春の残骸

葛原そしお

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第二章

第二話

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 私は目覚めた。二度と目覚めることがないと思っていたのに。
 目の前には病室の天井があった。いつも通りの景色だった。カーテン越しに窓から光が差し込んでいる。それでまだ昼前であることが分かった。
 私はただ眠り、ただ目覚めたのか。そうとしか考えられない。それなのにひどい違和感があった。頭や体が熱っぽく、重く鈍いが、今までに比べたら妙にスッキリしていた。
 視界も明瞭だ。寝起きのぼんやりした目だが、それでも何が見えているのか分かる。音も、匂いも、体の感覚も、やけにくっきりしていた。頭の先から指の先まで、私の感覚が通っているのが分かる。
 腹部に痛みがある。それはしこりのように、熱を帯びて、鈍く傷んだ。今までずっと感じていた、全身を砕かれたような、曖昧で拡散した痛みとは違った。
 私は手を握ってくれている感触、温もりに気づいた。握り返すと、音瑠が嬉しそうに私の顔をのぞきこんできた。
「おはよう、南帆ちゃん!」
 私は声を出そうとして、喉がいがらっぽかったので、一度口の中にある唾液を呑み込む。そこで人工呼吸器が外されているのが分かった。もう器具をつける必要もなくなったということだろうか。
「音瑠? どうして──」
 私はまだ生きているの──そう口にしようとして、ひどく滑稽に思えた。まだ意地汚く私は生きている。ただそれだけのことだ。
「手術、成功したよ! よかった……」
 音瑠は目を赤く泣き腫らしていた。再び大粒の涙を流し始める。
「……手術?」
 意味が分からなかった。手術など受ける予定もなかった。すでに手遅れだった。末期ガンと診断され、肺以外の内臓や骨髄にも転移があり、手術や投薬による治療も不可能とされた。医療にできることは、死ぬまでの苦痛を緩和することだけだった。
「一日中寝てたからね。起きたばっかりだから、混乱しているのかな? 南帆ちゃん、お腹の中にできた腫瘍の手術で入院していたんだよ。手術は成功。もう少ししたら退院できるよ」
 何かの悪い冗談かと思った。
 音瑠のことだから、ついに本性を現して、悪質な嘘を吐いているのかもしれない。
「何か飲む? お茶入れるね」
 音瑠は私の手を離す。
「ちょっと待って──」
 音瑠が頻繁に出すお茶。私はあの味が嫌いだった。彼女の本当の目的は死にかけの私を拷問にかけることだと思ったほど。
 立ち上がった音瑠が私に背中を向けて、水筒に入れたお茶をコップに注ぐ。その時、私は音瑠の右手に包帯が巻かれていないことに気づいた。
「音瑠、右手」
「え?」
 音瑠が不思議そうな顔をする。そして彼女は自身の右手を、ひらひらと返して確認する。
「何かついてる?」
 彼女の右手には五本の指が揃っていた。私が切断させた人差し指と中指が、つなぎ目もなく、義指である様子もなく自然に生えていた。
「なんでもない……」
 私は夢でも見ているのだろうか。夢の中で夢であることに気づけば、自由に内容をコントロールできるというが。それなら私は小夜子に会いたかった。音瑠ではなく小夜子にそばにいてほしかった。
 そして音瑠は指の揃った右手で、お茶の入ったコップを差し出す。
「そんなに熱くないと思うけど。南帆ちゃん、猫舌だから、ちゃんとぬるくしておいたよ」
 コップには褐色の透明な液体が入っている。焙じ茶か何かと思ったが、独特の風味があった。苦味はあまりないが、飲んだ際に、鼻の奥に草のような匂いがした。どうにも好きになれないと思った。
「いらない」
「我慢して飲んで」
 我慢しなければならないものを、何度も執拗に私に飲ませてきた。私はそのたびに拒んだ。大抵、彼女は私の言うことに対して従順なのだが、「二度と顔を見せるな」と「そのお茶は飲みたくない」の二つだけは守られなかった。頑なに「体にいいから」、「絶対に治るから」と、ほとんど無理矢理飲ませてきた。指を切断させた負い目もあり飲んだが、指があるのなら飲む義理もない。
「いらないってば」
「お願い……」
 音瑠は今にも泣きそうな顔で哀願してくる。私は気圧されてコップを手に取った。自分で手を伸ばしておいて、私は驚いた。ほとんど無意識にとった行動だが、もう私の体は動かなくなっていたはずだ。それなのに普通に動かすことができた。そして骨と皮だけになったとばかり思っていた私の腕は、意外と肉付きがよく、血色も悪くなかった。
