獅子の末裔

卯花月影

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17.あだし野の露

17-2. 友の影

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 天正九年 九月

 伊賀に接する伊勢・近江・大和の織田家家臣たちが安土に集められ、伊賀攻めの大号令がかけられた。総大将は先の伊賀攻めで大敗北を喫した北畠中将信雄。信長は、敗北を喫した信雄に再び挑戦の場を与えんとし、息子の名誉挽回を望んでいる。父としての情と、織田家の威信を示したいという思いが、その胸中には渦巻いているに違いない。
 この機会が、信雄にとって失墜した名を挽回し、再び光を帯びさせるものであらんと、信長はひそかに願っているのだろう。

 三九郎も父・一益や家臣たちとともに安土城に登城し、下知を受けた。一益が広間に残り、信長と戦略を練る中、三九郎は一足先に城下の屋敷へと足を向ける。
「かといって、その戦さに我らが巻き込まれるというのも…」
 三九郎は小声で不満を漏らしながらも、屋敷への道を進んでいた。すると、義太夫は何かとんでもないことでも聞いたかのように慌ててあたりを見回す。
「若殿。滅多なことを仰せになりませぬよう…。それは御法度というもの。中将様が大将の器かどうかなど、上様もよう存じておられる筈。それを曲げて、敵の十倍もの兵力をもって伊賀を攻め落とさんとされておるので」
 義太夫の言う通りだ。三九郎は頷くが、なおも腑に落ちない顔をしている。

「伊賀衆も風のように逃げ回ることはできましょうが、上様のお怒りからは逃れられるはずもない。我らはただ粛々とお役目を果たすのみで」
 それはよくわかっている。しかし三九郎の懸念は別なところにあった。

 今回の伊賀衆との一件で、信長が信雄を伊勢の要として据え置きたいと考えていることが透けて見えた。
 三九郎は、ひそかに思案を巡らせる。
(伊勢の守りは、父上が長年にわたり築き上げてきたもの)
 しかし、長年の苦労の末、最早、伊勢及びその周辺には織田家の地位を脅かすようなものは存在しない。信長は、かつて柴田勝家を北陸に送り込んだように、今度は北勢から滝川家を外し、さらなる遠国へ向かわせるつもりなのでは――三九郎の峰に、不安がよぎる。
(北伊勢は、父上にとっても家臣らにとっても終の棲家であり、菩提寺まで据えた地。それを手放せと仰せになるのではないか…)
 変転の兆しが現れるとすれば、伊賀攻めを終え、武田攻めが再開されてからだろう。一益はすでに関東諸将の取次を行っている。万が一にも関東へ移封などという命がくだれば、滝川家の者たちがどれほど驚き、戸惑うことか。

 三九郎の胸中にある不穏な気配が、重く深い影を落としていく中、伊賀攻めが開始された。
「そなたは甲賀育ち。伊賀者が侮れぬことはよう存じておろう。皆にも山岳での戦いを教えてやれ」
 一益はそう言って、兵の半分を三九郎に預けてくれた。
(父上に信頼されている…のであろうか)
 自分はどう思われているのかと気にはなっていたが、思いのほか、父は三九郎を評価してくれているらしい。三九郎は父から兵の半数を託され、胸の内にじんと熱いものが湧き上がるのを感じた。日頃、父の傍らにあってもその心底を伺い知ることなど叶わず、どこか隔たりのある関係と思っていた。しかし今、託されたこの重い役目が、少しばかりの信頼の証であろうかと感じられる。

 ふと、厳しい甲賀の山中での戦のことが脳裏に浮かんだ。幼き頃から甲賀の山で鍛えたこの身ならば、伊賀者相手にも後れを取ることはない。かつて険しい山々で受けた教えが、この場で生きる時が来たのかと、己の宿命を思う。
 滝川の名と父の期待、その重みが三九郎の背にある。それを思えばこそ、己の内に眠っていた甲賀育ちの誇りと闘志が、いよいよ燃え上がり始めるのを感じた。
 
