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22.骨肉の争い
22-4. 兵は詭道なり
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二日ほど待ったが、秀吉の本隊は未だ姿を現さない。冷えた朝露に包まれる陣中で、堀久太郎が、満を持して口を開く。
「いつまでも、ただ兵を遊ばせては、兵糧を無為に減ずるばかりにござる。いっそ、討って出るのも一案かと存じまするが」
対する関盛信は、しばし考え込むように眉を寄せ、
「されど…いささか、陽は高うござる。戦に勝たんと欲すれば夜討ちがよし、城を破らんと欲すれば放火がよしと、古より申しまする。これより支度を整えるとすれば、明日の夜、見張りの少ない搦手口より忍び寄るが肝要かと」
久太郎もその言に頷き、さらに策を巡らせる。
忠三郎は、二人のやりとりを耳にしつつ、どこか心にかかるものを覚えた。
(いまの話…妙に腑に落ちぬ)
胸中に渦巻く違和感を抱えつつも、その正体を掴むには至らなかった。耳に残る関盛信の言葉が、薄暗い霧のように心に影を落とし、釈然としない思いを引きずる。
それでも、評定は早々に決し、結局は関盛信の進言が採り上げられることとなった。
「明夜、搦手口より攻め寄り、夜討ちを仕掛ける」
その一言で陣中は動き出し、命じられた準備に兵たちは忙しく立ち回る。
忠三郎は黙してそれを見つめるばかりであったが、その視線はどこか遠く、冷えた風が頬を撫でるのを感じながら、心は不意にふっと宙を漂うようであった。
(何ゆえ、こうも胸が騒ぐのか。…いや、思い過ぎかもしれぬ)
そう己に言い聞かせつつも、胸の内に燻る疑念は、次第に形を成しつつあった。
搦手口。
確かに、常の策として敵を油断させるには格好の目標である。しかし、亀山城の搦手口が狭隘であることは、誰の目にも明らかだ。いや、むしろそれが敵の目を欺くための罠であるかもしれない。
「夜討ちともなれば、鉄砲は使えぬ。まずは足軽どもに槍を持たせ、一列に並べて夜陰に紛れて搦手口まで向かい、攻城槌で門を叩く以外はあるまい」
堀久太郎の言葉は冷静で、理路整然としている。しかしその策には、なにやら表面の整い過ぎたものに感じる不自然さがある。
堀久太郎と関盛信が夜討ちに向けて、話を続けているが、忠三郎はどうにも気乗りせず、浮かない顔をして二人の話を聞いていた。
関盛信が自らの手勢を差し出して先導役を買って出る。これもまた、忠三郎の胸中に響くのは、奇妙な静けさ。
(道なき道を進み、狭き門を攻める。それが罠であれば、寄せ手を死地に追いやることになるではないか…)
浮かない顔を隠すこともせず、忠三郎は二人の話を黙して聞いていた。どこか、心の奥底で警鐘が鳴り響いているようだった。
(無策ではない。されど、この策が嵌められたものであれば、我らが手にするは勝利ではなく敗北…)
一陣の風が吹き抜け、忠三郎の額に冷たい汗が滲んだ。夜の静けさがかえって不吉に思えるのは、気のせいなのだろうか。
(この状況…どこかで…)
かつて、同じようなことがあった。それがいつ、どこだったのかは思い出せない。
(搦手口を攻める策であれば、何度もあった筈。されど、それとはまた違う。もっと何か…いや、確かに誰かが似たような状況で…)
まるで霧がかった景色を見るように、過去の記憶が不確かな影となって揺れる。戦さにおいて敵の裏を掻こうとするのは常套であり、しかしその常套こそが罠となる場合もある。
(そもそも素破とは、人を騙し、欺く者…)
忠三郎の脳裏に浮かぶは、かつて滝川家の素破たちが武士を嘲るように笑いながら放った言葉。
(それが…「兵は詭道なり」)
つまり孫子は戦さとは敵を欺くことだと、そう言っている。潔さを重んじる武士にとっては、耳を塞ぎたくなるような言葉だ。
(詭道…敵を欺くことが戦の道理だと…)
そして、この教えを忠三郎に教えたのは、他ならぬ一益だった。
稀代の謀将と呼ばれた乱世の雄。正々堂々と戦うことを是とする者たちにとって、一益の手口は常に理解の範疇を超えていた。が、一益は信長の下で、誰よりもその「詭道」を実践し、勝利を重ねてきた。
(潔く戦うだけでは、勝利は掴めぬ…。義兄上の言う通り、そうであるならば…)
思い出すのは、初陣を飾ったばかりのころ。一益が城攻めの指揮を執る背中を見ながら、放たれた言葉。
「鶴、敵に勝つにはただ力で押すだけでは無い。騙し、欺き、敵の心を乱すもの。戦とは…そのようなものである」
あの時の声が耳元に蘇る。
(義兄上…これは、また義兄上の策か…?)
