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18.月満つれば則ち欠く
18-5. 六月二日
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そして迎えた六月二日。
その日は朝から梅雨入りを間近に控え、しっとりと湿った空気が辺りに漂っていた。空は鈍色に覆われ、木々の葉はうっすらと露を含んで重たげに揺れている。風はどこかひんやりとしているが、肌に触れるたびに微かに汗ばむ、蒸し暑い朝であった。
庭に咲く花々も、水をたっぷり含んで瑞々しく息づきながら、風にそっと揺れている。まるでこの蒸し暑い空気の流れに染まるようにして、色濃い景色がじわりと広がっていくようだった。
久方ぶりに戻った城に、町野左近が連れてきてくれたのは、おさちの遺した子、正寿丸だった。
忠三郎にとってはにとっては初めてのわが子であり、今年で八つを迎えたその顔立ちは、どことなくおさちの面影を帯び、特に目元や口元には彼女の気高さが漂っている。
「子の成長とは早いものじゃ。正寿がもう八つとは」
その言葉を噛みしめるように呟きながら、忠三郎の心にはふいに、亡きおさちの面影が浮かんだ。正寿が八歳ということは、あれから七年——おさちを失ってから七年がたつ。
おさちの死を知った日から、幾度もおさちの面影が目に浮かんだ。思い起こすたびに、もうこの世にはいないと分かっていながら、どうしても受け入れがたい現実が胸を締めつけた。二度と会うことは叶わないのだと実感するたび、込み上げる悲しみは留まることはなかった。忠三郎は幾度も哀しみに暮れ、やるせない日々を重ねた。
庭先で無邪気に遊ぶ正寿丸の姿が、亡きおさちの面影と重なり、忠三郎の胸をひとしお締め付ける。幼子の無垢な笑顔は愛おしくもあり、そのひたむきさが切なくもあった。正寿丸を不憫に思いながらも、会うことを避けてきたのは、正室である吹雪の目を憚ったからだけではない。正寿丸を見るたびにおさちの面影が蘇り、あの頃の記憶が胸を深くえぐり、どうしても耐えがたかったからだ。
幼き日、一度だけ訪れた二の丸館の記憶がふと甦る。
あの日、館の奥で目にした父の姿は、普段の厳格な顔とはまるで違っていた。
側室に寄り添い、その腕に抱かれた子らを慈しむ父は、心から安らいでいるように見えた。まるで別の人のように柔和な眼差し、静かに微笑む口元…その光景は、普段の父が見せぬ一面を覗かせていた。
(あのときの父上の顔は…実に幸せそうであった…)
そして、その父の傍らでは、若く美しい側室が微笑んでいた。彼女はやさしい手つきで子らの髪を撫で、柔らかな笑みを浮かべながら、楽しげに遊ぶ幼い姉妹を見守っていた。子どもたちは無邪気に笑い声をあげ、何の隔てもないかのように彼女にすり寄って甘えた。
自分の過ごす場所とは異なる温かで穏やかな場の空気。あの場にいる父も、子らも、側室も、一つの家族のようだった。あの光景のなか、自分はどこか疎外されたような、言葉にできない寂しさを抱いて、扉の影から見つめるだけだったのを覚えている。
おさちと過ごし、懐妊がわかった時、胸の奥に暖かい灯が灯ったようだった。
かつて目にした温もりある家族の風景。あの日、自分には遠く、手が届かないものだと思った光景が、今度は自らの手の中で生まれようとしている──そう感じた。
おさちがいて、やがて産まれる子がその傍らで楽しそうに微笑む。そんな未来が、あたかも夢の中に見た幻のように、美しく温かく、心の中に描かれていた。
