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18.月満つれば則ち欠く
18-3. 厠籠城
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五月の陽気が安土の城下に照り映える中、町は以前にも増して活気づいていた。
武田攻めを終えたのち、甲斐から駿河へ、そして浜松へと軍勢を進めた後、徳川家康のもとで接待を受け、行軍の疲れを癒し、安土に戻った。
その後、今度は家康が安土へと招かれた。
「いやはや、浜松での心尽くしに負けじと、上様は盛大なもてなしをされるおつもりか」
忠三郎は少し面白そうに目を細めて、人の行き交う賑やかな通りを見やった。
旗がひらめき、店の軒先に飾られた花々が祭りのように色とりどりに飾られている。これは家康の来訪を歓迎するため、堀久太郎や長谷川藤五郎などの近臣の者たちが町衆に声をかけ、飾り付けを行ったものだ。
ちょうどその時、播磨で戦さをしている羽柴秀吉から援軍を求める使者が到着した。信長は、嫡男の信忠とともに出馬を決め、軍奉行として堀久太郎をいち早く秀吉の陣へ送り出した。
忠三郎もその出陣に加わる心づもりでいたが、今回は少し事情が異なった。
父・賢秀が信長の留守中の安土城の警護を命じられ、忠三郎は父と交代で日野へ戻ることになった。
「久太郎も藤五郎も忙しそうに立ち働いておるというにのう…」
忠三郎は、ちょっぴり拗ねた様子で肩をすくめてみせた。なにやら自分だけ、またも出番を逃してしまったような気がする。先の武田攻めも、行ってみると武田は滅んでおり、物見遊山で終わってしまった。
しかし、今回は違う。今回は中国の覇者・毛利が相手だ。そのため、従弟の後藤喜三郎や青地四郎左といった、光秀配下の江南衆にまで出陣命令が出ているというのに、自分は一歩も戦場に足を踏み入れられそうにない。
「まぁ、気にしすぎと言われるかもしれぬがのう…」
忠三郎が小首をかしげていると、町野左近がすかさず耳を寄せてくる。
「上様は、どうもわしが戦場に出るのをよしとされておらぬような…」
とぽつりと漏らすと、町野左近は目を丸くし、
「ははぁ、今やっとお気づきになったので?」
「?…と申すと?」
「若殿以外の者は皆、もう何年も前から、とうに承知しておることで」
忠三郎は、いざ戦さともなれば、どれほど周囲が注意しようが、信長がいかに気をもんでも、まるで風を切るように敵の真っ只中へと駆け出してしまう。
(これでは、あの万見仙千代殿の二の舞ではないか…)
信長が最も目をかけていた近侍の万見仙千代。その万見仙千代が有岡城攻めで功を焦り、討死したことは記憶に新しい。
忠三郎は、信長がその後悔から自分を守ろうとしているのも気づかず、「なぜわしは出られぬのか」と不満げな顔をするばかり。その忠三郎の無邪気さが、さらに信長の心配を助長している。
「鶴殿、おぬしは常よりわかりやすいお方じゃ」
背後から笑い声と共に、馬廻衆のひとり、菅屋九右衛門がゆるりと近づいてきた。
「おや、九右衛門殿か。何かおかしなことでも?」
「いやいや、おぬしが眉をしかめて悩んでおる様子を見ると、わしもつい笑うてしもうた。『戦さに出られぬは何故か』と考え込んでいるその姿、どこからどう見ても丸わかりじゃて」
忠三郎は少しばつが悪そうに鼻をかく。菅屋九右衛門は織田家譜代の臣で、二人の子もすでに元服し、信長の小姓を務めている。
「九右衛門殿も上様とともに上洛なさるか」
忠三郎は菅屋九右衛門を見ながら、どこか羨ましそうな顔をした。九右衛門は口元をほころばせつつ、忠三郎の気持ちを見透かしたように続ける。