一益が何かを仕掛けているとすれば、亀山城攻めのこの局面もまた、一つの舞台でしかないのかもしれない。忠三郎の心には、霧のように重い疑念が絡みついて離れなくなった。
自陣に戻ると、さらに可笑しなことが起きた。
「若殿。どうぞ、此度の夜討ち、先陣だけはお引き受けなさらぬようお願い申しあげる」
町野左近が珍しく神妙な面持ちで言い出した。
「如何した、爺。これまでは戦支度に浮き立つばかりだった爺が、急に腰が引けたか?」
忠三郎が笑い交じりに問うと、町野左近は首を横に振り、目を伏せたまま厳かに続けた。
「いえ、若殿。実は我が家の守り神のお告げにござりまする」
「守り神?」
「若殿も存じておいでのことながら、拙者の実の父は竹田神社の神職でござります」
「それは存じておる」
町野左近は、かの町野備前守の養子であるが、元をたどれば竹田神社に仕える安井吉秀の次男だ。それは忠三郎も心得ている。
「その父から早馬が届いておりまする。曰く、此度の戦さにおける夜討ちでの先陣は神の意に背くとのこと。万が一やむを得ず夜討ちに及ぶとしても、若殿が先陣を務めるのだけは断じてならぬと…」
「ほう。それは爺の身を案じるあまり、神の名を借りてきたのではないか?」
「なんという罰当たりなことを仰せになるか」
町野左近が大真面目で怒りだしたので、忠三郎は肩をすくめ、呆れ半分、笑い半分で
「それでは、爺。此度はどのような神託が舞い降りたのか、じっくり聞かせてもらおうではないか」
と肩を叩いた。
町野左近は両手を胸にあわせ、芝居がかった様子で
「神託たるや、拙者の口から軽々しく語れるものではござらぬ」
と重々しく答える。
(全く何を言い出すかと思えば…。わざわざ早馬で伝えてくるとは、何とも奇怪な話ではあるが…。かようなことは確か以前にも…)
前にも似たようなことがあった、と思い返した。
前回は菅屋九右衛門の夢枕に先祖が立ったの云々の話を聞かされた挙句、中国攻めの同行を頼もうとした忠三郎の口添えをあっさり拒んだ時のことだ。
(あの時も、仕方なく右府様に直接談判に参じようとしたが…結局、厠に籠城させられたではないか)
ふと、あの時の苦い記憶が脳裏をよぎる。
(侮れば、また厠籠城させられるのであろうか…)
一抹の不安がよぎる。
(どうにも此度ばかりは気乗りせぬ。爺の申す通り、先陣は控えるのが得策かもしれぬな…)
そう思い至った忠三郎は、ひとまず久太郎に先を任せ、自らは状況を見極めることにした。
「爺、他の者に先陣を譲るのも、時には武士のたしなみかもしれぬ」
町野左近にそう告げると、左近は満面の笑みを浮かべ、
「いやはや、若殿ともなれば、万事お見通しにござりますな!」
と、これ見よがしに頭を下げた。その仕草に、クスリと笑いを漏らしつつも、どこか胸の内が軽くなった気がした。
翌早朝。
関盛信の家臣が先導し、堀久太郎の一隊が搦手口に続く山道へと入る。忠三郎はその様子を横目に見ながら、なおも思考の海に沈んでいた。
(叔父上の言葉…。どうにも気にかかる)
頭の中で何度も繰り返すのは、一昨日の夜、関盛信が語った言葉。
『戦に勝たんと欲すれば夜討ちがよし、城を破らんと欲すれば放火がよしと、古より申しまする。これより支度を整えるとすれば、明日の夜、見張りの少ない搦手口より忍び寄るが肝要かと』
(『戦に勝たんと欲すれば夜討ちがよし、城を破らんと欲すれば放火がよし』…確かにどこかで聞いたことがある)
それが誰の言葉であったか、すぐには思い出せない。古より伝わるとされるその文句だが、妙に耳馴染みがあった。
(…誰の言葉だ?)
