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21.北勢燃ゆ
21-1. 冬枯れ
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綿向神社で神意を受け取った数日後の十二月二日。事態は急転直下を迎えた。信孝が三法師を安土へ移さない姿勢を崩さぬことで、信雄と秀吉が謀反の疑いを口実に挙兵したのだ。その報せは日野にもすぐに届き、秀吉からは恭順を促す使者が繰り返し送り込まれた。
日々、緊張が高まる中、忠三郎はひとり考え込んでいた。日野を戦火から守るためにはどうすべきか、そして滝川家の関係をどう保つべきか。重圧が肩にのしかかり、眠れぬ夜が続いた。
そして数日後、忠三郎はついに妹の虎を秀吉のもとへ送り出す決断を下した。
「若殿、これはあまりにも早計に過ぎませぬか!」
町野左近はその決断に驚き、声を荒げた。
「爺、これ以上、戦火がこの地を危険に晒すことは避けねばならぬ。それに、虎が筑前の手元にあれば、しばらくの間はこの日野にも手出しはできぬであろう」
「さりながら、それでは滝川家との関係がますます危うくなりはしませぬか?虎様が人質として送られたとなれば、織田家の諸将に誤解を招きましょう」
町野左近の問いに、忠三郎はどこか呑気な調子で答えた。
「そう大げさに考えずともよい。両者、少し頭を冷やせばよいのじゃ。それに、虎はやがて戻る。織田家の中で争う愚かしさに気づけば、羽柴筑前もいつまでも虎を取り込めておこうなどとは思うまいて」
忠三郎の穏やかな言葉に、左近は思わず眉をひそめた。
「若殿、そのように易々と収まるとは思えませぬ。羽柴筑前は決して一筋縄ではいかぬ相手。このような屈辱を受け入れたとあれば、滝川家やその周囲がどう受け止めるか…」
それでも忠三郎はどこか飄々としている。
「確かに、筑前は狡猾な男じゃ。されど、この一件が事を荒立てぬための手立てになるのなら、それでよい。虎を人質として送ったのではなく、和を結ぶための一時的な措置に過ぎぬと思えばよい。義兄上も、未だ羽柴、柴田どちらにつくとも決めかねておるようだし、我が心をご理解いただけるであろう」
町野左近は忠三郎の態度に困惑しつつも、その考えに従うほかなかった。
一見、楽観的にも映る忠三郎の決断。その裏には、自らの手を血に染めることなく、織田家の未来を守りたいという苦悩と葛藤が渦巻いていた。
峠を越えた向こう、北勢の地。桑名城では、城代である義太夫が正室の玉姫とともに、荒れ果てた城の修繕作業に追われていた。
石垣の隙間を覗き込んだり、木材の接ぎ目を指で確かめたりする義太夫の姿を見て、玉姫は呆れたようにため息をつく。
「義太夫殿。その手で大工仕事などできようはずもなかろう。人足どもに任せてはいかがか」
腰に手を当てながら言う玉姫に、義太夫は豪快に笑って応じた。
「いやいや、玉姫殿。これはただの城ではない。殿から預かった大切な城じゃ。我が手で直さねば、我が名が泣くというものよ!」
「未だ怪我が治っておらぬと言うに…」
玉姫は少し呆れた様子ながら、どこか楽しげに義太夫を見つめている。義太夫はそんな玉姫の様子に気づいてか気づかずか、大工道具を手にして石垣に向かい直した。
「これ、見てみい。この角度が悪いと崩れる原因になるんじゃ。わしが見届けねば!」
玉姫はその真剣な様子に少し笑いながら、また言葉を投げかける
「ときに、何故、急に城を直そうなどと思いたたれたのじゃ」
玉姫は、手を止めずに木材の束を整理しながら、ふと尋ねた。
義太夫はその問いに振り返り、玉姫に満面の笑みを向けた。その笑顔には、まるで子供のような無邪気さが漂っている。
「よう気づかれたのう。さすがは我が嫁御」
「褒めることなどない。それで?」
「実は、殿が近々この城を使うことになると、そう仰せになったのじゃ。さすれば、城代たるこの義太夫が自ら手を下さねばなるまいて!」
「殿が…?」
玉姫は思わず手を止める。
「それは、よもや…昨今、長島へ向かっていく舟をよく目にすることと関りあることでは…?」
