春の残骸

葛原そしお

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第一章

第十二話

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 私は二度と目覚めることはないと思っていた。
 目を覚ますと、目の前には白い天井が広がっていた。初めて見る景色だった。病院だろうか。
 しかし部屋の中には病院特有の薬品臭さはなく、どこか懐かしいような、心地の良い花の香りがした。
 こうして生きているということは、私は玄野先輩に刺されたが助かったようだ。あるいはその過去自体が変わったのか。
 起きようとしたが、思うように体が動かなかった。重傷だったのだろう。とにかく助かってよかった。
 そこで杏奈のことが気にかかった。首だけで左右を見てみる。
 私は柵付きのベッドに寝かされているようだ。ただ病院のベッドにあるような手すり状のものではなく、ベビー用の転落防止の柵に思えた。
 私は赤ん坊にまで戻ってしまったのだろうかと不安になったが、ベッドのそばに車椅子があるのに気づいた。私の移動用に置いてあるのだと分かった。そんなに重傷だったのか。脊椎が傷つけられて半身不随になって、しばらく昏睡していたのだろうか。
 何か違和感が芽生えてくる。
 入院した初日、あるいは長期間の昏睡状態だったら、点滴や機材のコードにつながれていそうなものだが、そんなものは一つもなかった。
 杏奈。杏奈はどうなっただろうか。
 私はどれだけ寝ていたのか、彼女との過去がどうなったか思い出そうとしたが、頭痛と耳鳴りに遮られた。寝過ぎた時の、熱を帯びた頭の痛みに似ていた。
 私はとにかく現状を確認しようとしたが、うまく体が動かない。寝返りを打ち、うつ伏せになって起き上がろうとしたが、手足に力が入らなかった。私はもう一度寝返りを打って仰向けに戻る。
「あのぉ! 誰かいませんかぁ?」
 とにかく大きな声を出してみた。こんな状態で一人暮らしということはないだろう。
 駆けるような足音が近づいてくる。少ししてドアが開いた。
「ごめん、朝ご飯の準備してた」
 そう言ってドアを開けたのは、ブラウンがかった長い髪の美しい女性だった。少し乱れた髪はふんわりと揺れていた。彼女はゆったりとしたサーモンピンクのルームウェアを着ていた。
 私は一瞬、その美しい女性が誰か分からなかった。しかしすぐに思い出す。その切れ長の大きな目に、一直線に通った綺麗な鼻、桜色の唇。輪郭は少し面長で顎先は細い。杏奈だった。そして彼女の佇まいに動揺する。
 一人で彼女は立って歩いている。顔つきも凛としている。声の調子もはっきりとしていた。
「杏奈?」
 私は杏奈が病気になる過去を変えることができたのか。それならどうして私は起き上がることができないほど重症なのだろう。私の身に何が起きたのだろうか。
「おはよう、サヨちゃん」
「おはよう」
 それに杏奈が少し驚いた顔をした後、すぐに花の蕾が綻ぶように笑顔になった。
「おかえり」
 何のことか分からなかった。
 私は長く家を空けていて、彼女が寝ているうちに、昨夜にでも帰ってきたのだろうか。やはり長い間、昏睡状態だったのだろうか。その割に私が起きたことに対して、そこまで驚いてはいなかった。
 違和感が大きくなってくる。
「ただいま?」
 私は一応そう返した。
 杏奈が柵から身を乗り出して、私の横顔を撫で、愛おしそうに見つめてくる。彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。
 私は彼女の顔が間近に迫り心臓が高鳴った。何度見てもいつまでも慣れることはないだろう。
 また違和感があった。私が一緒に暮らしていた彼女より、溌剌として若く見えた。あれから時間は経っていないどころか、少し巻き戻ったのではないだろうか。
