獅子の末裔

卯花月影

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17.あだし野の露

17-3. 逆襲

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「次はこの先にある田屋の砦。これを我が従兄の美濃部上総介に頼み、我らは先へ急ごう」
 幼少の頃から兄のように接してくれた美濃部上総介。甲賀の地に根差す土豪であり、山中での戦いには馴れ親しんでいる。この従兄に任せれば砦の攻略もたやすかろうと、忠三郎は判断し、兵を整え、伊賀のさらに奥深くへと歩みを進めていった。

 玉瀧口より進軍を開始した織田軍の先鋒には、伊賀の地を知る耳須弥次郎が立ち、その後ろに忠三郎率いる蒲生勢、さらに江北の脇坂安治、最後尾には先の砦を制した甲賀の美濃部上総介の兵が構え、総勢七千の兵が列を成して伊賀の山道を進んでいた。
 あまりの大軍勢に、伊賀の土豪たちは各々の砦や城に籠もり、ひっそりと息を潜めているのみだった。

 忠三郎は馬上より全軍を見渡すと、厳然たる声で言い放った。
「我が蒲生勢においては、乱取りは一切、禁ずる。もし軍規を乱す者があれば、その場で討ち果たすゆえ、ゆめゆめ忘れぬように心せよ」
「ハハッ、しかと全軍に申し伝えまする」
 町野左近が神妙な顔で命を受け、足早に去っていくのを忠三郎は満足げに見送った。

(過剰な掠奪や無用な争いは、かえって織田家の名を貶め、将来的な憂いとなる…)
 そう思いを巡らせながら、忠三郎は軍を佐奈具へと進め、陣を構えさせた。
 空が茜に染まり始める頃、周囲が静寂に包まれる中、一隊の騎馬が勢いよく駆け寄ってきた。やがて、道中の埃を払いながら顔を上げたのは、滝川助九郎であった。一益の命を受け、急ぎ蒲生勢を追ってきたらしい。
「助九郎ではないか。義兄上は向かっておられるのか?」
 と忠三郎が尋ねると、助九郎はひとつ頷き、冷静な口調で答えた。

「いえ、我が滝川勢は丹羽様と共に春日山へ籠る敵と戦闘中にござりまする。少しばかり時がかかるゆえ、比自山城を遠巻きにし、滝川・丹羽の軍勢を待てとの仰せで」
 忠三郎はその言葉に少し眉をひそめたが、すぐに静かに頷いた。
「致し方あるまいて」
 忠三郎は小さく嘆息する。

 敵を前にして本隊到着まで黙って待つとはなんとも不本意ではあったが、軍規を守れと厳しく通達したばかりで、自分が軍規を破るわけにもいかない。
(軍規を乱さぬ姿勢を示すことこそ、将たる者の務め)
 忠三郎は気持ちを切り替え、その夜は兵たちをねぎらい、宴を催すことにした。疲れを癒し士気を保つため、かがり火が照らす中で兵たちと酒を酌み交わし、笑い声が絶えぬひとときを過ごす。
 将兵たちの顔には少しばかりの安堵の色が浮かび、やがて、静寂に包まれた戦場にぽつりぽつりと響く笑い声が、夜の空へと消えていった。

 それからどれほど眠ったか、定かではない。にわかに鬨の声が辺りに響き、慌てて飛び起きたときはまだ真っ暗だった。
「若殿!夜襲でござります!」
 誰かの声が響いた。
(そんなはずは…)
 攻略した場所以外、この付近には城も砦もなかった筈だ。
「一体、敵はどこから…」
 腑に落ちないまま甲冑を身に着けようとすると、町野左近が帷幕の中に飛び込んできた。
「この辺りの村々から敵が現れ、襲ってきたものかと」
「村から?」
 乱取りを禁止したことが裏目にでたようだ。

「はい、村の者どもが武器を携え、夜陰に乗じて襲いかかって参りました。伊賀の者どもは、追い詰められて身を守るため、立ち上がったようにござります」
 忠三郎は甲冑の紐を素早く締め、すぐさま馬を用意させた。村々からの襲撃とは予想もしていなかった事態だが、今や一刻の猶予もならない。静かな山村から突如として湧き上がった襲撃に、伊賀の者たちの誇りと執念を垣間見たような気がした。

「皆、一旦、引け!」
 忠三郎の声が夜の闇に響き渡った。
「陣を立て直さねば、ここまで崩されてはどうにもならぬ!」
 兵たちが従い、混乱の中で一歩一歩退き始めた。村々から現れた敵は小規模であったものの、闇を縫うように立ち回り、兵たちに不意打ちをかけ続けていた。忠三郎は撤退する部隊を見守りつつ、冷静に下知を飛ばす。

