獅子の末裔

卯花月影

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23.宿命の対決

23-6. 大川の向こう

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 桑名にたどり着くと、そこは思い描いていた光景とはまるで異なっていた。城門は開かれ、物音ひとつしない。鳥がさえずる声だけが虚しく響く。
(義兄上が…長島に引き上げたのか)
 忠三郎は何度か物見を出して確かめたが、桑名城には一兵も残っていなかった。その静寂は、戦場とは思えぬほどの不気味さを漂わせている。
(何があった…)

 戦局に何らかの変化が生じたのだろうか。
 忠三郎はそのまま長島城を目指し、大川を挟んだ対岸へ着陣する。大川のほとりに立ち、川面を眺める胸に去来したのは、過去の戦火の記憶だった。
 信長存命の折、何度もこの地を行き来した日々。一向一揆との熾烈な戦いは、この川の向こうで繰り広げられた。そして、その激闘の末に一益がこの地の統治を任され、以後、この地は静穏を保っていた。

 川風が吹き、春の息吹が水面を撫でていく。その風に乗ってかすかな花の香りが漂い、忠三郎の鼻をくすぐる。だが、その心は春の穏やかさとはかけ離れ、張り詰めた弦のように鋭く研ぎ澄まされている。
(義兄上のこと。ただ手をこまねいておるとは思えぬ。思いも及ばぬ謀が隠れておるやもしれぬ…)
 忠三郎の胸中には、一益の狡猾さが幾度となく甦る。戦巧者であり、機を見極めることに長けた一益が、ただ城を明け渡すような真似をするはずがない。

 秀吉の命は厳しいものだった。
「迂闊に川を渡るな」
 それは、功に焦る忠三郎に対する戒めでもあり、忠告でもあった。一益が伊勢を動き出せば、秀吉の背後が突かれる危険がある。ここで手痛い敗北を喫することになれば、伊勢全体が揺らぎ、天下取りを目指す秀吉の野望に暗雲が立ち込めることになる。

 川風が吹き抜け、忠三郎の額を撫でた。春の陽気の中にも、戦の緊張感が渦巻く。
(焦るな、忠三郎。この川が戦局の分水嶺となるやもしれぬ。義兄上の策を見極めねばならぬ。それまで、ここで備えるのみ)
 そう心に言い聞かせながらも、忠三郎の目は大川の向こうにある長島城に釘付けになっている。その静寂は、ただの空虚ではない。そこに潜む何かを読み解けずにいる自分自身への焦燥もまた、胸中を駆け巡っていた。

 しかしその数日後、謎が解けた。
 知らせが陣営に届いたのは、薄曇りの朝のことだった。

「若殿!お味方の大勝利でございます!」
 町野左近の朗々たる声が響き渡ると、陣中はたちまち歓喜の色に染まった。兵たちは拳を振り上げ、勝利の到来を叫び合う。
「羽柴勢が勝ったか?」
 静かに問う忠三郎の声には、喜びよりも慎重な響きがあった。
「はい。柴田勢を打ち負かし、ついには越前北ノ庄城まで攻め上り、柴田殿を討ち取ったとのことでございます!」

 その報せは、予想していたよりもあっけない結末を物語っていた。だが、その真相を耳にした忠三郎は、驚きと困惑を隠せなかった。
「…又左の裏切りか?」
 その言葉に町野左近は深く頭を垂れた。前田利家が調略されているであろうことは、密かな噂になっていた。
「然様にございます。賤ケ岳の合戦にて両軍が相まみえ、戦いが始まりましたが、途中、前田又左衛門殿が兵を引き、戦場を離脱したとのこと。それにより柴田勢は士気を失い、戦さは一気に傾き、敗走に至ったと…」

 忠三郎は目を伏せ、しばし口を閉ざした。

 一益の面影が脳裏に浮かぶ。その剛毅な顔、その背負う理想、その生き様――それらすべてが忠三郎を惑わせた。
(義兄上…あの柴田殿を後ろ盾とし、三七殿を織田家の当主にせんというその志は、無念にも途絶えたか。然れど、何故じゃ、義兄上。又左の裏切りをも予期せず、このような結末を迎えるとは)
 この戦さに身を投じた一益の胸中はいかばかりのものだったろう。忠三郎には、そこにある苦悩もまた想像がつく。
「義兄上が引いたのも、その知らせを見越してのことだったのかもしれぬ。されど、この戦はまだ終わらぬ。越前が落ちた今、義兄上もまた、大きく動かざるを得ぬ筈」
 まだ岐阜には信孝がいる。信孝がいるうちは一益も兵を引くことはない。
(義兄上は諦めておらぬに違いない。次なる手を、次なる戦を――義兄上はまだ立ち止まらぬのであろう)