 私も杏奈に微笑み返すと、彼女はキスをしてきた。舌こそ絡めないが、唇を貪りあい、長いキスになった。彼女の髪は柔らかく、私の頬をくすぐった。
 私は杏奈の長い髪に、彼女の感触と、香りに包まれ、ただただ幸福だった。この世界で私たちは恋人同士のようだ。私は嬉しかった。
 彼女は唇を離すと私に微笑む。
「それじゃ、起こすね」
「え?」
 杏奈が私を抱きしめるように、私の頭の後ろと、腰の後ろに手を回す。そして赤ん坊のように私を抱き上げた。私は何が起きているのか理解できなかった。そのまま車椅子に座らされる。
 そこで私は気づいた。私は私の趣味ではないピンクのネグリジェを着ていた。そして七分ほどの丈の袖が垂れ、スカートの先がストンと落ちていた。私の手足がない。肘から先と膝から先がなくなっていた。
「なんで? どうして?」
 思い出そうとした。しかしひどい頭痛と吐き気に襲われ、私は思い出すことができなかった。
「さぁ、朝ご飯にしよう」
 杏奈が後ろから私の顔をのぞきこみ、微笑む。

   *  *  *

 リビングには低いテーブルと座椅子があった。杏奈が私を座椅子に座らせる。テーブルの上にはロールパンとシチュー、サラダがあった。
「記憶が戻ったんだね。よかった」
 奇妙な口ぶりだったが、その意味するところが私には分かった。
 杏奈は私の横に膝をついて座り、ちぎったパンを私の口に運ぶ。私は素直にそれを口にした。杏奈の指が私の歯に触れた感触がした。そのまま彼女の指を咥えたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえる。
 咀嚼し呑み込むと、杏奈がまた次のを食べさせようとしてくる。私はその前に尋ねる。
「杏奈も、記憶があるの?」
「うん。一年前にね。記憶が戻った」
 当たり前のように会話しているが、この記憶の引き継ぎはどういう仕組みなのだろうか。なぜ杏奈は私より一年前に記憶が戻ったのか。そんなことよりも──
「病気にならずに済んだんだね」
「うん。サヨちゃんのおかげだよ。サヨちゃんがしてくれたこと、全部覚えている。本当にありがとう」
「でもどうして、何が過去を変えたの?」
「高校の卒業旅行の時、サヨちゃんが教えてくれたでしょ。未来のこと」
 過去の杏奈はあの話を本当に信じてくれたのか。
「それなら、もっと早く話していればよかったね。私が未来から来ているって」
「でもそれだと私が信じなかったと思うよ。少しずつ違和感を抱いて、私なりに仮説を立てて、それでも分からなくて聞いたから。あの時、それだけサヨちゃんが頑張ってくれたから、私は信じられた」
 杏奈はふんわりと微笑む。こんな笑顔の彼女が見れて、私は報われた気分だった
 次に私は今の自分が置かれている状況が気になった。
「私たちは一緒に暮らしているの?」
「そうだよ。サヨちゃんと一緒に卒業旅行した日から、私たちは付き合い始めて、大学生から一緒に暮らしているよ」
「そうなんだ」
 私も嬉しくなって、自然と口元が緩んだ。彼女が無事で何より。彼女が無事なら私はどうなってもいいとも思っていたが、しかし記憶が思い出せない以上、何が起きたのか気になった。
「それで何があったの? どうして私はこんな体になったの?」
「交通事故に遭ったんだよ。その事故で両手足を切断することになったの」
 それならその日に戻って事故を回避すればいい。しかし私は、それだけの事故に遭ったのに、その日のことを思い出すことができなかった。
「それはいつごろ?」
「大学三年生の頃だから、五年前かな」
「思い出せない……」
「事故の衝撃と、手術のせいで記憶を失くしちゃったみたい。こうして前の記憶を思い出すまで、サヨちゃんは記憶喪失になっていたんだよ」
