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第7話「祈祷書の秘密」
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「核による偽りの平和が七五年も続いて、大戦終結時に約二十億人だった世界人口は七十七億人になった。二十五年後には百億人に達すると予想されてるわ」
「まさに人口爆発ですね」
「ところで貴方、世界人口が十億から二十億人になるのに、何年かかったか知ってる?」
「知りません」
「百二十五年よ。二十億に初めて到達したのが一九二七年。そしてその数値は、大戦終結の四五年でもほとんど変わってない。これが、戦争の【お陰】でなくて何なのかしら?」
第二次世界大戦では、約八千万人が亡くなったと言われている。ヴァルダさんの統計が正しいのなら、人口の自然増加分をそのまま相殺したのだろう。
「核さえなければ、二十億人を維持とまではいかなくとも、こんな馬鹿げた数字にはならずに済んだ。七十七億と言う数字は、この地球が養える人口を遥かに超えているわ」
「食料が足りなくなるという事ですか?」
「ええ。現時点でも、総人口の約一割が飢餓に苦しんでいると言われているわ。そしてこの数字は、増えることはあっても減る事は無い」
「食糧の増産には、物理的な限界がありますからね」
なぜ突然、ヴァルダさんがこんな話を持ち出したのか、僕には良く分からなかった。この人は、世界のどこかで子供たちが飢えに苦しんでいようと、それを悲しむような人ではないはずだ。
「貴方、ネイサン・ロスチャイルドは知ってる?」
「詳しくは知らないです」
「ロスチャイルド家の三男坊。ロンドン・ロスチャイルド家の創始者。つまり、二百万ポンドの賞金を懸けて、悪魔祈祷書を探してた張本人よ」
「もしかして、ワーテルローの戦いの途中、わざとイギリス公債を空売りして、暴落後に途転買いして大儲けしたって言う人ですか?」
「そう。ネイサンは英国の勝利を見越して【わざとそうした】の。自分が売りに回れば、皆が公債を投げ売ると確信してね」
彼は従前から、大陸封鎖令で暴落したイギリス国内の商品を買い集め、物資に困ってるヨーロッパ諸国に密かに横流ししていた。彼が強力な情報網を大陸に持っていることは周知の事実であったため、彼の動向を市場は注視していたのだと、ヴァルダさんは僕に言った。
「なるほど、自ら市場を総悲観に追い込んでおきながら、その裏で淡々と投げ売られた公債を買い集めていた訳ですね」
ウェリントン公爵がナポレオンに勝利したことが知れ渡れば、値段は元に戻るだけでなく、更に上昇するに決まってる。子供にだってわかる理屈だ。
「彼の行動は、『ネイサンの逆売り』と呼ばれて伝説となったわ。でもそれは、彼の手掛けた密貿易の利益に比べれば大したものじゃない。仕入れ値は格安なうえに、相手には言い値で売れるんだから、ボロ儲けに決まってるわよね」
「ナポレオン戦争の、唯一の勝利者という事ですね」
「そうね」
欧州のほとんどはナポレオンに蹂躙された。そして、そのフランスも最後は連合軍にパリを占領されて、奪った領土をすべて取り返されてしまった。笑ったのは、ネイサンを始めとするユダヤ人の金貸しと商人だけだ。
「だけど彼は慢心しなかった。この時すでに、今の人口爆発を予見していたの。だから彼は、大枚をはたいて悪魔祈祷書を探していたのよ」
「どういうことですか?」
「当時の世界人口は約十億人。自然増を0.5%まで抑え込んだとしても、年間五百万人も増える。いくら戦争を起こしたところで、彼らの武器では殺し切れないわ」
「それは分かりますけど、その事と祈祷書に何の関係があるんですか?」
「鈍い男ね。だからさっき、『ここが大事なところだ』と言ったじゃない。ピョートルと契約した悪魔は誰だった? その特技は?」
ヴァルダさんにそう言われて、僕は二十分ほど前の彼女との会話を、必死に思い出そうとしていた。
*************
「そうね。でも、祈祷書の中で上げられている例の中で最も猟奇的で、史実にも近いのは、アルと契約したピョートル大帝なの」
「アル? 聞いたことがないな。一体、何の悪魔ですか?」
「出産を妨害する悪魔よ」
「あんまり強くなさそうだなあ……」
