獅子の末裔

卯花月影

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16.伊勢の黒雲

16-5. 風に香る花々の調べ

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 事件が起きたとき、運悪く一益をはじめ、主だった家臣たちは皆、長島城を留守にしていた。皆が不在の中でのこの惨劇は、事態をさらに悪化させることとなった。

 生き延びた使者が安濃津城へ逃げ込み、信包へ事と次第が伝えられると、信包は驚愕し、すぐに信長へ報告を行った。
 しかし信長はその報告を聞くや否や、一笑した。
「童どものしたこと。いちいち騒ぎ立てるなと三十郎に伝えよ」
 信長は取るに足らない小事であるかのように笑い飛ばした。

 しかし、織田家の連枝である信包の使者が命を落としている以上、信長も不問にはできなかった。
 なんらかの裁きを求める声が上がり、信長が一計を案じているところへ、忠三郎が話を聞きつけ、勢いよく駆け込んできた。
「山犬の件を聞き及びました」
 信長はその言葉に顔をしかめ、不機嫌そうに忠三郎を一瞥した。
「鶴、つまらぬ差し出口を挟むな」
 いつもならその一言で黙るはずの忠三郎だったが、今回は違った。忠三郎は珍しくその場を引かず、なおも話を続けようとした。九郎が関わっていると知っては、どうしても口を挟まざるを得なかったのだろう。

「六郎殿は盲目にござります。恐らく全ては九郎殿の仕向けたことかと。であれば、縁戚であるこの忠三郎めが、九郎殿の身柄を預かりとう存じます」
 忠三郎が深々と頭を下げると、信包の家臣たちはその言葉に耳を傾け、何か思案するように視線を交わした。しかし、その静寂を破るように、そばに控えていた堀久太郎が冷ややかな声で口を挟んだ。

「そのような甘い沙汰では他の者に示しがつきませぬ。六郎殿、九郎殿はともに出家させるべきと存じまする。さらに、左近殿に二心なくば、娘を柴田権六殿に嫁がせ、末の子を丹羽五郎左殿の養子に出すようにと申し付けては如何なものかと」
 場の空気が一瞬凍りついた。久太郎が提案したのは、織田家の重臣である柴田勝家と丹羽長秀の元へ、事実上人質を差し出すという策。忠三郎の心中には激しい怒りが沸き上がった。

(久太郎め。わしの邪魔ばかりしおる)
 苦々しい思いを胸に秘め、忠三郎は微動だにせず、穏やかな微笑みを浮かべたまま軽くうなずいた。動揺の色を一切見せないその姿勢に、堀久太郎は一瞬眉をひそめたが、言葉を続けることはなかった。
 信長はそのやり取りを見て、まるで芝居を楽しむかのように興味深そうな眼差しを二人に向けていた。
「されば…上様、八郎殿と細野殿の件は?」
 忠三郎が恐る恐る問いかけると、信長はしばし沈黙し、何かを思案するような素振りを見せた。沈黙の間に漂う緊張感が、忠三郎の胸を圧迫する。そしてようやく、信長が重々しく口を開いた。

「それは三十郎に任せておる。されど…」
 信長はここで忠三郎に視線を送り、まっすぐにその目を見据えた。
「八郎を救いたくば、その方が動け。中勢にも北勢にも蒲生の縁戚はおるであろう」
 信長の意図は明白だった。忠三郎自らが行動しなければ、八郎を救う道はない。それはすなわち、信長が手を貸すのではなく、忠三郎自身が力を尽くして事を成すべきだという含みがある。

 忠三郎はその瞬間、信長の言葉の重みを理解し、これが自ら動き出す絶好の機会であると確信した。これ以上の支援は期待できないが、逆に言えば、行動に移すことを許されたのだ。信長の目には、忠三郎がその意図を察したかどうかを試す鋭さがあり、忠三郎は明るく頷いた。
(上様のお墨付きを頂いた…これで道は開けた)
 内心で確信を得た忠三郎は、心を固め、すぐに行動を起こす決意を胸に抱いた。八郎を救うために、自分が動く時が来たのだ。

 その後、細野藤敦と雲林院祐基は、一族郎党を伴い忠三郎の保護下に置かれた。彼らは慎重に護送され、忠三郎の居城である日野中野城へと迎え入れられた。中野城では、藤敦や祐基を迎える準備が整えられ、彼らの安全が確保された。