思考の奥底をさらうように記憶を探る。
――そうだ、あれは。
かつて一益が、戦の前夜に語った言葉だった。陣中で、手元の戦書を捲りながら、一益は忠三郎に言ったのだ。
『覚えておけ、鶴。戦に勝たんと欲すれば夜討ちがよい。城を破らんと欲すれば放火が肝要よ。古よりそう申す。そしてその古というのは…』
(古というのは…義兄上の詭弁ではなかったか?)
忠三郎の目がうっすらと開き、冷ややかな朝の空気に触れた。そうだ、一益はあの時、笑みを浮かべて言葉を続けたのだ。
『古とは、わしの考えじゃ』
それが一益のやり口だった。古の知恵と称して己の策を正当化し、誰もがその言葉に従わざるを得なくなる。
(されど、なにゆえに叔父上がそれを…)
胸中に浮かぶ疑念はますます深まり、忠三郎はその場に立ち尽くした。搦手口に向かう兵たちの姿が遠ざかるにつれ、胸の鼓動が速まるのを感じる。
(この状況は…)
かつて同じような状況に面したことがある。
(そうか、雑賀の城攻め)
あの時、一益が敵の策に気付かなければ、大敗を喫していただろう。搦手口から攻め入ろうとする忠三郎を、冷静に押しとどめた一益。その時の言葉が、鮮明に蘇る。
「これぞ、まさに敵の策である」
その言葉の重みが、いま胸の奥深くに響く。
「寡兵で大軍に勝たんとするのであれば、まず、一カ所、配置する兵を少なくする」
「わざわざ隙を作ると、そう仰せで?」
首を傾げた忠三郎に、一益は子どもを諭すような穏やかな笑みを浮かべ、頷いた。
「然様。少ない兵を分散させれば不利となる。それゆえ、わざと隙を作り、敵を一カ所に集める」
その「一カ所」とは、広い大手門ではなく、あえて狭い場所――城の搦手口のような、兵力を集中させるには不向きな地形。
「敵が狭き入口から押し寄せるならば、その勢いを鈍らせることができる。しかも、弓、槍、鉄砲と、すべての武器を有効に使う余地が狭められるであろう」
城に侵入する敵の数を制限し、味方に優位な状況を作り出す。それが一益の策だった。
(そうか…この状況、あの時と同じではないか。味方の鉄砲は使えず、搦手口に誘い込まれ、そこで狙い撃たれる…)
今朝、山道へ向かう堀久太郎の一隊の背中を見送った情景が、まざまざと脳裏に蘇る。
(叔父上、何ゆえに…)
胸の奥底に湧き上がる疑念が、忠三郎の呼吸を浅くする。
「爺。爺はおるか?」
帷幕の外へ声をかけると、町野左近が緩慢な足取りで姿を現した。飄々とした笑みを浮かべながら、何か面白いことでもあったかのように首を傾げる。
「おや、若殿にしては、珍しく真剣な面持ちで」
忠三郎は苦笑して、
「叔父上は?」
「途中まで堀様の一隊の道案内をしてから戻られると仰せになり、今朝がた、堀様とともに出立なされましたが…」
(途中まで…)
叔父は引き返してくるようだ。
(怪しい…ますます怪しい)
疑念が駆け巡る。夜討ちを仕掛けるのであれば、昨夜でも充分であったはず。
(まさか、夜討ちを城方に漏らし、その支度を整えるために、時を稼いだのでは…)
ここで一つの仮説が浮かび上がる。夜討ちを提案し、さらに搦手口を推したのは他ならぬ叔父・関盛信だ。この地は叔父の領地であり、亀山城に最も詳しいのも、叔父。当然のごとく、叔父の進言には皆、耳を傾ける。逆に、叔父が寄せ手を罠に嵌めようと思えば、いくらでも寄せ手を混乱に陥れることができる。
(されど、不当に城を奪われ、取り戻してほしいと直訴してきたのは叔父上であった筈。それがなぜ…)
叔父の行動の裏に潜む真意を探ろうとすればするほど、その糸口は見えぬままに絡まり続ける。
(裏切り…?いや、しかし…)
風が帷幕を揺らし、冷たい空気が頬を撫でる。その冷たさが、ますます胸のざわつきを募らせる。
「爺。おぬしの身内、もしくは親しくしておる者でもよい。関家に仕える者の中で、故右府様が討たれた折の話を知る者はおらぬか?」
