春の残骸

葛原そしお

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第一章

第三話

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 土曜の朝。
 私は杏奈を連れ立って、近所の美術館に向かった。歩いて三十分ほどの場所にある。私たちの場合は一時間ほどかかるが。
 私は杏奈の腰に手を添えて、支えながら歩く。一ヶ月前に比べて彼女の体力はだいぶ回復した。以前なら五分歩くだけで休んでいたが、今は休むことなく歩けるようになった。
 彼女が歩けなくなったのは、一つに筋力の衰えが原因らしい。そのため休日はリハビリも兼ねて散歩をするようにしていた。もう一つは、常に視界が回るような目眩があるようで、一人で立っていることが難しかった。そのため常に私が支えている必要がある。
「あ、花だ! 花が咲いてる!」
 道路脇に低木が植えてあった。赤紫色の花を咲かせている。ツツジの花だろうか。杏奈が手を伸ばして触れようとするので、私は彼女が転ばないように支える。
「折っちゃダメだよ」
「うん!」
 彼女の楽しそうな横顔を見ていると胸が痛かった。
 私は彼女を傷つけ、彼女を壊した。そしてその記憶を今まで忘却していた。
 もう一つの記憶では、あれから私は彼女に拒絶されたと思った。しかし一ヶ月と少し前に、杏奈が実家に引きこもっていることを英美香から教えられた。
『西塚って赤星さんと仲良かったよね? 連絡きた?』
『きてないけど』
『なんか病気で仕事辞めて、家に引きこもっているらしいよ』
 それに私は急いで彼女に会いに行き、こうして一緒に暮らすことになった。
 杏奈の母が私のことを知っている様子だったのは、学生時代に何度も私が遊びに行って、私のことを知っていたからだ。
 今まで私はそのことを忘れていたのだ。従来の記憶はすべて妄想だったのだ。
 私はどうすれば彼女に償うことができるだろうか。

 しばらくして私たちは美術館に着いた。美術館は広い都立公園の一角に建っている。公園には親子向けの遊具エリアに、野球場やサッカー場、サイクリングコースもあったりかなり広い。私もまだ全域を探索したことがなかった。
 美術館では収蔵品の展示や企画展以外にも、併設された市民ギャラリーに地元の学生や市民団体の展示がされていた。今日は絵画教室の成果展も兼ねた展示が行われていた。
 私たちは市民ギャラリーの展示を見に行く。その絵画教室の生徒の作品が壁面に並んでいた。人物画や風景画、水彩に油彩。写実的なものや抽象的なものまで、さまざまな作品があり、社会人以外にも小中学生の作品もあった。
 杏奈は楽しそうにそれらを見ていた。指差して、「これ可愛い!」「すごい!」と私に言う。特に杏奈は動物の絵を楽しそうに見ていた。彼女は丸っこいものを好む傾向にあった。
 私は杏奈が楽しんでいるのならよかった、と思った。
 不意に杏奈が怪訝そうに言う。
「サヨちゃんの絵はないの?」
「私の絵はないよ」
「どうして?」
「私は描いてないから」
 杏奈は不満そうだった。
「サヨちゃんの絵が見たい。サヨちゃんの絵、好きだから」

 そういえば元の記憶でも、高校生の時、最後に会った際、杏奈にそんなことを言われたのを思い出した。
「私、サヨちゃんの絵が好きだよ。これからも描き続けてね」
 それがきっかけで、私は絵は続けないにしても、美術に関する学科に進学した。
 もう一つの記憶では、高校三年生の時、杏奈と一緒に大学の受験勉強をしている際に、彼女のアドバイスで決めていた。
「西塚さんは大学どこにするの? 美大?」
「いやー、私、絵を描くのは好きだけど、そこまで上手いわけじゃないから」
 美大の試験内容を見て、到底受かるとも思えず、気が進まなかった。
「赤星さんは大学どこにするの?」
「私は法学部か経済学部かな。私は西塚さんみたいに趣味とか得意なことがないから」
「そんなこと全然ないと思うけど」
 不意に杏奈がスマートフォンで検索結果を見せる。
「ここどうかな? 美術史とか専攻する学科もあるみたいだよ。私の受験する大学にも近いし、学校終わりにご飯とか行こうよ」
「うん、いいかも」
 学科や専攻がどうとかではなく、杏奈と会えることが嬉しくて、私はその大学を選んだ。
 どちらの記憶でも私の人生は、杏奈を中心に回っていたようだった。
 私の絵を好きだと言ってくれる杏奈。思えば私のことを肯定してくれたのは彼女だけだった。
 私は楽しそうに展示を見ている杏奈を、後ろから抱きしめる。
「帰ったら一緒にお絵描きしよう」
「やったー!」
 彼女は春の花が芽吹いたような笑顔を私に見せてくれた。

