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23.宿命の対決
23-1. ふたりの思惑
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亀山城が遂に明け渡されたのは、城攻めが始まってからおよそ二月の後だった。
だが、その姿は、かつての威容とは程遠い。城主・関盛信が「城を無傷で取り戻したい」と願った思惑とは裏腹に、金堀衆が石垣も櫓も掘り崩し、壮麗だった亀山城は、見る影もなく荒れ果てた無残な姿をさらしていた。
それでもなお、佐治新介は頑強に抗い続けた。その姿は、さながら命尽きるまで戦を辞めぬ覚悟を示しているかのようであった。忠三郎がどれほど言を尽くして降伏を促しても、新介は微塵の揺るぎも見せず、ただ奮戦するのみ。
ついには忠三郎も業を煮やし、桑名にいる一益へ使者を送ることを決めた。新介を説得するため、最後の頼みとして頭を下げた。
忠三郎からの使者が訪れると、桑名では家臣たちが思わず顔を見合わせた。
「忠三郎ごときが、何ゆえにかような使者を送り寄こしたのでありましょうな?」
真っ先に声を上げたのは三九郎だった。もとより忠三郎を信用しておらず、冷笑を浮かべながら吐き捨てるように言う。
「そう申すな、三九郎」
一益はそう言って宥め、落ち着いた声色で続けた。
「亀山には新介もおれば、津田小平次もおる。鶴にとっても昔から馴染みの深い者たちじゃ。敵味方に分かれたとはいえ、鶴にも情があるゆえ、二人の命を惜しんでのことであろう」
新介にも義太夫にも、「城を死守する必要はない」と伝えてあった。それにもかかわらず、二人は孤軍奮闘し、頑なに降伏を拒んでいる。その姿は、むしろ死を覚悟した武士の潔さすら漂わせる。
「しかし、新介はなぜ、ここまでして抗うのか…」
三九郎が眉を寄せ、険しい表情を浮かべる。その問いは、その場の誰もが抱く疑問だった。
「鶴を相手にして、意固地になっておるのであろう」
一益は静かに首を振り、遠く彼方の山影を見つめるように目を細めた。その眼差しには、ただ無情な戦を憂う思いが宿るのみ。
「されど、ここで無駄死にさせるわけにはいかぬ。戦さは始まったばかりじゃ」
胸中には、むやみに家臣の命を散らすことへの強い忌避がある。
忠三郎からの伝言にある「城明け渡しに応じれば、長島への退去を認める」との条件は、もはや最良の選択肢といえる。ここで意地を張れば、守るべき兵を失い、次なる戦局を危うくするばかり。
ほどなくして、一益の意を受けた使者が亀山城に到着した。その声が新介に届く。
「これ以上の抵抗は無益。兵を引き、城を渡すがよい」
新介は、深々と溜息をつきながら、しばし天を仰いだ。目の前の城壁、その背後に続く戦場の景色が灰色に見える。
「…殿の仰せとあらば致し方なし」
新介と付き従う兵たちは、整然と長島への退却を開始した。その歩みの後ろには、春の風が吹き抜け、散りゆく桜が静かに舞い落ちる。戦場の喧騒とは裏腹に、儚くも穏やかな景色が広がっていた。
こうして、亀山城を巡る戦は終わりを告げた。
「やれやれ、ようやく終わりましたなぁ」
町野左近が甲冑の隙間から額の汗を拭いながら、ふぅと息を漏らした。その顔には安堵と疲労が交じり合い、あたかも長旅から帰還した農夫のようだ。
「爺。息つく暇などはない。これからが難関じゃ」
忠三郎が手にした扇子で軽く町野左近の背を叩きながら、さらりと釘を刺す。その調子があまりにものんびりとしているため、叱責なのか単なる雑談なのか、町野左近には一瞬判別がつかなかった。
「難関…とは?」
「峯城じゃ、峯城」
亀山城のすぐそばにあるその城もまた、亀山と同じく包囲されている。しかし、こちらの守将・義太夫は、どういうわけか新介以上に手ごわいらしい。