「いえいえ、ここが大事な所なのよ。ピョートルは何度も外遊をして……」
***************
「アル……。出産を妨害する悪魔……」
「人口を抑制するためには、そもそも【産ませなければ】いい。祈祷書に記されたアルの秘法があれば、誰にも怪しまれることなく、ヒトを不妊化させたり、子供を流産させたりする事ができる。彼らはその秘密が知りたかったの」
「ヒトを不妊化する毒薬と、堕胎術……」
「そう。それを手に入れれば、彼らは人口を人為的にコントロールすることが出来る。そして、結果として、同胞の優秀な遺伝子のみを後世に残すことが出来るのよ」
「ひどすぎる……」
「だから、悪魔よりも恐ろしいのは人間だって、最初から言ってるじゃない。神様だってわかったもんじゃないわ。ヒトは神様に似せて作られたそうですからね」
なんだか本当に、神に反逆した悪魔の方が正しい気がしてきた。望まない妊娠をしてしまう女性は、この世に沢山いる。だから、百歩譲って堕胎術は認めるにしても、断種や不妊化が一部の人間の意志で決められていいはずがない。
「案外、その秘法は既に流出してて、一部の人たちの体の中に取り込まれているかもしれないわね。たとえば、特定の病気に対するワクチン接種なんかを通して……」
「まさか」
「先進国の出生率は、軒並み2.0を割ってるわ。つまり、既に人口減に向かっている。妊産婦の死亡率は劇的に減少してるというのに、女性の社会進出だけで、この現象を説明できるかしら?」
ヴァルダさんの言葉を聞いて、僕はゾッとした。女性の晩婚化や、経口避妊薬の認可など、出生率減少の理由は他にもある。だが、そもそも人類の歴史において、『これほどまでに、不妊に悩む人々が存在した時代』が存在しただろうか?
「もうその辺でいいでしょう。そろそろ、その悪魔祈祷書を見せてくださいよ。本当にそんなことが書いてあるのか、自分の目で確認しないと納得がいきません」
「それが見せられないのよ。盗まれてしまってね」
ヴァルダさんはしたり顔でこう答えた。まるで、僕がそう言いだすのを待ち構えていたかのようだった。
「盗まれた?」
「ええ。二月ばかり前のことです。油断してた訳でもないのですが、祈祷書の中味がスッポ抜かれて、箱ケースだけが棚の隅に残っているのを発見しちゃったんです」
「なんだって、そんな貴重な品を店頭に出しておいたんですか?」
「しまっておいたって仕方がないし、かといって、もし本物だったとしたら、こちらの身が危うくなるでしょう? だから目立たぬようにして、本の中に隠すつもりで、あそこに置いておいたのです」
そういって、ヴァルダさんは書棚の最上段を指さした。先ほど彼女が、脚立を使って熱心に掃除をしていたあたりだ。確かに狙って探さなければ、まず気づかれない場所だろう。察するに、彼女のお気に入りの本があの辺りに固めてあるに違いない。
「値は三百万円を付けておきました。それを見つけたお客様次第で、それぐらいは吹っかけても罰は当るまいと思っていたのです」
「なるほど。表向きは普通の聖書ですし、もし偽物だとしても、この世に一冊しか存在しない、貴重な筆写本であることに変わりがないですからね」
「その通りです」
売れなきゃ困るのに、売りたくない。その気持ちは、僕にもなんとなく分かる。ましてや本物だったとしたら、少なく見積もっても数十億円の価値がある本だ。だからあんな分かりにくい場所に、普通の人間には手を出せない値段で置いておいたのだろう。
「盗んだ人間に心当たりはないのですか?」
「いえ、犯人はちゃんと分かっているのです。映像も確保してあります。大体あそこに来て、ジイッと本棚を見上げている方なんて、そう何人もいないのですからね……」
「じゃあ、あとは警察に行けばいいだけじゃないですか?」
「その方は大学の先生なのです。お立場もありますし、盗まれた本の金額が金額ですから、もしかしたら刑事事件になってしまうかもしれません」
「では、お金さえ払ってくれればそれでよいと?」
「ええ。過去にやらかした分も含めて、それなりの金額を請求するつもりではいますが、相手の人生を破壊することまでは、私は望みません。それにもし、あの祈祷書が本物だったところで、命を賭けてまで商売する気はありませんからね」
「なるほど」