   *  *  *

 杏奈はスケッチブックを床に置いて、獲物を狙う猫のように身を屈めて、あるいは水面をのぞくように画用紙に向かう。私はローテーブルの上に置いたスケッチブックに、床に座って絵を描く。ウリ坊こと猫のぬいぐるみはソファの上で私たちを見るともなく見守っている。
 杏奈は画用紙に、ぐりぐりと塗りつけるように、クレヨンを握って何かを描いていた。
「茶色使うね」
「うん!」
 私は杏奈のクレヨンを借りて、大小の円を二つ重ねて描き、小さい円の外周に三角を二つ足す。それだけで腕を引っ込めて尻尾を畳み、座っている猫を見て取れるだろう。それを一色で塗り潰し、クレヨンの色を変えつつ、陰影やパーツを描き入れていく。
 絵というものは数学的だ。自由に見えるカンバスも、いくつもの規格が存在し、正方形や長方形であるか、それによって構図が制限されてくる。
 古代ギリシャの数学者であるユークリッドは黄金比を定義し、その後、芸術家や建築家がこれを美的な規則として採用した。十四~十七世紀のルネサンス期には三分割法など構図の概念が発展し、理論化されていった。
 私たちは直感や理性で描いているつもりが、無自覚に法則や規則に縛られている。あるいは意図的に、積極的に理論を取り入れて実践する。
 二十世紀中頃、ジャン・デュビュッフェによって提唱された「アール・ブリュット」は、その隷属から脱却し、自由な芸術を求めた。
 それでも私たちは人間である以上、その脳機能や本能、進化の過程で獲得した性質に支配されている。
 もし真っ白なカンバスに、近接する点が三つあったとする。三点は上に二つ、下に一つ、線で結べば逆三角形になると仮定する。それを円で囲めば私たちは顔と認識するかもしれない。いわゆるシミュラクラ現象だ。私たちは無意識に自然界にある形を探す性質がある。近接する二つの大きな円があって、それぞれに小さく同心円を描き入れれば乳房と認識する、のは私だけかもしれない。
「できた!」
 杏奈が楽しそうに言う。
「サヨちゃん!」
 彼女は画用紙にクレヨンで描いた、おそらく私の似顔絵を見せてきた。
 肌色で塗りつぶされた大きな円の中に黒丸が三つ。その円の上にカツラを被せるように、黒い線がいくつも並んでいた。髪の毛を表しているようだ。子供が描いたような絵だった。
「上手だね」
 私は杏奈の頭を撫でる。それに彼女は目を細めて、嬉しそうに笑った。

 中学生当時の彼女は、美術部である私よりもよほど絵が上手かった。しかし今は見る影もない。
 暇つぶし以外にも、手を動かす行為が彼女の認知機能や知性を取り戻すのに有益かもしれない。そう考え、リハビリも兼ねて絵を描かせてみた。もっと杏奈が興味を示す対象を用いて訓練させてみようか。
 そう思い、私はリビングを見回してみた。ソファの上の猫のぬいぐるみ。これはもう何度か描いていたな。杏奈は動物が好きだから、もっと動物のぬいぐるみを増やそうか。
 不意に私の中に違和感が込み上げた。
 リビングを見回した際、そのことにようやく気づいた。積んであった段ボールが無くなっている。その中には喧嘩別れした元恋人の私物や、杏奈が壊した物が入っていた。
 部屋の中から、彼女の痕跡がすべて無くなっている。
 いつから無くなっていたのか。段ボールに詰めた後は気にも留めず、そのうち片付けようとずっと放置していた。それが無くなっている。
 杏奈が捨てたわけがない。私が無意識のうちに処分したのか。
 そこで私は思い至った。それさえも私の歪められた記憶による、幻覚や妄想だったのだと。
 私は全身の血の気が引くような、おぞましい感覚がした。
 蛍野南帆。私に初めてできた恋人。その思い出が一つ残らず妄想だった。彼女と過ごした思い出が、彼女に抱いた感情が、この胸の痛みもすべて嘘だった。
 口の中が急速に乾いていく。指先が震えた。
 私はずっと忘れようとしていた、目を逸らしてきた、彼女のことを思い出す。