「爺、退却路を確保せよ!後陣の兵も、一人として散らすな!」
 町野左近がすぐさま動き、後方の兵士たちに撤退路の確保を命じた。忠三郎は、冷静さを装いながらも胸の中では、この意外な奇襲に対する苛立ちを覚えていた。

 襲撃を受けた際の混乱は徐々に収まり、思いのほか容易に撤退を果たした忠三郎は、東の空が白み始める頃、兵をまとめて夜営した場所へ戻った。砦周辺にはまだ煙の残り香が漂い、夜襲の爪痕がかすかに刻まれている。

 忠三郎は周囲を見渡しつつ、無傷の兵と疲弊した兵の姿を確かめ、用意に撤退できた理由が分かった。
 散乱する旗指物には見覚えがある。殿しんがりを務めていた従兄の率いる美濃部勢のものだ。
(わしを逃がすために、この場に踏みとどまってくれたのか)
 忠三郎は悔しさに唇を噛み締め、思わず拳を強く握った。親しい者の命が、無残にも散ってゆく。その知らせは、胸に冷たい刃を突き立てるかのごとき痛みを与えた。しかし、そこへさらに重く暗い悲報がもたらされた。

「若殿。どうやら討たれたのは美濃部様だけではないようで…」
 町野左近の声は、どこか震えを帯びていた。忠三郎は怒りを抑えながら問う。
「他に誰が討たれたと?」
「案内役を務めていた耳須弥次郎殿で」
 その言葉に、忠三郎の顔が険しくゆがんだ。二人を同時に狙い撃った者たちの周到さが見て取れる。美濃部上総介と耳須弥次郎、この二人はそれぞれ甲賀と伊賀における影の目であり、素破たちの動きを掴む上で欠かせぬ存在であった。彼らが討たれた今、素破たちの行動は、霧の中に隠れるように見えなくなってしまう。

(よく見知ったものたちが襲ってきたということか…)
 忠三郎は、内に込み上げる苦しみを抑えきれなかった。この一連の事態の発端は、他ならぬ己の哀れみにあった。伊賀の貧しき者たちの境遇に心を寄せ、乱取りを禁じてきたことで、かえって敵に付け入る隙を与えてしまったのだ。
(伊賀の者ども…恩を仇で返してくるとは、許しがたい)
 冷たい怒りに囚われた忠三郎は、周囲の山並みを見やった。秋も深まり、木々の葉は寂しげに色づき、無常の風が吹き抜けている。足元には枯れ葉が散らばり、ひとたび風が吹けば、静寂を切り裂くかのごとく、乾いた音を立てて舞い上がるばかりだ。
(この荒んだ山間で、生を繋ぐのも必死な民を憐れむなど…あまりに浅はかであった)

 目に映る秋の山中は、ただ哀しげに佇むのみで、救いを乞う者は一人としていない。それはまるで、忠三郎が寄せた哀れみをも嘲笑うかのように感じられた。冷え込む空気に包まれたその風景が、心中にひたひたと怒りを呼び覚ます。
「思い知らせてやろう…あの下賤な者どもがこの寒さの中で何を成し得るのかを。我が怒りを、この秋風とともに吹きつけてやる」
 忠三郎の決意は、寒さに冷たく凍りつく山の気に同調し、静かながらも烈しい怒りが内から燃え上がる。その鋭い声に、町野左近もただ無言で頷いた。
 忠三郎はそのまま陣の前方を睨みつけ、深い怒りを胸に抱きながら、進撃の号令を下した

 忠三郎は兵を進め、伊賀上野にある平楽寺城を焼き討ちし、これを降した。
「伊賀者の気性ゆえか、あるいは誇りが邪魔をしたか…数百の兵でよもや我らに挑むとは」
 町野左近が燃えあがる平楽寺城を見てため息を漏らす。忠三郎は燃え上がる平楽寺城を見据えたまま、心の奥底に、言いようもない感慨が湧き上がるのを感じていた。

(わずか七百の兵で我らに立ち向かうとは…伊賀の者たちもまた、守るべきものを抱え、ここに踏みとどまったのであろうか)
 空に浮かぶ炎が、荒々しい赤々とした舌をのせ、薄曇りの空を切り裂く。
(されど、誇りのみでは、織田家の勢威を前に刃を振るうことなどは叶わぬ…)
「我らの行く手を阻む者があれば、容赦せぬ。いかなる者であれ、捻じ伏せて参るまでよ。さあ、進軍を続けようぞ!」
 その声が伊賀の地を突き破るように響き渡り、兵たちは気を引き締め、次なる戦地へと歩みを進め始めた。

