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1 織田家仕官
1-8 桶狭間
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駿河・遠江・三河三国の大大名である今川義元が上洛戦を始めていた。尾張は京までの通り道にあり、信長はその総勢五万と言われている軍勢と闘わなければならない。織田勢はどうかき集めても四・五千が限度。
今川義元の上洛戦が開始されてほどなく、桑名から旧臣の滝川助太郎・助九郎兄弟がやってきて、事の次第を告げた。
「今川勢は早、尾張領に入ったか」
「して、左近様。上総介様は今川治部大輔とどう対峙なさるおつもりじゃ」
滝川助太郎が尋ねた。
「軍議の席ではさしたる方針も出てはおらぬが・。籠城のようじゃ」
籠城とは味方の援軍を待つ時などに用いられる戦法で、援軍の当てもない織田軍が、清州城に籠城などしても五万の今川軍に攻め落とされ、全員枕を並べて討死しかない。
「上総介様は非凡な武将と聞き及びましたが」
滝川義太夫も、うーむ、とうなり、
「まともにやりあっては勝てぬしのう。あるいはあの大軍を前に戦うのが馬鹿馬鹿しくなったやもしれぬ」
と話していると、俄かに外が騒がしくなった。
「何の騒ぎでありましょうか」
助九郎が立ち上がろうとした。
「左近!左近!」
とけたたましく呼ばわる声がした。
「あの声は・・」
一益が気づいて腰を浮かすと、信長が供も連れずに入ってきた。
「おお、左近。おったか」
「突然のお越しに驚いておりまする」
さして驚きもせずに一益が答えた。信長の行動はいつも人の意表を突くもので、突然、現れるなどということは一度や二度ではない。
滝川助太郎と助九郎は驚いて顔を見合わせている。
「そちでも驚くことがあるか」
信長は傍にあった脇息を寄せて皆が居並ぶ前にどかっと座ると、一益をじっと見据えた。
「はい。上総介様が今川の大軍を前に籠城なさると聞き及び、驚いております」
「フン、その程度で驚くようでは、この上総の家来とは言えぬわ」
「・・と仰せられますが、あるいはあの大軍を前に降伏なさるおつもりかと思案しておりました」
一益は信長の顔色を伺いながらうそぶいた。無論、信長が降伏などできる人間ではないことは良く分かっている。
「戦って勝つ法はないと申すか」
信長が問うと一益は意味ありげに笑った。
勝つ方法があるとしたら、ひとつしかない。古来より天才軍略家として知られている判官義経の鵯越の逆落とし。大軍といえども戦列が一列に伸びている場合、奇襲によって直接本陣を狙うことで合戦を勝利に導くことができる。
「万に一つ・・でござりましょうな」
「万に一つ・・」
今川の先陣などは相手にせず、一気に本陣を目指して今川義元を討ち取る以外に勝つ方法はない。
「我らが籠城していると聞き、今川方では油断しておりましょう。敵の油断を誘う策としては上々では」
一益に己の心を言い当てられて、信長はニヤリと笑った。
「左近。そちならば万に一つかもしれぬがの。奇襲をかけるのはこのわしじゃ」
「それはよく・・」
「このわしに万に一つなどというものはない」
「は・・」
(運すらも自分の味方であると・そう仰せなのか)
その自信はどこから来るのだろう。そして、時々信長から受けるこの雷に打たれたような衝撃は・・。
「いま、しばらくは籠城じゃ」
「はい。心得ておりまする」
「出陣となったら遅れをとるなよ。家来衆を引き連れての。存分に手柄を立てるがよい」
一益が微笑んで頷くと、信長はスクッと立ち上がって足早に屋敷を後にした。
籠城のはずの清州城に出陣の法螺が鳴り響いたのは、梅雨に入った五月十九日の明け方前だった。
「殿!城より法螺が鳴っておりまする!」
食事の支度をしていた木全彦一郎と山村一朗太が慌てて駆け込んできた。
「聞こえておる!助九郎、具足を持て」
一益は布団を蹴り飛ばして立ち上がった。次の間で寝ていた助太郎と助九郎がこれも慌てて具足櫃を抱えてくる。元服前の菊之助を留守居とし、滝川義太夫、木全彦一郎、佐治新介、山村一朗太、滝川助太郎、助九郎、それに尾張で家来にした谷崎忠右衛門の他に甲賀から来たものや雑兵が二十人ほどいる。