「そうだったんだ」
「守れなくてごめんね」
 杏奈が泣きそうになる。
「いいの! それよりも杏奈に迷惑かけてごめん」
「そんなことないよ! 私がこうしていられるのも、全部サヨちゃんのおかげだから! サヨちゃんのおかげで私は助けられたの」
 私は私のことばかりで恥ずかしくなった。
「杏奈が無事でよかった」
 杏奈が私を強く抱きしめてくる。私も抱きしめ返したかったが、肘から先のない両の腕で、彼女の体を挟むことしかできなかった。
 そして杏奈が腕を解くと、鼻先が触れ合い、互いの息のかかる距離で私の目を見つめ、それからキスをしてきた。今度は舌を差し入れてくる。私は彼女の舌を受け入れ、互いの舌を絡ませあって長いキスをした。

   *  *  *

 朝食もほどほどに、私たちは寝室へ移動した。
 杏奈は私をベッドに寝かしつけると、私の上に覆い被さって体を重ねてきた。
「サヨちゃん、大好きだよ」
 杏奈は私の口に舌を差し入れてきた。私たちは互いの舌を絡めあった。彼女の舌は私の舌を絡めとり、貪るように激しく求めてきた。
 その最中、杏奈の手が私の体を這う。くすぐったくて逃れようとしても、私は寝返りもまともに打てなかった。
 杏奈は唇を離し、愛おしそうに、優しく私の目をのぞきこんでくる。彼女の潤んだ瞳に私が映っているように、私の瞳にも彼女が映っているだろう。
「サヨちゃん、安心して。私に任せて」
 甘く柔らかな声で、私は体の芯から蕩けるような気持ちになった。私は何か淫靡な悪夢を見ているのではないかと思った。
 杏奈の細く長い、美しい指先が、私の体を這う。愛おしげに彼女の指が私の形をなぞっていった。彼女に触れられた表皮が、筋肉が、引きつるように小刻みに収縮と弛緩を繰り返した。
「あっ──」
 思わず私の声が漏れ出た。
 杏奈はケーキの包装を剥がすように、私の服を脱がしていく。恥ずかしかったが、私はそれを遮ることができない。私は彼女を押しとどめようとして、肘から先のない両腕が空を掻いた。
 私は呆気なくネグリジェを脱がされる。レース生地の白い下着が露わになった。透けてしまいそうなそれも私の趣味ではなかった。私自身は着たいと思わないが、杏奈に着せたいとは思った。
 杏奈も着ていた服を脱ぐ。同じデザインの黒い下着だった。私の平坦な胸に比べて、形のいい乳房が寄せられて谷間ができていた。その乳房を手のひらで包みたい衝動に駆られたが、今の私にそれは叶わない。
 杏奈は私の胸の上で両手を結び、獲物を狙うネコ科の猛獣のように、私の顔をのぞきこんでくる。
「サヨちゃん、してほしいことがあったら言って」
 春の花を思わせる、あの変わらない笑顔を私に向けてくれる。
「杏奈の胸で顔を挟んでほしい」
 素直にお願いしてみた。
「サヨちゃん、相変わらずドスケベだね」
 杏奈は唇を尖らせ、少し呆れたような顔をした後、また微笑む。そして私の顔の上に、彼女の美しい乳房を惜しげなく乗せてくれる。
 彼女の感触と温度、甘い匂いに包まれた。
「ブラ外す?」
「もう少しこのまま」
 私の息がこもって熱になり、湿度が上がった。
 しばらくこの状況に甘えるとしよう。あとで私が手足を欠損した過去を変えればいい。それによって杏奈に悪い影響を及ぼす可能性もあるので、慎重に判断しなければならない。
 しばらく堪能していると、杏奈が見計らって乳房を遠ざける。私は名残惜しく遠ざかっていく乳房を見ていた。
「私より私の胸が好きなの?」
「そんなことないよ」
「ふーん」
 杏奈は意外と嫉妬深い。自分の胸にまで嫉妬するのは冗談だとは思うが、拗ねたような目は本気にも見えた。
「今度は私の番」
 杏奈は私の首筋にキスをすると、首筋から胸元にかけてキスの雨を降らす。そのたびに雨垂れの散るような音が響いた。彼女の手が私の後ろに回ると、容易くホックを外された。
