獅子の末裔

卯花月影

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17.あだし野の露

17-7. 流れる涙

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 数日が過ぎ、大和の申楽太夫を介して伊賀衆から和睦の申し入れが届いた。 
   
 知らせを受け、寄せ手は安堵の息を漏らす。忠三郎も人心地つきながらも、心中に重く響く戦の余韻を噛みしめていた。
「ようやく伊賀攻めも終わってくれたか」
 そう呟き、思い巡らせながらも、兵をまとめ、帰路の準備を整え始めた。これまで進軍してきた比治山、平楽寺、佐那具――。忠三郎の心に、これらの地名がひとつひとつ重くのしかかる。攻め落とすたびに目にしてきた無残な光景が脳裏をよぎり、歩む道は一層、足取りが重くなる。

(あの古刹も、あの村も、今はもう姿を変えてしまった…)
 胸中にわだかまるものを抑えつつも、後に続く兵たちの目には、戦の痛みよりも、勝利の喜びと、早く故郷へ戻りたいという安堵や疲れが滲んでいるようだ。

 減戦地だった比自山が見えてくると、目に飛び込んできたのは、戦の爪痕が残る焼け焦げた家屋の数々だった。山肌にへばりつくようにあった家々も黒く煤け、あちらこちらに崩れた壁や骨組みだけが残り、もはや人の住まう気配すらない。猫の額ほどの小さな畑は苅田され、そこに根を張っていた作物はすべて失われており、秋の収穫期が近いとは思えぬほど荒涼とした景色が広がっている。

「恐ろしいまでに人の気配がありませぬな」
 町野左近が言葉少なにそう言う。
 大義の名のもとに進められた攻撃の末に残された、この寂寥たる光景。秋の収穫期を迎えるべき田畑には一つの稲穂も残らず、わずかな実りさえ奪われた地には、空しく風が吹き抜けるばかりだ。

「あだし野の露か…」
 忠三郎はぽつりとそう呟いた。死者の躯がうち捨てられるあだし野のごとく、ここにはもはや生きている者の息吹はなく、ただ死と破壊の痕が寂しく漂っているだけだ。

 ただひとつ、ここに残されているものがあるとしたら──

 忠三郎の胸の奥に、不意に何かが沸き起こり、思わず天を仰ぐ。
(そうか。あだし野の露とは…)
 ”あだし”とは儚さや哀しみ。あだし野の露とはまさに、死者を哀れみ、また残されたものの悲しみを深く知る誰かの涙。無造作に刈り取られた干し草のごとく、奪われた多くの命。それを憐み、悲しむ人の心に寄り添うように、静かに流れる誰かの涙。──それこそが、この荒れ果てた地に染み込むあだし野の露。死者の無念に応えることもなく、ただ悲しむ人の心に寄り添い、そっと癒そうとする誰かの想いが、この地に降り注いでいる。

(その誰かとは…)
 と思ったその時、背後に人の気配を感じた。
「勝利に酔い、流した血と、奪った命への想いを忘れてはならぬ」
 ──聞き覚えのある低い、深みを持ったその声は、一益だった。
「義兄上…いつの間に…」
 振り向いた忠三郎の目に映ったのは、憂いを湛えた面持ちで佇む義兄の姿。
 秋の夕陽が薄く一益の影を引き、刹那、その背に散り際の紅葉のような侘びしい色が差した。

 その姿に、不意に心が締めつけられるのを感じた。血で彩られた勝利の先には、すべてを置き去りにした戦の残滓だけが残っている。一益の瞳の奥には、倒れていった者たちへの思いが揺れているかのようだった。

「味方がいかほど討死しようとも、敵を何千人と討ち取ったと聞けば、人は涙を流さぬようになる。戦さにより、人は敵に憎悪を向けるばかりではない。味方さえも顧みぬものとなり下がる。忘るるな。勝利の熱狂は、ついには人を獣へと変えるものじゃ」
 味方が勝利で沸き返る中、一益の目には他の者とは異なるものが見えているかのようだ。
(義兄上が見ているものは…)
 それは、勝利が影に隠してしまう「何か」
 その瞳に宿る憂いは、勝利の熱狂に飲まれていく者たちへの警鐘のようにも見える。勝利を求め、血を流し、奪い、やがて獣のように変わり果てていく──戦の常ならぬ姿がそこにはあった。
 
 忠三郎の心にもまた、冷たい秋風のようにその言葉が染み入ってくる。どれほど多くの命が消えていったか、それを考えるたび、忠三郎の胸の奥にわずかな痛みが生まれる。「忘れるな…」という一益の言葉の裏には、戦場で散っていった命への深い哀惜と、戦に囚われた者の無念がこだましていた。

