春の残骸

葛原そしお

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第一章

第六話

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 火曜日──
 職場では、玄野先輩と相変わらず気まずかった。
 交わした言葉は最低限の挨拶程度だった。
 仕事にも身が入らない。
 私は居心地が悪かった。
 一時間ほどして私は離席した。気分転換のため、トイレに手を洗いに行く。
 とにかく自然に先輩のそばを離れたかった。
 洗面台に向かって手を洗っていると、後ろから声をかけられた。
「小夜子ちゃん」
 玄野先輩だとすぐに分かった。どこか猫撫で声で、私の中に不快感が広がる。
 洗面台から顔を上げると、鏡越しに、媚びるような目をした彼女がいた。
 私はこんな先輩を見ていたくなかった。
 先輩は私の左肩に、俯きがちに頬をのせ、私の手に指を絡ませて握ってくる。
「体だけの関係でいいから……」
 私は玄野先輩との記憶を思い出した。杏奈と再会してから一ヶ月ほどの。
 何度もこういうことがあった。そのたびに私がしていたことをすればいい。
 私はトイレの個室に玄野先輩を連れ込む。
 個室の中で私たちは向かい合うように立った。
「もうこれで最後にしてください」
 何度目になるか分からない最後を告げる。
「うん……」
 玄野先輩は期待を込めた目で、縋るように私を見つめてくる。
 私はその目が見たくないので、彼女の体を抱き寄せる。右手をスカートの中に差し入れた。
「小夜子ちゃんの指、好き」
 そう言って先輩は私の首に唇をつける。私は無心になることを心がけた。
 この後、彼女がどうやって一日を過ごすのか知らないが、とにかく一度満足させれば大人しくなるだろう。

   *  *  *

 彼女の唾液がついた首を何度もこすって拭う。ウェットティッシュがほしかった。
 自席に座り、仕事に戻る。
 しばらくしてから、すっきりした顔の玄野先輩が戻ってきた。あれ以降、私たちは一言も口を交わさなかった。
 私は一日でも早くこの状況を抜け出したいと思った。たとえば玄野先輩と出会わない人生にするとか。
 しかしその結果、杏奈の身に予期せぬことが起こるかもしれない。もしかしたら彼女を引き取らない、そもそも彼女が引きこもっていることを知らない世界になるかもしれない。
 過去を変えるのなら、私のためではなく、杏奈のためでなければならない。
 そこで私は何かを見落としている気がした。
 私は玄野先輩と出会わない人生を望んだように、杏奈も私と関わらない人生を選んだのではないか。そんな突拍子もないことが、脳裏に閃いた。
 なぜそんなことを思ったのか──私は過去に戻って、改変する力、能力とでも言うべきか、とにかく私の身にそのような現象が起こっている。
 最初は私の忘却していた記憶を思い出しているだけ、だと思っていた。しかし実際に私は今までの記憶をもって過去に戻り、未来の出来事を記録に残すことに成功した。これは私の幻覚や妄想などではなく、紛れもなく現実に起こっていることなのだ。
 ただそれが私の身にだけ起こっていることなのか。ならば私は何か特別な存在なのか。そんなわけがないと思えた。
 私にも起こりうる現象と捉えた場合、誰か他の人の身にも起きているのが自然だ。
 もし杏奈も過去に戻ることができる、と仮定した場合、いくつもの符号が一致する。私は今まで彼女の言うことが、妄想や幻覚だと思っていた。
 杏奈が私と交際していたこと。杏奈が本来交流のなかった私を「サヨちゃん」と呼ぶこと。杏奈が話す私の知らない二人の思い出。
 しかし私が過去を変えたことで、彼女の話す記憶に過去が近づいていた。
 だから、こう仮定することはできないだろうか。
 私が過去に戻れるようになる前、杏奈はすでに過去に戻って何かを変えた。その結果、私と彼女の間に接点がなくなり、私は彼女との思い出を失った。
 そうすると杏奈は私を拒絶したのか、とも考えられたが、とうの彼女にその様子はない。何か予期せぬことが起きたのかもしれない。
 またその仮定を真とするのなら、杏奈には過去を変える前の記憶があることになる。私も私が変える前の過去の記憶がある。仕組みは分からないが、過去を変えた本人しか変える前の記憶をもたないのかもしれない。
 不意に別の恐ろしい可能性が思い浮かびそうになったが、とにかく彼女に聞いてみなければ始まらない。
 それによって、この現象がなぜ私の身に起きたのか、何か原因や仕組みがあるのなら、それが分かれば、彼女を救う上でもっといい方法が見つかるかもしれない。
 すぐにでも確かめたい気持ちになったが、定時までまだ時間がある。早退しようかとも思ったが、先輩に借りを作りたくない。
 とりあえず今は、仕事の片手間に、他にも見落としていることがないか、杏奈と再会した時のことを思い出してみることにした。