「此度はわしら馬廻衆も上様にお供し、毛利攻めの手助けと相成った次第。戦さの熱気と騎馬の響きに応じるは、そなたほどではないにせよ、わしも心が騒ぎ立つ。鶴殿もご一緒にと願いたいところじゃが…」
「では九右衛門殿から、この蒲生忠三郎も御供を願い出ておることを、上様に伝えてはくださらぬか」
忠三郎は、菅屋九右衛門に向かって真顔で頼んだ。
「ほう、わしから上様に直訴とな?」
九右衛門は微笑を浮かべながら少し身を乗り出し、忠三郎の顔を覗き込んだ。
「上様のお耳に入れたとて、お笑いになるだけであろうが?」
「ならばそれも一興。さぞ上様もお喜びくださるはず!」
忠三郎の目が輝くのを見て、九右衛門はやれやれと苦笑した。
「そこまで仰せであれば致し方あるまい。如何じゃ、明日にでも供に上様の元へ行き、鶴殿から願い出てみては?無論、わしも力添えしようほどに」
「それこそ、まさに!まこと忝い!」
忠三郎は飛び上がらんばかりに喜び、笑顔を見せる。
「明日、控えの間でお待ちあれ。上様がご機嫌な折を見計らい、声をかけようほどに」
「では九右衛門殿、明朝一番に参じ申そう!我らが願い、上様に届かんことを祈る!」
菅屋九右衛門の思わぬ計らいのお陰で、共に参陣できるかもしれない。忠三郎は胸の内でわくわくと希望を膨らませた。
翌日。安土城控えの間で菅屋九右衛門が声をかけてくれるのを心待ちにしていた。
しかし、何度か信長に呼ばれることはあったが、そこに九右衛門の姿はない。
九右衛門の次男で小姓の勝次郎にそっと尋ねてみると、勝次郎は少し困ったような顔つきになり、声を潜めて答えた。
「父は上意で堺へ参りました」
「堺?」
「さようにございます。その後、都へ参り、上様の御一行と合流いたすと申しておりました」
それでは信長に直接、談判する機会がないではないか。
(はて…約束を違えるようなお方でもなし…)
首を傾げる忠三郎を見て、勝次郎は周囲を気にするように視線を巡らしつつ、重ねてそっと口を開いた。
「父が、忠三郎殿に詫びてほしいと」
「詫びる…とは、いったい?」
「それがし、詳しくは存じませぬが…例のお話は、なかったことにしてほしいと…そのように申しておりました」
「な、なに?」
九右衛門が約束を破棄せざるを得ぬ何か重大な事由があったのだろうか。
「なんでも昨夜、父・九右衛門の枕元にご先祖様らしき者が立たれて…」
「…?ご先祖様?」
急に突拍子もない話に移り変わり、忠三郎は思わず眉をひそめ、怪訝な面持ちで勝次郎の言葉に耳を傾ける。
「はい、そのご先祖様が現れて、此度の合戦には忠三郎殿を連れて行ってはならぬと、厳かにお告げになったのだと…」
「厳かに…」
勝次郎の顔には、父の不可思議な言葉を訝しむ色が浮かびつつも、どこか神妙な表情があった。その話が単なる迷信なのか、それとも確かなものと感じ取ったのか――
(なんとも不可解なる話よ)
よしんば、それが真に先祖であれば、なぜ、その先祖は忠三郎の身を知り、気にかけるのか。
「かくなる上は、明日、わし自らが上様の前に立ち、出陣を願い出ん」
城下にある滝川家の屋敷に戻った忠三郎は、町野左近を相手に盃を傾けながら、意気込んでそう話した。
その翌朝のこと。
町野左近は、朝からそわそわと厠の前を行ったり来たりしながら落ち着かない。というのも、忠三郎が夜も明けぬうちから厠に籠り、いっこうに出てこないのである。
ここまで酷いのは義太夫に妙な饅頭を食べさせられたとき以来だ。
「若殿、大事はござりませぬか」
心配になって声をかけるも、返事はない。そこで、もう一度やや大声で呼びかけてみた。
