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4 羅生門
4-3 呪いの谷
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君を見捨てて かへるべしとは」
聞いたような歌だと思った。
平安の昔、十五で夭折した近衛天皇の死を悼んだ歌だ。
一益が忠三郎の背後に近づいていくと、傍にいた町野長門守が気づいて頭を下げる。
「前々から、聞きたいと思うていたことじゃが…」
四方から虫の声が聞こえてくる。
「そなたはここでわしに会う前から、毎年欠かさず、すみれの墓に花を手向けてくれていた。何故、そのようなことをしていた?」
重丸の墓に別人が埋葬されている話を聞いた時から、不思議に思っていた。
忠三郎は振り返り、ああ、と笑って、
「毎年ここに…女人の死を悼む方が参られていることは分かっておりましたゆえ」
忠三郎は言葉を区切り、少し恥ずかしそうに笑って、
「人の命がたやすく捨てられるこの乱世においても、母を失った悲しみは計り知れず、同じように誰かを失って、悲しんでいるお方が毎年ここに来ているのであれば…誰かが一人、ここで悲しんでいるのであれば…共にいたいと、そう思うて」
あの心優しい貴人の子らしいと、そう思った。
「それは誰であってもよかったが…。誰なのか、知りたくもありました。よもや義兄上だったとは。まことに人の縁とは不思議なもの」
何年もずっと、一益と同じようなことを思ってここに来ていた、という。
「母上が、義兄上に会わせて下された。ここで会うたのが義兄上でよかった」
忠三郎が何故そう思っているのか、分からない。
だが、忠三郎は毎年人知れず、ここにきて、すみれの死を悼む一益の悲しみに近づこうとしていた。
(それが本来のそなたの姿か)
悲しむ者と共にいて、共に悲しみたいと思う姿が本当の忠三郎の姿なのだ。
(ロレンソが、似たようなことを言うておったな)
岐阜城で再会したとき、ロレンソが去り際に言った言葉が思い起こされた。
『喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け』
ロレンソのいうことは、こういうことなのだろうか。
「鶴、そのような顔をして一人で抱えるな」
「義兄上…」
忠三郎が何を考えてここにしゃがみ込んでいたのか、顔を見て分かった。
甲賀を出たあの日。己の無力さに泣いたあの日を思い起こされる。
(では、此度は、わしを、そなたの悲しみに近づかせてくれ。口に出せないその悲しみに…)
一益は忠三郎の肩を掴み、
「そなたの痛みは、ようわかっておる
忠三郎が黙って一益をみて、唇をかみしめ、頷く。
「しばし、この場で月を楽しむとしよう」
一益が月を見上げる。今年も夜空に眩しく浮かび上がっている。
「今宵も月は変わらず美しい。今年も、晴れていてよかった」
月を見上げて忠三郎が笑った。
忠三郎が中野城に戻ると、合戦勝利の宴が終わり、家臣たちがそれぞれの屋敷に帰った後だった。
「皆、喜んで帰ったのであれば、よしとするか」
広間の宴会の跡を横目で見て、居間に戻ると御膳番の河北新介が折敷を持って現れた。
「若殿が祝宴におられぬ故、皆、早々屋敷に帰りまして」
忠三郎は笑って、
「喉が渇いた。先に水を…」
と河北新介から茶碗を受け取り、水を飲み干す。
河北新介は忠三郎よりも少し年上。御膳番なので朝晩顔をあわせている。
「若殿。そのように見られては食べにくく…」
河北新介が箸を止める。
「よいよい。兎も角、早う食べてくれ。腹が減って目が回る」
「ハッ。では、お毒味仕る」
忠三郎はジッと河北新介を観察する。
「ちと待て。毒味にしては、その一口は多いのではないか?わしの分がのうなる」
「何を仰せで。このくらいが程よい量かと。…ん。今日もたいへんよい飯の炊き加減でござりまする」
いかにも美味そうに食べるので、忠三郎はたまりかねて、
「もうよい。早うこちらへ」
「あぁ、はい。では…」
折敷を掴もうとしたとき、ふいに、ウッと唸った。
「何じゃ、そのような戯れはいらぬ。早う飯を…」
言いかけて、ギョッとした。河北新介がふいに食べたものを吐き出し、胸元を掻きむしりだした。
「如何いたした、新介!」
慌てて駆け寄るが、河北新介が真っ青になってその場に倒れる。
「誰か、誰かおるか!」
大声で人を呼ぶと、ただならぬ様子を聞きつけた家人が飛んできた。
「何事…これは!」
「毒を盛られた。薬師を呼べ」
家臣たちが現れて、河北新介を運んでいく。
(またか…)
何度となく繰り返されてきた光景だった。ここ数年なかったのと、重丸が葬られたことで、もうないだろうと思っていた。