しかし、やはりそれは儚い幻想にすぎなかった。あの温もりに手が届くと思った瞬間、その手をすり抜けるようにおさちは逝き、幻はただの幻として消え去った。
おさちが残してくれた淡い夢はまさしく春の夜の短い夢のようだ。束の間の安らぎに心を預け、そぞろに胸を和ませたあの情景は、水面に浮かぶ泡のように儚くも消え失せ、再び手の届かぬ遠いものとなり果てた。
それが、おさちの面影を宿す幼い正寿丸の姿を見るたびに、静かな湖面に広がる波紋のように、そっと心の奥底に広がり、かすかに息づいてくる。淡き夢と共に消え去ったはずのあの幻が、再び蘇り、忠三郎の心を苦しめる。
幼き子の瞳の奥に、微かに映るのは、過ぎし日の温もり。心にしみ入るその姿は、失われたはずの光景を再び呼び起こし、かつて手にした柔らかな光が、泡沫のごとく儚き夢となり、なおも胸を締め付ける。
「爺。すまぬが正寿を連れて帰ってはくれぬか」
町野左近は少し驚いたようだったが、恭しく一礼し、幼い正寿丸の手を取る。
「若殿のお心のうち、お察しいたしますれば…」
何かを諭すような眼差しで忠三郎を見つめ、微かに首を傾げた。忠三郎はその眼差しを受け止めながら、思わず視線を逸らす。正寿丸の無垢な瞳が、父の心に巣くう淡き夢の名残をじっと見つめているように思えた。
正寿丸が離れゆく足音が遠ざかるたび、胸の内にひそむ波紋は静かに沈みゆき、再び心の湖面は、凪のごとく戻り始めた。
それからどれほどの時が過ぎたか、ぼんやりと綿向山を見上げていると、突如、廊下から慌ただしい足音が響いてきた。何事かと顔を上げると、町野左近が勢いよく駆け寄り、緊張した面持ちで報告する。
「若殿。安土の大殿の元より急使が参っておりまする」
「安土より…急使?」
急使とあれば、ただ事ではない。ふと脳裏をよぎったのは父・賢秀の姿だった。
(父上に何かあったのであろうか)
ここ数年、賢秀は安土の留守居を任され、戦さ場に赴くことがなくなった。信長は薄々、賢秀が戦さ場においてその才を持ち合わせていないことを察し、それ故に城を守る役を命じているのだろう。
(上様はお気づきなのだ)
蒲生勢に出陣の命が下るときも、指揮は忠三郎に託される。思えば、信長は父・賢秀の面目が潰れぬよう、あえて留守居役を命じているのかもしれない。
広間に行くと、父に付き従って安土に行った上坂左文が待ち構えていた。
「若殿、天下の一大事にござりまする」
上坂左文が告げたその言葉の重さに、一瞬場が静寂に包まれた。しかし、忠三郎はいつもの明るい微笑を絶やさず、穏やかに言葉を返した。
「天下の一大事など、早々起きるものではないが。父上の身に何かあったか?」
最近の賢秀の様子に変わったところは見られず、体調も優れていると感じていた矢先だ。上坂左文は慌てて首を横に振り、低い声で続けた。
「殿はご無事でござります。しかるに都がただならぬ状況にござりまする」
「都で何が起きた?」
忠三郎の問いかけに、左文はため息交じりに口を開いた。
「今朝未明、本能寺が燃え上がりましてござりまする」
「本能寺に火の手?」
忠三郎は目を細め、一瞬逡巡しつつも、冷静に状況を考え始めた。火事であろうか、失火の類だろうかと思いが浮かぶ。
「本能寺といえば、南蛮寺が近い。伴天連方はご無事か?都には上様もおられる筈じゃが…」
上坂左文は、忠三郎の問いに顔をさらに曇らせ、首を振りながら重々しく答えた。