皆が具足をつけ終わると、一益はあたりを見回していった。
「よいか者ども。今こそ我らが手柄を立てる時。我らは必ず勝つ!そして滝川の強さを織田家中の輩に見せてやるのじゃ!」
「おう!」
「山村一朗太!」
「ハッ、一朗太はこれに・・」
後方にいた山村一朗太が一益の前に進み出てきて片膝ついた。
「よいか、そちはこれより木全彦一郎とともに我らより一足早く今川勢に近づき、今川本隊に潜り込んで我らを治部大輔のもとへ手引きせい」
「ハッ、かしこまってござりまする」
「他の者はわしと一緒じゃ!者ども、いざ参ろうぞ!」
滝川一益の動きは速かったが、動き出した信長の動きはそれ以上だった。
清州城からは次々と騎馬武者が駆け出して行くのが見える。
「おお、左近どの!」
城に入ろうとした一益は立派な甲冑をつけた武将に呼び止められた。柴田権六勝家である。
「これは柴田殿。上総介様はいずこに?」
「早、城を出られ、わずかに数騎を従えて熱田に向かわれた」
「何、熱田!よし、者ども、熱田じゃ」
信長に遅れてはならじ、と一益は必死に馬を飛ばした。一益が熱田についたのは、もうすっかり日が昇ったころ。その速さについて来られたのは甲賀の家臣たちで、尾張で召し抱えた家臣たちはついてくることができなかった。
「遅いぞ、左近!」
汗を拭って現れた一益に、信長は一喝した。信長は熱田で味方が追い付いてくるのを待っていたのだ。
(素破である我らよりも早いとは・・)
「面目次第もござりませぬ」
「見よ、左近」
と信長は天を仰いだ。青空が広がっている。
「天、我に味方せり!参るぞ!」
織田軍は川を押し渡って中島砦に到着した。総勢二千余り。今川勢は本隊だけでも五千と言われている。
そのとき、信長の元に知らせが届いた。今川義元が桶狭間で休息をとっているという。
「勝ったぞ!我に続け!」
叫ぶなり信長は誰よりも早く馬を走らせた。総勢五万と言われている今川勢は今切り離され、大将今川義元のそばには五千の兵しかいない。
織田勢が中島砦を後にした頃から、空に黒い雲が広がり始め大豪雨となった。この雨では鉄砲隊は使えない。しかし、人馬の音はかき消され、今川勢も織田軍が本陣まで近づきつつあることに気づかないだろう。
(真に天が我らに味方しているやもしれぬ)
ずぶ濡れになりながら行軍していた一益が今川の本隊に近づいた頃、山村一朗太が現れた。
「殿!あちらに今川治部大輔が!」
「何、でかした!彦一郎が張り付いておるか」
「はい。案内しまする。すぐさまこれへ!」
馬を走らせるとすぐに今川勢に遭遇した。余程油断していたと見え、具足をつけていない者、驚いて逃げ出す者など今川勢は大混乱に陥っている。
「殿!あそこに木全殿が!」
「おお!あれがそうか!」
一益は幔幕の前で雑兵たちを斬り伏せている木全彦一郎に声をかけると、幔幕を破って中に乱入した。
如煌びやかな具足を身につけて何にも大将らしき武将が旗本に連れられて幔幕の外へ出て行こうとしている。
「今川御館、見参なり!」
声高に呼ばわるが、敵に遮られて近づくことができない。
「おのれ、雑魚ども!」
遮二無二敵を槍で突き倒すが、次から次と新手が押し寄せる。山村一朗太と幕の外にいた木全彦一郎も加わって、三人で敵を蹴散らしたときには、すっかり今川義元を見失っていた。
「や・・あれは・・」
山村一朗太が何かに気づく。一益もハッとなる。鬨の声が聞こえる。
「今川御館、早討ち取られてござる」
谷崎忠右衛門の声が聞こえたのはそのときだった。
「な、なに!」
「首級は上総介様の小姓の毛利新介なるものがあげ申した」
雨は小降りになり、雲の合間から日差しが差し込めてきた。唖然と立ち尽くす一益を義太夫が促した。
「殿、戦は終わってござります。上総介様はすでにお引き揚げなされたとか。我らも引き揚げましょう」
「是非もない。長居は無用じゃ」
大将を討ち取って信長に滝川の力を見せつけてやろうと思っていた一益はこの時も信長に先を越されてしまった。
『信楽院』
信長は美濃を攻略しようとしていた。
美濃攻略の拠点として新たに小牧山に城が築かれ、、咲菜と章姫も清須の滝川屋敷を出て、信長の待つ小牧山城へ移ることになった。