   *  *  *

 蛍野南帆。私の初めての恋人だった。
 彼女は背が低く、丸顔で、アーモンド型の丸い目に黒い大きな瞳に、すぼめられたような可愛い唇をしていた。あまり感情に起伏がなく、表情に乏しいので、人形のように可愛い女の子、という印象を誰もが抱いた。
 彼女は大学の同期だった。同じ専攻の学生。
 私は大学で美術史を専攻した。美術の歴史について学習し、研究するコースだった。大学三年からは自身の研究テーマに合わせてゼミを選ぶ。私は「キュビスムとその変容」と題した論文で卒業した。キュビスムとは、対象を幾何学的な形状に分割し、同時に異なる視点から描く、二十世紀初頭に出現した絵画手法だ。南帆は先史時代の芸術がテーマだったのでゼミは別。彼女の卒論はタトゥーやボディペイントに関するものだった。
 南帆は美術以外にも文学が好きだで、よく彼女の評論を聞いたり、おすすめの小説を借りて読んだ。それによって私の語彙力や文章力は鍛えられた。卒論を書くことができたのは彼女のおかげだ。彼女がいなければ大学を卒業できなかったかもしれない。
 その南帆と初めて出会ったのは、大学が始まってすぐのオリエンテーションの時だった。私たちの専攻では、大学生活の説明会も兼ねて、一泊二日の研修合宿が行われた。教授陣が引率していたと思うが、講堂に集まって聞かされた訓示や説明はろくに覚えていない。夕飯は何を食べたのかも。ただ鮮明に思い出せるのは、同室になった私を含む四人の中に南帆がいたことだった。
 南帆は人形のように可愛い女の子だった。背は低く、丸顔で、黒い大きな瞳をしていた。髪はショートボブで、黒髪に金のメッシュが入っていた。服は、黒地に金色の三本線の入ったジャージ。スズメバチを思わせる警戒色に身を包んでいたが、小さくて可愛いので、ずんぐりしたミツバチを私は連想した。
 なかなか攻めた格好をしていたが、私が最も目を引かれたのは、乳が大きいということだった。ダボついたジャージで最初は分からなかったが、服を着替える時に横目に気づいた。インナー姿ではあったが、小さな体に不釣り合いな大きな胸の輪郭。EかFはあるのではないだろうか。だから私の中で彼女の印象は「実は乳がデカい」だった。
 私たちはその夜、なぜこの大学を受験したのか、この専攻を選んだのか、好きな芸術家は誰か、漫画やアニメは見るか、といった話題で盛り上がった。私は漫画やアニメの話しかしなかったが。この時に南帆は岡本太郎が好きだと言っていたが、当時の私はまだキュビスムのキュも知らなかったので、特に共通の話題もなかった。
 ただ振り返ってみると、私がキュビスムを通してマリー・ローランサンに興味を持ったのは南帆の影響かもしれない。
 南帆とは同室ということもあり、友人の一人程度には仲良くなった。

