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第一章
第二話
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私はいつも通り玄野先輩に挨拶する。
「おはようございます」
「おはよー」
玄野先輩はモニターに目をこらしたままだった。今日は赤みの強いカラーコンタクトをしている。
もしかしたら今までの記憶が誤りで、職場も間違っているのではないか、そんな不安も抱いたが杞憂だったようだ。
私は自席に座る。私と玄野先輩、二人のシマだった。
私は新人の頃、育成枠として彼女の下に配置され、そのまま今に至っている。もう三年になる。今年で社会人四年目だ。
その玄野先輩は基本ワンマンでチームを組まない。
彼女が他の人を必要としないのもあるが、誰も彼女とはチームを組みたがらない。それは彼女の性格のきつさが原因らしい。
私からしてみたら十分に優しい先輩なのだが。最初の頃、そもそもデザイン制作が初めてだった私に先輩は、「基本ができていない。まずデザインの基本原則から勉強し直して。今から一時間、インターネットでいいから勉強して」と言い放ち、学習サイトのリンクを鬼のように送りつけられた。泣きそうになったが、リンクが上から下にかけて、学習ステップ順に配置されていて、注釈で学習目的や要点が記載されていた。言い方はきついが、私が成長できるように配慮し、考えてくれていることが分かり嬉しかった。
またソフトウェアの操作方法で分からないことを聞くと、嫌味を言うことなく、事務的に正確に教えてくれる。どうすれば操作を習得できるか聞くと、例によって鬼のようにリンクを送りつけてきたが、それもステップアップを設計して構成されていた。
彼女は別にツンデレというわけではなく、どこまでも仕事にシビアでストイックで、妥協がないのだ。これまた後に知ったのだが、だいたいの新入社員は美大や専門学校で、パソコンでのデザイン制作に関する知識をあらかじめ持っている。その中で文学部卒の事前知識のない私を引き取ったのは玄野先輩自らだった。
そのことを先輩に聞いたら、「仮にもしこの仕事が嫌になって辞めるとしても、技術や知識があればいくらでも潰しが効くでしょ? 自惚れじゃないけど、他の人に下で学ぶよりも、この会社で私が教えるのが一番効率がいい。そう思っただけ」と答えた。実際今でも仕事を続けられているのは先輩のおかげに間違いない。
とにかく私は玄野先輩のことを尊敬しているし、彼女に憧れていた。
* * *
仕事を終え、最寄りの駅に着いたのは二十一時過ぎ。
私は帰り道にあるスーパーに寄ってから帰る。
売れ残った惣菜が半額になっており、お得感につられてついつい買いすぎてしまう。
別れた恋人と住んでいた時は、彼女が夕飯を作って待っていてくれた。頼ってばかりで申し訳ないので、私が適当な惣菜を買って帰ると彼女は喜んでくれた。ただ今はそのことを思い出したくなかった。
私は杏奈のことを考える。
二人で生活を始めた頃、少しでも杏奈のことを知ろうと、彼女の好物を聞いた。
「杏奈は何が好き?」
「ブドウ!」
「他には?」
「ラム肉!」
「ラム? ラムって臭くない?」
「臭くないよ! 臭いけど臭くない! 食べ方があるの!」
「どうやるの?」
「お肉をね、あれに入れて、あれも入れる!」
「あれって?」
「醤油!」
「醤油に入れて醤油に入れる?」
「違うよ! もう一つは、臭いやつ!」
「臭いのに臭いのを入れるの?」
杏奈はうまく説明できないことに、顔を赤くして唸っていた。
私は頑張って説明しようとする杏奈が可愛くて、つい意地悪をしてしまったことを反省する。
「ニンニクかな?」
「そう、それそれ!」
その食べ方は美味しそうだなと思ったのを覚えている。この記憶は私が経験したものに間違いない。
しかし同時に、以前それを聞いたことを思い出した。
高校生の時、ファミレスで杏奈と会っていた時だ。私たちは違う高校だったが、放課後や週末に、たまに連絡を取り合って会っていた。制服姿の杏奈も可愛いが、私服姿の彼女も可愛かった。白のブラウスに濃い緑色のスカート。サスペンダーが肩にかかっている。
私たちは向かい合って座っていた。そして私は意外と胸があるなと、杏奈の胸元をまじまじと見ていた。
それに気付かない様子で、杏奈がメニュー表を手にして広げる。私にも見えるようテーブルに置いて、向きを変えてくれた。せっかくの好意を無碍にして申し訳ないが、私は彼女の細く長い美しい指先と、その先にある桜貝のようにきらめく爪に目を奪われていた。
「サヨちゃん、決まった?」
それにようやく私は我に返った。
「杏奈は? 杏奈は何が好きなの?」
「ラム肉」
「ファミレスにある?」
「ない」
杏奈が笑う。凛とした佇まいの彼女が無防備に見せる笑顔に、私は頬が熱くなる。内心を見透かされないよう、私自身の注意を逸らすために話し続ける。
「ラム肉って臭くない?」
「臭いよ」
「臭いのが好きなの?」
「そうじゃなくて、ちゃんと調理すれば臭いが取れるんだよ」
「そうなんだ」
「醤油とか、焼肉のタレでもいいかな。それにしばらく漬けて。ニンニクとか唐辛子を入れても辛みがついて美味しいよ」
「何それ美味しそう」
「今度作ってあげるね」
「でも口臭くなりそう」
「本当に美味しいんだよ」
杏奈がすねた顔をした。それに私は微笑んだ。結局杏奈の言ったラム肉料理を作ってもらう機会は逃してしまったが。
そこまで思い出して、私はまた経験していない、架空の記憶を思い出していることを自覚した。
それなのに甘酸っぱいような、切ないような、胸の痛みまで思い出す。
すっかり私の頭は壊れてしまったのか。
嫌な記憶がフラッシュバックするより遥かにマシだが、あまりにぬるま湯すぎて、このまま妄想の世界の住人になってしまいそうで怖かった。
私は値引きシールの貼られたラム肉のパックを手に取る。明日は休日だ。妄想の杏奈の言っていた調理方法で作ってみようか。現実の杏奈も喜んでくれるかもしれない。
* * *
私はソファに腰掛け、晩酌をしながらテレビを見ていた。何かのバラエティ番組だと思うが、一つも内容が頭に入ってこなかった。その隣で、ぬいぐるみのウリ坊を抱きしめた杏奈が私に寄り添い、私の髪先を指でいじくり弄んでいる。
私はグラスに注いだ酎ハイを一口飲む。私には缶で買ったアルコール飲料をグラスに注ぐ癖があった。「その方がリッチに感じない?」と思い出したくもない元カノが言っていたのを思い出す。もとは彼女の癖だった。
私は今日一日、暇を見ては記憶を辿ってみた。その結果、私の知らない記憶がいくつも挿入されていることに気付いた。二十五年生きてきた記憶に、差し込まれるように現れたもう一つの記憶。それは私の今までの認識と矛盾するが、現在と矛盾するものではなかった。
そのもう一つの記憶は、まるで忘れていたことを思い出すように、その時の情景を想起することができた。
もう一つの記憶では、私と杏奈は中学二年のあの日から友人で、高校生や大学生になっても、社会人になってからも交流を続けていた。それらを私は偽りの記憶、何らかの妄想だと思いながらも、事実であったように感じていた。
私は杏奈と再会したのが、杏奈を引き取った日で、それが十年ぶりの再会だと認識している。しかしもう一つの記憶では、音信不通になった彼女と一年ぶりに再会した、そう感じている。私には二重の記憶と感覚があった。
私は狂ってしまったのだろうか。
私はこの質問に意味があるか分からないが、杏奈に聞いてみる。
「私が杏奈に告白したこと、覚えている?」
「うん!」
杏奈がウリ坊を放り出して、嬉しそうに抱きついてきた。私はこぼさないようにグラスをローテーブルに置く。
彼女のつむじを見ながら続ける。私と同じシャンプーを使っているはずなのに、なぜか私とは違うような甘く芳しい香りがした。
「本当に覚えている?」
それに杏奈が弾かれたように私の顔を見上げる。鼻先が触れ合った。
「覚えてるよ!」
「どんな風に告白したっけ?」
それに彼女は目を見開き、驚いたような表情をした後、すぐに顔をしかめて怒り出す。
「サヨちゃん、忘れたの?」
「ちゃんと覚えてるよ」
「あやしい」
「杏奈はちゃんと覚えているの?」
「覚えてるよ。サヨちゃんが私に好きって言ったんじゃん!」
「そうだね。いつだったか覚えている?」
「中学校の時!」
「何年生だったっけ?」
「二年生!」
「その日は、何の日だった?」
「学校の、最初の日」
私はぞっとした。しかし杏奈の記憶がそもそも信頼できない。私が今この話をしたことで、彼女の中に偽りの記憶ができただけかもしれない。
「どこで告白したっけ?」
「学校だよ!」
杏奈はさらに怒った様子で私を睨む。
「学校のどこ?」
「校庭!」
咎めるように杏奈の語気は荒くなった。
私は杏奈から吹きかけられる息に興奮し始めている自分に辟易しつつ、続けて聞く。
「それで私たち、付き合ったんだっけ?」
「ううん。まだ。一緒に旅行した時だよ」
そこで私は杏奈と二人で、高校を卒業した時に一緒に旅行したことを思い出した。
私たちは別の高校だったが、高校を卒業すると、大学生になる前の春休みを利用して二人で旅行に行った。
アーケードの商店街を、京都の街を二人で歩いたのを思い出す。
まだ春の風が冷たい日だった。杏奈はカーキのロングコートに、淡いピンクのシャツにオフホワイトのワイドパンツ。レザーの靴を履いていた。あまり胸の大きさが強調されていないのが残念だった。
二人で歩きながら、こんな会話をした。
「サヨちゃんと来たかったんだ」
杏奈が嬉しそうに笑う。
「修学旅行の班が別だったからね」
「事前学習の班は一緒だったのに」
「まあいいじゃん。二人でゆっくり回ろう」
「サヨちゃんとね、発表で選んだ場所は、修学旅行でいかなかったんだ」
「そうなんだ」
「二人で行きたかったから」
そう目を細めて笑う。
私は杏奈のことが大好きだ。
そう思ったのも私は覚えている。
しかし同時に、私が杏奈と旅行に行ったはずがない、そう確信する私もいた。そもそも杏奈とは十年ぶりに再会した。それに昨日までこんな記憶はなかった。