いささか気乗りしないまま峯城へと兵を進めると、峯城を取り巻く景色が徐々に広がり始めた。羽柴秀長、三好秀次、筒井順慶といった錚々《そうそう》たる武将たちの築いた付城が見えてくる。まるで巨大な蟻塚のごときその規模に、忠三郎も息を呑む。
「噂によれば、城にはわずか三千の兵しかおらぬとか」
町野左近が、のんびりした調子で告げた。
忠三郎は無言でうなずいたものの、その表情は複雑だ。義太夫がわずか三千の兵を率い、二万もの大軍相手に孤軍奮闘している姿を思い浮かべると、胸の奥が何やら重くなる。それだけではない――義太夫の気概と、どうしようもない頑固さを思い出し、思わず口元が歪んだ。
ところが、その暗い思索はすぐに打ち破られた。
「義太夫殿、噂では飯を炊いて味方を焚きつける名人とか」
忠三郎は目を丸くして町野左近を見た。
「…飯を炊いて、何?」
町野左近は平然と答える。
「いや、それだけでなく、太鼓を叩き、踊りを踊り、兵たちを妙に盛り立てるとか。名人芸ですな」
忠三郎は額に手をやり、やれやれというようにため息をついた。
「…相変わらず、よう分からぬことばかりしておるな…」
だが、その評判が単なる与太話ではないことは、峯城の状況が物語っている。義太夫の「飯と踊り」戦術が何であれ、確実に城兵の士気を保ち、大軍を相手に一歩も引いてはいないのだ。
「…されど、峯城の士気は未だ衰えぬとのことで」
町野左近が声を低めると、忠三郎は少しだけ真剣な顔つきになった。
「うむ、困ったのう…飯と義太夫に勝つ策を考えねばなるまい」
忠三郎は頭を抱え、軍議に臨んだ。目の前に居並ぶ諸将は皆、一様に疲れた顔をしており、その目には憔悴と義太夫の奇策に対する呆れが滲んでいる。やがて、重苦しい沈黙を破るように、織田信包が口を開いた。
「いやはや、義太夫の策には参った!」
声には悔しさと驚きが入り混じり、他の諸将も同調して頷く。
忠三郎が怪訝そうに眉をひそめた。
「して、どのような策を?」
秀吉の弟、羽柴秀長が苦々しい口調で続ける。
「城に攻めかかろうとしたところ、大量の銭が投げられたのでござる」
「銭?」
忠三郎は思わず聞き返した。
「然様。大量の銭が城の上からばらばらと降ってまいり、兵たちは目の色を変えて飛びつき、拾おうと夢中になったところ、突然、鉄砲が一斉に撃ちかけられた次第で!」
その場にいた諸将から一斉にため息が漏れる。
「銭に群がる兵たちの姿たるや、まるで市井の百姓と見紛うばかりで…」
「結局、陣は大混乱。我先にと逃げ出す有様でござった!」
忠三郎はその光景を思い浮かべ、一瞬呆然とした。だが、次第に可笑しさがこみ上げ、唇の端が微かに動くのを抑えられない。
慌てて扇子を広げて顔を隠しながら、低く呟いた。
「義太夫め…策を弄するにも程がある」
ちらりと傍らに控える町野左近を振り返ると、こちらも必死で笑いを噛み殺している。
(それにしても…)
はたと思い当った。
(義太夫の奴、兵の前に銭を投げるほど、懐暖かかったであろうか…)
義太夫の姿を思い浮かべる。いつも擦り切れた着物に、破れた草履。鼻を鳴らしながら手元の銭勘定に頭を悩ませる、そんな姿しか記憶にない。
「爺」
傍らの町野左近に話しかけると、町野左近は相変わらずの律儀さで深々と頭を下げた。
「はい」
「義太夫が銭をばら撒いたというが、それほどの銭、どこから調達したのであろうか?」
左近は少し考え込み、やや申し訳なさそうに答える。
「それが、亀山城内でたまたま銭の入った壺を掘り当てたという噂がございます」
「…掘り当てた?」
忠三郎は呆れた表情で町野左近を見つめた。そんな話を真顔で告げてくるとは…。どうやら聞く相手を間違えたようだ。
(義兄上から銭を渡されておるのであろうか)
真相は不明だ。ただ一つ確かなのは、義太夫のしつこい夜襲と奇策の数々が寄せ手を疲弊させ、ついには付城に籠ることを余儀なくさせたという事実だ。
「これもまた、義太夫の執念というべきか…」
忠三郎は苦笑を浮かべる。