「若殿、それが…火の勢いは凄まじく、未だ鎮火の報も届いておりませぬ。本能寺の一角が激しく燃え上がり、近隣にも煙が立ち上がっているとのこと。して、その中に…」
「その中に?」
上坂左文は、一瞬躊躇したかのように言葉を飲み込む。
「上様が御滞在であった由」
「上様が?」
忠三郎はその答えに衝撃を隠せず、無意識に小さく息を飲んだ。
京での信長の定宿は二条御新造だった。二条御新造を朝廷に提供してからは、もっぱら妙覚寺を宿所としている。
「なぜ、本能寺に…」
信長が本能寺を宿とした記憶は、確かに過去一度きりだ。
「妙覚寺には城介様がお泊りであったとか」
「然様か…。して、上様は今、いずこに?」
どうにも忠三郎には事の重大さが伝わっていない。上坂左文は、じれったそうに一歩前に出ると、意を決したように声を低くしながらも、はっきりと忠三郎に告げた。
「若殿…明智殿の謀反でござりまする。明智殿が本能寺に攻め入ったのでござります」
その一言は、雷鳴のように忠三郎の胸中を打ち、思考が一瞬停止した。ぽかんとした表情で、目の前の上坂左文を見つめる。その言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。
「…明智殿が…謀反を?」
心の中でその言葉を繰り返してみたものの、現実味がまるで感じられない。
左文は、忠三郎の混乱を見透かしたかのように、さらに口を開いた。
「然様にござります。今朝未明、本能寺に押し入り、上様を討とうと…」
忠三郎ははっと息を呑んだ。火事はただの災いではなく、光秀の手による謀反、その中での出来事だったのだ。信長が本能寺にいると知り、そこを狙い打った謀反だということが、今になってようやく理解できた。
(にわかには信じられぬ)
忠三郎の胸中で、疑念が渦を巻いていた。あの光秀が、主君である信長に刃を向けるなど、ありえないように思える。あるいは、これも他国の間者が流した噂にすぎないのではないか――そう考えかけたが、ふと、思い直した。
(ありえないことではない)
ふと過去の会話を思い起こした。武田攻めの後、一益が遠国へ赴くことになったときの、光秀の安堵したような表情。あれは何を意味していたのか。
さらに、信長が重臣たちに命じた領地替えのことも脳裏に浮かんでくる。都の近くにあった領地を手放し、遠国の支配を任された時、柴田勝家や一益は、その命に従順に従った。だが、光秀も果たして同じように大人しく従っただろうか?
今まで忠義を尽くしてきたかに見える光秀も、心の奥底には野心が渦巻いていたのかもしれない。そして、信長が油断し、小勢で都に滞在している今こそ、光秀にとって好機と映ったのではないか。
信長は、無駄を嫌う。京の情勢が安定し、都に脅威となる敵がいなくなって以来、都へは少人数で赴くことが常となっていた。兵を引き連れることもなく、必要最小限の供回りのみで身を守ってきた。信忠もまたその例に倣い、妙覚寺へは少数の小姓や馬廻衆のみを伴っているにすぎない。
忠三郎の脳裏に、容易に想像できる光景が浮かぶ。信長や信忠が、周囲に大勢の兵を配さぬまま、わずかな供回りとともに都に滞在している姿。その隙を、明智光秀が突いたのだとすれば――
(まさか、そこを狙ったと…?)
もしも信長が無防備なまま本能寺で敵を迎えたのであれば、もう信長はこの世にはいないかもしれない。
光秀が信長を討ち漏らしたとすれば、今頃、光秀は血眼になって信長の行方を追っているだろう。逆に、確実に討ち取ったのであれば次に狙われるのは…。
(安土か!)