(助からないだろう)
ああやって運ばれていった家来が、元気な姿を現したことは一度もない。怒りのせいか、空腹のせいか、目に映る床板がゆらゆらと揺らいで見えた。
(膳番が身代わりになるだけだと分かっている筈なのに、何故、こんなことを…)
悔しさで拳を握りしめ、床を何度も殴った。そこへ滝川助太郎が現れた。
「忠三郎様。殿から知らせが参りました。急ぎ手勢を引き連れ、音羽城へ向かってくだされ」
(またか…)
何度となく繰り返されてきた光景だった。ここ数年なかったのと、重丸が葬られたことで、もうないだろうと思っていた。
(助からないだろう)
ああやって運ばれていった家来が、元気な姿を現したことは一度もない。怒りのせいか、空腹のせいか、目に映る床板がゆらゆらと揺らいで見えた。
(膳番が身代わりになるだけだと分かっている筈なのに、何故、こんなことを…)
悔しさで拳を握りしめ、床を何度も殴った。そこへ滝川助太郎が現れた。
「忠三郎様。殿から知らせが参りました。急ぎ手勢を引き連れ、音羽城へ向かってくだされ」
「音羽城?何故に?」
「道々お話いたしましょう。さ、早う」
助太郎にせかされ、忠三郎は訳も分からず、おぼつかない足取りで、刀を掴んだ。
時は信楽院で忠三郎と別れたところまで戻る。
「城では戦勝祝いの祝宴中。義兄上もお来しくだされ」
と忠三郎に誘われたが、
「いや。ちと用がある」
誘いを断り、義太夫、木全彦一郎をはじめ、主だった甲賀衆を連れて向かった先は音羽城だった。
音羽城近くまでいくと、滝川助九郎と藤九郎が草むらから現れた。
「杉浦衆はおるか?」
「はい。殿の読み通りでござります」
「やはりそうか」
忠三郎が一度、音羽城に籠る杉浦衆と対峙している。二度目はないと考え、戻ってくるだろうと網を張っていたが、案の定、戻っていた。
「揃っておるか?」
「いえ。まだ…四・五人といったところで。三九郎様も戻ってはおりませぬ」
しばらく物陰に隠れて様子を窺っていると、小半刻して、十人ほどの人影が音羽城に入っていくのが見えた。
「あれが全てでは?」
「多いな…。仕掛けても何名か、取り逃がすじゃろう」
仕方がなく、助太郎に知らせて忠三郎を呼ぶことにした。
「此度は一人も逃すわけにはいかぬ。取り囲んで、捕えられる者は捕えよ。逃げられるようであれば討ち取れ」
やがて忠三郎が手勢を率いて現れた。
「義兄上、音羽城に杉浦衆が?」
「そなたは手勢を連れ城門から行け。我らは鎌掛谷から間道を通って城内に入る」
忠三郎にそう告げると、助太郎に案内を頼み、鎌掛谷を目指した。
「殿。こちらへ」
鎌掛谷まで来ると、助太郎が間道に続く道を先へと進む。
「この辺りは…妙じゃな」
一益が振り返って言うと、義太夫が頷き、
「妙でござりますな。この辺りは何と申したかな?」
助太郎に問う。
「土地の者どもは藪岨と呼んでいたような…」
それを聞いて納得した。今より昔、日野に限らず、風葬していた場所をそう呼んでいたはずだ。
「この先は土地の者に地獄谷と呼ばれております」
いかにもいわくありげで、一益は苦笑する。
「鶴は…呪われた地と教えられたと、そう申しておったな?」
「はい。重丸がそう言うたと」
その地獄谷まで来て、一益と義太夫は顔を見合わせた。
あたり一面、石楠花が群生している。石楠花は高山植物で、通常、鎌掛谷のような標高の低い場所には生えない。誰かが意図的に石楠花を植えたと考える方が自然だ。
「皆、うかつに触れるな」
触れた程度では問題ないだろうが、煎じて飲むのは危険だ。
それにしても多い。数年ではここまで広がらないだろう。もっと長い時間をかけて育てたと考えられる。
「昔、ここで快幹の従兄が謀殺されたとか申しておったな。死因は?」
助太郎が、アッと声をあげ、
「確か、毒殺とか…」
一益は笑いが止まらなくなった。
(あの快幹が隠居生活で菜花を育てているなどと妙な話だと思えば、こういうことか)
日野から送られてきた桜漬を見たときから、不思議に思っていたことだ。
「殿。この木は馬酔木でござりますぞ」
義太夫が感心したように言う。馬酔木は葉を食べた馬が酔ったかのようにフラフラになったことから名付けられたとも伝わる。
「河内附子もあろう」
「ござります」
河内附子の毒は古の昔、日本武尊をも倒したと伝わる。
忠三郎の高祖父、蒲生貞秀は里人が恐れて近寄らないこの谷で、密かに毒草を育て、人の目を欺くために偶然見つけた日野菜の栽培を始めたのだろう。
(それを何代にも渡り、平然と帝に献上していたと)
蒲生家では代々、密かに鎌掛谷で毒草を栽培してきた。知っている者は家中でも限られた者だった筈だ。