「義太夫殿の奇策に加え、城内の士気は未だ高いと聞きまする。その上、夜襲のたびに兵たちが消耗し、付城での守りが危うくなりつつあるとか」
「ふむ…」
忠三郎は改めて城に目をやる。風に吹かれ、城から漏れ聞こえる太鼓や法螺貝の音が妙に高らかに響いてくる。
(義太夫の奴、あの少ない兵で大軍を相手にここまで粘るとは…まったく厄介な奴め)
そんなことを思いながら、忠三郎は冷たい風に身を震わせ、次なる手を考え始めた。
一方、峯城では、向かい鶴の旗印を見た滝川助九郎が、やや興奮気味に広間に駆け込んできた。
「義太夫殿!ついに参られたようでござりまする!」
「おぉ、鶴か。…ということは、新介めは亀山を明け渡し、桑名に戻ったのじゃな」
その言葉を聞いた瞬間、義太夫は突如として立ち上がり、嬉々とした顔で手を叩いた。
「よし!勝った!勝ったわい!」
助九郎は怪訝そうに首を傾げる。
「はて。勝った…とは?」
義太夫は肩をいからせ、得意満面の笑みを浮かべる。
「賭けに勝ったのじゃ!どちらが先に開城するか、新介と銭をかけておったのじゃ」
そのまま義太夫は嬉々として踊り出した。まるで城内のあちこちが踊り場に変わったかのような賑わいぶりだ。
助九郎はその様子を見て呆れ顔になりながら、ため息を漏らす。
「では、わしの銭は返してもらえるので?」
義太夫は、ひょいと踊りの合間に振り返り、にやりと笑った。
「おぉ、返す、返す。案ずるな。されど手元の銭は皆、ばらまいてしもうたゆえ、亀山で掘り当てた壺の中身が届くまで待ってくれぬか?」
「その亀山を今、忠三郎様に奪われたのではありませぬか!」
助九郎の声が広間に響き渡ったが、義太夫はそれを気にも留めず、さらに勢いよく踊り続ける。
「義太夫殿。踊っておる場合ではありませぬ。亀山を落とした忠三郎殿が陣を構えておるのでござりますぞ」
義太夫は足を止め、扇をひらひら振りながら軽く首をかしげた。
「ふむ…鶴もやるおるのう」
助九郎は急を促すように一歩踏み出す。
「何か手を打たねば」
義太夫は、どこ吹く風といった態で顎を撫で、
「…向こうから仕掛けてくれれば、いくらでも戦いようがあるが、兵糧攻めは厄介じゃのう。飢えというものは戦場において最も恐ろしい敵よ…」
義太夫はうーむと考え
「そうじゃ!鶴をけしかけて、おびき出せばよい!」
「は、されど、いかように?」
助九郎が訝しげに尋ねると、義太夫はまたもや腕を組んでうーむとうなり、やがて大きく頷いた。
「…うむ…鶴のやつも存外に賢いゆえ、そう容易くは乗ってはこんじゃろうが…ここは矢文じゃ!大量の紙を用意し、寄せ手に向けて射るのじゃ!」
助九郎は額に手を当て、呆れたように問う。
「その文の文面は?」
義太夫は自信たっぷりに頬を膨らませ、扇でぱたぱた扇ぎながら高らかに宣言した。
「それは…なにかこう、鶴や家臣どもが動揺しが動揺し、城を攻めずにはおれぬような、そんな文よ!滝川家一の知恵者と呼ばれた助九郎。おぬしに任せる。兄の助太郎も巻き込み、おぬしらで考えてくれ!」
「滝川家一の知恵者などと、呼ばれたこともありませぬが…」
「まぁ、よいではないか。今からじゃ。今、この時より、助九郎は滝川家一の知恵者じゃ」
助九郎は深い溜息をつきながら頭を下げた。
「常より冷静沈着なる忠三郎様を動揺させる文とは…これはまた至難の業にござりますな」
すると義太夫は得意満面に言い放った。
「案ずるな!わしが紙を用意する!おぬしらは文を考えるだけでよいのじゃ。皆で手分けして書き、これでもかとばらまくのじゃ!」
こうして、義太夫の「矢文作戦」は、突如として峯城内に大号令を発した。 城内では兵が筆を握り、紙を前に頭を抱え、矢文製造のために昼夜を問わぬ奮闘が始まった。
だが、その姿は、かつての威容とは程遠い。城主・関盛信が「城を無傷で取り戻したい」と願った思惑とは裏腹に、金堀衆が石垣も櫓も掘り崩し、壮麗だった亀山城は、見る影もなく荒れ果てた無残な姿をさらしていた。
