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第二章
第三話
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手術から六日が経った。
術後の経過もよく、今日、私は退院することになっていた。
私は大学生の時から着ているジャージに着替える。家の中でも外に出かける時もこれで事足りるので便利だった。
私が呑気に着替えて佇んでいる間に、音瑠が健気に病室にある私の荷物をまとめていた。膝丈ぐらいのキャリーケースが一つに、手提げ袋が一つ。
音瑠は白のニットのセーターにデニムのパンツ。胸と腰のラインがよく出ていた。女性らしい美しいプロポーションをしている。貧相な小夜子と、小柄な私とは全然違って見えた。
「タクシーで家まで送っていくから」
音瑠はあれからも毎日、私の見舞いに来ていた。いったい彼女はそれで生活が成り立つのか心配になったが、別に彼女のことなどどうでもいいので考えないことにした。
私が死ななかった世界で──音瑠は、私が半年前に実家に帰った直後から、私の世話を焼くようになった。そのたびに私にぞんざいに扱われ、罵倒や暴力を受けても、泣いて謝って、しつこくつきまとってきた。どうしてそこまでするのか理解できず、ただ彼女の中の罪悪感を紛らわせたいだけの自慰行為だと思っていた。だから私は借りを返すつもりもなければ、借りにも思っていない。
虫唾が走るが、ママに負担をかけたくない。治療で体力は消耗し、薬で思考も鈍くなってきた私は、彼女の世話になることを甘んじて受け入れた。
彼女のことは今でも嫌いだ。赦せない、という思いもある。しかし私の中にある従来の記憶──便宜上、従来の記憶と現在の記憶と呼び分けることにする。従来の記憶は私自身が経験したと実感するもので、同時に私が現在置かれている状況と矛盾する。その記憶では私は末期ガンで死んだはずだからだ──では、彼女が罪滅ぼしだとか自己満足ではなく、本当に私のことを思って一緒に死ぬつもりだったことを知っている。そして私は音瑠の指を奪った記憶もある。たとえそれが妄想や幻覚だったとしても、あの時の感情や光景が、生々しく思い出すことができた。
その記憶があるから、以前より彼女を軽んじて乱暴に扱うことができなかった。
「音瑠、ありがとう」
私がそう言うと音瑠は驚いたように私を見て、にっこりと笑った。私はそれを見て苛立ちを覚えた。泣くまで罵倒して、土下座させて踏みつけたい衝動に駆られたが、ぐっと堪える。
私たちは病室を出た。廊下を歩いている時、
「家に帰りたくない」
私は思わず口にしてしまった。
家に帰ればママがいる。しかしそこには半分だけ血のつながった妹の星凛がいる。星凛は私のことが大嫌いだった。そのことを知ってしまった。
「どうするの?」
音瑠の疑問には答えない。
貯金を切り崩して生活するのは現実的ではない。これからの通院生活で必要になるだろうし、また再発する可能性が十分にある。そのことや、体力の衰えや薬の副作用から、しばらく復職は無理そうだった。
いっそあのまま死ねていたら、こんな悩まずに済んだのに。どうして生きていると惰性で生きてしまうのか。そう思うと溜め息が漏れそうになった。
「もしよかったら、私のアトリエ代わりの家にくる? 海の近くにあって、ここから少し遠いけど、静かなところで療養にいいかも」
私は音瑠がそう言うことは分かっていた。
音瑠はことあるごとに私に言った。「退院したらどうするの? 実家に帰るの?」、「通院の日、教えてね。付き添いたいから」、「私で役に立てることなら何でも言って」、「無理に仕事復帰しないで、しばらく休んだら?」、「私、それなりに貯金あるから。南帆ちゃんの生活費とか、いくらでも出すよ」と。彼女が退院後も私と接点を持ち続けたいことを身にしみて感じていた。
どうして彼女がそんなに私のことを気にかけるのか理解できなかったが、私はその感情を利用しようとしていた。
この先も音瑠の顔を見なければならないと思うと憂鬱な気持ちになるが、負担をかけたくない家族より、負担をかけても罪悪感のわかない彼女の方が気楽だろう。家族といれば、私の中の苛立ちや気まずさは私自身に向かってしまう。音瑠となら、怒りや憎しみを彼女にぶつけてしまえばいい。
「うん。そうする」
それに音瑠は晴れやかな笑顔を見せた。
「嬉しい! それじゃ、一度南帆ちゃんの家に寄ってからにする?」
「いや、このまま音瑠の家でいい?」
「うん、いいよ!」
財布やクレジットカードは病室の引き出しにしまってあった。荷物に入院中の着替えも入っているので、実家に何かを取りに戻る必要はない。銀行口座のカードは実家にあるが、クレジットカードは手元にあるので特に不自由はしないだろう。落ち着いてから、実家に誰もいない頃を見計らって、回収しに行けばいい。
「じゃあ私から南帆ちゃんのお母さんに連絡を入れておくね」
「よろしく」
音瑠の横顔を見上げると、口元が綻んで嬉しそうだった。
私はそれに他人事のように、どうしてこんな陰気で陰険な人間を嬉々として引き取るのか、と不思議に思った。
私は退院手続きをしようと思ったが、音瑠がすでに済ませていた。さらに会計も。
「申請に必要だと思うから、あとで領収書とか渡すね」
音瑠の気遣いは、少しずつ私を絡め取っていく蜘蛛の糸のように感じられた。
私たちは病院前に停車しているタクシーに乗る。
音瑠が運転手に、目的地とルートを指示していた。
タクシーはしばらく市街地を細々と走った後、片側三車線の広い道路に出る。すると速度が上がり、風が音を立てて唸る。高速道路にでも乗ったのだろうかと思った。
