120 / 134
22.骨肉の争い
22-6. 謎の素破
しおりを挟む
亀山城の広間では、佐治新介が怒りを噛み殺しながらも、険しい表情で家人たちを睨みつけていた。
新介は右へ左へと広間を行ったり来たりを繰り返し、荒々しい足音を、固い床板に響かせている。
「この中に埋め火を仕掛け、わしを足止めし、忠三郎を逃がした愚か者が居ることは分かっておる!」
鋭い声が広間に反響し、家人たちは一斉に息を潜めた。誰もが俯き、何かを語ろうとはしない。ただ新介の歩調に合わせ、視線だけを追うばかりだった。
新介は立ち止まり、深く息を吸うと、さらに声を荒げた。
「誰じゃ!名乗り出ぬか!潔く名乗り出るならば、罪を軽くしてやる。今を逃せば、後は知らぬぞ!」
その言葉に、広間は水を打ったように静まり返った。外の冬風が障子を揺らし、冷たい空気が音もなく滑り込む。家人たちの中で一人、年若い侍が小さく咳払いをしたが、すぐに隣の者に肘で突かれ、それ以上動けなくなった。
新介の目が、その侍に鋭く向けられる。
「何か申したいことでもあるのか?」
その一言に、侍の顔が青ざめるのが見えた。しかし、彼は震える声で「い、いえ、何も…」と答え、それ以上口を開こうとはしなかった。
新介は鼻を鳴らし、再び広間を歩き始めた。家人たちの中には、その後ろ姿に怯えながらも、密かに汗をぬぐう者もいた。嵐の前の静けさのような緊張が、重く城内に漂う。
「新介殿。我が家の者と決まったわけではありますまい」
たまりかねて津田小平次が声をかけると、新介は目をむいて小平次を睨みつけた。
「何を申すか!あの爆発は紛れもなく、甲賀の素破が使う埋め火じゃ!それが、都合よく、あの場所にあって、わしが今まさに忠三郎を討たんとするときに爆発したということは、埋め火を仕掛けた者は間違えなく、あの時、あの場におったのじゃ!」
小平次は眉をひそめつつも、冷静を装って応じる。
「されど、甲賀の者が仕掛けたとは限りますまい。埋め火を知る者は、甲賀に限らぬやもしれませぬ」
新介は小平次の言葉を鼻で笑い飛ばし、足元を大きく踏み鳴らした。
「甲賀以外の者が、このような高等な火薬術を使えるか!甲賀者の手の内は、誰よりも我らが一番よく知っておる。あの仕掛け、火薬の具合…全てが、甲賀の手口じゃ!」
埋め火――木箱の中に火薬を詰め、それを地面に埋める。敵が何気なくその上を踏むと爆発する仕掛けだ。甲賀者たちの間では密かに伝わる火器であるが、その扱いは非常に難しい。火薬の配合一つで爆発の威力が変わり、仕掛ける際の注意を怠れば、自分自身が命を落とす危険さえある。
特に、敵が寡兵の場合、木箱を都合よく踏むのを待つには運任せな面が多い。そのため、場合によっては火縄を使って自ら火をつけ、計画的に爆発を誘発させる必要があった。この技術を使いこなせる者は少なく、熟練した素破でなければ難しい代物である。
「あるいは…仕掛けた者は、相当な深手を負ったやもしれませぬ」
津田小平次の慎重な言葉に、新介は一瞬訝しげな顔を見せた。
「なにゆえにそう思う?」
小平次は少し考えるように目を伏せ、続けた。
「火縄で火をつけようとした痕跡が残されておりましたが、どうも火をつけるのに相当な難儀をしていたらしく、燃え尽きた火縄がいくつも散乱しておりました。それだけ余裕がなかったのでは、と」
新介はその言葉に興味を示し、少し険しかった顔を緩めた。
「…ほほう。よう見たのう。小平次、おぬしもなかなか学んでおるではないか」
津田家は尾張の出身であり、小平次も父の秀重も素破ではない。小平次がこの種の火器についての話を聞いたのは、義太夫の戯言混じりの講釈からだった。
「…火縄を何度も試すほど焦りを見せるとは、その者、火傷で手元が狂ったのかもしれませぬな」