どうして記憶が二重にあるのか。杏奈に二人で旅行したと聞かされた結果、架空の記憶をでっち上げたのか。そうだとしたら中学の記憶は説明がつかない。杏奈から聞かされた覚えはない。
私は目の前の杏奈の髪を撫でた。不安そうな顔をしていた。私が忘れてしまったのではないかと、彼女に心配させたのかもしれない。
「杏奈から告白してくれたんだよね」
「そうだよ!」
杏奈は嬉しそうに笑う。
ただ二重記憶のどちらにも、杏奈から告白された記憶はなかった。仮にもう一つの記憶が正しいとしたら、むしろこの旅行で私は杏奈に、ある決定的なことを告げられていた。
もしかしたら昨日までの私が記憶喪失で、杏奈の言ってることが正しいのではないかと思ったが、そうではないようだ。
しかし私から杏奈に告白し、彼女と友人となった記憶を、あの夢を見るまで忘れていたとは信じ難い。十二年もの間、間違った記憶を信じ、杏奈のことを忘れていたことになる。そんなことがあり得るわけがない。
私は杏奈と額を合わせる。それに杏奈が長いまつ毛を伏せて、目を細めた。
「サヨちゃん、キスするの?」
「しない」
「どうして?」
「杏奈のこと、考えてるから」
目をつぶり、彼女を温度で、感触で確かめる。私の記憶が壊れてしまったとしても、杏奈は目の前にいる。それだけは間違いのない事実だ。
「どんなこと?」
「大好きだって」
「私もサヨちゃん大好き!」
嬉しそうにはしゃぐ杏奈。
私は額を離し、彼女を見つめる。そしてキスをした。
もう一つの知らない記憶が本物だとしたら、こんなにも彼女のことを愛おしく思うのに、私が忘れるわけがない。そう確信がある。
私たちはベッドに移動した。
杏奈は私の上にまたがり、私の胸に手をかける。彼女は服の上から、探るように指を這わせ、小豆ほどの大きさの突起を見つけると嬉々として擦り始めた。
それに私は思わず上擦った声を漏らす。
「あっ……んっ……」
私は右手の親指の付け根を噛んで、込み上げてくるむず痒さと、全身に電気が走るような感覚に耐える。なぜか杏奈は私の弱いところを熟知していた。私は右よりも左の乳首が敏感だった。
「サヨちゃん、気持ちいい?」
艶めいた声音で杏奈が言った。
彼女は頬を上気させ、呼吸を荒く、瞳を輝かせて、私に顔を近付ける。
「う、ん……」
私は肯定するも、気恥ずかしくて顔をそらした。
杏奈は右手で私の左胸を包み、人差し指の腹でさすりつつ、左手を腿の付け根へと滑らせた。窪みへと指を這わせて、服の上から擦ってくる。
「ん、くっ……」
普段は自分のことさえままならない杏奈だが、こと私の体になると豹変する。
なされるがままの私の右膝に、杏奈は自身の股を擦り付ける。
「サヨちゃん、サヨちゃん……」
そう甘い吐息を漏らす彼女が愛おしくて、同時にいくつもの感情が私の中に込み上げた。
それはどす黒い嫉妬心。杏奈の恋人だった「サヨちゃん」とは誰なのだろうか。正気だった頃の杏奈と当然こういうことをしていたのだろう。私は妬ましく悔しかった。
次に込み上げてくる罪悪感。私は杏奈のことを好きになってはいけない。私は彼女の弱みにつけ込み、恋人のフリをしてる詐欺師だ。
そしてそこに困惑している私が新たに加わった。今まで杏奈が話していた「サヨちゃん」との思い出は、私ではない別の誰かの話か、彼女の妄想だと思っていた。しかし私の中に現れたもう一つの記憶。その記憶では、恋人ではないにしても、私は杏奈と親しい友人だった。
これは杏奈との会話の中で植え付けられた偽りの記憶なのだろうか。本当は私が狂っていて忘れていただけなのだろうか。
私が杏奈の「サヨちゃん」で、私が記憶を失っているだけ。そんなことを私は期待していた。ただ私には二十五年間、生きてきた記憶が地続きである。
そのうち杏奈の指が下着の中に滑り込む。
「くっ……あっ……」
私は一瞬息ができなくなった。どうしても意思で抑えきれず、私の体は痙攣した。杏奈は私の耳元に唇を近付け、温かい吐息を吹きつけ、湿った唇を這わせる。
「あ、ん……」
目をつぶって必死に耐えた。
「サヨちゃん、大好き」
杏奈の口にしたその一言に、もう私は自分を抑えることができなかった。
「杏奈」
私は杏奈の肩を掴み、強引に体勢を入れ替える。そのまま彼女の顔の横に両手をつき、彼女の黒くきらめく瞳を見つめる。杏奈は微笑んでいた。そして彼女は目を細め、唇を差し出す。
私は杏奈と唇を重ね合わせた。そのまま舌先で彼女の唇を割り、互いの舌を絡め合わせる。
すべての感情が彼方に消え、ただ彼女を私のものにしたい、熱くたぎる何かが臍の下から、体の内側から込み上げてきた。そこからはもう最後まで止まることができなかった。
* * *
互いに満たされると、杏奈はそのまま眠った。
乱れていた呼吸も落ち着き、穏やかな寝顔をしていた。
私は汗で濡れた彼女の服を着替えさせる。寝ている彼女を脱がせて服を着せるのは、どうにも何か悪いことをしているような気分で、少し興奮したのは事実だった。
同じ布団の中に入り、私は杏奈の横顔を撫でる。
しっとりとしたきめの細かい肌。さらさらと指先を滑る黒髪。
私はふと思った。杏奈はなぜこうなってしまったのか。
私は今まで深く考えたことがなかった。彼女との生活が落ち着くまで大変だったのと、過去を知って何かが変わるとも思えなかったからだ。
原因について、赤星母は仕事のせいみたいなことを言っていたが、そもそも杏奈は何の仕事をしていたのか。
もう一つの記憶では、私は杏奈と社会人になってからも友人として交流を続けていた。私の家に何度も遊びにきた。そして一年前から音信不通になる。そう思い出す。
仮にこの記憶が、何らかの理由で私が忘れていたものだとしたら、どこかに彼女が壊れた原因に関する情報があるのではないか。
もう一つの記憶の中で、こうして杏奈と暮らす前に、最後に会った日を思い出そうとしてみた。その行為にも意味があるとは思えないが。
杏奈が壊れてしまった原因を知ったところで、何かが変わるわけでもないだろう。
それでも私は杏奈のことをもっと知りたい。
◆ ◆ ◆
私は目を覚ますと自室にいた。
どうやら考え事をしているうちに眠ってしまったようだ。
あの夢は見なかったようだ。中学時代の杏奈にもう一度会いたい気持ちもあったので残念だった。
私は隣にいる杏奈を見る。今日は休日。二人で散歩でもしようか。そう思った。
しかし私の隣に杏奈はいなかった。
それに私は血の気が引いた。
もし自分でトイレに行ったのならばいい。昨日の今日でできるようになるとは思えないが、もし間違えて外に出て迷子になってしまったらと思うと、気が気でなかった。
私は布団を跳ね上げ、急いで起き上がる。
「杏奈!」
呼びかけながら寝室を出る。リビングにも姿がない。
家の中に人の気配がなかった。外に出てしまったのか。
私は慌てて玄関に向かう。鍵に手をかけた時、違和感に気付く。杏奈が誤って外に出ないように貼った両面テープ、それが剥がされていた。そして鍵はかかったまま。
杏奈がテープを剥がし、外から鍵をかけたのか。彼女にそんなことができるのか。
その時、手に持ったスマートフォンが着信に振動する。私は咄嗟にディスプレイを見ると、チャットのメッセージが映し出されていた。
そこに「赤星杏奈」と表示されている。杏奈からだった。
『今起きたから、これから準備して向かうね』
『たぶん一時間後に着く。何か買ってくる?』
今、私は夢の中にいることを確信した。
そして今日は杏奈がうちに泊まりに来る日だ、そう私は思い出した。しかしそんな出来事はなかった。私は夢の中でも妄想を見ているのか。いや、夢だからこそ妄想の中にいるのか。
スマートフォンでカレンダーを確認すると一年前の年月日だった。この情報もどこまで信用できるか。そもそも夢の中の事象を何か一つでも信用できるのか疑問だが。
これが夢だとするなら、日付に意味はない。夢の中で作られたものだ。しかしこのあり得ない日付の表示から、私が夢の中にいることを証明していた。
* * *
午前十時を回った頃。インターフォンが鳴る。
杏奈が来た。私は鍵を開ける。ドアを開き、彼女を出迎えた。
「お邪魔しまーす」
「どうぞー」
杏奈が私の部屋を訪ねてきた。それだけのことで私は嬉しかった。この時、大学を卒業して二年が経った。私たちはともに社会人三年目。
社会人となった杏奈が目の前にいた。
もっともこれは夢の中の出来事なのだが。気を抜くと私の意識は、夢の世界の私の記憶や感覚に引っ張られてしまう。
社会人となった彼女は相変わらず、いや、むしろより美しくなっていた。少し面長で、顎先が細いのは変わらず、少しシャープになった輪郭には、以前のあどけなさが抜けていた。桜色の綺麗な唇は少し紅がかっていた。切れ長で、少し丸みのある目を細め、彼女は笑う。それだけで満開の桜を見るよりも私の心はふるえた。
少しブラウンがかった髪は、初め春の陽気のせいだと思った。しかしすぐにそれが染めたものだと気付く。杏奈は両サイドの髪を後ろに流し、バレッタでまとめている。
彼女はベージュのカーディガンとその下に意図的にではないにせよ胸が強調される白のセーターを着ていた。下はラフな黒のパンツスタイルだ。左肩にバッグを提げ、右手には手提げの紙袋。バッグは揺れるたびに、小さく鈍い音、重たい金属同士が触れ合うような音がした。私はそれがワインの瓶同士がぶつかり合う音だと知っていた。
私は苦笑した。相変わらずよく飲むな。もう飲み始める気満々だ。そう思った。
私たちは休日に会っても、特別二人で何かをするわけでもない。私が美術館で気になる展示があれば一緒に行くし、杏奈が動物園に行きたいと言えば一緒に行く。ただ特にやりたいこともない時は、私の部屋で昼間から酒を飲み、適当なアニメや映画を一緒に見ていた。
私たちは月に一回程度、一緒の時間を過ごしていた。
「海外出張おつかれさま」
自然と私の口からそんな言葉が出た。
「これお土産」
杏奈が紙袋を手渡してくる。中には長方形の平たい箱がいくつか入っていた。
「ありがとう。チョコ?」
「うん。向こうで有名なお店の」
「へぇ」
私は杏奈の仕事について思い出した。
大手商社の総合職で、日本メーカーの商品を海外マーケットの販路に乗せる、といった仕事をしているらしい。とにかく出張が多く、将来的には転勤、海外勤務もあるとのこと。
杏奈はバッグをリビングの床に置き、中からラベルの貼られた黒い瓶を三本取り出す。赤ワインに違いない。杏奈は赤ワインが好きだった。
