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第3話「盗人の心理」
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「あら、いらっしゃい。この雨の中を、ご来店有難うございます」
「ああ……。少し、この辺の本を見せてもらうよ」
「どうぞ、ごゆっくり」
ヴァルダさんは、入ってきた男にそう声を掛けると、僕の方に振り返った。
「一体、どこまで話したかしら?」
「中村先生が、『マクベス』の企画書の英訳を三万円で買っていったところまでです」
「そうだったわね。まったく恐れ入ったわ。私のミスなんだから、そのまま三千円で買って行かれたって、別に文句はなかったんだけど」
「まあ、ゲーテの話にしたって、別にヴァルダさんが損をした訳じゃないですもんね」
彼女に引かれるのは嫌だから黙っていたが、僕は結構なアニメオタクだった。だがそんな書籍の存在は、僕でも知らない。中村と言う教授は中々のやり手の様だから、案外三万円でも買いの本だったのかもしれない。
「ええ。中村先生みたいなお方ばっかりだったら、この家業も苦労はしないのだけれど、中には性質の悪いお客もずいぶんいてね」
「丸ごと一冊、立読みとかですか?」
「そんなのは、しょっちゅうよ。ホント、最初から買う気のない人は、読むのが早いのね」
「そうなんですか?」
「ええ。店の本の上に腰をかけて、三十分ほどでおしまいまで読んじゃってから、私の処へ本を持って来て、『ねえ君。これ、千円に負からないのかい? 大して面白い本でもないぜ』なんて、顔負けしちゃいます。大きなお世話よね」
「あはは……。他にはどんな困った客が来るんですか?」
「文科の学生さんなんかは、試験前に良く来るわね」
「参考書を買いにですか?」
「買うわけないじゃない。あの棚の上の大英百科全書を抱えおろして、入り用のページをスマホで撮ってから、そのまま置きっ放しよ。まあ、それくらいなら笑って許せるんだけど、たまに頁を破って持っていく子がいるのね」
「それは酷い」
「でしょう? でも大学には、修身って科目はありませんからね。常識を知らない子は、そんなものなんでしょう。でも、もっとひどいのは、丸ごと一冊、本を持って行ってしまう人。つまり万引ね」
「そんな人いるんですか?」
「沢山いるわよ。しかも、その万引の手段ってのが、トリック付きなんですから感心しちゃうわ」
「トリックというと……。すり替えか何かですか?」
「ご明察。彼らは皆、普通には盗まないの」
そうヴァルダさんはいい、少し呆れたような顔をしてこう続けた。
「一冊か二冊、つまらない本を裸で抱えて、如何にも暇つぶしの学生らしい面構えで、飄然と入って来るのね。狙っている本はチャントきまっているのだけど、直ぐにその本の処へ行くようなヘマはしないの」
「なるほど。そこが、彼らの手なんでしょうね」
「その通りよ。書棚のあちこちを上から下まで丹念に見回し、時には一度見た場所に戻ったりなんかもしながら、狙った本へ近付いて行くのよ。そして、如何にも『偶然見つけた』といった恰好で、気安く中身を確認したりしているのね」
ヴァルダさんはここで一つ息を継いだ。
「そうなるとこっちだって、最初から疑っているんじゃありませんから、ツイ眼をそらしてしまうわよね。さも、つまらなさそうな顔をして、その本を棚に返すと思ったら、大間違いのあに計らんや。用意して来た本を、目当ての本とすり替えて、外箱は元の隙間へ戻してるって訳」
身振り手振りも交えたヴァルダさんの説明は、とても真に迫っていた。そこまで分かっているなら、いっそ出入り禁止にしてしまえばいいのに、何故そうしないのだろう?