「若殿!いかがされましたか!」
すると、厠の中から忠三郎の苦しそうな声が返ってきた。
「大声を出すな…屋敷の者に聞こえてしまうではないか…」
その声に、左近はさらに眉をひそめる。普段は毅然たる姿の蒲生の若殿が、まさかこんなところで立ち往生するとは…。
「されど、そろそろ登城せねば…」
気を揉んで言うと、忠三郎はますます低い声で呻いた。
「無理じゃ…!今日はもうどうにもならぬ。使いを出し、行けぬと城に伝えてくれ」
町野左近は目を丸くして呆気にとられる。忠三郎が「行けぬ」と厠から籠城宣言とは…!仕方なく使いを立てる支度に向かった。
忠三郎がようやく厠から解放されたのは、日も昼に差しかかる頃だった。
「若殿!大変案じておりました…」
待ちかねた町野左近が駆け寄ると、忠三郎は疲れた様子で小さく頷き、ふらふらと寝所のほうへ向かおうとする。すると町野左近が、思いもよらぬ言葉を投げかけた。
「上様も案じておいでとか」
「な、なに、上様?爺、おぬし、城の者になんと伝えたのじゃ?」
町野左近は、少し得意げに答える。
「ありのままにございます。我が家の若殿は、今朝未明より厠に籠城し、一歩も出ること叶わぬ戦局にあると…」
忠三郎は呆れを通り越し、言葉もない。
(ありのままでよいときと、よろしくないときがあることが分からぬのか…)
よりにもよって、信長に厠籠城がことごとく伝わっているとは…。
「上様から、『日野に帰ってよくよく養生するように』との有難いお言葉が…」
「………」
毛利攻めに同行するどころか、日野に帰れと言われるとは。
(全くもって有難くない)
忠三郎は苦い思いで天を仰いだ。ここぞと奮い立ち、織田家のお役に立たんと決意していた矢先、まさかの「厠籠城」によって足止めをくらい、その上「養生せよ」とは…。まるで傷ついた鶴が羽を休めるように、ただ日野で静かに過ごせというのか。
寝所に戻り、板の間に身を横たえると、昨日からの一連の出来事が頭の中で渦を巻き始める。
(先祖が夢枕に立ったの、厠籠城だのと…奇妙な出来事ばかり。これは一体どうしたことか)
どこかの誰かが忠三郎の一挙一動を監視し、出陣を阻もうとしているような、不思議な感覚が湧き上がる。
(もし、そうであるなら…まさか、誰かがわしを妬んで足を引っ張っているのでは…?)
忠三郎はふと思い当たる節を探し、心中で首を振る。だが、これほどまでに奇妙な出来事が続くと、そう考えるのも無理からぬことと少し疑ってみる気持ちが湧いてくる。
(いやいや、妬まれるようなことをわしがしているとも思えぬが…)
戦場に出るたび誰よりも真っ先に敵陣に駆け込むのは、自分としては当然のこと。しかし、それが周囲には功を焦っているように見え、何かと煙たがられているのでは…そんな気もしてきた。
ほどなく、安土城二の丸の警護を仰せつかった父・賢秀が姿を現したので、忠三郎は町野左近を伴い、日野へ戻った。
久しぶりに目にする故郷の景色に、忠三郎の胸は温かい思いで満たされる。
(変わらない)
目の前に悠々と聳える綿向山。その山懐から湧き出た清らかな川が涼やかに流れ、稲が青々と風にそよぐ田んぼには、一面に水が張られ、初夏の空を映し出している。辺りに漂う早苗の香りと、蛙の声がひときわにぎやかに聞こえ、季節の営みが忠三郎の心をふっと落ち着かせる。
そして、久しぶりに故郷の地を踏むと、必ず思い出すのが、佐助のことだ。
忠三郎のそばに寄り添い、どこまでも共に駆け抜けた友。時には朝露に濡れた田のあぜ道で、時には故郷の山々へと共に足を延ばしたあの懐かしい日々が、今も鮮やかに蘇る。