(それゆえに、日野菜は代々、当主が育てていたのか)
と考えると、甲賀の毒薬作りは百年以上前に蒲生家から伝わったものなのだろうか。
(もしくは甲賀から蒲生家に…)
いずれにせよ、蒲生家でも、甲賀でも、長きに渡り、毒薬が作られてきている。
快幹は蒲生秀紀を毒殺したときに、鎌掛谷に通じる音羽城を破却したかに見せて毒薬の秘密を守ろうとした。
ところが重丸を音羽城に隠さなければならなくなった。そこで、子供たちを近寄らせないために、鎌掛谷は呪われていると、そう教えた。
「にしても、近寄るなと言われて、近寄らないような小童とも思えませぬが…」
普段から忠三郎に手を焼いている義太夫が言う。
「むしろ、近寄るのでは?」
助太郎が言うと、並みいる者がみな頷くので、一益は苦笑した。
重丸も、忠三郎も、何度も谷に足を踏み入れているだろう。重丸は手裏剣に塗られた毒で命を落とさなかった。幼い頃から鎌掛谷に来ていたために毒に耐性ができていたのだとしたら合点がいく。
(分かっていた筈。鎌掛谷に隠された先祖からの秘事を…)
忠三郎が過剰に毒殺を恐れるのは、今も蒲生家で密かに毒薬を作っているのを知っているからだ。
そして、今なお、快幹が忠三郎に鎌掛谷の呪いをちらつかせるのは
(脅しているのか。余計なことをするなと)
それらが分かっていても尚、忠三郎が快幹を野放しにしている理由は何だろう。
「前に鶴が、珍しく顔色変えて怒ったことがあったな」
「確かに。殿が、蒲生の家を調べたと仰せになり、鶴が、何を知ったのかと執拗に殿に迫り…」
一益が腹立ちまぎれに忠三郎の襟首を掴んで持ち上げたのだ。
(つまらぬことをしたな。あのまま鶴に喋らせておけば、何か言うていたかもしれぬ)
忠三郎には、一益が思っていた以上に隠したいことがあったということだ。
(いや、まだある。何かが…)
おかしなことはまだあった筈だ。
「もうないか?見慣れぬ草は?」
「こう暗くては、分かりませぬ」
何か見落としていることがある。これまででふと違和感をもったことが。
「殿。間道出口があれに」
「よし。杉谷衆を逃すな。みな、捕えよ」
間道から音羽城に侵入すると、ふいをつかれた杉谷衆があわてた様子で斬りかかってきた。
一益も自ら刀を取り、一人ずつ倒していく。
少し遅れて城門から入った蒲生勢が押し寄せてきた。
「将監様!」
町野長門守が慌てた様子で馬を走らせてくる。
「遅い!鶴は?」
「それが…おかしな様子で」
「おかしな様子?」
「実はここに来る直前、毒を盛られ、膳番が倒れておりまする」
「毒を盛られた?」
町野長門守とともに忠三郎の元へ行ってみると、確かに様子がおかしい。うつろな目をして、今にも馬から落ちそうになっている。
「鶴、しっかりいたせ。何を食した?」
「いえ。若殿は何も召し上がってはおられぬ筈にて…」
町野長門守が言うと、忠三郎が気づいて、
「水を飲み…」
「全て吐き出しておろうな?」
忠三郎が力なく頷く。
「馬から降ろして寝かせよ。動くと毒が回る」
妙だなと首を傾げた。毒を摂取したにしては、苦しむ様子がない。
「理兵衛…誰か、篠山理兵衛を呼べ」
毒薬のことなら甲賀では篠山理兵衛が一番詳しい。
篠山理兵衛を呼びに行かせて、改めて忠三郎を見ると、手の甲の皮膚が割け、血がにじんでいる。
「これは?」
町野長門守を見て言うと、
「それが…床を殴ったと…」
普段の忠三郎では考えられない。
「理兵衛はまだか!」
こんなことなら誘いを断らなければよかった、と臍を噛み、イライラと辺りを見回すと、理兵衛が助太郎に伴われて現れた。
「フム、今、どのような様子じゃ?」
理兵衛が忠三郎の顔を覗き込む。忠三郎はぼんやりと瞼を閉じて、
「極楽が…近いような…」
一益がギョッとして忠三郎を揺さぶる。
「鶴!しっかりいたせ!」
理兵衛は笑いながら、
「ふわりとしておるのじゃろう。吐いたなら大事ない。水を大量に飲ませ、少し寝かせておけ」
「然様か…この毒は何の毒じゃ。見たこともないが」
「源氏の治世に、唐より道元禅師が持ち帰った罌粟(ケシ)じゃろう。腹下り薬にも使われる。少量ならさして大事には至るまい」
「腹下り薬…」
一益が胸をなでおろした。みると、もう忠三郎が意識を失っている。
「快幹も大したものじゃ。どこから罌粟を手に入れたのやら」
理兵衛が感心して言う。
「その腹下り薬で膳奉行が死にかけているそうな」
「膳奉行だけか?」
理兵衛が奥歯にものが挟まったような言い方をする。
「他にもおる筈…と?」
「分からぬ。じゃが罌粟まで育てているとなると、相当手の込んだことをしておるやもしれぬな」
「はっきり申せ」
「いい加減、小童に口を割らせよ。直に目覚めようほどに」