まだ幼い章姫は滝川家の家臣たちとの別れを悲しんで、涙を流した。
「姫様・・。爺も悲しゅうございます」
谷崎忠右衛門がつられて泣くと、助太郎が笑って
「わずか三里の場所へいくのに針小棒大な・」
屋敷内の騒ぎに気付いた一益も、そこへ姿を現した。
「何の騒ぎじゃ」
すると章姫が一益に抱き着いてきた。
「叔父上!章はずっとこのお屋敷にいとうござります」
一益は驚いて章姫を見た。章姫は目に涙をためて一益を見上げた。
(なるほど・・)
ここ最近、家中のものたちはいつも当年五歳の章姫に振り回されている。その訳がわかった。
章姫の無邪気な態度は愛らしく、人の心を惹きつける。つぶらなその瞳に涙を浮かべられたら、グラリと心が動いてしまう。
「章・・。屋敷の普請が住み次第、我らも小牧へ向かう。それまで・・」
「いやじゃ!いやじゃ!」
章姫がわっと泣き出した。こうなると、一益は何も言えなくなってしまう。
「忠右衛門・・」
「はっ」
「なんとかせよ」
「ははっ・・。さっ、姫様。先ほど爺が菓子を買ってまいりましたゆえ・・」
谷崎忠右衛門が章姫をなだめる。その途端、章姫はパッと顔を上げて泣き止んだ。
「菓子?」
「はい。あちらに・・」
章姫がその言葉を待たずに駆け出して行く。
一益は呆然とそれを見守る。
「童とはあのようなものか」
「あのようなものでござりまする」
忠右衛門が笑いを堪えて答えた。
かたや控えの間では家臣たちが車座になって、中央に置かれた文を見て唸っている。
「これは・・まことに殿の筆跡じゃ!」
義太夫がそう言うと、山村一朗太も大きく頷き、
「いやはや、木全殿には感服いたした・・して、花押は?」
「恋文に花押とは・・如何なものか」
義太夫が苦笑いする。そこへ一益がひょいと顔を出した。
「何を感服しておる」
義太夫が慌てて文を隠そうとするのを、一益は軽く取り上げた。
あて先は『お犬どの参る』。差出人は滝川左近。
「義太夫!」
一益が血相変えて怒ると、義太夫がハハッと平伏した。
「おのれはまた、いらぬことを企んで・・」
お犬殿とは見目麗しいと城下でも評判の信長の妹のお犬のことだろう。そこには恋文の例文のような文章がしたためてある。如何にも義太夫が考えそうな文面だ。
「殿、我らはただただ、お家のため、殿のために、そろそろ正室をお迎えあそばされたほうがよいと考え、家臣一同、このように心を砕き、骨を折り・・」
「や、これは・・」
よくよく見ると、自分でも見間違うほどに一益の筆跡によく似ている。
「これを誰が書いた?」
「彦一郎でござる」
自分に注がれる視線に気づいた彦一郎が、慌てて平伏する。
「彦一郎・・。そなた多芸じゃな・・」
一益はその場にあった紙と筆を手にして何かをしたため、彦一郎に見せる。
それを見ていた義太夫がポンと手を打ち、
「殿。ようやく我らの心をお察しくだされたとは。では、この恋文をお犬様のもとへ・・」
一益はそれには答えず、彦一郎が頷くのを見て、ニヤリと笑った。
甲賀水口の先、日野にその寺はある。
建立当時は甲賀にあり、そのため信楽院と名付けられたが、いつのころからか、日野に移転したらしい。
山門を通ると、すぐに大きな本堂がある。
(立派な寺だったのか・・)
思っていた姿とは大きく異なる本堂の前にたち、一益は戸惑いを隠せない。
あの日。
母の侍女だったすみれを伴い、甲賀から逃走した日、すみれの亡骸を抱き、嘆き悲しむ一益主従に、声をかけてきたものがいる。
それが何人であったか、今となっては定かではない。 事情を察したのかもわからない。
その中の一人が近づいてきて、
『亡骸を預りましょう・・』と声をかけてきた。
あれなる建物は信楽院といい、由緒ある寺社である、そこに葬ってしんぜよう、だから安心なされよと・・・そういわれたのだけ覚えている。
信楽院と呼ばれたその建物は、遠目で確認できただけで、大きさもよくわからなかった。
あのとき以来、この地に足を踏み入れていない。今日でちょうど六年になる。
山門で掃き掃除をしていた僧侶に声をかけると、少し驚いた様子だったが、思い当たったことがあるらしい。「こちらへ・・」と案内された。