(佐助…おぬしは、今もどこかで、変わらずこの風を感じておるか)
故郷の風に耳を傾ければ、川のせせらぎに混じって佐助の笑い声が聞こえてくるようで、忠三郎はひとしきり目を閉じ、静かにその余韻に浸った。
あれからどれほどの月日が流れたのか。何度となく佐助のことを思い返したが、どうしても佐助が死んだとは思えなかった。ふとした拍子にどこかの道端でひょっこり顔を見せ、笑って声をかけてくれるような気がしてならない。
(戻ってきてよかったのかもしれぬ)
久しぶりに城に戻り、綿向山を見上げて、しみじみとそんな思いが胸に満ちた。
安土の町は、まこと華やかである。城下では日々がまるで乱舞する蝶のように色彩と活気に満ち、目を奪われるものばかりが揃っている。しかし、その華やぎには浮き足立つものがあり、人々は忙しさに追われ、ただ前ばかりを見て突き進むばかりだ。風に追われるように歩むうち、己の心に目を向ける暇などあっただろうか。
気づけば、何か大切なものまでも見失っているような気がしてならない。
安土の慌ただしさの中で、自らを律するはずの静かな心の声さえも、いつしか遠くかき消されてしまっていたのではないか。かつての佐助との思い出も、故郷の水のごとき静けさの中でようやく息を吹き返したようで、胸の奥底に溶け残るように蘇ってくる。
(人の心とは、移り変わる世において、ただひとつ流されぬものだとばかり思っていたが…)
むしろ逆かもしれない。人の心ほど、変わりやすいものはないのではないか。
綿向山の懐深く流れる川のせせらぎが、安土の華やぎとは異なる、穏やかな時間の流れを語りかけてくるように思われた。
武田攻めを終えたのち、甲斐から駿河へ、そして浜松へと軍勢を進めた後、徳川家康のもとで接待を受け、行軍の疲れを癒し、安土に戻った。
その後、今度は家康が安土へと招かれた。
「いやはや、浜松での心尽くしに負けじと、上様は盛大なもてなしをされるおつもりか」
忠三郎は少し面白そうに目を細めて、人の行き交う賑やかな通りを見やった。
旗がひらめき、店の軒先に飾られた花々が祭りのように色とりどりに飾られている。これは家康の来訪を歓迎するため、堀久太郎や長谷川藤五郎などの近臣の者たちが町衆に声をかけ、飾り付けを行ったものだ。
ちょうどその時、播磨で戦さをしている羽柴秀吉から援軍を求める使者が到着した。信長は、嫡男の信忠とともに出馬を決め、軍奉行として堀久太郎をいち早く秀吉の陣へ送り出した。
忠三郎もその出陣に加わる心づもりでいたが、今回は少し事情が異なった。
父・賢秀が信長の留守中の安土城の警護を命じられ、忠三郎は父と交代で日野へ戻ることになった。
「久太郎も藤五郎も忙しそうに立ち働いておるというにのう…」
忠三郎は、ちょっぴり拗ねた様子で肩をすくめてみせた。なにやら自分だけ、またも出番を逃してしまったような気がする。先の武田攻めも、行ってみると武田は滅んでおり、物見遊山で終わってしまった。
しかし、今回は違う。今回は中国の覇者・毛利が相手だ。そのため、従弟の後藤喜三郎や青地四郎左といった、光秀配下の江南衆にまで出陣命令が出ているというのに、自分は一歩も戦場に足を踏み入れられそうにない。
「まぁ、気にしすぎと言われるかもしれぬがのう…」
忠三郎が小首をかしげていると、町野左近がすかさず耳を寄せてくる。
「上様は、どうもわしが戦場に出るのをよしとされておらぬような…」
とぽつりと漏らすと、町野左近は目を丸くし、
「ははぁ、今やっとお気づきになったので?」
「?…と申すと?」
「若殿以外の者は皆、もう何年も前から、とうに承知しておることで」