「サヨちゃんもワインでいい?」
「いいよ」
さらに杏奈はバッグの中からタッパーを取り出す。用意周到で、酒のつまみも準備していた。
「キッチン借りるね」
「先に着替えたら?」
「あー、そうしようかな。服借りるね」
杏奈は私の寝室に着替えを取りにいく。ベッドの下の引き出しにしまってある。胸の大きさは違うが、背丈は同じぐらいなので、私のルームウェアを共有していた。
私は奇妙な感覚がした。脚本の決まった映像を見せられている感覚だった。それでも意識すれば介入できる。たとえば私はタッパーの中身をフライパンに移しておくなど。しかしその中身が炒めるものだと予想して、脚本に従って行動しているだけなのかもしれない。
しばらくして杏奈はグレーのルームウェアに着替えて戻ってくる。
「これ焼く感じでいいの?」
魚介っぽい甘い匂いのする茶色いタレに、ぶつ切りの鶏肉が漬けられていた。
「そうそう。向こうで食べて美味しかったから。サテっていう、向こうの焼き鳥。昨日のうちに漬けといたんだ」
「へぇ、美味しそう」
杏奈は香辛料の風味の強い料理が好きだった。
私はそのままフライパンで鶏肉を炒める。杏奈は食器の用意をしていた。
* * *
私たちはソファを背もたれにして、ローテーブルの前の床に座る。私はサテという焼き鳥をつまみながらワインを飲む。
「タンドリーチキンとは違うんだね」
「けっこうクセになる風味でしょ。うん。思った通り赤ワインに合う」
「けっこう美味しい」
魚介の風味とココナッツベースの甘みがあった。
「向こうだとビールで食べてたから。私、ビールは常温派なんだよね。ラガーよりエールが好き」
杏奈は片手に赤ワインの瓶を掴み、そのままラッパ飲みする。私はグラスに注いだのを軽く一口飲んだ。
「ワインって香りを楽しむためだけに、グラスのサイズが大きいわけじゃなくて、空気と触れる面の広さで味が変わるの。空気と触れる時間が長いほど苦味が和らいで飲みやすくなる。私はストレートに味わいたいからそのまま飲むの」
私は苦笑した。
「杏奈が飲みたいように飲んでいいよ」
「でもサヨちゃん、少し引いてるでしょ?」
「いつものことだから慣れた」
杏奈は恨めしそうな顔で私を見る。
眉を寄せてしかめた顔も可愛かった。
私は胸の内を見抜かれないように顔をそらす。リモコンで適当にチャンネルを変えた。
そのうち杏奈の酔いが回ってくる。
「職場の同僚とか上司とか、取引先の人とかにさ、食事や飲みに誘われるんだけどさ」
彼女は酔うと愚痴っぽくなる。
「学生の時もそうだけどさ、私、わざわざプライベートで人と関わりたくないんだよね」
「杏奈はその辺、きっぱりしてるよね」
「仕事は仕事でさ。職場を出たら、定時を過ぎたらもう関わりたくないの。あくまで仕事で関わってるだけだからさ。ましてや休日まで関わりたくないんだよね」
「大丈夫なの?」
それは「仕事が」という意味ではなく、「セクハラ」とかされていないのか心配だった。
「出世とか興味ないし、社内で孤立しようがどうでもいいからさ。貯金ができたら退職して起業するから、別にどうだっていいよ」
そう言ってワインをラッパ飲みする。
杏奈は表面上、お上品に振る舞う。その分ストレスを相当感じているんだろうな、と気付いたのは高校生の時だった。当時も週末とかにファミレスやカラオケで、杏奈の愚痴を聞いていた。
もともと杏奈は私の前でも優等生らしく振る舞っていたが、彼女が不意に漏らした「たまに気疲れする」という言葉を聞き逃さず、そこから掘り下げ、彼女の化けの皮を剥がした。
「人間の感情なんて突き詰めればさ、快と不快の二つしかないの。私は快を最大限にしたいだけ。そのために支払う不快は最小限でいい」
この冷徹さを知っているから、私は杏奈に踏み込めないところがあった。いつか私が杏奈にとって不快な存在になれば、彼女は躊躇わずに私を切り捨てるだろう。
「サヨちゃんは知ってると思うけどさ。私って人の気持ちとか思ってることが分からないからさ。人はAという行動に対してBという反応をする、ってことを学習して、小手先でやりくりしてるだけなんだよね」
「でもわりとそれは、私もあるよ」
私は適当に相槌を打った。
「サヨちゃんは友達たくさんいるじゃん。菊田さんとか」
「杏奈以外だと、英美香ぐらいだよ」
「大学で仲良かった子いたじゃん」
「え? ああ、南帆」
その名前を口にして、私はひどい違和感を覚えた。蛍野南帆、彼女とは友達じゃない。交際していたはず。今この時期にも。しかし家の中に南帆の痕跡はなかった。
私は南帆と付き合っていない。彼女に告白されたが断った、そう思い出した。
「サヨちゃんはいいよね。人当たりがよくて、誰からも好かれて」
「それ、逆じゃない?」
人当たりがよく、誰からも好かれる優等生、それが赤星杏奈だ。その素顔を知っているのは私だけ。そのことが私にとって何よりも嬉しかった。
「私はその場その場で役割を演じているだけ。私の世界を守っているだけ。でもサヨちゃんはさ、私に役割を求めないから。私が私でいられるのはサヨちゃんの前だけ」
そう言って杏奈は微笑む。彼女の顔はアルコールのせいで赤くなっていて、瞳は潤んだように見えた。それに私は唾を呑んだ。
めちゃくちゃに抱き潰したい衝動に駆られるが堪える。私も少し酔ってきた。今日は強く自制しよう。
「私も杏奈が自然体でいてくれるから、変に気取らなくていいから、楽だな」
本音は、ただ杏奈がいてくれるだけでよかった。だから彼女に対して、それ以外何も求めていない。
「私たち、親友だもんね」
杏奈は嬉しそうだった。
ただその親友という言葉に、私は彼女の特別であることに喜びを感じる。だがその言葉は私の胸の中に滴り波紋となってさざなみを立て、私の心をざわつかせた。彼女の中で私は、決して恋愛対象ではない。そう突きつけられているようで、事実そうだと確信していた。
中学の時、私は杏奈に告白した。それ以来、私たちは友達となり、高校は別々だったが、二人で卒業旅行をした。
その時、私は杏奈に親友宣言をされた。
今から六年前。現実では七年前か。
夜、私たちは旅館の布団の中で寝ながら、他愛もない話をしていた。月明かりか街の灯りか、彼女の顔をうっすらと白く映し出していた。
私はこの旅行で彼女に告白するつもりで、それが今だと思った。
しかし機先を制したのは杏奈だった。
「西塚さん、あのね。私、こんなに一緒にいる友達って初めて。学校では、その時々で一緒にいる友達はいるけど、学校の外に出たら関わらないし、卒業したらもう会うこともないの。だけどね、西塚さんとは、これからもずっと友達でいたいな、って。だからね、私たち、親友ってことにならないかな」
「私も。赤星さんと親友になれたら嬉しい」
「じゃあ、その、私たち、親友ってことだね!」
「そうだね」
嬉しそうに杏奈が笑う。その笑顔が見れて、私も嬉しいと思う反面、胸の中に痛みがあった。それは心臓に荊棘が巻きつき、いつまでも小さな痛みと血を流し続けるような感覚だった。
「ねぇ、サヨちゃん。サヨちゃんって、呼んでもいい?」
「私も、杏奈って呼んでいいかな?」
「いいよ!」
「サヨちゃん」
「杏奈」
杏奈が笑う。
ずっと心の中で呼んでいた名前を、その相手に、私は初めて口にすることができた。そしてその人が笑顔で応えてくれる。
これ以上の幸福を望んではいけない。そう思った。
それは決して恋人にはなれないことを突きつけられた、そう感じた。
それでも私は杏奈と一緒にいられるのなら、それ以外何も求めたりしない。ただ心のどこかで、いつか想いが通じると信じている私がいた。
ああ、だから南帆の告白を断ったのか。と私は大学三年の時、蛍野南帆に告白されたが断ったことに納得がいった。
同時に、元カノである南帆と付き合っていないという矛盾に、目眩のような違和感を覚えた。ただこれが夢なのか、あるいは妄想か、本当の記憶なのか何一つ自信がない。私の記憶や感覚はこの際無視しよう。
私は無意味な思考をやめ、グラスのワインを飲む。
「杏奈は、恋人とかできたの?」
知りたくもないことだったが、当てつけのように、つい口から漏れてしまった。自分で聞いて、私は勝手に胸が痛くなる。
杏奈は唇に指を当てて、遠くを見るような仕草をする。
「恋人って、作らないといけないのかな」
「別に、そんなことはないんじゃない?」
できれば私以外、誰のものにもならないでほしい。
「今でも誰かを好きになるとか、分からない。たぶん私は生まれてくる時に心をもたないで生まれてきたんじゃないのかな。恋人を作るのが社会的に正しくて、社会が求めるものだとしても、別に私がそれに応える義理はないよね」
そう白い歯を見せて笑う。
「人にはさ、結局二つの感情しかないと思うんだよね。快と不快の二つだけ。喜怒哀楽とか、愛情とか憎しみっていう形質はさ、その二つをベースにして、生存に有利な要素を形成して獲得していった結果あるものだと思うの。そして自然淘汰によって、生存に有利な形質を持つグループが優位に立っているだけじゃないのかな」
「うん?」
「愛情っていうのは、親子愛でも、伴侶に対する愛でも、共同体を維持するのに有利で、愛情を持たない個体が淘汰されていった結果が今の世界だと思うの。ただもし共同体の維持が生存に有利な条件じゃなくなるのなら、最終的に人類は愛情という感覚を無くすと思うんだ。たとえば宇宙人とか、愛情とかないから面白半分に地球侵略したり虐殺したりするんじゃないかな。だからね、私は進化した人間なの」
「まあ杏奈は、特別なんだと思う」
「私にとってサヨちゃんも特別だよ。サヨちゃんだけが特別」
意味合いの違う受け止められ方をしたが、どう返したらいいか分からなかった。
今度は杏奈から攻めてくる。
「サヨちゃんは、恋人を作らないの?」
「え、私は、作らない」
変な返し方になってしまった。杏奈が好きだから作らない。そう口にしたら、どうなってしまうだろうか。
「じゃあ私たち、おばあちゃんになっても一緒にいるかもね」
「そうだね」
私は嬉しくなって、声が上ずりそうになった。
たとえ親友でも、恋人でも、夫婦でも、最期まで一緒にいられるかは分からない。私は杏奈と最期まで一緒にいたい。杏奈もそう思ってくれているかもしれない。そのことが嬉しい。