 杏奈は私のブラジャーを脱がす。彼女の冷たい指先が素肌に触れ、私はどきりとした。露わになった私の左の乳首に、杏奈は片手で髪を掻き上げると口づけをした。
「んっ──」
 彼女の唇が啄むように私の乳首を挟み、舌先で転がしてくる。
 私は漏れる息を隠すために口元を押さえようとしたが、できるわけがなかった。本当は杏奈の髪を撫でたい。彼女に触れたいのに。私はまだこの体に慣れない。
 杏奈が上目遣いに、私の乳首を舐めながら様子を観察してくる。そして左手を私のお腹に重ねて、優しく撫でつつ下へと滑らせていく。その手が、そっと下着越しに私の陰部に触れた。彼女の指が触れた瞬間、水気のある濡れた感触がした。すっかり下着を濡らしているのは分かっていた。
 杏奈は私の乳首を舐めるのに合わせて、私の局部をさすった。なんとなく彼女が卒業旅行のあの夜を再現しようとしていることが分かった。あるいはこれが私たちのセオリーなのかもしれない。
「あんっ──」
 電気が脊椎を流れたような刺激が走った。私の意に反して体が跳ねる。その私の反応を楽しむように、杏奈は攻め立ててくる。
 私は必死に声を抑えようとする。腹筋が引きつって震えていた。息をするのもままならず、呼吸そのものを堪えようとしたが、相変わらず弦楽器のように彼女の手で掻き鳴らされた。
 私の体が達する手前で、杏奈は手を止める。
 私はいたずらっぽく目を細めて微笑む彼女を睨む。
「意地悪……」
「まだダメ」
 杏奈は再び体を重ねて、顔を寄せ、私の耳元に温かい吐息を吹きかけてきた。それだけで寸止めにされた私は達しそうになった。さすがにそれは恥ずかしいので、下唇を噛んで堪える。
「ずっと待っていたんだよ。サヨちゃんとこうすること。私の大好きなサヨちゃん」
 思えば私は彼女の全力を受けたことがなかった。不調の彼女でも、初めての彼女でも、辛うじて私が主導権を握っていたのに、今の私は手も足も出ず、彼女は全快である。
「サヨちゃんが壊れちゃうまで、私やめないから」
 杏奈が頬を赤らめ、目を輝かせて、獰猛な獣、あるいは淫魔かと見紛うような笑顔を見せる。
 私は途方もなく恐ろしく、それでいてこの深みに溺れたい気持ちになった。
 杏奈は私の下半身を覆う最後の一枚の布を容易く脱がす。膝から先のない私の足を開いて、左手を股の間に差し入れた。
「入れるよ」
「うん……」
 彼女の指先が私の中に入ってきた。
「んっ──」
 自分でするのとは違って、ずっと奥まで彼女が入ってくるのを感じた。
 まさかそこまで入るとは思わなかったので、私は驚いて体を強張らせた。しかし彼女の指は私を知り尽くしていて、私の中をなぞり、時に押し、的確にほぐしていく。
 杏奈は右手で私の左の乳首をいじりながら、左手で私の中を蹂躙する。私は脳髄を掻き回されるような感覚の嵐の中で、なぜか「杏奈って左利きだったかな?」と記憶を探ってみたりした。
 次第に激しさを増して、私の中で彼女の指が意思を持った別の生物のように、出口を探し求めて私を突き破ろうとするかのように攻め立てる。
 乳首をいじる右手の指はダイヤルを回し、私の感度を支配しているかのようだった。
 私は体を仰け反らせて、ただ鳴くことしかできない。それこそ私のシルエットはヴァイオリンに似ているのではないかと思った。
「杏奈っ──」
 私は彼女の名前を呼んで達した。
 全身に電気を駆け巡っているようだった。頭の中を掻き回され、体中の細胞を、別の何かに書き換えられていくような、底知れぬ不安な気持ちになった。呼吸さえままならず、私はそのまま窒息してしまうのではないかとさえ思えた。
 私の体は自分の意思ではどうすることもできない。突き上げられるように、体が跳ねている気がした。その私の体を杏奈はぎゅっと抱きしめてくれる。
「サヨちゃん、好きだよ。大好き。愛しているよ」