忠三郎は、いざ戦さともなれば、どれほど周囲が注意しようが、信長がいかに気をもんでも、まるで風を切るように敵の真っ只中へと駆け出してしまう。
(これでは、あの万見仙千代殿の二の舞ではないか…)
信長が最も目をかけていた近侍の万見仙千代。その万見仙千代が有岡城攻めで功を焦り、討死したことは記憶に新しい。
忠三郎は、信長がその後悔から自分を守ろうとしているのも気づかず、「なぜわしは出られぬのか」と不満げな顔をするばかり。その忠三郎の無邪気さが、さらに信長の心配を助長している。
「鶴殿、おぬしは常よりわかりやすいお方じゃ」
背後から笑い声と共に、馬廻衆のひとり、菅屋九右衛門がゆるりと近づいてきた。
「おや、九右衛門殿か。何かおかしなことでも?」
「いやいや、おぬしが眉をしかめて悩んでおる様子を見ると、わしもつい笑うてしもうた。『戦さに出られぬは何故か』と考え込んでいるその姿、どこからどう見ても丸わかりじゃて」
忠三郎は少しばつが悪そうに鼻をかく。菅屋九右衛門は織田家譜代の臣で、二人の子もすでに元服し、信長の小姓を務めている。
「九右衛門殿も上様とともに上洛なさるか」
忠三郎は菅屋九右衛門を見ながら、どこか羨ましそうな顔をした。九右衛門は口元をほころばせつつ、忠三郎の気持ちを見透かしたように続ける。
「此度はわしら馬廻衆も上様にお供し、毛利攻めの手助けと相成った次第。戦さの熱気と騎馬の響きに応じるは、そなたほどではないにせよ、わしも心が騒ぎ立つ。鶴殿もご一緒にと願いたいところじゃが…」
「では九右衛門殿から、この蒲生忠三郎も御供を願い出ておることを、上様に伝えてはくださらぬか」
忠三郎は、菅屋九右衛門に向かって真顔で頼んだ。
「ほう、わしから上様に直訴とな?」
九右衛門は微笑を浮かべながら少し身を乗り出し、忠三郎の顔を覗き込んだ。
「上様のお耳に入れたとて、お笑いになるだけであろうが?」
「ならばそれも一興。さぞ上様もお喜びくださるはず!」
忠三郎の目が輝くのを見て、九右衛門はやれやれと苦笑した。
「そこまで仰せであれば致し方あるまい。如何じゃ、明日にでも供に上様の元へ行き、鶴殿から願い出てみては?無論、わしも力添えしようほどに」
「それこそ、まさに!まこと忝い!」
忠三郎は飛び上がらんばかりに喜び、笑顔を見せる。
「明日、控えの間でお待ちあれ。上様がご機嫌な折を見計らい、声をかけようほどに」
「では九右衛門殿、明朝一番に参じ申そう!我らが願い、上様に届かんことを祈る!」
菅屋九右衛門の思わぬ計らいのお陰で、共に参陣できるかもしれない。忠三郎は胸の内でわくわくと希望を膨らませた。
翌日。安土城控えの間で菅屋九右衛門が声をかけてくれるのを心待ちにしていた。
しかし、何度か信長に呼ばれることはあったが、そこに九右衛門の姿はない。
九右衛門の次男で小姓の勝次郎にそっと尋ねてみると、勝次郎は少し困ったような顔つきになり、声を潜めて答えた。
「父は上意で堺へ参りました」
「堺?」
「さようにございます。その後、都へ参り、上様の御一行と合流いたすと申しておりました」
それでは信長に直接、談判する機会がないではないか。
(はて…約束を違えるようなお方でもなし…)
首を傾げる忠三郎を見て、勝次郎は周囲を気にするように視線を巡らしつつ、重ねてそっと口を開いた。
「父が、忠三郎殿に詫びてほしいと」
「詫びる…とは、いったい?」
「それがし、詳しくは存じませぬが…例のお話は、なかったことにしてほしいと…そのように申しておりました」
「な、なに?」
九右衛門が約束を破棄せざるを得ぬ何か重大な事由があったのだろうか。