 彼女は誰かと一緒にいるより、一人でいることが多かった。
 意図的に避けているようにも見えた。
 ただ話しかけても無視されるわけではないし、ぞんざいな態度をとられるわけでもない。ただ彼女は遊びや飲みの誘いに一切応じなかった。講義の合間の空き時間も一人で過ごしていることが多かった。
 私は一人で取った選択の講義がいくつかあった。興味があるものを選択したのだが、他の人たちのように、誰かと合わせて取ればよかった。一人で一時間以上じっとしているのは退屈である。
 その退屈な講義の一つで、私と南帆が一緒のものがあった。「心理学基礎」みたいな名前の講義だったと思う。内容は一つも覚えていない。
 私は避ける理由もないし、彼女の隣の席に座った。特に彼女も私を拒絶することはなかった。
 私と南帆の接点はそのぐらいで、会えば挨拶するし、世間話をする程度の仲だった。
 そんな彼女との関係が深まったのは、大学二年の時に、二人で一緒に美術館に行った際だった。
 ある講義の課題に美術館や博物館の鑑賞とレポートの提出があった。そこで私は同じ講義を受けていた南帆を誘って、二人で行くことになった。最初は断られると思ったが、少しためらった後に承諾してくれた。
 私たちは訪問予定の美術館の最寄り駅で待ち合わせをした。駅周辺には繁華街と有名な商店街があり、休日の昼前、多くの人で賑わっていた。
 うまく合流できるか、南帆が小さくて見落としてしまうのではないかと不安だったが、意外とすんなり見つけることができた。
「おはよー」
「おはよ」
 南帆はジーンズに、丈の長い半袖のシャツ。グレーの髪色に、毛先に青色が入っていた。伸びてきた髪は後ろで結んでいる。シャツは大きめのサイズなのに、胸の上にシワはなく、先で大きな影を作っていた。その輪郭を隠しきれていなかった。私は相変わらず小さくて乳がデカいなと思った。
 美術館は広い公園の中にあり、他に博物館や動物園があった。運動場や売店、喫茶店もある。また近くに美大のキャンパスもあった。
 向かう途中、一人の女性とすれ違う。不意に後ろから呼び止められた。
「南帆ちゃん?」
「ネル……」
 それに南帆は足を止めて振り返る。私もそれに倣った。そこにはウェーブがかった黒髪に、つり目がちの女性が立ち止まって、南帆のことを見ていた。髪は肩にかかり、軽く外にハネている。薄いピンク色のブラウスに、細身の白いスラックス、サンダルを履いていた。
 ネルと呼ばれた女性は、私と南帆を交互に見る。
 私は南帆に聞く。
「南帆の知り合い?」
「いや、その……」
 南帆が言い淀む。それに気を悪くしたのか、その女性の表情は、眉を寄せて唇を歪め、不機嫌そうなものになった。
「南帆ちゃん、誰その人? もしかして彼女?」
 どこかトゲのある、嘲笑うような、悪意の感じられる声音だった。
 次にその矛先は私に向いた。
「あなた南帆ちゃんの彼女? 違うの? 違うなら気をつけた方がいいよ。南帆ちゃん、女の子が好きだから」
 とにかくその女性が南帆の友人ではないことが分かった。そしてその態度に、腹に据えかねるものがあった。
 私は南帆の肩を抱いた。
「お構いなく。彼女なんで。何か問題でも?」
 それにネルと呼ばれた女性は唖然とし、目と口を開いて、何か言おうとして言葉にならない様子だった。
 私はそれ以上、何かを言われるのが嫌だったので、強引に南帆を連れてその場を離れる。
 十五分ぐらい歩いただろうか。私たちは美術館のある敷地から離れ、隣接する公園にいた。そこには大きな池があり、その外周沿いに遊歩道やベンチがある。
「少し休もう」
 私は適当なベンチを見つけ、南帆を座らせた。
 南帆は俯いていた。私は彼女の右隣に座る。
「ごめん。友達だった? なんかむかついて喧嘩腰になった」
「ううん。いいの。友達じゃないから」
「そう」
 南帆の様子は普通ではなかった。二人の間に、過去に何かあったのだろう。それにネルと呼ばれた女性が言っていたこと、私は多少気にはなったが、好奇心から聞くのも悪いので、それ以上の詮索をしなかった。
「今日はいったん帰る? また会っても嫌だし」
「うん。私は一人で帰るから、西塚さんは展示、一人で見てきたら?」
「いや、私も会ったら嫌なんだけど」
 私は南帆が落ち着いてから一緒に帰るつもりだった。彼女の両手は膝の上でぎゅっと握られ、小さく震えている。私は彼女の手を握った。
 それに南帆はビクッと体を震わせ、驚いた様子だった。
「ごめん。この方が落ち着くかなって思って」
 私は手を引っ込めた。それに南帆が私の顔を見る。
「嫌じゃない。驚いただけ。だって、私……」
 そこで南帆はまた顔を逸らして俯く。
 私はしばらく彼女の言葉を待った。
「西塚さんは気にならないの?」
 彼女の唇が震えていた。
「何が?」
「ネルが言っていたこと」
「え? 別に」
 口では否定したが、気になるのが本音だった。
 私からは横顔しか見えないが、南帆はためらうように何度か口を開いてはつぐみ、少しして意を決したように言う。
「ネルは、中学からの親友だった──」
 例の女性──武市音瑠という名前だった。南帆の中学の同級生で、高校も一緒だった。
「私は昔から女の人が好きで、高校生になった時、ある女の先輩のことを好きになったの。そのことを音瑠に、一番の親友だと思っていたから打ち明けてしまった。それから少しして、私が女性を好きだってことがクラス中に知られていて。最初はなんかよそよそしいな、避けられているのかなって、ぐらいにしか思っていなかったけど。ある時、音瑠や他の女子に呼び出されて……」
 私は震える南帆の肩を抱いた。大きな瞳に涙を湛えていた。
「その日からいじめられたり、避けられたり、無視されるようになった。先輩にも、好きだって伝わることが怖くて。もし伝わっていて、本当に避けられたらって思うともっと怖くて、私は学校に行けなくなった。音瑠とはそれっきり。何度か家に来たけど怖くて会えなかった」
 涙が彼女の手の甲に落ちた。
「ごめん。こんなことしか言えない。南帆、辛かったね。頑張ったね」
 私は南帆を抱きしめた。腕の中で南帆は声を上げて泣いた。
 彼女が人と距離を置く理由が分かった。自分を守っていたのだ。この小さな体で、一人頑張っていた。
 私は彼女を抱きしめることしかできなかった。
 しばらくして泣き止んだ彼女は、声を詰まらせながら私に聞く。
「……西塚さんは私のこと、気持ち悪くないの?」
「なんで?」
「私が、女性を好きだから」
 ここで私の記憶は混濁した。
 私はこの時、何と答えたか。二つの記憶があった。
「別に好きな相手が同性だっただけでしょ? 何も変じゃないよ」それか「私も好きな人が女性だから。南帆の気持ち、分かるよ」と答えた。
 彼女との重要な記憶のはずなのに、彼女が心を開いてくれるようになったきっかけの大切な思い出なのに、それさえも私は歪めていた。
 私は漠然と女性が好きだと思っていた。しかし後者の記憶では、明確に女性が、杏奈のことが好きだと感じている。
 私は杏奈を壊した記憶を忘却するために、その辻褄を合わせるため、こんな大切な記憶さえも歪めていたのか。

 その南帆に告白されたのは大学三年の夏だった。
 はっきりと覚えている。
 夏休み、私は南帆に誘われて、二人で旅行に行った。
 私はアニメの聖地巡りが目的、南帆は趣味のフィールドワークを兼ねていた。
 旅行中は特に何かがあるわけではなかった。
 旅行を終えて東京に戻り、それぞれの帰りの方面が違ったので駅で別れる。その際に南帆は私を引き止めた。彼女は後ろから、背を向けた私の手をいきなり引いた。それに私は驚いて振り返った。
 南帆は手首を掴んで、私の顔を見上げ、じっと見つめてきた。大きな瞳が揺れていた。私たちはお互いに向かい合う形で、しばらくそのままでいた。
 そして南帆はその大きな瞳に涙を滲ませ、悲鳴のような声で言った。
「私、小夜子のことが好き」
 私は彼女のことを可愛いと思っていたし、親密になれたことも嬉しかった。乳も大きいし、魅力的に感じてもいた。
「私も南帆が好きだよ」
 生まれて初めて誰かと想いが通じた。
 私は南帆を抱きしめた。 生まれて初めて幸せだと思えた。私は誰かに愛される日がくるとは思ってもいなかった。
「さよこぉ……」
 私の腕の中で、南帆が嗚咽まじりに私の名前を呼ぶ。
「南帆、好きだよ」
 彼女をなだめるため、私は重ねて言った。
 それが南帆と付き合い始めたきっかけだった。
 もう一つの記憶では、私はこの告白を断っている。好きな人がいるからと。それなのに私は、この日、初めて彼女と体を重ねたことも覚えていた。