「杏奈、好き……抱きしめて……」
「うん。絶対に離さない」
 呼吸もままならないけれど、私は彼女とキスがしたかった。私の気持ちを察してくれたのか、杏奈は激しく私の唇を奪う。
 そういえば私が壊れるまで終わらないんだった、と思い出した。

   *  *  *

 ベッドの上で私は杏奈の抱き枕になっていた。
 シーツはびしょ濡れで、互いの肌は汗だくで、部屋の中なのにここだけ雨が降ったようだった。
 私の呼吸が落ち着くのを見計らって、杏奈が片肘をついて上体を起こし、私の顔を見つめながら頬を撫でてくる。
「サヨちゃん、ごめんね。守ってあげることができなくて」
 散々私の体を好き放題したことはなかったことになっていた。私は恨み言の一つでも言いたかったが、彼女の健気な様子に何も言えなくなった。
「いいよ。気にしなくて。それに過去に戻って変えればいいし。ただ杏奈に迷惑かけないように、慎重にやらないといけないから、少し時間がかかるかも」
「大丈夫だよ。もう過去なんて変えなくても。私が一生そばにいるから。私がサヨちゃんを支えるから。何も心配しないで」
 そう言ってくれるのは嬉しかったが、私だって私の手で彼女を抱きしめたいし、触れたい。
「それにサヨちゃんはもう過去に戻れないよ」
「え、どういうこと?」
 唐突な言葉に、私は強い違和感を抱いた。そもそも杏奈は私の死を回避するために過去に戻った。別に私を絶対に助けてほしいわけではないが、私の事故を回避することは見逃したのはなぜなのか。虹架の身に何かあって、それでもう過去には戻れなくなったのか。しかし虹架に頼らずとも、杏奈のそばにいれば過去に戻れた。
 杏奈は私の体の上にその体を這わせ、私の頬や唇を撫でる。目を細め、艶やかに微笑む。私は先程までのことが思い出され、すっかり冷え切った体が再び熱っぽくなるのを感じた。
「私は何度目かの時間遡行で、虹架のトロイメライを使用しなくても、過去に戻れるようになったの。──あ、私は過去に戻る現象を、時間遡行て呼んでいるの──そして何十回、何百回も繰り返すうちに、時間遡行に関する高濃度の化学物質に私の脳が汚染されていったんだ。最後の遡行で、私はサヨちゃんと離れる選択をしてしまった。その後の私がどうなったか、今のサヨちゃんならよく知ってるでしょ」
「うん」
「もう二度と会えないと思った。あの暗闇の中で一人狂ったまま死んでいくんだと思っていた。それなのにサヨちゃんは、私を見つけ出してくれた。私はあの瞬間に、それまで以上にサヨちゃんとの運命を感じたの。嬉しかったなんて言葉だけじゃ表しきれないほど、私はサヨちゃんで満たされて幸せだった」
 彼女はうっとりと恍惚とした表情で、今にもキスしてきそうな様子で、熱い吐息を私の唇に吹きかける。
「そして私の体は、脳だけでなく、血液や体液にもその化学物質が流出していたみたい。だからね──」
 杏奈は少し恥ずかしそうな顔をした。
「サヨちゃんが私とキスしたり、私の体液を取り込むことで、サヨちゃんの体内にもその化学物質が浸透していったんだと思うの。ただそれだけだと本当は過去に戻れないんだけど、私と一緒に生活することで、バイオリズムが連動したのか、サヨちゃんの脳活動も私に近づいていったんじゃないのかな。それは私にもよく分からないことなんだけど、きっと愛の力なんだと私は思うの」
 それが私が過去に戻れた理由らしい。それより杏奈の口からこぼれた「運命」や「愛の力」という言葉が意外に思えて、私も嬉しいような恥ずかしい気持ちになった。
「あれから過去の私は虹架と一緒に研究しながら、サヨちゃんが教えてくれた未来の私の状態を推理して、その化学物質を緩和する方法を見つけて、こうして私は無事でいられたの。もちろんそれ以外の可能性も考えて対策しているから、急にまたあんなことになったりしないと思うから安心して」