義太夫は、何かを飲み込むように一瞬だけ口を閉ざしたが、すぐにカハハと笑い声を響かせる。
「さすが、よう見ておられる。されど、案ずるなかれ。あれは皆、殿の命によるもの。殿の意向を受け、長島城の備えを万全にしておられるのじゃ」
桑名湊から一益の居城、長島城へ向けて、兵糧やら武器弾薬やらと大量に運び込まれている。さらには、他家の者と思われる使者が何度も行ききする姿を目にしていた。
「兵糧や武器弾薬をあれほどまでに運び込むとは、尋常ではない…ただ事ではあるまいと思うたのじゃが」
玉姫の声には控えめながらも鋭い洞察が宿る。
義太夫は腰に手を当てながら、いつもの豪快な態度を崩さない。
「玉姫殿、考えすぎじゃ。いざとなれば、戦の備えを整えるのが乱世の理というものよ。それに、もし何かあれば、この義太夫が城の修繕どころか、敵も一掃してくれよう!」
そう言いながら石垣の補修を再開する義太夫の背を見つめ、玉姫は小さくため息をついた。
(義太夫様はいつもあの調子じゃ…。されど、長島の動きがただ事でないのは明白。この城もまた、嵐に見舞われているような気がしてならぬ)
桑名湊から頻繁に行き交う舟や他家の使者の姿、そして義太夫の言葉の端々ににじむ不安。
玉姫の心中をよそに、義太夫は相変わらず石垣と格闘中だ。
「こりゃ、いかん。急いで直さねば…」
どこか嬉々として石に手をかける
「義太夫殿、あれご覧なされ。また舟が」
玉姫が指さす方向。その先に見えるのは大川を渡り、長島を目指す渡し船。
「むむ?」
義太夫は手を止め、その方向をじっと見つめる。次の瞬間、何かに思い至ったように眉を跳ね上げた。
「あれは…行かねば!」
そう叫ぶや否や、手にしていた道具を放り出して大急ぎで支度を始める。
「ちと、長島へ行って参る」
「え?あの石垣は…」
玉姫が半ば呆れながら声をかけるも、義太夫の耳にはまるで届いていないようだ。いそいそと野良着から小袖に着替え、得意げに刀を腰に差している。
「何もご案じめさるな。玉姫殿にはわしがついておる」
腰をトントンと叩きながら、どこか誇らしげなその姿に、玉姫は笑いをこらえる。
「それで城の石垣が崩れてしまったら、わらわにどう致せと?」
鋭い皮肉を交えた言葉にも、義太夫は全く動じる様子がない。むしろ、ますます調子に乗ったように、
「ふふん、玉姫殿のためなら、わしは一晩で石垣のひとつやふたつ積み直してみせるぞ!」
と胸を張ってのたまう。
その自信はどこから来るのか、どうにも理解しがたい。それでも、憎めぬ夫の姿に小さく嘆息しながら、
「然様でございますか。では、お帰りをお待ちしております」
と、静かに頭を下げた。
義太夫はその素直な返答に満足したのか、
「うむ、任せておけ!」
と笑いながら、勢いよく城の門を出ていく。
「ほんに、あの方の仰せはどこまでが真で、どこまで法螺かもようわからぬ」
小さく呟いた玉姫の目には、心配と呆れと、それからほんの少しの愛情が滲んでいた。
義太夫が、渡し舟で大川を渡り長島城へ向かうと、思った通り、中勢の関城から来た使者が広間に通されていた。
「関といえば…鶴の叔父とかいう…」
義太夫はぽりぽりと頭を掻きながら、記憶の引き出しを漁るように空を仰ぎ見た。
「あの家は確か…なにやらややこしいことになっていたような…」
義太夫は鼻を鳴らして呟く。何かしらの問題があったことは覚えているが、それが何だったかまでは思い出せない。
詰所の襖が軽やかに開き、佐治新介がふらりと姿を見せた。その口元には笑みを浮かべているものの、どこか不穏な空気をまとっている。
「家督争いじゃ。それも、元はと言えば蒲生忠三郎が元凶じゃ」
義太夫はその一言に目を丸くして、慌てて問い返した。
「お?鶴?元凶じゃと? それはまた、いかなる…」
新介は少し芝居がかった口調で話し始めた。
「関城ではな、兄弟どもの間で家督を巡る争いが起きておる。その火種を撒いたのが、他でもない忠三郎。覚えておらぬのか」
「ムム…」
何かを思い出そうとするものの、記憶の糸は絡まり、要領を得ない。やがて、ふと曖昧な感覚だけが浮かび上がる。
「あぁ、もしや…関家の跡取りであった嫡男が討死した件か」