相手は人の命などなんとも思ってない連中だ。いくら高額の懸賞金がかけられていようと、払ってもらえる保障なんてどこにもない。シルレルの本とは事情が違う。ヴァルダさんの判断は正しいと僕は思った。
(続く)
「まさに人口爆発ですね」
「ところで貴方、世界人口が十億から二十億人になるのに、何年かかったか知ってる?」
「知りません」
「百二十五年よ。二十億に初めて到達したのが一九二七年。そしてその数値は、大戦終結の四五年でもほとんど変わってない。これが、戦争の【お陰】でなくて何なのかしら?」
第二次世界大戦では、約八千万人が亡くなったと言われている。ヴァルダさんの統計が正しいのなら、人口の自然増加分をそのまま相殺したのだろう。
「核さえなければ、二十億人を維持とまではいかなくとも、こんな馬鹿げた数字にはならずに済んだ。七十七億と言う数字は、この地球が養える人口を遥かに超えているわ」
「食料が足りなくなるという事ですか?」
「ええ。現時点でも、総人口の約一割が飢餓に苦しんでいると言われているわ。そしてこの数字は、増えることはあっても減る事は無い」
「食糧の増産には、物理的な限界がありますからね」
なぜ突然、ヴァルダさんがこんな話を持ち出したのか、僕には良く分からなかった。この人は、世界のどこかで子供たちが飢えに苦しんでいようと、それを悲しむような人ではないはずだ。
「貴方、ネイサン・ロスチャイルドは知ってる?」
「詳しくは知らないです」
「ロスチャイルド家の三男坊。ロンドン・ロスチャイルド家の創始者。つまり、二百万ポンドの賞金を懸けて、悪魔祈祷書を探してた張本人よ」
「もしかして、ワーテルローの戦いの途中、わざとイギリス公債を空売りして、暴落後に途転買いして大儲けしたって言う人ですか?」
「そう。ネイサンは英国の勝利を見越して【わざとそうした】の。自分が売りに回れば、皆が公債を投げ売ると確信してね」
彼は従前から、大陸封鎖令で暴落したイギリス国内の商品を買い集め、物資に困ってるヨーロッパ諸国に密かに横流ししていた。彼が強力な情報網を大陸に持っていることは周知の事実であったため、彼の動向を市場は注視していたのだと、ヴァルダさんは僕に言った。
「なるほど、自ら市場を総悲観に追い込んでおきながら、その裏で淡々と投げ売られた公債を買い集めていた訳ですね」
ウェリントン公爵がナポレオンに勝利したことが知れ渡れば、値段は元に戻るだけでなく、更に上昇するに決まってる。子供にだってわかる理屈だ。
「彼の行動は、『ネイサンの逆売り』と呼ばれて伝説となったわ。でもそれは、彼の手掛けた密貿易の利益に比べれば大したものじゃない。仕入れ値は格安なうえに、相手には言い値で売れるんだから、ボロ儲けに決まってるわよね」
「ナポレオン戦争の、唯一の勝利者という事ですね」
「そうね」
欧州のほとんどはナポレオンに蹂躙された。そして、そのフランスも最後は連合軍にパリを占領されて、奪った領土をすべて取り返されてしまった。笑ったのは、ネイサンを始めとするユダヤ人の金貸しと商人だけだ。
「だけど彼は慢心しなかった。この時すでに、今の人口爆発を予見していたの。だから彼は、大枚をはたいて悪魔祈祷書を探していたのよ」
「どういうことですか?」
「当時の世界人口は約十億人。自然増を0.5%まで抑え込んだとしても、年間五百万人も増える。いくら戦争を起こしたところで、彼らの武器では殺し切れないわ」
「それは分かりますけど、その事と祈祷書に何の関係があるんですか?」
「鈍い男ね。だからさっき、『ここが大事なところだ』と言ったじゃない。ピョートルと契約した悪魔は誰だった? その特技は?」
ヴァルダさんにそう言われて、僕は二十分ほど前の彼女との会話を、必死に思い出そうとしていた。
*************
「そうね。でも、祈祷書の中で上げられている例の中で最も猟奇的で、史実にも近いのは、アルと契約したピョートル大帝なの」
「アル? 聞いたことがないな。一体、何の悪魔ですか?」
「出産を妨害する悪魔よ」
「あんまり強くなさそうだなあ……」
「いえいえ、ここが大事な所なのよ。ピョートルは何度も外遊をして……」
***************
「アル……。出産を妨害する悪魔……」
「人口を抑制するためには、そもそも【産ませなければ】いい。祈祷書に記されたアルの秘法があれば、誰にも怪しまれることなく、ヒトを不妊化させたり、子供を流産させたりする事ができる。彼らはその秘密が知りたかったの」