安土城は信長の居城にして、天下人を象徴する城だ。もし光秀が信長の命を奪ったとすれば、その次の一手として、信長の遺志を絶やし、権力を掌握するために安土を狙うのは自然な流れといえる。
(それに城下には…)
織田家の家臣たちの家族が住んでいる。もし光秀が天下を手にしようとしているのであれば、家族を人質に取り、信長の重臣たちを屈服させようとするだろう。
「安土は無事か?父上は?」
「明智の軍勢が向かっているとの知らせが届いておりまする」
「では…安土で籠城か?」
「いえ、籠城ではござりませぬ。大殿は、二の丸にいる上様のご家族を、この日野へお連れするおつもりにござります」
「ここへ?では、安土を捨てると?」
忠三郎は思わず聞き返した。
「安土で籠城は叶わぬと仰せで。上様のご家族を安全な場所へ退避させることが急務とお考えで、この日野へ避難させるとお決めになりました」
忠三郎は再度、考えを巡らせる。
通常であれば、主である信長が討たれたのだから、留守居役は、城に籠り、叶わぬまでも安土に籠城し、城を枕に討死すべきところだ。
(父上には安土城で討死にする覚悟もあったはずだ。されど…)
賢秀は城よりも、信長の妻妾とその子の命を優先した。
(なによりも安土には章姫殿がいる。もし父上が命を賭して安土を守ろうとすれば…章姫殿と、その腹の子は…)
章姫が身重と知れたとき、忠三郎は密かに胸を撫でおろした。これでようやく、織田家の血をひく者を跡継ぎに据えることができる。そればかりではない。
俵藤太秀郷以来、幾代にもわたり伝わってきた家名の重みを、正しく未来へ託すことができる。
(こうして血筋を繋ぎ、家を守ることこそ、先祖への最大の忠義であり、家を支える者としての務め…)
そう思っていた矢先のこの惨事。
(安土を火の海にすれば、わしはまた、すべてを失う)
おさちを失ったあのときの絶望が再び訪れるかのようだ。すべてが、温もりも希望も、ひとつ残らず燃え尽きるかのごとく消え失せる——それだけは何としても避けねばなければならない。
(章姫殿を日野にお迎えしたのち、正寿丸と共にひそかに落ち延びさせるほかあるまい)
日野に籠城したとしても長く持ちこたえることはできない。章姫を日野に連れてきた後に、供を付け、正寿丸と供にどこかに落ち延びさせるしかない。
(明智勢よりも先に安土へ行かねば)
安土にはまだ信ずべき人々がたくさんいる。留守居を命じられたのは父・賢秀だけではない。本丸警護は七名ほど、二の丸は父を含めて十人以上もの家臣が留守を守っている。その中には伊勢から保護した雲林院出羽守や、織田家の譜代家臣も大勢いるはずだ。
その日は朝から梅雨入りを間近に控え、しっとりと湿った空気が辺りに漂っていた。空は鈍色に覆われ、木々の葉はうっすらと露を含んで重たげに揺れている。風はどこかひんやりとしているが、肌に触れるたびに微かに汗ばむ、蒸し暑い朝であった。
庭に咲く花々も、水をたっぷり含んで瑞々しく息づきながら、風にそっと揺れている。まるでこの蒸し暑い空気の流れに染まるようにして、色濃い景色がじわりと広がっていくようだった。
久方ぶりに戻った城に、町野左近が連れてきてくれたのは、おさちの遺した子、正寿丸だった。
忠三郎にとってはにとっては初めてのわが子であり、今年で八つを迎えたその顔立ちは、どことなくおさちの面影を帯び、特に目元や口元には彼女の気高さが漂っている。
「子の成長とは早いものじゃ。正寿がもう八つとは」
その言葉を噛みしめるように呟きながら、忠三郎の心にはふいに、亡きおさちの面影が浮かんだ。正寿が八歳ということは、あれから七年——おさちを失ってから七年がたつ。
おさちの死を知った日から、幾度もおさちの面影が目に浮かんだ。思い起こすたびに、もうこの世にはいないと分かっていながら、どうしても受け入れがたい現実が胸を締めつけた。二度と会うことは叶わないのだと実感するたび、込み上げる悲しみは留まることはなかった。忠三郎は幾度も哀しみに暮れ、やるせない日々を重ねた。