「然様。それも忠三郎とともに長島攻めに加わった際のことじゃ。関四郎は、真っ先に敵陣に飛び込み、流れ弾に当たって命を落とされたのじゃ」
新介の冷静な語り口が、記憶の奥底に眠っていた出来事を呼び起こす。義太夫はハッと息を飲んだ。
「嫡男を失うとは、まさに痛手であったろう…」
「それがのう、その後がさらに大事となった。嫡男の死により、関家は跡目を巡って争いを始めたのじゃ」
新介の言葉に、義太夫はムムムと眉をひそめる。
「確か、次男は僧籍に入っていたはず。…では、三男が後を継いだのか?」
新介は皮肉げな笑みを浮かべ、首を振った。
「三男は柴田殿の元で人質として暮らし、元服後も柴田殿の与力として北陸におった。そのため、次男が還俗する話が持ち上がり、それに伴い、忠三郎が仲介に入る形となったのじゃ」
義太夫の目が大きく見開かれる。
「そうして次男を還俗させた上、鶴の妹を嫁がせ、跡を継がせることに決まった…というわけか」
「ところが、それがまた、諸家の間で波紋を呼び、今も尾を引いておるのじゃ」
義太夫は深い溜息をつき、手元の木槌をぼんやりと見つめた。
「なんとも、複雑な巡り合わせじゃのう…。鶴もまた、望まずとも時勢の波に巻き込まれておるわけか」
新介は黙って笑みを浮かべたまま、何も答えない。義太夫は顎に手を当て、目を細めた。
「して…関家の使者が何故にここへ?」
新介は少し間を置いてから、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「あれは三男、十兵衛の元から来た使者じゃ」
「ほう。ではもしや…柴田殿の息のかかった者ということでは…」
まるで義太夫の推測が的を射ていると認めるかのように、新介は無言で頷く。
義太夫は手元にあった木槌をポンと置き、少し背を反らすようにしてため息をついた。
「これは穏やかな流れではなさそうじゃ」
「穏やかな訳がない。昨日は千種の使者が参っておった」
義太夫は腕組みをしながら、少し身を乗り出すようにして新介に問い返した。
「千種?それも鶴の…母の弟とかいう…」
新介は小さく頷きながら、少し声を落として答える。
「いかにも。千草峠を守る千種三郎左衛門。昨日はその使者が城へ参り、何やら殿と密談をしておった」
義太夫は「ふむ…」と唸りながら視線を遠くに向けた。
「これは穏やかな流れではなさそうじゃ。」
そう呟く義太夫に、新介が即座に言葉を返す。
「穏やかな訳がなかろう。昨日の千種の使者だけではなく、このところ、他所からの使者が日を置かず訪れておる。殿は近々、我ら家臣を一堂に集め、何か大きなお話をされるであろう」
義太夫は新介の言葉を聞きながら、静かに背筋を伸ばした。炉端の微かな熱気に混じる、冬の冷気が肌にしみる。窓の外、枯れ枝の間をすり抜ける風の音が、まるで何かを急かすように耳元を掠める。
「ほう……」
低く呟く声が、詰所の木壁に染み入るように響いた。
「となると、わしらもいよいよ覚悟を決めねばならぬな。この北勢も、いずれ戦の波に呑まれるやもしれん。」
遠くには、白く霞む山影が薄日の中にぼんやりと浮かんでいる。その景色は静寂そのものだが、義太夫の胸の内には、どこかざわめくものがあった。
新介が押し黙るのを見て、義太夫は小さく肩を揺らして息を吐く。重い沈黙の中、ふと自らの掌を見る。粗い石垣を直そうと奮闘したせいで、手のひらには新しい傷がいくつも走っていた。その手を握りしめ、義太夫は立ち上がる。
「ともあれ、殿のお話を待つとしよう。それからじゃ。その後で、この手で何ができるか、じっくり考えればよい」
新介は無言のまま頷く。義太夫が歩みを進めると、足元の床板が微かに軋んだ。
詰所を出た先には、冬枯れの庭が広がり、冷たい風が僅かに松の枝を揺らしている。その風が義太夫の頬を撫で、ふと立ち止まった。
「雪が降るのは、そう遠くはなかろうな」
空を見上げ、呟く義太夫の目に映る雲は、どこか重く垂れ込めている。それはまるで、北勢に押し寄せる運命の影そのもののようだった。
日々、緊張が高まる中、忠三郎はひとり考え込んでいた。日野を戦火から守るためにはどうすべきか、そして滝川家の関係をどう保つべきか。重圧が肩にのしかかり、眠れぬ夜が続いた。