「なんでも昨夜、父・九右衛門の枕元にご先祖様らしき者が立たれて…」
「…?ご先祖様?」
急に突拍子もない話に移り変わり、忠三郎は思わず眉をひそめ、怪訝な面持ちで勝次郎の言葉に耳を傾ける。
「はい、そのご先祖様が現れて、此度の合戦には忠三郎殿を連れて行ってはならぬと、厳かにお告げになったのだと…」
「厳かに…」
勝次郎の顔には、父の不可思議な言葉を訝しむ色が浮かびつつも、どこか神妙な表情があった。その話が単なる迷信なのか、それとも確かなものと感じ取ったのか――
(なんとも不可解なる話よ)
よしんば、それが真に先祖であれば、なぜ、その先祖は忠三郎の身を知り、気にかけるのか。
「かくなる上は、明日、わし自らが上様の前に立ち、出陣を願い出ん」
城下にある滝川家の屋敷に戻った忠三郎は、町野左近を相手に盃を傾けながら、意気込んでそう話した。
その翌朝のこと。
町野左近は、朝からそわそわと厠の前を行ったり来たりしながら落ち着かない。というのも、忠三郎が夜も明けぬうちから厠に籠り、いっこうに出てこないのである。
ここまで酷いのは義太夫に妙な饅頭を食べさせられたとき以来だ。
「若殿、大事はござりませぬか」
心配になって声をかけるも、返事はない。そこで、もう一度やや大声で呼びかけてみた。
「若殿!いかがされましたか!」
すると、厠の中から忠三郎の苦しそうな声が返ってきた。
「大声を出すな…屋敷の者に聞こえてしまうではないか…」
その声に、左近はさらに眉をひそめる。普段は毅然たる姿の蒲生の若殿が、まさかこんなところで立ち往生するとは…。
「されど、そろそろ登城せねば…」
気を揉んで言うと、忠三郎はますます低い声で呻いた。
「無理じゃ…!今日はもうどうにもならぬ。使いを出し、行けぬと城に伝えてくれ」
町野左近は目を丸くして呆気にとられる。忠三郎が「行けぬ」と厠から籠城宣言とは…!仕方なく使いを立てる支度に向かった。
忠三郎がようやく厠から解放されたのは、日も昼に差しかかる頃だった。
「若殿!大変案じておりました…」
待ちかねた町野左近が駆け寄ると、忠三郎は疲れた様子で小さく頷き、ふらふらと寝所のほうへ向かおうとする。すると町野左近が、思いもよらぬ言葉を投げかけた。
「上様も案じておいでとか」
「な、なに、上様?爺、おぬし、城の者になんと伝えたのじゃ?」
町野左近は、少し得意げに答える。
「ありのままにございます。我が家の若殿は、今朝未明より厠に籠城し、一歩も出ること叶わぬ戦局にあると…」
忠三郎は呆れを通り越し、言葉もない。
(ありのままでよいときと、よろしくないときがあることが分からぬのか…)
よりにもよって、信長に厠籠城がことごとく伝わっているとは…。
「上様から、『日野に帰ってよくよく養生するように』との有難いお言葉が…」
「………」
毛利攻めに同行するどころか、日野に帰れと言われるとは。
(全くもって有難くない)
忠三郎は苦い思いで天を仰いだ。ここぞと奮い立ち、織田家のお役に立たんと決意していた矢先、まさかの「厠籠城」によって足止めをくらい、その上「養生せよ」とは…。まるで傷ついた鶴が羽を休めるように、ただ日野で静かに過ごせというのか。
寝所に戻り、板の間に身を横たえると、昨日からの一連の出来事が頭の中で渦を巻き始める。
(先祖が夢枕に立ったの、厠籠城だのと…奇妙な出来事ばかり。これは一体どうしたことか)
どこかの誰かが忠三郎の一挙一動を監視し、出陣を阻もうとしているような、不思議な感覚が湧き上がる。
(もし、そうであるなら…まさか、誰かがわしを妬んで足を引っ張っているのでは…?)