忠三郎は必死に隠している。問い詰めれば何か言うかもしれないが、気が進まない。
(また義太夫を使うか…)
と考えていると、理兵衛が見透かしたように言った。
「左近。そなた、言いにくいことは全て義太夫に言わせておろう」
一益はちらりと理兵衛を見る。
「三九郎のことも、小童のことも、義太夫では荷が重い。だいたい、この面倒な小童は、のらりくらりと交わすばかりで、そなた以外の者には言わぬじゃろう」
そうなのかもしれない。普段から、一益よりも人当たりのいい義太夫に頼りがちな上、童の相手は苦手だ。
「わかった…此度はわしが話そう」
やるべきことは分かっている。ただ気が重い。
「わしはもう少し、罌粟のことを調べておこう」
心にかかることがあるのだろう。理兵衛が立ち上がると、一益も致し方ないと言う顔で忠三郎を見た。
忠三郎を音羽城一室に寝かせ、一益は粗末な板張りの床に座り、一子三九郎と対面している。
城主の蒲生秀紀が開城して以来、ほとんど手入れされることもなく、荒れるに任せた状態で、杉谷衆が隠れ蓑にするには最適な場所だったともいえる。
三九郎は縄を解かれ、やや緊張した面持ちで座っている。
「杉谷衆は皆、捕えておる」
一益が短くそう言うと、三九郎は一益を睨み、
「信長を撃ったのはわしじゃ。かくなる上は、腹を仕るべし」
三九郎が覚悟を決めたように言うと、一益はそれを嘲笑った。
「たわけたことを申すな。上様は生きて捕えよと仰せじゃ」
義太夫はハラハラしながら見守っている。
「そなたは、どのような恐ろしい方法で処刑されるか、分かっておるのか」
と見下したように言い捨てた。
三九郎は信長の恐さを全くわかっていない。だからこそ狙撃しようなどと考えたのだろう。
(浅はかな…)
一益は怒りがこみあげてくるのを抑えて、三九郎を見る。
その怒りが伝わったかのように、三九郎が一益を睨み、
「黙れ、第六天魔王の手先め!仏敵信長なぞ、恐ろしゅうない!」
虚勢を張っているが分かる。一益はイライラと立ち上がり、
「義太夫、教えてやれ」
とだけ言って、出て行ってしまった。
義太夫は三九郎の傍に座り、にこやかに話しかける。
「上様のお命を狙うたなどとは、ゆめゆめ申されますな。下手人は杉谷家のあの坊主でござりまする」
「善住坊のことか?何を申すか、信長を狙うたは…」
「三九郎様。殿は脅しでああいわれたのではありませぬ。上様のお命を狙うたとあれば、胴切、生つり胴などであればまだ手ぬるいほど。牛裂き、鋸引きあたりが妥当かと」
「善住坊に罪を着せると?」
「杉谷衆はあの坊主以外は皆、始末いたしました。坊主は身動きできぬようにして阿弥陀寺に置き捨てて参りましたゆえ、明日には奉行が向かいましょう」
すでに付近の大溝城主、磯野丹波守に知らせを送っている。
「坊主の処刑が終わり次第、三九郎様を解き放てとの殿の仰せにて、数日お待ちくだされ」
三九郎は色を失い、義太夫の顔を見る。義太夫は涼しい顔だ。
「したが、善住坊が奉行に責め上げらるれば、わしの名を出すじゃろう」
「それは…」
もちろん、何もせずに寺に置いてきたわけではない。
「ご安堵なされませ。坊主はいかような責め苦を受けても、喋ることなどできぬ体にて」
女のような顔をした義太夫が平然とそう言ったので、三九郎はゾッとした。
「恐ろしい…滝川左近はやはり恐ろしい…」
「そう申されますが、殿にその恐ろしいことをさせたは三九郎様では?」
義太夫が再び笑う。
「この先、三九郎様がまた同じようなことをされれば、三九郎様の周りの者が恐ろしい目に合うと思うていただければよいかと」
三九郎は気分が悪くなり、義太夫から目を反らした。
「滝川の者どもに関わっていると、気分が悪うなるわ」
吐き捨てるようにそう言った。
「では、わしの元へ参れ」
ふいに声がして、義太夫と三九郎が顔をあげる。忠三郎が常の笑顔で立っている。
「聞いておった。わしは蒲生忠三郎じゃ。三九郎、甲賀に戻る気がないのであれば、我が城へ参れ」
「鶴…。目が覚めたか。大事ないか」
「おぉ。義兄上のおかげで、元通りよ」
手当したのは一益ではなく篠山理兵衛で、それも、水を飲ませただけだったが。
「異存はなかろう、三九郎。日野の水はうまいぞ。わしは滝川左近の義弟ゆえ、いうなればそなたの叔父じゃ。助太郎もおる。義兄上にはわしから話しておく」
と捲し立ててくる。この強引なところが誰かを思い出させた。
(風花殿…)
敵地にあっても堂々とした佇まいで三九郎を圧倒していた風花を思わせる。
「それにしても空腹じゃ。義太夫、何かないか?」
忠三郎が腹を押さえてそう言うと、義太夫が苦笑して懐から干餅を取り出した。