そして数日後、忠三郎はついに妹の虎を秀吉のもとへ送り出す決断を下した。
「若殿、これはあまりにも早計に過ぎませぬか!」
町野左近はその決断に驚き、声を荒げた。
「爺、これ以上、戦火がこの地を危険に晒すことは避けねばならぬ。それに、虎が筑前の手元にあれば、しばらくの間はこの日野にも手出しはできぬであろう」
「さりながら、それでは滝川家との関係がますます危うくなりはしませぬか?虎様が人質として送られたとなれば、織田家の諸将に誤解を招きましょう」
町野左近の問いに、忠三郎はどこか呑気な調子で答えた。
「そう大げさに考えずともよい。両者、少し頭を冷やせばよいのじゃ。それに、虎はやがて戻る。織田家の中で争う愚かしさに気づけば、羽柴筑前もいつまでも虎を取り込めておこうなどとは思うまいて」
忠三郎の穏やかな言葉に、左近は思わず眉をひそめた。
「若殿、そのように易々と収まるとは思えませぬ。羽柴筑前は決して一筋縄ではいかぬ相手。このような屈辱を受け入れたとあれば、滝川家やその周囲がどう受け止めるか…」
それでも忠三郎はどこか飄々としている。
「確かに、筑前は狡猾な男じゃ。されど、この一件が事を荒立てぬための手立てになるのなら、それでよい。虎を人質として送ったのではなく、和を結ぶための一時的な措置に過ぎぬと思えばよい。義兄上も、未だ羽柴、柴田どちらにつくとも決めかねておるようだし、我が心をご理解いただけるであろう」
町野左近は忠三郎の態度に困惑しつつも、その考えに従うほかなかった。
一見、楽観的にも映る忠三郎の決断。その裏には、自らの手を血に染めることなく、織田家の未来を守りたいという苦悩と葛藤が渦巻いていた。
峠を越えた向こう、北勢の地。桑名城では、城代である義太夫が正室の玉姫とともに、荒れ果てた城の修繕作業に追われていた。
石垣の隙間を覗き込んだり、木材の接ぎ目を指で確かめたりする義太夫の姿を見て、玉姫は呆れたようにため息をつく。
「義太夫殿。その手で大工仕事などできようはずもなかろう。人足どもに任せてはいかがか」
腰に手を当てながら言う玉姫に、義太夫は豪快に笑って応じた。
「いやいや、玉姫殿。これはただの城ではない。殿から預かった大切な城じゃ。我が手で直さねば、我が名が泣くというものよ!」
「未だ怪我が治っておらぬと言うに…」
玉姫は少し呆れた様子ながら、どこか楽しげに義太夫を見つめている。義太夫はそんな玉姫の様子に気づいてか気づかずか、大工道具を手にして石垣に向かい直した。
「これ、見てみい。この角度が悪いと崩れる原因になるんじゃ。わしが見届けねば!」
玉姫はその真剣な様子に少し笑いながら、また言葉を投げかける
「ときに、何故、急に城を直そうなどと思いたたれたのじゃ」
玉姫は、手を止めずに木材の束を整理しながら、ふと尋ねた。
義太夫はその問いに振り返り、玉姫に満面の笑みを向けた。その笑顔には、まるで子供のような無邪気さが漂っている。
「よう気づかれたのう。さすがは我が嫁御」
「褒めることなどない。それで?」
「実は、殿が近々この城を使うことになると、そう仰せになったのじゃ。さすれば、城代たるこの義太夫が自ら手を下さねばなるまいて!」
「殿が…?」
玉姫は思わず手を止める。
「それは、よもや…昨今、長島へ向かっていく舟をよく目にすることと関りあることでは…?」
義太夫は、何かを飲み込むように一瞬だけ口を閉ざしたが、すぐにカハハと笑い声を響かせる。
「さすが、よう見ておられる。されど、案ずるなかれ。あれは皆、殿の命によるもの。殿の意向を受け、長島城の備えを万全にしておられるのじゃ」
桑名湊から一益の居城、長島城へ向けて、兵糧やら武器弾薬やらと大量に運び込まれている。さらには、他家の者と思われる使者が何度も行ききする姿を目にしていた。
「兵糧や武器弾薬をあれほどまでに運び込むとは、尋常ではない…ただ事ではあるまいと思うたのじゃが」
玉姫の声には控えめながらも鋭い洞察が宿る。
義太夫は腰に手を当てながら、いつもの豪快な態度を崩さない。
「玉姫殿、考えすぎじゃ。いざとなれば、戦の備えを整えるのが乱世の理というものよ。それに、もし何かあれば、この義太夫が城の修繕どころか、敵も一掃してくれよう!」
