獅子の末裔

卯花月影

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21.北勢燃ゆ

21-1. 冬枯れ

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 綿向神社で神意を受け取った数日後の十二月二日。事態は急転直下を迎えた。信孝が三法師を安土へ移さない姿勢を崩さぬことで、信雄と秀吉が謀反の疑いを口実に挙兵したのだ。その報せは日野にもすぐに届き、秀吉からは恭順を促す使者が繰り返し送り込まれた。

 日々、緊張が高まる中、忠三郎はひとり考え込んでいた。日野を戦火から守るためにはどうすべきか、そして滝川家の関係をどう保つべきか。重圧が肩にのしかかり、眠れぬ夜が続いた。
 そして数日後、忠三郎はついに妹の虎を秀吉のもとへ送り出す決断を下した。

「若殿、これはあまりにも早計に過ぎませぬか!」
 町野左近はその決断に驚き、声を荒げた。
「爺、これ以上、戦火がこの地を危険に晒すことは避けねばならぬ。それに、虎が筑前の手元にあれば、しばらくの間はこの日野にも手出しはできぬであろう」
「さりながら、それでは滝川家との関係がますます危うくなりはしませぬか?虎様が人質として送られたとなれば、織田家の諸将に誤解を招きましょう」
 町野左近の問いに、忠三郎はどこか呑気な調子で答えた。
「そう大げさに考えずともよい。両者、少し頭を冷やせばよいのじゃ。それに、虎はやがて戻る。織田家の中で争う愚かしさに気づけば、羽柴筑前もいつまでも虎を取り込めておこうなどとは思うまいて」

 忠三郎の穏やかな言葉に、左近は思わず眉をひそめた。
「若殿、そのように易々と収まるとは思えませぬ。羽柴筑前は決して一筋縄ではいかぬ相手。このような屈辱を受け入れたとあれば、滝川家やその周囲がどう受け止めるか…」
 それでも忠三郎はどこか飄々としている。
「確かに、筑前は狡猾な男じゃ。されど、この一件が事を荒立てぬための手立てになるのなら、それでよい。虎を人質として送ったのではなく、和を結ぶための一時的な措置に過ぎぬと思えばよい。義兄上も、未だ羽柴、柴田どちらにつくとも決めかねておるようだし、我が心をご理解いただけるであろう」

 町野左近は忠三郎の態度に困惑しつつも、その考えに従うほかなかった。
 一見、楽観的にも映る忠三郎の決断。その裏には、自らの手を血に染めることなく、織田家の未来を守りたいという苦悩と葛藤が渦巻いていた。


 峠を越えた向こう、北勢の地。桑名城では、城代である義太夫が正室の玉姫とともに、荒れ果てた城の修繕作業に追われていた。
 石垣の隙間を覗き込んだり、木材の接ぎ目を指で確かめたりする義太夫の姿を見て、玉姫は呆れたようにため息をつく。

「義太夫殿。その手で大工仕事などできようはずもなかろう。人足どもに任せてはいかがか」
 腰に手を当てながら言う玉姫に、義太夫は豪快に笑って応じた。
「いやいや、玉姫殿。これはただの城ではない。殿から預かった大切な城じゃ。我が手で直さねば、我が名が泣くというものよ!」
「未だ怪我が治っておらぬと言うに…」
 玉姫は少し呆れた様子ながら、どこか楽しげに義太夫を見つめている。義太夫はそんな玉姫の様子に気づいてか気づかずか、大工道具を手にして石垣に向かい直した。

「これ、見てみい。この角度が悪いと崩れる原因になるんじゃ。わしが見届けねば!」
 玉姫はその真剣な様子に少し笑いながら、また言葉を投げかける
「ときに、何故、急に城を直そうなどと思いたたれたのじゃ」
 玉姫は、手を止めずに木材の束を整理しながら、ふと尋ねた。
 義太夫はその問いに振り返り、玉姫に満面の笑みを向けた。その笑顔には、まるで子供のような無邪気さが漂っている。
「よう気づかれたのう。さすがは我が嫁御」
「褒めることなどない。それで?」
「実は、殿が近々この城を使うことになると、そう仰せになったのじゃ。さすれば、城代たるこの義太夫が自ら手を下さねばなるまいて!」