何もかも置き去りにして過ぎ去っていく情景は、なんだか爽快で清々しい気分だった。タクシー料金のメーターが跳ね上がっていくのも小気味いい。さすがに全額音瑠に払わせるつもりはなかったが、いったいいくらまで跳ね上がるのか想像もつかなかった。そもそもタクシーなんて乗るのは何年ぶりか。最後に乗ったのは、小夜子とどこか旅行に行った時だろうか。小夜子と別れて家を出た日は、駅前のファミレスで時間を潰し、早朝の電車で実家に帰った。あの時は余命も分かっていたのに、タクシー代を惜しむとはおかしな話だ。
違う──小夜子が私を探しにきてくれるんじゃないか、そんな微かな期待を、私は捨てきれなかった。
私は妄想と区別もつかない記憶を思い出し、身を引き裂かれるような心の痛みと同時に、何か甘く切ない気持ちになった。
約一時間ほど、内陸を走り続けた。音瑠のアトリエ兼家は海のそばにあるということだったが、まったく気配を感じられなかった。
市街地に入るとタクシーは速度を落とし、何度か角を曲がると、そのうち停車する。
「あ、ここです」
タクシー代は三万円を超えていた。音瑠がクレジットカードで支払いを済ませる。
彼女の家に行くと言ったのは私だ。私の方で支払って、いくらか現金で音瑠から徴収するつもりだったが、私のカードはトランクに預けた荷物の中だった。
私はいても意味がないので先に降車する。
外に出ると海風が吹いていた。風に潮の香りがする。遠くから波の寄せて返す音が聞こえる気がした。
会計を済ませた彼女が降車し、トランクから荷物を取り出す。さすがに私も手伝う。
「あとで払うよ」
「いいよ。南帆ちゃんのお金は南帆ちゃんのために使って」
彼女がそう言うことは分かっていた。改めて入院費用とタクシー代、世話になる分の家賃や生活費の見積もりを出してから、口座から下ろして渡すとしよう。
東京湾に面した半島の東側、そこに音瑠の作業場であるアトリエがあった。
「ここから毎日来てたの?」
「ううん。さすがに実家に帰ってたよ」
「そう」
「少し歩くと海が見えるよ。あとで案内しようか?」
「今日はいい」
音瑠のアトリエは戸建てだった。シンプルな外壁はグレー。車庫があるが車は停まっていない。
「駅までけっこう距離があるけど、バス停が近くにあるから、それで横浜とか繁華街に出られるよ」
音瑠が玄関を開け、私もそれについて行く。玄関からすぐに洗面所、浴室、トイレがあった。
「一階が作業スペースになっているから。二階に寝室があるから、南帆ちゃんが使って」
リビングに出る。南向きの窓から差し込む正午近くの日差しに、部屋の中が明るく照らし出されていた。そこにはデスクトップPCや液晶タブレットの置かれたデスクや、壁に立てかけられた彼女の作品があった。スキャナー台や本棚もあり、画材類は棚にあったり、床にある段ボールに入っている様子だった。額装されず、剥き出しで立てかけられた彼女の作品は、それらはアクリル板に描かれていた。半透明で、後ろの絵が重なって見えて、何かのパターンにしか見えず、もとがどんな絵なのかよく分からなかった。彼女がイラストレーターとして活動していることは、何かの雑誌かネット記事で見かけた。すぐに閉じたのでどんな作品を手がけているのかは知らない。
またリビングには大きな作業台があった。作業台にはレールのようなものが取り付けられていた。その上を走るのであろう機材もある。
私の視線に気づいたのか、音瑠が答える。
「UVダイレクトプリンターだよ。大きなポスターとか、紙以外のものに印刷するときに使うんだ」
「へえ」
それには少し興味がわいた。
またリビングの手前にキッチンがあり、シンクや冷蔵庫、ダイニングテーブルと椅子があった。二人分の椅子があり、一つは来客用か、あるいは同居人でもいたのか。興味がないので聞かなかった。
ふと気づいたが、猫の置物が目についた。デスク周りやダイニングテーブルに飾ってある。豹柄や雉虎、黒猫だった。小夜子が好きそうだな、と思った。つい、いもしない彼女のことを考えてしまうことが滑稽だった。
もっと開運グッズとかでごちゃごちゃしてそうな先入観があったが、そんなに散らかってもいない、整理整頓された作業場の印象だった。
音瑠は私の荷物を持って二階に向かう。階段を上ると、部屋が二つあった。
「右が寝室で左が物置きになってるから、使わないものとかあったら左の部屋に入れちゃっていいから」
右の寝室にドアを開ける。そこにはダブルベッドがあった。私は思わず身構えてしまう。
その不安を先回りして、音瑠が言う。
「寝室は南帆ちゃんが使って。私は一階の作業スペースで寝るから」
「うん」
音瑠は私の荷物を床に置いた。
「どうする? お昼ご飯にする?」
「私はまだいいかな。少し休みたい」
薬の副作用で食欲がわかなかった。今はとにかく眠い。
「分かった。私は一階にいるから、もし何かあったら呼んでね」
「うん」
音瑠は去り際に思い出したように言う。
「いい物件でしょ? イスカちゃんがアドバイスしてくれたの。二階のベランダから海が見えるんだよ」
「そう」
乙女桜イスカ──ここでまた彼女の名前が出るとは思わなかった。音瑠の知り合いの自称占い師。見た目は普通の女性だった。しかしその異様な言動によって、相手に自覚させず行動を支配する詐術師。関わってはいけない類の人間だと本能的に感じた。認識できない、閾値下で人の精神に干渉し、行動をコントロールする。それが彼女の本当の正体ではないだろうか。
「どういう関係なの?」
「え、イスカちゃんのこと?」
私が興味ありそうなことを言ったからか、音瑠が少し嬉しそうだった。私は舌打ちしそうになるのを堪える。
「どこで知り合ったのかな、って」
普通に生きていたらそう出会うこともないだろう。イスカや同類に遭遇しないためにも参考までに聞いておく。
「南帆ちゃんはシスシスって知ってる?」
「なにそれ?」