   *  *  *

 一ヶ月前──
 十年ぶりに再会した彼女は、私の知る彼女ではなかった。
 あの頃の面影を残して、壊れてしまった私の青春の残骸。
 私が杏奈を連れ帰った最初の日──彼女は一人で歩くのも覚束ず、終始支えながら、寄り添って歩いた。また何日も風呂に入っていなかったのだろう。酸味のある臭気を漂わせ、電車内では周りから人が離れて行った。それであれば駅からはタクシーを使うわけにもいかず、途中何度もへたり込む彼女を励まして、最後には背負って家に運んだ。
 その背中で彼女が掠れた声で、うわごとのように言っていた。
「サヨちゃん、会いに来てくれたんだね……私のこと覚えていてくれたんだね……」
 私は別の誰かと混同しているのだと思って、気にも留めなかった。
 家に着くなり彼女は玄関で倒れた。私も力尽きてへたり込む。
 それから私はその場で彼女の服を脱がせて、風呂場に連れていく。
 想像の中でしか知らない──二回目の過去を変えた際には、実際に見て触れたが──彼女の肢体が露わになった。中学の体育の授業で横目に見た長く美しい手足。それが目の前にあった。
 しかしそれは想像していたものと異なり、ひどく痩せて肋が浮き、肩や腕には赤や青の痣があった。自らぶつけたのか、誰かに叩かれたのか。
 私は詮索をやめ、再び彼女を立ち上がらせ風呂場に向かう。
 彼女の肌はとても冷たく、骨張っていた。
 私はシャワーを浴びせ、丁寧に彼女を洗う。まずは髪から。あの綺麗な黒髪は、今や無造作に跳ねたり捩れたり、見る影もなかった。
 途中、目に水が入って杏奈が暴れる。私は彼女を抱きしめてなだめる。
「ちゃんと目をつぶっててね」
「うん」
 次に泡立てたスポンジで全身を洗う。特に鼠蹊部や臀部を入念に洗う。おむつでかぶれていたからだ。この時は一切のいやらしい気持ちはなかったと断言できる。
 風呂上がり、髪を乾かすのもそこそこに、リビングのソファに彼女を座らせる。適当に私の寝巻きを着せた。
 杏奈は浅い呼吸に胸を上下させていた。青白い顔に、痩せ細った頬。虚ろな目。儚げで、今にも消え入りそうで、それでも彼女は美しかった。
 私は改めて、あの赤星杏奈が私の部屋にいることを噛み締めた。──いや、私はまた彼女が私の部屋にいることを嬉しく思った。──改変した過去の記憶や感情が混入してくる。私はなるべくもとの記憶で思い出すよう心がけることにした。
 私はソファに座る杏奈に声をかけた。
「お腹空いてる?」
「分かんない」
 か細い声で彼女は答えた。
「何か食べたい?」
「サヨちゃんのなら、なんでもいいよ」
 疲れ切った顔に微笑みを浮かべる。その健気さに私は杏奈の頭を撫でていた。それに杏奈は嬉しそうに目を細める。
 とりあえず何か飲み物でも与えよう。その後に髪を乾かして、軽く何かを食べさせてから休ませようと思った。
 しかし杏奈はコップを持つことができなかった。コップを手渡すと、小刻みに震える彼女の手から、するりと滑り落ちた。服がびしょ濡れになる。それに彼女は気にした様子もなく、ぼうっとしていた。
「ごめん、大丈夫?」
 私は慌てて彼女の体を拭き、着替えさせる。それに杏奈はくすぐったそうに笑っていた。
 それから私はインスタントのご飯と味噌汁で、間に合わせの雑炊を出した。なんとかスプーンを握らせることができたが、彼女は掬って食べることができない。
 また本人にあまり食べる気力がないようだった。ただ私が食べさせると、どこか嬉しそうだった。