庭先で無邪気に遊ぶ正寿丸の姿が、亡きおさちの面影と重なり、忠三郎の胸をひとしお締め付ける。幼子の無垢な笑顔は愛おしくもあり、そのひたむきさが切なくもあった。正寿丸を不憫に思いながらも、会うことを避けてきたのは、正室である吹雪の目を憚ったからだけではない。正寿丸を見るたびにおさちの面影が蘇り、あの頃の記憶が胸を深くえぐり、どうしても耐えがたかったからだ。
幼き日、一度だけ訪れた二の丸館の記憶がふと甦る。
あの日、館の奥で目にした父の姿は、普段の厳格な顔とはまるで違っていた。
側室に寄り添い、その腕に抱かれた子らを慈しむ父は、心から安らいでいるように見えた。まるで別の人のように柔和な眼差し、静かに微笑む口元…その光景は、普段の父が見せぬ一面を覗かせていた。
(あのときの父上の顔は…実に幸せそうであった…)
そして、その父の傍らでは、若く美しい側室が微笑んでいた。彼女はやさしい手つきで子らの髪を撫で、柔らかな笑みを浮かべながら、楽しげに遊ぶ幼い姉妹を見守っていた。子どもたちは無邪気に笑い声をあげ、何の隔てもないかのように彼女にすり寄って甘えた。
自分の過ごす場所とは異なる温かで穏やかな場の空気。あの場にいる父も、子らも、側室も、一つの家族のようだった。あの光景のなか、自分はどこか疎外されたような、言葉にできない寂しさを抱いて、扉の影から見つめるだけだったのを覚えている。
おさちと過ごし、懐妊がわかった時、胸の奥に暖かい灯が灯ったようだった。
かつて目にした温もりある家族の風景。あの日、自分には遠く、手が届かないものだと思った光景が、今度は自らの手の中で生まれようとしている──そう感じた。
おさちがいて、やがて産まれる子がその傍らで楽しそうに微笑む。そんな未来が、あたかも夢の中に見た幻のように、美しく温かく、心の中に描かれていた。
しかし、やはりそれは儚い幻想にすぎなかった。あの温もりに手が届くと思った瞬間、その手をすり抜けるようにおさちは逝き、幻はただの幻として消え去った。
おさちが残してくれた淡い夢はまさしく春の夜の短い夢のようだ。束の間の安らぎに心を預け、そぞろに胸を和ませたあの情景は、水面に浮かぶ泡のように儚くも消え失せ、再び手の届かぬ遠いものとなり果てた。
それが、おさちの面影を宿す幼い正寿丸の姿を見るたびに、静かな湖面に広がる波紋のように、そっと心の奥底に広がり、かすかに息づいてくる。淡き夢と共に消え去ったはずのあの幻が、再び蘇り、忠三郎の心を苦しめる。
幼き子の瞳の奥に、微かに映るのは、過ぎし日の温もり。心にしみ入るその姿は、失われたはずの光景を再び呼び起こし、かつて手にした柔らかな光が、泡沫のごとく儚き夢となり、なおも胸を締め付ける。
「爺。すまぬが正寿を連れて帰ってはくれぬか」
町野左近は少し驚いたようだったが、恭しく一礼し、幼い正寿丸の手を取る。
「若殿のお心のうち、お察しいたしますれば…」
何かを諭すような眼差しで忠三郎を見つめ、微かに首を傾げた。忠三郎はその眼差しを受け止めながら、思わず視線を逸らす。正寿丸の無垢な瞳が、父の心に巣くう淡き夢の名残をじっと見つめているように思えた。
正寿丸が離れゆく足音が遠ざかるたび、胸の内にひそむ波紋は静かに沈みゆき、再び心の湖面は、凪のごとく戻り始めた。
それからどれほどの時が過ぎたか、ぼんやりと綿向山を見上げていると、突如、廊下から慌ただしい足音が響いてきた。何事かと顔を上げると、町野左近が勢いよく駆け寄り、緊張した面持ちで報告する。
「若殿。安土の大殿の元より急使が参っておりまする」
「安土より…急使?」
急使とあれば、ただ事ではない。ふと脳裏をよぎったのは父・賢秀の姿だった。
(父上に何かあったのであろうか)