 一方、一益の一子・八郎も無事に帰還の途につき、ついに故郷の長島へ戻った。八郎の姿を見た風花や家臣たちは、安堵と歓喜の声を上げ、長島には久しぶりに平穏が訪れた。忠三郎の縁戚の千種三郎左衛門の支援により、複雑に絡んでいた問題は一旦解消され、それぞれの者たちがそれぞれの場所へと戻り、ようやく安堵の息をつくことができたのだった。
 
 すべてが穏やかに収束し、安土の屋敷では、柔らかな灯火の下、忠三郎を交えて一同が集い、盛大な祝宴が催された。杯が交わされ、笑顔と歓声が満ちるその場には、これまでの苦難を忘れさせるような、安らぎと喜びが溢れていた。
「此度は鶴の活躍が大きかったのう」
 義太夫が声高に称賛すると、忠三郎は顔を赤らめ、照れ笑いを浮かべた。その素直な笑顔に、席の空気も一層和らぐ。しかし、三九郎はその笑顔を見ながら、胸の内で複雑な思いを抱えていた。事の真相を知る三九郎には、単純に喜ぶ気にはなれなかった。

(そもそも、事の始まりからして疑わしい)
 さらわれてきた娘の件だ。二人とも「酔いつぶれて覚えていない」と口を揃えているが、酒に弱い義太夫ならともかく、忠三郎の言うことはどうにも怪しい。お人よしの義太夫を巧みに巻き込み、自らの不始末を一益に尻ぬぐいさせようと、わざと「覚えていない」としらを切っているのではないか。

「こうして皆が揃って飲む酒もうまいのう!」
 何も考えていない様子で、大笑い笑いをする義太夫の顔を見ながら、三九郎はため息をつく。
(もとはと言えば、この名ばかり家老の為体が原因…)
 酒に溺れ、博打に興じ、さらには女にまで手を出す。何かにつけ不始末が多すぎる。今まさに馬鹿笑いをしている義太夫を見ると、三九郎は一益がどれほど手を焼いていたかが目に浮かぶ。ようやく妻帯することになったので、少しは落ち着くかもしれないが――。

(されど、あの義太夫がもう少し賢ければ…いくら酔っていたとはいえ、かような騒ぎにはならなかったであろうに)
 三九郎は思わず苦笑しながら、目の前で無邪気に酒をあおる義太夫を見つめた。義太夫がまたしても大声で笑うたびに、杯から酒がこぼれ、豪快さが一層際立つ。しかし、豪快さだけではどうにもならぬのだと、三九郎は内心で毒づきながらも、どこか憎めない義太夫の姿に呆れと同情が入り混じる。

 義太夫の隣にいる忠三郎は、それとは対照的な存在だ。義太夫のように豪快に笑い、酒を浴びるように飲んでいるが、その表情には時折、思慮深さが垣間見える。
 忠三郎の行動はときに不可解で、理解を越えた奇妙な振る舞いをすることもある。しかし、よくよく観察してみると、その行動にはいつも隠された意図がある。
(ただの偶然ではない…)

 三九郎は、義太夫が馬鹿騒ぎしている中、忠三郎を横目で観察していた。ふとした瞬間に、忠三郎の目が冷静に周囲を見回していることに気づく。飲んでいるふりをしながら、会話の流れを聞き逃さず、必要な情報を拾っているようにも見える。あの一見軽薄そうな態度の裏には、常に何かを狙っているかのような鋭さがある。
(義太夫が無鉄砲に笑っている一方で、あやつ…何を考えておるのか)

 その不可解さこそが、忠三郎の本質だと三九郎は感じていた。何気なく見える行動のひとつひとつが、まるで計算された駒のように、次の展開を見据えているようだ。それが、周囲を驚かせ、しばしば誤解を招くこともあるが、ただの愚か者と断じることはできない。

 さらわれてきた娘の一件。酒のせいにするには、あまりに都合が良すぎる。忠三郎の素直そうな振る舞いの裏に隠された真実を、誰も気づいていないようだが、三九郎だけはその違和感を拭い去ることができないでいる。
(その証拠に…)
 他の者が気づかないような些細なことではあるが、忠三郎の言葉や行動の端々に、九郎を自分の子として認識しているかのようなそぶりが見え隠れしていることに、三九郎は気づいていた。
 今回の件でも、九郎が発端を作ったことを知り、忠三郎は後ろめたさから動いたのではないか。いや、もっと深く掘り下げれば、あわよくば九郎だけでも自分の手元に置きたいという下心があっての行動ではないか、と三九郎は見ている。

