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23.宿命の対決
23-3. 焼き討ち
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可笑しな矢文に乗せられ、手痛い敗戦を味わってから早くもひと月が経過してようとしている。
忠三郎が義太夫と対峙している一方で、桑名城も羽柴秀長ら二万の兵に囲まれている。さらには、越前で柴田勝家が挙兵し、北近江へと進軍を開始した。また、岐阜の織田信孝も兵を挙げたとの噂が戦火の風に乗り、四方へと伝わりゆく。
「このままでは我らの命運もつきるものかと…」
町野左近は、皺寄る眉に苦悩を刻みつつ、声を沈めてつぶやく。その面差しには、日々に焦燥が色濃く滲み出ている。
一方で、関盛信は、届く不利な報せにもいささか動じることなく、嵐の中にあっても揺るがぬ大木のごとく、泰然と構えていた。
「いかに劣勢とはいえ、これしきのことで騒ぐ必要はあるまい。勝ち目の見えぬ戦こそ、敵も油断するもの。勝利とは、かく乱の中から拾い上げるものである。ここで慌てふためいた者から、命運を断たれるのじゃ」
一見すれば豪胆な振る舞いながら、その言葉の端々には、どこか他人事のような冷ややかさが滲んでおり、忠三郎の胸中に芽生えつつあった疑念を、より一層濃くするものだった。
(叔父上は、やはり敵に通じておるのであろうか)
心の内でつぶやきつつ、密かに盛信の挙動に目を光らせていた。飄々とした表情の裏に潜む真意を測らんとするかのように、注意深くその言葉や動きを観察していた。
そんな折、ふいに帷幕の外から喧噪の響きが聞こえ始めた。それは、風に乗って徐々に大きくなり、ただならぬ様子を感じさせる。
「これは…一体何事か」
忠三郎は即座に立ち上がり、周囲に指示を飛ばす。
「外の様子を見て参れ!」
命じられた兵が駆け出すと、城内の空気は張り詰め、そこかしこに緊張が漂い始めた。忠三郎は剣の柄に手を添え、じっと騒ぎの方向へ耳を澄ませながら、ひとつ深く息を吸い込んだ。
(ここしばらく奇襲もなりを潜めておったが…)
忠三郎は目を細めながら、外の騒ぎに耳をすませた。陣城は二重三重の木柵で囲まれ、万が一の乱入を恐れる必要はない。しかし、義太夫が相手となれば、何を仕掛けてくるかは予測がつかない。
騒ぎはますます激しさを増し、忠三郎の心は次第に落ち着かなくなった。ついに意を決して立ち上がり、外の様子を確かめるべく陣の外へと歩み出た。
眼前には、峯城付近で立ち上る黒煙が見えた。燃え盛る炎が空を焦がし、村の方角へと広がっている。
(これは一体何事か…)
忠三郎は眉をひそめ、胸の奥で不安を覚えつつも、口を開いた。
「爺、爺はおらぬか」
その呼び声に応じ、間もなく町野左近が駆けつけてきた。顔には動揺が浮かび、額には汗が滲んでいる。
「これは何としたことか」
忠三郎の問いに、町野左近は息を整えつつ答えた。
「どうやら…峯城より逃れ出た敵兵どもが付近の村に潜み、それを追った寄せ手の兵が…火を放ったものかと存じまする」
「村に火を放った…と申すか?」
「寄せ手の行いならば、民草が被害を被るのではないか。そもそも村を焼くなど、理に適わぬ所業」
「それがしも、事の次第をまだ詳しく存じませぬ。ただ…混乱の中で手違いがあったやもしれませぬ」
忠三郎は拳を握りしめ、燃え盛る炎を見据えた。その視線には怒りとも焦燥ともつかぬ感情が宿り、胸の内で言い知れぬ思いが渦巻いてくる。