 滝川勢は、伊勢の関から甲賀へ入り甲賀衆と合流後、柘植口より伊賀の地へ攻め入る。
「父上。上様は伊賀衆を殲滅せよと仰せとか…」
 三九郎が恐る恐るそう訊ねると、一益は首を横に振る。
「これまで見てきた通り、なで斬りなどは叶わぬこと。一昔前の戦さと、今の戦さの違いが分かるか?」
 これまで教わってきた戦さの基本は包囲殲滅だ。それは源平の頃から変わらない黄金律と思っていたが。

「何が違うと仰せで?」
「鉄砲こそが要よ」
 一益は低く応え、
「真に鉄砲を生かせるは、寄せ手にあらず」
 と言葉を続ける。
「鉄砲は、遠き敵を討つことにて効力を発揮する武器にして、攻むる側の利には非ざるもの」
 銃が生きるのは守る側。離れた場所にいる敵に対して有効な鉄砲が最も生かされるのは防衛においてであり、鉄砲の登場により寄せ手の有利性は損なわれることになった。

「故に守備にこそ真の価値を見出せるがゆえ、織田家の戦においてはまず砦や陣城を築き、敵を引き寄せる戦術をもってして戦果を得るが常となりたり」
 一益の言う通り、有岡城、長島城、大坂本願寺など、近年の織田家での戦さにおいてはまず、陣城、砦を築き、敵を誘い出すという戦術をとっている。
「では、最終的には伊賀衆と和議を結ぶと?」
 三九郎の問いかけに、一益は静かに頷きながら応じる。
「戦さは始める前に、いかにして終わらせるかをよくよく考えておかねばならぬ。それができてこそ、真に勝利と言えよう。それゆえ、勝ちすぎてはならぬ」
「勝ちすぎてはならぬ?」
「然様。和議を前提とする戦さゆえ、勝ちすぎてはならぬ。ましてやなで斬りを強行せば、敵方のみならず我らの側にも深き傷痕を残すこととなろう」

 そう続ける一益の言葉には、深い戒めが込められている。
「その最たるものが長島における惨劇であり、あの折、織田家の連枝衆も多く命を散らし、上様も痛恨の極みを知ることとなった。殲滅戦が寄せ手に甚大な打撃を与えることを、上様も身をもって学ばれたであろう」
 しかしその信長は、この伊賀攻めにおいても、容赦なきなで斬りを命じている。
(味方の犠牲など…上様は最初から覚悟の上では…)
 信長が一兵卒の命を惜しんでいるとは到底、思えない。その覚悟のほどを一益もまた、重々承知しているはずではあるが…。

「されど…敵は一筋縄ではいかぬ伊賀衆にござりまする。かの者たちも、我らが大軍の勢いを既に察知しておりましょう。さすれば、容易く誘い出されるとも思えませぬが、そうなった場合は如何いたしましょう」
 一益は静かに目を細め、
「そのときは火攻めしかなかろう」
 と重々しく応えた。
「火攻め…」
「然様。火をもって敵をあぶりだせ。伊賀者どのは皆、伊賀の中心、比自山城へと逃げ込むであろう。それこそが、こちらの狙い目よ。伊賀者どもを比自山城へと追い込み、周辺をあますところなく苅田して兵糧攻めに持ち込むのじゃ」

 戦さ場において、静かに戦略を練り上げ、粛々と進めていく一益の姿には、信長とは異なる凄みが満ちていた。凛然とした佇まいと鋭い眼差しが、そこに集う者たちの心を引き締める。
(なるほど…父上はかくも深く、よう考えておられる)
 そう感じ入る三九郎の胸に、一抹の不安と期待が交錯する。

 やがて、夕暮れの山間に響く角笛の音と共に、滝川勢が動き出し、戦場はさらなる緊迫感に包まれていった。

 一方、日野より甲賀・水口みなくちを経て、玉瀧口より伊賀へと攻め入った忠三郎。
 玉瀧口方面の指揮を任され、その目には意気軒昂の光が宿り、己の武名を諸国に轟かせんと、はやる心を隠さず兵を進めている。
「ついに、我が武名を諸国に轟かせる刻が参ったというものよ。のう、爺」
 そう高らかに語りかける忠三郎に、傍らの町野左近は、どこか気の抜けた声で、
「全くもって仰せのとおりかと…」
 と返すのみ。