「殿が…?」
 玉姫は思わず手を止める。
「それは、よもや…昨今、長島へ向かっていく舟をよく目にすることと関りあることでは…?」
 義太夫は、何かを飲み込むように一瞬だけ口を閉ざしたが、すぐにカハハと笑い声を響かせる。
「さすが、よう見ておられる。されど、案ずるなかれ。あれは皆、殿の命によるもの。殿の意向を受け、長島城の備えを万全にしておられるのじゃ」
 桑名湊から一益の居城、長島城へ向けて、兵糧やら武器弾薬やらと大量に運び込まれている。さらには、他家の者と思われる使者が何度も行ききする姿を目にしていた。
「兵糧や武器弾薬をあれほどまでに運び込むとは、尋常ではない…ただ事ではあるまいと思うたのじゃが」

 玉姫の声には控えめながらも鋭い洞察が宿る。
 義太夫は腰に手を当てながら、いつもの豪快な態度を崩さない。
「玉姫殿、考えすぎじゃ。いざとなれば、戦の備えを整えるのが乱世の理というものよ。それに、もし何かあれば、この義太夫が城の修繕どころか、敵も一掃してくれよう!」
 そう言いながら石垣の補修を再開する義太夫の背を見つめ、玉姫は小さくため息をついた。

(義太夫様はいつもあの調子じゃ…。されど、長島の動きがただ事でないのは明白。この城もまた、嵐に見舞われているような気がしてならぬ)

 桑名湊から頻繁に行き交う舟や他家の使者の姿、そして義太夫の言葉の端々ににじむ不安。 
 玉姫の心中をよそに、義太夫は相変わらず石垣と格闘中だ。
「こりゃ、いかん。急いで直さねば…」
 どこか嬉々として石に手をかける
「義太夫殿、あれご覧なされ。また舟が」
 玉姫が指さす方向。その先に見えるのは大川を渡り、長島を目指す渡し船。

「むむ?」
 義太夫は手を止め、その方向をじっと見つめる。次の瞬間、何かに思い至ったように眉を跳ね上げた。
「あれは…行かねば!」
 そう叫ぶや否や、手にしていた道具を放り出して大急ぎで支度を始める。
「ちと、長島へ行って参る」
「え?あの石垣は…」
 玉姫が半ば呆れながら声をかけるも、義太夫の耳にはまるで届いていないようだ。いそいそと野良着から小袖に着替え、得意げに刀を腰に差している。

「何もご案じめさるな。玉姫殿にはわしがついておる」
 腰をトントンと叩きながら、どこか誇らしげなその姿に、玉姫は笑いをこらえる。
「それで城の石垣が崩れてしまったら、わらわにどう致せと?」
 鋭い皮肉を交えた言葉にも、義太夫は全く動じる様子がない。むしろ、ますます調子に乗ったように、
「ふふん、玉姫殿のためなら、わしは一晩で石垣のひとつやふたつ積み直してみせるぞ!」
 と胸を張ってのたまう。
 その自信はどこから来るのか、どうにも理解しがたい。それでも、憎めぬ夫の姿に小さく嘆息しながら、
「然様でございますか。では、お帰りをお待ちしております」
 と、静かに頭を下げた。

 義太夫はその素直な返答に満足したのか、
「うむ、任せておけ!」
 と笑いながら、勢いよく城の門を出ていく。
「ほんに、あの方の仰せはどこまでが真で、どこまで法螺かもようわからぬ」
 小さく呟いた玉姫の目には、心配と呆れと、それからほんの少しの愛情が滲んでいた。

 義太夫が、渡し舟で大川を渡り長島城へ向かうと、思った通り、中勢の関城から来た使者が広間に通されていた。                     
「関といえば…鶴の叔父とかいう…」
 義太夫はぽりぽりと頭を掻きながら、記憶の引き出しを漁るように空を仰ぎ見た。
「あの家は確か…なにやらややこしいことになっていたような…」
 義太夫は鼻を鳴らして呟く。何かしらの問題があったことは覚えているが、それが何だったかまでは思い出せない。

 詰所の襖が軽やかに開き、佐治新介がふらりと姿を見せた。その口元には笑みを浮かべているものの、どこか不穏な空気をまとっている。
「家督争いじゃ。それも、元はと言えば蒲生忠三郎が元凶じゃ」
 義太夫はその一言に目を丸くして、慌てて問い返した。
「お?鶴?元凶じゃと? それはまた、いかなる…」

