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第四章「古書店の尼僧」
第50話「妻の不倫」
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「もうその辺でいいでしょう。そろそろ、その悪魔祈祷書を見せてくださいよ。本当にそんなことが書いてあるのか、自分の目で確認しないと納得がいきません」
「それが見せられないのよ。盗まれてしまってね」
ヴァルダさんはしたり顔でこう答えた。まるで、僕がそう言いだすのを待ち構えていたかのようだった。
「盗まれた?」
「ええ。二月ばかり前のことです。油断していた訳でもないのですが、祈祷書の中味がスッポ抜かれて、箱ケースだけが棚の隅に残っているのを発見しちゃったんです」
「なんだって、そんな貴重な品を店頭に出しておいたんですか?」
「しまっておいたって仕方がないし、かといって、もし本物だったとしたら、こちらの身が危うくなるでしょう? だから目立たぬようにして、本の中に隠すつもりで、あそこに置いておいたのです」
そういって、ヴァルダさんは書棚の最上段を指さした。先ほど彼女が、脚立を使って熱心に掃除をしていたあたりだ。確かに狙って探さなければ、まず気づかれない場所だろう。察するに、彼女のお気に入りの本があの辺りに固めてあるに違いない。
「値は三百万円を付けておきました。それを見つけたお客様次第で、それぐらいは吹っかけても罰は当るまいと思っていたのです」
「なるほど。表向きは普通の聖書ですし、もし偽物だとしても、この世に一冊しか存在しない、貴重な筆写本であることに変わりがないですからね」
「その通りです」
売れなきゃ困るのに、売りたくない。その気持ちは、僕にもなんとなく分かる。ましてや本物だったとしたら、少なく見積もっても数百億円の価値がある本だ。だからあんな分かりにくい場所に、普通の人間には手を出せない値段で置いておいたのだろう。
「盗んだ人間に心当たりはないのですか?」
「いえ、犯人は分かっているのです。映像もちゃんと確保してあります。大体あそこに来て、ジイッと本棚を見上げている方なんて、そう何人もいないのですからね……」
「じゃあ、あとは警察に行けばいいだけじゃないですか?」
「先ほども申し上げたでしょう。その方は大学の先生なのです。お立場もありますし、盗まれた本の金額が金額ですから、もしかしたら刑事事件になってしまうかもしれません」
「では、お金さえ払ってくれればそれでよいと?」
「ええ。過去にやらかした分も含めて、それなりの金額をお支払いいただきますが、相手の人生を破壊することまでは考えていません。もし、あの祈祷書が本物だったとしても、命を賭けてまで商売する気はありませんからね」
「なるほど」
相手は人の命などなんとも思ってない連中だ。いくら高額の懸賞金がかけられていようと、払ってもらえる保証なんてどこにもない。シルレルの本とは事情が違う。彼女の判断は正しいと僕は思った。
「それで私、その先生の奥様にご相談差し上げようと、ご自宅にお伺いしたのです。そしたらそこで、とんでもないものを見てしまいました」
「とんでもないもの?」
「奥様が若い男と、窓際でみだらな行為に励んでおられたのです。まるで、こちらに見せつけるかように……」
「旦那のいない間に、不倫という訳ですか」
「ええ。あれは間違いなく、一度きりの過ちではないと思います」
そういって、ヴァルダさんはいったん口をつぐんだ。陰謀論はノリノリで語る彼女でも、こういう話題は少し話づらいらしい。
「私はいったん店に戻り、二時間ほど時間を潰しました。それから再度訪問したところ、今度は二人して、何やら密談をしていたのです」
「話の内容は聞き取れましたか?」
「流石に無理です。ですが、あの男は悪魔祈祷書を開き、口元にいやらしい笑みを浮かべながら、奥様に何やら説明をしておりました。それだけは確かです」
その刹那、僕の後ろからものすごい勢いで男が一人駆け寄ってきた。さっきからずっと、店の隅で立ち読みをしていた男だ。
「おや、中村先生。そんな顔をしてどうなすったんです? ご気分でも悪いのですか?」
「中村先生……? という事は、この方があのシルレルの?」
「そうよ」
「そんなことはどうでもいい! それよりも、今の話は本当か?」
「今の話というのは?」
「俺の妻が、若い男と不義密通をしていたという話だ」
「これはどうも恐れ入りました。……という事は、あの祈祷書は先生がお持ちになったので?」
「何を白々しい……。わざわざ俺に言い聞かせるかのように、ずっと話をしていたくせに」
