獅子の末裔

卯花月影

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19.天下騒乱

19-4. 白南風《しろはえ》

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 町野左近をはじめとした家臣たちが忠三郎に望みをかける反面、広間へと続く廊下をゆっくりと歩む忠三郎の足取りは、どこかしら重く鈍い。
 
(何を間違えて、かような仕儀になったのであろうか)

 元々、六角家の家臣だった布施家は忠三郎の母の実家、後藤家の親族だ。蒲生家では布施家との絆を深めるため、若い藤九郎に、忠三郎の妹を娶らせ、婿とした。
 藤九郎は忠三郎の妹婿でありながら、良き友でもあった。武芸よりも学問を嗜み、特に漢学に深い造詣がある藤九郎とは、話を交わすたびに互いの知識が刺激され、幾度となく古書の貸し借りが行われたものだ。藤九郎が漢文を読み解くと、一節一節にそれまで知り得なかった新たな解釈を見出すことができた。
 武芸に専念する日常とは違う、静かな知の喜びに触れたような心地がした。

 藤九郎の屋敷には書物が山と積まれており、そこに身を置くと、かつて古の大陸で暮らしていたの賢者たちと肩を並べているような、不思議な高揚感を覚えたものだ。
 その穏やかな語り口からは、書物への深い愛情が滲み出ており、互いに書を読み交わしながら過ごした時間は、戦乱の世においても心を安らかに保つひとときだった。

(それも今は昔か)

 ふと、軒先の簾を揺らしながら、夏の湿気を帯びた風が頬をかすめる。微かに庭から漂ってくる草いきれの香りが、やけに切なく胸に染みた。この重苦しい空気を纏いながらも、あの寂びれた広間へと向かう自分の姿が、他人のように思える。

 忠三郎が広間に入ると、長い時間待たされていた多賀豊後守と布施藤九郎が、ほっとしたような安堵の色を浮かべ、少しばかり微笑んだ。特に布施藤九郎は、忠三郎の顔を見た喜びを隠せず、軽く会釈して目を細める。
「忠三郎殿。御父君とはなかなか会うてもらえず、このまま諦めて帰ろうかと話していたところでござりました」
 多賀豊後守もまた、重い空気を纏っていた面持ちが少しだけ和らいだように、深々と礼を取った。
「では、父に代わり使者の口上をお聞かせいただこうか」

 忠三郎が柔らかな笑みを浮かべてそう促すと、膝を正していた多賀豊後守と布施藤九郎の顔に、ほっとしたような安堵が広がった。二人は、互いに視線を交わし、重々しく頭を下げる。忠三郎の柔和な態度を見て、これは色よい返事を持ち帰れそうだと期待しているようだ。
「忠三郎殿も御父君も未だ安土に伺候されぬうえ、明智家の家臣たちの間では、日野へ攻め入る話が出ておる。されど、明智殿は若いおぬしを大変惜しんでおられてのう」
 京極家の家臣だという多賀豊後守の、いかにも恩着せがましい言い草に、忠三郎は内心、不快感を覚えつつも、表情にはそれを微塵も見せず、にこやかに耳を傾け続けた。

 布施藤九郎は、忠三郎のどこか浮世離れした反応に少しばかり戸惑いを覚えたのか、わずかに声の調子を変えて続けた。
「今一度、戦さを避けるべく話をつけたいと願うて、親類であるそれがしをここへ遣わされた次第でござります。如何じゃ、忠三郎殿。おぬしとて、亡き快幹殿が築いたこの日野を焼け野原にはしたくはあるまい」
 光秀が忠三郎を惜しんでいるという言葉を重ねても、忠三郎はなおもどこか他人事のような顔で、藤九郎の言葉にただ頷くばかり。部屋に差し込む陽の光が、忠三郎の静かな横顔を照らし出していたが、その表情からは何も感情を読み取ることができない。