「大胆不敵だなあ……」
「ええ。目当ての本をチャント小脇に挟みながら、『ロクな本が在りやがらねえ』とでも言いたげな顔つきで、堂々と店を出て行くんだから大した度胸だわ。ホント、考えたものよね」
「現場を直に押さえたのでなければ、呼び止めるのもなかなか難しいでしょうしねえ……」
「その通りよ。しかもこれは、一度や二度の話じゃないの。同じ人が、何度でもやっていくのよ」
ヴァルダさんは珍しく感情が高まってきたのか、少し声を荒げてこう続けた
「百歩譲ってお金のない学生さんなら、出世払いという事も考えない訳じゃないわ。だけど、これをやるのは学生さんばかりじゃないのよ。相当の月給を取っておいでになる立派な紳士の方でも、時々この手をおやりになるんです」
「へー」
「貴方の学校の先生なんか、こっちの方が本職なんじゃないかって言うレベルの達人が、数人おいでになるの。なかなか鮮やかな御手前なのよ」
「そいつは是非、名前を伺っておきたいですね。そのネタがあれば、単位と引き換えにユスれそうだ」
「それじゃ、私に何の得もないじゃない。勝手に留年でも何でもしなさいよ」
「ひどいなあ……」
素人にしてはどうにも手際が良すぎるし、だいいち、職業が職業だから、マサカと思ってつい油断してしまうのだと、ヴァルダさんは僕に愚痴をこぼす。
「それはそうでしょうね。ところで先生たちは、本当に代金は支払わないのですか?」
「というと?」
「お金に困っている訳ではないのなら、単にスリルを楽しんでいるとか、そういうお話かと思いまして」
「残念ながら違うわね。でもそういう方々は、大抵、本物の本好きに限るようですね」
「本好きが、本を盗みますかね?」
「そういうタイプもいるってことよ。珍しい本だと思えば高価そうだし、店番の女は与し易そうなガキに見えるし、フラフラとお遣りになるのが病み付きになって、ダンダン面白くなって来るのでしょうね」
「良心がすり切れちゃってるんですね」
「ええ、とても人間業とは思えません。それくらい大胆、巧妙になっておいでになるんですから、お相手を仰せつけられたこちらは叶いませんよ」
そういってヴァルダさんは、一つ大きくため息をついた。
「しかし、ヴァルダさん。ずっとそのままという訳にもいかないでしょう? 一体どうなさるおつもりですか?」
「とりあえず、相手のやり口を知ろうと思って、店内のいたるところにカメラを付けて見たの。現場では分からなくても、後で記録を見てみると、手口から何からスッカリ分かっちゃうという訳ね」
「なるほど。それで説明が、真に迫っていた訳だ」
「そういうこと。最近では入口からノッソリ入ってくる時の態度を見ただけでも、あらかた見当が附いて来ました。『さてはオヤリ遊ばすな』とね」
そういって、ヴァルダさんは不敵に笑った。彼女は本を商うよりも、客あしらいの方を楽しんでるんじゃないかって思う時が時々あるのだ。
「面白いのはね。お金は払ってくれないんだけど、万引した本を持って帰って読んでしまってから、ソッと返しに来る人があるのです」
「ああ、それは少しわかる気がします。この頃の小説本と来たら、昔の連中が書いたのと違って、一度読んだら二度と読む気になれないものが多いですからね」
「いわゆる、ライトノベルとか言う奴かしら? 『タダでもいいから引き取ってくれ』と言う御仁が時々いらっしゃるので、そういうものは仕方なく特価品の棚に並べます。割合売れるから、不思議なものよね」
「安い娯楽ですからね」
「それとも、お宝だと思って持って帰って調べてみたら、大して珍しい本でもなかったとかかしら? 今日の貴方の『晩年』みたいに」
「泥棒の心理はよく分かりませんが、何も良心に背いてまで持ってくるほどのシロモノじゃなかったと、まあそういう事でしょう」
「無賃乗車で行って、改札の外に出ないまま、用を済ませて帰って来るようなものね。まったく、良心があるんだかないんだか……」
そういってヴァルダさんは、再びため息をついた。勿論、まったく返って来ないものもあり、そういう本は彼女の方でもちゃんと把握していて、帳面には付けているらしい。
「まあでも、余程の希少本でない限り、黙って知らん顔をしています。元値を考えたら、別に大したものでもないしね」