町野左近はしばし考え込み、首をかしげた。
「は…それはまぁ、関家は蒲生家とは親類の間柄なれば、おらぬこともありませぬが…、何ゆえ今になりて、かようなことをお尋ねに?」
忠三郎はわずかに顔を伏せ、迷いを隠すように苦笑を浮かべた。
「わしはここに来て、叔父上のことをよう知らぬことに気付いた。両家がこれからも末永く付き合うためにも、少し叔父上のことを知っておきたい」
町野左近は納得したように頷く。
「は、なるほど。若殿にしては至極尤もな心がけ。では、すぐには見つかりませぬが、ちとあたりをつけてみましょう」
「頼みいる」
忠三郎は静かに言い、帷幕を去る町野左近の背中を見送った。帷幕の隙間から吹き込む風が、ひやりと頬を撫でる。その冷たさが、忠三郎の胸のざわめきをさらに深めていくようだった。
昼を過ぎた頃、堀久太郎の一隊が先陣を切って進んでいくのを確認し、自らも兵をまとめてその後を追うこととした。
「いつまでも、ただ兵を遊ばせては、兵糧を無為に減ずるばかりにござる。いっそ、討って出るのも一案かと存じまするが」
対する関盛信は、しばし考え込むように眉を寄せ、
「されど…いささか、陽は高うござる。戦に勝たんと欲すれば夜討ちがよし、城を破らんと欲すれば放火がよしと、古より申しまする。これより支度を整えるとすれば、明日の夜、見張りの少ない搦手口より忍び寄るが肝要かと」
久太郎もその言に頷き、さらに策を巡らせる。
忠三郎は、二人のやりとりを耳にしつつ、どこか心にかかるものを覚えた。
(いまの話…妙に腑に落ちぬ)
胸中に渦巻く違和感を抱えつつも、その正体を掴むには至らなかった。耳に残る関盛信の言葉が、薄暗い霧のように心に影を落とし、釈然としない思いを引きずる。
それでも、評定は早々に決し、結局は関盛信の進言が採り上げられることとなった。
「明夜、搦手口より攻め寄り、夜討ちを仕掛ける」
その一言で陣中は動き出し、命じられた準備に兵たちは忙しく立ち回る。
忠三郎は黙してそれを見つめるばかりであったが、その視線はどこか遠く、冷えた風が頬を撫でるのを感じながら、心は不意にふっと宙を漂うようであった。
(何ゆえ、こうも胸が騒ぐのか。…いや、思い過ぎかもしれぬ)
そう己に言い聞かせつつも、胸の内に燻る疑念は、次第に形を成しつつあった。
搦手口。
確かに、常の策として敵を油断させるには格好の目標である。しかし、亀山城の搦手口が狭隘であることは、誰の目にも明らかだ。いや、むしろそれが敵の目を欺くための罠であるかもしれない。
「夜討ちともなれば、鉄砲は使えぬ。まずは足軽どもに槍を持たせ、一列に並べて夜陰に紛れて搦手口まで向かい、攻城槌で門を叩く以外はあるまい」
堀久太郎の言葉は冷静で、理路整然としている。しかしその策には、なにやら表面の整い過ぎたものに感じる不自然さがある。
堀久太郎と関盛信が夜討ちに向けて、話を続けているが、忠三郎はどうにも気乗りせず、浮かない顔をして二人の話を聞いていた。
関盛信が自らの手勢を差し出して先導役を買って出る。これもまた、忠三郎の胸中に響くのは、奇妙な静けさ。
(道なき道を進み、狭き門を攻める。それが罠であれば、寄せ手を死地に追いやることになるではないか…)
浮かない顔を隠すこともせず、忠三郎は二人の話を黙して聞いていた。どこか、心の奥底で警鐘が鳴り響いているようだった。
(無策ではない。されど、この策が嵌められたものであれば、我らが手にするは勝利ではなく敗北…)
一陣の風が吹き抜け、忠三郎の額に冷たい汗が滲んだ。夜の静けさがかえって不吉に思えるのは、気のせいなのだろうか。
(この状況…どこかで…)
かつて、同じようなことがあった。それがいつ、どこだったのかは思い出せない。
(搦手口を攻める策であれば、何度もあった筈。されど、それとはまた違う。もっと何か…いや、確かに誰かが似たような状況で…)