 しばらくして落ち着いた頃、私たちはソファに座り、杏奈は私の膝枕で眠っていた。その横顔と髪をそっと撫でる。
 そこで私は杏奈の母に電話番号だけ渡して帰ったことを思い出した。私はスマートフォンを手に取る。知らない電話番号からの着信があった。
 私は急いで電話をかけ直した。
「西塚です。先程は失礼いたしました。今、家にいまして──」
『サヨちゃん、ありがとね。あの子が自分で歩くの、久しぶりに見たから。本当にサヨちゃんのことが大好きなのね』
 その「サヨちゃん」について聞きたかったが、もし私が別人だと分かってしまったら、杏奈を連れ戻されてしまうかもしれない。そう危惧した。あの暗闇に杏奈を置き去りにはできない。
 その時はそう思った。しかし今思えば、杏奈が別の過去の記憶を持っていて、私のことをそう呼んでいたのではないか。杏奈の母も、彼女の口から私の愛称を聞いて知っていたのだろう。
 杏奈母との電話で分かったこと。
 杏奈は一人では何もできない。一人で満足に歩くことができない。食事もトイレもできない。スプーンやフォークも使えない。文字や数字を読むことができない。
 このぐらいのことはだいたい察していた。
 とりあえず私は履き慣れたオムツのメーカーを教えてもらった。
『ごめんね、サヨちゃん。でもサヨちゃんのところの方が、あの子も嬉しいと思うから。よろしくね』
 私は信頼や期待を寄せられることに胸が痛んだ。
 しかし後戻りはできない。するつもりもなかった。

 夜、私は杏奈をベッドに寝かしつける。私は床かソファで寝ようと思っていた。
「じゃあ杏奈、おやすみ」
 その私の袖を杏奈が掴む。
「サヨちゃん、そばにいて」
 私は彼女を落ち着かせるため、一緒に眠ることにした。下心があったかどうか。少なくとも別に寝ようとした時点で、私は弱った彼女に不埒な感情を抱いていたことは否定できない。
 一緒の布団に入る。横になると、彼女は私の手を握ってきた。
 杏奈は暗闇の中、その二つの瞳をきらめかせていた。
「サヨちゃん、大好き」
 そう言って、杏奈はキスをしてきた。
 私は拒もうとしたが、これで彼女が落ち着くならと、仕方がないと思うようにして受け入れた。
 少しして杏奈は唇を離す。唾液が糸を引いて、白く光って見えた。
 彼女はあどけない笑顔で私を見つめてくる。無垢な幼児が甘えるように。しかし彼女は美しくしなやかな大人の女性の肢体をもっていた。幼さと艶やかさが並存し、私の罪悪感と劣情を同時に掻き立てた。
 そのうち杏奈が私の胸元に顔を埋める。それから私の首筋に唇を這わせてきた。
「ちょっと杏奈、ダメ!」
「どうして?」
 杏奈は不思議そうに私の顔を見た。そして私の上に覆い被さり、服の中に手を入れてきた。
「ダメだって! こういうことは、付き合ってないと──」
「サヨちゃんと私は、恋人だよ」
「え?」
「私たち、付き合ってるよ」
「何を言っているの?」
 杏奈は無視して再び私の体を弄る。
「待って!」
 私は杏奈の肩を掴んだ。力づくで押しのけることもできたが、私はためらった。骨張って、弱々しい彼女が儚く感じたからだろうか。私の体で彼女の慰めになるのなら、それで構わないと思ったからだろうか。
 杏奈の指先が服の下を滑って、私の左胸、その先に触れる。
「んっ……」
 その反応に杏奈は気をよくしたのか、撫でるように、弄んでくる。
「やっ、あっ──」
「サヨちゃん、ここ好きだよね」
 杏奈がいたずらっぽく笑った。
 私は左の乳首が弱い。なぜ杏奈がそのことを知っているのか。この時は偶然だと思っていた。
 私は杏奈の背中に手を回した。彼女を抱きしめる。そうすると彼女は弱々しく私の上に崩れた。
「サヨちゃん……サヨちゃん、大好き……」
 私の耳元で、嗚咽混じりに杏奈が言う。
「私も大好きだよ」
 彼女を押しのけることができなかった理由が分かった。
 冷たい彼女の体温を私の体で温めてあげることができるのなら、私は何を捧げても構わないと思ったから。
 そうではなく、私は南帆にフラれたばかりで、自棄になっていたからでもない。「サヨちゃん」と呼ばれる誰かへの嫉妬からだった。