(義太夫、これはおぬしの計略か。それとも…わが軍の未熟さゆえの過ちか)
春の霞が炎に呑み込まれ、灰とともに高く空へ舞い上がる。その光景はどこか非現実的で、美しさと残酷さが奇妙に交じり合っていた。戦略として苅田を行うことは常とはいえ、村を直接焼き払うことなど、戦場においても滅多に見られぬ所業。土地に生きる民の命を奪えば、その後の統治に禍根を残すは必定だ。
案の定、村が炎に包まれる様を見た関盛信が、顔色を変えながら忠三郎のもとへ駆けつけてきた。その表情には激しい怒りがあり、眉間には深い皺が刻まれている。
「忠三郎殿!これは一体何事でござるか!寄せ手が村を焼くなど、理も情けも失う所業ではないか!」
盛信の叱責を受け、忠三郎は静かに目を伏せた。
「叔父上、そのような事態となったのは、わが至らなさゆえ。寄せ手が村を焼き討ちしたこと、断じて許されるものではござらぬ」
「至らぬなどと申されるが、なぜにこのようなことが起きたのか、その事情を明らかにされよ!」
忠三郎は一歩前に進み、燃え盛る村をじっと見つめた。
「敵兵を追うあまり、我が軍の兵が理を見失い、ついにこのような愚行に及んだものと推察いたします。すぐさま詮議を行い、責任の所在を明らかにし、しかるべき措置を取る所存にござる」
盛信は忠三郎をじろりと睨みつけたが、怒りを抑えるように一つ息を吐き、口を開いた。
「この戦は、ただ城を落とせば良いというものではない。その後の統治を見据えねば、無意味な勝利となろうぞ。戦に勝ちて民心を失うなど、愚かの極みよ」
忠三郎は深く頭を垂れた。燃え盛る炎の向こう、焼け崩れる家屋が悲鳴のような音を立てていた。それは戦場の現実を、痛烈に二人へと突きつけるかのようだった。
怒り心頭の叔父をなだめ、関盛信がようやく自陣に戻ったあと、忠三郎は静けさの中に一人取り残された。村の煙がなおも空に立ち昇る様を見つめながら、胸中にはひとつの疑念が浮かび上がる。
(城から兵が逃げ出してきた…という話であったが、それだけのことで村を焼くとは、どうにも腑に落ちぬ)
考え込むうち、忠三郎は振り返り、神妙な顔をして控える町野左近に声をかけた。
「妙な話じゃ。爺、詳しい事情を探ってきてはくれぬか」
町野左近はその言葉に深く頷き、すぐさま調べに出向いた。程なくして戻ってきた左近が伝えた報告は、最初に聞いていた通りだった。
「城から出てきた兵は村に入ったところを、寄せ手の兵に発見され、争いとなったものと」
「村に入った…」
忠三郎はその言葉を繰り返しながら、じっと思案に沈んだ。
(城から出て、わざわざ付近の村に向かうとは…)
籠城中の兵が村に出ること自体が危険な行為だ。だが、彼らが城を捨てて逃げ出したわけではないというのなら、その行動には何かしらの理由があったに違いない。
(逃げたのではない。目的をもって村へ向かった…それも、寄せ手に知られたくない何かを行おうとしていた…)
義太夫の行動は、常に何か裏をかいている。何気ない動きの背後に、どのような意図が潜んでいるのか。
忠三郎は静かに立ち上がり、燃え尽きた村を見つめた。そこに広がる焦土は、春の陽光に晒され、なおも微かに煙を立ち上らせている。
(義太夫…おぬしは一体、何をしようというのか…)
瞼を閉じれば、かつての義太夫の策謀が脳裏をよぎる。奇抜でありながらも的確、そして時に予測のつかぬ行動で敵味方を翻弄してきた男だ。
(また新たな奇策を講じておるのか…)
燃え尽きた村を前に立ち尽くしながら、忠三郎は初めて義太夫の胸の内に思いを馳せた。