「おや…」
 すすきの穂が揺れる晩秋の風に耳を澄ませ、滝川勢の方を見やった。突然のざわめきが、静かな秋の野に響いている。
「何事であろうか」
 一益が首をかしげるのを見て、傍にいた助太郎が軽く頭を下げる。
「それがしが様子を見てまいりましょう」
 助太郎が声を掛け、少し急ぎ足で滝川勢の方へ向かうのを見て、忠三郎も心にかかるものがあり、後を追った。

 すすきの草むらを抜けて進むと、先の方で数人の兵が大きな穴を囲んで騒いでいるのが見えた。
「皆、騒いでおらんで、早う助けてくれ!」
 穴の中から叫び声が響き、兵たちが一斉に顔を見合わせる中、縄を持った助九郎が駆け寄ってきた。穴の中を覗き込むと、なんと義太夫が手を大きく振り回して助けを求めているではないか。
「全く義太夫殿。自ら掘った穴に落ちるとは…。墓穴を掘るとはまさにこのこと」

 助九郎がため息まじりに言いながら、縄をぽんと穴の中に投げ入れた。義太夫は顔を真っ赤にしながら「えっちらおっちら」と縄を手繰り、ようやく地上に這い出る。顔に泥が付いた様子で息をつく義太夫を見て、兵たちはこらえきれずに笑いを漏らしている。
「一体、かようなところで何を…」
 と言いかけて、ふと、その理由に思い至った。

 攻め入った当初こそ、民には一切の手出しを禁じていたが、幾度も村々から奇襲を受ける中で、ついにはやむを得ず、動く者すべてを斬り捨てて進んできた。戦場に散らばる躯は、あたり構わず野にうち捨てられ、どこかで薄紅に染まったすすきが風に揺れている。

 義太夫たちは、こうした無残な躯をせめて葬らんと、せっせと穴を掘っていたのだ。
「義兄上のご命令か?」
 忠三郎は申し訳なさげに義太夫に問いかけた。
 義太夫は、少し黙してからゆっくりと頷き、
「戦さに勝った者は、こうして敵味方問わず、亡骸を葬るのが礼というものじゃ。そうでなくとも伊賀と甲賀は昔から甲伊一国というてのう、兄弟のようなものよ」
 その声には、秋の風のような静かな哀愁が漂っていた。

(その兄弟を、攻め滅ぼしたのか)
 ふと胸の内に重いものが沈むのを感じた。甲賀の者たちはどれほどの覚悟をもって、この地に足を踏み入れたのだろうか。
 兄弟のように隣り合ってきた地に刀を向けるとき、彼らの心にどれほどの葛藤があったか、想像することすら憚られる気がした。

 秋の風が吹き抜け、周りに散らばるすすきが揺れ、いっそう寂しい色を帯びている。その光景を見つめる忠三郎の胸には、何ともいえぬ想いが広がる。勝ち負けを越え、こうして野に散った命に向き合い、土に還してやるのは、ただの務めではない、失われた命に対するせめてもの償いと責任なのかもしれない。

(兄弟のよう…それゆえ…それゆえであろうか…佐助のことばかり頭に浮かぶのは…)
 今この場に、佐助がいたらどう思うだろうか。やむを得ぬ命に従う忠三郎の心の葛藤に、何と声をかけてくれるのか。気づけば、懐かしい佐助の面影が、夕暮れの光の中に静かに揺れているように見えた。

「いやはや、危ういところで、わしまで弔われるところであったわ」
 義太夫は笑いながら、ポンポンと土を払っている。袖口まで土まみれになり、頭にはすすきの穂が絡まっているのに、それさえ気づかず滑稽な顔で、なおも笑みを絶やさない様子に、思わず忠三郎も微笑みがこぼれる。

「まぁ、これも戦国の世の習い。次は我らが、まことに、こうして土に還されることとなるやもしれぬでのう」
「義太夫、袖に土が…。頭にすすきの穂が乗っておるぞ」
「お?おぉ、まことじゃ」
 義太夫が目を丸くし、頭をかくと、ぱらぱらとすすきの穂が落ちる。袖についた土を払うたび、ぽんぽんと乾いた音が響き、秋風に舞う葉のようにあたりに散っていく。その動きがいかにも飄々として、儚くも愉快だった。

 ふと、忠三郎は胸の奥に、ほのかに切なさを覚える。夕日に染まる晩秋の野原で、義太夫の愉快な仕草が、張りつめた空気を和ませ、薄紅に染まる枯れすすきが揺れる中、その剽げた姿だけがどこか無邪気で、儚く、穏やかだった。
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