「近江はこの城を残して、ほぼ制圧されつつある。いま、お味方くだされば、江南を全て、蒲生殿に与えるとまで申されておる。決して悪い話ではなかろう。忠三郎殿。頭の固い父上では話にならぬ。賢いそなたであれば、物の道理もわかろうて」
 あと一押しと思ったのか、多賀豊後守は、忠三郎の表情を探るように、好条件を提示した。
「江南を全て?」
 忠三郎が顔をあげ、ちらりと多賀豊後守を見ると、手ごたえを感じた多賀豊後守は、口元をほころばせた。待ちわびた返答が近いと見たのか、膝をにじり寄せ、囁くように語りかける。

「然様。これから明智殿を中心に、新しき天下となる。明智殿は新しき世には蒲生家に力添えしてもらいたいと、お望みじゃ」
 忠三郎は一瞬視線をそらし、庭の松の梢に目をやった。夏の日差しがまばゆく、揺れる心をあざ笑うかのように、風が吹き渡る。

(なんとも不思議なものよ)
 家臣たちの進言や憂慮に耳を傾ければ、少なからず心が揺れたのも事実だ。
 しかし、こうして多賀豊後守が膝を進めて熱心に語れば語るほど、冷め冷めとした心地になるのは何故なのだろう。

 風に揺れる木立の影がきらめき、蝉の声が静けさを揺るがしている。真夏の風が葉陰をかすめ、ただそれだけのことが、心に浮かんでは消えた疑念をかき消していく。
「若殿。これはまたとない良きお話。ぜひともお受けしては如何かと」
 忠三郎がいつまでも口を開かないので、町野左近がハラハラしながら、口添えする。
 
 時雨に濡れる庭の緑をぼんやりと眺めていた忠三郎は、ふと我に返り、隣の町野左近に微笑を向けた後、ゆるりと多賀豊後守へと顔を向けた。
「多賀殿。黒南風くろはえを存じておられるか」
 広間からどんよりとした梅雨空を見上げる。多賀豊後守はその言葉にわずかに首を傾げ、何を意味しているのか訝しげな表情を浮かべた。
「今は夏至の候でございます。二十四節気にては『半夏生はんげしょうず』と呼ばれる折にて、藤九郎殿であれば…」
「はい。よう存じておりまする」
 布施藤九郎が頷いてくれたので、忠三郎は嬉し気に微笑む。

「黒南風という夏の湿り気を帯びた風が吹き、重々しい雲が空を覆うころ。これがまるで、空模様と心が相通じているかのように感じられるため、いつしか暗き雲が運ぶ風の名としてこのように呼ばれるようになったとか」
 静かにそう語り、梅雨の鬱々とした気配をまとわせるかのように、遠くの空へと視線を戻した。言葉の奥には、見過ごせぬ兆しを案じる心を匂わせながら、穏やかな態度を崩さない忠三郎に、多賀豊後守も静かにうなずく。

(つかみどころなき御仁と聞いてはいたが…)
 唐突に季節の話を振られた多賀豊後守は、返答に迷い、目を伏せる。忠三郎がどこまで本心を明かしているのか、あるいは別の意図を隠しているのか、測りかねるものがあった。その静かな佇まいと落ち着いた声色は、一層の不可解さを漂わせ、どこか流れる水面のように掴みどころがない。

 多賀豊後守は一瞬、隣の布施藤九郎に目をやり、わずかに助けを求めるような視線を投げかけたが、藤九郎もまた微かに微笑を浮かべるばかりで、どうやら忠三郎の意図を組みかねているらしい。
「して…忠三郎殿。如何じゃ。色よい返事を聞かせていただけぬか」
 多賀豊後守が再度、返答を促すと、忠三郎はその言葉にどこか遠い眼差しを浮かべながら、柔らかな笑みを浮かべたまま答えた。
「上様が討たれたと聞いたときから、我がこころはまさに、黒南風が広がるが如く、晴れること無き日々を過ごしておりまする」
 その言葉には、心の奥底から湧き上がるような哀しみが滲んでいた。忠三郎の曖昧な表情と物憂げな口調に、多賀豊後守も布施藤九郎も返す言葉を失い、一瞬、場の空気が重く沈んだ。時折、庭の木々を揺らす風が障子をふわりと震わせるたびに、その悲嘆が薄闇となって広間に漂うようであった。