「ヒトを不妊化する毒薬と、堕胎術……」
「そう。それを手に入れれば、彼らは人口を人為的にコントロールすることが出来る。そして、結果として、同胞の優秀な遺伝子のみを後世に残すことが出来るのよ」
「ひどすぎる……」
「だから、悪魔よりも恐ろしいのは人間だって、最初から言ってるじゃない。神様だってわかったもんじゃないわ。ヒトは神様に似せて作られたそうですからね」
なんだか本当に、神に反逆した悪魔の方が正しい気がしてきた。望まない妊娠をしてしまう女性は、この世に沢山いる。だから、百歩譲って堕胎術は認めるにしても、断種や不妊化が一部の人間の意志で決められていいはずがない。
「案外、その秘法は既に流出してて、一部の人たちの体の中に取り込まれているかもしれないわね。たとえば、特定の病気に対するワクチン接種なんかを通して……」
「まさか」
「先進国の出生率は、軒並み2.0を割ってるわ。つまり、既に人口減に向かっている。妊産婦の死亡率は劇的に減少してるというのに、女性の社会進出だけで、この現象を説明できるかしら?」
ヴァルダさんの言葉を聞いて、僕はゾッとした。女性の晩婚化や、経口避妊薬の認可など、出生率減少の理由は他にもある。だが、そもそも人類の歴史において、『これほどまでに、不妊に悩む人々が存在した時代』が存在しただろうか?
「もうその辺でいいでしょう。そろそろ、その悪魔祈祷書を見せてくださいよ。本当にそんなことが書いてあるのか、自分の目で確認しないと納得がいきません」
「それが見せられないのよ。盗まれてしまってね」
ヴァルダさんはしたり顔でこう答えた。まるで、僕がそう言いだすのを待ち構えていたかのようだった。
「盗まれた?」
「ええ。二月ばかり前のことです。油断してた訳でもないのですが、祈祷書の中味がスッポ抜かれて、箱ケースだけが棚の隅に残っているのを発見しちゃったんです」
「なんだって、そんな貴重な品を店頭に出しておいたんですか?」
「しまっておいたって仕方がないし、かといって、もし本物だったとしたら、こちらの身が危うくなるでしょう? だから目立たぬようにして、本の中に隠すつもりで、あそこに置いておいたのです」
そういって、ヴァルダさんは書棚の最上段を指さした。先ほど彼女が、脚立を使って熱心に掃除をしていたあたりだ。確かに狙って探さなければ、まず気づかれない場所だろう。察するに、彼女のお気に入りの本があの辺りに固めてあるに違いない。
「値は三百万円を付けておきました。それを見つけたお客様次第で、それぐらいは吹っかけても罰は当るまいと思っていたのです」
「なるほど。表向きは普通の聖書ですし、もし偽物だとしても、この世に一冊しか存在しない、貴重な筆写本であることに変わりがないですからね」
「その通りです」
売れなきゃ困るのに、売りたくない。その気持ちは、僕にもなんとなく分かる。ましてや本物だったとしたら、少なく見積もっても数十億円の価値がある本だ。だからあんな分かりにくい場所に、普通の人間には手を出せない値段で置いておいたのだろう。
「盗んだ人間に心当たりはないのですか?」
「いえ、犯人はちゃんと分かっているのです。映像も確保してあります。大体あそこに来て、ジイッと本棚を見上げている方なんて、そう何人もいないのですからね……」
「じゃあ、あとは警察に行けばいいだけじゃないですか?」
「その方は大学の先生なのです。お立場もありますし、盗まれた本の金額が金額ですから、もしかしたら刑事事件になってしまうかもしれません」
「では、お金さえ払ってくれればそれでよいと?」
「ええ。過去にやらかした分も含めて、それなりの金額を請求するつもりではいますが、相手の人生を破壊することまでは、私は望みません。それにもし、あの祈祷書が本物だったところで、命を賭けてまで商売する気はありませんからね」
「なるほど」
相手は人の命などなんとも思ってない連中だ。いくら高額の懸賞金がかけられていようと、払ってもらえる保障なんてどこにもない。シルレルの本とは事情が違う。ヴァルダさんの判断は正しいと僕は思った。
(続く)
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