 春の風が大川を渡り、忠三郎の頬を撫でる。その柔らかな息吹が、かつての平穏を思わせるほど穏やかであればあるほど、戦の現実が胸を締めつける。
「義兄上がどのように動くかはわからぬ。だが、我らは進むしかない…その答えは、戦場で尋ねるほかあるまい」
 そっと目を上げ、大川の向こうに見える長島の地を見据えた。いつの日かその城に足を踏み入れる時が来る。だが、それが再会か、別れか、それとも…忠三郎の胸に去来する思いは、言葉にはならなかった。
 
 その夜、忠三郎は織田信雄の本陣に招かれた。ひっそりと灯された行灯の光の中で、信雄の声が響く。
「忠三郎。わしは三七めを下すため、明日、岐阜へ向かうこととなった」
 その言葉に、忠三郎は深く頭を垂れた。
「ハハッ。敵味方に分かれて戦ったとはいえ、血を分けたご兄弟。お二人でよくよく話をすれば、三七様とも分かり合えるものと存じ上げまする」
 忠三郎の口調は柔らかで、信孝に対する非難の色はなく、むしろ、兄弟の情を重んじた発言だった。

 しかし信雄の表情は硬く、その瞳には冷たく鋭い光が宿っていた。
「忠三郎、その方は甘い。三七は、わしを兄と思っておらぬ。奴は父上亡き今、己こそ織田家の後継者と信じて疑わぬ」
 信雄の言葉に、忠三郎はふと息を止めた。その口調には深い恨みと、どうしようもない諦めの色が混じっていた。
(兄弟の争いというものは、外から見ればわからぬ事情があるもの。されど、つい一年前までは…)

 脳裏に浮かぶのは、かつての三兄弟の姿だった。信忠を筆頭に、信雄と信孝が仲睦まじく猿楽を楽しむ光景。南蛮寺を共に見学し、珍しげに異国の風習を語り合う姿。それは、織田家の絆の強さを示す、何とも微笑ましいひとときだった。
 それが、まだ一年も経たぬうちに、このような悲劇的な争いに変わるとは、一体誰が想像しただろうか。
(何故、こんなことになったのだろうか…)
 忠三郎は胸中で繰り返し問いを巡らせた。
 兄弟を引き裂いたものは、果たして織田家の家督という名の楔だったのか。それとも、それを巡る争いが生んだ避けられぬ運命だったのか。

 いや、それ以上に恐ろしい考えがふと脳裏をよぎる。

(意図して、そう仕向けた者がいるとすると…)

 忠三郎の視線が自然と遠くへ向かう。もしも、この兄弟の争いが偶然ではなく、誰かの思惑によるものだったとすれば。それは織田家の力を削ぎ、さらにはその根を断とうとする、計り知れぬ策謀ではないのか。

 敵か味方かも分からぬ影が、兄弟の間に不信を植え付け、火種を与えたのだとしたら――。

 忠三郎はかつての温かな情景を思い浮かべ、深い溜息をついた。
 猿楽に興じ、南蛮寺を共に訪れたあの日々。兄弟の間に交わされた笑顔や言葉の一つ一つが、今では手の届かぬ遠い夢のように感じられる。
 だが、もしもその絆を裂くことに躊躇のない者がいるとすれば、それは一体誰なのか。その背後に潜む者の姿。それが朧げながら頭を過ぎる瞬間、忠三郎ははっとしてその思考を振り払った。

(いや、まさか…。そのような筈はない)
 自身の胸中で揺れる疑念に歯を食いしばりながら、忠三郎は静かに首を振った。この戦いは、織田家の名の下に行われている。乱れた家中を一つにまとめ、再び天下を泰平へ導くための戦いではないか。