忠三郎はふと思い当たる節を探し、心中で首を振る。だが、これほどまでに奇妙な出来事が続くと、そう考えるのも無理からぬことと少し疑ってみる気持ちが湧いてくる。
(いやいや、妬まれるようなことをわしがしているとも思えぬが…)
戦場に出るたび誰よりも真っ先に敵陣に駆け込むのは、自分としては当然のこと。しかし、それが周囲には功を焦っているように見え、何かと煙たがられているのでは…そんな気もしてきた。
ほどなく、安土城二の丸の警護を仰せつかった父・賢秀が姿を現したので、忠三郎は町野左近を伴い、日野へ戻った。
久しぶりに目にする故郷の景色に、忠三郎の胸は温かい思いで満たされる。
(変わらない)
目の前に悠々と聳える綿向山。その山懐から湧き出た清らかな川が涼やかに流れ、稲が青々と風にそよぐ田んぼには、一面に水が張られ、初夏の空を映し出している。辺りに漂う早苗の香りと、蛙の声がひときわにぎやかに聞こえ、季節の営みが忠三郎の心をふっと落ち着かせる。
そして、久しぶりに故郷の地を踏むと、必ず思い出すのが、佐助のことだ。
忠三郎のそばに寄り添い、どこまでも共に駆け抜けた友。時には朝露に濡れた田のあぜ道で、時には故郷の山々へと共に足を延ばしたあの懐かしい日々が、今も鮮やかに蘇る。
(佐助…おぬしは、今もどこかで、変わらずこの風を感じておるか)
故郷の風に耳を傾ければ、川のせせらぎに混じって佐助の笑い声が聞こえてくるようで、忠三郎はひとしきり目を閉じ、静かにその余韻に浸った。
あれからどれほどの月日が流れたのか。何度となく佐助のことを思い返したが、どうしても佐助が死んだとは思えなかった。ふとした拍子にどこかの道端でひょっこり顔を見せ、笑って声をかけてくれるような気がしてならない。
(戻ってきてよかったのかもしれぬ)
久しぶりに城に戻り、綿向山を見上げて、しみじみとそんな思いが胸に満ちた。
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気づけば、何か大切なものまでも見失っているような気がしてならない。
安土の慌ただしさの中で、自らを律するはずの静かな心の声さえも、いつしか遠くかき消されてしまっていたのではないか。かつての佐助との思い出も、故郷の水のごとき静けさの中でようやく息を吹き返したようで、胸の奥底に溶け残るように蘇ってくる。
(人の心とは、移り変わる世において、ただひとつ流されぬものだとばかり思っていたが…)
むしろ逆かもしれない。人の心ほど、変わりやすいものはないのではないか。
綿向山の懐深く流れる川のせせらぎが、安土の華やぎとは異なる、穏やかな時間の流れを語りかけてくるように思われた。
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ypaaaaaaa
歴史・時代
1929年のロンドン海軍軍縮条約を機に海軍内では新時代の軍備についての議論が活発に行われるようになった。その中で生れたのが”航空艦隊主義”だった。この考えは当初、一部の中堅将校や青年将校が唱えていたものだが途中からいわゆる海軍左派である山本五十六や米内光政がこの考えを支持し始めて実現のためにの政治力を駆使し始めた。この航空艦隊主義と言うものは”重巡以上の大型艦を全て空母に改装する”というかなり極端なものだった。それでも1936年の条約失効を持って日本海軍は航空艦隊主義に傾注していくことになる。
デモ版と言っては何ですが、こんなものも書く予定があるんだなぁ程度に思ってい頂けると幸いです。
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