そこには小さな墓石があった。小さな墓石の前に板碑があり、そこには、あの日の日付が刻まれている。
そして、そこに花が添えられていて、一益は目を見ひらいた。
まだ枯れていない。今日供えられたものだ。
「一体、どなたがこれを?」
驚いた様子の一益に、問われた僧侶も驚き、
「あなた様は何もご存じありませなんだか。ここはご領主、蒲生様の菩提寺でござります。たまたまあの日は賢秀様のご長子の月命日。あの日、女人の骸を預かったは蒲生家のご家来衆と、あるご身分のお方です。」
あのとき、偶然にも居合わせた近隣の人びとが、激しい銃声に驚き、様子を見に来た。
言われてみれば、声をかけてきたのは身分低からぬ女人であったようにも思える。
「その方が、この花を?」
「はい。毎年・・」
「毎年?」
言葉もでなかった。名も知らぬもののために、墓石まで用意し、毎年花を供えていたとは・・。
(なぜ、そこまで・・)
わからない。確かなことは、一益がここに来ることができないときも、すみれの死を悼んで花を添えてくれた人がいることだけだ。
(蒲生家の・誰なのだろう)
「そのお方に、わしが礼を言っていたと伝えてくれ」
「はい。ではお名前をお聞かせくだされ・」
「わしは・・」
今更、滝川一益だとは名乗れない。まして相手は蒲生家の人間だ。
「今は名乗れぬが・・。また来る・・。来年の今日・・また・・」
信長から桑名を取れと言われた熱田の祭りの日から、ずいぶん月日がたってしまっている。
一益は北伊勢に義太夫をはじめとする家臣たちを送り込み、調略に着手しはじめた。その一方で南近江から余計な邪魔が入ってきているという情報を掴んだ。
この日野谷、中野城主である賢秀の父、蒲生快幹。
息子の賢秀に跡を継がせ、隠居という形にはなっているが、実権は未だ快幹が握っている。伊勢の名家、関・神戸両家に娘を嫁がせ、甲賀と強い結びつきをもち、引いては峠を越え、北伊勢にまで影響力を及ぼしている。
滝川家の家臣たちや一益が、北伊勢の土豪、北勢四十八家を尋ね歩いても、蒲生快幹の機嫌を損ねることを恐れる家からは門前払いを食らってしまう。
(大名並みの影響力を持つ蒲生快幹とは、いったい何者なのか…)
敵を知るため、甲賀を出奔してからはじめて、この南近江の地に舞い戻ってきた。
伊勢から京に至る道の途上にある日野には商人たちが往来し、町は常に賑わいを見せる。領内には多羅尾作兵衛から聞いていた通り、国友村に並ぶほどの鉄砲を生産する鍛冶村があった。
(食えないオヤジだ)
鉄砲に目をつけたところが、侮れない。
蒲生氏は俵藤太藤原秀郷以来の名家で、快幹は本家の従弟を謀殺して家督を奪い、日野を一大拠点にしている六角氏の重鎮だ。
(蒲生に調略は通じない・・)
と一益は見ている。狙いを定めるなら、当主義治との不仲がささやかれている、主を凌ぐ勢力を持つ重臣の後藤但馬守賢豊。
一益は信楽院の付近に馬を隠し、後藤賢豊の居館、後藤館に向かった。
「殿・・」
館に近づくと草むらから声がした。声の方を振り返ると、先に日野に来ていた滝川助太郎がいる。一益はそっと助太郎に近づいた。
「どうじゃ。助太郎」
「殿の仰せの通りにて、そこここに甲賀者が・・」
六角義治は後藤賢豊に疑いの目を向けている。義治に雇われた甲賀者が後藤館を見張っていることは想定内だ。
「やはりそうか。手筈通り、館に入った後、四里、走れ」
一益は懐から用意していた密書を手渡す。木全彦一郎が、後藤賢豊の筆跡を真似て書いたものだ。
「はい」
助太郎はひらりと躍り上がると、館に向かって走っていく。
しばらく待つと、助太郎らしき人影が辺りを伺いながら館から出てくる。その直後、更に別の人影が二つ、後を追う。
一益は銃を構え、
「待て!」
と声をかけると、そのうちの一人が振り向いた。その瞬間に銃声が鳴り響き、人影がひとつ、倒れるのが見える。
もう一人はそのまま助太郎を追っていく。
(うまくやれよ、助太郎)
助太郎が走っていった先にあるのは、蒲生快幹の居城中野城。後を追う素破と軽く刃を交わしたのちに密書を落とせと命じている。
(これで後藤但馬と蒲生快幹に謀反の疑いがかかる)