「女性同士のマッチングサイトなんだけど……あ、普通に友達とか作ったり、一緒に食事をしたりするだけで、中にはそういう目的の人もいるけど、私はただ友達がほしくて始めただけで」
音瑠が聞いてもいない言い訳を始めた。
「イスカちゃんはそこで占い師として活動してて、すごく当たるって有名で。シスターによるファンコミュニティもあるんだよ」
有名人と知り合いであることを自慢するような口ぶりだった。
私は呆れて何も言えなくなった。
音瑠が出ていくと、私は緊張の糸が解けたような気がした。ベッドに身を投げて横たわる。しばらくこの部屋に彼女が帰っていなかったからか、少し埃っぽく感じた。むしろ生活感がなくなっていて助かったと思った。彼女の匂いが残っていたら、あまり気分のいいものではない。
音瑠のベッドの上で、久しぶりに気が緩んだ。とりあえず一段落、といったところか。二週間後には検診に行って、それからも定期的に検診が必要だった。一度ガンになると、正確には私はガンになりやすい体質らしく、再発したり、すでに転移している可能性がある。この先も薬物療法を続ける必要がある。まだ私は死の影から逃げきれていない。薬の副作用もあるのか、体力や集中力も衰えている。この状態で前の仕事に戻れるだろうか、戻るとして生活はどうなるのか、不安しかなかった。
それでも今日ぐらいは先のことを考えず、ゆっくり休むとしよう。
枕は東向きだった。正午の日差しがカーテンに透けて、私の瞼を焼く。小夜子の家は東向きで北枕だったか。そのことを思い出した。
彼女は今頃どうしているのだろうか。まだあの家に住んでいるのだろうか。一度、近況が気になり連絡しようと思った。私たちが付き合っていた、そして別れた過去がなくなっているのなら、友達のままでいられるかもしれない。
連絡しようとして、彼女との最後のやりとりが五年前で止まっていたのに、私は戦慄して連絡をためらってしまった。
過去が変わってしまっている。彼女の痕跡が消えてしまっている。
乙女桜イスカはこの現象について知っているようだったが、得体の知れないあの女に、このことを素直に相談していいものか。
しかしこの記憶の謎を解いたから、なんだというのか。小夜子が戻ってくるわけではない。仮に戻ったとしても、私たちに未来があるとは思えない。
眠りが近づき、意識がバラバラになっていく。小夜子との思い出がいくつもよぎっていった。彼女と旅行した日。彼女に告白したこと。彼女と体を重ねたこと。彼女の声や、指や温度。別れを告げた時の彼女の困惑した泣きそうな顔。
まだ私のことを好きでいてくれたのだろうか。
そのすべてがなかったことになってしまった。
私はそれが悲しくて、寂しかった。
どうして私は生きてしまったのだろう。こんな世界なら、あのまま死んでしまいたかった。
* * *
小夜子は特別美人というわけでもなかった。
細身でラフな格好で、しかし無頓着で不潔な感じはなかった。着飾らない、潔さのようなものがあった。
背は私より高く、胸は薄い。久我先輩に似たプロポーションをしていた。
髪はサラサラで、セミロングからショートの周期を繰り返す。特に染めているのも見たことはない。髪型にもこだわりはないようだったが、ショートの時にのぞく細い首筋、セミロングの時にかき上げる仕草は色香を匂わせた。
輪郭は少しエラが張っていて、丸顔というよりも五角形を逆さにした形をしている。目は少し左右に離れていて、奥二重で黒目がち。丸みのある鼻はくっきりとした小鼻があり、唇は厚ぼったい。
爬虫類よりも両生類、水辺と陸地を往来する気ままさからカエルを連想した。何を考えているか分からない目線と相まって、なんともいえない不思議な魅力があった。
彼女は自然と人の輪の中にいて、いつもしれっと離れていき、群れることに執着せず、孤独を恐れない孤高さを感じると同時に、その世渡りの上手さと気楽さに憧れもした。
「小夜子って誰とでも仲良くなれるよね」
思わずそう漏らした。ベッドの上で裸で寄り添っている時だった気がする。隣に彼女の温度と感触があった。
「たぶん私がどうでもいいと思ってるからじゃないかな。誰かに期待したり、求めたりしないから。一人になろうがどうでもいい。誰も私のことは分からない。そんな諦めみたいなものがある気がする」
そう吐露した彼女に底知れぬ孤独を感じると同時に、雲のような自由さを感じた。
「幼稚園の頃にさ、好きな女の子がいたんだ」
それに私はどきりとした。
「どういう流れでそうなったのか、忘れちゃったんだけどさ。ある日、私たちはキスをしたの。だけど次の日からその子に避けられて、結局理由は教えてもらえないままだった。いつの間にか彼女と遊ぶこともなくなって、彼女とはそれっきりだった。だから私が悪かったんだと思うしかなくて、誰かを好きになることも、好きだと考えることもやめた」
「今でもその子のこと、恨んでいる?」
「恨んだことは一度もないよ。正直、顔も名前も覚えていない」
「そう」
「だけど、だからかな、暗くて陰鬱な絵ばっかり描いてたのは」
「私は小夜子の絵、好きだよ」
私は昔、ギュスターブ・モローやオディロン・ルドンの、象徴主義の陰鬱で不気味で暗示的な、それでいて儚く美しい色合いの絵が好きだった。小夜子の絵にはその傾向があって、私たちは趣味が合うと思った。
「ありがとう。でもやっぱり、私はおかしいんだな、って心のどこかで思ってしまうのか。他の人と同じように生きることも、違うように生きることも、諦めちゃったんだよね。深海の底に沈んでいくような息苦しさと、孤独があった」
そう言って小夜子は、私の頭を撫でた。
「だけど南帆と出会えて、私はやっと息ができたよ」
私より大きな小夜子の手。彼女の指は、薬指が人差し指より少し長い。彼女の手に撫でられると、私はすごく安心する。彼女の手に、腕に抱かれると、私は世界で一番幸せな気持ちになれた。