まるで霧がかった景色を見るように、過去の記憶が不確かな影となって揺れる。戦さにおいて敵の裏を掻こうとするのは常套であり、しかしその常套こそが罠となる場合もある。
(そもそも素破とは、人を騙し、欺く者…)
忠三郎の脳裏に浮かぶは、かつて滝川家の素破たちが武士を嘲るように笑いながら放った言葉。
(それが…「兵は詭道なり」)
つまり孫子は戦さとは敵を欺くことだと、そう言っている。潔さを重んじる武士にとっては、耳を塞ぎたくなるような言葉だ。
(詭道…敵を欺くことが戦の道理だと…)
そして、この教えを忠三郎に教えたのは、他ならぬ一益だった。
稀代の謀将と呼ばれた乱世の雄。正々堂々と戦うことを是とする者たちにとって、一益の手口は常に理解の範疇を超えていた。が、一益は信長の下で、誰よりもその「詭道」を実践し、勝利を重ねてきた。
(潔く戦うだけでは、勝利は掴めぬ…。義兄上の言う通り、そうであるならば…)
思い出すのは、初陣を飾ったばかりのころ。一益が城攻めの指揮を執る背中を見ながら、放たれた言葉。
「鶴、敵に勝つにはただ力で押すだけでは無い。騙し、欺き、敵の心を乱すもの。戦とは…そのようなものである」
あの時の声が耳元に蘇る。
(義兄上…これは、また義兄上の策か…?)
一益が何かを仕掛けているとすれば、亀山城攻めのこの局面もまた、一つの舞台でしかないのかもしれない。忠三郎の心には、霧のように重い疑念が絡みついて離れなくなった。
自陣に戻ると、さらに可笑しなことが起きた。
「若殿。どうぞ、此度の夜討ち、先陣だけはお引き受けなさらぬようお願い申しあげる」
町野左近が珍しく神妙な面持ちで言い出した。
「如何した、爺。これまでは戦支度に浮き立つばかりだった爺が、急に腰が引けたか?」
忠三郎が笑い交じりに問うと、町野左近は首を横に振り、目を伏せたまま厳かに続けた。
「いえ、若殿。実は我が家の守り神のお告げにござりまする」
「守り神?」
「若殿も存じておいでのことながら、拙者の実の父は竹田神社の神職でござります」
「それは存じておる」
町野左近は、かの町野備前守の養子であるが、元をたどれば竹田神社に仕える安井吉秀の次男だ。それは忠三郎も心得ている。
「その父から早馬が届いておりまする。曰く、此度の戦さにおける夜討ちでの先陣は神の意に背くとのこと。万が一やむを得ず夜討ちに及ぶとしても、若殿が先陣を務めるのだけは断じてならぬと…」
「ほう。それは爺の身を案じるあまり、神の名を借りてきたのではないか?」
「なんという罰当たりなことを仰せになるか」
町野左近が大真面目で怒りだしたので、忠三郎は肩をすくめ、呆れ半分、笑い半分で
「それでは、爺。此度はどのような神託が舞い降りたのか、じっくり聞かせてもらおうではないか」
と肩を叩いた。
町野左近は両手を胸にあわせ、芝居がかった様子で
「神託たるや、拙者の口から軽々しく語れるものではござらぬ」
と重々しく答える。
(全く何を言い出すかと思えば…。わざわざ早馬で伝えてくるとは、何とも奇怪な話ではあるが…。かようなことは確か以前にも…)
前にも似たようなことがあった、と思い返した。
前回は菅屋九右衛門の夢枕に先祖が立ったの云々の話を聞かされた挙句、中国攻めの同行を頼もうとした忠三郎の口添えをあっさり拒んだ時のことだ。
(あの時も、仕方なく右府様に直接談判に参じようとしたが…結局、厠に籠城させられたではないか)
ふと、あの時の苦い記憶が脳裏をよぎる。
(侮れば、また厠籠城させられるのであろうか…)
一抹の不安がよぎる。
(どうにも此度ばかりは気乗りせぬ。爺の申す通り、先陣は控えるのが得策かもしれぬな…)
そう思い至った忠三郎は、ひとまず久太郎に先を任せ、自らは状況を見極めることにした。
「爺、他の者に先陣を譲るのも、時には武士のたしなみかもしれぬ」
町野左近にそう告げると、左近は満面の笑みを浮かべ、