 私はお茶を口にする。やはり不味い。その不味さに、これが夢であるとは思えなかった。
 音瑠が再びベッドの横にある椅子に腰掛ける。
「でも早く見つかってよかったね。大変だったと思うけど、早くから治療を始めたおかげで、どこにも転移がなかったし。薬で抑え込めたから、ガンも小さくなっていたらしいよ」
「は?」
「もう体を動かしてもいいらしいけど、無理しないでね。でももし歩きたいなら私も付き添うから。適度に運動した方が早く退院できるからね」
「……退院?」
「ガンは再発の可能性もあるから、定期的な検診が必要だと思うけど、私も一緒に支えるから安心して」
 まだ生きられることを期待させて、それから突き落として絶望させる──それが音瑠の本当の目的だとしても、私の体を再び動かせるようにできるはずがない。
「あ、目が覚めたこと、南帆ちゃんのお母さんに連絡するね。すごく心配していたから」
 音瑠が立ち上がり、私から離れたところで電話をする。
 私は彼女に返事ができなかった。音が遠くなっていく気がした。理解が追いつかない。
 今まで見ていたのが夢なのか。これは現実なのか。

 記憶を思い出すという行為は、書き連ねた日記帳に、それと分かる付箋が貼られていて、目的のページを開く行為に似ていた。
 私は誰か、と思い出す時には、私の名前が言葉として、あるいは文字のイメージとして思い出される。
 たとえば、手術前に食べた最後の病院食は、塩気のない鮭の切り身と煮浸し、お吸い物、そして白米。その情景、味や匂い、食感を思い出そうとすれば思い出せるが、まず単語や言葉で想起される。
 だから私の人生がどんなものだったか、今の私がどういう状況かを思い出そうとすることは、日記帳の羅列から文字を拾う行為に似ていた。
 私は小夜子と別れたあと、実家に帰った。そう記憶している。しかしもう一つの記憶では、半年前に悪性腫瘍が見つかり、治療のため仕事を休職し、一人暮らしの家を引き払って実家に戻っていた。
 これは奇妙な感覚だった。日記帳が二冊ある、というよりも、書き直したり書き足したのもと違い、ページが二列に分割され、並列して書き記されているかのようだった。
 そして私は前者を実際に体感し、正しい記述だと疑いようもなく思っているが、私が生きている以上、それは矛盾している。私は病気であることが分かったあと、小夜子と別れ、そして死んでいったはずなのだから。
 だが私は生きている。もう一つの記述では、私は実家から通院し、今回の手術で入院していた。小夜子とも交際していない。彼女とは大学三年の夏から二度と会っていなかった。事情は分からないが、彼女が退学したからだ。
 今私の置かれている状況、私が生きている事実から、後者が本当のようだった。
 しかし私は小夜子と暮らした三年間を、彼女と交際した五年間を、麻酔で眠っていた間に見た夢や、朦朧とした意識が見せた妄想とは思えなかった。

   *  *  *

 しばらくしてママが来た。音瑠が出迎える。二人は何か楽しげに話した後、病室に入ってくる。
 ママは私と同じぐらいの身長で150センチあるかないか。小柄で年齢より若く見える。私が最後に見た彼女はひどくやつれた顔をしていたが、今は表情も明るく元気そうだった。それに私は安心した。
 その後ろに、私たち母子より背の高い、妹の星凛がいるのに気づいた。星凛は母の再婚相手の間にできた子で、半分血がつながっている。私や母をそのまま縦に引き伸ばしたようで、目元や顔立ちはよく似ていた。六歳下で、今年二十歳になる。
 私は星凛を見た瞬間、息が止まった。そのアーモンド型の目が、私を見て細められたからだ。
 ママは私のベッドの横に座り、私の手を取る。
「よかったね、南帆ちゃん。本当によかった」
 顔を綻ばせて、涙をこぼしていた。私は、普通だったら素直に喜べた。しかし私の中にある矛盾した記憶に、私は上手に笑うことができなかった。架空の記憶だったとは思えない。私の最期にいてくれたのは音瑠だけだった。
 星凛は窓際のソファに座り、スマートフォンをいじっていた。私は彼女の言葉を思い出した。末期ガンで入院した時の記憶だ。その記憶では、星凛が私の見舞いに来たのは一度だけだった。
「いつ死ぬの?」
 病床の私に、何の感情もうかがわせない顔でそう言った。私は意図を測りかね、どう返せばいいか分からなかった。
「さっさと死ねばいいのに」
 それでようやく私は、彼女が私の死を願っていることを知った。
 私たちは、いつからかほとんど言葉を交わさなくなった。姉妹というものはそういうものなのだろうと、寂しくはあったが、私はあまり気にもしなかった。