 ここまで来たら、そう信じるしかない。たとえ、目の前にどれほどの血が流れようとも。
 後ろ盾となっていた柴田勝家を失った信孝はこれ以上、抗うことはできない――忠三郎の心中にはそうした思いがあったが、それを信雄に言葉にして伝えるべきか、逡巡した。
(柴田殿亡き後、三七様もまた戦を続けることができなくなった筈…。されど、織田家の存続を巡る争いの渦は、簡単には収まらぬものなのか)
 静寂が訪れた本陣に、夜風がそっと吹き込む。その冷たさが、戦乱に揺れる兄弟の絆の儚さを物語るかのようで、忠三郎は胸の奥にわずかな痛みを感じた。

「では三七様には出家していただくと?」
 忠三郎の問いかけに、信雄はただ重々しく頷いた。
「それ以外に方法はあるまい」
 言葉は簡潔であったが、その表情には、いまだ言い尽くせぬ複雑な思いが滲んでいる。信雄の目がどこか遠くを見つめるように彷徨い、そのまま黙り込む。

(何を考えておいでなのか…)
 忠三郎は胸の内でそう呟いた。はじめは、兄弟の間にありがちな些細な諍いが大事に発展したのだろうと思っていた。しかし、ここに至り、その考えは揺らいでいる。
 単なる兄弟げんかなどではない。この争いには、もっと根深いものが潜んでいるのかもしれない――。

 信雄の渋い表情を横目に、忠三郎は再び深い溜息を漏らした。穏やかであった織田家の絆が、今や手の届かぬものとなっている現実。それを引き裂いたものが何であれ、この結末にどれほどの意味があるのか、誰もまだ答えを見出せてはいない。

 四月末、岐阜城を取り囲んだ信雄は、信孝に和議をもちかけ、開城させると、そのまま信孝を捕らえてしまった。
 信孝を岐阜から尾張へ連行するよう命じた信雄は、家臣たちに野間の安養院に幽閉させた。
 その報せを聞いた忠三郎は、驚きの色を隠せぬまま問いかけた。
「では…そこで無理やり出家させたと?」
 町野左近がそれを否定するかのように首を横に振る。
「当初は中将様もそのようにお考えだったらしいのですが…。結果として、どのような事情か、詰腹を切らせたと伺っております」
「詰腹切らせた?」

 信孝の心中を察するには、想像すら及ばぬ。大義の名のもとに織田家の分裂を収めるための戦いだった筈。それが、あろうことか信孝の命を奪うことになるとは。

 ふと目を閉じ、忠三郎はかつての信孝の姿を思い浮かべた。南蛮寺を訪れた折の穏やかな笑み、猿楽を楽しむ時の快活な声。兄弟としての信孝は、忠三郎にとって眩い存在であった。
 だが、今やその姿は、この世から消え去ってしまった。
「何故…」
 忠三郎の胸の奥に、重い石が落ちるような感覚が広がった。問いを口にするも、それを誰に向けるべきかもわからない。
(これで織田家は覇者としての力を失った)
 無力感と失望の入り混じった思いが胸に渦巻く。兄弟の争いが生んだこの結末を目の当たりにし、織田家という一大勢力が、いまやその輝きを失いつつあるのを痛感せずにはいられない。

 最早、織田家に残されたのは信雄ただ一人。かつて筆頭家老として織田家を支えた柴田勝家も滅び、さらには信孝までもがその命を絶たれた。そして――
(義兄上…)
 忠三郎の視線は目の前を流れる大川の向こう、長島城の方向に注がれた。一益がそこにいることを思えば、胸中はさらに重く沈む。

 柴田勝家、信孝を相次いで失い、もはや一益は孤立無援と言ってよい状況だ。九鬼水軍の軍船が長島に兵站輸送を続け、制海権は一益が握ったままであるとはいえ、これでは長島から出る術は限られる。
 かつて織田家の名を天下に轟かせた一益も、いまやその誇り高き旗を掲げ続けるには厳しい局面に立たされている。

 風が川面を渡り、桜の花びらが流れるように散っていくのを目にしても、その美しさが心に届くことはない
(これほどの悲劇を招いたのは、果たして誰の罪なのか――いや、これも天下泰平を成し遂げるための道程なのだと信じるしかないのか…)
 そう自分に言い聞かせながらも、川の向こうの一益の姿を思うと、胸中に去来するものは尽きることがなかった。
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