新介はその言葉にまた考え込むように視線を落としたが、すぐに鋭い目つきで顔を上げた。
「いや…素破というても我ら程、火薬の扱いに慣れた者もそうはおらぬ。されど、その火傷の者が生き延びておるなら、いずこかへ隠れ潜んでおろう」
「はい。されどここにいるものは皆、怪我ひとつ負うてはおりませぬ。曲者はすでに姿を消したものかと」
津田小平次の落ち着いた言葉に、佐治新介はしばしの間、鋭い視線を家人たちに巡らせた。さながら、中に潜む裏切り者を焙り出そうとするかのようだ。
だが、確かに目の前にいる者たちの中には、怪我どころか動揺を見せる者すらいない。
新介はようやく深く息をつき、肩の力を抜いた。
「ふむ…そうか。ならば、あの場にいた曲者はすでに逃げおおせたということか」
新介の声にはわずかな苛立ちが残っていたが、これ以上家中を疑うつもりはないらしい。
「小平次、これ以上無駄に家人を問い詰めるのは控えるとしよう。おぬしの申す通り、曲者はすでに影も形もなくなったのであろう」
小平次は再び深々と頭を下げた。
「はい。皆、必死に戦って居りまする。責めるべきところは何もござりませぬ」
新介は再び立ち上がり、広間を見回した。その目にわずかな安堵とともに、新たな決意が宿ったようにも見えた。
「よし、ならば曲者の行方を追うは後回しとする。まずはこの城の守りを固めるのが先決じゃ」
新介がその場を後にすると、家人たちは一斉に息をつき、小平次もまたそっと背を伸ばした。だが、その表情には安堵よりも、むしろ複雑な色が浮かんでいる。
(…ここは上手く収めたが、曲者は間違いなく峯城へ向かって走り去った。義太夫殿のもとに向かった可能性が高い)
小平次の思考は、次第に緊迫感を帯びていった。義太夫の飄々とした表の顔をよく知る小平次だが、その裏に秘めた鋭い洞察力と機略の才も見逃してはいなかった。
(…あの曲者。もしや義太夫殿が送り出した者ではなかろうか…。それが忠三郎様を助けるための策であるとすれば…。)
小平次の胸中には、次第に疑念が膨らんでいく。義太夫は一見して人を食ったような軽妙な振る舞いを見せるが、その内には忠義と情を兼ね備えた男だ。忠三郎が彼にとって旧知の友であることも、周囲の者なら知っている話だった。
(もし忠三郎様が窮地に陥ったと知れば、義太夫殿が何か手を打とうとするのは当然かもしれぬ。だが、そのために我らを危険に晒すことになれば…)
義太夫が義のために動いたとしても、その行動が新介に知れ渡れば、家中に不信と動揺をもたらしかねない。そして、小平次自身の立場もまた危うくなる。
小平次はふと立ち止まり、静かに空を見上げた。冬の雲が薄く流れ、冷たい風が頬を撫でる。
(さて、どう動くべきか…。今は事の次第を義太夫殿に確かめることもできぬ。ここは何事もなきかのように静観すべきか)
胸中に去来する焦りと不安は、一向に晴れる気配がなかった。
亀山城から程近い山あいに、関五家のひとつ、峯氏の峯城がある。今朝も屋根瓦が冬の陽を反射し、朝霜に包まれた山々の中にかすかに輝いている。
かつて長島一向一揆攻めの折に関家の嫡男、峯盛祐が討ち死にし、後継者となるべき弟が幼少だったために家督を継ぐこと叶わず、城は信長によって没収された。関一族にとっては運命の場所でもある。
信長の三男・神戸信孝の叔父、岡本下野守が城主としてその座を継いだが、今回の乱において岡本はあっさりと信孝に見切りをつけて羽柴秀吉に寝返った。その報を受けた一益は機を逃さず、信孝と約定を結ぶ。それは、峯家が攻城に加勢し勝利を収めた暁には、城を返還するというものであった。その交渉が果たされるや、峯城はかつての主である峯氏によって呆気なく奪還され、岡本下野守は城を逐われることとなった。