磯野丹波守によって捕えられた杉谷善住坊が岐阜に送られ、鋸引きの刑に処されたのは翌月のことだった。
聞いたような歌だと思った。
平安の昔、十五で夭折した近衛天皇の死を悼んだ歌だ。
一益が忠三郎の背後に近づいていくと、傍にいた町野長門守が気づいて頭を下げる。
「前々から、聞きたいと思うていたことじゃが…」
四方から虫の声が聞こえてくる。
「そなたはここでわしに会う前から、毎年欠かさず、すみれの墓に花を手向けてくれていた。何故、そのようなことをしていた?」
重丸の墓に別人が埋葬されている話を聞いた時から、不思議に思っていた。
忠三郎は振り返り、ああ、と笑って、
「毎年ここに…女人の死を悼む方が参られていることは分かっておりましたゆえ」
忠三郎は言葉を区切り、少し恥ずかしそうに笑って、
「人の命がたやすく捨てられるこの乱世においても、母を失った悲しみは計り知れず、同じように誰かを失って、悲しんでいるお方が毎年ここに来ているのであれば…誰かが一人、ここで悲しんでいるのであれば…共にいたいと、そう思うて」
あの心優しい貴人の子らしいと、そう思った。
「それは誰であってもよかったが…。誰なのか、知りたくもありました。よもや義兄上だったとは。まことに人の縁とは不思議なもの」
何年もずっと、一益と同じようなことを思ってここに来ていた、という。
「母上が、義兄上に会わせて下された。ここで会うたのが義兄上でよかった」
忠三郎が何故そう思っているのか、分からない。
だが、忠三郎は毎年人知れず、ここにきて、すみれの死を悼む一益の悲しみに近づこうとしていた。
(それが本来のそなたの姿か)
悲しむ者と共にいて、共に悲しみたいと思う姿が本当の忠三郎の姿なのだ。
(ロレンソが、似たようなことを言うておったな)
岐阜城で再会したとき、ロレンソが去り際に言った言葉が思い起こされた。
『喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け』
ロレンソのいうことは、こういうことなのだろうか。
「鶴、そのような顔をして一人で抱えるな」
「義兄上…」
忠三郎が何を考えてここにしゃがみ込んでいたのか、顔を見て分かった。
甲賀を出たあの日。己の無力さに泣いたあの日を思い起こされる。
(では、此度は、わしを、そなたの悲しみに近づかせてくれ。口に出せないその悲しみに…)
一益は忠三郎の肩を掴み、
「そなたの痛みは、ようわかっておる
忠三郎が黙って一益をみて、唇をかみしめ、頷く。
「しばし、この場で月を楽しむとしよう」
一益が月を見上げる。今年も夜空に眩しく浮かび上がっている。
「今宵も月は変わらず美しい。今年も、晴れていてよかった」
月を見上げて忠三郎が笑った。
忠三郎が中野城に戻ると、合戦勝利の宴が終わり、家臣たちがそれぞれの屋敷に帰った後だった。
「皆、喜んで帰ったのであれば、よしとするか」
広間の宴会の跡を横目で見て、居間に戻ると御膳番の河北新介が折敷を持って現れた。
「若殿が祝宴におられぬ故、皆、早々屋敷に帰りまして」
忠三郎は笑って、
「喉が渇いた。先に水を…」
と河北新介から茶碗を受け取り、水を飲み干す。
河北新介は忠三郎よりも少し年上。御膳番なので朝晩顔をあわせている。
「若殿。そのように見られては食べにくく…」
河北新介が箸を止める。
「よいよい。兎も角、早う食べてくれ。腹が減って目が回る」
「ハッ。では、お毒味仕る」
忠三郎はジッと河北新介を観察する。
「ちと待て。毒味にしては、その一口は多いのではないか?わしの分がのうなる」
「何を仰せで。このくらいが程よい量かと。…ん。今日もたいへんよい飯の炊き加減でござりまする」
いかにも美味そうに食べるので、忠三郎はたまりかねて、
「もうよい。早うこちらへ」
「あぁ、はい。では…」
折敷を掴もうとしたとき、ふいに、ウッと唸った。
「何じゃ、そのような戯れはいらぬ。早う飯を…」
言いかけて、ギョッとした。河北新介がふいに食べたものを吐き出し、胸元を掻きむしりだした。
「如何いたした、新介!」
慌てて駆け寄るが、河北新介が真っ青になってその場に倒れる。
「誰か、誰かおるか!」
大声で人を呼ぶと、ただならぬ様子を聞きつけた家人が飛んできた。
「何事…これは!」
「毒を盛られた。薬師を呼べ」
家臣たちが現れて、河北新介を運んでいく。
(またか…)
何度となく繰り返されてきた光景だった。ここ数年なかったのと、重丸が葬られたことで、もうないだろうと思っていた。
(助からないだろう)
ああやって運ばれていった家来が、元気な姿を現したことは一度もない。怒りのせいか、空腹のせいか、目に映る床板がゆらゆらと揺らいで見えた。