その指に、手に触れられ、あの瞳に見つめられると、私自身がカンバスになったような気持ちになった。彼女に身を委ね、彼女の一筆一筆に私は描かれ、色づいていく。既に断筆して久しく、その指が、私たちが新たな作品を作ることはもうないかもしれない。ただ私は彼女に描かれていく私と、私たちの日々が何より愛しく、私の中に宝石のように、きらきらと切なく光る思い出として散りばめられていった。
* * *
小夜子との、もうこの世界にない記憶を夢で見たような気がした。
目覚めると、見慣れない天井があった。病院と同じ平坦な無地の天井だが、真新しかったので違うことが分かった。音瑠のアトリエの二階にある寝室の天井だ。そのことに少し遅れて気づいた。日が暮れて、すっかり部屋は暗くなっていた。
私は体を起こす。掛け布団が滑り落ちた。私は布団をかけずに寝た気がする。誰かが布団をかけ直してくれたようだった。
私は一階に下りる。あまり空腹感はないが、喉が渇いた。
リビングの作業スペースで、音瑠がデスクの前に座り、液晶タブレットに向かってペンを走らせていた。私に気づかない様子で集中している。何を描いているのか、拡大して細部を描き込んでいるようで全体像は分からない。
私は音瑠の横顔と手元を見た。
音瑠の指。もう一つの記憶で私が奪った指。私が奪った彼女の未来。
音瑠の指は、私が辛かった時、いつも励ましてくれた。彼女の指が私の頬に触れ、指に触れてくれたから、私は俯かずにいられた。そして私の夢や未来を奪って壊した指でもある。
その指はペンを取って、液晶画面に彼女の世界を紡いでいく。そうして何年も描き続け、積み重ねた年月に磨き上げられた、彫刻のように美しく力強い指先だった。それが小夜子の指に重なって見えた。
私が愛した、私を愛してくれた指。小夜子はずっと絵を描いていなかった。その代わり、まるで私をカンバスにして、彼女の愛を刻み込んでくれた。この世界から消えてしまっても、私は彼女を、その指を覚えている。
私の体も、彼女が触れていないはずのこの世界の私でも、彼女の指を想うと疼いた。もっと触れてほしい。愛してほしい。だけどそれはもう叶わない。最期まで一緒にいられる可能性を諦めた私への罰だ。
それでも思ってしまう。私の死と小夜子を失うことは等価だったのだろうかと。
私が見つめていると、音瑠が私に気づき、弾かれたようにペンを手放す。
「あ、南帆ちゃん、おはよう! ご飯にする?」
「いい。喉渇いただけ」
音瑠が立ち上がる。
「何飲む? お茶でもいい?」
「いや、自分で出すからいい。音瑠は仕事してなよ」
「いいよ、気にしないで! 冷たくてもいい? 暖かい方がいいかな?」
音瑠はキッチンに立ち、急須に褐色の茶葉を入れる。電気ポットの蓋を押してお湯を注いだ。
できればあのお茶は飲みたくなかったのだが。
私は抗議する気力もなかったので、あの毒茶ができるのを座って待つ。
「順調なの?」
「え?」
驚いたように音瑠が振り返った。
「作品、仕事? 私のせいでけっこう遅れてるんじゃない?」
「そんなことないよ! 南帆ちゃんのおかげで、今までにないぐらい順調だから!」
「そう」
今彼女はどんな作品を描いているのか、聞いたら、興味がありそうに思われそうで嫌だった。ちょっとした世間話をしようにも、言葉を一つ一つ選ばなければいけなかった。それが面倒で自然と口数が減る。
彼女が描いた作品──今でも鮮明に覚えているのは、少女二人が向かい合い手を取り合っている絵。それは彼女の連作『ナホちゃんとわたし』の第一作目。私の名前が使われているのが恥ずかしかったが、その作品世界の設定から、実際の私は無関係に思えた。
彼女の作品世界では猫耳の少女が主役となる。主役の『わたし』は黄色地に黒の斑点、豹柄模様の、ベンガル猫を擬人化したようなキャラクターだった。そしてもう一人、黒猫の『ナホちゃん』。金色の瞳からボンベイという品種かもしれない。この『わたし』と『ナホちゃん』が、猫耳人間しかいない世界を冒険するのだが。『わたし』は一人だけ模様が違うことから、他の猫耳人間たちから迫害とはいかないまでも、いじめられたり無視される。しかし『ナホちゃん』だけが、『わたし』のことを友達として接してくれていた。当時の私は逆じゃないかと思ったが。私にとっての『ナホちゃん』が音瑠だったから。
とにかくこの二人が愛らしく描かれ、幻想的な風景の中、友情を紡いでいくというのが彼女の物語だった。
私が覚えているその作品では、『ナホちゃん』が『わたし』の手を取り向かい合っていて、立ち上がるのを助けているようにも見えた。不安そうに見上げる『わたし』に『ナホちゃん』が優しく微笑みかけている。夜空には月がなく、その代わり一際大きく光芒を放つ星がある。そして彼女たちを取り巻くように、アイビーとその白く小さな花が配されていた。色彩のセンスや構図、アイデアが美しく、少女趣味になりがちな世界観を、アルフォンス・ミュシャのリトグラフのように描いていた。
その作品のタイトルは『今生まれた星』。それを描いたのは彼女が中学二年の時だった。私に付き合う形で入った美術部で、私がデカダン趣味の陰鬱で気味の悪い絵を描いている間に、彼女の才能は開花した。同時期に私が描いたのは、真っ黒な背景に、ナイフで切り開かれた柘榴と、こぼれる果肉の粒だった。タイトルは『私の心臓』。
私は彼女の作品を見て、彼女の才能と世界観に打ちのめされた。同時に尊敬してますます憧れた。
だから私は彼女と絶交した後、美大へ進学することを諦めた。そこで彼女と出会う可能性があり、同じ業界に進みたくなかったからだ。彼女が本人の意思で美術系の分野に進むかは分からなかったが、彼女には十分な才能があった。
そして予想通り、彼女はイラストレーターとして活躍している。