冬枯れの山林を背負った峯城には、今もその静寂の中に剣戟の記憶が宿る。峯氏とともに攻城に加わった義太夫は、羽柴勢の進軍を迎え撃つため、峯城にとどまり、戦の備えを続けている。
冬の陽が低く傾く頃、峯城の石垣を覆う蔦が白い霜に縁取られ、風に鳴る木々が山間の冷気を孕んで揺れる。その音は遠く亀山城からも聞こえるように思われた。義太夫がその風の音に耳を傾けながら、次に訪れるであろう嵐を待つ姿が、城内の小さな手炙りに映る火の揺らめきとともに、孤独にも凛々しく見えた。
そんな静寂を破るかのごとく、峯城の朝に甲高い声が響いた。
「義太夫殿!一大事!一大事でござります!起きてくだされ!」
廊下を駆ける音とともに、滝川助九郎が顔を赤らめて現れる。その声を聞いて、広間の隅で火鉢を囲んでいた義太夫は、のそりと顔を上げた。
「おや、助九郎か。随分と威勢がよいな。されど、もう日が高い。わしはとっくに起きておるわい。それよりも、如何した?天から餅でも降ってきたか?」
義太夫は火鉢の上で、餅らしきものをひっくり返しながら、ぽつりと呟いた。そののんびりとした様子に、助九郎は一瞬たじろぎつつも、両手を大きく振り回して訴える。
「餅ではなく人にござります」
「ん?人?人が降ってきたと?」
義太夫は目を丸くし、助九郎の言葉の意味を測りかねた様子で尋ね返した。
「降ってきたのではありませぬ!」
助九郎は額に汗を滲ませつつ、言葉を続ける。
「なにやら、大やけどを負った者が、羽柴勢の包囲の網をかいくぐり、この峯城に忍び込んできたのでござります!」
「大やけどを負って、城に忍び込む?ほう、そりゃあ手練れの素破か、あるいは世捨て人じゃな。で、そやつ、どこにおる?」
義太夫は一向に呑気な調子を崩さず、助九郎の説明に首を傾げる。
「あちらで手当てしておりまするが、どうにも火傷がひどく…。さすがに羽柴勢の間者ではないと思われますが、詳しいことはわかりませぬ…」
「間者ではない、と。何故そう思うた?」
「…その者、甲賀の者とか。どうも義太夫殿の存じ折のお方だと申し出ておりまする」
「甲賀?甲賀とな?…で、名は?」
義太夫は興味を示したように顎を撫で、助九郎に問い返した。
「名乗れぬと…」
「ん?…名乗れぬ者?。甲賀…。火傷…」
義太夫は真面目な顔で腕組みをし、何やら思案を始める。助九郎はその様子をじっと覗き込みながら、首を傾げてぽつりとつぶやいた。
「それは…謎かけか何かで?」
「戯けたことを申すな!」
義太夫は顔を上げて助九郎を一喝すると、急に慌て出した。
「助九郎!急げ!その者をここへ連れて参れ!いや、待て、わしが行くべきか…いやいや、かような事態に及んで餅など食っている場合ではない!」
助九郎はその様子に呆れつつも、すぐさま案内のため廊下を駆け出した。義太夫も陣羽織をひらめかせ、助九郎の背を追うように廊下を足早に進む。
冷え切った峯城の空気が、冬の澄んだ静寂の中で、二人の足音によって賑わいを取り戻すかのようだった。
峯城は、幾度も戦火にさらされた桑名城と比べ、その歴史の深さと建物の立派さで一際目を引く城だ。天守などという今時の流行り物は持たないが、本丸館は格別な威容を誇り、すべての部屋がきちんと畳敷きになっている。壁には淡い色合いの絵が描かれ、欄間には精緻な彫刻が施されている。下手をすれば、一益の居城たる長島城よりも豪華ではないかと思わせるほどの装飾が目立つ。
そんな本丸館の一室に、謎の素破は寝かされていた。身体にはすでに基本通りの火傷の手当てが施されていたが、布で覆われた手足や顔の半分から覗く肌には、まだ赤黒い痕が痛々しく残っている。特に顔は、表情も読めぬほど布に隠され、かろうじて露わになった片目だけが、かすかに動いていた。
部屋の隅には湯気を立てる桶や薬草が置かれ、急ごしらえながらも、城中でできる限りの治療が行われたことを物語っていた。