 それから私たちは、そのまま私の住むマンションに向かった。
 家に着くまで、私はずっと彼女の手を握って離さなかった。もし手を離したら消えてしまうんじゃないか、そんなことを思っていた。
 南帆は何も言わず、私の手を握り返してくれた。
 そして汗だくのまま寝室に入る。日は沈み、明かりも点けていないのに、部屋の中はまだ少し明るかった。彼女の小さな体の輪郭がくっきりと見えた。
 部屋の中には昼の熱気がまだ残っていた。私は冷房をつける間も惜しく、彼女のぷっくりとした唇にキスをした。私たちは手を握り合い、互いの唇をついばむように吸い合う。
 南帆の吐息に、私の劣情は掻き立てられた。私は舌先で彼女の唇を割ると、彼女も舌を差し出してくれる。私たちは舌先を絡め合った。
 熱く、濡れて、確かな質感があって、私は今愛する人と心も体も交わっているのだと、幸せな気持ちになった。
 しばらくして私は南帆をベッドの上に押し倒す。
「脱がすね」
 ようやく私が発した言葉はそれだった。
 私は南帆の服を脱がせ、下着を外す合間にも、彼女の首筋にキスをした。汗ばんだ肌はひんやりして心地がよかった。
 南帆は裸になると、ベッドに背中を預けて、恥ずかしそうに顔を逸らす。彼女の大きな胸は重力に柔らかく広がった。
 彼女は両手を胸の上に、口元に右手の指を寄せ、不安に怯えているようだった。呼吸が浅く速い。
 私は彼女の胸にそっと触れる。彼女の体がビクッと強張った。
 ひんやりとした大きな乳房。瑞々しいハリのある肌、その先に赤みを帯びた茶褐色の乳輪と、控えめに埋まった乳首があった。
 右よりも左の乳房の方が少し大きいな、と冷静に思う私と、とにかく揉みしだきたい衝動に駆られる私がいた。
 私は強く自制しつつ、南帆の右の乳首に口づけする。
「んっ……」
 南帆は必死に声を抑えていた。そんな彼女の我慢を破らせて、声を出させたい気持ちになる。
 私は右手で左の乳房を揉みながら、唇で右の乳首を吸い、舌で転がす。
「あっ、あ……」
 南帆は短く切られた声を漏らす。甘く切ない音色だった。
 私は右手の指で彼女の左乳房の乳首を撫で、舌の動きと合わせて彼女を責める。
「あっ、あっ!」
 少しずつ南帆の喘ぎ声が大きくなってくる。
「さよこ、さよこっ!」
 縋るように、拒むように、彼女の手が私の頭を押す。
 私は一通り楽しんだ後、手と舌を止めて、南帆の顔を見る。南帆はアーモンド型の目を細めて、涙に潤ませていた。
 私は南帆の両肩の横に手をついて、覆い被さり、南帆の顔を見つめた。互いの息が顔にかかる。私の顔から滴った汗が、彼女の頬に落ちた。
「南帆、気持ちいい?」
「うん……」
 南帆は少し顔を左に背けて、恥ずかしそうにする。
 私はその頬に口づけしながら、右手で彼女の体の輪郭を探る。胸からお腹へ滑らせる。彼女は全身柔らかく、ひんやりとして湿っていて、気持ちがよかった。お腹を撫でたあと、腰へ。ふるえる彼女の体を私の体で押さえる。
 そのまま手を滑らせて、彼女の股の間へと指を差し込んだ。彼女の体が大きく弾んだ。そこはしっとりと濡れていた。指先で輪郭をたどってなぞると、「ひゃっ!」と弱々しい悲鳴を上げた。
 私はそんな南帆が愛おしくて、固く目をつぶった彼女の顔を見ながら名前を呼ぶ。
「南帆」
 それに南帆は切なげに私の名前を呼ぶ。
「さよこ……」
 こんな時に私は幼稚園の頃の出来事を思い出した。初めて好きな子とキスをした時のこと。私は誰かを愛しても愛されることはないと諦めていた。
 だからもう一度、私は彼女の名前を呼ぶ。
「南帆。好きだよ」
「私も、好き……」
 私は南帆にキスをした。