(そろそろ、使者を送るべき時か…)
すでに幾度も降伏を勧める使者を差し向けている。しかしそのたびに義太夫は固く拒み、無言のまま使者を追い返していた。何度送っても返事は変わらないかもしれないが、城に入ることで、中の様子を伺うことができる。
(朝が来たら、再び使者を立たせよう。それが、この戦を終わらせる鍵になるやもしれぬ)
そう決めた日の翌朝未明、静寂に包まれた陣中に突如として異変が起こった。
静寂に包まれていた陣中に、突然の喧騒が湧き上がった。
「若殿!起きてくだされ!」
焦りに満ちた声に叩き起こされ、忠三郎は夢うつつの中で身を起こした。
「何事じゃ?」
「奇襲でござります!」
「奇襲?そんな馬鹿な…」
奇襲など到底ありえない。昨日の一件以来、城の包囲はこれ以上ないほど厳重にしている。城から出ることなど、義太夫とてできるはずがない。
「城からではございませぬ!」
「城からではない…?では一体…」
報告に来た足軽は、恐る恐る顔を上げて言った。
「恐らくは左近様が…」
「何!義兄上が動いたと申すか!」
驚愕の声を上げる忠三郎。桑名にいる一益が兵を挙げ、こちらの背後を衝いてきたというのだ。
「それは拙い。すぐに迎え撃たねば!」
忠三郎が叫びかけたその時、耳に入ってきたのは兵たちの騒ぎと、我先に逃げ出そうとする足音だった。
「爺、陣を立て直すのじゃ!」
「もはや遅きに失した模様でございます…」
忠三郎は歯噛みした。相手が一益であるならば、その手際に隙があるはずもない。背後を衝かれた以上、戦局を覆すのは至難の業だ。
「ここは引き上げるほかあるまい。残っている兵をまとめ、撤退の支度をせよ!」
焦燥を滲ませつつも冷静に命じた。最悪の事態を避けるため、一刻も早く退却するしか道はない。
そうと定めるや、忠三郎は躊躇うことなく兵をまとめ、峯城より三里の地へと撤収せしめた。陣を整え、体勢を立て直して敵の追撃を待ったものの、一益はそれ以上深追いすることなく、さっさと桑名へと引き上げてしまった。
(我らを追うほどの兵力がないのか…)
万を超す大軍を前にすれば、確かに一益の手勢だけでは深追いは危険だろう。
(それにしても…)
桑名からこの峯城まではそこそこの距離がある。さらに桑名も寄せ手に囲まれており、ここまで来るためには相応の危険が伴うはずだ。いかなる意図あって、このような危地に飛び込んできたのだろうか。
そう考えを巡らせているうち、忠三郎の瞳に一筋の光が差した。
(峯城の兵糧が尽きかけておるやもしれぬ…。義兄上はそれを察して、動いた…。さもなくば、桑名よりこのような危険を冒してまで奇襲を企てる理由がない)
忠三郎は胸中でその理を重ねた。だが、一益の試みもまた寄せ手の壁を完全には破ることはできなかった。
(城は未だ厳重に囲まれている。仮に寄せ手を一時的に撤退させたところで、兵糧を送り込むには至らなかったか…)
昨夜の騒ぎを思い返した。燃え盛る村、追い立てられるようにして散り散りになる兵たち。あの騒ぎの裏には、義太夫の切迫した事情が隠されていたに違いない。
(兵糧の尽きる窮状を打開せんがため、城から兵を村へ送り出した。されど、それを寄せ手に見咎められ、目的を果たすことができなかった…)
目に浮かぶのは、追い詰められた義太夫の姿だ。
(兵糧の調達が敵の目に露見し、逆に争いを招いたのではないか。義太夫も追いつめられておる…されど、諦めた様子は見られぬ。むしろ、さらなる策を講じるための時を稼いでおるのかもしれん)