義太夫はそっと近づき、顔を覗き込む。
「おぬし、もしや…」
静かにかけた声に、布で覆われた男が微かに頷く。
「義太夫殿…お久しゅうござりまする」
声に聞き覚えがある。義太夫は、やおら膝を折り、顎に手をやってフムと一つ頷いた。
「その火傷…もしや、昨夜、亀山あたりで派手な花火を打ち上げたのはおぬしか?」
妙に惚けた調子で問いかけるその顔に、相手は布の奥で微かに笑みを浮かべたようだった。
「火薬の扱いは不慣れであったろう?何故、そのような無茶なことをした?」
義太夫の言葉にはどこか戯けた調子があったが、その目は真っ直ぐに素破の顔を見つめていた。
男は痛む体を支えるようにして小さく息を吸い、低い声で答えた。
「忠三様が佐治殿に追われ…」
その先を言いかけたが、痛みが襲ったのか、素破は急に眉を寄せ、言葉を切った。
義太夫は、苦しげに息を整える素破の様子をじっと見つめながら、静かに目を閉じた。そして短く「ふむ」と呟く。
「相手が新介であれば手加減も手抜かりもない…それが分かっていたゆえに、大花火を打ち上げて、鶴を逃がした、というわけか…」
素破は無言で小さく頷く。
義太夫はしばらく考え込むような素振りを見せたが、やがて素破を安心させるように笑みを浮かべた。
「しばしのとき、動けぬであろう。それでよい。案ずるな。我らも十重二十重に取り囲まれ、この城を出るもかなわぬゆえ、ここで養生するがよい」
そう言うや否や、義太夫は声高にカハハと笑い、座り直した。
義太夫の笑い声に、素破は薄い布の下から不安げな目を向ける。
「義太夫殿。左近様は忠三様を討とうとされておるので?」
その一言には、心底から忠三郎を案じる気持ちがにじんでいた。義太夫は、はっと驚いたように目を丸くした。
「つまらぬことを申すな。我が殿はいたんだ葦を折るようなお方ではなく、くすぶる燈心を消すようなお方でもない。鶴ごとき童を討ち取り、手柄顔するような小さき器と思うておるのか」
そう言って、あっけらかんと笑い飛ばすと、相手は安堵したように目を閉じ、疲れた体を布団に沈めた。
「安堵いたしました…」
その声はほとんど囁きに近いものだったが、どこかほっとしたような影が浮かんでいた。義太夫はその様子を見届けると、そっと立ち上がり、振り返ることなく部屋を出た。部屋には再び、静かな冬の空気が戻った。
新介は右へ左へと広間を行ったり来たりを繰り返し、荒々しい足音を、固い床板に響かせている。
「この中に埋め火を仕掛け、わしを足止めし、忠三郎を逃がした愚か者が居ることは分かっておる!」
鋭い声が広間に反響し、家人たちは一斉に息を潜めた。誰もが俯き、何かを語ろうとはしない。ただ新介の歩調に合わせ、視線だけを追うばかりだった。
新介は立ち止まり、深く息を吸うと、さらに声を荒げた。
「誰じゃ!名乗り出ぬか!潔く名乗り出るならば、罪を軽くしてやる。今を逃せば、後は知らぬぞ!」
その言葉に、広間は水を打ったように静まり返った。外の冬風が障子を揺らし、冷たい空気が音もなく滑り込む。家人たちの中で一人、年若い侍が小さく咳払いをしたが、すぐに隣の者に肘で突かれ、それ以上動けなくなった。
新介の目が、その侍に鋭く向けられる。
「何か申したいことでもあるのか?」
その一言に、侍の顔が青ざめるのが見えた。しかし、彼は震える声で「い、いえ、何も…」と答え、それ以上口を開こうとはしなかった。
新介は鼻を鳴らし、再び広間を歩き始めた。家人たちの中には、その後ろ姿に怯えながらも、密かに汗をぬぐう者もいた。嵐の前の静けさのような緊張が、重く城内に漂う。
「新介殿。我が家の者と決まったわけではありますまい」
たまりかねて津田小平次が声をかけると、新介は目をむいて小平次を睨みつけた。