 翌日は月曜日。私は普通に出勤した。
 杏奈を一人で留守番させるのは心配だったが彼女も大人だ。心を壊していると聞いたが、受け答えはできている。きっと大丈夫だろう。その程度にしか思わなかった。それに私が実家で飼っていた猫に似たぬいぐるみ──ウリ坊を気に入ったようで、ずっと抱きしめていた。
 帰宅すると、杏奈が玄関前でうずくまっていた。私を見とめると、彼女は立ち上がろうとする。その顔は涙や鼻水、涎でぐしゃぐしゃだった。
 立ち上がった彼女はすぐに足をもつれさせて転んだ。
「杏奈!」
 私は慌てて杏奈に駆け寄る。
「大丈夫? 怪我してない?」
 私は膝をついて、杏奈を抱き支える。
「サヨちゃん、サヨちゃん……」
 泣きじゃくりながら私の名前を呼ぶ。
「何かあったの?」
「一人にしないで……」
 その言葉に私は胸が締めつけられた。
「ごめんね。一人にして。もう大丈夫だから」
 私は杏奈を抱きしめた。どこにそんな力があるのか、彼女の指が痛いぐらいに私の背中に食い込んだ。
 とにかくシャワーを浴びせて、彼女を着替えさせようと思った。
 そこで私は家の中の惨状に気づいた。ソファの上にいるウリ坊以外、無事なものはなさそうだった。
 机の上にあった置物が床に打ち捨てられバラバラになっていた。ガラスも割れていた。南帆と旅行した際に買った物もあった。二頭の張り子の虎は、片方は首がもげて、片方は割れていた。それは南帆が、私たちの干支が寅年だからと買ったものだった。
 私は何を壊されたかよりも、杏奈が怪我をしていないか、その方が重要だった。急いで確かめると、擦り傷や新しい打ち身はあったが、ガラス片は刺さっていないようだ。
 シャワーを浴びせ、杏奈を寝室で休ませることにする。その間にリビングを片付けようと思った。
 しかし寝室も散々だった。布団が破かれ中身を散らしている。シーツは剥がされ、ぐるぐるに丸められて部屋の隅にあった。
 脱ぎ捨ててあったものか、開けっ放しのクローゼットから引きずり出したのか、服が破かれたり引き延ばされていた。後から気づいたが、南帆の残した服で、その中に私のものはなかった。
 私は杏奈をベッドの上に座らせる。
「片付けするから、ちょっと待ってて」
 不安そうな彼女の頭を撫でて、ウリ坊を与えて寝室を出る。
 私は解体した段ボール箱を組み立て、その中に壊された物を拾って入れた。ビニールだと杏奈が破いたり誤飲してしまうかもしれない。捨てきれないのは、私の中の未練か。箱詰めにして部屋の隅に置いた。
 ──これ以降は、とにかく彼女との生活に追われ、忙しかった記憶しかない。こんな生活が一週間続き、私は「嵐の七日間」と呼んでいた。
 ただ杏奈は南帆の痕跡、あるいは私の部屋にある私と杏奈以外の痕跡を消し去ると、落ち着き始めた気がする。それは新しい生活に慣れてきた程度に思っていたが、杏奈は明確に区別をしていた可能性がある。その証拠に本棚にある私の漫画コレクションと、ウリ坊は無事だった。
 それに私が過去を変えた後の、二重にある別の記憶では、この「嵐の七日間」がないことになっていた。
 もしかしたら杏奈には、私にない記憶があるのではないだろうか。