 酔いが回り、上機嫌な忠三郎がふらりと中庭へ降りていく姿が見えた。
(あやつの真意を確かめるときが来た)
 三九郎は心中でそう呟くと、素早く立ち上がり、静かに忠三郎の後を追った。
 宴席のざわめきが次第に遠ざかり、冷え込んだ夜の庭へと足を踏み出す。月光の下、ふたりの足音だけが石畳に響く。そのわずかな音すら、夜の静けさに溶け込むようだった。忠三郎の背中が無防備に揺れ、三九郎の目が鋭く光る。
(相変わらず、隙だらけな奴…)

 忠三郎は戦さの修羅場を潜り抜けてきた武士だが、素破のような用心深さは持ち合わせていない。戦場ではその武勇を称えられるが、今、こうして背中を見せている忠三郎に、一抹の無防備さが残るのを、三九郎は見逃さなかった。

(武士にしても、少々警戒心が足りぬ)
 三九郎の思いとは裏腹に、忠三郎は微塵も気にする様子なく、ふらりふらりと歩みを進めていた。その背に向け、三九郎は静かに深い溜息をつく。
「忠三郎」
 三九郎は背後から静かに声をかけた。忠三郎は、声に気づくとゆったりと振り返った。
「おぉ、三九郎か」
 口元には上機嫌な笑みが浮かんでいる。今日は酒席に気心知れた者たちが多く、普段以上に気を許しているようだ。かなりの酒量を重ねたらしく、薄暗い庭先からでも顔が少し赤らんでいるのが分かった。

「おぬしも涼みにきたか」
 軽い調子で話しかける忠三郎を前に、三九郎は一瞬、無言で忠三郎を見つめた。
「九郎のことじゃが…」
 九郎と聞いて、忠三郎はすぐに反応を示した。酔っているだけに、表情からもその関心が明らかだ。
「九郎は…堅固に暮らして居る」
 忠三郎は一瞬、言葉を探すような表情を見せた。九郎への想いは強いが、風花の厳しい目を盗むのは容易ではない。実際、忠三郎はこれまでに何度か風花の目をかいくぐり、九郎に会いに行こうと試みたことがあるらしい。

 しかし、滝川家の者たちの中でも忠三郎の人目をひく装いは、どんなに気をつけてもすぐに目についた。侍女たちにすぐに発見され、結果として風花が怒りを爆発させ、忠三郎は追い返される羽目になっている。
「……何度か会おうとしたが、毎度、風花殿に見つかってしまう」
 酔った勢いなのか、忠三郎は可笑しそうに笑った。

(身勝手な奴)
 三九郎は内心でそう呟いた。
 今になってどんな顔をして九郎に会おうというのか。忠三郎が九郎に会おうとする度に、下火になっていた妙な噂が再燃する。滝川家の誰もが知っている噂だ。もしもそれが再び広がれば、風花は心を痛めるだろう。九郎が成長した時、真相が耳に入れば、その傷はさらに大きくなるかもしれない。

 柔らかな月明かりが庭に差し込む中、三九郎は静かに口を開いた。
「忠三郎、九郎に会うのは諦めてくれぬか」
 低く穏やかな声が、月夜の冷たい風とともに響く。忠三郎は一瞬、驚いたように三九郎の顔を見たが、すぐに微笑んで頷いた。夜空に浮かぶ淡い月に照らされ、忠三郎の表情には寂しさと安らぎが交錯しているように見えた。
「やはりそうか。九郎殿のためにも、会わぬほうがよいと思うか」

 忠三郎は、春の夜の静けさに浸るように、しみじみと呟いた。その声は、まだ少し冷たさを残す春の風の中で、柔らかく響いた。三九郎は、夜桜の薄紅が風にそよぐのを見つめ、さらに言葉を紡ぐ。
「九郎は誰が何を言おうとも、滝川左近の子じゃ。母上は八郎や六郎と同じように、我が子のごとく慈しんでおる。それゆえ、何も案ずるな」
 忠三郎は、その言葉を聞き、わずかに顔を伏せた。淡い月光が、横顔を静かに照らし出し、その表情は春の夜に咲く一輪の花のように、ほのかな光に包まれていた。
 やがて、夜の静寂に溶けるような小さなため息が聞こえた。
「然様か。心得た。九郎殿のことは、義兄上とおぬしらに任せよう」
 その声には、春風のように穏やかな安堵が漂っていたが、どこか諦めの切なさも込められていた。忠三郎は、我が子の顔を見たいという望みを胸に秘めつつ、その思いを押し殺し、遠く見えない未来にそっと別れを告げるようだった。
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