気の小さい六角義治はどうするだろうか。少なくとも六角家中はこれで北伊勢どころではなくなるだろう。
(あとは北伊勢の首尾。助九郎は如何いたしたかな)
蟹江の服部友貞のところに行った滝川助九郎のことを思い出した。
今川義元の上洛戦が開始されてほどなく、桑名から旧臣の滝川助太郎・助九郎兄弟がやってきて、事の次第を告げた。
「今川勢は早、尾張領に入ったか」
「して、左近様。上総介様は今川治部大輔とどう対峙なさるおつもりじゃ」
滝川助太郎が尋ねた。
「軍議の席ではさしたる方針も出てはおらぬが・。籠城のようじゃ」
籠城とは味方の援軍を待つ時などに用いられる戦法で、援軍の当てもない織田軍が、清州城に籠城などしても五万の今川軍に攻め落とされ、全員枕を並べて討死しかない。
「上総介様は非凡な武将と聞き及びましたが」
滝川義太夫も、うーむ、とうなり、
「まともにやりあっては勝てぬしのう。あるいはあの大軍を前に戦うのが馬鹿馬鹿しくなったやもしれぬ」
と話していると、俄かに外が騒がしくなった。
「何の騒ぎでありましょうか」
助九郎が立ち上がろうとした。
「左近!左近!」
とけたたましく呼ばわる声がした。
「あの声は・・」
一益が気づいて腰を浮かすと、信長が供も連れずに入ってきた。
「おお、左近。おったか」
「突然のお越しに驚いておりまする」
さして驚きもせずに一益が答えた。信長の行動はいつも人の意表を突くもので、突然、現れるなどということは一度や二度ではない。
滝川助太郎と助九郎は驚いて顔を見合わせている。
「そちでも驚くことがあるか」
信長は傍にあった脇息を寄せて皆が居並ぶ前にどかっと座ると、一益をじっと見据えた。
「はい。上総介様が今川の大軍を前に籠城なさると聞き及び、驚いております」
「フン、その程度で驚くようでは、この上総の家来とは言えぬわ」
「・・と仰せられますが、あるいはあの大軍を前に降伏なさるおつもりかと思案しておりました」
一益は信長の顔色を伺いながらうそぶいた。無論、信長が降伏などできる人間ではないことは良く分かっている。
「戦って勝つ法はないと申すか」
信長が問うと一益は意味ありげに笑った。
勝つ方法があるとしたら、ひとつしかない。古来より天才軍略家として知られている判官義経の鵯越の逆落とし。大軍といえども戦列が一列に伸びている場合、奇襲によって直接本陣を狙うことで合戦を勝利に導くことができる。
「万に一つ・・でござりましょうな」
「万に一つ・・」
今川の先陣などは相手にせず、一気に本陣を目指して今川義元を討ち取る以外に勝つ方法はない。
「我らが籠城していると聞き、今川方では油断しておりましょう。敵の油断を誘う策としては上々では」
一益に己の心を言い当てられて、信長はニヤリと笑った。
「左近。そちならば万に一つかもしれぬがの。奇襲をかけるのはこのわしじゃ」
「それはよく・・」
「このわしに万に一つなどというものはない」
「は・・」
(運すらも自分の味方であると・そう仰せなのか)
その自信はどこから来るのだろう。そして、時々信長から受けるこの雷に打たれたような衝撃は・・。
「いま、しばらくは籠城じゃ」
「はい。心得ておりまする」
「出陣となったら遅れをとるなよ。家来衆を引き連れての。存分に手柄を立てるがよい」
一益が微笑んで頷くと、信長はスクッと立ち上がって足早に屋敷を後にした。
籠城のはずの清州城に出陣の法螺が鳴り響いたのは、梅雨に入った五月十九日の明け方前だった。
「殿!城より法螺が鳴っておりまする!」
食事の支度をしていた木全彦一郎と山村一朗太が慌てて駆け込んできた。
「聞こえておる!助九郎、具足を持て」
一益は布団を蹴り飛ばして立ち上がった。次の間で寝ていた助太郎と助九郎がこれも慌てて具足櫃を抱えてくる。元服前の菊之助を留守居とし、滝川義太夫、木全彦一郎、佐治新介、山村一朗太、滝川助太郎、助九郎、それに尾張で家来にした谷崎忠右衛門の他に甲賀から来たものや雑兵が二十人ほどいる。
皆が具足をつけ終わると、一益はあたりを見回していった。
「よいか者ども。今こそ我らが手柄を立てる時。我らは必ず勝つ!そして滝川の強さを織田家中の輩に見せてやるのじゃ!」
「おう!」
「山村一朗太!」
「ハッ、一朗太はこれに・・」