峯城の方向には、いまだ薄い煙が立ち昇っている。その姿は、義太夫の心中の混乱と、それでもなお戦を続けようとする意志を象徴しているようにも見えた。
忠三郎が義太夫と対峙している一方で、桑名城も羽柴秀長ら二万の兵に囲まれている。さらには、越前で柴田勝家が挙兵し、北近江へと進軍を開始した。また、岐阜の織田信孝も兵を挙げたとの噂が戦火の風に乗り、四方へと伝わりゆく。
「このままでは我らの命運もつきるものかと…」
町野左近は、皺寄る眉に苦悩を刻みつつ、声を沈めてつぶやく。その面差しには、日々に焦燥が色濃く滲み出ている。
一方で、関盛信は、届く不利な報せにもいささか動じることなく、嵐の中にあっても揺るがぬ大木のごとく、泰然と構えていた。
「いかに劣勢とはいえ、これしきのことで騒ぐ必要はあるまい。勝ち目の見えぬ戦こそ、敵も油断するもの。勝利とは、かく乱の中から拾い上げるものである。ここで慌てふためいた者から、命運を断たれるのじゃ」
一見すれば豪胆な振る舞いながら、その言葉の端々には、どこか他人事のような冷ややかさが滲んでおり、忠三郎の胸中に芽生えつつあった疑念を、より一層濃くするものだった。
(叔父上は、やはり敵に通じておるのであろうか)
心の内でつぶやきつつ、密かに盛信の挙動に目を光らせていた。飄々とした表情の裏に潜む真意を測らんとするかのように、注意深くその言葉や動きを観察していた。
そんな折、ふいに帷幕の外から喧噪の響きが聞こえ始めた。それは、風に乗って徐々に大きくなり、ただならぬ様子を感じさせる。
「これは…一体何事か」
忠三郎は即座に立ち上がり、周囲に指示を飛ばす。
「外の様子を見て参れ!」
命じられた兵が駆け出すと、城内の空気は張り詰め、そこかしこに緊張が漂い始めた。忠三郎は剣の柄に手を添え、じっと騒ぎの方向へ耳を澄ませながら、ひとつ深く息を吸い込んだ。
(ここしばらく奇襲もなりを潜めておったが…)
忠三郎は目を細めながら、外の騒ぎに耳をすませた。陣城は二重三重の木柵で囲まれ、万が一の乱入を恐れる必要はない。しかし、義太夫が相手となれば、何を仕掛けてくるかは予測がつかない。
騒ぎはますます激しさを増し、忠三郎の心は次第に落ち着かなくなった。ついに意を決して立ち上がり、外の様子を確かめるべく陣の外へと歩み出た。
眼前には、峯城付近で立ち上る黒煙が見えた。燃え盛る炎が空を焦がし、村の方角へと広がっている。
(これは一体何事か…)
忠三郎は眉をひそめ、胸の奥で不安を覚えつつも、口を開いた。
「爺、爺はおらぬか」
その呼び声に応じ、間もなく町野左近が駆けつけてきた。顔には動揺が浮かび、額には汗が滲んでいる。
「これは何としたことか」
忠三郎の問いに、町野左近は息を整えつつ答えた。
「どうやら…峯城より逃れ出た敵兵どもが付近の村に潜み、それを追った寄せ手の兵が…火を放ったものかと存じまする」
「村に火を放った…と申すか?」
「寄せ手の行いならば、民草が被害を被るのではないか。そもそも村を焼くなど、理に適わぬ所業」
「それがしも、事の次第をまだ詳しく存じませぬ。ただ…混乱の中で手違いがあったやもしれませぬ」
忠三郎は拳を握りしめ、燃え盛る炎を見据えた。その視線には怒りとも焦燥ともつかぬ感情が宿り、胸の内で言い知れぬ思いが渦巻いてくる。
(義太夫、これはおぬしの計略か。それとも…わが軍の未熟さゆえの過ちか)
春の霞が炎に呑み込まれ、灰とともに高く空へ舞い上がる。その光景はどこか非現実的で、美しさと残酷さが奇妙に交じり合っていた。戦略として苅田を行うことは常とはいえ、村を直接焼き払うことなど、戦場においても滅多に見られぬ所業。土地に生きる民の命を奪えば、その後の統治に禍根を残すは必定だ。