「何を申すか!あの爆発は紛れもなく、甲賀の素破が使う埋め火じゃ!それが、都合よく、あの場所にあって、わしが今まさに忠三郎を討たんとするときに爆発したということは、埋め火を仕掛けた者は間違えなく、あの時、あの場におったのじゃ!」
小平次は眉をひそめつつも、冷静を装って応じる。
「されど、甲賀の者が仕掛けたとは限りますまい。埋め火を知る者は、甲賀に限らぬやもしれませぬ」
新介は小平次の言葉を鼻で笑い飛ばし、足元を大きく踏み鳴らした。
「甲賀以外の者が、このような高等な火薬術を使えるか!甲賀者の手の内は、誰よりも我らが一番よく知っておる。あの仕掛け、火薬の具合…全てが、甲賀の手口じゃ!」
埋め火――木箱の中に火薬を詰め、それを地面に埋める。敵が何気なくその上を踏むと爆発する仕掛けだ。甲賀者たちの間では密かに伝わる火器であるが、その扱いは非常に難しい。火薬の配合一つで爆発の威力が変わり、仕掛ける際の注意を怠れば、自分自身が命を落とす危険さえある。
特に、敵が寡兵の場合、木箱を都合よく踏むのを待つには運任せな面が多い。そのため、場合によっては火縄を使って自ら火をつけ、計画的に爆発を誘発させる必要があった。この技術を使いこなせる者は少なく、熟練した素破でなければ難しい代物である。
「あるいは…仕掛けた者は、相当な深手を負ったやもしれませぬ」
津田小平次の慎重な言葉に、新介は一瞬訝しげな顔を見せた。
「なにゆえにそう思う?」
小平次は少し考えるように目を伏せ、続けた。
「火縄で火をつけようとした痕跡が残されておりましたが、どうも火をつけるのに相当な難儀をしていたらしく、燃え尽きた火縄がいくつも散乱しておりました。それだけ余裕がなかったのでは、と」
新介はその言葉に興味を示し、少し険しかった顔を緩めた。
「…ほほう。よう見たのう。小平次、おぬしもなかなか学んでおるではないか」
津田家は尾張の出身であり、小平次も父の秀重も素破ではない。小平次がこの種の火器についての話を聞いたのは、義太夫の戯言混じりの講釈からだった。
「…火縄を何度も試すほど焦りを見せるとは、その者、火傷で手元が狂ったのかもしれませぬな」
新介はその言葉にまた考え込むように視線を落としたが、すぐに鋭い目つきで顔を上げた。
「いや…素破というても我ら程、火薬の扱いに慣れた者もそうはおらぬ。されど、その火傷の者が生き延びておるなら、いずこかへ隠れ潜んでおろう」
「はい。されどここにいるものは皆、怪我ひとつ負うてはおりませぬ。曲者はすでに姿を消したものかと」
津田小平次の落ち着いた言葉に、佐治新介はしばしの間、鋭い視線を家人たちに巡らせた。さながら、中に潜む裏切り者を焙り出そうとするかのようだ。
だが、確かに目の前にいる者たちの中には、怪我どころか動揺を見せる者すらいない。
新介はようやく深く息をつき、肩の力を抜いた。
「ふむ…そうか。ならば、あの場にいた曲者はすでに逃げおおせたということか」
新介の声にはわずかな苛立ちが残っていたが、これ以上家中を疑うつもりはないらしい。
「小平次、これ以上無駄に家人を問い詰めるのは控えるとしよう。おぬしの申す通り、曲者はすでに影も形もなくなったのであろう」
小平次は再び深々と頭を下げた。
「はい。皆、必死に戦って居りまする。責めるべきところは何もござりませぬ」
新介は再び立ち上がり、広間を見回した。その目にわずかな安堵とともに、新たな決意が宿ったようにも見えた。
「よし、ならば曲者の行方を追うは後回しとする。まずはこの城の守りを固めるのが先決じゃ」
新介がその場を後にすると、家人たちは一斉に息をつき、小平次もまたそっと背を伸ばした。だが、その表情には安堵よりも、むしろ複雑な色が浮かんでいる。