後方にいた山村一朗太が一益の前に進み出てきて片膝ついた。
「よいか、そちはこれより木全彦一郎とともに我らより一足早く今川勢に近づき、今川本隊に潜り込んで我らを治部大輔のもとへ手引きせい」
「ハッ、かしこまってござりまする」
「他の者はわしと一緒じゃ!者ども、いざ参ろうぞ!」
滝川一益の動きは速かったが、動き出した信長の動きはそれ以上だった。
清州城からは次々と騎馬武者が駆け出して行くのが見える。
「おお、左近どの!」
城に入ろうとした一益は立派な甲冑をつけた武将に呼び止められた。柴田権六勝家である。
「これは柴田殿。上総介様はいずこに?」
「早、城を出られ、わずかに数騎を従えて熱田に向かわれた」
「何、熱田!よし、者ども、熱田じゃ」
信長に遅れてはならじ、と一益は必死に馬を飛ばした。一益が熱田についたのは、もうすっかり日が昇ったころ。その速さについて来られたのは甲賀の家臣たちで、尾張で召し抱えた家臣たちはついてくることができなかった。
「遅いぞ、左近!」
汗を拭って現れた一益に、信長は一喝した。信長は熱田で味方が追い付いてくるのを待っていたのだ。
(素破である我らよりも早いとは・・)
「面目次第もござりませぬ」
「見よ、左近」
と信長は天を仰いだ。青空が広がっている。
「天、我に味方せり!参るぞ!」
織田軍は川を押し渡って中島砦に到着した。総勢二千余り。今川勢は本隊だけでも五千と言われている。
そのとき、信長の元に知らせが届いた。今川義元が桶狭間で休息をとっているという。
「勝ったぞ!我に続け!」
叫ぶなり信長は誰よりも早く馬を走らせた。総勢五万と言われている今川勢は今切り離され、大将今川義元のそばには五千の兵しかいない。
織田勢が中島砦を後にした頃から、空に黒い雲が広がり始め大豪雨となった。この雨では鉄砲隊は使えない。しかし、人馬の音はかき消され、今川勢も織田軍が本陣まで近づきつつあることに気づかないだろう。
(真に天が我らに味方しているやもしれぬ)
ずぶ濡れになりながら行軍していた一益が今川の本隊に近づいた頃、山村一朗太が現れた。
「殿!あちらに今川治部大輔が!」
「何、でかした!彦一郎が張り付いておるか」
「はい。案内しまする。すぐさまこれへ!」
馬を走らせるとすぐに今川勢に遭遇した。余程油断していたと見え、具足をつけていない者、驚いて逃げ出す者など今川勢は大混乱に陥っている。
「殿!あそこに木全殿が!」
「おお!あれがそうか!」
一益は幔幕の前で雑兵たちを斬り伏せている木全彦一郎に声をかけると、幔幕を破って中に乱入した。
如煌びやかな具足を身につけて何にも大将らしき武将が旗本に連れられて幔幕の外へ出て行こうとしている。
「今川御館、見参なり!」
声高に呼ばわるが、敵に遮られて近づくことができない。
「おのれ、雑魚ども!」
遮二無二敵を槍で突き倒すが、次から次と新手が押し寄せる。山村一朗太と幕の外にいた木全彦一郎も加わって、三人で敵を蹴散らしたときには、すっかり今川義元を見失っていた。
「や・・あれは・・」
山村一朗太が何かに気づく。一益もハッとなる。鬨の声が聞こえる。
「今川御館、早討ち取られてござる」
谷崎忠右衛門の声が聞こえたのはそのときだった。
「な、なに!」
「首級は上総介様の小姓の毛利新介なるものがあげ申した」
雨は小降りになり、雲の合間から日差しが差し込めてきた。唖然と立ち尽くす一益を義太夫が促した。
「殿、戦は終わってござります。上総介様はすでにお引き揚げなされたとか。我らも引き揚げましょう」
「是非もない。長居は無用じゃ」
大将を討ち取って信長に滝川の力を見せつけてやろうと思っていた一益はこの時も信長に先を越されてしまった。
『信楽院』
信長は美濃を攻略しようとしていた。
美濃攻略の拠点として新たに小牧山に城が築かれ、、咲菜と章姫も清須の滝川屋敷を出て、信長の待つ小牧山城へ移ることになった。
まだ幼い章姫は滝川家の家臣たちとの別れを悲しんで、涙を流した。
「姫様・・。爺も悲しゅうございます」
谷崎忠右衛門がつられて泣くと、助太郎が笑って
「わずか三里の場所へいくのに針小棒大な・」
屋敷内の騒ぎに気付いた一益も、そこへ姿を現した。