これでいいと思う私と、その先を望んでしまう私がいた。
飲み始めて三時間ほど経った。まだ昼間だ。
杏奈は二本目の半分ほどは飲んでいた。私はまだ五杯目。
テレビ画面には適当に選んだ映画が流れているが、途中から別のことを考えたり談笑したりしていたら、内容が一つも頭に入ってこなかった。今何を見ているのかさえ分からない。
杏奈は二本目のワインを片手に、私の右肩にもたれながら、小さく歌を口ずさむ。たぶんカラオケで彼女が歌ったことのある曲だが、タイトルは思い出せなかった。
私は肩越しに伝わってくる彼女の体温に、高鳴った心臓の音が外に漏れ出ないか不安でしょうがなかった。
私は杏奈の頭に頬をのせる。彼女の髪が唇に触れた。アルコールをかすかに帯びた彼女の匂いが胸いっぱいに広がる。
ここまで私は脚本通りに振る舞ってきた気がした。しかし私には未来の記憶があり、これは夢でしかないことは分かっているが、ここから運命を変えることができるのではないだろうか、なぜかそう思えてきた。
「考えたんだけどさ、仕事やめちゃえば」
仕事さえやめてしまえば、杏奈が壊れる未来を回避できるのではないだろうか。原因は分からないが、それですべて解決する気がした。
「うん。そうするよー」
杏奈は適当に返してきた。
「そうじゃなくて。今すぐ」
「うーん。もう少しお金貯めたいのと、コネクション作っておきたいんだよね」
「いいよ。杏奈は働かなくて」
「えー? どういうこと?」
「私が杏奈を養うから」
何か私の生活が変わるわけではない。いっそ私が杏奈の面倒を見れば、誰も不幸にならないのではないだろうか。
「じゃあ、お願いしちゃおっかな」
「冗談じゃなくて、本気で言ってる」
それに杏奈が笑う。
私は肩を寄せた右手で、杏奈の左手を握る。汗ばんで、柔らかくて、確かな骨格の手触りがあって、温かかった。
「え? なに? サヨちゃん、どうしたの?」
私は杏奈を向き、左手を彼女の頬に添えてから、そのまま下顎に指をかけ、顔を向けさせる。そして私は彼女にキスをした。
杏奈は驚いたように目を見開き、呆然としていた。
「杏奈、好き。好きだから、私のものになって」
「サヨちゃん、酔ってるの?」
杏奈は困惑した様子で笑った。まだ私は引き返せる時点にいた。このまま酒のせいにすれば、なかったことになるかもしれない。
しかし私はこの先の未来を知っている。杏奈が壊れてしまう未来を。
「お願い杏奈。私、杏奈のことが好きなの。杏奈のことを守りたい。だから、私のものになって」
杏奈を私のものにしてしまえば、すべてが解決するのだ。
「……サヨちゃん?」
私は杏奈を押し倒し、首筋に顔を埋め、唇を当てた。彼女の汗ばんだ肌の感触が私を駆り立てる。
「サヨちゃん、ちょっと、待って」
杏奈が弱々しく抵抗する。ワインの瓶が鈍い音を立て床に転がった。
私は構わず彼女の左の耳たぶを口に含んだ。
「あっ」
ソプラノが短く鳴った。
私は唇で挟み、舌先で柔らかいそれを転がしたり、口の中に含んだりと弄ぶ。
その度に彼女の体がふるえていた。
次に口を離して、舌先で彼女の耳の輪郭をなぞる。
「ああっ」
さっきよりも長く、切なく鳴った。
私も杏奈の体を知り尽くしている。この杏奈もそうかは分からないが。
私はさらに彼女の手を取り、互いの指を絡め、ぎゅっと握った。杏奈の抵抗を阻むためだけでなく、こうして指を絡ませると彼女は落ち着く。
私は杏奈にいつもしているようにした。
「サヨちゃん、やだ、やめて……」
杏奈が泣きそうな声で言う。
どうせこれは私の妄想が見せた都合のいい夢だ。そう思ってこんなことをしているわけではない。
もしも今この時に、杏奈と恋人同士になって、彼女を説得して仕事を辞めさせられたら。少なくともこの世界の彼女は救えるのではないだろうか。そんな根拠のないことを考えて私は私を正当化していた。
「杏奈、好き」
私は耳元で告白する。私の息に杏奈の体がふるえた。
「私も、サヨちゃんが好きだよ……だけど、友達同士でこんなこと……」
杏奈が言い淀む。
「私は杏奈と恋人になりたい。杏奈のこと、ずっと好きだった。知ってるでしょ。私、中学の時に告白したよね」
「そうだけど、あれはまだ、お互い子供だったから」
「初めて会った時から、杏奈のことが好きだった。杏奈のことが好きなの」
なぜか私は泣きそうになって喉が詰まりかける。
「サヨちゃん……」
私は杏奈の顔を見ることができなかった。彼女の肩に顔を埋め、息を殺した。
かすかに、絡ませた指を、彼女が握り返してくれた気がした。
それによってこれから起こることを彼女は十分に理解していただろうか。
私は都合よく、それを了承と受け取った。
私は彼女の首筋に唇を這わせ、キスをする。
「んっ……」
絡めた指を解いて、左手で杏奈の右耳を撫でる。右手で彼女の上着をまくり、下着に包まれた彼女の左胸に重ねる。
「んっ、あっ……」
切なく漏れる彼女の吐息と、荒くなった呼吸に大きく上下する胸。熱を帯びた素肌と、下着越しに感じる彼女の乳房の張りと、輪郭を手で確かめる。
「杏奈のことは私が養うから。だから仕事やめて。杏奈のためだったら私、なんでもする。だから、お願い」
ほとんど祈るような気持ちだった。
彼女と強い絆を結べれば、未来は変えられる。そう祈っていた。
私は杏奈のパンツに、手を差し込み、指を滑り込ませた。
「待って!」
それに杏奈が強く拒絶した。私の体を突き飛ばすように押しのけた。
さすがに私も、今までの高揚感が一気に消え去り、全身が凍てつくような怖気を覚えた。
「ごめん、杏奈……私……」
「ここじゃ嫌」
「え?」
「ベッドで」
ようやく私は杏奈の顔を見ることができた。
恥ずかしそうにそらした目は、涙に濡れていた。頬と耳は真っ赤に染まっていた。
* * *
私たちは裸でベッドの上にいた。
さっきまで飲んでいたワインのせいか、あるいは彼女から香る匂いのせいか、私はふわふわとした酩酊感があった。それか杏奈を抱いたことで、多幸感に酔っているのかもしれない。
杏奈は私に背を向けて横たわり、私は後ろから彼女の肩を抱くように腕をかける。彼女に触れる体の部分が熱く、それを冷ますように流れた汗で、私たちの体はしっとりと濡れていた。
私は背中がひりひりと痛かった。杏奈と抱き合った時に引っかかれ、もしかしたら血が出ているかもしれない。そのことが愛おしく、嬉しく思えた。
杏奈の髪に私は顔を埋める。胸いっぱいに彼女の匂いを吸い込んだ。
甘くて、湿っていて、春の野原にいるような気持ちになった。
もっと彼女に言わなければいけないこと、聞かなければいけないことがあったような気がした。
しかし私は満たされた気持ちになって、そのまま眠りについた。
◇ ◇ ◇
目覚めると、隣に杏奈が眠っていた。
まだ夢の中にいるのだろうか。何となく違う気がした。
私は体を横たえたまま、スマートフォンを手に取り、電源ボタンを一回押す。画面が点く。寝起きの目には眩しかった。目が痛くなるので光量を下げた。待機画面の時点で今日の日付は分かったが、何年かは分からない。カレンダーを開いて確認する。記憶にある今年の数字が四桁並んでいた。
どうやら現実のようだ。
「サヨちゃん」
杏奈が起きる。寝ながら、私に寄り添いながら、私の顔を見てくる。眠そうだが、幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「おはよう、杏奈」
「おはよう」
「トイレに行く?」
「行く!」
こう返事をするということは、相変わらずのようだ。
私は起き上がり、杏奈を支えるように立つ。彼女とトイレに向かいながら、あれは本当に夢だったのかと自問する。
記憶の再現でもなく、実際に体験しているような感覚があった。
妄想にせよ何にせよ、あれからどうなったのか思い出してみる。
翌朝、目覚めると杏奈は無言で帰ってしまった。彼女は一度も私と目を合わせなかった。ベッドの上でその背中を見送った。全身の血の気が引く感覚を覚えている。その時の胸の痛みも、本当に経験したかのように思い出せた。
私はその日のうちに謝罪の連絡をした。
『昨日はどうかしていた。本当にごめん。これからも杏奈の親友でいたい』
それに既読がつくことはなかった。何度か重ねて連絡したが、一度も返信はなかった。
私は杏奈に嫌われた。そう確信した。それは当然のことだった。
しかしどうして私はこんな記憶を持っているのだろうか。
夢を見て、その続きを妄想することはあるが、あくまで私の想像力のコントロール下にある。しかしこの記憶のようなものは、事実として私の中に想起された。
ここで私は思わずにいられなかった。あの夢は私が無意識に封印していた記憶なのではないか、と。もしそうだとしたら杏奈が壊れた原因は私なのか。
ソファの近くのカーペットに、うっすらと広がったシミがあるのに気づいた。いつの間にできたのだろうか。そう思うと同時に、あれは杏奈があの時、倒した瓶からこぼれたワインのシミではなかったか、と思い出した。
私は自分自身のおぞましさに、ひどい目眩を覚えた。悪寒が背筋を駆け抜け、指先から温度がなくなり、呼吸が止まった。
杏奈はあの時のショックで、私と恋人同士であると思い込むようにした。その前後で心が壊れた。そう考えるとすべての辻褄が合うのではないか。
「大丈夫?」
杏奈は自分一人でも大変なはずなのに、私の体を支えるように手を添え、心配そうに顔をのぞき込んでくる。
そんな彼女を私が壊してしまったのか。
「杏奈、ごめん……」
「サヨちゃん? どうしたの?」
「私が、杏奈を……」
私は杏奈を抱きしめ、その胸に顔を埋めた。
その私を杏奈は優しく抱きしめてくれる。
「よしよし」
私にはこんなふうに慰められる資格も、彼女と一緒にいていい資格もない。それでも彼女を手放せば、彼女はまたあの暗闇に逆戻りだ。私は彼女の人生を、未来を奪ってしまった。
「杏奈、ごめんね……一生かけて償うから……」
「ん? よく分かんない。結婚するってこと?」
杏奈が無邪気に言う。その言葉が深く胸に突き刺さった。そのままこの胸を刺し貫いて、私の命で彼女を救ってほしかった。
しかし現実は壊れてしまった彼女と、平然とのうのうと生きている私のまま。
「ずっと一緒にいようね」
杏奈の無邪気さが、私の罪深さを思い知らせる。
死んでしまいたい。かつて私は死ぬために彼女との再会を選んだ。