そういうと、その男は懐から分厚い封筒を持ち出した。
「百万だ。あの祈祷書の内金という事にしろ。元々ちょっと中身を見てみたかっただけで、そのうち返そうと思ってたんだ。残りの金は明日持ってくる」
「では、あの本をお買い上げになるという事で?」
「それ以外に何がある? 分かったら、さっきの話の続きを聞かせろ」
「分かりました。でもその前に、何故あの男が祈祷書を持っていたのか、少し話を聞かせていただけませんか?」
「いいだろう」
中村とか言う教授が言うには、その若い男は、今年の春から妻にピアノを教えている、音大出の若いピアニストだそうだ。ひと月ほど前に、リビングに置いてあった祈祷書を偶然見つけて、大変に珍しがって借りていった。教授もその時は、ただの聖書だと思っていたから、何の気もなく貸したそうだ。
それから一週間ばかり経って、妻が流産した。医者の見立てでは、もう安定期に入りかけていたというのに、どうにも解せないという。
「なるほど、それはとても残念なことで……。えっ、それで話は終わりじゃない?」
すると今度は、たった一人の二歳の息子が四日前に死んだ。不慮の事故による窒息という診断だが、どうも怪しい。あのピアノ教師が、祈祷書の中の毒薬を使ったに違いない。
それだけではない。自分もこの頃、胃の具合が宜しくない。キリキリと痛む。家内は俺の二番目の妻で、学内の美人投票で一位になった元・教え子だ。きっと、若いもの同士でウマが合ったのだろう。二人は俺を毒殺し、財産をまんまとせしめた後、一緒になる肚に違いない。
彼は一気にそうまくしたてた。
「流石にそれは、偶然でございましょう。胎児殺しは犯罪ではございませんが、先生やお子さんを殺せば、それは立派な殺人です。医者が黙ってても、刑事が黙ってはいませんよ」
ヴァルダさんはそういって教授を諫めたが、彼はまったく聞く耳を持たなかった。「あのピアノ教師を告発するから、協力しろ」と、さっきからずっと騒いでいる。そもそも、そのピアノ教師が本物の悪党だとしても、この男が本を盗み出さなければ、こんなことにはなっていないのだ。盗人猛々しいとは、まさにこの事だろう。
ヴァルダさんは教授に言いたいだけ言わせた後、静かにお茶を淹れなおし、彼に椅子を勧めた。
「まあ落ち付いて、とにかくここへおかけ下さい。御事情は全て私が見抜いておりますから、全て先生のいいように計らいましょう。急いては事を仕損じますよ」
《続く》
「それが見せられないのよ。盗まれてしまってね」
ヴァルダさんはしたり顔でこう答えた。まるで、僕がそう言いだすのを待ち構えていたかのようだった。
「盗まれた?」
「ええ。二月ばかり前のことです。油断していた訳でもないのですが、祈祷書の中味がスッポ抜かれて、箱ケースだけが棚の隅に残っているのを発見しちゃったんです」
「なんだって、そんな貴重な品を店頭に出しておいたんですか?」
「しまっておいたって仕方がないし、かといって、もし本物だったとしたら、こちらの身が危うくなるでしょう? だから目立たぬようにして、本の中に隠すつもりで、あそこに置いておいたのです」
そういって、ヴァルダさんは書棚の最上段を指さした。先ほど彼女が、脚立を使って熱心に掃除をしていたあたりだ。確かに狙って探さなければ、まず気づかれない場所だろう。察するに、彼女のお気に入りの本があの辺りに固めてあるに違いない。
「値は三百万円を付けておきました。それを見つけたお客様次第で、それぐらいは吹っかけても罰は当るまいと思っていたのです」
「なるほど。表向きは普通の聖書ですし、もし偽物だとしても、この世に一冊しか存在しない、貴重な筆写本であることに変わりがないですからね」
「その通りです」
売れなきゃ困るのに、売りたくない。その気持ちは、僕にもなんとなく分かる。ましてや本物だったとしたら、少なく見積もっても数百億円の価値がある本だ。だからあんな分かりにくい場所に、普通の人間には手を出せない値段で置いておいたのだろう。
「盗んだ人間に心当たりはないのですか?」
「いえ、犯人は分かっているのです。映像もちゃんと確保してあります。大体あそこに来て、ジイッと本棚を見上げている方なんて、そう何人もいないのですからね……」
「じゃあ、あとは警察に行けばいいだけじゃないですか?」
「先ほども申し上げたでしょう。その方は大学の先生なのです。お立場もありますし、盗まれた本の金額が金額ですから、もしかしたら刑事事件になってしまうかもしれません」
「では、お金さえ払ってくれればそれでよいと?」