それでもなお、佐治新介は頑強に抗い続けた。その姿は、さながら命尽きるまで戦を辞めぬ覚悟を示しているかのようであった。忠三郎がどれほど言を尽くして降伏を促しても、新介は微塵の揺るぎも見せず、ただ奮戦するのみ。
ついには忠三郎も業を煮やし、桑名にいる一益へ使者を送ることを決めた。新介を説得するため、最後の頼みとして頭を下げた。
忠三郎からの使者が訪れると、桑名では家臣たちが思わず顔を見合わせた。
「忠三郎ごときが、何ゆえにかような使者を送り寄こしたのでありましょうな?」
真っ先に声を上げたのは三九郎だった。もとより忠三郎を信用しておらず、冷笑を浮かべながら吐き捨てるように言う。
「そう申すな、三九郎」
一益はそう言って宥め、落ち着いた声色で続けた。
「亀山には新介もおれば、津田小平次もおる。鶴にとっても昔から馴染みの深い者たちじゃ。敵味方に分かれたとはいえ、鶴にも情があるゆえ、二人の命を惜しんでのことであろう」
新介にも義太夫にも、「城を死守する必要はない」と伝えてあった。それにもかかわらず、二人は孤軍奮闘し、頑なに降伏を拒んでいる。その姿は、むしろ死を覚悟した武士の潔さすら漂わせる。
「しかし、新介はなぜ、ここまでして抗うのか…」
三九郎が眉を寄せ、険しい表情を浮かべる。その問いは、その場の誰もが抱く疑問だった。
「鶴を相手にして、意固地になっておるのであろう」
一益は静かに首を振り、遠く彼方の山影を見つめるように目を細めた。その眼差しには、ただ無情な戦を憂う思いが宿るのみ。
「されど、ここで無駄死にさせるわけにはいかぬ。戦さは始まったばかりじゃ」
胸中には、むやみに家臣の命を散らすことへの強い忌避がある。
忠三郎からの伝言にある「城明け渡しに応じれば、長島への退去を認める」との条件は、もはや最良の選択肢といえる。ここで意地を張れば、守るべき兵を失い、次なる戦局を危うくするばかり。
ほどなくして、一益の意を受けた使者が亀山城に到着した。その声が新介に届く。
「これ以上の抵抗は無益。兵を引き、城を渡すがよい」
新介は、深々と溜息をつきながら、しばし天を仰いだ。目の前の城壁、その背後に続く戦場の景色が灰色に見える。
「…殿の仰せとあらば致し方なし」
新介と付き従う兵たちは、整然と長島への退却を開始した。その歩みの後ろには、春の風が吹き抜け、散りゆく桜が静かに舞い落ちる。戦場の喧騒とは裏腹に、儚くも穏やかな景色が広がっていた。
こうして、亀山城を巡る戦は終わりを告げた。
「やれやれ、ようやく終わりましたなぁ」
町野左近が甲冑の隙間から額の汗を拭いながら、ふぅと息を漏らした。その顔には安堵と疲労が交じり合い、あたかも長旅から帰還した農夫のようだ。
「爺。息つく暇などはない。これからが難関じゃ」
忠三郎が手にした扇子で軽く町野左近の背を叩きながら、さらりと釘を刺す。その調子があまりにものんびりとしているため、叱責なのか単なる雑談なのか、町野左近には一瞬判別がつかなかった。
「難関…とは?」
「峯城じゃ、峯城」
亀山城のすぐそばにあるその城もまた、亀山と同じく包囲されている。しかし、こちらの守将・義太夫は、どういうわけか新介以上に手ごわいらしい。
いささか気乗りしないまま峯城へと兵を進めると、峯城を取り巻く景色が徐々に広がり始めた。羽柴秀長、三好秀次、筒井順慶といった錚々《そうそう》たる武将たちの築いた付城が見えてくる。まるで巨大な蟻塚のごときその規模に、忠三郎も息を呑む。
「噂によれば、城にはわずか三千の兵しかおらぬとか」
町野左近が、のんびりした調子で告げた。
忠三郎は無言でうなずいたものの、その表情は複雑だ。義太夫がわずか三千の兵を率い、二万もの大軍相手に孤軍奮闘している姿を思い浮かべると、胸の奥が何やら重くなる。それだけではない――義太夫の気概と、どうしようもない頑固さを思い出し、思わず口元が歪んだ。
ところが、その暗い思索はすぐに打ち破られた。