 私は彼女のことを嫌いだと思ったことはなかったが、彼女はそうではなかったようだ。
「バチが当たったんだよ。ずっと好き放題やってきたから」
 いつから私は彼女に憎まれていたのだろうか。私は彼女に何をしてしまったのだろうか。無言の私に彼女は一方的にまくし立てた。
「ママが頑張っているのに、高校辞めて引きこもったり、そしたら今度は大学に行きたいとかわがまま言って。就職したら家を出て行って、好き勝手生きてきた。ママは私よりお姉ちゃんのことばっかり。お姉ちゃんが好き放題しているから、私は我慢して、いい子でやってきた。音瑠ちゃんだって、お姉ちゃんに一方的に無視されて、絶交されても、まだお姉ちゃんのことが好きで。お姉ちゃんは何でも持ってるね。私の欲しいもの全部。だけど最期に、家族の愛だけは手に入らないから。私はお姉ちゃんのことが大嫌い。次に会うのは、あんたが死んだ時だ」
 彼女の目には私は身勝手で無責任な人間に見えていたようだ。それは否定できない。しかしそれだけでこんなにも嫌われ憎まれるのか。
 音瑠の名前が出たのが意外だった。音瑠に私が入院していることを教えたのは星凛だった。私たちが絶交状態であることを知っているので、嫌がらせとして、私が早く死ぬようダメ押しに送り込んだのかと思っていたが。
 今──病室で、音瑠と星凛は一度も目を見交わさない。私が音瑠と親しかった頃、音瑠が私の家に来て、当時小学生だった星凛と三人で遊んだ。星凛は音瑠によく懐いていたのを覚えている。私が音瑠と絶交したことで、彼女を奪われたとでも思ったのだろうか。
 しかしこんな記憶に何の意味があるのか。果たしてこの星凛も、本当にそんなことを思っているのだろうか。ただどうしても、その時の感情と記憶が、真実のように思えてならなかった。
「退院したらどうするの? 仕事に復帰するの?」
 私はさっきからママに何か話しかけられていたが、ほとんど頭に入ってこなかった。
「え、なに?」
「職場、うちからだと遠いでしょ? 何かあったら怖いから、地元で仕事を探したら?」
「ああ、うん。考えておく」
 それにママは安心した顔をした。
「ママ、帰ろう。あんまりいると、お姉ちゃんが疲れちゃうよ」
「そうね。何か必要なものとかあったら連絡してね」
 ママは立ち上がり、壁際に立つ音瑠に向かう。
「音瑠ちゃんもありがとう。お仕事大変なのに、南帆ちゃんのために時間をつくってくれて」
「いいえ、そんな」
「ママ、行こう」
 星凛は一度も私を見ず、ママの手を引いて病室を出て行く。音瑠は視線だけ彼女を見送っていた。

   *  *  *

 手術から三日ほど経った。点滴も外され、食事もできるようになった。それでもまだ手術痕に痛みがあった。腹部には何かで刺されたような痕が四つある。臍を中心に脇腹の上下にあった。そしてもう一つ、臍には縦長に、ナイフで刺されたような痕があった。五つの傷は腹腔鏡手術の痕跡だった。
 私の記憶と現実が変わっていること。そしてこの現実と地続きの記憶も並列してあること。その違和感にも慣れてきた。前の記憶については、ある種の幻覚や妄想であったと片付け、あまり考えないようにするしかなかった。
 音瑠にはもう一つの記憶がないのか気になった。
「音瑠は覚えていないの?」
「なに?」
 それに彼女はなんでも聞いてほしそうな顔で私を見た。そこでどう説明したらいいものか思案した。私が指を切断させて、私が死んだ記憶。そもそも私が今生きていて、彼女の指があるのだから、私の記憶が、私の頭がおかしいとしか思えなかった。
「なんでもない」
 そう話題を切り上げた。
 そして今日も音瑠が来ていた。彼女は青のデニムジャケットに白のシャツ、下はチェックのスカートを履いていた。
 今日は音瑠に漫画を持ってきてもらった。小夜子の家で読んでいた漫画だった。いつでも読めばいいと思っていたから、結局最期まで、すっかり最終巻を読む機会を逃してしまった。まさか続きを読むことができるとは思わなかった。
 ついでにヨーグルトかプリン、味気ない朝食の後のデザートを買ってきて貰えばよかったが、あまり頼りたくない気持ちがあった。
「南帆ちゃん意外とグロ系好きだよね」
 青年誌で連載している血生臭いバトル漫画だった。小夜子が好きだった漫画で、彼女の家で、ベッドの上で読んだ。入院中の暇つぶしに、音瑠に持っていないか聞いたところ、実家に全巻あるとのことで、後ろの巻を貸してもらった。