「では、あくまで明智殿に従う気はないと…?」
「はい」
 多賀豊後守の問いに、忠三郎はわずかに目を細め、顔を上げてその視線を正面から受け止めた。そして、柔らかな微笑みを湛えたまま、静かな声で告げる。
 その声は、静寂を伴い、広間にしっかりと響き渡った。かすかな微笑に秘められた忠三郎の意志は、見た目の柔和さとは裏腹に揺るぎないものであり、豊後守はその奥に潜む覚悟を感じ取ったのか、眉間に深い皺を刻んだ。その場に立ち込める張り詰めた空気が、庭先の小枝をかすかに揺らす風の音にすら重みを帯びさせている

「忠三郎殿。よくお考えあれ。いかにこの城が堅固であろうと、数万の大軍をもってすれば…」
「多賀殿」
 忠三郎はその言葉を遮り、静かに、しかし一語一語に鋭い芯を含んで言葉を続ける。
「恩をこうむりて恩を知らざるは樹鳥枝を枯らすに似たりと申します。我が家に対する故右府様のご恩は計り知れず。今こそ大恩に報いるときにて、謀反人に組するなどは考えも及びませぬ。まさに鳥が木を突き、木を枯らすにも似た行い。恩義もわきまえぬ者が早々に天下人気取りとは、芋の煮えたも分からぬ仰せ。日向守殿にそうお伝えあれ」 
 淡々とそう語る忠三郎の笑顔は常と変わらない。

 二人が諦め、広間を出る際、布施藤九郎は名残惜しげに振り返り、忠三郎にその視線を送った。その眼差しには、安土から遠路ここまで駆けつけてくれた理由がはっきりと浮かび、忠三郎の胸はひときわ切なく疼いた。
(藤九郎殿…)
 心配を押して訪ねてくれた藤九郎の想いが、梅雨のしずくのようにしっとりと胸にしみ込む。しかし、雨に洗われてなお青々と立つ山の草木のように、忠三郎の決意もまた揺るぎない。
(されど、ここは筋を通さねば…)
 誰に何を言われようとも、その心は初めから決まっていた。自分はあの信長が認めた娘婿であり、信長あっての蒲生家だった。信長と共に歩んだ日々があるからこそ、今の自分がある。たとえ信長がすでにこの世になく、黒南風が重く垂れ込めるような時節であろうと、それは変えることができない。

(これで我が家の行く末も決まった)
 肩を落とした町野左近の様子に少し心が痛むも、努めて明るく微笑みかけた。
「爺。そう深く考え込むでない。天も地も動くほどに策を巡らせるよりも、今は泰然と構えておる方が案外、流れも味方してくれるやも知れぬ」
 さも他人事のような物言いに、町野左近は困惑した表情のまま忠三郎を見つめ、そして首を振りながら低くため息をついた。
「長きに渡り、この日野谷の土地、そして蒲生家にお仕えしてきた我ら。我が家の存亡の危機というに、考えこまずにいられましょうや…」

 町野左近の声には、長年蒲生家に尽くしてきた者の深い愛情と責任感がにじんでいる。忠三郎はそんな家老の気持ちを思いやりつつも、軽やかに応じた。
「存じてはおらぬか。黒南風が吹いたのち、やがて梅雨が明ける。二十四節気にては『温風至あつかぜいたる』と呼ばれる折。そのころには白南風しろはえが吹き、白き雲が青き空に映える。今はただ、耐え忍ぶことこそ肝要であろう」
 忠三郎の静かな語りに、町野左近はその先に訪れる清らかな夏の景色をぼんやりと思い浮かべた。いつもながら、危機感のかけらも見せぬ主の穏やかな笑顔に、多少の不安を残しつつも、わずかながら心が晴れるのを感じた。
 
「常より気長が若殿の仰せとあらば…」
 その声は、吹き抜けるかすかな風とともに消え、広間には一瞬の静寂が訪れた。その静けさの中で、庭先の緑が雨に洗われて鮮やかに輝き、この先の未来に続く希望のように、光を放っていた。
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