「何の騒ぎじゃ」
すると章姫が一益に抱き着いてきた。
「叔父上!章はずっとこのお屋敷にいとうござります」
一益は驚いて章姫を見た。章姫は目に涙をためて一益を見上げた。
(なるほど・・)
ここ最近、家中のものたちはいつも当年五歳の章姫に振り回されている。その訳がわかった。
章姫の無邪気な態度は愛らしく、人の心を惹きつける。つぶらなその瞳に涙を浮かべられたら、グラリと心が動いてしまう。
「章・・。屋敷の普請が住み次第、我らも小牧へ向かう。それまで・・」
「いやじゃ!いやじゃ!」
章姫がわっと泣き出した。こうなると、一益は何も言えなくなってしまう。
「忠右衛門・・」
「はっ」
「なんとかせよ」
「ははっ・・。さっ、姫様。先ほど爺が菓子を買ってまいりましたゆえ・・」
谷崎忠右衛門が章姫をなだめる。その途端、章姫はパッと顔を上げて泣き止んだ。
「菓子?」
「はい。あちらに・・」
章姫がその言葉を待たずに駆け出して行く。
一益は呆然とそれを見守る。
「童とはあのようなものか」
「あのようなものでござりまする」
忠右衛門が笑いを堪えて答えた。
かたや控えの間では家臣たちが車座になって、中央に置かれた文を見て唸っている。
「これは・・まことに殿の筆跡じゃ!」
義太夫がそう言うと、山村一朗太も大きく頷き、
「いやはや、木全殿には感服いたした・・して、花押は?」
「恋文に花押とは・・如何なものか」
義太夫が苦笑いする。そこへ一益がひょいと顔を出した。
「何を感服しておる」
義太夫が慌てて文を隠そうとするのを、一益は軽く取り上げた。
あて先は『お犬どの参る』。差出人は滝川左近。
「義太夫!」
一益が血相変えて怒ると、義太夫がハハッと平伏した。
「おのれはまた、いらぬことを企んで・・」
お犬殿とは見目麗しいと城下でも評判の信長の妹のお犬のことだろう。そこには恋文の例文のような文章がしたためてある。如何にも義太夫が考えそうな文面だ。
「殿、我らはただただ、お家のため、殿のために、そろそろ正室をお迎えあそばされたほうがよいと考え、家臣一同、このように心を砕き、骨を折り・・」
「や、これは・・」
よくよく見ると、自分でも見間違うほどに一益の筆跡によく似ている。
「これを誰が書いた?」
「彦一郎でござる」
自分に注がれる視線に気づいた彦一郎が、慌てて平伏する。
「彦一郎・・。そなた多芸じゃな・・」
一益はその場にあった紙と筆を手にして何かをしたため、彦一郎に見せる。
それを見ていた義太夫がポンと手を打ち、
「殿。ようやく我らの心をお察しくだされたとは。では、この恋文をお犬様のもとへ・・」
一益はそれには答えず、彦一郎が頷くのを見て、ニヤリと笑った。
甲賀水口の先、日野にその寺はある。
建立当時は甲賀にあり、そのため信楽院と名付けられたが、いつのころからか、日野に移転したらしい。
山門を通ると、すぐに大きな本堂がある。
(立派な寺だったのか・・)
思っていた姿とは大きく異なる本堂の前にたち、一益は戸惑いを隠せない。
あの日。
母の侍女だったすみれを伴い、甲賀から逃走した日、すみれの亡骸を抱き、嘆き悲しむ一益主従に、声をかけてきたものがいる。
それが何人であったか、今となっては定かではない。 事情を察したのかもわからない。
その中の一人が近づいてきて、
『亡骸を預りましょう・・』と声をかけてきた。
あれなる建物は信楽院といい、由緒ある寺社である、そこに葬ってしんぜよう、だから安心なされよと・・・そういわれたのだけ覚えている。
信楽院と呼ばれたその建物は、遠目で確認できただけで、大きさもよくわからなかった。
あのとき以来、この地に足を踏み入れていない。今日でちょうど六年になる。
山門で掃き掃除をしていた僧侶に声をかけると、少し驚いた様子だったが、思い当たったことがあるらしい。「こちらへ・・」と案内された。
そこには小さな墓石があった。小さな墓石の前に板碑があり、そこには、あの日の日付が刻まれている。
そして、そこに花が添えられていて、一益は目を見ひらいた。
まだ枯れていない。今日供えられたものだ。
「一体、どなたがこれを?」
驚いた様子の一益に、問われた僧侶も驚き、