 その横で音瑠は雑誌を開く。ファッション雑誌のようだった。彼女は後ろの方から読んでいる。おそらく星座占いでも見ているのだろう。
 ふと中学生の時のことを思い出した。朝、待ち合わせをして、一緒に登校している時、
「南帆ちゃん、今日最下位だったよ」
 開口一番、前振りなしの宣告だった。
 星座占いのことだろうというのはすぐに分かった。私も朝見た番組で、私の星座は最下位だった。
「ラッキーカラーは黄色だって。はい!」
 そういって黄色の、アニメキャラクターのキーホルダーを手渡してくる。私は素直に受け取った。
「今日は一日、離しちゃダメだからね!」
「うん、ありがとう」
「外出のトラブルに注意だから、車とか気をつけてね」
「うん。音瑠ちゃんは?」
 いつまでも私の興味のない、私の今日の運勢を話されても仕方ない。音瑠は得意そうに、にんまりと笑う。
「私は二位! 素敵な出会いがあるって。まあそれはいいんだけど。だから南帆ちゃんは、私と一緒にいれば、最下位だけど大丈夫だよ!」
 理由はともかく、音瑠にそう言ってもらえるのは嬉しかった。運が下がるから近づくなとか、そういう突き放すようなことを彼女は言わない。逆に彼女の順位が低いと、私に迷惑をかけたくないからと離れる。そんな日は寂しかった。なので「ラッキーアイテムがあるから大丈夫だよ」といえば、「そうだね!」と気を取り直して、いつものように私の頬を揉んだり摘んできた。
 私は音瑠が楽しそうに私の肉を摘むのは、そんなに不快に思ったことはなかった。気持ちがいいとか、快感だとか、そういう感情や感覚を抱いたことはない。ただ人を一人喜ばせることができて、私の肉にも存在意義があったというものだ、と、なんだか誇らしい気持ちになった。だからそんなに悪い気はしないし、私という存在が肯定された気がして嬉しかった。あの頃までは──
 私の視線に気づいたのか、音瑠が雑誌から顔を上げて言う。
「ねぇ、南帆ちゃんに会わせたい人がいるんだけど、いいかな?」
「誰?」
 私と音瑠の共通の知り合いに、いい思い出はない。私に小中学校の友人は一人もいないし、高校でも同様だった。唯一の友人にして親友だったのが音瑠だった。
「私のお世話になっている、占い師の人なんだけどね」
「は?」
 意外な答えだったが、まったく気乗りしなかった。
「なんで私がそんなやつと会わなきゃいけないの?」
 私は占いとかが嫌いなわけではないが、別に好きでもなければ興味もない。ただ占い師や霊能力者、宗教関係の人物には、胡散臭い印象があった。非科学的なことは信じられない、というほど科学に詳しく、科学を絶対的に思っているわけではないが。
 そもそも未来のことを予言できる、当てることができるのなら、宝クジや競馬でもなんでも当てればいい気がする。それなのにわざわざ他の人を占って生計を立てるのだから、信用ができなかった。
「その人にね、南帆ちゃんのこと相談して、すごい力になってくれたから。それで南帆ちゃんの手術が成功したことを話したら、会って話がしたいって」
 こいつはまた勝手に人のことを利用して、誰かに媚びを売っていたのか。相変わらずの最低さに、むしろ安心した。
 毎日毎日顔を見せに来て、鬱陶しく思っていたところだ。そろそろ引導を渡してやろう。
「いいよ。連れてきなよ」
 その占い師ごとまとめて罵倒すれば、さすがに音瑠も懲りるだろう。音瑠単体ではいくら悪態をついても、神妙な顔をするだけだ。
 何やらその占い師のことをとても信頼しているようだから、そこから突き崩せるかもしれない。
「よかった。そう言ってくれるって、その人が言ってたから、今日来るんだ」
「は? マジでふざけんなよ」
「ごめんなさい!」
 音瑠が頭を下げる。こいつの頭も随分と軽くなったものだ。私は音瑠のつむじを見ながら思った。
 もし私に怒りのゲージがあったら振り切れる寸前だろう。しかしそれを解き放つのはまだ早い。ぐっと堪える。むしろ入院生活の退屈しのぎになって、なんだか面白くなってきた。
「何時に来るの?」
「十時頃に着くって言ってたから、もうすぐかな。着いたら迎えに行くね」
「あっそう」
 その時、病室のドアがノックされた。音瑠が弾かれたように立ち上がる。
「あれ、病室教えてなかったのに」
「看護師さんじゃない?」
 音瑠がドアを開けると、
「えー、どうして分かったの?」
 と聞き苦しい高い声をあげた。そしてもう一人、女性の声がした。
「音瑠ちゃんが教えてくれたんだよ」
「そうだった?」
 私の個人情報とプライバシーはどうなっているのだろうか。
 音瑠が手に果物のカゴを持っていた。お見舞いの品を受け取ったのだろう。柑橘類がやたらと多く見えた。その後ろに、例の占い師を連れて入ってくる。