私の夢と未来を奪ったというけれど、果たして音瑠がいなかったとして、私が夢を叶えられたかどうか疑わしい。私はいつも逃げてばかりだった。
術後の経過もよく、今日、私は退院することになっていた。
私は大学生の時から着ているジャージに着替える。家の中でも外に出かける時もこれで事足りるので便利だった。
私が呑気に着替えて佇んでいる間に、音瑠が健気に病室にある私の荷物をまとめていた。膝丈ぐらいのキャリーケースが一つに、手提げ袋が一つ。
音瑠は白のニットのセーターにデニムのパンツ。胸と腰のラインがよく出ていた。女性らしい美しいプロポーションをしている。貧相な小夜子と、小柄な私とは全然違って見えた。
「タクシーで家まで送っていくから」
音瑠はあれからも毎日、私の見舞いに来ていた。いったい彼女はそれで生活が成り立つのか心配になったが、別に彼女のことなどどうでもいいので考えないことにした。
私が死ななかった世界で──音瑠は、私が半年前に実家に帰った直後から、私の世話を焼くようになった。そのたびに私にぞんざいに扱われ、罵倒や暴力を受けても、泣いて謝って、しつこくつきまとってきた。どうしてそこまでするのか理解できず、ただ彼女の中の罪悪感を紛らわせたいだけの自慰行為だと思っていた。だから私は借りを返すつもりもなければ、借りにも思っていない。
虫唾が走るが、ママに負担をかけたくない。治療で体力は消耗し、薬で思考も鈍くなってきた私は、彼女の世話になることを甘んじて受け入れた。
彼女のことは今でも嫌いだ。赦せない、という思いもある。しかし私の中にある従来の記憶──便宜上、従来の記憶と現在の記憶と呼び分けることにする。従来の記憶は私自身が経験したと実感するもので、同時に私が現在置かれている状況と矛盾する。その記憶では私は末期ガンで死んだはずだからだ──では、彼女が罪滅ぼしだとか自己満足ではなく、本当に私のことを思って一緒に死ぬつもりだったことを知っている。そして私は音瑠の指を奪った記憶もある。たとえそれが妄想や幻覚だったとしても、あの時の感情や光景が、生々しく思い出すことができた。
その記憶があるから、以前より彼女を軽んじて乱暴に扱うことができなかった。
「音瑠、ありがとう」
私がそう言うと音瑠は驚いたように私を見て、にっこりと笑った。私はそれを見て苛立ちを覚えた。泣くまで罵倒して、土下座させて踏みつけたい衝動に駆られたが、ぐっと堪える。
私たちは病室を出た。廊下を歩いている時、
「家に帰りたくない」
私は思わず口にしてしまった。
家に帰ればママがいる。しかしそこには半分だけ血のつながった妹の星凛がいる。星凛は私のことが大嫌いだった。そのことを知ってしまった。
「どうするの?」
音瑠の疑問には答えない。
貯金を切り崩して生活するのは現実的ではない。これからの通院生活で必要になるだろうし、また再発する可能性が十分にある。そのことや、体力の衰えや薬の副作用から、しばらく復職は無理そうだった。
いっそあのまま死ねていたら、こんな悩まずに済んだのに。どうして生きていると惰性で生きてしまうのか。そう思うと溜め息が漏れそうになった。
「もしよかったら、私のアトリエ代わりの家にくる? 海の近くにあって、ここから少し遠いけど、静かなところで療養にいいかも」
私は音瑠がそう言うことは分かっていた。
音瑠はことあるごとに私に言った。「退院したらどうするの? 実家に帰るの?」、「通院の日、教えてね。付き添いたいから」、「私で役に立てることなら何でも言って」、「無理に仕事復帰しないで、しばらく休んだら?」、「私、それなりに貯金あるから。南帆ちゃんの生活費とか、いくらでも出すよ」と。彼女が退院後も私と接点を持ち続けたいことを身にしみて感じていた。
どうして彼女がそんなに私のことを気にかけるのか理解できなかったが、私はその感情を利用しようとしていた。
この先も音瑠の顔を見なければならないと思うと憂鬱な気持ちになるが、負担をかけたくない家族より、負担をかけても罪悪感のわかない彼女の方が気楽だろう。家族といれば、私の中の苛立ちや気まずさは私自身に向かってしまう。音瑠となら、怒りや憎しみを彼女にぶつけてしまえばいい。
「うん。そうする」
それに音瑠は晴れやかな笑顔を見せた。
「嬉しい! それじゃ、一度南帆ちゃんの家に寄ってからにする?」
「いや、このまま音瑠の家でいい?」
「うん、いいよ!」
財布やクレジットカードは病室の引き出しにしまってあった。荷物に入院中の着替えも入っているので、実家に何かを取りに戻る必要はない。銀行口座のカードは実家にあるが、クレジットカードは手元にあるので特に不自由はしないだろう。落ち着いてから、実家に誰もいない頃を見計らって、回収しに行けばいい。
「じゃあ私から南帆ちゃんのお母さんに連絡を入れておくね」
「よろしく」
音瑠の横顔を見上げると、口元が綻んで嬉しそうだった。
私はそれに他人事のように、どうしてこんな陰気で陰険な人間を嬉々として引き取るのか、と不思議に思った。
私は退院手続きをしようと思ったが、音瑠がすでに済ませていた。さらに会計も。
「申請に必要だと思うから、あとで領収書とか渡すね」
音瑠の気遣いは、少しずつ私を絡め取っていく蜘蛛の糸のように感じられた。
私たちは病院前に停車しているタクシーに乗る。
音瑠が運転手に、目的地とルートを指示していた。
タクシーはしばらく市街地を細々と走った後、片側三車線の広い道路に出る。すると速度が上がり、風が音を立てて唸る。高速道路にでも乗ったのだろうかと思った。
何もかも置き去りにして過ぎ去っていく情景は、なんだか爽快で清々しい気分だった。タクシー料金のメーターが跳ね上がっていくのも小気味いい。さすがに全額音瑠に払わせるつもりはなかったが、いったいいくらまで跳ね上がるのか想像もつかなかった。そもそもタクシーなんて乗るのは何年ぶりか。最後に乗ったのは、小夜子とどこか旅行に行った時だろうか。小夜子と別れて家を出た日は、駅前のファミレスで時間を潰し、早朝の電車で実家に帰った。あの時は余命も分かっていたのに、タクシー代を惜しむとはおかしな話だ。