「いやはや、若殿ともなれば、万事お見通しにござりますな!」
と、これ見よがしに頭を下げた。その仕草に、クスリと笑いを漏らしつつも、どこか胸の内が軽くなった気がした。
翌早朝。
関盛信の家臣が先導し、堀久太郎の一隊が搦手口に続く山道へと入る。忠三郎はその様子を横目に見ながら、なおも思考の海に沈んでいた。
(叔父上の言葉…。どうにも気にかかる)
頭の中で何度も繰り返すのは、一昨日の夜、関盛信が語った言葉。
『戦に勝たんと欲すれば夜討ちがよし、城を破らんと欲すれば放火がよしと、古より申しまする。これより支度を整えるとすれば、明日の夜、見張りの少ない搦手口より忍び寄るが肝要かと』
(『戦に勝たんと欲すれば夜討ちがよし、城を破らんと欲すれば放火がよし』…確かにどこかで聞いたことがある)
それが誰の言葉であったか、すぐには思い出せない。古より伝わるとされるその文句だが、妙に耳馴染みがあった。
(…誰の言葉だ?)
思考の奥底をさらうように記憶を探る。
――そうだ、あれは。
かつて一益が、戦の前夜に語った言葉だった。陣中で、手元の戦書を捲りながら、一益は忠三郎に言ったのだ。
『覚えておけ、鶴。戦に勝たんと欲すれば夜討ちがよい。城を破らんと欲すれば放火が肝要よ。古よりそう申す。そしてその古というのは…』
(古というのは…義兄上の詭弁ではなかったか?)
忠三郎の目がうっすらと開き、冷ややかな朝の空気に触れた。そうだ、一益はあの時、笑みを浮かべて言葉を続けたのだ。
『古とは、わしの考えじゃ』
それが一益のやり口だった。古の知恵と称して己の策を正当化し、誰もがその言葉に従わざるを得なくなる。
(されど、なにゆえに叔父上がそれを…)
胸中に浮かぶ疑念はますます深まり、忠三郎はその場に立ち尽くした。搦手口に向かう兵たちの姿が遠ざかるにつれ、胸の鼓動が速まるのを感じる。
(この状況は…)
かつて同じような状況に面したことがある。
(そうか、雑賀の城攻め)
あの時、一益が敵の策に気付かなければ、大敗を喫していただろう。搦手口から攻め入ろうとする忠三郎を、冷静に押しとどめた一益。その時の言葉が、鮮明に蘇る。
「これぞ、まさに敵の策である」
その言葉の重みが、いま胸の奥深くに響く。
「寡兵で大軍に勝たんとするのであれば、まず、一カ所、配置する兵を少なくする」
「わざわざ隙を作ると、そう仰せで?」
首を傾げた忠三郎に、一益は子どもを諭すような穏やかな笑みを浮かべ、頷いた。
「然様。少ない兵を分散させれば不利となる。それゆえ、わざと隙を作り、敵を一カ所に集める」
その「一カ所」とは、広い大手門ではなく、あえて狭い場所――城の搦手口のような、兵力を集中させるには不向きな地形。
「敵が狭き入口から押し寄せるならば、その勢いを鈍らせることができる。しかも、弓、槍、鉄砲と、すべての武器を有効に使う余地が狭められるであろう」
城に侵入する敵の数を制限し、味方に優位な状況を作り出す。それが一益の策だった。
(そうか…この状況、あの時と同じではないか。味方の鉄砲は使えず、搦手口に誘い込まれ、そこで狙い撃たれる…)
今朝、山道へ向かう堀久太郎の一隊の背中を見送った情景が、まざまざと脳裏に蘇る。
(叔父上、何ゆえに…)
胸の奥底に湧き上がる疑念が、忠三郎の呼吸を浅くする。
「爺。爺はおるか?」
帷幕の外へ声をかけると、町野左近が緩慢な足取りで姿を現した。飄々とした笑みを浮かべながら、何か面白いことでもあったかのように首を傾げる。
「おや、若殿にしては、珍しく真剣な面持ちで」
忠三郎は苦笑して、
「叔父上は?」
「途中まで堀様の一隊の道案内をしてから戻られると仰せになり、今朝がた、堀様とともに出立なされましたが…」
(途中まで…)
叔父は引き返してくるようだ。
(怪しい…ますます怪しい)
疑念が駆け巡る。夜討ちを仕掛けるのであれば、昨夜でも充分であったはず。
