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プロローグ
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昨夜の雨に打たれて地面に散った桜の花びらを、車輪は軋りをあげて轢き去っていく。
ソメイヨシノだろうか。連なる街路樹が空を流れていった。雄大に幹と枝を広げた桜の木々の影には葉がつき始め、花びらはまばら。点々と電柱がそびえ立ち、電線のシルエットが張り渡されていた。薄曇りの空の向こうには、春の太陽が銀色に滲んでいる。色彩を失ったような白と黒のコントラスト。ゆっくりとモノトーンの世界が流れていく。
私を乗せた車椅子は路面の凹凸に引っかかり、ガタガタと揺れる。それはまるで揺籠に揺られているようで、私は心地が良かった。
右手には住宅が連なり、軒先の形が切れ切れに移り変わっていく。左手には車道があり、ガードレールと低木の植え込みに隠れて、唸りを上げて車が走り去っていった。
私は空を眺めながら、ただ身を任せているだけ。何か夢を見ているような気分だった。
「昨日の雨に打たれて、ほとんど散っちゃったね。残念」
私の車椅子を押す彼女、赤星杏奈が寂しげに言った。彼女は私の恋人だった。
私たちは近所の、といっても徒歩三十分ほどのところにある公園に、花見に行く予定らしい。
「サヨちゃんと初めて話したのも、こんな日だったよね」
「そうだったね」
前日の雨に桜が散った四月の初旬。中学二年生の始業式の日。もう十年以上前だ。当時十三歳だとしたら、十二、三年前になるか。
彼女は体を屈めて私の耳元で囁く。
「サヨちゃんから先に告白したんだからね」
「うん。分かっているよ」
私はその彼女の横顔に触れたいと思ったが、私の腕は空を掻く。私の両腕は肘からが無く、両脚も膝からが無かった。
ついこの間までこんな体ではなかったはずなのだが。
春のまとわりつくような温い大気のせいか、湿った土と埃の匂いのせいか、私の頭は重く鈍くて、思考を巡らすのがひどく億劫だった。
私は彼女の顔が見たくなった。この気怠さと不安な気持ちを消し去ってほしかった。
首を大きく後ろに倒す。彼女の顔が下から見えた。美しく整った顔立ち。切れ長で、少し丸みのある綺麗な目が、優しげに私を見下ろして微笑んだ。
いつまでも見ていたかったが、この姿勢では首が疲れ、息が苦しい。
仕方なく前を向くと、ガードレールが異様に大きく迫って感じた。往来の人々もいつもより大きく見える。巨人の住む別の世界に迷い込んだ気分だった。何より行き交う自転車、車道の車が突っ込んできて潰されそうで怖かった。
すぐに空へと視線を移した。モノトーンの世界が流れていく。木々の伸ばした腕が過ぎ去っていった。電線が空を絡め取ろうとしているように見えた。そして私を乗せて車椅子は桜の花びらを轢き去っていく。
不意に杏奈が車椅子を止めた。目の前に薄曇りの空だけが広がった。薄雲は畝のように、濃淡のグラデーションがあることに気付いた。
私は視線を落とす。目の前は横断歩道だった。どうやら赤信号に杏奈が車椅子を止めたらしい。手前より後ろで止まっているのに、勢いよく車が走り去っていくのを見ると、威圧感を感じて私の体は震えた。私は自らの肩を抱きしめ、うずくまりたい気持ちになった。しかしその体を抱きしめる、何かに縋りつく腕を私は持たない。
それを察してか、杏奈が後ろから私を抱きしめる。途端に、不安や恐怖が和らいでいった。春の日差しが柔らかく、冷たい朝を照らして温めるように。
杏奈の唇が私の耳元で震えた。
「ずっと一緒だよ、サヨちゃん。大好きだよ」
「うん。私も大好きだよ。杏奈」