「こちら、乙女桜イスカちゃん。イスカちゃんの占い、すごく当たるんだよ!」
「初めまして。乙女桜イスカです。よろしくね、南帆ちゃん」
 乙女桜イスカ──本名だとは思えないが。彼女は私たちと同じぐらいの年齢に見えた。背は音瑠と同じぐらい。彼女は黒髪で、前髪を残し、後ろ髪は編み込んであるようだった。面長で、少しふっくらした顔。二重瞼に黒い瞳、真っ直ぐな鼻、薄い唇。その口元に微笑を浮かべていた。すごい美人というわけではないが、安心感のある、親しみやすい顔立ちだった。
 上に羽織っているゆったりとしたシルエットの着物風のガウンは、右半身が白で左半身がチャコールグレーのツートーン。両胸の高さに、桔梗か梅の花のような図案が刺繍されていた。五つの花弁が放射状に配され、花弁の先が二つに分かれている。彼女は胸元で手を重ね、折り曲げた左腕に小さなカバンを提げていた。
 イスカは何の断りもなく、私のベッドの横にある椅子に座る。
 音瑠が果物をテーブルの上に置くと、イスカに例のお茶を出した。
「イスカちゃんにはね、南帆ちゃんのこと、すごいアドバイスしてもらったんだ。このお茶もね、イスカちゃんが教えてくれたんだよ」
 イスカは笑顔で受け取り、一口飲んだ後、それを後ろのテーブルに置く。
 私はイスカに対し、嫌悪感よりも憎しみがわいてきた。私を毒殺するために淹れられたお茶は、この女の差金だったのか。よくも余計なことを音瑠に仕込んだものだ。
「それで、何の用?」
 自然と私の声は意地が悪くなった。しかしイスカはまったく気にした様子もなかった。
「まずは私のことを知ってもらおうかな」
「占い師なんでしょ?」
「そうだね」
 イスカの声は、ふんわりとして耳に心地いい。悔しいが、目覚ましのアラームに設定して、いつまでも微睡の中で聞いていたい気持ちになった。
 会う前から彼女を警戒していた私だが、なんとなく緊張感が解れていくのが分かった。こいつは百戦錬磨の手練れの詐欺師だと考え直し、気を引き締める。
「私の運勢でも占ってくれるの?」
「知りたい? それなら占ってみるけど」
「別に興味ない」
「でも未来のことは知りたくないかな? これから未来で起きること。あなたの大切な人との未来とか」
 私は下唇を噛んだ。もし私に大切な人がいるとしたら小夜子だ。しかし私には小夜子との未来なんてない。
 無神経に私の逆鱗に触れたことを後悔させてやる。なんとかボロを出させて、ボロクソに罵ってやろう。
「面白そうだね。占ってみてよ」
「ただその前に、もう少し私に興味を持ってもらおうかな。ちょっとした遊びをしましょう」
 イスカはカバンから掌ほどの大きさの透明なケースを取り出す。その中にはカードの束が入っていた。
「普通のトランプのカードだよ」
 そう言ってケースからカードの束を取り出し、私に手渡す。
 カードの束を広げて確かめてみると、市販のトランプと同じ絵柄だった。何かマジックでも始めるつもりなのか。
「いいね、楽しそう」
 何をするのか分からないが、種を暴けなくても、難癖をつけて罵ってやる。
 イスカは相変わらずあの微笑を浮かべている。アルカイックスマイルというやつだ。飛鳥時代に彫られた弥勒菩薩の半跏思惟像が浮かべる微笑に似ていた。いや、それよりもモナリザに近いか。私の警戒心からか、謎かけの後に人を喰らう怪物、エジプトのスフィンクスが浮かべる微笑にも見えた。
 アルカイックスマイルは、静止像に生命感を与えるために演出された。私には彼女の微笑が、作り物であることを誤魔化すための、作為的なものに感じられた。
「それじゃカードを切っても切らなくてもいいよ。どこからでも好きな一枚を選んで引いて。私に見えないようにね。もちろん音瑠ちゃんにも」
「私が引いたカードを当てる、ってやつ?」
「うん、そう」
 私は適当にカードを切り、束の中から一枚引き抜く。それを彼女に見えないように確認する。私の引いたカードは『ハートの4』だった。
「ダイヤの7」
 イスカが自信満々に言った。私は拍子抜けだった。これでは種を暴くも何もない。
 私は音瑠にも見えるようにカードを返した。ここまで呆気ないと心苦しくさえ思えてきた。どう罵ろうか思い悩む。こんなことも分からないなら占い師を廃業して他の仕事を探したら、と優しくアドバイスしてあげようか。
 それにイスカの後ろに立って、私たちの様子を見ていた音瑠が驚きの表情を浮かべる。
「すごい! 当たってる!」
「は?」
 イスカは相変わらずあの微笑。