違う──小夜子が私を探しにきてくれるんじゃないか、そんな微かな期待を、私は捨てきれなかった。
私は妄想と区別もつかない記憶を思い出し、身を引き裂かれるような心の痛みと同時に、何か甘く切ない気持ちになった。
約一時間ほど、内陸を走り続けた。音瑠のアトリエ兼家は海のそばにあるということだったが、まったく気配を感じられなかった。
市街地に入るとタクシーは速度を落とし、何度か角を曲がると、そのうち停車する。
「あ、ここです」
タクシー代は三万円を超えていた。音瑠がクレジットカードで支払いを済ませる。
彼女の家に行くと言ったのは私だ。私の方で支払って、いくらか現金で音瑠から徴収するつもりだったが、私のカードはトランクに預けた荷物の中だった。
私はいても意味がないので先に降車する。
外に出ると海風が吹いていた。風に潮の香りがする。遠くから波の寄せて返す音が聞こえる気がした。
会計を済ませた彼女が降車し、トランクから荷物を取り出す。さすがに私も手伝う。
「あとで払うよ」
「いいよ。南帆ちゃんのお金は南帆ちゃんのために使って」
彼女がそう言うことは分かっていた。改めて入院費用とタクシー代、世話になる分の家賃や生活費の見積もりを出してから、口座から下ろして渡すとしよう。
東京湾に面した半島の東側、そこに音瑠の作業場であるアトリエがあった。
「ここから毎日来てたの?」
「ううん。さすがに実家に帰ってたよ」
「そう」
「少し歩くと海が見えるよ。あとで案内しようか?」
「今日はいい」
音瑠のアトリエは戸建てだった。シンプルな外壁はグレー。車庫があるが車は停まっていない。
「駅までけっこう距離があるけど、バス停が近くにあるから、それで横浜とか繁華街に出られるよ」
音瑠が玄関を開け、私もそれについて行く。玄関からすぐに洗面所、浴室、トイレがあった。
「一階が作業スペースになっているから。二階に寝室があるから、南帆ちゃんが使って」
リビングに出る。南向きの窓から差し込む正午近くの日差しに、部屋の中が明るく照らし出されていた。そこにはデスクトップPCや液晶タブレットの置かれたデスクや、壁に立てかけられた彼女の作品があった。スキャナー台や本棚もあり、画材類は棚にあったり、床にある段ボールに入っている様子だった。額装されず、剥き出しで立てかけられた彼女の作品は、それらはアクリル板に描かれていた。半透明で、後ろの絵が重なって見えて、何かのパターンにしか見えず、もとがどんな絵なのかよく分からなかった。彼女がイラストレーターとして活動していることは、何かの雑誌かネット記事で見かけた。すぐに閉じたのでどんな作品を手がけているのかは知らない。
またリビングには大きな作業台があった。作業台にはレールのようなものが取り付けられていた。その上を走るのであろう機材もある。
私の視線に気づいたのか、音瑠が答える。
「UVダイレクトプリンターだよ。大きなポスターとか、紙以外のものに印刷するときに使うんだ」
「へえ」
それには少し興味がわいた。
またリビングの手前にキッチンがあり、シンクや冷蔵庫、ダイニングテーブルと椅子があった。二人分の椅子があり、一つは来客用か、あるいは同居人でもいたのか。興味がないので聞かなかった。
ふと気づいたが、猫の置物が目についた。デスク周りやダイニングテーブルに飾ってある。豹柄や雉虎、黒猫だった。小夜子が好きそうだな、と思った。つい、いもしない彼女のことを考えてしまうことが滑稽だった。
もっと開運グッズとかでごちゃごちゃしてそうな先入観があったが、そんなに散らかってもいない、整理整頓された作業場の印象だった。
音瑠は私の荷物を持って二階に向かう。階段を上ると、部屋が二つあった。
「右が寝室で左が物置きになってるから、使わないものとかあったら左の部屋に入れちゃっていいから」
右の寝室にドアを開ける。そこにはダブルベッドがあった。私は思わず身構えてしまう。
その不安を先回りして、音瑠が言う。
「寝室は南帆ちゃんが使って。私は一階の作業スペースで寝るから」
「うん」
音瑠は私の荷物を床に置いた。
「どうする? お昼ご飯にする?」
「私はまだいいかな。少し休みたい」
薬の副作用で食欲がわかなかった。今はとにかく眠い。
「分かった。私は一階にいるから、もし何かあったら呼んでね」
「うん」
音瑠は去り際に思い出したように言う。
「いい物件でしょ? イスカちゃんがアドバイスしてくれたの。二階のベランダから海が見えるんだよ」
「そう」
乙女桜イスカ──ここでまた彼女の名前が出るとは思わなかった。音瑠の知り合いの自称占い師。見た目は普通の女性だった。しかしその異様な言動によって、相手に自覚させず行動を支配する詐術師。関わってはいけない類の人間だと本能的に感じた。認識できない、閾値下で人の精神に干渉し、行動をコントロールする。それが彼女の本当の正体ではないだろうか。
「どういう関係なの?」
「え、イスカちゃんのこと?」
私が興味ありそうなことを言ったからか、音瑠が少し嬉しそうだった。私は舌打ちしそうになるのを堪える。
「どこで知り合ったのかな、って」
普通に生きていたらそう出会うこともないだろう。イスカや同類に遭遇しないためにも参考までに聞いておく。
「南帆ちゃんはシスシスって知ってる?」
「なにそれ?」
「女性同士のマッチングサイトなんだけど……あ、普通に友達とか作ったり、一緒に食事をしたりするだけで、中にはそういう目的の人もいるけど、私はただ友達がほしくて始めただけで」
音瑠が聞いてもいない言い訳を始めた。
