小夜子が無事であるのなら、私の頭がおかしい方がいい。ただあの幻覚があまりにもリアルすぎて、彼女が無事であることをどうしても確認したかった。
不意に私のスマートフォンが振動した。電話がかかってきたようだ。画面を見ると、入谷槇子先生からだった。彼女から電話がかかってくるのは予想外だった。
私は急いで電話に出る。
「はい、蛍野です」
『蛍野さん、久しぶり。入谷です』
「お久しぶりです」
『今、電話してても平気?』
「はい、平気です」
『手術って、何があったの? 聞いても問題ない? 言いたくなかったら言わなくてもいいから』
「いえ。単純にガンで、その手術で入院してました」
電話口の向こうで先生が息を呑んだ音が聞こえた。
『それで、もう治ったの?』
「いちおうは。定期的な診察と、薬を飲み続ける必要がありますけど。どうしても体質的なものなので、再発のリスクが高いので」
『そうなんだ。お仕事は、どうするの?』
「しばらく休職して、考えようかと。手術は成功しましたけど、どうしても体の方が。もしも展示品や収蔵品を傷つけたらと思うと、怖いですからね」
『もし、蛍野さんがよかったら、私のアシスタントやってみる? テキストベースで退屈かもしれないけど』
「ありがとうございます。むしろ興味があります」
『今度、調子がいい日に研究室においでよ。いろいろお話ししよう』
「はい、ぜひ」
『それか私の方から蛍野さんの最寄りまで行くよ? 今どこ住んでいるの?』
「今友人の家にお世話になってまして。私の方からお伺いさせていただきます」
『そう? 分かった。待っているね』
私は久しぶりに穏やかな気持ちになった。
しばらく連絡をしなかったから、入谷先生に忘れられているか、よく思われていないのではないかと心配だったが、彼女は初めて会った頃から変わらなかった。
『でも声の感じから、蛍野さんが元気そうでよかった』
「たぶん先生と話してるからですよ」
入谷先生は、高校を辞めて不安だった頃、進学や将来のイメージをもたせてくれた。大学ではゼミの担当として就職活動の応援をしてくれた。
私の人生で一番の恩師だった。
『そういえば、西塚さんのことだったよね』
「はい」
微かに入谷先生の声のトーンが変わった気がした。
『西塚さんのこと、前にも蛍野さんに聞いたよね? 当時、先生たちの間で問題になったんだけど、彼女、いわゆる家出をして行方不明になったの。置き手紙もあって、自らの意思で失踪する旨が書かれていたらしくて』
「そうだったんですね……」
『黙っててごめんね。彼女のプライベートに関わることだから、私もあなたに話していいものか判断がつかなくて。先生同士でも、他の学生に悪影響を与えるからって、口外禁止が取り決められていたの』
「いえ。小夜子が自分の意思で失踪して、私に何も言ってくれなかったのだから、しょうがないと思います。それから彼女は見つかったんですか?」
『私も大学も、その後どうなったのかは知らないの。結局、保護者の方が退学手続きをしてしまったから。ただ自殺のおそれがない一般家出人の場合、捜索願が出されても、警察が積極的に探すことはないから。ニュースになったりしてないってことは、無事でいるってことだと思う』
「小夜子の実家の住所とか連絡先って、教えてもらうことできます?」
『蛍野さんなら問題ないと思うけど、一度私の方から、西塚さんの実家に連絡して許可をもらうね。そしたら蛍野さんに改めて伝えるよ』
「すみません、お手数をおかけします」
それから私たちは他愛もない世間話をして、電話を切り上げた。
私はじっと、真っ暗になったスマートフォンの画面を見ていた。そこに反射する私の顔がうっすらと浮かんだ。
入谷先生も小夜子の近況を知らなかった。
そして小夜子は事故ではなく、行方不明になっていた。それは新しく明らかになったことではないが、家庭の事情や本人の病気で大学をやめたわけではなく、本人の意思で失踪したことが分かった。
なぜ小夜子は失踪しなければならなかったのだろうか。その失踪を宣言する置き手紙、彼女の家族に連絡が取れたら、それを見せてもらうことは可能だろうか。
もし見ることができれば、何か分かるかもしれない。しかし私にそのことを伝えずに失踪している以上、私には知られたくないことなのかもしれない。当時、それほど親しくなかった共通の知人も、ただ話題に上がらなかっただけかもしれないが、彼女が失踪した事情、および失踪自体を知らないようだった。ただ大学にいない、音信不通のだけ。別に珍しくも異常なことでもない。
この世界の彼女にとって、私も伝える必要のない部外者の一人でしかなかったのだろう。
それでも白昼の幻のように見た小夜子。手足を失い、恐ろしい美女に車椅子を押される小夜子。あの小夜子が私に向けた気遣いと優しい言葉。
どうしてもそれらが私の妄想や幻覚とは思えなかった。
イスカのことが頭をよぎった。
仮にすべて幻覚ではなかったとしたら。私は行方不明になっていた小夜子と再会したことになる。アンナの連絡先が消えたことは、そのアンナがイスカのように、ヨーグルトをプリンにしたように過去を置き換えていたとしら。
そんなことができる人が、もしかしたらこの世界に何人もいるのかもしれない。
イスカなら、何かを知っているのではないだろうか。
* * *
正直、小夜子については手詰まりだ。
イスカのことを信頼しているわけではないが、今は藁にもすがりたい気持ちだった。
もしイスカが変な対価を求めてきたら、その時は拒絶すればいい。
とにかく名刺の番号に連絡すればいいのか。ただどう連絡すればいいだろうか。彼女は連絡してほしい、改めて会いたいと言っていたが、それなりに無礼な態度をとった自覚があるので、どの面下げてという気もする。
いったん音瑠に相談しよう。
私は寝室を出てリビングに降りると、ちょうど音瑠が出てくるところだった。
「あ、南帆ちゃん、ちょうどいいところに」
「どうしたの?」
「ねぇ、南帆ちゃん。あの、お願いがあるんだけど……」
「なに?」
「イスカちゃんが、また南帆ちゃんに会いたいって……」
「は?」
「南帆ちゃんが、私に用事があるはずだから、って連絡があったんだけど……」
音瑠は本当に困っている様子だった。私があまりイスカのことを快く思っていないことを知っているのだろう。
「分かった。会う。いつ?」
「今日の午後四時ごろ、お茶でもしないかって……」
「急だね。まあ話が早くていいか」
「よかった……」
音瑠がほっと溜め息をつく。彼女にしてみれば、気を遣う二人の板挟みになって気苦労があるのだろう。
しかしなぜこのタイミングでイスカからコンタクトがあったのか。私はさっきイスカのことを思い出し、彼女を利用しようと考えた。その心の中を見透かされているようで気持ちが悪かった。
たとえばこの家に盗聴器や隠しカメラが仕掛けられていたとして、果たして私はイスカに会いたいような口ぶりや、態度を示したことがあっただろうか。仮に音瑠が逐一私の様子をイスカに報告していたとして、私が会いたいと思っていることに気づくだろうか。
私が小夜子のこと──そこまで分からないにせよ、何かに思い悩んでいるのを察知して、先回りして手を打ってきた。それがうまくハマったにすぎないのではないか。そう考えるのが一番現実的だ。しかしその方が非現実的に思えた。
いったい私の世界はどうなってしまったというのか。得体の知れない何かに運命を支配されている気分がした。本当は私は死んでいて、それと知らず地獄にでもいるのだろうか。
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