 音瑠はイスカに洗脳されて、すっかり頭がおかしくなってしまったのだろうか。私は怖くなった。
「何言ってんの? 違うでしょ」
 それに音瑠が不思議そうな顔をする。
「南帆ちゃんにはハートの4に見えたんだね」
 私は驚いてカードを見た。そこには『ダイヤの7』があった。
「え、なんで?」
「南帆ちゃんは覚えているんだね」
 いつの間にかすり替えられたのか、いや、たとえば時間が経つとカードの絵柄が変わるとか。すべて『ダイヤの7』になる仕掛けだったのだ。しかし手元にある他のカードを見ても、ダブっている絵柄はない。『ハートの4』もある。束の中には『ダイヤの7』だけがない。
 私の見間違いだったのか。しかしイスカは、最初に私が引いたカードが『ハートの4』であることを知っている様子だった。絵柄が変わる前と後で、それぞれペアがあるのか。ただ手元のカードが何か分かるのなら、こんな遠回しなことをする必要がない。
「どうやって……」
「三回だよ」
 イスカが言う。
「一回目、私は外す。二回目、私は当てる。だけどそれじゃ面白くないから、二回目が別の結果になるよう、カードの順番を予め変えておいた。そして二回目、もう一度外す。三回目、二回目の正解を答える」
「何の話をしているの?」
「私はね、未来が見えるの。正確には、私は少し先の未来にいて、その未来で起きた出来事を答えているだけ」
 彼女が何を言っているのか、意味は分かるが理解できなかった。
「もう一回する?」
 仮に絵柄が変わるトランプなら、次は変わらないはず。
「それともこんなのはどうかな。私は背中を向けたまま、南帆ちゃんの書いた文字を当てる」
「千里眼みたいなやつ?」
「少し違うかな。遠隔透視は、本来物理的に知り得ないことを知覚する現象でしょ。私は未来で結果を知って、それを答えているわけだから」
 彼女と問答をしても、彼女が種を明かすわけがない。彼女の遊びに付き合って、どうにか隙を見つけなければ。
「音瑠、書くものある? テーブルの上のやつ取ってもらっていい?」
「うん!」
 音瑠はテーブルの上に置いてある、病室に備え付けられていたペンとメモ紙を取る。私はそれを受け取った。
 イスカに道具を借りるのは避けたい。音瑠もイスカと共謀している可能性があるので警戒する必要があるが、これなら細工のしようもないだろう。
「それじゃ私の書いた文字を当ててもらうけど、二人とも背中を向けてもらっていい?」
「うん、もちろん」
 イスカと音瑠が背中を向ける。
 手や指の動き、筆記の音で、何を書いたか知られる可能性がある。そんなことが現実的に可能なのか疑問だが。とにかく手や指の動きを見られることは封印した。次は筆記の音だ。私はイスカに「書いた文字」を当てるルールであることを念押しした。
 まず最初に猫の顔を描く。15画ほどフェイクを混ぜたことになる。次に私は文字を走らせた。なるべく絵を描いた時と同じペン速とストロークで、『デカケツクサレビッチ』と書いた。
 さあ、当ててもらおう。
 その時、イスカが背中を向けたまま、肩を揺らして笑った。初めて人間らしい仕草だったが、私は背筋がぞっとした。
「ひどい。本当にこんなの当てなくちゃいけないの?」
 私の背後に隠しカメラでもあるのか。しかし彼女が映像を確認している様子はない。音瑠が彼女に確認して伝えている様子も。何か鏡の反射で手元をのぞいている可能性はないか。周囲を見回しても、反射物や不審な物はない。
「猫ちゃん、可愛いね」
 手汗が滲むのを感じた。イスカはまだ背中を向けている。
 まだ文字を当てられていない。煙に巻いて誤魔化すつもりだ。全部ハッタリだ。
「当ててよ。なんて書いたか」
「これ、私のことじゃないよね?」
「さあ」
 私のリアクションから推測しようとしているに違いない。悟らせてはならない。念の為メモも伏せる。
「デカケツ、クサレビッチ……」
「は? なんで?」
 私は思わず声が漏れてしまった。
 イスカが振り返る。あの微笑とは違い、頬を赤らめ笑っていた。
「私こんなひどい言葉、口にしたの初めてかも」
「当たってた? 見せて」
 音瑠も半笑いで振り返る。そして私の手元にあるメモを取った。
「本当だ! 猫ちゃん可愛い!」
 音瑠とイスカは笑い合っていた。
 私は何が起きているのか理解できなかった。この病室のどこかに私の手元が見える隠しカメラがあって、その映像をどうにかイスカは見ている。そうとしか考えられない。しかし最初のカードで起きた現象をどう説明するのか。
 こいつは占い師なんかじゃない──
 手品師やマジシャンの類なら、そう仮定できるならまだ安心できた。