「イスカちゃんはそこで占い師として活動してて、すごく当たるって有名で。シスターによるファンコミュニティもあるんだよ」
有名人と知り合いであることを自慢するような口ぶりだった。
私は呆れて何も言えなくなった。
音瑠が出ていくと、私は緊張の糸が解けたような気がした。ベッドに身を投げて横たわる。しばらくこの部屋に彼女が帰っていなかったからか、少し埃っぽく感じた。むしろ生活感がなくなっていて助かったと思った。彼女の匂いが残っていたら、あまり気分のいいものではない。
音瑠のベッドの上で、久しぶりに気が緩んだ。とりあえず一段落、といったところか。二週間後には検診に行って、それからも定期的に検診が必要だった。一度ガンになると、正確には私はガンになりやすい体質らしく、再発したり、すでに転移している可能性がある。この先も薬物療法を続ける必要がある。まだ私は死の影から逃げきれていない。薬の副作用もあるのか、体力や集中力も衰えている。この状態で前の仕事に戻れるだろうか、戻るとして生活はどうなるのか、不安しかなかった。
それでも今日ぐらいは先のことを考えず、ゆっくり休むとしよう。
枕は東向きだった。正午の日差しがカーテンに透けて、私の瞼を焼く。小夜子の家は東向きで北枕だったか。そのことを思い出した。
彼女は今頃どうしているのだろうか。まだあの家に住んでいるのだろうか。一度、近況が気になり連絡しようと思った。私たちが付き合っていた、そして別れた過去がなくなっているのなら、友達のままでいられるかもしれない。
連絡しようとして、彼女との最後のやりとりが五年前で止まっていたのに、私は戦慄して連絡をためらってしまった。
過去が変わってしまっている。彼女の痕跡が消えてしまっている。
乙女桜イスカはこの現象について知っているようだったが、得体の知れないあの女に、このことを素直に相談していいものか。
しかしこの記憶の謎を解いたから、なんだというのか。小夜子が戻ってくるわけではない。仮に戻ったとしても、私たちに未来があるとは思えない。
眠りが近づき、意識がバラバラになっていく。小夜子との思い出がいくつもよぎっていった。彼女と旅行した日。彼女に告白したこと。彼女と体を重ねたこと。彼女の声や、指や温度。別れを告げた時の彼女の困惑した泣きそうな顔。
まだ私のことを好きでいてくれたのだろうか。
そのすべてがなかったことになってしまった。
私はそれが悲しくて、寂しかった。
どうして私は生きてしまったのだろう。こんな世界なら、あのまま死んでしまいたかった。
* * *
小夜子は特別美人というわけでもなかった。
細身でラフな格好で、しかし無頓着で不潔な感じはなかった。着飾らない、潔さのようなものがあった。
背は私より高く、胸は薄い。久我先輩に似たプロポーションをしていた。
髪はサラサラで、セミロングからショートの周期を繰り返す。特に染めているのも見たことはない。髪型にもこだわりはないようだったが、ショートの時にのぞく細い首筋、セミロングの時にかき上げる仕草は色香を匂わせた。
輪郭は少しエラが張っていて、丸顔というよりも五角形を逆さにした形をしている。目は少し左右に離れていて、奥二重で黒目がち。丸みのある鼻はくっきりとした小鼻があり、唇は厚ぼったい。
爬虫類よりも両生類、水辺と陸地を往来する気ままさからカエルを連想した。何を考えているか分からない目線と相まって、なんともいえない不思議な魅力があった。
彼女は自然と人の輪の中にいて、いつもしれっと離れていき、群れることに執着せず、孤独を恐れない孤高さを感じると同時に、その世渡りの上手さと気楽さに憧れもした。
「小夜子って誰とでも仲良くなれるよね」
思わずそう漏らした。ベッドの上で裸で寄り添っている時だった気がする。隣に彼女の温度と感触があった。
「たぶん私がどうでもいいと思ってるからじゃないかな。誰かに期待したり、求めたりしないから。一人になろうがどうでもいい。誰も私のことは分からない。そんな諦めみたいなものがある気がする」
そう吐露した彼女に底知れぬ孤独を感じると同時に、雲のような自由さを感じた。
「幼稚園の頃にさ、好きな女の子がいたんだ」
それに私はどきりとした。
「どういう流れでそうなったのか、忘れちゃったんだけどさ。ある日、私たちはキスをしたの。だけど次の日からその子に避けられて、結局理由は教えてもらえないままだった。いつの間にか彼女と遊ぶこともなくなって、彼女とはそれっきりだった。だから私が悪かったんだと思うしかなくて、誰かを好きになることも、好きだと考えることもやめた」
「今でもその子のこと、恨んでいる?」
「恨んだことは一度もないよ。正直、顔も名前も覚えていない」
「そう」
「だけど、だからかな、暗くて陰鬱な絵ばっかり描いてたのは」
「私は小夜子の絵、好きだよ」
私は昔、ギュスターブ・モローやオディロン・ルドンの、象徴主義の陰鬱で不気味で暗示的な、それでいて儚く美しい色合いの絵が好きだった。小夜子の絵にはその傾向があって、私たちは趣味が合うと思った。
「ありがとう。でもやっぱり、私はおかしいんだな、って心のどこかで思ってしまうのか。他の人と同じように生きることも、違うように生きることも、諦めちゃったんだよね。深海の底に沈んでいくような息苦しさと、孤独があった」
そう言って小夜子は、私の頭を撫でた。
「だけど南帆と出会えて、私はやっと息ができたよ」
私より大きな小夜子の手。彼女の指は、薬指が人差し指より少し長い。彼女の手に撫でられると、私はすごく安心する。彼女の手に、腕に抱かれると、私は世界で一番幸せな気持ちになれた。
その指に、手に触れられ、あの瞳に見つめられると、私自身がカンバスになったような気持ちになった。彼女に身を委ね、彼女の一筆一筆に私は描かれ、色づいていく。既に断筆して久しく、その指が、私たちが新たな作品を作ることはもうないかもしれない。ただ私は彼女に描かれていく私と、私たちの日々が何より愛しく、私の中に宝石のように、きらきらと切なく光る思い出として散りばめられていった。