「ええ。過去にやらかした分も含めて、それなりの金額をお支払いいただきますが、相手の人生を破壊することまでは考えていません。もし、あの祈祷書が本物だったとしても、命を賭けてまで商売する気はありませんからね」
「なるほど」
相手は人の命などなんとも思ってない連中だ。いくら高額の懸賞金がかけられていようと、払ってもらえる保証なんてどこにもない。シルレルの本とは事情が違う。彼女の判断は正しいと僕は思った。
「それで私、その先生の奥様にご相談差し上げようと、ご自宅にお伺いしたのです。そしたらそこで、とんでもないものを見てしまいました」
「とんでもないもの?」
「奥様が若い男と、窓際でみだらな行為に励んでおられたのです。まるで、こちらに見せつけるかように……」
「旦那のいない間に、不倫という訳ですか」
「ええ。あれは間違いなく、一度きりの過ちではないと思います」
そういって、ヴァルダさんはいったん口をつぐんだ。陰謀論はノリノリで語る彼女でも、こういう話題は少し話づらいらしい。
「私はいったん店に戻り、二時間ほど時間を潰しました。それから再度訪問したところ、今度は二人して、何やら密談をしていたのです」
「話の内容は聞き取れましたか?」
「流石に無理です。ですが、あの男は悪魔祈祷書を開き、口元にいやらしい笑みを浮かべながら、奥様に何やら説明をしておりました。それだけは確かです」
その刹那、僕の後ろからものすごい勢いで男が一人駆け寄ってきた。さっきからずっと、店の隅で立ち読みをしていた男だ。
「おや、中村先生。そんな顔をしてどうなすったんです? ご気分でも悪いのですか?」
「中村先生……? という事は、この方があのシルレルの?」
「そうよ」
「そんなことはどうでもいい! それよりも、今の話は本当か?」
「今の話というのは?」
「俺の妻が、若い男と不義密通をしていたという話だ」
「これはどうも恐れ入りました。……という事は、あの祈祷書は先生がお持ちになったので?」
「何を白々しい……。わざわざ俺に言い聞かせるかのように、ずっと話をしていたくせに」
そういうと、その男は懐から分厚い封筒を持ち出した。
「百万だ。あの祈祷書の内金という事にしろ。元々ちょっと中身を見てみたかっただけで、そのうち返そうと思ってたんだ。残りの金は明日持ってくる」
「では、あの本をお買い上げになるという事で?」
「それ以外に何がある? 分かったら、さっきの話の続きを聞かせろ」
「分かりました。でもその前に、何故あの男が祈祷書を持っていたのか、少し話を聞かせていただけませんか?」
「いいだろう」
中村とか言う教授が言うには、その若い男は、今年の春から妻にピアノを教えている、音大出の若いピアニストだそうだ。ひと月ほど前に、リビングに置いてあった祈祷書を偶然見つけて、大変に珍しがって借りていった。教授もその時は、ただの聖書だと思っていたから、何の気もなく貸したそうだ。
それから一週間ばかり経って、妻が流産した。医者の見立てでは、もう安定期に入りかけていたというのに、どうにも解せないという。
「なるほど、それはとても残念なことで……。えっ、それで話は終わりじゃない?」
すると今度は、たった一人の二歳の息子が四日前に死んだ。不慮の事故による窒息という診断だが、どうも怪しい。あのピアノ教師が、祈祷書の中の毒薬を使ったに違いない。
それだけではない。自分もこの頃、胃の具合が宜しくない。キリキリと痛む。家内は俺の二番目の妻で、学内の美人投票で一位になった元・教え子だ。きっと、若いもの同士でウマが合ったのだろう。二人は俺を毒殺し、財産をまんまとせしめた後、一緒になる肚に違いない。
彼は一気にそうまくしたてた。
「流石にそれは、偶然でございましょう。胎児殺しは犯罪ではございませんが、先生やお子さんを殺せば、それは立派な殺人です。医者が黙ってても、刑事が黙ってはいませんよ」
ヴァルダさんはそういって教授を諫めたが、彼はまったく聞く耳を持たなかった。「あのピアノ教師を告発するから、協力しろ」と、さっきからずっと騒いでいる。そもそも、そのピアノ教師が本物の悪党だとしても、この男が本を盗み出さなければ、こんなことにはなっていないのだ。盗人猛々しいとは、まさにこの事だろう。
ヴァルダさんは教授に言いたいだけ言わせた後、静かにお茶を淹れなおし、彼に椅子を勧めた。
「まあ落ち付いて、とにかくここへおかけ下さい。御事情は全て私が見抜いておりますから、全て先生のいいように計らいましょう。急いては事を仕損じますよ」
《続く》
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