 それから私たちは交際を始めた。
 社会人になってからは、半同棲生活を送るようになった。
 しかしお互いの休日や時間が合わず、すれ違いや喧嘩が増えていった。
 交際記念日に、私が仕事で帰れない日があった。その時は、それに怒った南帆が家を出ていった。私は何度も謝って南帆を説得して、なんとか許してもらった。それが楔のように、私たちの関係に打ち込まれ、致命的な亀裂を生んだのかもしれない。
 そして今から一ヶ月と少し前。別れの日がきた。
 その日まで私は前触れに気づかなかった。大切なことをいくつも見落としていたのかもしれない。南帆の我慢が限界に達し、四年と七ヶ月の交際を経て、私たちは別れた。
『早く帰ってきて』
 その日、そう南帆からメッセージが送られてきた。
 私は仕事で忙しかったので開きもしなかった。早く帰る努力はするつもりで、目処が立てば返信する予定だった。
 しかし結局私は終電で帰った。彼女の機嫌を取るため、コンビニで缶チューハイを買った。彼女の好きな白桃味だ。謝れば許してもらえると思っていた。
 家に帰ると、リビングのソファに南帆が座っていた。テレビもつけずにずっと私の帰りを待っていたようだった。
「ごめん。遅くなった。先に寝てればよかったのに」
 それに無表情で南帆が私を見る。ここでようやく尋常のことでないことを察した。
 南帆は淡々と言う。
「小夜子、別れるね」
「え?」
「小夜子と続けていくの無理。別れる」
「南帆、冗談でもそういうのやめてよ」
 私はコンビニ袋を床に置き、上着を脱ぎながらソファに向かう。
「どうしたの? 何かあった?」
「別に、冗談じゃないよ。本気だし、もう決めた」
「待って。急に意味が分からない」
「小夜子と続けていく未来が見えないし、もうどうでもいい。最後にちゃんと言っておこうと思って待ってた。もう出て行くから。私の物とか全部適当に捨てといて。さよなら」
 南帆が立ち上がる。
 私は別れるということに対して半信半疑、むしろ私を困らせるために言っている嘘だと思った。ただ家を出て行こうとしているのは本気だと分かった。
「ちょっと南帆⁉︎ もう夜も遅いし、明日にしたら? 一度冷静に話し合おう」
「私が早く帰ってきて、って送っても、全然帰ってこないくせに? 話し合いの時間を放棄したのは小夜子だよ」
「そんな急に。仕事だってあるし」
「仕事、仕事って、いつもそうだよね。私、何度も転職するか、退職してってお願いしたよね」
「そんな簡単に辞められるわけないじゃない。先輩にもお世話になってるし」
「私の倍以上働いて、私より給料低いんだよ? 先輩に業績搾取されてるだけじゃん。馬鹿じゃないの?」
 私は言い返そうと思ったが、口論になっても仕方ない。なんとか話を逸らそうとした。
「……それに仕事だってすぐに見つかるか分からないし」
「私は急いで探さなくていいって言ったよね? 二人の時間をもっと作れるなら、小夜子の仕事なんて見つからなくてもいいって思ってた。だけど結果的には辞めなくてよかったね。これからは大好きな仕事だけしていればいいよ」
 南帆は私の横を通り過ぎようとした。
「待ってよ、南帆! 本気じゃないでしょ? 私に怒っているだけでしょ?」
 私は出て行こうとする南帆の腕を掴む。それを南帆は力一杯振り解いた。そして私の顔を睨みつける。
「怒ってないよ」
「嘘」
「失望してるだけ。前にさ、私がお腹痛いって言ったら、小夜子なんて言った? 病院に行ったら、て。一緒に行こうって言ってくれなかった」
「それは今関係ないじゃん? それに南帆が一緒に行って、て言えばよかったじゃん」
 そこで南帆はため息をついた。
「小夜子はさ、記念日とか忘れても平気だし、釣った魚に餌をあげないタイプだよね」
「それは、私が悪かったって……ちゃんと気をつけるから……」
「無理だよ。人を不安にさせても全然気にしない」
「ちゃんと直すから……」
「もういいよ。二度と会わない。さよなら」
「南帆、待って!」
 南帆は乱暴に玄関のドアを開けて去っていった。
 私は追いかけようとも思ったが、それで南帆の気が変わるとも思えず、後ろ姿を見送ることしかできなかった。
 冷静になれば話し合いの機会も、余裕もできるはずだ。今はそっとしておこう。その程度にしか思わなかった。
 以前彼女が家を出た時、電話には必ず出てくれた。
 しかし今回は何度も連絡を試みたが、一切返事もなく、着信も拒否されていた。
 そこでようやく私は本当にフラれたのだと理解した。

 私たちは未来についてたくさん話をした。
 将来引っ越すなら山の近くか海の近くか。山だと虫が出るから嫌だな。
 次の旅行、北海道と沖縄だったらどっちがいい?
 私たちが付き合っていること、いつお互いの親に話そうか。
 結婚はできないけど、お揃いの指輪に、ドレスを着て、二人だけの結婚式をやってもいいかもね。
 女同士でもなんか科学の発展で、子供を作ることができるかもしれない。そしたら私が小夜子の子供を産みたい。
 名字はどっちにしようか。西塚南帆だと方角が二つ入るね。蛍野小夜子だと、夏っぽくていいね。
 子供の名前は何にしようか。私たちが付き合い始めたのが夏だから、夏に関係した名前がいいな。
 そんな取り留めのないことを話した。