ここ数年、賢秀は安土の留守居を任され、戦さ場に赴くことがなくなった。信長は薄々、賢秀が戦さ場においてその才を持ち合わせていないことを察し、それ故に城を守る役を命じているのだろう。
(上様はお気づきなのだ)
蒲生勢に出陣の命が下るときも、指揮は忠三郎に託される。思えば、信長は父・賢秀の面目が潰れぬよう、あえて留守居役を命じているのかもしれない。
広間に行くと、父に付き従って安土に行った上坂左文が待ち構えていた。
「若殿、天下の一大事にござりまする」
上坂左文が告げたその言葉の重さに、一瞬場が静寂に包まれた。しかし、忠三郎はいつもの明るい微笑を絶やさず、穏やかに言葉を返した。
「天下の一大事など、早々起きるものではないが。父上の身に何かあったか?」
最近の賢秀の様子に変わったところは見られず、体調も優れていると感じていた矢先だ。上坂左文は慌てて首を横に振り、低い声で続けた。
「殿はご無事でござります。しかるに都がただならぬ状況にござりまする」
「都で何が起きた?」
忠三郎の問いかけに、左文はため息交じりに口を開いた。
「今朝未明、本能寺が燃え上がりましてござりまする」
「本能寺に火の手?」
忠三郎は目を細め、一瞬逡巡しつつも、冷静に状況を考え始めた。火事であろうか、失火の類だろうかと思いが浮かぶ。
「本能寺といえば、南蛮寺が近い。伴天連方はご無事か?都には上様もおられる筈じゃが…」
上坂左文は、忠三郎の問いに顔をさらに曇らせ、首を振りながら重々しく答えた。
「若殿、それが…火の勢いは凄まじく、未だ鎮火の報も届いておりませぬ。本能寺の一角が激しく燃え上がり、近隣にも煙が立ち上がっているとのこと。して、その中に…」
「その中に?」
上坂左文は、一瞬躊躇したかのように言葉を飲み込む。
「上様が御滞在であった由」
「上様が?」
忠三郎はその答えに衝撃を隠せず、無意識に小さく息を飲んだ。
京での信長の定宿は二条御新造だった。二条御新造を朝廷に提供してからは、もっぱら妙覚寺を宿所としている。
「なぜ、本能寺に…」
信長が本能寺を宿とした記憶は、確かに過去一度きりだ。
「妙覚寺には城介様がお泊りであったとか」
「然様か…。して、上様は今、いずこに?」
どうにも忠三郎には事の重大さが伝わっていない。上坂左文は、じれったそうに一歩前に出ると、意を決したように声を低くしながらも、はっきりと忠三郎に告げた。
「若殿…明智殿の謀反でござりまする。明智殿が本能寺に攻め入ったのでござります」
その一言は、雷鳴のように忠三郎の胸中を打ち、思考が一瞬停止した。ぽかんとした表情で、目の前の上坂左文を見つめる。その言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。
「…明智殿が…謀反を?」
心の中でその言葉を繰り返してみたものの、現実味がまるで感じられない。
左文は、忠三郎の混乱を見透かしたかのように、さらに口を開いた。
「然様にござります。今朝未明、本能寺に押し入り、上様を討とうと…」
忠三郎ははっと息を呑んだ。火事はただの災いではなく、光秀の手による謀反、その中での出来事だったのだ。信長が本能寺にいると知り、そこを狙い打った謀反だということが、今になってようやく理解できた。
(にわかには信じられぬ)
忠三郎の胸中で、疑念が渦を巻いていた。あの光秀が、主君である信長に刃を向けるなど、ありえないように思える。あるいは、これも他国の間者が流した噂にすぎないのではないか――そう考えかけたが、ふと、思い直した。
(ありえないことではない)
ふと過去の会話を思い起こした。武田攻めの後、一益が遠国へ赴くことになったときの、光秀の安堵したような表情。あれは何を意味していたのか。
さらに、信長が重臣たちに命じた領地替えのことも脳裏に浮かんでくる。都の近くにあった領地を手放し、遠国の支配を任された時、柴田勝家や一益は、その命に従順に従った。だが、光秀も果たして同じように大人しく従っただろうか?