しかし私には死などという生易しい手段は許されない。
「おはようございます」
「おはよー」
玄野先輩はモニターに目をこらしたままだった。今日は赤みの強いカラーコンタクトをしている。
もしかしたら今までの記憶が誤りで、職場も間違っているのではないか、そんな不安も抱いたが杞憂だったようだ。
私は自席に座る。私と玄野先輩、二人のシマだった。
私は新人の頃、育成枠として彼女の下に配置され、そのまま今に至っている。もう三年になる。今年で社会人四年目だ。
その玄野先輩は基本ワンマンでチームを組まない。
彼女が他の人を必要としないのもあるが、誰も彼女とはチームを組みたがらない。それは彼女の性格のきつさが原因らしい。
私からしてみたら十分に優しい先輩なのだが。最初の頃、そもそもデザイン制作が初めてだった私に先輩は、「基本ができていない。まずデザインの基本原則から勉強し直して。今から一時間、インターネットでいいから勉強して」と言い放ち、学習サイトのリンクを鬼のように送りつけられた。泣きそうになったが、リンクが上から下にかけて、学習ステップ順に配置されていて、注釈で学習目的や要点が記載されていた。言い方はきついが、私が成長できるように配慮し、考えてくれていることが分かり嬉しかった。
またソフトウェアの操作方法で分からないことを聞くと、嫌味を言うことなく、事務的に正確に教えてくれる。どうすれば操作を習得できるか聞くと、例によって鬼のようにリンクを送りつけてきたが、それもステップアップを設計して構成されていた。
彼女は別にツンデレというわけではなく、どこまでも仕事にシビアでストイックで、妥協がないのだ。これまた後に知ったのだが、だいたいの新入社員は美大や専門学校で、パソコンでのデザイン制作に関する知識をあらかじめ持っている。その中で文学部卒の事前知識のない私を引き取ったのは玄野先輩自らだった。
そのことを先輩に聞いたら、「仮にもしこの仕事が嫌になって辞めるとしても、技術や知識があればいくらでも潰しが効くでしょ? 自惚れじゃないけど、他の人に下で学ぶよりも、この会社で私が教えるのが一番効率がいい。そう思っただけ」と答えた。実際今でも仕事を続けられているのは先輩のおかげに間違いない。
とにかく私は玄野先輩のことを尊敬しているし、彼女に憧れていた。
* * *
仕事を終え、最寄りの駅に着いたのは二十一時過ぎ。
私は帰り道にあるスーパーに寄ってから帰る。
売れ残った惣菜が半額になっており、お得感につられてついつい買いすぎてしまう。
別れた恋人と住んでいた時は、彼女が夕飯を作って待っていてくれた。頼ってばかりで申し訳ないので、私が適当な惣菜を買って帰ると彼女は喜んでくれた。ただ今はそのことを思い出したくなかった。
私は杏奈のことを考える。
二人で生活を始めた頃、少しでも杏奈のことを知ろうと、彼女の好物を聞いた。
「杏奈は何が好き?」
「ブドウ!」
「他には?」
「ラム肉!」
「ラム? ラムって臭くない?」
「臭くないよ! 臭いけど臭くない! 食べ方があるの!」
「どうやるの?」
「お肉をね、あれに入れて、あれも入れる!」
「あれって?」
「醤油!」
「醤油に入れて醤油に入れる?」
「違うよ! もう一つは、臭いやつ!」
「臭いのに臭いのを入れるの?」
杏奈はうまく説明できないことに、顔を赤くして唸っていた。
私は頑張って説明しようとする杏奈が可愛くて、つい意地悪をしてしまったことを反省する。
「ニンニクかな?」
「そう、それそれ!」
その食べ方は美味しそうだなと思ったのを覚えている。この記憶は私が経験したものに間違いない。
しかし同時に、以前それを聞いたことを思い出した。
高校生の時、ファミレスで杏奈と会っていた時だ。私たちは違う高校だったが、放課後や週末に、たまに連絡を取り合って会っていた。制服姿の杏奈も可愛いが、私服姿の彼女も可愛かった。白のブラウスに濃い緑色のスカート。サスペンダーが肩にかかっている。
私たちは向かい合って座っていた。そして私は意外と胸があるなと、杏奈の胸元をまじまじと見ていた。
それに気付かない様子で、杏奈がメニュー表を手にして広げる。私にも見えるようテーブルに置いて、向きを変えてくれた。せっかくの好意を無碍にして申し訳ないが、私は彼女の細く長い美しい指先と、その先にある桜貝のようにきらめく爪に目を奪われていた。
「サヨちゃん、決まった?」
それにようやく私は我に返った。
「杏奈は? 杏奈は何が好きなの?」
「ラム肉」
「ファミレスにある?」
「ない」
杏奈が笑う。凛とした佇まいの彼女が無防備に見せる笑顔に、私は頬が熱くなる。内心を見透かされないよう、私自身の注意を逸らすために話し続ける。
「ラム肉って臭くない?」
「臭いよ」
「臭いのが好きなの?」
「そうじゃなくて、ちゃんと調理すれば臭いが取れるんだよ」
「そうなんだ」
「醤油とか、焼肉のタレでもいいかな。それにしばらく漬けて。ニンニクとか唐辛子を入れても辛みがついて美味しいよ」
「何それ美味しそう」
「今度作ってあげるね」
「でも口臭くなりそう」
「本当に美味しいんだよ」
杏奈がすねた顔をした。それに私は微笑んだ。結局杏奈の言ったラム肉料理を作ってもらう機会は逃してしまったが。
そこまで思い出して、私はまた経験していない、架空の記憶を思い出していることを自覚した。
それなのに甘酸っぱいような、切ないような、胸の痛みまで思い出す。
すっかり私の頭は壊れてしまったのか。
嫌な記憶がフラッシュバックするより遥かにマシだが、あまりにぬるま湯すぎて、このまま妄想の世界の住人になってしまいそうで怖かった。
私は値引きシールの貼られたラム肉のパックを手に取る。明日は休日だ。妄想の杏奈の言っていた調理方法で作ってみようか。現実の杏奈も喜んでくれるかもしれない。
* * *
私はソファに腰掛け、晩酌をしながらテレビを見ていた。何かのバラエティ番組だと思うが、一つも内容が頭に入ってこなかった。その隣で、ぬいぐるみのウリ坊を抱きしめた杏奈が私に寄り添い、私の髪先を指でいじくり弄んでいる。
私はグラスに注いだ酎ハイを一口飲む。私には缶で買ったアルコール飲料をグラスに注ぐ癖があった。「その方がリッチに感じない?」と思い出したくもない元カノが言っていたのを思い出す。もとは彼女の癖だった。
私は今日一日、暇を見ては記憶を辿ってみた。その結果、私の知らない記憶がいくつも挿入されていることに気付いた。二十五年生きてきた記憶に、差し込まれるように現れたもう一つの記憶。それは私の今までの認識と矛盾するが、現在と矛盾するものではなかった。
そのもう一つの記憶は、まるで忘れていたことを思い出すように、その時の情景を想起することができた。
もう一つの記憶では、私と杏奈は中学二年のあの日から友人で、高校生や大学生になっても、社会人になってからも交流を続けていた。それらを私は偽りの記憶、何らかの妄想だと思いながらも、事実であったように感じていた。
私は杏奈と再会したのが、杏奈を引き取った日で、それが十年ぶりの再会だと認識している。しかしもう一つの記憶では、音信不通になった彼女と一年ぶりに再会した、そう感じている。私には二重の記憶と感覚があった。
私は狂ってしまったのだろうか。
私はこの質問に意味があるか分からないが、杏奈に聞いてみる。
「私が杏奈に告白したこと、覚えている?」
「うん!」
杏奈がウリ坊を放り出して、嬉しそうに抱きついてきた。私はこぼさないようにグラスをローテーブルに置く。
彼女のつむじを見ながら続ける。私と同じシャンプーを使っているはずなのに、なぜか私とは違うような甘く芳しい香りがした。
「本当に覚えている?」
それに杏奈が弾かれたように私の顔を見上げる。鼻先が触れ合った。
「覚えてるよ!」
「どんな風に告白したっけ?」
それに彼女は目を見開き、驚いたような表情をした後、すぐに顔をしかめて怒り出す。
「サヨちゃん、忘れたの?」
「ちゃんと覚えてるよ」
「あやしい」
「杏奈はちゃんと覚えているの?」
「覚えてるよ。サヨちゃんが私に好きって言ったんじゃん!」
「そうだね。いつだったか覚えている?」
「中学校の時!」
「何年生だったっけ?」
「二年生!」
「その日は、何の日だった?」
「学校の、最初の日」
私はぞっとした。しかし杏奈の記憶がそもそも信頼できない。私が今この話をしたことで、彼女の中に偽りの記憶ができただけかもしれない。
「どこで告白したっけ?」
「学校だよ!」
杏奈はさらに怒った様子で私を睨む。
「学校のどこ?」
「校庭!」
咎めるように杏奈の語気は荒くなった。
私は杏奈から吹きかけられる息に興奮し始めている自分に辟易しつつ、続けて聞く。
「それで私たち、付き合ったんだっけ?」
「ううん。まだ。一緒に旅行した時だよ」
そこで私は杏奈と二人で、高校を卒業した時に一緒に旅行したことを思い出した。
私たちは別の高校だったが、高校を卒業すると、大学生になる前の春休みを利用して二人で旅行に行った。
アーケードの商店街を、京都の街を二人で歩いたのを思い出す。
まだ春の風が冷たい日だった。杏奈はカーキのロングコートに、淡いピンクのシャツにオフホワイトのワイドパンツ。レザーの靴を履いていた。あまり胸の大きさが強調されていないのが残念だった。
二人で歩きながら、こんな会話をした。
「サヨちゃんと来たかったんだ」
杏奈が嬉しそうに笑う。
「修学旅行の班が別だったからね」
「事前学習の班は一緒だったのに」
「まあいいじゃん。二人でゆっくり回ろう」
「サヨちゃんとね、発表で選んだ場所は、修学旅行でいかなかったんだ」
「そうなんだ」
「二人で行きたかったから」
そう目を細めて笑う。
私は杏奈のことが大好きだ。
そう思ったのも私は覚えている。
しかし同時に、私が杏奈と旅行に行ったはずがない、そう確信する私もいた。そもそも杏奈とは十年ぶりに再会した。それに昨日までこんな記憶はなかった。
どうして記憶が二重にあるのか。杏奈に二人で旅行したと聞かされた結果、架空の記憶をでっち上げたのか。そうだとしたら中学の記憶は説明がつかない。杏奈から聞かされた覚えはない。
私は目の前の杏奈の髪を撫でた。不安そうな顔をしていた。私が忘れてしまったのではないかと、彼女に心配させたのかもしれない。