(膳番が身代わりになるだけだと分かっている筈なのに、何故、こんなことを…)
悔しさで拳を握りしめ、床を何度も殴った。そこへ滝川助太郎が現れた。
「忠三郎様。殿から知らせが参りました。急ぎ手勢を引き連れ、音羽城へ向かってくだされ」
(またか…)
何度となく繰り返されてきた光景だった。ここ数年なかったのと、重丸が葬られたことで、もうないだろうと思っていた。
(助からないだろう)
ああやって運ばれていった家来が、元気な姿を現したことは一度もない。怒りのせいか、空腹のせいか、目に映る床板がゆらゆらと揺らいで見えた。
(膳番が身代わりになるだけだと分かっている筈なのに、何故、こんなことを…)
悔しさで拳を握りしめ、床を何度も殴った。そこへ滝川助太郎が現れた。
「忠三郎様。殿から知らせが参りました。急ぎ手勢を引き連れ、音羽城へ向かってくだされ」
「音羽城?何故に?」
「道々お話いたしましょう。さ、早う」
助太郎にせかされ、忠三郎は訳も分からず、おぼつかない足取りで、刀を掴んだ。
時は信楽院で忠三郎と別れたところまで戻る。
「城では戦勝祝いの祝宴中。義兄上もお来しくだされ」
と忠三郎に誘われたが、
「いや。ちと用がある」
誘いを断り、義太夫、木全彦一郎をはじめ、主だった甲賀衆を連れて向かった先は音羽城だった。
音羽城近くまでいくと、滝川助九郎と藤九郎が草むらから現れた。
「杉浦衆はおるか?」
「はい。殿の読み通りでござります」
「やはりそうか」
忠三郎が一度、音羽城に籠る杉浦衆と対峙している。二度目はないと考え、戻ってくるだろうと網を張っていたが、案の定、戻っていた。
「揃っておるか?」
「いえ。まだ…四・五人といったところで。三九郎様も戻ってはおりませぬ」
しばらく物陰に隠れて様子を窺っていると、小半刻して、十人ほどの人影が音羽城に入っていくのが見えた。
「あれが全てでは?」
「多いな…。仕掛けても何名か、取り逃がすじゃろう」
仕方がなく、助太郎に知らせて忠三郎を呼ぶことにした。
「此度は一人も逃すわけにはいかぬ。取り囲んで、捕えられる者は捕えよ。逃げられるようであれば討ち取れ」
やがて忠三郎が手勢を率いて現れた。
「義兄上、音羽城に杉浦衆が?」
「そなたは手勢を連れ城門から行け。我らは鎌掛谷から間道を通って城内に入る」
忠三郎にそう告げると、助太郎に案内を頼み、鎌掛谷を目指した。
「殿。こちらへ」
鎌掛谷まで来ると、助太郎が間道に続く道を先へと進む。
「この辺りは…妙じゃな」
一益が振り返って言うと、義太夫が頷き、
「妙でござりますな。この辺りは何と申したかな?」
助太郎に問う。
「土地の者どもは藪岨と呼んでいたような…」
それを聞いて納得した。今より昔、日野に限らず、風葬していた場所をそう呼んでいたはずだ。
「この先は土地の者に地獄谷と呼ばれております」
いかにもいわくありげで、一益は苦笑する。
「鶴は…呪われた地と教えられたと、そう申しておったな?」
「はい。重丸がそう言うたと」
その地獄谷まで来て、一益と義太夫は顔を見合わせた。
あたり一面、石楠花が群生している。石楠花は高山植物で、通常、鎌掛谷のような標高の低い場所には生えない。誰かが意図的に石楠花を植えたと考える方が自然だ。
「皆、うかつに触れるな」
触れた程度では問題ないだろうが、煎じて飲むのは危険だ。
それにしても多い。数年ではここまで広がらないだろう。もっと長い時間をかけて育てたと考えられる。
「昔、ここで快幹の従兄が謀殺されたとか申しておったな。死因は?」
助太郎が、アッと声をあげ、
「確か、毒殺とか…」
一益は笑いが止まらなくなった。
(あの快幹が隠居生活で菜花を育てているなどと妙な話だと思えば、こういうことか)
日野から送られてきた桜漬を見たときから、不思議に思っていたことだ。
「殿。この木は馬酔木でござりますぞ」
義太夫が感心したように言う。馬酔木は葉を食べた馬が酔ったかのようにフラフラになったことから名付けられたとも伝わる。
「河内附子もあろう」
「ござります」
河内附子の毒は古の昔、日本武尊をも倒したと伝わる。
忠三郎の高祖父、蒲生貞秀は里人が恐れて近寄らないこの谷で、密かに毒草を育て、人の目を欺くために偶然見つけた日野菜の栽培を始めたのだろう。
(それを何代にも渡り、平然と帝に献上していたと)
蒲生家では代々、密かに鎌掛谷で毒草を栽培してきた。知っている者は家中でも限られた者だった筈だ。
(それゆえに、日野菜は代々、当主が育てていたのか)
と考えると、甲賀の毒薬作りは百年以上前に蒲生家から伝わったものなのだろうか。
(もしくは甲賀から蒲生家に…)