案の定、村が炎に包まれる様を見た関盛信が、顔色を変えながら忠三郎のもとへ駆けつけてきた。その表情には激しい怒りがあり、眉間には深い皺が刻まれている。
「忠三郎殿!これは一体何事でござるか!寄せ手が村を焼くなど、理も情けも失う所業ではないか!」
盛信の叱責を受け、忠三郎は静かに目を伏せた。
「叔父上、そのような事態となったのは、わが至らなさゆえ。寄せ手が村を焼き討ちしたこと、断じて許されるものではござらぬ」
「至らぬなどと申されるが、なぜにこのようなことが起きたのか、その事情を明らかにされよ!」
忠三郎は一歩前に進み、燃え盛る村をじっと見つめた。
「敵兵を追うあまり、我が軍の兵が理を見失い、ついにこのような愚行に及んだものと推察いたします。すぐさま詮議を行い、責任の所在を明らかにし、しかるべき措置を取る所存にござる」
盛信は忠三郎をじろりと睨みつけたが、怒りを抑えるように一つ息を吐き、口を開いた。
「この戦は、ただ城を落とせば良いというものではない。その後の統治を見据えねば、無意味な勝利となろうぞ。戦に勝ちて民心を失うなど、愚かの極みよ」
忠三郎は深く頭を垂れた。燃え盛る炎の向こう、焼け崩れる家屋が悲鳴のような音を立てていた。それは戦場の現実を、痛烈に二人へと突きつけるかのようだった。
怒り心頭の叔父をなだめ、関盛信がようやく自陣に戻ったあと、忠三郎は静けさの中に一人取り残された。村の煙がなおも空に立ち昇る様を見つめながら、胸中にはひとつの疑念が浮かび上がる。
(城から兵が逃げ出してきた…という話であったが、それだけのことで村を焼くとは、どうにも腑に落ちぬ)
考え込むうち、忠三郎は振り返り、神妙な顔をして控える町野左近に声をかけた。
「妙な話じゃ。爺、詳しい事情を探ってきてはくれぬか」
町野左近はその言葉に深く頷き、すぐさま調べに出向いた。程なくして戻ってきた左近が伝えた報告は、最初に聞いていた通りだった。
「城から出てきた兵は村に入ったところを、寄せ手の兵に発見され、争いとなったものと」
「村に入った…」
忠三郎はその言葉を繰り返しながら、じっと思案に沈んだ。
(城から出て、わざわざ付近の村に向かうとは…)
籠城中の兵が村に出ること自体が危険な行為だ。だが、彼らが城を捨てて逃げ出したわけではないというのなら、その行動には何かしらの理由があったに違いない。
(逃げたのではない。目的をもって村へ向かった…それも、寄せ手に知られたくない何かを行おうとしていた…)
義太夫の行動は、常に何か裏をかいている。何気ない動きの背後に、どのような意図が潜んでいるのか。
忠三郎は静かに立ち上がり、燃え尽きた村を見つめた。そこに広がる焦土は、春の陽光に晒され、なおも微かに煙を立ち上らせている。
(義太夫…おぬしは一体、何をしようというのか…)
瞼を閉じれば、かつての義太夫の策謀が脳裏をよぎる。奇抜でありながらも的確、そして時に予測のつかぬ行動で敵味方を翻弄してきた男だ。
(また新たな奇策を講じておるのか…)
燃え尽きた村を前に立ち尽くしながら、忠三郎は初めて義太夫の胸の内に思いを馳せた。
(そろそろ、使者を送るべき時か…)
すでに幾度も降伏を勧める使者を差し向けている。しかしそのたびに義太夫は固く拒み、無言のまま使者を追い返していた。何度送っても返事は変わらないかもしれないが、城に入ることで、中の様子を伺うことができる。