そう言いながら石垣の補修を再開する義太夫の背を見つめ、玉姫は小さくため息をついた。
(義太夫様はいつもあの調子じゃ…。されど、長島の動きがただ事でないのは明白。この城もまた、嵐に見舞われているような気がしてならぬ)
桑名湊から頻繁に行き交う舟や他家の使者の姿、そして義太夫の言葉の端々ににじむ不安。
玉姫の心中をよそに、義太夫は相変わらず石垣と格闘中だ。
「こりゃ、いかん。急いで直さねば…」
どこか嬉々として石に手をかける
「義太夫殿、あれご覧なされ。また舟が」
玉姫が指さす方向。その先に見えるのは大川を渡り、長島を目指す渡し船。
「むむ?」
義太夫は手を止め、その方向をじっと見つめる。次の瞬間、何かに思い至ったように眉を跳ね上げた。
「あれは…行かねば!」
そう叫ぶや否や、手にしていた道具を放り出して大急ぎで支度を始める。
「ちと、長島へ行って参る」
「え?あの石垣は…」
玉姫が半ば呆れながら声をかけるも、義太夫の耳にはまるで届いていないようだ。いそいそと野良着から小袖に着替え、得意げに刀を腰に差している。
「何もご案じめさるな。玉姫殿にはわしがついておる」
腰をトントンと叩きながら、どこか誇らしげなその姿に、玉姫は笑いをこらえる。
「それで城の石垣が崩れてしまったら、わらわにどう致せと?」
鋭い皮肉を交えた言葉にも、義太夫は全く動じる様子がない。むしろ、ますます調子に乗ったように、
「ふふん、玉姫殿のためなら、わしは一晩で石垣のひとつやふたつ積み直してみせるぞ!」
と胸を張ってのたまう。
その自信はどこから来るのか、どうにも理解しがたい。それでも、憎めぬ夫の姿に小さく嘆息しながら、
「然様でございますか。では、お帰りをお待ちしております」
と、静かに頭を下げた。
義太夫はその素直な返答に満足したのか、
「うむ、任せておけ!」
と笑いながら、勢いよく城の門を出ていく。
「ほんに、あの方の仰せはどこまでが真で、どこまで法螺かもようわからぬ」
小さく呟いた玉姫の目には、心配と呆れと、それからほんの少しの愛情が滲んでいた。
義太夫が、渡し舟で大川を渡り長島城へ向かうと、思った通り、中勢の関城から来た使者が広間に通されていた。
「関といえば…鶴の叔父とかいう…」
義太夫はぽりぽりと頭を掻きながら、記憶の引き出しを漁るように空を仰ぎ見た。
「あの家は確か…なにやらややこしいことになっていたような…」
義太夫は鼻を鳴らして呟く。何かしらの問題があったことは覚えているが、それが何だったかまでは思い出せない。
詰所の襖が軽やかに開き、佐治新介がふらりと姿を見せた。その口元には笑みを浮かべているものの、どこか不穏な空気をまとっている。
「家督争いじゃ。それも、元はと言えば蒲生忠三郎が元凶じゃ」
義太夫はその一言に目を丸くして、慌てて問い返した。
「お?鶴?元凶じゃと? それはまた、いかなる…」
新介は少し芝居がかった口調で話し始めた。
「関城ではな、兄弟どもの間で家督を巡る争いが起きておる。その火種を撒いたのが、他でもない忠三郎。覚えておらぬのか」
「ムム…」
何かを思い出そうとするものの、記憶の糸は絡まり、要領を得ない。やがて、ふと曖昧な感覚だけが浮かび上がる。
「あぁ、もしや…関家の跡取りであった嫡男が討死した件か」
「然様。それも忠三郎とともに長島攻めに加わった際のことじゃ。関四郎は、真っ先に敵陣に飛び込み、流れ弾に当たって命を落とされたのじゃ」
新介の冷静な語り口が、記憶の奥底に眠っていた出来事を呼び起こす。義太夫はハッと息を飲んだ。
「嫡男を失うとは、まさに痛手であったろう…」
「それがのう、その後がさらに大事となった。嫡男の死により、関家は跡目を巡って争いを始めたのじゃ」
新介の言葉に、義太夫はムムムと眉をひそめる。
「確か、次男は僧籍に入っていたはず。…では、三男が後を継いだのか?」
新介は皮肉げな笑みを浮かべ、首を振った。
「三男は柴田殿の元で人質として暮らし、元服後も柴田殿の与力として北陸におった。そのため、次男が還俗する話が持ち上がり、それに伴い、忠三郎が仲介に入る形となったのじゃ」
義太夫の目が大きく見開かれる。