   *  *  *

 現在──
 私は退勤し、帰宅してから、もろもろの日課を済ませた。
 杏奈と一緒にシャワーを浴び、夕飯を食べて、リビングのソファでくつろぐ。彼女は私の左肩に頭を乗せて鼻歌を歌っていた。
 私は杏奈に、どう切り出せばいいか、少しだけ悩んだ。特に何も思いつかなかったので、素直に聞くことにした。
 私は杏奈を見る。唇に彼女の髪が触れた。キスすると思ったのか、彼女は顔を上げ、私を見て微笑む。
 その彼女に私は聞く。
「もしかして杏奈、過去に戻ることができるの?」
 それに杏奈は不思議そうな顔をした。
「できないよ?」
「そうだよね」
 当然のことだった。私はいったい何を聞いているのだろう。今までの緊張が解け、全身から力が抜けた。
「閉じちゃったから」
「え?」
 私は驚いて杏奈を向く。杏奈に私をからかっている様子はなかった。
「戻ろうとしたけど、戻れなくなっちゃった」
「それは、前はできたってこと?」
「うん」
 予想が当たった。しかし私は内心の動揺を抑えきれない。今自分の身に起きていることさえ信じられないのに。
「それじゃ杏奈は、過去を変えることができたの?」
「そうだよ!」
「どうやって過去に戻ったの?」
「寝て起きたら」
「過去に戻って、変えることができる?」
「うん!」
 それに杏奈は自慢げに笑った。
「急に、できるようになったの?」
「ううん。ニジカが」
「ニジカ?」
 人の名前だろうか。初めて聞いた。
「そのニジカが、過去に戻れた?」
「ちがう! ニジカが作った、とろ、とろぉ……」
 杏奈は唇に右手の人差し指を当て、必死に言葉を探している様子だった。
 そして満面の笑顔を私に見せる。
「トロトロ!」
「トロトロ!?」
 それはニジカがトロトロなのか。
「ちがった……トロンメロン!」
「なんか美味しそう」
「ちがう……うーん……」
 杏奈が顔を真っ赤にして悩み始める。杏奈は右手の爪をかじり始めた。
 私は「トロ~」がつく単語で連想したものをあげてみる。
「トロンボーン?」
「ちがう!」
「中トロ?」
「ちがう!」
 杏奈がいらいらして頭を掻き始めたので、私は彼女を抱きしめてなだめた。彼女を苦しめてまで聞くようなことではない。本当に重要なこととも思えないので、いったん中断することにした。
「大丈夫。そろそろベッドに行こう」
 私は不服そうな杏奈の髪を撫で、キスをする。
 それに彼女は口を開いて、私の舌を受け入れる。
 断片的にキーワードを拾うことができた。今はこれで十分だろう。
 杏奈も過去に戻ることができた。ニジカという人物が、この現象に関わっているようだ。
 私は唇を離し、上気した表情で、続きを求める彼女を抱き起こす。
 私の腕の中で、杏奈が不意に言う。
「ニジカに近づいちゃダメ」
 私は一瞬戸惑った。
「それは──どうして近づいちゃダメなの?」
「危ないから。サヨちゃんが危ない」
「どういうこと?」
「危ないからダメ!」
 危ない、というのはどういうことなのだろうか。
「どうして危ないの?」
「サヨちゃんが危ないの! 絶対にダメだから!」
 杏奈が必死に言う。何か不吉な予感がした。
 そして私は肝心なことを聞き忘れていることに気づいた。
「どうして杏奈は過去へ戻ったの?」
「サヨちゃんを守るため」
「私を守るため? どういうこと?」
「サヨちゃんがね、死んじゃうから。だからね、たくさん戻ったの」
「私が、死ぬ?」
「だってサヨちゃんが──」
 そこで杏奈は口を開いたまま、何かを言いかけてやめる。彼女の中では言ってはいけないことなのかもしれない。
「ちがう! ダメ! ちがうから!」
 私の肩を掴んで必死に揺らす。
「杏奈、落ち着いて!」
 私は杏奈を抱きしめてなだめた。
 これ以上、彼女に聞くことはためらわれた。
 これだけ分かれば十分だ。杏奈は私の死を回避するため、過去へ戻った。その過去へ戻る手段はニジカという人物が関わっている。
 こんな話、普通であれば到底信じられない。しかし彼女の言っていることが嘘や妄想ではないことを、私は自分自身の体験で実感していた。
 過去へと戻る夢を、杏奈と暮らしてから見るようになったこと。過去を変えた結果、杏奈の言っていた妄想や勘違いと思われた過去に近づいていること。
 杏奈が過去を変え、私の知らない記憶を彼女が持っていた。何かの拍子にその力、あるいは現象が私に移り、私も過去を変えられるようになった。
 そう考えれば辻褄が合う。
 ただそれでも信じ難いことは、私と彼女が恋人同士だった過去──世界線とでも呼ぶべきか──があったということだ。
 私の腕の中で杏奈が言う。
「ニジカには絶対会わないで」
「うん、分かった」
 そう返事したが、どうするかはこの後で決めることにした。
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