「義太夫殿、噂では飯を炊いて味方を焚きつける名人とか」
忠三郎は目を丸くして町野左近を見た。
「…飯を炊いて、何?」
町野左近は平然と答える。
「いや、それだけでなく、太鼓を叩き、踊りを踊り、兵たちを妙に盛り立てるとか。名人芸ですな」
忠三郎は額に手をやり、やれやれというようにため息をついた。
「…相変わらず、よう分からぬことばかりしておるな…」
だが、その評判が単なる与太話ではないことは、峯城の状況が物語っている。義太夫の「飯と踊り」戦術が何であれ、確実に城兵の士気を保ち、大軍を相手に一歩も引いてはいないのだ。
「…されど、峯城の士気は未だ衰えぬとのことで」
町野左近が声を低めると、忠三郎は少しだけ真剣な顔つきになった。
「うむ、困ったのう…飯と義太夫に勝つ策を考えねばなるまい」
忠三郎は頭を抱え、軍議に臨んだ。目の前に居並ぶ諸将は皆、一様に疲れた顔をしており、その目には憔悴と義太夫の奇策に対する呆れが滲んでいる。やがて、重苦しい沈黙を破るように、織田信包が口を開いた。
「いやはや、義太夫の策には参った!」
声には悔しさと驚きが入り混じり、他の諸将も同調して頷く。
忠三郎が怪訝そうに眉をひそめた。
「して、どのような策を?」
秀吉の弟、羽柴秀長が苦々しい口調で続ける。
「城に攻めかかろうとしたところ、大量の銭が投げられたのでござる」
「銭?」
忠三郎は思わず聞き返した。
「然様。大量の銭が城の上からばらばらと降ってまいり、兵たちは目の色を変えて飛びつき、拾おうと夢中になったところ、突然、鉄砲が一斉に撃ちかけられた次第で!」
その場にいた諸将から一斉にため息が漏れる。
「銭に群がる兵たちの姿たるや、まるで市井の百姓と見紛うばかりで…」
「結局、陣は大混乱。我先にと逃げ出す有様でござった!」
忠三郎はその光景を思い浮かべ、一瞬呆然とした。だが、次第に可笑しさがこみ上げ、唇の端が微かに動くのを抑えられない。
慌てて扇子を広げて顔を隠しながら、低く呟いた。
「義太夫め…策を弄するにも程がある」
ちらりと傍らに控える町野左近を振り返ると、こちらも必死で笑いを噛み殺している。
(それにしても…)
はたと思い当った。
(義太夫の奴、兵の前に銭を投げるほど、懐暖かかったであろうか…)
義太夫の姿を思い浮かべる。いつも擦り切れた着物に、破れた草履。鼻を鳴らしながら手元の銭勘定に頭を悩ませる、そんな姿しか記憶にない。
「爺」
傍らの町野左近に話しかけると、町野左近は相変わらずの律儀さで深々と頭を下げた。
「はい」
「義太夫が銭をばら撒いたというが、それほどの銭、どこから調達したのであろうか?」
左近は少し考え込み、やや申し訳なさそうに答える。
「それが、亀山城内でたまたま銭の入った壺を掘り当てたという噂がございます」
「…掘り当てた?」
忠三郎は呆れた表情で町野左近を見つめた。そんな話を真顔で告げてくるとは…。どうやら聞く相手を間違えたようだ。
(義兄上から銭を渡されておるのであろうか)
真相は不明だ。ただ一つ確かなのは、義太夫のしつこい夜襲と奇策の数々が寄せ手を疲弊させ、ついには付城に籠ることを余儀なくさせたという事実だ。
「これもまた、義太夫の執念というべきか…」
忠三郎は苦笑を浮かべる。
「義太夫殿の奇策に加え、城内の士気は未だ高いと聞きまする。その上、夜襲のたびに兵たちが消耗し、付城での守りが危うくなりつつあるとか」
「ふむ…」
忠三郎は改めて城に目をやる。風に吹かれ、城から漏れ聞こえる太鼓や法螺貝の音が妙に高らかに響いてくる。
(義太夫の奴、あの少ない兵で大軍を相手にここまで粘るとは…まったく厄介な奴め)
そんなことを思いながら、忠三郎は冷たい風に身を震わせ、次なる手を考え始めた。
一方、峯城では、向かい鶴の旗印を見た滝川助九郎が、やや興奮気味に広間に駆け込んできた。
「義太夫殿!ついに参られたようでござりまする!」
「おぉ、鶴か。…ということは、新介めは亀山を明け渡し、桑名に戻ったのじゃな」