「杏奈から告白してくれたんだよね」
「そうだよ!」
杏奈は嬉しそうに笑う。
ただ二重記憶のどちらにも、杏奈から告白された記憶はなかった。仮にもう一つの記憶が正しいとしたら、むしろこの旅行で私は杏奈に、ある決定的なことを告げられていた。
もしかしたら昨日までの私が記憶喪失で、杏奈の言ってることが正しいのではないかと思ったが、そうではないようだ。
しかし私から杏奈に告白し、彼女と友人となった記憶を、あの夢を見るまで忘れていたとは信じ難い。十二年もの間、間違った記憶を信じ、杏奈のことを忘れていたことになる。そんなことがあり得るわけがない。
私は杏奈と額を合わせる。それに杏奈が長いまつ毛を伏せて、目を細めた。
「サヨちゃん、キスするの?」
「しない」
「どうして?」
「杏奈のこと、考えてるから」
目をつぶり、彼女を温度で、感触で確かめる。私の記憶が壊れてしまったとしても、杏奈は目の前にいる。それだけは間違いのない事実だ。
「どんなこと?」
「大好きだって」
「私もサヨちゃん大好き!」
嬉しそうにはしゃぐ杏奈。
私は額を離し、彼女を見つめる。そしてキスをした。
もう一つの知らない記憶が本物だとしたら、こんなにも彼女のことを愛おしく思うのに、私が忘れるわけがない。そう確信がある。
私たちはベッドに移動した。
杏奈は私の上にまたがり、私の胸に手をかける。彼女は服の上から、探るように指を這わせ、小豆ほどの大きさの突起を見つけると嬉々として擦り始めた。
それに私は思わず上擦った声を漏らす。
「あっ……んっ……」
私は右手の親指の付け根を噛んで、込み上げてくるむず痒さと、全身に電気が走るような感覚に耐える。なぜか杏奈は私の弱いところを熟知していた。私は右よりも左の乳首が敏感だった。
「サヨちゃん、気持ちいい?」
艶めいた声音で杏奈が言った。
彼女は頬を上気させ、呼吸を荒く、瞳を輝かせて、私に顔を近付ける。
「う、ん……」
私は肯定するも、気恥ずかしくて顔をそらした。
杏奈は右手で私の左胸を包み、人差し指の腹でさすりつつ、左手を腿の付け根へと滑らせた。窪みへと指を這わせて、服の上から擦ってくる。
「ん、くっ……」
普段は自分のことさえままならない杏奈だが、こと私の体になると豹変する。
なされるがままの私の右膝に、杏奈は自身の股を擦り付ける。
「サヨちゃん、サヨちゃん……」
そう甘い吐息を漏らす彼女が愛おしくて、同時にいくつもの感情が私の中に込み上げた。
それはどす黒い嫉妬心。杏奈の恋人だった「サヨちゃん」とは誰なのだろうか。正気だった頃の杏奈と当然こういうことをしていたのだろう。私は妬ましく悔しかった。
次に込み上げてくる罪悪感。私は杏奈のことを好きになってはいけない。私は彼女の弱みにつけ込み、恋人のフリをしてる詐欺師だ。
そしてそこに困惑している私が新たに加わった。今まで杏奈が話していた「サヨちゃん」との思い出は、私ではない別の誰かの話か、彼女の妄想だと思っていた。しかし私の中に現れたもう一つの記憶。その記憶では、恋人ではないにしても、私は杏奈と親しい友人だった。
これは杏奈との会話の中で植え付けられた偽りの記憶なのだろうか。本当は私が狂っていて忘れていただけなのだろうか。
私が杏奈の「サヨちゃん」で、私が記憶を失っているだけ。そんなことを私は期待していた。ただ私には二十五年間、生きてきた記憶が地続きである。
そのうち杏奈の指が下着の中に滑り込む。
「くっ……あっ……」
私は一瞬息ができなくなった。どうしても意思で抑えきれず、私の体は痙攣した。杏奈は私の耳元に唇を近付け、温かい吐息を吹きつけ、湿った唇を這わせる。
「あ、ん……」
目をつぶって必死に耐えた。
「サヨちゃん、大好き」
杏奈の口にしたその一言に、もう私は自分を抑えることができなかった。
「杏奈」
私は杏奈の肩を掴み、強引に体勢を入れ替える。そのまま彼女の顔の横に両手をつき、彼女の黒くきらめく瞳を見つめる。杏奈は微笑んでいた。そして彼女は目を細め、唇を差し出す。
私は杏奈と唇を重ね合わせた。そのまま舌先で彼女の唇を割り、互いの舌を絡め合わせる。
すべての感情が彼方に消え、ただ彼女を私のものにしたい、熱くたぎる何かが臍の下から、体の内側から込み上げてきた。そこからはもう最後まで止まることができなかった。
* * *
互いに満たされると、杏奈はそのまま眠った。
乱れていた呼吸も落ち着き、穏やかな寝顔をしていた。
私は汗で濡れた彼女の服を着替えさせる。寝ている彼女を脱がせて服を着せるのは、どうにも何か悪いことをしているような気分で、少し興奮したのは事実だった。
同じ布団の中に入り、私は杏奈の横顔を撫でる。
しっとりとしたきめの細かい肌。さらさらと指先を滑る黒髪。
私はふと思った。杏奈はなぜこうなってしまったのか。
私は今まで深く考えたことがなかった。彼女との生活が落ち着くまで大変だったのと、過去を知って何かが変わるとも思えなかったからだ。
原因について、赤星母は仕事のせいみたいなことを言っていたが、そもそも杏奈は何の仕事をしていたのか。
もう一つの記憶では、私は杏奈と社会人になってからも友人として交流を続けていた。私の家に何度も遊びにきた。そして一年前から音信不通になる。そう思い出す。
仮にこの記憶が、何らかの理由で私が忘れていたものだとしたら、どこかに彼女が壊れた原因に関する情報があるのではないか。
もう一つの記憶の中で、こうして杏奈と暮らす前に、最後に会った日を思い出そうとしてみた。その行為にも意味があるとは思えないが。
杏奈が壊れてしまった原因を知ったところで、何かが変わるわけでもないだろう。
それでも私は杏奈のことをもっと知りたい。
◆ ◆ ◆
私は目を覚ますと自室にいた。
どうやら考え事をしているうちに眠ってしまったようだ。
あの夢は見なかったようだ。中学時代の杏奈にもう一度会いたい気持ちもあったので残念だった。
私は隣にいる杏奈を見る。今日は休日。二人で散歩でもしようか。そう思った。
しかし私の隣に杏奈はいなかった。
それに私は血の気が引いた。
もし自分でトイレに行ったのならばいい。昨日の今日でできるようになるとは思えないが、もし間違えて外に出て迷子になってしまったらと思うと、気が気でなかった。
私は布団を跳ね上げ、急いで起き上がる。
「杏奈!」
呼びかけながら寝室を出る。リビングにも姿がない。
家の中に人の気配がなかった。外に出てしまったのか。
私は慌てて玄関に向かう。鍵に手をかけた時、違和感に気付く。杏奈が誤って外に出ないように貼った両面テープ、それが剥がされていた。そして鍵はかかったまま。
杏奈がテープを剥がし、外から鍵をかけたのか。彼女にそんなことができるのか。
その時、手に持ったスマートフォンが着信に振動する。私は咄嗟にディスプレイを見ると、チャットのメッセージが映し出されていた。
そこに「赤星杏奈」と表示されている。杏奈からだった。
『今起きたから、これから準備して向かうね』
『たぶん一時間後に着く。何か買ってくる?』
今、私は夢の中にいることを確信した。
そして今日は杏奈がうちに泊まりに来る日だ、そう私は思い出した。しかしそんな出来事はなかった。私は夢の中でも妄想を見ているのか。いや、夢だからこそ妄想の中にいるのか。
スマートフォンでカレンダーを確認すると一年前の年月日だった。この情報もどこまで信用できるか。そもそも夢の中の事象を何か一つでも信用できるのか疑問だが。
これが夢だとするなら、日付に意味はない。夢の中で作られたものだ。しかしこのあり得ない日付の表示から、私が夢の中にいることを証明していた。
* * *
午前十時を回った頃。インターフォンが鳴る。
杏奈が来た。私は鍵を開ける。ドアを開き、彼女を出迎えた。
「お邪魔しまーす」
「どうぞー」
杏奈が私の部屋を訪ねてきた。それだけのことで私は嬉しかった。この時、大学を卒業して二年が経った。私たちはともに社会人三年目。
社会人となった杏奈が目の前にいた。
もっともこれは夢の中の出来事なのだが。気を抜くと私の意識は、夢の世界の私の記憶や感覚に引っ張られてしまう。
社会人となった彼女は相変わらず、いや、むしろより美しくなっていた。少し面長で、顎先が細いのは変わらず、少しシャープになった輪郭には、以前のあどけなさが抜けていた。桜色の綺麗な唇は少し紅がかっていた。切れ長で、少し丸みのある目を細め、彼女は笑う。それだけで満開の桜を見るよりも私の心はふるえた。
少しブラウンがかった髪は、初め春の陽気のせいだと思った。しかしすぐにそれが染めたものだと気付く。杏奈は両サイドの髪を後ろに流し、バレッタでまとめている。
彼女はベージュのカーディガンとその下に意図的にではないにせよ胸が強調される白のセーターを着ていた。下はラフな黒のパンツスタイルだ。左肩にバッグを提げ、右手には手提げの紙袋。バッグは揺れるたびに、小さく鈍い音、重たい金属同士が触れ合うような音がした。私はそれがワインの瓶同士がぶつかり合う音だと知っていた。
私は苦笑した。相変わらずよく飲むな。もう飲み始める気満々だ。そう思った。
私たちは休日に会っても、特別二人で何かをするわけでもない。私が美術館で気になる展示があれば一緒に行くし、杏奈が動物園に行きたいと言えば一緒に行く。ただ特にやりたいこともない時は、私の部屋で昼間から酒を飲み、適当なアニメや映画を一緒に見ていた。
私たちは月に一回程度、一緒の時間を過ごしていた。
「海外出張おつかれさま」
自然と私の口からそんな言葉が出た。
「これお土産」
杏奈が紙袋を手渡してくる。中には長方形の平たい箱がいくつか入っていた。
「ありがとう。チョコ?」
「うん。向こうで有名なお店の」
「へぇ」
私は杏奈の仕事について思い出した。
大手商社の総合職で、日本メーカーの商品を海外マーケットの販路に乗せる、といった仕事をしているらしい。とにかく出張が多く、将来的には転勤、海外勤務もあるとのこと。
杏奈はバッグをリビングの床に置き、中からラベルの貼られた黒い瓶を三本取り出す。赤ワインに違いない。杏奈は赤ワインが好きだった。
「サヨちゃんもワインでいい?」
「いいよ」
さらに杏奈はバッグの中からタッパーを取り出す。用意周到で、酒のつまみも準備していた。