いずれにせよ、蒲生家でも、甲賀でも、長きに渡り、毒薬が作られてきている。
快幹は蒲生秀紀を毒殺したときに、鎌掛谷に通じる音羽城を破却したかに見せて毒薬の秘密を守ろうとした。
ところが重丸を音羽城に隠さなければならなくなった。そこで、子供たちを近寄らせないために、鎌掛谷は呪われていると、そう教えた。
「にしても、近寄るなと言われて、近寄らないような小童とも思えませぬが…」
普段から忠三郎に手を焼いている義太夫が言う。
「むしろ、近寄るのでは?」
助太郎が言うと、並みいる者がみな頷くので、一益は苦笑した。
重丸も、忠三郎も、何度も谷に足を踏み入れているだろう。重丸は手裏剣に塗られた毒で命を落とさなかった。幼い頃から鎌掛谷に来ていたために毒に耐性ができていたのだとしたら合点がいく。
(分かっていた筈。鎌掛谷に隠された先祖からの秘事を…)
忠三郎が過剰に毒殺を恐れるのは、今も蒲生家で密かに毒薬を作っているのを知っているからだ。
そして、今なお、快幹が忠三郎に鎌掛谷の呪いをちらつかせるのは
(脅しているのか。余計なことをするなと)
それらが分かっていても尚、忠三郎が快幹を野放しにしている理由は何だろう。
「前に鶴が、珍しく顔色変えて怒ったことがあったな」
「確かに。殿が、蒲生の家を調べたと仰せになり、鶴が、何を知ったのかと執拗に殿に迫り…」
一益が腹立ちまぎれに忠三郎の襟首を掴んで持ち上げたのだ。
(つまらぬことをしたな。あのまま鶴に喋らせておけば、何か言うていたかもしれぬ)
忠三郎には、一益が思っていた以上に隠したいことがあったということだ。
(いや、まだある。何かが…)
おかしなことはまだあった筈だ。
「もうないか?見慣れぬ草は?」
「こう暗くては、分かりませぬ」
何か見落としていることがある。これまででふと違和感をもったことが。
「殿。間道出口があれに」
「よし。杉谷衆を逃すな。みな、捕えよ」
間道から音羽城に侵入すると、ふいをつかれた杉谷衆があわてた様子で斬りかかってきた。
一益も自ら刀を取り、一人ずつ倒していく。
少し遅れて城門から入った蒲生勢が押し寄せてきた。
「将監様!」
町野長門守が慌てた様子で馬を走らせてくる。
「遅い!鶴は?」
「それが…おかしな様子で」
「おかしな様子?」
「実はここに来る直前、毒を盛られ、膳番が倒れておりまする」
「毒を盛られた?」
町野長門守とともに忠三郎の元へ行ってみると、確かに様子がおかしい。うつろな目をして、今にも馬から落ちそうになっている。
「鶴、しっかりいたせ。何を食した?」
「いえ。若殿は何も召し上がってはおられぬ筈にて…」
町野長門守が言うと、忠三郎が気づいて、
「水を飲み…」
「全て吐き出しておろうな?」
忠三郎が力なく頷く。
「馬から降ろして寝かせよ。動くと毒が回る」
妙だなと首を傾げた。毒を摂取したにしては、苦しむ様子がない。
「理兵衛…誰か、篠山理兵衛を呼べ」
毒薬のことなら甲賀では篠山理兵衛が一番詳しい。
篠山理兵衛を呼びに行かせて、改めて忠三郎を見ると、手の甲の皮膚が割け、血がにじんでいる。
「これは?」
町野長門守を見て言うと、
「それが…床を殴ったと…」
普段の忠三郎では考えられない。
「理兵衛はまだか!」
こんなことなら誘いを断らなければよかった、と臍を噛み、イライラと辺りを見回すと、理兵衛が助太郎に伴われて現れた。
「フム、今、どのような様子じゃ?」
理兵衛が忠三郎の顔を覗き込む。忠三郎はぼんやりと瞼を閉じて、
「極楽が…近いような…」
一益がギョッとして忠三郎を揺さぶる。
「鶴!しっかりいたせ!」
理兵衛は笑いながら、
「ふわりとしておるのじゃろう。吐いたなら大事ない。水を大量に飲ませ、少し寝かせておけ」
「然様か…この毒は何の毒じゃ。見たこともないが」
「源氏の治世に、唐より道元禅師が持ち帰った罌粟(ケシ)じゃろう。腹下り薬にも使われる。少量ならさして大事には至るまい」
「腹下り薬…」
一益が胸をなでおろした。みると、もう忠三郎が意識を失っている。
「快幹も大したものじゃ。どこから罌粟を手に入れたのやら」
理兵衛が感心して言う。
「その腹下り薬で膳奉行が死にかけているそうな」
「膳奉行だけか?」
理兵衛が奥歯にものが挟まったような言い方をする。
「他にもおる筈…と?」
「分からぬ。じゃが罌粟まで育てているとなると、相当手の込んだことをしておるやもしれぬな」
「はっきり申せ」
「いい加減、小童に口を割らせよ。直に目覚めようほどに」
忠三郎は必死に隠している。問い詰めれば何か言うかもしれないが、気が進まない。
(また義太夫を使うか…)
と考えていると、理兵衛が見透かしたように言った。