 新介は少し芝居がかった口調で話し始めた。
「関城ではな、兄弟どもの間で家督を巡る争いが起きておる。その火種を撒いたのが、他でもない忠三郎。覚えておらぬのか」
「ムム…」
 何かを思い出そうとするものの、記憶の糸は絡まり、要領を得ない。やがて、ふと曖昧な感覚だけが浮かび上がる。
「あぁ、もしや…関家の跡取りであった嫡男が討死した件か」
「然様。それも忠三郎とともに長島攻めに加わった際のことじゃ。関四郎は、真っ先に敵陣に飛び込み、流れ弾に当たって命を落とされたのじゃ」
 新介の冷静な語り口が、記憶の奥底に眠っていた出来事を呼び起こす。義太夫はハッと息を飲んだ。

「嫡男を失うとは、まさに痛手であったろう…」
「それがのう、その後がさらに大事となった。嫡男の死により、関家は跡目を巡って争いを始めたのじゃ」
 新介の言葉に、義太夫はムムムと眉をひそめる。
「確か、次男は僧籍に入っていたはず。…では、三男が後を継いだのか?」
 新介は皮肉げな笑みを浮かべ、首を振った。
「三男は柴田殿の元で人質として暮らし、元服後も柴田殿の与力として北陸におった。そのため、次男が還俗する話が持ち上がり、それに伴い、忠三郎が仲介に入る形となったのじゃ」

 義太夫の目が大きく見開かれる。
「そうして次男を還俗させた上、鶴の妹を嫁がせ、跡を継がせることに決まった…というわけか」
「ところが、それがまた、諸家の間で波紋を呼び、今も尾を引いておるのじゃ」

 義太夫は深い溜息をつき、手元の木槌をぼんやりと見つめた。
「なんとも、複雑な巡り合わせじゃのう…。鶴もまた、望まずとも時勢の波に巻き込まれておるわけか」
 新介は黙って笑みを浮かべたまま、何も答えない。義太夫は顎に手を当て、目を細めた。
「して…関家の使者が何故にここへ?」
 新介は少し間を置いてから、慎重に言葉を選ぶように答えた。

「あれは三男、十兵衛の元から来た使者じゃ」
「ほう。ではもしや…柴田殿の息のかかった者ということでは…」
 まるで義太夫の推測が的を射ていると認めるかのように、新介は無言で頷く。

 義太夫は手元にあった木槌をポンと置き、少し背を反らすようにしてため息をついた。
「これは穏やかな流れではなさそうじゃ」
「穏やかな訳がない。昨日は千種の使者が参っておった」
 義太夫は腕組みをしながら、少し身を乗り出すようにして新介に問い返した。
「千種?それも鶴の…母の弟とかいう…」
 新介は小さく頷きながら、少し声を落として答える。
「いかにも。千草峠を守る千種三郎左衛門。昨日はその使者が城へ参り、何やら殿と密談をしておった」
 義太夫は「ふむ…」と唸りながら視線を遠くに向けた。
「これは穏やかな流れではなさそうじゃ。」
 そう呟く義太夫に、新介が即座に言葉を返す。
「穏やかな訳がなかろう。昨日の千種の使者だけではなく、このところ、他所からの使者が日を置かず訪れておる。殿は近々、我ら家臣を一堂に集め、何か大きなお話をされるであろう」

 義太夫は新介の言葉を聞きながら、静かに背筋を伸ばした。炉端の微かな熱気に混じる、冬の冷気が肌にしみる。窓の外、枯れ枝の間をすり抜ける風の音が、まるで何かを急かすように耳元を掠める。
「ほう……」
 低く呟く声が、詰所の木壁に染み入るように響いた。
「となると、わしらもいよいよ覚悟を決めねばならぬな。この北勢も、いずれ戦の波に呑まれるやもしれん。」

 遠くには、白く霞む山影が薄日の中にぼんやりと浮かんでいる。その景色は静寂そのものだが、義太夫の胸の内には、どこかざわめくものがあった。

 新介が押し黙るのを見て、義太夫は小さく肩を揺らして息を吐く。重い沈黙の中、ふと自らの掌を見る。粗い石垣を直そうと奮闘したせいで、手のひらには新しい傷がいくつも走っていた。その手を握りしめ、義太夫は立ち上がる。
「ともあれ、殿のお話を待つとしよう。それからじゃ。その後で、この手で何ができるか、じっくり考えればよい」

 新介は無言のまま頷く。義太夫が歩みを進めると、足元の床板が微かに軋んだ。
 詰所を出た先には、冬枯れの庭が広がり、冷たい風が僅かに松の枝を揺らしている。その風が義太夫の頬を撫で、ふと立ち止まった。

「雪が降るのは、そう遠くはなかろうな」
 空を見上げ、呟く義太夫の目に映る雲は、どこか重く垂れ込めている。それはまるで、北勢に押し寄せる運命の影そのもののようだった。
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