「キッチン借りるね」
「先に着替えたら?」
「あー、そうしようかな。服借りるね」
杏奈は私の寝室に着替えを取りにいく。ベッドの下の引き出しにしまってある。胸の大きさは違うが、背丈は同じぐらいなので、私のルームウェアを共有していた。
私は奇妙な感覚がした。脚本の決まった映像を見せられている感覚だった。それでも意識すれば介入できる。たとえば私はタッパーの中身をフライパンに移しておくなど。しかしその中身が炒めるものだと予想して、脚本に従って行動しているだけなのかもしれない。
しばらくして杏奈はグレーのルームウェアに着替えて戻ってくる。
「これ焼く感じでいいの?」
魚介っぽい甘い匂いのする茶色いタレに、ぶつ切りの鶏肉が漬けられていた。
「そうそう。向こうで食べて美味しかったから。サテっていう、向こうの焼き鳥。昨日のうちに漬けといたんだ」
「へぇ、美味しそう」
杏奈は香辛料の風味の強い料理が好きだった。
私はそのままフライパンで鶏肉を炒める。杏奈は食器の用意をしていた。
* * *
私たちはソファを背もたれにして、ローテーブルの前の床に座る。私はサテという焼き鳥をつまみながらワインを飲む。
「タンドリーチキンとは違うんだね」
「けっこうクセになる風味でしょ。うん。思った通り赤ワインに合う」
「けっこう美味しい」
魚介の風味とココナッツベースの甘みがあった。
「向こうだとビールで食べてたから。私、ビールは常温派なんだよね。ラガーよりエールが好き」
杏奈は片手に赤ワインの瓶を掴み、そのままラッパ飲みする。私はグラスに注いだのを軽く一口飲んだ。
「ワインって香りを楽しむためだけに、グラスのサイズが大きいわけじゃなくて、空気と触れる面の広さで味が変わるの。空気と触れる時間が長いほど苦味が和らいで飲みやすくなる。私はストレートに味わいたいからそのまま飲むの」
私は苦笑した。
「杏奈が飲みたいように飲んでいいよ」
「でもサヨちゃん、少し引いてるでしょ?」
「いつものことだから慣れた」
杏奈は恨めしそうな顔で私を見る。
眉を寄せてしかめた顔も可愛かった。
私は胸の内を見抜かれないように顔をそらす。リモコンで適当にチャンネルを変えた。
そのうち杏奈の酔いが回ってくる。
「職場の同僚とか上司とか、取引先の人とかにさ、食事や飲みに誘われるんだけどさ」
彼女は酔うと愚痴っぽくなる。
「学生の時もそうだけどさ、私、わざわざプライベートで人と関わりたくないんだよね」
「杏奈はその辺、きっぱりしてるよね」
「仕事は仕事でさ。職場を出たら、定時を過ぎたらもう関わりたくないの。あくまで仕事で関わってるだけだからさ。ましてや休日まで関わりたくないんだよね」
「大丈夫なの?」
それは「仕事が」という意味ではなく、「セクハラ」とかされていないのか心配だった。
「出世とか興味ないし、社内で孤立しようがどうでもいいからさ。貯金ができたら退職して起業するから、別にどうだっていいよ」
そう言ってワインをラッパ飲みする。
杏奈は表面上、お上品に振る舞う。その分ストレスを相当感じているんだろうな、と気付いたのは高校生の時だった。当時も週末とかにファミレスやカラオケで、杏奈の愚痴を聞いていた。
もともと杏奈は私の前でも優等生らしく振る舞っていたが、彼女が不意に漏らした「たまに気疲れする」という言葉を聞き逃さず、そこから掘り下げ、彼女の化けの皮を剥がした。
「人間の感情なんて突き詰めればさ、快と不快の二つしかないの。私は快を最大限にしたいだけ。そのために支払う不快は最小限でいい」
この冷徹さを知っているから、私は杏奈に踏み込めないところがあった。いつか私が杏奈にとって不快な存在になれば、彼女は躊躇わずに私を切り捨てるだろう。
「サヨちゃんは知ってると思うけどさ。私って人の気持ちとか思ってることが分からないからさ。人はAという行動に対してBという反応をする、ってことを学習して、小手先でやりくりしてるだけなんだよね」
「でもわりとそれは、私もあるよ」
私は適当に相槌を打った。
「サヨちゃんは友達たくさんいるじゃん。菊田さんとか」
「杏奈以外だと、英美香ぐらいだよ」
「大学で仲良かった子いたじゃん」
「え? ああ、南帆」
その名前を口にして、私はひどい違和感を覚えた。蛍野南帆、彼女とは友達じゃない。交際していたはず。今この時期にも。しかし家の中に南帆の痕跡はなかった。
私は南帆と付き合っていない。彼女に告白されたが断った、そう思い出した。
「サヨちゃんはいいよね。人当たりがよくて、誰からも好かれて」
「それ、逆じゃない?」
人当たりがよく、誰からも好かれる優等生、それが赤星杏奈だ。その素顔を知っているのは私だけ。そのことが私にとって何よりも嬉しかった。
「私はその場その場で役割を演じているだけ。私の世界を守っているだけ。でもサヨちゃんはさ、私に役割を求めないから。私が私でいられるのはサヨちゃんの前だけ」
そう言って杏奈は微笑む。彼女の顔はアルコールのせいで赤くなっていて、瞳は潤んだように見えた。それに私は唾を呑んだ。
めちゃくちゃに抱き潰したい衝動に駆られるが堪える。私も少し酔ってきた。今日は強く自制しよう。
「私も杏奈が自然体でいてくれるから、変に気取らなくていいから、楽だな」
本音は、ただ杏奈がいてくれるだけでよかった。だから彼女に対して、それ以外何も求めていない。
「私たち、親友だもんね」
杏奈は嬉しそうだった。
ただその親友という言葉に、私は彼女の特別であることに喜びを感じる。だがその言葉は私の胸の中に滴り波紋となってさざなみを立て、私の心をざわつかせた。彼女の中で私は、決して恋愛対象ではない。そう突きつけられているようで、事実そうだと確信していた。
中学の時、私は杏奈に告白した。それ以来、私たちは友達となり、高校は別々だったが、二人で卒業旅行をした。
その時、私は杏奈に親友宣言をされた。
今から六年前。現実では七年前か。
夜、私たちは旅館の布団の中で寝ながら、他愛もない話をしていた。月明かりか街の灯りか、彼女の顔をうっすらと白く映し出していた。
私はこの旅行で彼女に告白するつもりで、それが今だと思った。
しかし機先を制したのは杏奈だった。
「西塚さん、あのね。私、こんなに一緒にいる友達って初めて。学校では、その時々で一緒にいる友達はいるけど、学校の外に出たら関わらないし、卒業したらもう会うこともないの。だけどね、西塚さんとは、これからもずっと友達でいたいな、って。だからね、私たち、親友ってことにならないかな」
「私も。赤星さんと親友になれたら嬉しい」
「じゃあ、その、私たち、親友ってことだね!」
「そうだね」
嬉しそうに杏奈が笑う。その笑顔が見れて、私も嬉しいと思う反面、胸の中に痛みがあった。それは心臓に荊棘が巻きつき、いつまでも小さな痛みと血を流し続けるような感覚だった。
「ねぇ、サヨちゃん。サヨちゃんって、呼んでもいい?」
「私も、杏奈って呼んでいいかな?」
「いいよ!」
「サヨちゃん」
「杏奈」
杏奈が笑う。
ずっと心の中で呼んでいた名前を、その相手に、私は初めて口にすることができた。そしてその人が笑顔で応えてくれる。
これ以上の幸福を望んではいけない。そう思った。
それは決して恋人にはなれないことを突きつけられた、そう感じた。
それでも私は杏奈と一緒にいられるのなら、それ以外何も求めたりしない。ただ心のどこかで、いつか想いが通じると信じている私がいた。
ああ、だから南帆の告白を断ったのか。と私は大学三年の時、蛍野南帆に告白されたが断ったことに納得がいった。
同時に、元カノである南帆と付き合っていないという矛盾に、目眩のような違和感を覚えた。ただこれが夢なのか、あるいは妄想か、本当の記憶なのか何一つ自信がない。私の記憶や感覚はこの際無視しよう。
私は無意味な思考をやめ、グラスのワインを飲む。
「杏奈は、恋人とかできたの?」
知りたくもないことだったが、当てつけのように、つい口から漏れてしまった。自分で聞いて、私は勝手に胸が痛くなる。
杏奈は唇に指を当てて、遠くを見るような仕草をする。
「恋人って、作らないといけないのかな」
「別に、そんなことはないんじゃない?」
できれば私以外、誰のものにもならないでほしい。
「今でも誰かを好きになるとか、分からない。たぶん私は生まれてくる時に心をもたないで生まれてきたんじゃないのかな。恋人を作るのが社会的に正しくて、社会が求めるものだとしても、別に私がそれに応える義理はないよね」
そう白い歯を見せて笑う。
「人にはさ、結局二つの感情しかないと思うんだよね。快と不快の二つだけ。喜怒哀楽とか、愛情とか憎しみっていう形質はさ、その二つをベースにして、生存に有利な要素を形成して獲得していった結果あるものだと思うの。そして自然淘汰によって、生存に有利な形質を持つグループが優位に立っているだけじゃないのかな」
「うん?」
「愛情っていうのは、親子愛でも、伴侶に対する愛でも、共同体を維持するのに有利で、愛情を持たない個体が淘汰されていった結果が今の世界だと思うの。ただもし共同体の維持が生存に有利な条件じゃなくなるのなら、最終的に人類は愛情という感覚を無くすと思うんだ。たとえば宇宙人とか、愛情とかないから面白半分に地球侵略したり虐殺したりするんじゃないかな。だからね、私は進化した人間なの」
「まあ杏奈は、特別なんだと思う」
「私にとってサヨちゃんも特別だよ。サヨちゃんだけが特別」
意味合いの違う受け止められ方をしたが、どう返したらいいか分からなかった。
今度は杏奈から攻めてくる。
「サヨちゃんは、恋人を作らないの?」
「え、私は、作らない」
変な返し方になってしまった。杏奈が好きだから作らない。そう口にしたら、どうなってしまうだろうか。
「じゃあ私たち、おばあちゃんになっても一緒にいるかもね」
「そうだね」
私は嬉しくなって、声が上ずりそうになった。
たとえ親友でも、恋人でも、夫婦でも、最期まで一緒にいられるかは分からない。私は杏奈と最期まで一緒にいたい。杏奈もそう思ってくれているかもしれない。そのことが嬉しい。
これでいいと思う私と、その先を望んでしまう私がいた。
飲み始めて三時間ほど経った。まだ昼間だ。
杏奈は二本目の半分ほどは飲んでいた。私はまだ五杯目。