 謎を解くことができない者を食い殺す、人喰いの怪物のように私には感じられた。
 その怪物と笑い合う音瑠が、あの時私を見殺しにした彼女に重なって見えた。音瑠は私を再び生贄に捧げようとしているのではないだろうか。

 ひとしきり笑った後、イスカが言う。
「ごめんね、音瑠ちゃん。南帆ちゃんと二人でお話しさせてもらっていいかな?」
「うん、分かった! 席を外すね」
 私がいくら出ていけと言っても聞かない音瑠が素直だった。
「十分後に戻ってきて。あと、南帆ちゃんが好きなヨーグルト、買ってきてあげたら喜ぶと思うよ。それに私の持ってきた果物を盛り付けてあげて。ミカンはあのお茶とも合うから」
「うん! じゃあ南帆ちゃん、ちょっと買い物行ってくるから」
 私は二つのことで悪寒を覚えた。あのお茶とミカンは絶対に合わない。想像しただけで口の中が気持ち悪くなった。そしてなぜ私がヨーグルトを食べたいことに気づいたのか。私はヨーグルトを食べたい顔をしていたのか。音瑠は私がヨーグルトを好きなことを、何かの際に知ったかもしれないが、わざわざイスカにそんなことまで伝えているのか。
 音瑠が病室を出ていくと、私たちは二人きりになった。
 音がやんだような気がした。一瞬の静寂。イスカの唇が微かに音を発して開かれ、あの穏やかな心地のいい声を紡いだ。
「それじゃ南帆ちゃん。南帆ちゃんに聞きたいことがあるんだ」
「何?」
 この女が何を考えているのか、何が目的なのか分からない。音瑠がいないことがすごく不安に思えた。同時にこんな怪物を引き入れた音瑠を恨んだ。
 イスカはあの微笑みを浮かべたまま言う。
「どうやって死を回避したの?」
「は?」
「末期ガンでもう手遅れだったんでしょ?」
「……なんで、あんたが知ってるの?」
 私はこの乙女桜イスカと面識など、今の今までなかった。それなのにどうして、私の死を看取ったはずの音瑠も、私のママや妹の星凛も覚えていないことを、この女は知っているのだ。
「あ、やっぱり。ちゃんと記憶があるんだね。最初は音瑠ちゃんが過去を変えたのかと思ったけど、認識できていないみたいだから。もしかして、って思ったの」
「あんたの言ってることの意味が分からない……」
「隠さなくてもいいよ。私もそうだから。種を撒いてね、あなたみたいに、後から芽が出てくる人を探していたの」
「どういうこと?」
 イスカがおかしそうに笑う。
「でもあれはやりすぎだよ。音瑠ちゃんに指を切らせたのは。会うまでどんな人か分からなくて、怖かったんだから」
 私は背筋が凍りつく、身の毛がよだつ感覚がした。どうしてそのことまで知っているのか。音瑠が教えたわけがない。だって彼女には指が揃っているから。あれは私が手術の最中に見た幻覚や妄想ではないのか。
 黙り込んだ私の様子を見て、イスカが怪訝そうな顔をする。
「そっか、あれはその前か。うーん、でも、音瑠ちゃんいい子だから、あんまりいじめたらかわいそうだよ」
「いや、本当に意味が分からないから……」
「まだ自覚していないみたいだね。私も自分以外の人のことは、分からないことがたくさんあるけど。でも過去が変わったこと、死ぬはずだったことは覚えているみたいだね」
「……私に記憶が二つある理由を、あんたは知っているの?」
「記憶は二つだけじゃないよ。その時々で無数にある。普通の人はね、その中で整合性のあるものを時系列順に並べて、一本の記憶のように思っているだけ。だけど私たちは選ばれなかった過去、起きなかった未来を、並行して思い出すことができるの。それはそれぞれ本当にあったことだけど、この世界の整合性によって、みんなの中ではなかったことになってしまっているの」
「いや、全然意味が分からない……」
 もし私に私が死んだ記憶がなければ、何かの宗教の勧誘か、霊感商法と思って彼女との会話を切り上げていただろう。
「つまり並行世界の、別の私の記憶ってこと?」
 それにイスカの目線が左上を向く。論理的思考をとる時、人の目線は無意識に左に向くというが。言葉を選んでいる様子だった。もし右を向けば架空の話を考えている、仕立て上げている可能性がある、ということになるかもしれない。
 その彼女の目の動きから、私を騙そうとしている、ようにはなぜか感じられなかった。
「少し違うかな。世界は一つだけど、起きていることは一つじゃない。たとえば──」
 再びイスカは私に目線を戻し、嬉々とした様子で言う。
「そうだ、正直に答えてね。すごく大事なことだよ。あなたの運命に関わることだから。南帆ちゃんはヨーグルトとプリン、どっちが好き?」