「客が来るたびに身構えて、棚の中味をいちいち調べるのも面倒ですしね」
「今日は偉く察しがいいじゃない。まあ、手癖が収まらないようなら、いつか動画を証拠に、正札の三倍を請求してやるつもりではいるけどね」
「流石はヴァルダさん。転んでもただは起きない」
「そりゃあ、こちらだって商売ですもの。そうして、中味が変っている本の前に立っておられた方々を、あの方、この方と思い出しているうちに、だんだんお人柄がわかって参りますから、不思議なものです」
ヴァルダさんはどうやら興が乗って来たらしい。最初は金まで払わせたというのに、今では僕に、自分の話を聞いて欲しくて仕方なさそうである。これだから僕は、この店に来るのがやめられないのだ。
「そういえばこの間、こんな事がありましたよ。これは又、シルレルに勝るとも劣らない、物凄い素敵な本でしたが……」
(続く)
「ああ……。少し、この辺の本を見せてもらうよ」
「どうぞ、ごゆっくり」
ヴァルダさんは、入ってきた男にそう声を掛けると、僕の方に振り返った。
「一体、どこまで話したかしら?」
「中村先生が、『マクベス』の企画書の英訳を三万円で買っていったところまでです」
「そうだったわね。まったく恐れ入ったわ。私のミスなんだから、そのまま三千円で買って行かれたって、別に文句はなかったんだけど」
「まあ、ゲーテの話にしたって、別にヴァルダさんが損をした訳じゃないですもんね」
彼女に引かれるのは嫌だから黙っていたが、僕は結構なアニメオタクだった。だがそんな書籍の存在は、僕でも知らない。中村と言う教授は中々のやり手の様だから、案外三万円でも買いの本だったのかもしれない。
「ええ。中村先生みたいなお方ばっかりだったら、この家業も苦労はしないのだけれど、中には性質の悪いお客もずいぶんいてね」
「丸ごと一冊、立読みとかですか?」
「そんなのは、しょっちゅうよ。ホント、最初から買う気のない人は、読むのが早いのね」
「そうなんですか?」
「ええ。店の本の上に腰をかけて、三十分ほどでおしまいまで読んじゃってから、私の処へ本を持って来て、『ねえ君。これ、千円に負からないのかい? 大して面白い本でもないぜ』なんて、顔負けしちゃいます。大きなお世話よね」
「あはは……。他にはどんな困った客が来るんですか?」
「文科の学生さんなんかは、試験前に良く来るわね」
「参考書を買いにですか?」
「買うわけないじゃない。あの棚の上の大英百科全書を抱えおろして、入り用のページをスマホで撮ってから、そのまま置きっ放しよ。まあ、それくらいなら笑って許せるんだけど、たまに頁を破って持っていく子がいるのね」
「それは酷い」
「でしょう? でも大学には、修身って科目はありませんからね。常識を知らない子は、そんなものなんでしょう。でも、もっとひどいのは、丸ごと一冊、本を持って行ってしまう人。つまり万引ね」
「そんな人いるんですか?」
「沢山いるわよ。しかも、その万引の手段ってのが、トリック付きなんですから感心しちゃうわ」
「トリックというと……。すり替えか何かですか?」
「ご明察。彼らは皆、普通には盗まないの」
そうヴァルダさんはいい、少し呆れたような顔をしてこう続けた。
「一冊か二冊、つまらない本を裸で抱えて、如何にも暇つぶしの学生らしい面構えで、飄然と入って来るのね。狙っている本はチャントきまっているのだけど、直ぐにその本の処へ行くようなヘマはしないの」
「なるほど。そこが、彼らの手なんでしょうね」
「その通りよ。書棚のあちこちを上から下まで丹念に見回し、時には一度見た場所に戻ったりなんかもしながら、狙った本へ近付いて行くのよ。そして、如何にも『偶然見つけた』といった恰好で、気安く中身を確認したりしているのね」
ヴァルダさんはここで一つ息を継いだ。
「そうなるとこっちだって、最初から疑っているんじゃありませんから、ツイ眼をそらしてしまうわよね。さも、つまらなさそうな顔をして、その本を棚に返すと思ったら、大間違いのあに計らんや。用意して来た本を、目当ての本とすり替えて、外箱は元の隙間へ戻してるって訳」
身振り手振りも交えたヴァルダさんの説明は、とても真に迫っていた。そこまで分かっているなら、いっそ出入り禁止にしてしまえばいいのに、何故そうしないのだろう?