   *  *  *

 あの胸の痛みも、彼女に触れた温もりも、すべて嘘だったのか。
 私の頭が作り出した偽りの記憶、妄想でしかなかったのか。
 私は部屋中を探し回った。一つだけでもいいから彼女の痕跡を見つけようとして、何一つ見つけることができなかった。彼女と撮った写真も、一枚も残っていない。
 私は途方に暮れて立ち尽くす。
 どこにも南帆がいた痕跡はなかった。
 私は彼女にフラれたと分かった時も、死のうと決めた時も泣かなかった。
 それなのに今になって初めて涙がこぼれた。
 彼女にフラれ、酷く傷ついたのは事実だ。
 しかしその全てが無かったことになってしまうのは、死ぬよりも辛いことだった。
 不意に杏奈が私の手を引いた。それに私は我に返る。
「サヨちゃん、大丈夫? どこか痛いの?」
 杏奈は心配そうに私の顔を見上げていた。
「ごめん。なんでもない、大丈夫」
 私は杏奈を抱きしめた。その私を杏奈が抱きしめてくれる。
「サヨちゃん、大丈夫だよ。私がサヨちゃんを守るから」
 私は杏奈の肩に顔を乗せ、泣くことを止めることができなかった。

 私たちは二人、ベッドの上に横たわる。
 杏奈は優しく私を抱きしめ、頭を撫でてくれた。
「よしよし。サヨちゃん、大丈夫だよ。私がいるよ」
「杏奈……」
 喉と鼻が詰まり、うまく声を出せない。涙で滲んだ視界で、杏奈が微笑んでくれた。
 その杏奈を私は壊し、自ら歪めた偽りの記憶に泣いている。なんというおぞましい怪物だろうか。私は私自身を嫌悪し、戦慄した。
 私には彼女に慰めてもらう資格も、優しくされる理由もない。
 暗い水の底に沈んでいくような罪悪感に押し潰されそうだった。
 それでも私は杏奈の温もりの中で、赦されたような気持ちになることを、誰かに許してほしかった。

   ◆  ◆  ◆

 不意に背中を突かれ、私は間抜けな声をあげて跳ね起きた。
 後ろから抑えた笑い声がした。
 私は座ったまま寝ていたようだ。目の前には黒板と教壇、講師が何かを言っている。私の前には長テーブルと、その上に答案用紙。辺りがガヤガヤとうるさかった。どこかの教室にいるようだった。
「テスト終わったよ」
 そう後ろから声をかけられる。聞き覚えのある、柔らかい声。
 私は振り返った。そこに南帆がいた。南帆はあの可愛らしいアーモンド型の目を細めて笑っている。黒髪のショートヘアに、耳周りに緑色のインナーカラーが入っていた。
 学部や学籍番号による席順なので、私と南帆は前後の席だった。
「後ろから回収してるから。ちゃんと名前書いた?」
「あ、うん」
「まだ寝ぼけてるの?」
 私は思い出した。大学三年の夏休み前、最後のテストを受けていた。答案が書き終わって、つい居眠りをしてしまった。
 そうじゃない。これは夢だ。また私はあの夢を見ている。

 南帆と学食で夕飯を食べる。
 懐かしい、と思うと同時に、つい昨日も食べたような感覚がした。
 そして脚本を読み上げるように、すらすらと私の口から言葉が出る。
「今日で試験終わったわ。明日から夏休みだ。南帆は?」
「私も。小夜子は夏休み実家に帰るの?」
「私はバイトもあるしこっちにいるかな。実家ていっても、電車で二、三時間で帰れるし。どっかで顔出すかな」
「そう」
 南帆は口にメンチカツを運び、小さく噛み切って食べる。私は生姜焼き定食を食べながら、小さく食べる南帆を見ていた。
 南帆は小さく飲み込むと、私の方を見る。
「ねぇ、夏休みどっか行かない?」
「いいね。どこ行く? スケジュール的には──」
「長野に旅行、どうかな? 小夜子、前に長野行きたいって言ってたし」
 長野。アニメ映画の聖地巡礼に行きたかった。そのことを南帆にいつか話した。それがきっかけでこの話が出たのだ。
「あー、旅行?」
 私は言い淀んだ。杏奈のことが脳裏をよぎった。別に杏奈と付き合っているわけではない。南帆と、女子同士で旅行するのは、特に問題ない気がするが。
 問題があるとしたら、この旅行で私は南帆に告白される。正確には東京に戻り、駅で解散する時に南帆に告白された。
 そして私たちは交際することになったが。もう一つの記憶では、私は断り、友達で居続けようとは言ったが、結局疎遠になった。
「ダメ?」
 私は「いいよ」と喉まで出かかった言葉を呑み込む。
 なぜか南帆にフラれたことへの怒りが込み上げてきた。彼女は私のことを好きだと言いながら、私のことを捨てた。
 しかし今となってみると、私が南帆に愛想を尽かされるのも当然だと思うし、何か腑に落ちない部分もあった。もっと南帆と話し合うべきだったと思う。ただこれも歪められた記憶かもしれない。
 それでも私は、南帆ともっと話がしたいと思った。
 しかし今の私にとって、杏奈が何より大切だった。
「ごめん。私、好きな人がいる。それは知ってるよね」
「うん……」
「別に女子同士で旅行するのは問題ないと思う。だけど私は、彼女のことが好きだから、南帆と二人で旅行できない。ごめんね」
「ううん。私の方こそごめん。無茶なこと言って」
 私は南帆が告白する未来を知っているから、彼女を拒絶した。わざわざそうする必要もないのに。これは私の記憶を再生するだけの夢なのだから。
 ──本当にそうなのか?
 また違和感が首をもたげた。
 私はただの夢ではないと思っているからそうしたのではないか。