「左近。そなた、言いにくいことは全て義太夫に言わせておろう」
一益はちらりと理兵衛を見る。
「三九郎のことも、小童のことも、義太夫では荷が重い。だいたい、この面倒な小童は、のらりくらりと交わすばかりで、そなた以外の者には言わぬじゃろう」
そうなのかもしれない。普段から、一益よりも人当たりのいい義太夫に頼りがちな上、童の相手は苦手だ。
「わかった…此度はわしが話そう」
やるべきことは分かっている。ただ気が重い。
「わしはもう少し、罌粟のことを調べておこう」
心にかかることがあるのだろう。理兵衛が立ち上がると、一益も致し方ないと言う顔で忠三郎を見た。
忠三郎を音羽城一室に寝かせ、一益は粗末な板張りの床に座り、一子三九郎と対面している。
城主の蒲生秀紀が開城して以来、ほとんど手入れされることもなく、荒れるに任せた状態で、杉谷衆が隠れ蓑にするには最適な場所だったともいえる。
三九郎は縄を解かれ、やや緊張した面持ちで座っている。
「杉谷衆は皆、捕えておる」
一益が短くそう言うと、三九郎は一益を睨み、
「信長を撃ったのはわしじゃ。かくなる上は、腹を仕るべし」
三九郎が覚悟を決めたように言うと、一益はそれを嘲笑った。
「たわけたことを申すな。上様は生きて捕えよと仰せじゃ」
義太夫はハラハラしながら見守っている。
「そなたは、どのような恐ろしい方法で処刑されるか、分かっておるのか」
と見下したように言い捨てた。
三九郎は信長の恐さを全くわかっていない。だからこそ狙撃しようなどと考えたのだろう。
(浅はかな…)
一益は怒りがこみあげてくるのを抑えて、三九郎を見る。
その怒りが伝わったかのように、三九郎が一益を睨み、
「黙れ、第六天魔王の手先め!仏敵信長なぞ、恐ろしゅうない!」
虚勢を張っているが分かる。一益はイライラと立ち上がり、
「義太夫、教えてやれ」
とだけ言って、出て行ってしまった。
義太夫は三九郎の傍に座り、にこやかに話しかける。
「上様のお命を狙うたなどとは、ゆめゆめ申されますな。下手人は杉谷家のあの坊主でござりまする」
「善住坊のことか?何を申すか、信長を狙うたは…」
「三九郎様。殿は脅しでああいわれたのではありませぬ。上様のお命を狙うたとあれば、胴切、生つり胴などであればまだ手ぬるいほど。牛裂き、鋸引きあたりが妥当かと」
「善住坊に罪を着せると?」
「杉谷衆はあの坊主以外は皆、始末いたしました。坊主は身動きできぬようにして阿弥陀寺に置き捨てて参りましたゆえ、明日には奉行が向かいましょう」
すでに付近の大溝城主、磯野丹波守に知らせを送っている。
「坊主の処刑が終わり次第、三九郎様を解き放てとの殿の仰せにて、数日お待ちくだされ」
三九郎は色を失い、義太夫の顔を見る。義太夫は涼しい顔だ。
「したが、善住坊が奉行に責め上げらるれば、わしの名を出すじゃろう」
「それは…」
もちろん、何もせずに寺に置いてきたわけではない。
「ご安堵なされませ。坊主はいかような責め苦を受けても、喋ることなどできぬ体にて」
女のような顔をした義太夫が平然とそう言ったので、三九郎はゾッとした。
「恐ろしい…滝川左近はやはり恐ろしい…」
「そう申されますが、殿にその恐ろしいことをさせたは三九郎様では?」
義太夫が再び笑う。
「この先、三九郎様がまた同じようなことをされれば、三九郎様の周りの者が恐ろしい目に合うと思うていただければよいかと」
三九郎は気分が悪くなり、義太夫から目を反らした。
「滝川の者どもに関わっていると、気分が悪うなるわ」
吐き捨てるようにそう言った。
「では、わしの元へ参れ」
ふいに声がして、義太夫と三九郎が顔をあげる。忠三郎が常の笑顔で立っている。
「聞いておった。わしは蒲生忠三郎じゃ。三九郎、甲賀に戻る気がないのであれば、我が城へ参れ」
「鶴…。目が覚めたか。大事ないか」
「おぉ。義兄上のおかげで、元通りよ」
手当したのは一益ではなく篠山理兵衛で、それも、水を飲ませただけだったが。
「異存はなかろう、三九郎。日野の水はうまいぞ。わしは滝川左近の義弟ゆえ、いうなればそなたの叔父じゃ。助太郎もおる。義兄上にはわしから話しておく」
と捲し立ててくる。この強引なところが誰かを思い出させた。
(風花殿…)
敵地にあっても堂々とした佇まいで三九郎を圧倒していた風花を思わせる。
「それにしても空腹じゃ。義太夫、何かないか?」
忠三郎が腹を押さえてそう言うと、義太夫が苦笑して懐から干餅を取り出した。
磯野丹波守によって捕えられた杉谷善住坊が岐阜に送られ、鋸引きの刑に処されたのは翌月のことだった。
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