「大胆不敵だなあ……」
「ええ。目当ての本をチャント小脇に挟みながら、『ロクな本が在りやがらねえ』とでも言いたげな顔つきで、堂々と店を出て行くんだから大した度胸だわ。ホント、考えたものよね」
「現場を直に押さえたのでなければ、呼び止めるのもなかなか難しいでしょうしねえ……」
「その通りよ。しかもこれは、一度や二度の話じゃないの。同じ人が、何度でもやっていくのよ」
ヴァルダさんは珍しく感情が高まってきたのか、少し声を荒げてこう続けた
「百歩譲ってお金のない学生さんなら、出世払いという事も考えない訳じゃないわ。だけど、これをやるのは学生さんばかりじゃないのよ。相当の月給を取っておいでになる立派な紳士の方でも、時々この手をおやりになるんです」
「へー」
「貴方の学校の先生なんか、こっちの方が本職なんじゃないかって言うレベルの達人が、数人おいでになるの。なかなか鮮やかな御手前なのよ」
「そいつは是非、名前を伺っておきたいですね。そのネタがあれば、単位と引き換えにユスれそうだ」
「それじゃ、私に何の得もないじゃない。勝手に留年でも何でもしなさいよ」
「ひどいなあ……」
素人にしてはどうにも手際が良すぎるし、だいいち、職業が職業だから、マサカと思ってつい油断してしまうのだと、ヴァルダさんは僕に愚痴をこぼす。
「それはそうでしょうね。ところで先生たちは、本当に代金は支払わないのですか?」
「というと?」
「お金に困っている訳ではないのなら、単にスリルを楽しんでいるとか、そういうお話かと思いまして」
「残念ながら違うわね。でもそういう方々は、大抵、本物の本好きに限るようですね」
「本好きが、本を盗みますかね?」
「そういうタイプもいるってことよ。珍しい本だと思えば高価そうだし、店番の女は与し易そうなガキに見えるし、フラフラとお遣りになるのが病み付きになって、ダンダン面白くなって来るのでしょうね」
「良心がすり切れちゃってるんですね」
「ええ、とても人間業とは思えません。それくらい大胆、巧妙になっておいでになるんですから、お相手を仰せつけられたこちらは叶いませんよ」
そういってヴァルダさんは、一つ大きくため息をついた。
「しかし、ヴァルダさん。ずっとそのままという訳にもいかないでしょう? 一体どうなさるおつもりですか?」
「とりあえず、相手のやり口を知ろうと思って、店内のいたるところにカメラを付けて見たの。現場では分からなくても、後で記録を見てみると、手口から何からスッカリ分かっちゃうという訳ね」
「なるほど。それで説明が、真に迫っていた訳だ」
「そういうこと。最近では入口からノッソリ入ってくる時の態度を見ただけでも、あらかた見当が附いて来ました。『さてはオヤリ遊ばすな』とね」
そういって、ヴァルダさんは不敵に笑った。彼女は本を商うよりも、客あしらいの方を楽しんでるんじゃないかって思う時が時々あるのだ。
「面白いのはね。お金は払ってくれないんだけど、万引した本を持って帰って読んでしまってから、ソッと返しに来る人があるのです」
「ああ、それは少しわかる気がします。この頃の小説本と来たら、昔の連中が書いたのと違って、一度読んだら二度と読む気になれないものが多いですからね」
「いわゆる、ライトノベルとか言う奴かしら? 『タダでもいいから引き取ってくれ』と言う御仁が時々いらっしゃるので、そういうものは仕方なく特価品の棚に並べます。割合売れるから、不思議なものよね」
「安い娯楽ですからね」
「それとも、お宝だと思って持って帰って調べてみたら、大して珍しい本でもなかったとかかしら? 今日の貴方の『晩年』みたいに」
「泥棒の心理はよく分かりませんが、何も良心に背いてまで持ってくるほどのシロモノじゃなかったと、まあそういう事でしょう」
「無賃乗車で行って、改札の外に出ないまま、用を済ませて帰って来るようなものね。まったく、良心があるんだかないんだか……」
そういってヴァルダさんは、再びため息をついた。勿論、まったく返って来ないものもあり、そういう本は彼女の方でもちゃんと把握していて、帳面には付けているらしい。
「まあでも、余程の希少本でない限り、黙って知らん顔をしています。元値を考えたら、別に大したものでもないしね」
「客が来るたびに身構えて、棚の中味をいちいち調べるのも面倒ですしね」
「今日は偉く察しがいいじゃない。まあ、手癖が収まらないようなら、いつか動画を証拠に、正札の三倍を請求してやるつもりではいるけどね」
「流石はヴァルダさん。転んでもただは起きない」
「そりゃあ、こちらだって商売ですもの。そうして、中味が変っている本の前に立っておられた方々を、あの方、この方と思い出しているうちに、だんだんお人柄がわかって参りますから、不思議なものです」
ヴァルダさんはどうやら興が乗って来たらしい。最初は金まで払わせたというのに、今では僕に、自分の話を聞いて欲しくて仕方なさそうである。これだから僕は、この店に来るのがやめられないのだ。
「そういえばこの間、こんな事がありましたよ。これは又、シルレルに勝るとも劣らない、物凄い素敵な本でしたが……」
(続く)
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