「それならよかったけど……それで私はもう過去に戻れないっていうのは、杏奈の体質が変わったからってこと?」
「そういうこと」
 私の身に起きていたことと、杏奈に起きていたことは分かった。
「なら、虹架に頼んで過去に戻ればいいんじゃ? 虹架に何かあったの?」
「ううん。元気だよ。今でも変わらず、時間遡行現象について研究しているよ」
「そう。それならよかったけど。私が虹架の、過去に戻れる装置を使うことはできないの?」
「そんなこともうしなくていいんだよ。それに私がさせない」
「え?」
 杏奈の表情が一瞬険しくなった。私に触れる彼女の指先に、微かに力がこもった。
「どうして?」
「サヨちゃん、運命って何だと思う?」
 杏奈は私の疑問に答えないまま続ける。
「運命っていうのはね、そこにある、そこにいるってことなの。記憶が統合される前の過去の私は考えたの。仮にサヨちゃんを殺した先輩から遠ざけたとして、サヨちゃんが死んでしまう未来を回避することができるのか。そもそも私の精神が壊れた原因はなんだろうか。きっと私は何度もサヨちゃんが殺されてしまう事実を変えようとした。それによる負荷が私の精神を壊したのではないだろうか。少なくとも二回はサヨちゃんが死んでいることになる。でもサヨちゃんは何度も過去に戻っていたのに、サヨちゃん自身の精神に変化はなかった。そのことから十回や数十回じゃきかないほど、もっとたくさんの世界線でサヨちゃんが死んだんじゃないかって考えたの。そして過去の私はある仮説を立てた。時間遡行の仕組みについてはまだ分からないことがたくさんあるよ。私が立てた仮説は、人の死、運命について」
 どうして杏奈がこんな話をしているのか分からなかった。私が何か口にしようとすると、唇に指を優しく当てて遮られる。
「世界線はね、フローチャートのように分岐しているんじゃないかな。私たちが思っている以上にこの世界はダイナミックで、もしかしたら一人一人に固有の世界線が存在していて、複数の世界が合わさって一つの世界のように振る舞っているのかもしれない。そしてそれらの世界線はどこかの時点で集約するの。この集約する点に到達するように、強力に、強制的に修正する力が運命。そしてこの集約点とは物体やエネルギーがその地点にあるということ」
 杏奈の手が私の腕の断端に触れる。内側をなぞられるような奇妙な感覚がした。
「人体を構成する主な元素は水素や炭素に、窒素と酸素。それと微量なミネラルから、人はできているの。日本では人が死んだ場合、基本的に火葬にするから、そのほとんどが二酸化炭素や水になって世界に拡散される。つまり人の死によって、これら元素が世界に再循環することが、運命であり揺るがしがたい未来の集約点の一種だと私は考えたの」
 杏奈はまた興奮してきたのか、私の体にその滑らかな局部を押し当ててくる。しっとりと濡れているのが感じられた。
「サヨちゃんは過去を変えてて感じなかった? どんなに過去を変えても、人生が大きく変わらないことに。だって過去の選択を一つ変えたら、それによってまったく違う人生になってもいいのに、そうじゃないでしょ」
 杏奈と一緒にいることが私にとってかなり大きな変化だったが、確かに進学や就職など、大きな枠組みで見れば、私の人生はあまり変わっていないと言えるのかもしれない。
「水滴が水面に落ちて波紋を起こし、その波紋同士が打ち消しあって水面が凪ぐように、過去の変化は未来で起きた波紋に打ち消されて、過去が整合性をとって調整されるの。そのことから未来は決まっていて、私たちはすでに起きたことをなぞっているだけなのかもしれない」
「つまり死ぬ運命は変えられないってこと?」
 杏奈はまた答えない。