 それもそのはず、町野左近には当主・蒲生賢秀や滝川一益より、忠三郎が功名に逸り、軽挙を為すことなきよう、目を光らせておくべしとの厳命が下っている。町野左近は忠三郎の背に目を凝らしつつ、いつ何時、忠三郎が一人で走って行ってしまうのではないかと気が気ではなかった。
「若殿。どうか、くれぐれも、くれぐれも、滝川様、丹羽様との合流地点である比自山城まで、大人しゅうしてくだされ」
 町野左近の不安げな言葉に、忠三郎は明るくうなずきながらも、心中に少しの不満を抱いていた。

「そう案ずるな。わしとて無為に命を捨てるような真似はせぬ。されど…」
「されど?」
「いや…」
(己の意見は通らず、すべては上様や義兄上の誂えた常勝の道を辿るばかり。これでは、誰が指揮を執っても同じではなかろうか…)
 信長の嫡男・信忠も、一益の嫡男・三九郎も、少しの不平も洩らさず、父や老臣らの指示にただ黙々と従う。その姿がどうにも忠三郎には腑に落ちぬものがある。己の意志を閉じ込め、ただ従うのみが家中の常道と心得ているのだろうか。

(わしはあの二人のような傀儡で終わるつもりはない)
 誰かの手のひらで操られるだけの存在など、望むところではない。
 忠三郎の胸中に去来する想いは、静かに戦場へと進みゆく行軍に影を落とし、やがてその影は戦さの幕開けへと紛れ込んでいく。 

 玉滝寺で従軍してきた将を集め、軍議を開き、今後の方針を伝え、ふと目を向ければ、付近にそびえる雨乞山の姿が目に映る。。
「若殿。我が蒲生勢に恐れをなした土豪どもがあれなる山の頂上にある雨請山城に立てこもっておると聞き及びました」
 町野左近の報告に、忠三郎は思わず頬がほころんだ。
「ほう、我らに恐れをなしたと?…我が武勇も伊賀の地にまで響き渡っておるというわけか」
 己の名が敵を震え上がらせているのだと思うと、忠三郎の胸は高鳴り、さらなる士気が湧き起こってくる。
「ではあのような小城。さっさと落として次へ参ろうぞ」
 忠三郎は上機嫌でそう告げると、自慢の鉄砲隊に命じて、城方に向けて一斉に火蓋を切らせた。空気を切り裂く轟音と共に銃声が鳴り響き、硝煙があたりを覆い尽くす。玉響の閃光が雨請山を染め、城中の者たちがたじろぎ、動揺が伝わってくるのを感じられた。

 忠三郎は悠々とその光景を眺めながら、次の策を練るべく思案を巡らせる。
「忠三郎様。この山の向こうが鹿深の滝でござります」
 付き従ってきていた滝川助太郎が、そう教えてくれた。
「鹿深の滝?」
 甲賀の名は、鹿を追い求めて深山幽谷に分け入った「鹿深」から由来するという。忠三郎は助太郎に視線をやり、興味深げに耳を傾ける。

「はい。我が殿が生まれ育った地で」
 一益は甲賀にいた頃のことをほとんど話さない。その一益が育ったという鹿深の滝とは。
「ふむ、それが義兄上の生まれ育った地というわけか…如何なる所か?」
 助太郎はかすかに苦笑いする。
「何もない、山間の村落でござります」
 甲賀も伊賀も、ただ静寂の奥に潜む集落が点在するばかり。忠三郎は助太郎の返事に思わず目を細め、ふと考えを巡らせた。
(膨大な戦費と命を懸けてまで、果たしてこの地を得ることにどれほどの意味があるのか…)