「あなた様は何もご存じありませなんだか。ここはご領主、蒲生様の菩提寺でござります。たまたまあの日は賢秀様のご長子の月命日。あの日、女人の骸を預かったは蒲生家のご家来衆と、あるご身分のお方です。」
あのとき、偶然にも居合わせた近隣の人びとが、激しい銃声に驚き、様子を見に来た。
言われてみれば、声をかけてきたのは身分低からぬ女人であったようにも思える。
「その方が、この花を?」
「はい。毎年・・」
「毎年?」
言葉もでなかった。名も知らぬもののために、墓石まで用意し、毎年花を供えていたとは・・。
(なぜ、そこまで・・)
わからない。確かなことは、一益がここに来ることができないときも、すみれの死を悼んで花を添えてくれた人がいることだけだ。
(蒲生家の・誰なのだろう)
「そのお方に、わしが礼を言っていたと伝えてくれ」
「はい。ではお名前をお聞かせくだされ・」
「わしは・・」
今更、滝川一益だとは名乗れない。まして相手は蒲生家の人間だ。
「今は名乗れぬが・・。また来る・・。来年の今日・・また・・」
信長から桑名を取れと言われた熱田の祭りの日から、ずいぶん月日がたってしまっている。
一益は北伊勢に義太夫をはじめとする家臣たちを送り込み、調略に着手しはじめた。その一方で南近江から余計な邪魔が入ってきているという情報を掴んだ。
この日野谷、中野城主である賢秀の父、蒲生快幹。
息子の賢秀に跡を継がせ、隠居という形にはなっているが、実権は未だ快幹が握っている。伊勢の名家、関・神戸両家に娘を嫁がせ、甲賀と強い結びつきをもち、引いては峠を越え、北伊勢にまで影響力を及ぼしている。
滝川家の家臣たちや一益が、北伊勢の土豪、北勢四十八家を尋ね歩いても、蒲生快幹の機嫌を損ねることを恐れる家からは門前払いを食らってしまう。
(大名並みの影響力を持つ蒲生快幹とは、いったい何者なのか…)
敵を知るため、甲賀を出奔してからはじめて、この南近江の地に舞い戻ってきた。
伊勢から京に至る道の途上にある日野には商人たちが往来し、町は常に賑わいを見せる。領内には多羅尾作兵衛から聞いていた通り、国友村に並ぶほどの鉄砲を生産する鍛冶村があった。
(食えないオヤジだ)
鉄砲に目をつけたところが、侮れない。
蒲生氏は俵藤太藤原秀郷以来の名家で、快幹は本家の従弟を謀殺して家督を奪い、日野を一大拠点にしている六角氏の重鎮だ。
(蒲生に調略は通じない・・)
と一益は見ている。狙いを定めるなら、当主義治との不仲がささやかれている、主を凌ぐ勢力を持つ重臣の後藤但馬守賢豊。
一益は信楽院の付近に馬を隠し、後藤賢豊の居館、後藤館に向かった。
「殿・・」
館に近づくと草むらから声がした。声の方を振り返ると、先に日野に来ていた滝川助太郎がいる。一益はそっと助太郎に近づいた。
「どうじゃ。助太郎」
「殿の仰せの通りにて、そこここに甲賀者が・・」
六角義治は後藤賢豊に疑いの目を向けている。義治に雇われた甲賀者が後藤館を見張っていることは想定内だ。
「やはりそうか。手筈通り、館に入った後、四里、走れ」
一益は懐から用意していた密書を手渡す。木全彦一郎が、後藤賢豊の筆跡を真似て書いたものだ。
「はい」
助太郎はひらりと躍り上がると、館に向かって走っていく。
しばらく待つと、助太郎らしき人影が辺りを伺いながら館から出てくる。その直後、更に別の人影が二つ、後を追う。
一益は銃を構え、
「待て!」
と声をかけると、そのうちの一人が振り向いた。その瞬間に銃声が鳴り響き、人影がひとつ、倒れるのが見える。
もう一人はそのまま助太郎を追っていく。
(うまくやれよ、助太郎)
助太郎が走っていった先にあるのは、蒲生快幹の居城中野城。後を追う素破と軽く刃を交わしたのちに密書を落とせと命じている。
(これで後藤但馬と蒲生快幹に謀反の疑いがかかる)
気の小さい六角義治はどうするだろうか。少なくとも六角家中はこれで北伊勢どころではなくなるだろう。
(あとは北伊勢の首尾。助九郎は如何いたしたかな)
蟹江の服部友貞のところに行った滝川助九郎のことを思い出した。
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