「仮定の話をしようか。私とサヨちゃんが同じ部屋にいたとする。そしてその部屋の間に仕切りを置いた時、どちらかのスペースに私とサヨちゃんがそれぞれいるパターンと、どちらかのスペースに私とサヨちゃんが一緒にいるパターンはいくつあると思う?」
 私は指で数えようとして指がなかったので諦めた。
「えっと、まず一人ずつが、私と杏奈を入れ替えることで2パターン。一緒にいる場合も、どちらかに私たちがいて、もう一方に誰もいないから2パターン。合わせて4パターンかな」
「正解。それじゃあ次に、それを電子に置き換えてみようか。電子は分かる? 原子核の周囲に存在して、原子を構成する要素、粒子の一つ。原子は原子同士で結びついて分子になり、分子は分子構造を組み立てて、物質や生命を構成する。今度は部屋の中に──というと変だから、箱の中に二粒の電子がランダムに移動していて、その間に仕切りを置いた時、それぞれにいるパターンと一緒にいるパターンはいくつかな?」
「4パターンでしょ。同じ」
「答えは3パターン。電子には自己同一性がないから、私たちとは違って一粒ずつ仕切られているパターンが1つしかないの。入れ替わっても、同じパターンとして扱われるんだ」
 杏奈が蛇のように私の手足のない体を絡めとる。赤い舌を見せて笑った。
「この自己同一性を拡張した時、私たちを構成する分子、その原子にも自己同一性がないとしたら、身代わりを立てることができないか。サヨちゃんが殺されるはずの時に相手を殺して、サヨちゃんが火葬される日にその相手の遺体を燃やせば、この世界からサヨちゃんを隠せるんじゃないか、って。だけどそれはできないから、サヨちゃんを軽くすることで、サヨちゃんを隠せるんじゃないかって、過去の私は考えたんだ」
 私は積もり積もった違和感が、一つずつ解けていく気がした。そのことを私は理解したくなかった。
「杏奈が何を言っているのか理解できない……」
「だからサヨちゃんの質量を軽くすれば、未来において拡散して再循環するはずだったサヨちゃんの一部の質量を先に還元してしまえば、サヨちゃんが死ぬ未来を回避できるんじゃないのかな」
 杏奈は誇らしげに、満足げに、うっとりと笑いながら言った。
 私は冷たい氷のナイフで、いやもっと鋭利で長く尖ったもので、頭頂から刺し貫かれたような思いがした。
「杏奈が私を──」
 私の口を杏奈は唇を重ねて塞ぐ。舌を差し入れてくるのを、私は歯を閉じて拒む。杏奈の舌先が私の歯列を、歯茎をなぞった。それにぞくぞくしたが、今はそんなことをしている気分ではない。
「んっ……杏奈、やめて……」
 身をよじって逃れようとすると、すんなりと杏奈は解放してくれた。
 杏奈は少し寂しそうに私の顔を見る。
「だってサヨちゃん、いつも死んじゃうんだもん。サヨちゃんのいる世界じゃなきゃ、生きている意味なんてない。覚えている? 中学二年の始業式の日のこと」
「うん」
「サヨちゃんが先に私のこと、好きって言ったんだよ」
 今でも私は杏奈のことが好きだ。大好きだ。
 あの春の日に出会った美しい人と、こうして結ばれたことが幸せだった。
 杏奈は熱っぽい眼差しで、うっとりと微笑む。
「初めてだった。サヨちゃんから先に好きって言ってくれたの。過去の私も、今の私も、そのことがすごく嬉しい」
 再び杏奈は私の体を弄り始めた。
「私だけのサヨちゃん。二人で一生一緒にいようね」
 私は何もすることができない。彼女にされるがままだ。
 ただこれ以上の何を望むだろう。私は杏奈を救えた。彼女が無事な世界で、私が死ぬこともない。愛する彼女と一緒に生きていくことのできる世界だ。
 本当にそうなのか。という疑問は残るが、私はもっと恐ろしい可能性を考え始め、そしてそのことについては考えないことにした。
 これでいい。これでいいんだ。
 私は私に言い聞かせた。
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