(…ここは上手く収めたが、曲者は間違いなく峯城へ向かって走り去った。義太夫殿のもとに向かった可能性が高い)
小平次の思考は、次第に緊迫感を帯びていった。義太夫の飄々とした表の顔をよく知る小平次だが、その裏に秘めた鋭い洞察力と機略の才も見逃してはいなかった。
(…あの曲者。もしや義太夫殿が送り出した者ではなかろうか…。それが忠三郎様を助けるための策であるとすれば…。)
小平次の胸中には、次第に疑念が膨らんでいく。義太夫は一見して人を食ったような軽妙な振る舞いを見せるが、その内には忠義と情を兼ね備えた男だ。忠三郎が彼にとって旧知の友であることも、周囲の者なら知っている話だった。
(もし忠三郎様が窮地に陥ったと知れば、義太夫殿が何か手を打とうとするのは当然かもしれぬ。だが、そのために我らを危険に晒すことになれば…)
義太夫が義のために動いたとしても、その行動が新介に知れ渡れば、家中に不信と動揺をもたらしかねない。そして、小平次自身の立場もまた危うくなる。
小平次はふと立ち止まり、静かに空を見上げた。冬の雲が薄く流れ、冷たい風が頬を撫でる。
(さて、どう動くべきか…。今は事の次第を義太夫殿に確かめることもできぬ。ここは何事もなきかのように静観すべきか)
胸中に去来する焦りと不安は、一向に晴れる気配がなかった。
亀山城から程近い山あいに、関五家のひとつ、峯氏の峯城がある。今朝も屋根瓦が冬の陽を反射し、朝霜に包まれた山々の中にかすかに輝いている。
かつて長島一向一揆攻めの折に関家の嫡男、峯盛祐が討ち死にし、後継者となるべき弟が幼少だったために家督を継ぐこと叶わず、城は信長によって没収された。関一族にとっては運命の場所でもある。
信長の三男・神戸信孝の叔父、岡本下野守が城主としてその座を継いだが、今回の乱において岡本はあっさりと信孝に見切りをつけて羽柴秀吉に寝返った。その報を受けた一益は機を逃さず、信孝と約定を結ぶ。それは、峯家が攻城に加勢し勝利を収めた暁には、城を返還するというものであった。その交渉が果たされるや、峯城はかつての主である峯氏によって呆気なく奪還され、岡本下野守は城を逐われることとなった。
冬枯れの山林を背負った峯城には、今もその静寂の中に剣戟の記憶が宿る。峯氏とともに攻城に加わった義太夫は、羽柴勢の進軍を迎え撃つため、峯城にとどまり、戦の備えを続けている。
冬の陽が低く傾く頃、峯城の石垣を覆う蔦が白い霜に縁取られ、風に鳴る木々が山間の冷気を孕んで揺れる。その音は遠く亀山城からも聞こえるように思われた。義太夫がその風の音に耳を傾けながら、次に訪れるであろう嵐を待つ姿が、城内の小さな手炙りに映る火の揺らめきとともに、孤独にも凛々しく見えた。
そんな静寂を破るかのごとく、峯城の朝に甲高い声が響いた。
「義太夫殿!一大事!一大事でござります!起きてくだされ!」
廊下を駆ける音とともに、滝川助九郎が顔を赤らめて現れる。その声を聞いて、広間の隅で火鉢を囲んでいた義太夫は、のそりと顔を上げた。
「おや、助九郎か。随分と威勢がよいな。されど、もう日が高い。わしはとっくに起きておるわい。それよりも、如何した?天から餅でも降ってきたか?」
義太夫は火鉢の上で、餅らしきものをひっくり返しながら、ぽつりと呟いた。そののんびりとした様子に、助九郎は一瞬たじろぎつつも、両手を大きく振り回して訴える。
「餅ではなく人にござります」
「ん?人?人が降ってきたと?」
義太夫は目を丸くし、助九郎の言葉の意味を測りかねた様子で尋ね返した。
「降ってきたのではありませぬ!」
助九郎は額に汗を滲ませつつ、言葉を続ける。
「なにやら、大やけどを負った者が、羽柴勢の包囲の網をかいくぐり、この峯城に忍び込んできたのでござります!」
「大やけどを負って、城に忍び込む?ほう、そりゃあ手練れの素破か、あるいは世捨て人じゃな。で、そやつ、どこにおる?」