 伊賀は甲賀以上に貧しく、荒れた土地が続くばかりだ。ささやかな家々は、壁も屋根もくすんだ色に沈み、その佇まいは、生きることの辛さと儚さを物語っていた。はらりと心の奥底に冷ややかなものが走るのを感じ、やるせない思いに包まれた。貧しい土地で、必死に日々を生き抜く人々の姿が目に浮かぶようだった。

(佐助…)
 かつて三雲佐助が語って聞かせてくれた甲賀での貧しい暮らしぶり。
(稲はもとより、夏麦さえもろくに育たぬ地であると、そう言うておったな)
 伊賀一国を手中に収めたところで、わずか十万石が限度といったところ。忠三郎は知らず胸中に重い霧がかかるような感覚を覚えたが、振り払うように顔を上げた。
(こんなことを考えるとは…我ながらどうかしておる)
 ふと微かな苦笑を浮かべた。胸の内に去来する思いは、どれも無意味なものに過ぎぬと知りながらも、己が目に映る荒地と、脳裏にこびりつく友の語りが、どうしても心をざわつかせていた。

(すべては上様を怒らせた伊賀衆が悪い。この伊賀の地を焦土とし、織田家に従わせることで、諸大名もまた織田家にひれ伏さざるを得なくなる。ここにこそ、この戦さの意義がある)
 忠三郎には選ぶ余地など微塵もない。たとえ心がどのように揺らごうとも、行く道は一つ。信長の命に従い、この命を賭して前へ進むほかない。
(されど…)
 胸の奥に忍び寄る痛みの正体を探ろうと、瞼を伏せた。こんな感情は自分には不要と知りながら、冷たく染み入るような痛みが、まるで自らを拒むかのように湧き上がってくる。

 これまで幾度も命を賭して戦場に立ち、幾度も血の海を越えてきた。槍を手に、命を奪い、ただ命ぜられるままにこの身を投じてきた。
 しかし、今、この胸に忍び寄る痛みと、わずかな迷いが己を縛るとは、我ながら不可解だ。これまでと同じように、繰り返す戦さの筈が——何故に胸は痛むのか。忠三郎は、胸の内に渦巻く思いを振り払うように目を閉じ、短く息を吐いた。

(佐助…おぬしの影が消えぬゆえか?)
 友の静かな瞳が脳裏に浮かび、忠三郎は薄く目を開けた。己が胸の痛みの理由など、答えはとうに知れているような気もする。
(戦とは、命を賭しても守りたい何かがあってこそ…そうではないのか。怒りはもってまた喜ぶべく、恨みはもってまた悦ぶべきも、亡国はもってまた存すべからず。死者はもってまた生くべからず。故に明君はこれを慎み、良将はこれを警む。これ国を安んじ軍を全うするの道なり)
 かつて佐助が教えてくれた孫子の教え。それを思い起こすたびに忠三郎は己の立場に苦悩する。しかし、それを口にするなど、許されることではない。

 自分にとって、この地を奪う意味とは何であるのか。自らの忠義のためか、それとも名声のためか。ひとたびこの問いが湧くと、佐助の姿が重なり、まるで影のように心を追い立てる。
(いや、迷うてはならぬ…迷えば、即ち命取りとなる。いまはただ、上様の命に従うのみ)
 忠三郎は、心中で己に言い聞かせるように強く呟いた。武士にとって、余計な感情は不要であり、ひとたび迷いが生じれば、その刃は鈍る。そんなことは、これまで数多の戦場で身をもって知ってきたはずだ。
 
 己が使命はただ一つ、信長の意を遂げること。忠義を尽くし、言われるがままに進むのが、この道を選びし者の宿命だ。忠三郎は再び身を正し、冷徹な将の顔を取り戻す。そうして、周囲の者たちに視線を巡らせ、ゆるりと手を上げて進軍を促した。

 兵たちは、忠三郎の指示に従い、足並みを揃えて再び歩みを進める。荒れた伊賀の地を一歩一歩踏みしめ、命のやり取りが待つ戦場へと向かうその姿は無機質ではあったが、忠三郎の胸の奥には、誰にも見せぬ微かな痛みが、今もなお静かに響いていた。
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