きっとこれでいい。これでよかったんだ。
そう私は自分に言い聞かせた。
私は瞼を閉じ、彼女の温もりに身を任せた。
ソメイヨシノだろうか。連なる街路樹が空を流れていった。雄大に幹と枝を広げた桜の木々の影には葉がつき始め、花びらはまばら。点々と電柱がそびえ立ち、電線のシルエットが張り渡されていた。薄曇りの空の向こうには、春の太陽が銀色に滲んでいる。色彩を失ったような白と黒のコントラスト。ゆっくりとモノトーンの世界が流れていく。
私を乗せた車椅子は路面の凹凸に引っかかり、ガタガタと揺れる。それはまるで揺籠に揺られているようで、私は心地が良かった。
右手には住宅が連なり、軒先の形が切れ切れに移り変わっていく。左手には車道があり、ガードレールと低木の植え込みに隠れて、唸りを上げて車が走り去っていった。
私は空を眺めながら、ただ身を任せているだけ。何か夢を見ているような気分だった。
「昨日の雨に打たれて、ほとんど散っちゃったね。残念」
私の車椅子を押す彼女、赤星杏奈が寂しげに言った。彼女は私の恋人だった。
私たちは近所の、といっても徒歩三十分ほどのところにある公園に、花見に行く予定らしい。
「サヨちゃんと初めて話したのも、こんな日だったよね」
「そうだったね」
前日の雨に桜が散った四月の初旬。中学二年生の始業式の日。もう十年以上前だ。当時十三歳だとしたら、十二、三年前になるか。
彼女は体を屈めて私の耳元で囁く。
「サヨちゃんから先に告白したんだからね」
「うん。分かっているよ」
私はその彼女の横顔に触れたいと思ったが、私の腕は空を掻く。私の両腕は肘からが無く、両脚も膝からが無かった。
ついこの間までこんな体ではなかったはずなのだが。
春のまとわりつくような温い大気のせいか、湿った土と埃の匂いのせいか、私の頭は重く鈍くて、思考を巡らすのがひどく億劫だった。
私は彼女の顔が見たくなった。この気怠さと不安な気持ちを消し去ってほしかった。
首を大きく後ろに倒す。彼女の顔が下から見えた。美しく整った顔立ち。切れ長で、少し丸みのある綺麗な目が、優しげに私を見下ろして微笑んだ。
いつまでも見ていたかったが、この姿勢では首が疲れ、息が苦しい。
仕方なく前を向くと、ガードレールが異様に大きく迫って感じた。往来の人々もいつもより大きく見える。巨人の住む別の世界に迷い込んだ気分だった。何より行き交う自転車、車道の車が突っ込んできて潰されそうで怖かった。
すぐに空へと視線を移した。モノトーンの世界が流れていく。木々の伸ばした腕が過ぎ去っていった。電線が空を絡め取ろうとしているように見えた。そして私を乗せて車椅子は桜の花びらを轢き去っていく。
不意に杏奈が車椅子を止めた。目の前に薄曇りの空だけが広がった。薄雲は畝のように、濃淡のグラデーションがあることに気付いた。
私は視線を落とす。目の前は横断歩道だった。どうやら赤信号に杏奈が車椅子を止めたらしい。手前より後ろで止まっているのに、勢いよく車が走り去っていくのを見ると、威圧感を感じて私の体は震えた。私は自らの肩を抱きしめ、うずくまりたい気持ちになった。しかしその体を抱きしめる、何かに縋りつく腕を私は持たない。
それを察してか、杏奈が後ろから私を抱きしめる。途端に、不安や恐怖が和らいでいった。春の日差しが柔らかく、冷たい朝を照らして温めるように。
杏奈の唇が私の耳元で震えた。
「ずっと一緒だよ、サヨちゃん。大好きだよ」
「うん。私も大好きだよ。杏奈」
きっとこれでいい。これでよかったんだ。
そう私は自分に言い聞かせた。
私は瞼を閉じ、彼女の温もりに身を任せた。
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