テレビ画面には適当に選んだ映画が流れているが、途中から別のことを考えたり談笑したりしていたら、内容が一つも頭に入ってこなかった。今何を見ているのかさえ分からない。
杏奈は二本目のワインを片手に、私の右肩にもたれながら、小さく歌を口ずさむ。たぶんカラオケで彼女が歌ったことのある曲だが、タイトルは思い出せなかった。
私は肩越しに伝わってくる彼女の体温に、高鳴った心臓の音が外に漏れ出ないか不安でしょうがなかった。
私は杏奈の頭に頬をのせる。彼女の髪が唇に触れた。アルコールをかすかに帯びた彼女の匂いが胸いっぱいに広がる。
ここまで私は脚本通りに振る舞ってきた気がした。しかし私には未来の記憶があり、これは夢でしかないことは分かっているが、ここから運命を変えることができるのではないだろうか、なぜかそう思えてきた。
「考えたんだけどさ、仕事やめちゃえば」
仕事さえやめてしまえば、杏奈が壊れる未来を回避できるのではないだろうか。原因は分からないが、それですべて解決する気がした。
「うん。そうするよー」
杏奈は適当に返してきた。
「そうじゃなくて。今すぐ」
「うーん。もう少しお金貯めたいのと、コネクション作っておきたいんだよね」
「いいよ。杏奈は働かなくて」
「えー? どういうこと?」
「私が杏奈を養うから」
何か私の生活が変わるわけではない。いっそ私が杏奈の面倒を見れば、誰も不幸にならないのではないだろうか。
「じゃあ、お願いしちゃおっかな」
「冗談じゃなくて、本気で言ってる」
それに杏奈が笑う。
私は肩を寄せた右手で、杏奈の左手を握る。汗ばんで、柔らかくて、確かな骨格の手触りがあって、温かかった。
「え? なに? サヨちゃん、どうしたの?」
私は杏奈を向き、左手を彼女の頬に添えてから、そのまま下顎に指をかけ、顔を向けさせる。そして私は彼女にキスをした。
杏奈は驚いたように目を見開き、呆然としていた。
「杏奈、好き。好きだから、私のものになって」
「サヨちゃん、酔ってるの?」
杏奈は困惑した様子で笑った。まだ私は引き返せる時点にいた。このまま酒のせいにすれば、なかったことになるかもしれない。
しかし私はこの先の未来を知っている。杏奈が壊れてしまう未来を。
「お願い杏奈。私、杏奈のことが好きなの。杏奈のことを守りたい。だから、私のものになって」
杏奈を私のものにしてしまえば、すべてが解決するのだ。
「……サヨちゃん?」
私は杏奈を押し倒し、首筋に顔を埋め、唇を当てた。彼女の汗ばんだ肌の感触が私を駆り立てる。
「サヨちゃん、ちょっと、待って」
杏奈が弱々しく抵抗する。ワインの瓶が鈍い音を立て床に転がった。
私は構わず彼女の左の耳たぶを口に含んだ。
「あっ」
ソプラノが短く鳴った。
私は唇で挟み、舌先で柔らかいそれを転がしたり、口の中に含んだりと弄ぶ。
その度に彼女の体がふるえていた。
次に口を離して、舌先で彼女の耳の輪郭をなぞる。
「ああっ」
さっきよりも長く、切なく鳴った。
私も杏奈の体を知り尽くしている。この杏奈もそうかは分からないが。
私はさらに彼女の手を取り、互いの指を絡め、ぎゅっと握った。杏奈の抵抗を阻むためだけでなく、こうして指を絡ませると彼女は落ち着く。
私は杏奈にいつもしているようにした。
「サヨちゃん、やだ、やめて……」
杏奈が泣きそうな声で言う。
どうせこれは私の妄想が見せた都合のいい夢だ。そう思ってこんなことをしているわけではない。
もしも今この時に、杏奈と恋人同士になって、彼女を説得して仕事を辞めさせられたら。少なくともこの世界の彼女は救えるのではないだろうか。そんな根拠のないことを考えて私は私を正当化していた。
「杏奈、好き」
私は耳元で告白する。私の息に杏奈の体がふるえた。
「私も、サヨちゃんが好きだよ……だけど、友達同士でこんなこと……」
杏奈が言い淀む。
「私は杏奈と恋人になりたい。杏奈のこと、ずっと好きだった。知ってるでしょ。私、中学の時に告白したよね」
「そうだけど、あれはまだ、お互い子供だったから」
「初めて会った時から、杏奈のことが好きだった。杏奈のことが好きなの」
なぜか私は泣きそうになって喉が詰まりかける。
「サヨちゃん……」
私は杏奈の顔を見ることができなかった。彼女の肩に顔を埋め、息を殺した。
かすかに、絡ませた指を、彼女が握り返してくれた気がした。
それによってこれから起こることを彼女は十分に理解していただろうか。
私は都合よく、それを了承と受け取った。
私は彼女の首筋に唇を這わせ、キスをする。
「んっ……」
絡めた指を解いて、左手で杏奈の右耳を撫でる。右手で彼女の上着をまくり、下着に包まれた彼女の左胸に重ねる。
「んっ、あっ……」
切なく漏れる彼女の吐息と、荒くなった呼吸に大きく上下する胸。熱を帯びた素肌と、下着越しに感じる彼女の乳房の張りと、輪郭を手で確かめる。
「杏奈のことは私が養うから。だから仕事やめて。杏奈のためだったら私、なんでもする。だから、お願い」
ほとんど祈るような気持ちだった。
彼女と強い絆を結べれば、未来は変えられる。そう祈っていた。
私は杏奈のパンツに、手を差し込み、指を滑り込ませた。
「待って!」
それに杏奈が強く拒絶した。私の体を突き飛ばすように押しのけた。
さすがに私も、今までの高揚感が一気に消え去り、全身が凍てつくような怖気を覚えた。
「ごめん、杏奈……私……」
「ここじゃ嫌」
「え?」
「ベッドで」
ようやく私は杏奈の顔を見ることができた。
恥ずかしそうにそらした目は、涙に濡れていた。頬と耳は真っ赤に染まっていた。
* * *
私たちは裸でベッドの上にいた。
さっきまで飲んでいたワインのせいか、あるいは彼女から香る匂いのせいか、私はふわふわとした酩酊感があった。それか杏奈を抱いたことで、多幸感に酔っているのかもしれない。
杏奈は私に背を向けて横たわり、私は後ろから彼女の肩を抱くように腕をかける。彼女に触れる体の部分が熱く、それを冷ますように流れた汗で、私たちの体はしっとりと濡れていた。
私は背中がひりひりと痛かった。杏奈と抱き合った時に引っかかれ、もしかしたら血が出ているかもしれない。そのことが愛おしく、嬉しく思えた。
杏奈の髪に私は顔を埋める。胸いっぱいに彼女の匂いを吸い込んだ。
甘くて、湿っていて、春の野原にいるような気持ちになった。
もっと彼女に言わなければいけないこと、聞かなければいけないことがあったような気がした。
しかし私は満たされた気持ちになって、そのまま眠りについた。
◇ ◇ ◇
目覚めると、隣に杏奈が眠っていた。
まだ夢の中にいるのだろうか。何となく違う気がした。
私は体を横たえたまま、スマートフォンを手に取り、電源ボタンを一回押す。画面が点く。寝起きの目には眩しかった。目が痛くなるので光量を下げた。待機画面の時点で今日の日付は分かったが、何年かは分からない。カレンダーを開いて確認する。記憶にある今年の数字が四桁並んでいた。
どうやら現実のようだ。
「サヨちゃん」
杏奈が起きる。寝ながら、私に寄り添いながら、私の顔を見てくる。眠そうだが、幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「おはよう、杏奈」
「おはよう」
「トイレに行く?」
「行く!」
こう返事をするということは、相変わらずのようだ。
私は起き上がり、杏奈を支えるように立つ。彼女とトイレに向かいながら、あれは本当に夢だったのかと自問する。
記憶の再現でもなく、実際に体験しているような感覚があった。
妄想にせよ何にせよ、あれからどうなったのか思い出してみる。
翌朝、目覚めると杏奈は無言で帰ってしまった。彼女は一度も私と目を合わせなかった。ベッドの上でその背中を見送った。全身の血の気が引く感覚を覚えている。その時の胸の痛みも、本当に経験したかのように思い出せた。
私はその日のうちに謝罪の連絡をした。
『昨日はどうかしていた。本当にごめん。これからも杏奈の親友でいたい』
それに既読がつくことはなかった。何度か重ねて連絡したが、一度も返信はなかった。
私は杏奈に嫌われた。そう確信した。それは当然のことだった。
しかしどうして私はこんな記憶を持っているのだろうか。
夢を見て、その続きを妄想することはあるが、あくまで私の想像力のコントロール下にある。しかしこの記憶のようなものは、事実として私の中に想起された。
ここで私は思わずにいられなかった。あの夢は私が無意識に封印していた記憶なのではないか、と。もしそうだとしたら杏奈が壊れた原因は私なのか。
ソファの近くのカーペットに、うっすらと広がったシミがあるのに気づいた。いつの間にできたのだろうか。そう思うと同時に、あれは杏奈があの時、倒した瓶からこぼれたワインのシミではなかったか、と思い出した。
私は自分自身のおぞましさに、ひどい目眩を覚えた。悪寒が背筋を駆け抜け、指先から温度がなくなり、呼吸が止まった。
杏奈はあの時のショックで、私と恋人同士であると思い込むようにした。その前後で心が壊れた。そう考えるとすべての辻褄が合うのではないか。
「大丈夫?」
杏奈は自分一人でも大変なはずなのに、私の体を支えるように手を添え、心配そうに顔をのぞき込んでくる。
そんな彼女を私が壊してしまったのか。
「杏奈、ごめん……」
「サヨちゃん? どうしたの?」
「私が、杏奈を……」
私は杏奈を抱きしめ、その胸に顔を埋めた。
その私を杏奈は優しく抱きしめてくれる。
「よしよし」
私にはこんなふうに慰められる資格も、彼女と一緒にいていい資格もない。それでも彼女を手放せば、彼女はまたあの暗闇に逆戻りだ。私は彼女の人生を、未来を奪ってしまった。
「杏奈、ごめんね……一生かけて償うから……」
「ん? よく分かんない。結婚するってこと?」
杏奈が無邪気に言う。その言葉が深く胸に突き刺さった。そのままこの胸を刺し貫いて、私の命で彼女を救ってほしかった。
しかし現実は壊れてしまった彼女と、平然とのうのうと生きている私のまま。
「ずっと一緒にいようね」
杏奈の無邪気さが、私の罪深さを思い知らせる。
死んでしまいたい。かつて私は死ぬために彼女との再会を選んだ。
しかし私には死などという生易しい手段は許されない。
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