今まで忠義を尽くしてきたかに見える光秀も、心の奥底には野心が渦巻いていたのかもしれない。そして、信長が油断し、小勢で都に滞在している今こそ、光秀にとって好機と映ったのではないか。
信長は、無駄を嫌う。京の情勢が安定し、都に脅威となる敵がいなくなって以来、都へは少人数で赴くことが常となっていた。兵を引き連れることもなく、必要最小限の供回りのみで身を守ってきた。信忠もまたその例に倣い、妙覚寺へは少数の小姓や馬廻衆のみを伴っているにすぎない。
忠三郎の脳裏に、容易に想像できる光景が浮かぶ。信長や信忠が、周囲に大勢の兵を配さぬまま、わずかな供回りとともに都に滞在している姿。その隙を、明智光秀が突いたのだとすれば――
(まさか、そこを狙ったと…?)
もしも信長が無防備なまま本能寺で敵を迎えたのであれば、もう信長はこの世にはいないかもしれない。
光秀が信長を討ち漏らしたとすれば、今頃、光秀は血眼になって信長の行方を追っているだろう。逆に、確実に討ち取ったのであれば次に狙われるのは…。
(安土か!)
安土城は信長の居城にして、天下人を象徴する城だ。もし光秀が信長の命を奪ったとすれば、その次の一手として、信長の遺志を絶やし、権力を掌握するために安土を狙うのは自然な流れといえる。
(それに城下には…)
織田家の家臣たちの家族が住んでいる。もし光秀が天下を手にしようとしているのであれば、家族を人質に取り、信長の重臣たちを屈服させようとするだろう。
「安土は無事か?父上は?」
「明智の軍勢が向かっているとの知らせが届いておりまする」
「では…安土で籠城か?」
「いえ、籠城ではござりませぬ。大殿は、二の丸にいる上様のご家族を、この日野へお連れするおつもりにござります」
「ここへ?では、安土を捨てると?」
忠三郎は思わず聞き返した。
「安土で籠城は叶わぬと仰せで。上様のご家族を安全な場所へ退避させることが急務とお考えで、この日野へ避難させるとお決めになりました」
忠三郎は再度、考えを巡らせる。
通常であれば、主である信長が討たれたのだから、留守居役は、城に籠り、叶わぬまでも安土に籠城し、城を枕に討死すべきところだ。
(父上には安土城で討死にする覚悟もあったはずだ。されど…)
賢秀は城よりも、信長の妻妾とその子の命を優先した。
(なによりも安土には章姫殿がいる。もし父上が命を賭して安土を守ろうとすれば…章姫殿と、その腹の子は…)
章姫が身重と知れたとき、忠三郎は密かに胸を撫でおろした。これでようやく、織田家の血をひく者を跡継ぎに据えることができる。そればかりではない。
俵藤太秀郷以来、幾代にもわたり伝わってきた家名の重みを、正しく未来へ託すことができる。
(こうして血筋を繋ぎ、家を守ることこそ、先祖への最大の忠義であり、家を支える者としての務め…)
そう思っていた矢先のこの惨事。
(安土を火の海にすれば、わしはまた、すべてを失う)
おさちを失ったあのときの絶望が再び訪れるかのようだ。すべてが、温もりも希望も、ひとつ残らず燃え尽きるかのごとく消え失せる——それだけは何としても避けねばなければならない。
(章姫殿を日野にお迎えしたのち、正寿丸と共にひそかに落ち延びさせるほかあるまい)
日野に籠城したとしても長く持ちこたえることはできない。章姫を日野に連れてきた後に、供を付け、正寿丸と供にどこかに落ち延びさせるしかない。
(明智勢よりも先に安土へ行かねば)
安土にはまだ信ずべき人々がたくさんいる。留守居を命じられたのは父・賢秀だけではない。本丸警護は七名ほど、二の丸は父を含めて十人以上もの家臣が留守を守っている。その中には伊勢から保護した雲林院出羽守や、織田家の譜代家臣も大勢いるはずだ。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
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