 蒲生勢は進軍を続け、忠三郎は、ようやく比自山の麓へと辿り着き、眼前に閃く幾多の旗に視線を走らせた。堀久太郎と筒井順慶がすでに到着し、それぞれの旗印が揺れ、陽光に照り映える様が目に飛び込んでくる。
(多羅尾口から来たのは久太郎と、多羅尾殿。して、大和より入られた順慶殿も、既に備えを固めておるか…)
 周囲には風に乗り、軍勢のざわめきが耳に届く。これまでの長い道のりと、伊賀の山々を踏破してきた苦労が、一瞬にして忠三郎の胸中に蘇る。

「全軍に伝えよ。これより、織田家の威光を示す戦が始まる。兵の士気を高め、本隊の合流まで備えを怠らぬようにせよ」
 近侍が黙して頷き、去っていく様子を見送りながら、忠三郎は眼前にそびえる比自山を見据えた。
(何か…聞こえてくる…)

 日が暮れかける山の麓に立ち、かがり火の揺らめきとともに漂う音に耳を傾けた。その音は、静寂に掻き消されることなく、確かに山中に響き渡っていた。
「あれは…敵は何をしておるのか」
 脇に控える町野左近が答える。
「どうやら城の守りを固めている様子にござります。日に日に伊賀の各地から集まる民により、守備も万全を期しておるとの報せにて」

 忠三郎は眉をひそめ、山々に囲まれた地形を目に収めた。北は断崖絶壁、南には深い谷が横たわり、まるで寄せ手を阻むために築かれたかのようなこの地。城がさらに強固な守りに包まれては、寄せ手としての利が失われてしまう。
(こうも難所であっては、安易に突入すれば無駄な犠牲を払うだけか…それでも、何とかして打破せねば、織田家の威光をこの伊賀に示すことは叶わぬ)

 忠三郎の胸中に、ただならぬ焦燥が走る。
「爺。諸将を呼び集めよ、このまま敵が守りを固めるのを黙って見過ごすことなどできようか。このままでは、ただただ時を敵に与えるだけに終わってしまう」
 町野左近が心得て帷幕の外へと去っていく。

 ほどなく、伝令からの知らせを受けた諸将が集まり、軍議が開かれた。軍議の中、忠三郎は意を決して皆の前で訴えたが、堀久太郎は口元を引き締め、冷ややかな目で忠三郎を見返した。
「忠三郎。おぬしの言い分がいかに独りよがりか、わからぬか。我らが焦って動き出せば、敵にとっては好機。無策に攻め入ることで得られるものがあるとは思えぬが?」

 忠三郎は顔を強張らせつつも、ひるまず、久太郎を睨む。
「何を悠長なことを…久太郎、伊賀の地の険しさもさることながら、敵が日に日に備えを固め、我らの勢力が削がれていくのを黙って見過ごせと申すのか?この一万三千の兵が無為にそこに座し、ただひたすら老将たちの号令を待っておれば、いずれ誰が我らを恐れようか」

 言葉に熱が入り、忠三郎の声が少しばかり響いたその時、久太郎はすっと目を細め、冷ややかに諌めた。
「忠三郎、おぬしの勇み足は褒めよう。されど、此度の戦はおぬしの功を競う場ではない。全軍の戦を軽んじてはならぬ。滝川、丹羽の本隊が到着するまで、この城の堅固さを心得て慎重に備えよという上様の策を踏み外すことなど許されぬ」

 忠三郎は、堀久太郎の苛立ちを感じ取りつつも一歩も引かず、声を張り上げた。
「ならば、我らが討って出て敵を震え上がらせ、あの城を落とすのを黙って見ておればよい。他の者たちはいかがか?」
 一同を見渡すが、筒井順慶は織田家に加わって日が浅く、この場で意見を述べる力はほとんどない。忠三郎が同意を求めると、順慶は俯いたまま、ただ静かに頷くだけだった。

 本来、この場の采配は供にいる軍目付の安藤将監が取るべきであった。しかし、忠三郎の鼻息荒い態度と、相手が信長の娘婿という立場であることが、安藤将監を黙らせていた。安藤将監も一度は口を開こうとしたが、忠三郎の気迫に圧され、言葉を飲み込むしかなかった。

 それを受け、堀久太郎も渋々と承諾せざるを得なくなり、最終的に忠三郎の勢いに押し切られる形で全軍が本隊到着を待たずに城攻めに向かうこととなった。
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