「そうして次男を還俗させた上、鶴の妹を嫁がせ、跡を継がせることに決まった…というわけか」
「ところが、それがまた、諸家の間で波紋を呼び、今も尾を引いておるのじゃ」
義太夫は深い溜息をつき、手元の木槌をぼんやりと見つめた。
「なんとも、複雑な巡り合わせじゃのう…。鶴もまた、望まずとも時勢の波に巻き込まれておるわけか」
新介は黙って笑みを浮かべたまま、何も答えない。義太夫は顎に手を当て、目を細めた。
「して…関家の使者が何故にここへ?」
新介は少し間を置いてから、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「あれは三男、十兵衛の元から来た使者じゃ」
「ほう。ではもしや…柴田殿の息のかかった者ということでは…」
まるで義太夫の推測が的を射ていると認めるかのように、新介は無言で頷く。
義太夫は手元にあった木槌をポンと置き、少し背を反らすようにしてため息をついた。
「これは穏やかな流れではなさそうじゃ」
「穏やかな訳がない。昨日は千種の使者が参っておった」
義太夫は腕組みをしながら、少し身を乗り出すようにして新介に問い返した。
「千種?それも鶴の…母の弟とかいう…」
新介は小さく頷きながら、少し声を落として答える。
「いかにも。千草峠を守る千種三郎左衛門。昨日はその使者が城へ参り、何やら殿と密談をしておった」
義太夫は「ふむ…」と唸りながら視線を遠くに向けた。
「これは穏やかな流れではなさそうじゃ。」
そう呟く義太夫に、新介が即座に言葉を返す。
「穏やかな訳がなかろう。昨日の千種の使者だけではなく、このところ、他所からの使者が日を置かず訪れておる。殿は近々、我ら家臣を一堂に集め、何か大きなお話をされるであろう」
義太夫は新介の言葉を聞きながら、静かに背筋を伸ばした。炉端の微かな熱気に混じる、冬の冷気が肌にしみる。窓の外、枯れ枝の間をすり抜ける風の音が、まるで何かを急かすように耳元を掠める。
「ほう……」
低く呟く声が、詰所の木壁に染み入るように響いた。
「となると、わしらもいよいよ覚悟を決めねばならぬな。この北勢も、いずれ戦の波に呑まれるやもしれん。」
遠くには、白く霞む山影が薄日の中にぼんやりと浮かんでいる。その景色は静寂そのものだが、義太夫の胸の内には、どこかざわめくものがあった。
新介が押し黙るのを見て、義太夫は小さく肩を揺らして息を吐く。重い沈黙の中、ふと自らの掌を見る。粗い石垣を直そうと奮闘したせいで、手のひらには新しい傷がいくつも走っていた。その手を握りしめ、義太夫は立ち上がる。
「ともあれ、殿のお話を待つとしよう。それからじゃ。その後で、この手で何ができるか、じっくり考えればよい」
新介は無言のまま頷く。義太夫が歩みを進めると、足元の床板が微かに軋んだ。
詰所を出た先には、冬枯れの庭が広がり、冷たい風が僅かに松の枝を揺らしている。その風が義太夫の頬を撫で、ふと立ち止まった。
「雪が降るのは、そう遠くはなかろうな」
空を見上げ、呟く義太夫の目に映る雲は、どこか重く垂れ込めている。それはまるで、北勢に押し寄せる運命の影そのもののようだった。
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ypaaaaaaa
歴史・時代
1929年のロンドン海軍軍縮条約を機に海軍内では新時代の軍備についての議論が活発に行われるようになった。その中で生れたのが”航空艦隊主義”だった。この考えは当初、一部の中堅将校や青年将校が唱えていたものだが途中からいわゆる海軍左派である山本五十六や米内光政がこの考えを支持し始めて実現のためにの政治力を駆使し始めた。この航空艦隊主義と言うものは”重巡以上の大型艦を全て空母に改装する”というかなり極端なものだった。それでも1936年の条約失効を持って日本海軍は航空艦隊主義に傾注していくことになる。
デモ版と言っては何ですが、こんなものも書く予定があるんだなぁ程度に思ってい頂けると幸いです。
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