義太夫は一向に呑気な調子を崩さず、助九郎の説明に首を傾げる。
「あちらで手当てしておりまするが、どうにも火傷がひどく…。さすがに羽柴勢の間者ではないと思われますが、詳しいことはわかりませぬ…」
「間者ではない、と。何故そう思うた?」
「…その者、甲賀の者とか。どうも義太夫殿の存じ折のお方だと申し出ておりまする」
「甲賀?甲賀とな?…で、名は?」
義太夫は興味を示したように顎を撫で、助九郎に問い返した。
「名乗れぬと…」
「ん?…名乗れぬ者?。甲賀…。火傷…」
義太夫は真面目な顔で腕組みをし、何やら思案を始める。助九郎はその様子をじっと覗き込みながら、首を傾げてぽつりとつぶやいた。
「それは…謎かけか何かで?」
「戯けたことを申すな!」
義太夫は顔を上げて助九郎を一喝すると、急に慌て出した。
「助九郎!急げ!その者をここへ連れて参れ!いや、待て、わしが行くべきか…いやいや、かような事態に及んで餅など食っている場合ではない!」
助九郎はその様子に呆れつつも、すぐさま案内のため廊下を駆け出した。義太夫も陣羽織をひらめかせ、助九郎の背を追うように廊下を足早に進む。
冷え切った峯城の空気が、冬の澄んだ静寂の中で、二人の足音によって賑わいを取り戻すかのようだった。
峯城は、幾度も戦火にさらされた桑名城と比べ、その歴史の深さと建物の立派さで一際目を引く城だ。天守などという今時の流行り物は持たないが、本丸館は格別な威容を誇り、すべての部屋がきちんと畳敷きになっている。壁には淡い色合いの絵が描かれ、欄間には精緻な彫刻が施されている。下手をすれば、一益の居城たる長島城よりも豪華ではないかと思わせるほどの装飾が目立つ。
そんな本丸館の一室に、謎の素破は寝かされていた。身体にはすでに基本通りの火傷の手当てが施されていたが、布で覆われた手足や顔の半分から覗く肌には、まだ赤黒い痕が痛々しく残っている。特に顔は、表情も読めぬほど布に隠され、かろうじて露わになった片目だけが、かすかに動いていた。
部屋の隅には湯気を立てる桶や薬草が置かれ、急ごしらえながらも、城中でできる限りの治療が行われたことを物語っていた。
義太夫はそっと近づき、顔を覗き込む。
「おぬし、もしや…」
静かにかけた声に、布で覆われた男が微かに頷く。
「義太夫殿…お久しゅうござりまする」
声に聞き覚えがある。義太夫は、やおら膝を折り、顎に手をやってフムと一つ頷いた。
「その火傷…もしや、昨夜、亀山あたりで派手な花火を打ち上げたのはおぬしか?」
妙に惚けた調子で問いかけるその顔に、相手は布の奥で微かに笑みを浮かべたようだった。
「火薬の扱いは不慣れであったろう?何故、そのような無茶なことをした?」
義太夫の言葉にはどこか戯けた調子があったが、その目は真っ直ぐに素破の顔を見つめていた。
男は痛む体を支えるようにして小さく息を吸い、低い声で答えた。
「忠三様が佐治殿に追われ…」
その先を言いかけたが、痛みが襲ったのか、素破は急に眉を寄せ、言葉を切った。
義太夫は、苦しげに息を整える素破の様子をじっと見つめながら、静かに目を閉じた。そして短く「ふむ」と呟く。
「相手が新介であれば手加減も手抜かりもない…それが分かっていたゆえに、大花火を打ち上げて、鶴を逃がした、というわけか…」
素破は無言で小さく頷く。
義太夫はしばらく考え込むような素振りを見せたが、やがて素破を安心させるように笑みを浮かべた。
「しばしのとき、動けぬであろう。それでよい。案ずるな。我らも十重二十重に取り囲まれ、この城を出るもかなわぬゆえ、ここで養生するがよい」
そう言うや否や、義太夫は声高にカハハと笑い、座り直した。
義太夫の笑い声に、素破は薄い布の下から不安げな目を向ける。