* * *
小夜子との、もうこの世界にない記憶を夢で見たような気がした。
目覚めると、見慣れない天井があった。病院と同じ平坦な無地の天井だが、真新しかったので違うことが分かった。音瑠のアトリエの二階にある寝室の天井だ。そのことに少し遅れて気づいた。日が暮れて、すっかり部屋は暗くなっていた。
私は体を起こす。掛け布団が滑り落ちた。私は布団をかけずに寝た気がする。誰かが布団をかけ直してくれたようだった。
私は一階に下りる。あまり空腹感はないが、喉が渇いた。
リビングの作業スペースで、音瑠がデスクの前に座り、液晶タブレットに向かってペンを走らせていた。私に気づかない様子で集中している。何を描いているのか、拡大して細部を描き込んでいるようで全体像は分からない。
私は音瑠の横顔と手元を見た。
音瑠の指。もう一つの記憶で私が奪った指。私が奪った彼女の未来。
音瑠の指は、私が辛かった時、いつも励ましてくれた。彼女の指が私の頬に触れ、指に触れてくれたから、私は俯かずにいられた。そして私の夢や未来を奪って壊した指でもある。
その指はペンを取って、液晶画面に彼女の世界を紡いでいく。そうして何年も描き続け、積み重ねた年月に磨き上げられた、彫刻のように美しく力強い指先だった。それが小夜子の指に重なって見えた。
私が愛した、私を愛してくれた指。小夜子はずっと絵を描いていなかった。その代わり、まるで私をカンバスにして、彼女の愛を刻み込んでくれた。この世界から消えてしまっても、私は彼女を、その指を覚えている。
私の体も、彼女が触れていないはずのこの世界の私でも、彼女の指を想うと疼いた。もっと触れてほしい。愛してほしい。だけどそれはもう叶わない。最期まで一緒にいられる可能性を諦めた私への罰だ。
それでも思ってしまう。私の死と小夜子を失うことは等価だったのだろうかと。
私が見つめていると、音瑠が私に気づき、弾かれたようにペンを手放す。
「あ、南帆ちゃん、おはよう! ご飯にする?」
「いい。喉渇いただけ」
音瑠が立ち上がる。
「何飲む? お茶でもいい?」
「いや、自分で出すからいい。音瑠は仕事してなよ」
「いいよ、気にしないで! 冷たくてもいい? 暖かい方がいいかな?」
音瑠はキッチンに立ち、急須に褐色の茶葉を入れる。電気ポットの蓋を押してお湯を注いだ。
できればあのお茶は飲みたくなかったのだが。
私は抗議する気力もなかったので、あの毒茶ができるのを座って待つ。
「順調なの?」
「え?」
驚いたように音瑠が振り返った。
「作品、仕事? 私のせいでけっこう遅れてるんじゃない?」
「そんなことないよ! 南帆ちゃんのおかげで、今までにないぐらい順調だから!」
「そう」
今彼女はどんな作品を描いているのか、聞いたら、興味がありそうに思われそうで嫌だった。ちょっとした世間話をしようにも、言葉を一つ一つ選ばなければいけなかった。それが面倒で自然と口数が減る。
彼女が描いた作品──今でも鮮明に覚えているのは、少女二人が向かい合い手を取り合っている絵。それは彼女の連作『ナホちゃんとわたし』の第一作目。私の名前が使われているのが恥ずかしかったが、その作品世界の設定から、実際の私は無関係に思えた。
彼女の作品世界では猫耳の少女が主役となる。主役の『わたし』は黄色地に黒の斑点、豹柄模様の、ベンガル猫を擬人化したようなキャラクターだった。そしてもう一人、黒猫の『ナホちゃん』。金色の瞳からボンベイという品種かもしれない。この『わたし』と『ナホちゃん』が、猫耳人間しかいない世界を冒険するのだが。『わたし』は一人だけ模様が違うことから、他の猫耳人間たちから迫害とはいかないまでも、いじめられたり無視される。しかし『ナホちゃん』だけが、『わたし』のことを友達として接してくれていた。当時の私は逆じゃないかと思ったが。私にとっての『ナホちゃん』が音瑠だったから。
とにかくこの二人が愛らしく描かれ、幻想的な風景の中、友情を紡いでいくというのが彼女の物語だった。
私が覚えているその作品では、『ナホちゃん』が『わたし』の手を取り向かい合っていて、立ち上がるのを助けているようにも見えた。不安そうに見上げる『わたし』に『ナホちゃん』が優しく微笑みかけている。夜空には月がなく、その代わり一際大きく光芒を放つ星がある。そして彼女たちを取り巻くように、アイビーとその白く小さな花が配されていた。色彩のセンスや構図、アイデアが美しく、少女趣味になりがちな世界観を、アルフォンス・ミュシャのリトグラフのように描いていた。
その作品のタイトルは『今生まれた星』。それを描いたのは彼女が中学二年の時だった。私に付き合う形で入った美術部で、私がデカダン趣味の陰鬱で気味の悪い絵を描いている間に、彼女の才能は開花した。同時期に私が描いたのは、真っ黒な背景に、ナイフで切り開かれた柘榴と、こぼれる果肉の粒だった。タイトルは『私の心臓』。
私は彼女の作品を見て、彼女の才能と世界観に打ちのめされた。同時に尊敬してますます憧れた。
だから私は彼女と絶交した後、美大へ進学することを諦めた。そこで彼女と出会う可能性があり、同じ業界に進みたくなかったからだ。彼女が本人の意思で美術系の分野に進むかは分からなかったが、彼女には十分な才能があった。
そして予想通り、彼女はイラストレーターとして活躍している。
私の夢と未来を奪ったというけれど、果たして音瑠がいなかったとして、私が夢を叶えられたかどうか疑わしい。私はいつも逃げてばかりだった。
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