(朝が来たら、再び使者を立たせよう。それが、この戦を終わらせる鍵になるやもしれぬ)
そう決めた日の翌朝未明、静寂に包まれた陣中に突如として異変が起こった。
静寂に包まれていた陣中に、突然の喧騒が湧き上がった。
「若殿!起きてくだされ!」
焦りに満ちた声に叩き起こされ、忠三郎は夢うつつの中で身を起こした。
「何事じゃ?」
「奇襲でござります!」
「奇襲?そんな馬鹿な…」
奇襲など到底ありえない。昨日の一件以来、城の包囲はこれ以上ないほど厳重にしている。城から出ることなど、義太夫とてできるはずがない。
「城からではございませぬ!」
「城からではない…?では一体…」
報告に来た足軽は、恐る恐る顔を上げて言った。
「恐らくは左近様が…」
「何!義兄上が動いたと申すか!」
驚愕の声を上げる忠三郎。桑名にいる一益が兵を挙げ、こちらの背後を衝いてきたというのだ。
「それは拙い。すぐに迎え撃たねば!」
忠三郎が叫びかけたその時、耳に入ってきたのは兵たちの騒ぎと、我先に逃げ出そうとする足音だった。
「爺、陣を立て直すのじゃ!」
「もはや遅きに失した模様でございます…」
忠三郎は歯噛みした。相手が一益であるならば、その手際に隙があるはずもない。背後を衝かれた以上、戦局を覆すのは至難の業だ。
「ここは引き上げるほかあるまい。残っている兵をまとめ、撤退の支度をせよ!」
焦燥を滲ませつつも冷静に命じた。最悪の事態を避けるため、一刻も早く退却するしか道はない。
そうと定めるや、忠三郎は躊躇うことなく兵をまとめ、峯城より三里の地へと撤収せしめた。陣を整え、体勢を立て直して敵の追撃を待ったものの、一益はそれ以上深追いすることなく、さっさと桑名へと引き上げてしまった。
(我らを追うほどの兵力がないのか…)
万を超す大軍を前にすれば、確かに一益の手勢だけでは深追いは危険だろう。
(それにしても…)
桑名からこの峯城まではそこそこの距離がある。さらに桑名も寄せ手に囲まれており、ここまで来るためには相応の危険が伴うはずだ。いかなる意図あって、このような危地に飛び込んできたのだろうか。
そう考えを巡らせているうち、忠三郎の瞳に一筋の光が差した。
(峯城の兵糧が尽きかけておるやもしれぬ…。義兄上はそれを察して、動いた…。さもなくば、桑名よりこのような危険を冒してまで奇襲を企てる理由がない)
忠三郎は胸中でその理を重ねた。だが、一益の試みもまた寄せ手の壁を完全には破ることはできなかった。
(城は未だ厳重に囲まれている。仮に寄せ手を一時的に撤退させたところで、兵糧を送り込むには至らなかったか…)
昨夜の騒ぎを思い返した。燃え盛る村、追い立てられるようにして散り散りになる兵たち。あの騒ぎの裏には、義太夫の切迫した事情が隠されていたに違いない。
(兵糧の尽きる窮状を打開せんがため、城から兵を村へ送り出した。されど、それを寄せ手に見咎められ、目的を果たすことができなかった…)
目に浮かぶのは、追い詰められた義太夫の姿だ。
(兵糧の調達が敵の目に露見し、逆に争いを招いたのではないか。義太夫も追いつめられておる…されど、諦めた様子は見られぬ。むしろ、さらなる策を講じるための時を稼いでおるのかもしれん)
峯城の方向には、いまだ薄い煙が立ち昇っている。その姿は、義太夫の心中の混乱と、それでもなお戦を続けようとする意志を象徴しているようにも見えた。
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