「は?」
「あなたの運命がそれで決まるよ」
 何の脅しなのだろうか。私はイスカを信じたわけではない。ただ彼女が怖かった。
「ヨーグルト……」
「うん。だから私はね、今の時点でそれを知って、さっき音瑠ちゃんにお願いしたんだよ。もしプリンと答えていたら、プリンをお願いしていたよ」
 こんなのほとんど脅迫まがいの誘導尋問でしかない。
「試しにプリンにしてみる? プリンでもいいかな?」
「じゃあ、プリンで……」
「私はさっき音瑠ちゃんになんてお願いしたかな?」
「は?」
「あの時点において、私が音瑠ちゃんに、ヨーグルトを買ってくるようにお願いする可能性と、プリンをお願いする可能性があるよね。二つ注文するっていう選択肢もあるし、何もお願いしない場合もある。あるいはそれ以外の何か。それだけで五つの可能性がある」
「それは分かるけど……」
「つまり世界は一つだけど、五つのことのどれかが起こる可能性がある。そしてそれは同時に起きている。だけど南帆ちゃんが未来でプリンを選択したことで、プリンをお願いした過去が選ばれた」
「いや、そんなわけないでしょ。だって音瑠にヨーグルトって──」
「ちょうど十分経った。彼女の時計と体感でね」
 病室のドアがノックされた。そして開く音がした。
「もう入っても大丈夫?」
 音瑠だった。
 それにイスカが返事する。
「大丈夫だよ。プリンあった?」
「あったよ。イスカちゃんも食べる? 三人分買ってきたから」
 音瑠が病院に併設されたコンビニの、ビニール袋を手に提げていた。
「ごめんね。私、そろそろ行かなくちゃいけないから。私の分までありがとう」
「残念。もっとイスカちゃんと話したかったな……」
「今度ゆっくり三人で話しましょう」
「うん!」
 二人の会話の違和感がひどかった。急にプリンと言われて、音瑠が勘違いして答えたのだろう。確かにイスカは音瑠にヨーグルトを注文していた。
「音瑠、ヨーグルトは?」
「あ、ごめん。南帆ちゃん、ヨーグルトの方がよかった?」
「いや、でもさっき、彼女がヨーグルトって……」
「そうだった? 私、間違えちゃったかな」
「そんなことないよ。私は確かにプリンって言ったよ。南帆ちゃんが聞き間違えたんじゃない?」
「そう? でもどうしよう、ヨーグルト買いに行ってくるね」
「いい! プリンでいい!」
 私は音瑠を必死に制止した。
 今問題なのはヨーグルトがプリンにどうして変わったかということだった。
 イスカは音瑠が出て行った後、ずっと私と会話していた。ベッドに寝ている私から、彼女の全身の様子は見えなかったが、音瑠に連絡している素振りはなかった。しかし手元を隠して連絡していた可能性はある。プリンの話になったのは、コンビニから折り返しの頃のはず。病室からコンビニまでの往復時間はだいたい十分ほどだ。間に合う可能性がある。それよりも初めから二人が共謀して、このトリックを仕込んでいたに違いない。音瑠は最初からプリンを買いに行ったのだ。
 イスカは立ち上がる。
「思い出してみて。私はプリンをお願いしていたはずだよ」
 私は「プリンだと、柑橘類に合わないかな」と呟く彼女の言葉を思い出した。そんな会話はなかったはずなのに。
 いや、こんなもの印象操作によって虚偽の記憶を植え付けられただけだ。これは占いや手品ではなく、暗示や催眠の類に違いない。とんでもない詐欺師だ。私の死についても、私がガンで入院していたことから、それらしいストーリーを仕立て上げて、心理的誘導をかけてきたに違いない。
 それでは音瑠が指を切断したことを知っているわけは──
「……いったい、何しに来たの?」
 ようやくもう一つの記憶と折り合いをつけたところに、私の身に何が起きているのか、この女が何者なのか、と余計に混乱が深まった。
「言ったでしょ? まずは私のことを知ってもらおうと思ったの」
 去り際にイスカが一枚の名刺を取り出した。それは薄紫色で、彼女のガウンにある刺繍と同じ花の図柄が配されており、赤い文字で『天命判定師 乙女桜イスカ』と彼女の肩書と名前があった。彼女の連絡先も記載されていた。それを受け取らない私の掛け布団の上にそっと置く。
「退院して落ち着いたら連絡してね。もっといろいろな話がしたいから」
 私はもう二度と、彼女と会いたくない、そう思った。
 胡散臭い、以上に得体が知れない。恐ろしくさえ思えた。
「きっとあなたからも、私に聞きたいことができるはずだから」
 そうイスカは微笑んだ。
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