(まさか、夜討ちを城方に漏らし、その支度を整えるために、時を稼いだのでは…)
ここで一つの仮説が浮かび上がる。夜討ちを提案し、さらに搦手口を推したのは他ならぬ叔父・関盛信だ。この地は叔父の領地であり、亀山城に最も詳しいのも、叔父。当然のごとく、叔父の進言には皆、耳を傾ける。逆に、叔父が寄せ手を罠に嵌めようと思えば、いくらでも寄せ手を混乱に陥れることができる。
(されど、不当に城を奪われ、取り戻してほしいと直訴してきたのは叔父上であった筈。それがなぜ…)
叔父の行動の裏に潜む真意を探ろうとすればするほど、その糸口は見えぬままに絡まり続ける。
(裏切り…?いや、しかし…)
風が帷幕を揺らし、冷たい空気が頬を撫でる。その冷たさが、ますます胸のざわつきを募らせる。
「爺。おぬしの身内、もしくは親しくしておる者でもよい。関家に仕える者の中で、故右府様が討たれた折の話を知る者はおらぬか?」
町野左近はしばし考え込み、首をかしげた。
「は…それはまぁ、関家は蒲生家とは親類の間柄なれば、おらぬこともありませぬが…、何ゆえ今になりて、かようなことをお尋ねに?」
忠三郎はわずかに顔を伏せ、迷いを隠すように苦笑を浮かべた。
「わしはここに来て、叔父上のことをよう知らぬことに気付いた。両家がこれからも末永く付き合うためにも、少し叔父上のことを知っておきたい」
町野左近は納得したように頷く。
「は、なるほど。若殿にしては至極尤もな心がけ。では、すぐには見つかりませぬが、ちとあたりをつけてみましょう」
「頼みいる」
忠三郎は静かに言い、帷幕を去る町野左近の背中を見送った。帷幕の隙間から吹き込む風が、ひやりと頬を撫でる。その冷たさが、忠三郎の胸のざわめきをさらに深めていくようだった。
昼を過ぎた頃、堀久太郎の一隊が先陣を切って進んでいくのを確認し、自らも兵をまとめてその後を追うこととした。
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主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
矛先を折る!【完結】
おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
三国志を題材にしています。劉備玄徳は乱世の中、複数の群雄のもとを上手に渡り歩いていきます。
当然、本人の魅力ありきだと思いますが、それだけではなく事前交渉をまとめる人間がいたはずです。
そう考えて、スポットを当てたのが簡雍でした。
旗揚げ当初からいる簡雍を交渉役として主人公にした物語です。
つたない文章ですが、よろしくお願いいたします。
この小説は『カクヨム』にも投稿しています。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル
初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。
義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……!
『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527
の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。
※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。
※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。
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