その言葉を聞いた瞬間、義太夫は突如として立ち上がり、嬉々とした顔で手を叩いた。
「よし!勝った!勝ったわい!」
助九郎は怪訝そうに首を傾げる。
「はて。勝った…とは?」
義太夫は肩をいからせ、得意満面の笑みを浮かべる。
「賭けに勝ったのじゃ!どちらが先に開城するか、新介と銭をかけておったのじゃ」
そのまま義太夫は嬉々として踊り出した。まるで城内のあちこちが踊り場に変わったかのような賑わいぶりだ。
助九郎はその様子を見て呆れ顔になりながら、ため息を漏らす。
「では、わしの銭は返してもらえるので?」
義太夫は、ひょいと踊りの合間に振り返り、にやりと笑った。
「おぉ、返す、返す。案ずるな。されど手元の銭は皆、ばらまいてしもうたゆえ、亀山で掘り当てた壺の中身が届くまで待ってくれぬか?」
「その亀山を今、忠三郎様に奪われたのではありませぬか!」
助九郎の声が広間に響き渡ったが、義太夫はそれを気にも留めず、さらに勢いよく踊り続ける。
「義太夫殿。踊っておる場合ではありませぬ。亀山を落とした忠三郎殿が陣を構えておるのでござりますぞ」
義太夫は足を止め、扇をひらひら振りながら軽く首をかしげた。
「ふむ…鶴もやるおるのう」
助九郎は急を促すように一歩踏み出す。
「何か手を打たねば」
義太夫は、どこ吹く風といった態で顎を撫で、
「…向こうから仕掛けてくれれば、いくらでも戦いようがあるが、兵糧攻めは厄介じゃのう。飢えというものは戦場において最も恐ろしい敵よ…」
義太夫はうーむと考え
「そうじゃ!鶴をけしかけて、おびき出せばよい!」
「は、されど、いかように?」
助九郎が訝しげに尋ねると、義太夫はまたもや腕を組んでうーむとうなり、やがて大きく頷いた。
「…うむ…鶴のやつも存外に賢いゆえ、そう容易くは乗ってはこんじゃろうが…ここは矢文じゃ!大量の紙を用意し、寄せ手に向けて射るのじゃ!」
助九郎は額に手を当て、呆れたように問う。
「その文の文面は?」
義太夫は自信たっぷりに頬を膨らませ、扇でぱたぱた扇ぎながら高らかに宣言した。
「それは…なにかこう、鶴や家臣どもが動揺しが動揺し、城を攻めずにはおれぬような、そんな文よ!滝川家一の知恵者と呼ばれた助九郎。おぬしに任せる。兄の助太郎も巻き込み、おぬしらで考えてくれ!」
「滝川家一の知恵者などと、呼ばれたこともありませぬが…」
「まぁ、よいではないか。今からじゃ。今、この時より、助九郎は滝川家一の知恵者じゃ」
助九郎は深い溜息をつきながら頭を下げた。
「常より冷静沈着なる忠三郎様を動揺させる文とは…これはまた至難の業にござりますな」
すると義太夫は得意満面に言い放った。
「案ずるな!わしが紙を用意する!おぬしらは文を考えるだけでよいのじゃ。皆で手分けして書き、これでもかとばらまくのじゃ!」
こうして、義太夫の「矢文作戦」は、突如として峯城内に大号令を発した。 城内では兵が筆を握り、紙を前に頭を抱え、矢文製造のために昼夜を問わぬ奮闘が始まった。
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空母部隊が対峙した場合敵側の直掩機を強力な戦闘機部隊を攻撃の前の送って一掃する手もあります。
日本のゼロ戦は優秀ですが、悪迄軽戦闘機であり大馬力のPー47やF4U等が出てくれば苦戦は免れません。
この為旧式ですが96式陸攻で使われた金星エンジンをチューンナップし、金星3型エンジン1350馬力に再生させこれを積んだ戦闘機、爆撃機、攻撃機、偵察機を陸海軍共通で戦う。
共通と言う所が大事で国力の小さい日本には試作機も絞って開発すべきで、陸海軍別々に開発する余裕は無いのです。
その他数多くの改良点はありますが、本文で少しづつ紹介して行きましょう。
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