 私たちは帰るべく、学食を出て駅に向かう。
 日は地平線に隠れたというのに、まだ空は薄明るく、藍色を帯びていた。風も熱を帯びている。私はじんわりと汗が浮き、頬を流れていくのを感じた。
 駅の近くの商店街。ここを抜ければ駅に着く。街灯が点き始める。いきなり空が暗くなったように思えた。
 不意に南帆が立ち止まった。
「小夜子」
 私は少し進んだ先で振り返る。南帆は俯き、何か思い悩んでいる様子だった。そして私の目を真っ直ぐに見ると、その小さな体から、振り絞るような声で言う。
「好き」
 南帆の震える唇からこぼれ落ちた。
 私は、彼女を抱きしめたかった。しかし私にその資格はなかった。
「ありがとう。ごめんね」
 そう言葉にして、胸が締めつけられるように痛かった。
「うん」
 南帆が涙をこぼしながら笑う。
 旅の終わりに、南帆が私の手を取って、悲鳴のような声で告白したのを思い出した。
「私、小夜子のことが好き」
 それに応えた私と応えなかった私がいた。
 この彼女は、静かに、消え入りそうな声で私のことを好きだと言ってくれた。
 これからも友達でいてほしい、なんて身勝手なことは言えなかった。
 南帆なら大丈夫。私なんかと付き合っても、深く傷つくだけだ。
 これで良かった。私はそう思った。そう思うことしかできなかった。

 それから気がつくと私は電車に乗り、家路についていた。ぼんやりとした気分だった。私は放心しながら、車窓に映る自分の顔を見た。ひどい顔だ。勝手に泣きそうになっている。
 私は杏奈の声が聞きたくなった。
 スマートフォンを取り出す。
 なんて送ればいいのか。何を話せばいいのか。チャットアプリを開いたり閉じたり。いつの間にか最寄駅に着く。電車を降りる。
 ふと私は、何か閃くような感覚がした。
 最初の夢で、私の連絡帳に杏奈の連絡先が登録された。
 次の夢で、カーペットにシミができた。
 どのタイミングかは分からないが、私の部屋から南帆の痕跡が消えた。
 私は忘れていた記憶を思い出すと同時に、歪められていた従来の記憶との矛盾に気づいた。
 これらの事象について、もう一つの仮説が立てられないか。
 私は記憶を忘れていたわけでも歪めていたわけでもない。私は夢で過去を変え、それが現実に影響し、私に二つの記憶ができた、と。
 そんなことがあり得るわけがない。
 しかしそう考えれば辻褄が合う。いや、私が救われたいだけかもしれない。
 それでも試してみる価値はある。
 私はこの仮説を立証する、簡単な方法を思いついた。
 それは未来の私に向けてメッセージを残すことだった。

   ◇  ◇  ◇

 私は目を覚まし、いつもの寝室、隣に杏奈がいることから、現実に戻ったことを知る。
 急いでスマートフォンを手に取った。画面を開き、メールフォルダに移動する。
 下書きメールのフォルダを確認する。同時に全身に鳥肌が立った。
 夢の中で残したメールの下書きが保存されていた。
 間違えて削除しないよう、件名には「削除禁止」と明記。本文には、当時まだ連載されていない漫画、放送されていないアニメのタイトルを、略称で、かつ平仮名で列記してある。過去の私が発見して、気味悪がって削除するのを防ぐためだ。
 念の為にこれを書いた年月日も書いておいたが、編集して上書き更新した形跡はなく、下書き保存時の年月日と一致している。狂った私が前日までに用意したものではない、ということも証明された。
 過去の私が知り得ない情報を、現在の私に残すことに成功した。
 そして確信した。私は夢を通して過去を改変することができる。そしてそれが現在に影響を及ぼしている。
 もし目の前のこの光景が幻覚でなければ、私は記憶を忘却していたわけでも、頭がおかしくなっていたわけでもない。
 もう一つの記憶、それは忘れていた記憶ではない。記憶が間違っていたわけでもない。夢を通して、過去そのものが変わっていたのだ。
 そして私が杏奈を壊したわけではない。傷つけたことは否定できないが、私は安堵することを許してほしかった。
 なぜ私の身にこんなことが起きたのかは分からないが、この現象を利用すれば、もしかしたら杏奈を救うことができるかもしれない。
 希望が見えた。
 私は熱い血潮が駆け巡るのを感じた。指先にまで熱が通う。
 私が杏奈を救う。そう強く心に誓った。
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