「義太夫殿。左近様は忠三様を討とうとされておるので?」
その一言には、心底から忠三郎を案じる気持ちがにじんでいた。義太夫は、はっと驚いたように目を丸くした。
「つまらぬことを申すな。我が殿はいたんだ葦を折るようなお方ではなく、くすぶる燈心を消すようなお方でもない。鶴ごとき童を討ち取り、手柄顔するような小さき器と思うておるのか」
そう言って、あっけらかんと笑い飛ばすと、相手は安堵したように目を閉じ、疲れた体を布団に沈めた。
「安堵いたしました…」
その声はほとんど囁きに近いものだったが、どこかほっとしたような影が浮かんでいた。義太夫はその様子を見届けると、そっと立ち上がり、振り返ることなく部屋を出た。部屋には再び、静かな冬の空気が戻った。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
浅井長政は織田信長に忠誠を誓う
ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。
蒼雷の艦隊
和蘭芹わこ
歴史・時代
第五回歴史時代小説大賞に応募しています。
よろしければ、お気に入り登録と投票是非宜しくお願いします。
一九四二年、三月二日。
スラバヤ沖海戦中に、英国の軍兵四二二人が、駆逐艦『雷』によって救助され、その命を助けられた。
雷艦長、その名は「工藤俊作」。
身長一八八センチの大柄な身体……ではなく、その姿は一三○センチにも満たない身体であった。
これ程までに小さな身体で、一体どういう風に指示を送ったのか。
これは、史実とは少し違う、そんな小さな艦長の物語。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~
城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。
一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。
四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
そして、1907年7月30日のことである。
日本には1942年当時世界最強の機動部隊があった!
明日ハレル
歴史・時代
第2次世界大戦に突入した日本帝国に生き残る道はあったのか?模索して行きたいと思います。
当時6隻の空母を集中使用した南雲機動部隊は航空機300余機を持つ世界最強の戦力でした。
ただ彼らにもレーダーを持たない、空母の直掩機との無線連絡が出来ない、ダメージコントロールが未熟である。制空権の確保という理論が判っていない、空母戦術への理解が無い等多くの問題があります。
空母が誕生して戦術的な物を求めても無理があるでしょう。ただどの様に強力な攻撃部隊を持っていても敵地上空での制空権が確保できなけれな、簡単に言えば攻撃隊を守れなけれな無駄だと言う事です。
空母部隊が対峙した場合敵側の直掩機を強力な戦闘機部隊を攻撃の前の送って一掃する手もあります。
日本のゼロ戦は優秀ですが、悪迄軽戦闘機であり大馬力のPー47やF4U等が出てくれば苦戦は免れません。
この為旧式ですが96式陸攻で使われた金星エンジンをチューンナップし、金星3型エンジン1350馬力に再生させこれを積んだ戦闘機、爆撃機、攻撃機、偵察機を陸海軍共通で戦う。
共通と言う所が大事で国力の小さい日本には試作機も絞って開発すべきで、陸海軍別々に開発する余裕は無いのです。
その他数多くの改良点はありますが、本文で少しづつ紹介して行きましょう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる