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23.宿命の対決
23-5. 梟啼く夜
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しかし、明後日、さらにはその次の日になっても、義太夫が桑名へ戻る気配はなかった。
「峯城は開城したのか?」
一益が問うと、佐治新介が物見の報告を携えて答えた。
「はい。二日前には確かに開城したとのことでございます」
「では、義太夫はいずこへ参った?」
義太夫が桑名に姿を見せないことに、広間の空気は徐々に緊迫したものになっていく。
「戻ってきた兵の話では、義太夫は今なお、忠三郎の陣中に留め置かれているとのことにございます」
「何?」
三九郎が憤慨して声を上げた。
「城を開けば、桑名への退去を認めると約したではないか。それを反故にするとは、忠三郎め、約定を違えたのでござりましょう!」
一益は三九郎の言葉に目を閉じ、思案した。
「あれは謀を弄するような者ではないが…」
忠三郎に限って、軽々しく約束を破るとは思えない。
では、義太夫の身には何が起きたのだろうか?一益の胸中に重くのしかかる問いは、なおも答えを得られぬままだ。
「新介、物見をさらに増やし、義太夫の所在を細かに探らせよ」
「畏まりました」
佐治新介が深々と頭を下げ、広間を辞した後、一益はしばし窓の外を眺めた。
春浅き桑名の空には、薄紅色の霞がたなびき、風に舞う花びらが水面に浮かぶ。彼方の山裾には柔らかな陽光が降り注ぎ、草木がほのかな緑の色を見せ始めていた。
「義太夫も、この風を感じておろうか…」
一益はふと、義太夫の姿を思い浮かべる。幾たびも険しい戦場を駆け抜けたその背中は、いまどこで何を背負っているのか。
春の風は柔らかに吹き抜けるというのに、その暖かさが胸の重みを和らげることはない。桑名の地を再び火に包むかもしれぬこの戦さが、義太夫にとって、いや自分にとって何を意味するのか。答えはまだ見えぬままだ。
庭先に咲く山吹の花が揺れ、やがて一益は重い足を引きずるように広間を出た。その後ろ姿を包むのは、どこか取り返しのつかぬものを抱え込んだような静寂だけであった。
待てど暮らせど義太夫が戻らぬことに業を煮やした三九郎は、素破頭を務める滝川助太郎を召し出し、忠三郎の陣営の内情を探らせた。やがて戻った助太郎が告げた知らせは、誰も予想だにしないものだった。
「羽柴筑前守が、義太夫殿を殊のほか気に入り、家臣として列に加えたいと申しておりまする」
その言葉に、広間にいた者たちは一瞬息を飲む。
「さらに、家人となれば五万石を与えると…」
「五万石…」
三九郎が呆れたように呟くと、広間にいた面々は皆、一様に顔を見合わせた。
「羽柴筑前守が、義太夫殿を大名として遇するつもりであるとは…」
佐治新介が口を開いたが、その声には驚きと困惑が交じっている。
「忠三郎殿が、それほどまでに義太夫を取り立てる価値があると伝えたのでは?」
道家彦八郎が苦々しげに呟く。
「忠三郎か…」
三九郎はしばらく黙り込んだ。障子越しに柔らかな春の日差しが差し込み、庭先の桜の枝を揺らしている。その光景は静かで平和そのものだが、広間の空気は重く沈んでいた。
「それにしても、義太夫は一体何をして、そこまで気に入られたのか」
三九郎が首を傾げると、助太郎は少しばつが悪そうに答えた。
「なんでも、城に攻め上ろうとする寄せ手に、肥溜めから運び出した糞尿を浴びせかけたとか…」
広間にいた者たちは一瞬の沈黙の後、顔を見合わせた。
「…なんとも、義太夫らしい策ではあるな」
呆れたような、それでいてどこか感嘆の混じった声を漏らしたのは道家彦八郎だ。
「糞尿とは…筑前がそれを聞いて愉快だと思うたのか、あるいはその胆力を気に入ったのか…」
「いや、羽柴筑前守ならば、そこに奇妙な愛嬌と頑固さを見出したのかもしれぬな」
佐治新介が静かに付け加える。
障子越しの陽光が、微かに煙る室内に斜めに差し込んでいた。花びらが風に乗り、ひらひらと庭へ舞い落ちる。
「義太夫のことじゃ、策としては突飛だが、その場においては理に適っておったのであろう」
「いずれにせよ、忠三郎めが義太夫を手放そうとせぬのも、その気概ゆえかもしれんな」
「さにあらず。やはり、これはあの二人の色恋のもつれからくるものであろう」
春の穏やかな風景にそぐわぬ話題に、誰もが苦笑せざるを得ない。
それぞれが思い思いのことを話しはじめ、広間がざわめき立つ中、三九郎は静かな怒りを帯びた声で言い放つ。
「いかに色恋のもつれとはいえ、将兵の桑名引き上げを前提に開城を迫りながら、開城後に約定を違えるとは、断じて許しがたい。かくなる上は、力ずくでも義太夫を奪い返すまで!」
そう言うや、三九郎は傍らにあった太刀を掴み、勢いよく立ち上がった。
「若殿…さりながら、殿には…」
道家彦八郎がためらいがちに口を挟むが、三九郎は振り返りざまに遮る。
「父上には告げるな。これはわしの一存じゃ。もしも問われたら、皆は知らなかったと申せばよい」
その言葉に、周囲は息を呑む。怒りに燃えた三九郎の眼光には、誰も反論できる者はいなかった。
すると、一拍遅れて佐治新介が立ち上がり、低く静かな声で応じる。
「では、わしも一存にて動きまする。目指すは峯城。義太夫を迎えに行くのみ!」
その声が、春の柔らかな風が通り抜ける広間に響き渡る。
花びらがふと障子の隙間から舞い込み、一瞬、広間に揺れる影を落とした。
三九郎が怒りを胸に秘め、夜陰に紛れて寄せ手の陣営にたどり着いたのは、夜も更けたころのことだった。先行して偵察に向かった助九郎が、山陰に身を潜める三九郎と新介のもとへ慌てて戻ってきた。
「如何した助九郎。まるで生気を抜かれたような顔つきをしておるではないか。義太夫はおったのか?」
新介が問いただすと、助九郎は頭を掻きつつ、なんとも言いにくそうな表情を浮かべて答える。
「はい、義太夫殿のお姿は確認いたしました。されど、その…そばには忠三郎殿が…」
「はて。その妙な顔つきは…何を見た?」
三九郎が鋭く問い詰めると、助九郎はさらに困った顔になり、顔を赤らめながらぽつりと口を開いた。
「いやはや、それが…。忠三郎殿が、義太夫殿に…その、今まさに口づけをしようとしておりまして…」
「何?!」
三九郎と新介は同時に声を上げ、思わず顔を見合わせた。
「それで、義太夫は?」
「いや、それがまた…義太夫殿も、まんざらでもないご様子でして…」
そもそも、この妙な噂話の発端は、助九郎と兄の助太郎が仕組んだ矢文によるものだ。二人は忠三郎を煽り、城に攻めかからせるべく、虚言をしたためたつもりでいた。
その矢文には、「義太夫殿が忠三郎殿の布団に潜り込んだ」「二人の睦まじき声が城に響き渡った」などと、なんとも荒唐無稽な文言が並んでいた。書きながらも、助九郎は鼻で笑い、「これで忠三郎殿の怒りを買えば、それでよい」と気軽に考えていた。
だが、その後、矢文による噂話が村々を巡り、桑名にまで広がり、とうとう三九郎の耳にまで届く事態になった。さらに驚くべきことに、噂は次第に現実と絡み合い、何が真実で何が虚構か分からぬほどの展開を見せ始めた。
助九郎は桑名に戻り、状況を知るや、自分たちの矢文がこの大騒動の引き金となったことを悟ったものの、噂がどうしてここまで具体性を帯び、真実味を増してしまったのかが、まるで理解できなかった。
(嘘から出た真とはこのことか…いや、むしろ嘘が真を飲み込み、化け物じみた騒ぎに成り果てたとでも申すべきか)
助九郎がしきりに首を傾げ、もごもごと何かを言い淀む姿を目の当たりにし、三九郎の怒りはとうとう頂点に達した。だが、その怒りをどう表現してよいのか、自分でも分からず、苛立ちが募る。
ついにはおもむろに刀を掴み、立ち上がった。
「最早、あの二人のくだらぬ戯言には付き合い切れぬ!義太夫め、父上がどれほど案じておられるか、分かっておるのか!」
刀の柄を握りしめ、激昂する三九郎の額には汗が滲み出している。
新介は新介で、半ば呆れつつも「義太夫の剛胆さよ」と苦笑するばかりだ。
「首ひとつになったとしても、連れ帰る!助九郎、今すぐ合図をせよ!」
その声に、助九郎はびくりと肩を震わせたが、「ハハッ!」と気を取り直し、急いで口に手を当てると、フクロウの鳴き声を真似た。
「ホウホウ…ホウホウ…」
その音が夜風に紛れて陣中へと響いていく。これが義太夫に、味方が近くまで来ていることを知らせる合図だった。
夜空にフクロウの声が幾度も響く中、三九郎は険しい表情を浮かべたまま、目の前の薄暗い陣城をじっと見つめていた。
その静寂の中、陣城からわずかに音が返ってきた。それはまるで遠くの谷間で木霊するような、小さく控えめなフクロウの鳴き声だった。
「ホウホウ…」
その音を耳にした三九郎は目を細めた。
「義太夫め、確かに気づいておるな。では参ろうぞ」と、静かに言い放った。
助九郎が慌てて、「若殿、くれぐれも無茶はなされませぬよう」とささやくも、三九郎は聞く耳を持たず、険しい表情のまま歩みを進める。
苦笑いしてその様子を見ていた新介が、小声で苦言を呈した。
「若殿、よろしいので。ふいを突いたところで、五万石の禄と囁かれた義太夫が、果たして戻って参るかどうか…」
三九郎は鼻で笑い、短く息を吐いて答える。
「戻らぬというのであれば、その首を取るまでじゃ!参ろうぞ!」
その勢いに新介も呆れながらも、「では、わしもお供仕りまする」と呟き、従うほかない様子で立ち上がった。
三九郎は素破たちに手を振って指示を出すと、夜陰に紛れて姿を隠しつつ、いの一番に陣城へ飛び出していった。
忠三郎の陣営らしき場所にたどり着くと、思った通り、町野長門守の姿があった。桑名城で三倍飯を平らげたうえに、高いびきで眠り込んでいたという忠三郎の乳人子は、のんびりと空を見上げて退屈そうに欠伸している。
「若殿。如何なされます?まさか殴り込みをかけられるおつもりではありますまいな」
助九郎が控えめに問いかけると、三九郎はフッと笑みを浮かべ、
「そのような無粋なことはせぬ。されど、いざとなれば撃てるよう、鉄砲隊を支度させておけ。助九郎は引き続き義太夫に合図を送れ」
そう言い残すや否や、三九郎はひとり、悠然と陣屋へ向けて歩み出した。
その堂々とした足取りは、敵地に乗り込む者のそれとは到底思えず、寄せ手の兵たちも、不審がるどころか道を譲る始末だ。
「長門守」
穏やかでありながらも威厳を帯びた声が響くと、町野長門守は振り返り、目を丸くした。
「こ、こ、これは、た、滝川様…」
声を震わせる長門守に、三九郎は冷然と問いかける。
「義太夫は?」
「は、は、はい…。義太夫殿はこの奥に…」
指差すその手はかすかに震え、長門守の顔には冷や汗が滲んでいた。
三九郎は微動だにせずその場に立ち尽くし、長門守の顔をじっと見つめたあと、静かに一言。
「通せ」
その一声に、長門守は慌てふためきながら道を開け、三九郎は再び悠然と進み出そうとした。
陣屋に吹き込む夜風が、肩にかかった裾をふわりと揺らし、後ろに控える助九郎が思わず息を呑む。
(若殿のこの肝の据わりよう。これで殴り込みではないと言うのだから、まこと恐れ入る…)
助九郎は内心でそう呟きながら、呆気に取られていると、帷幕がひとしきり揺れ、中から義太夫が現れた。見る影もなくやせ衰えたその姿が、長い籠城戦の労苦を物語っている。
義太夫は三九郎に気付くと、目尻に柔らかな笑みを浮かべた。
「これは若殿自らお出ましとは!いやはや、ありがたいことじゃ!」
そう言って手を打つ義太夫の声には、心底嬉しそうな響きがあった。
その飾り気のない様子を目にした途端、三九郎の胸にこみ上げた怒りは、雲散霧消してしまった。代わりに胸を満たしたのは、籠城の過酷さを一身に背負った義太夫への深い憐憫と痛みだった。
すると、その直後、また帷幕の中からひとりの人影が飛び出してきて、立ち尽くしている町野長門守にぶつかった。
「痛っ…長門守、かような場所で何を――」
額を押さえながら姿を現したのは、ほかでもない忠三郎その人だった。
忠三郎は目の前に立つ三九郎の姿に気づくと、驚きと警戒が入り混じった表情でこちらを見つめた。
「三九郎…」
三九郎が冷ややかな視線を投げかけると、後ろに控える鉄砲隊の気配を察した忠三郎は、わずかに身構えるような仕草を見せた。
不自然なほどの静寂が広がり、冷たい風が帷幕を揺らし、夜露の匂いが一同を包み込む。三九郎は静かに言葉を発する。
「義太夫を迎えに来た」
三九郎の短く鋭い言葉に、忠三郎は顔を強ばらせた。その様子から、三九郎が約定を違えたことに怒っていると察した忠三郎は、慌てて口を開く。
「三九郎、待て、怒るな!わしは義太夫を桑名へ帰そうと――」
言い訳じみた言葉が口から飛び出すが、その途中で三九郎の冷ややかな視線に言葉を詰まらせた。
そのとき、義太夫が一歩進み出て、笑顔を浮かべながら声を上げる。
「若殿自らおいでくださるとは、これは忝き次第じゃ!」
籠城の疲れを押して喜びを露わにする義太夫に、三九郎も思わず表情を緩める。しかし、内に秘めた怒りの炎は消えぬまま、助九郎に目配せをした。助九郎は手早く義太夫を馬へと乗せる。
「今日のところはこれで帰る。桑名で待っておるぞ、忠三郎」
三九郎は短くそう告げると、馬首を返し、そのまま一行を引き連れて夜道を駆け去っていった。
忠三郎は追いかけることもできず、ただ立ち尽くすしかなかった。篝火の揺れる灯りに照らされる忠三郎の顔には、後悔とも困惑ともつかぬ影が滲んでいた。
「峯城は開城したのか?」
一益が問うと、佐治新介が物見の報告を携えて答えた。
「はい。二日前には確かに開城したとのことでございます」
「では、義太夫はいずこへ参った?」
義太夫が桑名に姿を見せないことに、広間の空気は徐々に緊迫したものになっていく。
「戻ってきた兵の話では、義太夫は今なお、忠三郎の陣中に留め置かれているとのことにございます」
「何?」
三九郎が憤慨して声を上げた。
「城を開けば、桑名への退去を認めると約したではないか。それを反故にするとは、忠三郎め、約定を違えたのでござりましょう!」
一益は三九郎の言葉に目を閉じ、思案した。
「あれは謀を弄するような者ではないが…」
忠三郎に限って、軽々しく約束を破るとは思えない。
では、義太夫の身には何が起きたのだろうか?一益の胸中に重くのしかかる問いは、なおも答えを得られぬままだ。
「新介、物見をさらに増やし、義太夫の所在を細かに探らせよ」
「畏まりました」
佐治新介が深々と頭を下げ、広間を辞した後、一益はしばし窓の外を眺めた。
春浅き桑名の空には、薄紅色の霞がたなびき、風に舞う花びらが水面に浮かぶ。彼方の山裾には柔らかな陽光が降り注ぎ、草木がほのかな緑の色を見せ始めていた。
「義太夫も、この風を感じておろうか…」
一益はふと、義太夫の姿を思い浮かべる。幾たびも険しい戦場を駆け抜けたその背中は、いまどこで何を背負っているのか。
春の風は柔らかに吹き抜けるというのに、その暖かさが胸の重みを和らげることはない。桑名の地を再び火に包むかもしれぬこの戦さが、義太夫にとって、いや自分にとって何を意味するのか。答えはまだ見えぬままだ。
庭先に咲く山吹の花が揺れ、やがて一益は重い足を引きずるように広間を出た。その後ろ姿を包むのは、どこか取り返しのつかぬものを抱え込んだような静寂だけであった。
待てど暮らせど義太夫が戻らぬことに業を煮やした三九郎は、素破頭を務める滝川助太郎を召し出し、忠三郎の陣営の内情を探らせた。やがて戻った助太郎が告げた知らせは、誰も予想だにしないものだった。
「羽柴筑前守が、義太夫殿を殊のほか気に入り、家臣として列に加えたいと申しておりまする」
その言葉に、広間にいた者たちは一瞬息を飲む。
「さらに、家人となれば五万石を与えると…」
「五万石…」
三九郎が呆れたように呟くと、広間にいた面々は皆、一様に顔を見合わせた。
「羽柴筑前守が、義太夫殿を大名として遇するつもりであるとは…」
佐治新介が口を開いたが、その声には驚きと困惑が交じっている。
「忠三郎殿が、それほどまでに義太夫を取り立てる価値があると伝えたのでは?」
道家彦八郎が苦々しげに呟く。
「忠三郎か…」
三九郎はしばらく黙り込んだ。障子越しに柔らかな春の日差しが差し込み、庭先の桜の枝を揺らしている。その光景は静かで平和そのものだが、広間の空気は重く沈んでいた。
「それにしても、義太夫は一体何をして、そこまで気に入られたのか」
三九郎が首を傾げると、助太郎は少しばつが悪そうに答えた。
「なんでも、城に攻め上ろうとする寄せ手に、肥溜めから運び出した糞尿を浴びせかけたとか…」
広間にいた者たちは一瞬の沈黙の後、顔を見合わせた。
「…なんとも、義太夫らしい策ではあるな」
呆れたような、それでいてどこか感嘆の混じった声を漏らしたのは道家彦八郎だ。
「糞尿とは…筑前がそれを聞いて愉快だと思うたのか、あるいはその胆力を気に入ったのか…」
「いや、羽柴筑前守ならば、そこに奇妙な愛嬌と頑固さを見出したのかもしれぬな」
佐治新介が静かに付け加える。
障子越しの陽光が、微かに煙る室内に斜めに差し込んでいた。花びらが風に乗り、ひらひらと庭へ舞い落ちる。
「義太夫のことじゃ、策としては突飛だが、その場においては理に適っておったのであろう」
「いずれにせよ、忠三郎めが義太夫を手放そうとせぬのも、その気概ゆえかもしれんな」
「さにあらず。やはり、これはあの二人の色恋のもつれからくるものであろう」
春の穏やかな風景にそぐわぬ話題に、誰もが苦笑せざるを得ない。
それぞれが思い思いのことを話しはじめ、広間がざわめき立つ中、三九郎は静かな怒りを帯びた声で言い放つ。
「いかに色恋のもつれとはいえ、将兵の桑名引き上げを前提に開城を迫りながら、開城後に約定を違えるとは、断じて許しがたい。かくなる上は、力ずくでも義太夫を奪い返すまで!」
そう言うや、三九郎は傍らにあった太刀を掴み、勢いよく立ち上がった。
「若殿…さりながら、殿には…」
道家彦八郎がためらいがちに口を挟むが、三九郎は振り返りざまに遮る。
「父上には告げるな。これはわしの一存じゃ。もしも問われたら、皆は知らなかったと申せばよい」
その言葉に、周囲は息を呑む。怒りに燃えた三九郎の眼光には、誰も反論できる者はいなかった。
すると、一拍遅れて佐治新介が立ち上がり、低く静かな声で応じる。
「では、わしも一存にて動きまする。目指すは峯城。義太夫を迎えに行くのみ!」
その声が、春の柔らかな風が通り抜ける広間に響き渡る。
花びらがふと障子の隙間から舞い込み、一瞬、広間に揺れる影を落とした。
三九郎が怒りを胸に秘め、夜陰に紛れて寄せ手の陣営にたどり着いたのは、夜も更けたころのことだった。先行して偵察に向かった助九郎が、山陰に身を潜める三九郎と新介のもとへ慌てて戻ってきた。
「如何した助九郎。まるで生気を抜かれたような顔つきをしておるではないか。義太夫はおったのか?」
新介が問いただすと、助九郎は頭を掻きつつ、なんとも言いにくそうな表情を浮かべて答える。
「はい、義太夫殿のお姿は確認いたしました。されど、その…そばには忠三郎殿が…」
「はて。その妙な顔つきは…何を見た?」
三九郎が鋭く問い詰めると、助九郎はさらに困った顔になり、顔を赤らめながらぽつりと口を開いた。
「いやはや、それが…。忠三郎殿が、義太夫殿に…その、今まさに口づけをしようとしておりまして…」
「何?!」
三九郎と新介は同時に声を上げ、思わず顔を見合わせた。
「それで、義太夫は?」
「いや、それがまた…義太夫殿も、まんざらでもないご様子でして…」
そもそも、この妙な噂話の発端は、助九郎と兄の助太郎が仕組んだ矢文によるものだ。二人は忠三郎を煽り、城に攻めかからせるべく、虚言をしたためたつもりでいた。
その矢文には、「義太夫殿が忠三郎殿の布団に潜り込んだ」「二人の睦まじき声が城に響き渡った」などと、なんとも荒唐無稽な文言が並んでいた。書きながらも、助九郎は鼻で笑い、「これで忠三郎殿の怒りを買えば、それでよい」と気軽に考えていた。
だが、その後、矢文による噂話が村々を巡り、桑名にまで広がり、とうとう三九郎の耳にまで届く事態になった。さらに驚くべきことに、噂は次第に現実と絡み合い、何が真実で何が虚構か分からぬほどの展開を見せ始めた。
助九郎は桑名に戻り、状況を知るや、自分たちの矢文がこの大騒動の引き金となったことを悟ったものの、噂がどうしてここまで具体性を帯び、真実味を増してしまったのかが、まるで理解できなかった。
(嘘から出た真とはこのことか…いや、むしろ嘘が真を飲み込み、化け物じみた騒ぎに成り果てたとでも申すべきか)
助九郎がしきりに首を傾げ、もごもごと何かを言い淀む姿を目の当たりにし、三九郎の怒りはとうとう頂点に達した。だが、その怒りをどう表現してよいのか、自分でも分からず、苛立ちが募る。
ついにはおもむろに刀を掴み、立ち上がった。
「最早、あの二人のくだらぬ戯言には付き合い切れぬ!義太夫め、父上がどれほど案じておられるか、分かっておるのか!」
刀の柄を握りしめ、激昂する三九郎の額には汗が滲み出している。
新介は新介で、半ば呆れつつも「義太夫の剛胆さよ」と苦笑するばかりだ。
「首ひとつになったとしても、連れ帰る!助九郎、今すぐ合図をせよ!」
その声に、助九郎はびくりと肩を震わせたが、「ハハッ!」と気を取り直し、急いで口に手を当てると、フクロウの鳴き声を真似た。
「ホウホウ…ホウホウ…」
その音が夜風に紛れて陣中へと響いていく。これが義太夫に、味方が近くまで来ていることを知らせる合図だった。
夜空にフクロウの声が幾度も響く中、三九郎は険しい表情を浮かべたまま、目の前の薄暗い陣城をじっと見つめていた。
その静寂の中、陣城からわずかに音が返ってきた。それはまるで遠くの谷間で木霊するような、小さく控えめなフクロウの鳴き声だった。
「ホウホウ…」
その音を耳にした三九郎は目を細めた。
「義太夫め、確かに気づいておるな。では参ろうぞ」と、静かに言い放った。
助九郎が慌てて、「若殿、くれぐれも無茶はなされませぬよう」とささやくも、三九郎は聞く耳を持たず、険しい表情のまま歩みを進める。
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「若殿、よろしいので。ふいを突いたところで、五万石の禄と囁かれた義太夫が、果たして戻って参るかどうか…」
三九郎は鼻で笑い、短く息を吐いて答える。
「戻らぬというのであれば、その首を取るまでじゃ!参ろうぞ!」
その勢いに新介も呆れながらも、「では、わしもお供仕りまする」と呟き、従うほかない様子で立ち上がった。
三九郎は素破たちに手を振って指示を出すと、夜陰に紛れて姿を隠しつつ、いの一番に陣城へ飛び出していった。
忠三郎の陣営らしき場所にたどり着くと、思った通り、町野長門守の姿があった。桑名城で三倍飯を平らげたうえに、高いびきで眠り込んでいたという忠三郎の乳人子は、のんびりと空を見上げて退屈そうに欠伸している。
「若殿。如何なされます?まさか殴り込みをかけられるおつもりではありますまいな」
助九郎が控えめに問いかけると、三九郎はフッと笑みを浮かべ、
「そのような無粋なことはせぬ。されど、いざとなれば撃てるよう、鉄砲隊を支度させておけ。助九郎は引き続き義太夫に合図を送れ」
そう言い残すや否や、三九郎はひとり、悠然と陣屋へ向けて歩み出した。
その堂々とした足取りは、敵地に乗り込む者のそれとは到底思えず、寄せ手の兵たちも、不審がるどころか道を譲る始末だ。
「長門守」
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「こ、こ、これは、た、滝川様…」
声を震わせる長門守に、三九郎は冷然と問いかける。
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「は、は、はい…。義太夫殿はこの奥に…」
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「通せ」
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(若殿のこの肝の据わりよう。これで殴り込みではないと言うのだから、まこと恐れ入る…)
助九郎は内心でそう呟きながら、呆気に取られていると、帷幕がひとしきり揺れ、中から義太夫が現れた。見る影もなくやせ衰えたその姿が、長い籠城戦の労苦を物語っている。
義太夫は三九郎に気付くと、目尻に柔らかな笑みを浮かべた。
「これは若殿自らお出ましとは!いやはや、ありがたいことじゃ!」
そう言って手を打つ義太夫の声には、心底嬉しそうな響きがあった。
その飾り気のない様子を目にした途端、三九郎の胸にこみ上げた怒りは、雲散霧消してしまった。代わりに胸を満たしたのは、籠城の過酷さを一身に背負った義太夫への深い憐憫と痛みだった。
すると、その直後、また帷幕の中からひとりの人影が飛び出してきて、立ち尽くしている町野長門守にぶつかった。
「痛っ…長門守、かような場所で何を――」
額を押さえながら姿を現したのは、ほかでもない忠三郎その人だった。
忠三郎は目の前に立つ三九郎の姿に気づくと、驚きと警戒が入り混じった表情でこちらを見つめた。
「三九郎…」
三九郎が冷ややかな視線を投げかけると、後ろに控える鉄砲隊の気配を察した忠三郎は、わずかに身構えるような仕草を見せた。
不自然なほどの静寂が広がり、冷たい風が帷幕を揺らし、夜露の匂いが一同を包み込む。三九郎は静かに言葉を発する。
「義太夫を迎えに来た」
三九郎の短く鋭い言葉に、忠三郎は顔を強ばらせた。その様子から、三九郎が約定を違えたことに怒っていると察した忠三郎は、慌てて口を開く。
「三九郎、待て、怒るな!わしは義太夫を桑名へ帰そうと――」
言い訳じみた言葉が口から飛び出すが、その途中で三九郎の冷ややかな視線に言葉を詰まらせた。
そのとき、義太夫が一歩進み出て、笑顔を浮かべながら声を上げる。
「若殿自らおいでくださるとは、これは忝き次第じゃ!」
籠城の疲れを押して喜びを露わにする義太夫に、三九郎も思わず表情を緩める。しかし、内に秘めた怒りの炎は消えぬまま、助九郎に目配せをした。助九郎は手早く義太夫を馬へと乗せる。
「今日のところはこれで帰る。桑名で待っておるぞ、忠三郎」
三九郎は短くそう告げると、馬首を返し、そのまま一行を引き連れて夜道を駆け去っていった。
忠三郎は追いかけることもできず、ただ立ち尽くすしかなかった。篝火の揺れる灯りに照らされる忠三郎の顔には、後悔とも困惑ともつかぬ影が滲んでいた。
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ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。
蒼雷の艦隊
和蘭芹わこ
歴史・時代
第五回歴史時代小説大賞に応募しています。
よろしければ、お気に入り登録と投票是非宜しくお願いします。
一九四二年、三月二日。
スラバヤ沖海戦中に、英国の軍兵四二二人が、駆逐艦『雷』によって救助され、その命を助けられた。
雷艦長、その名は「工藤俊作」。
身長一八八センチの大柄な身体……ではなく、その姿は一三○センチにも満たない身体であった。
これ程までに小さな身体で、一体どういう風に指示を送ったのか。
これは、史実とは少し違う、そんな小さな艦長の物語。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~
城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。
一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。
四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
そして、1907年7月30日のことである。
連合航空艦隊
ypaaaaaaa
歴史・時代
1929年のロンドン海軍軍縮条約を機に海軍内では新時代の軍備についての議論が活発に行われるようになった。その中で生れたのが”航空艦隊主義”だった。この考えは当初、一部の中堅将校や青年将校が唱えていたものだが途中からいわゆる海軍左派である山本五十六や米内光政がこの考えを支持し始めて実現のためにの政治力を駆使し始めた。この航空艦隊主義と言うものは”重巡以上の大型艦を全て空母に改装する”というかなり極端なものだった。それでも1936年の条約失効を持って日本海軍は航空艦隊主義に傾注していくことになる。
デモ版と言っては何ですが、こんなものも書く予定があるんだなぁ程度に思ってい頂けると幸いです。
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