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15.摂津の夕闇
15-2. 刺客
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章姫の我儘がどこまで通用するのか、忠三郎は内心、冷や冷やしていたが、予想に反して信長は驚くほどあっさりと譲歩した。結果、章姫の代わりに妹の鶴姫が嫁ぐことが決まった。その一件は取り立てて波風も立たず、鶴姫は穏やかに中川家へと嫁いでいった。
章姫は何事もなかったかのように安土へと戻り、その一方で、忠三郎はようやく出陣命令を受け、挙兵することになった。日野に戻って兵を整えると、荒木村重の居城である有岡城へ向かった。
当初、信長は圧倒的な大軍をもって有岡城を一気に攻め落とそうとした。しかし、予想に反して城の抵抗は熾烈を極め、信長の寵臣である万見仙千代が討ち死にしてしまう。これにより信長は作戦を大きく転換し、強攻から籠城戦へと方針を変更した。
織田軍は有岡城を取り囲むように各地に砦を築き、長期戦の構えでそれぞれがその地で年を越すことになった。
忠三郎は丹羽長秀の指揮のもと、尼崎の塚口に砦を築き、そこを拠点とした。
冷たい風が吹きすさぶ砦の中で、忠三郎は与えられた任務をこなしていたが、ある日、丹羽長秀から声がかかった。
「小屋野砦にいる滝川左近殿と武藤宗右衛門殿が有岡城へ調略を仕掛けておる。忠三郎殿、首尾は如何なったか、聞いてきてはくれぬか」
長秀の言葉に、忠三郎はすぐさま承諾し、町野左近を伴って小屋野砦へ向かった。一益と宗右衛門の調略如何で、この籠城戦の行方が大きく変わる。
「この辺り、どうも不穏な気配が漂っておりますな」
町野左近は、何かを感じ取ったように、周囲をじっと見回した。
(爺も意外に鋭い…)
町野左近の言うことは的外れではない。というのも、進軍の折、見物に出てきた近隣の農夫たちが、信長の命により無残にも斬り捨てられたという噂が耳に入っていた。それ以来、この辺りに住む者たちの姿は影を潜め、土地自体が人を拒むかのように静まり返っている。
(これでは却って領民の反発を生むのではないか…)
長期戦ともなれば、兵糧の現地調達は不可欠だ。乱捕りにより強引に奪いとることもできる。しかし一度でもそれをしてしまうと近隣の民は恐れをなし、皆逃げ去ってしまう。次からは兵糧調達ができなくなり、遠路はるばる輸送するしかなくなる。むしろ、領民たちを懐柔し、多少不利な取引になったとしても、正当に買い取るほうが長期的な兵站の確保につながるのではないだろうか。
(その上、領民が反発すれば、我らの動きが敵に知られる恐れもある)
領民たちの不満が高じれば、進軍を妨害するばかりか、荒木方に織田軍の動向を知らせる密偵となる危険性も孕んでいる。
こんな考えを抱くようになった背景には、一益の影響が大きかった。調略を得意とする一益の生き方は、忠三郎の心に深く刻まれつつある。
一益の出身地である甲賀は、狭い土地を巡って無数の土豪たちが争いを繰り広げる国だった。彼らはそれぞれ、時に己の利益を守るために刃を交え、また時には自らの生存と権利を守るため、強大な力を持つ者に従って保身を図ってきた。
そうして彼らは、百年近くも続くこの戦乱の世を巧みに渡り歩いてきたのだ。
一益は、力ずくの戦ばかりが道ではないことを知っていた。敵を滅ぼすだけではなく、戦わずしてその力を奪い取り、己のものとして活用することが、明日を生き抜くために真に必要な術であると説いた。そして、忠三郎もまた、その知恵を胸に刻み、ただ戦を仕掛けることよりも、勝敗を超えた生存の策を学び取ろうとしていた。
「今回の調略は、また義太夫が?」
また義太夫かと思っていたが、想像に反して一益は首を横に振った。
「いや、新介じゃ」
佐治新介が動いて、荒木村重の家臣たちと密かに接触を図っているようだ。
(珍しいこともあるもの…)
不思議に思ったが、義太夫には義太夫の仕事があったらしく、探してみると、なにやら旅支度を整えている。
「義太夫、いずこへ参るのか」
と尋ねると、義太夫が辺りを憚るようにきょろきょろと見回した。
「ここではちと拙い。歩きながら話そう」
義太夫は躊躇なくずんずんと砦の外へと忠三郎を連れ出した。その後を、常に影のように仕える素破の助太郎・助九郎兄弟が続く。忠三郎はますます訝しんで尋ねた。
「如何した。内密な用か?」
「然様。これより敦賀に赴くのじゃ」
「敦賀?」
「花城山じゃ」
花城山――それは、ここ数年、常に一益と行動を共にしている武藤宗右衛門の居城だ。信長に従ってからというもの、越前朝倉攻めから越前一向一揆、さらに播磨の戦まで、宗右衛門は一益と同道してきた。
「武藤殿からの命か?」
義太夫は首を横に振り、声を潜めて続けた。
「そうではない。武藤殿のことを調べて参れと言われたのじゃ。武藤殿は我が家の事情にやけに詳しすぎる。殿はそれが気にかかっておられるようじゃ」
言われてみると、確かに武藤宗右衛門は織田家譜代の臣ではない。若狭攻めのころに信長に従うようになり、その後、越前朝倉攻め、越前一向一揆、そして播磨の戦さでも一益と一緒だった。
「義兄上は武藤殿をお疑いか?」
忠三郎が慎重に問う。義太夫は少し考え込むようにしてから、静かに答えた。
「疑うというよりは…殿にしては珍しく、武藤殿を頼りにしておられるのう」
それは確かに珍しい。一益が誰かを特別に頼りにすることなどは、これまで一度もなかった。きわめて稀のことと言える。
「上様の覚え目出度き武藤殿。戦術にも長け、物事の道理をようわきまえておられる。殿の目に留まるのも当然かもしれぬが、それにしても武藤殿は…」
と義太夫は言いかけて、唐突に刀に手をかけ、背後を振り返った。
「鶴、危ない!」
義太夫の声が響いた瞬間、忠三郎は驚きを感じる間もなく、強い力で前に突き飛ばされた。その刹那、石矢が音を立てて飛来し、忠三郎の頬をかすめた。鋭い痛みが走った。
地に倒れ込んだ忠三郎は、顔を上げて周囲を見回した。しかし、どこから石矢が飛んできたのか、敵の姿は確認できない。義太夫は冷静に抜刀し、すでにその刃は微かに光を反射していた。
「そこじゃ、あれなる草むらに!」
助九郎の鋭い声が飛ぶ。助九郎は兄の助太郎と共に一瞬のうちに草むらへと突進した。二人の動きは一糸乱れず、素早く草の陰へ飛び込んでいく。その直後、後ろの大きな木が激しく揺れた。
「釣押しじゃ!」
義太夫が瞬時に状況を読み取り、声を上げる。助太郎と助九郎は即座に反応し、身を引いて飛び下がる。頭上からは木の枝や石が一斉に降り注いできた。
「迂闊に動くな。この辺りは仕掛けだらけじゃ!」
義太夫は冷静に声を張り上げ、助太郎と助九郎に警告を送った。この場所には何か罠が仕掛けられている。義太夫は素早く手元から鳥の子(煙玉)を取り出し、二人がいる反対側の草むらへと放り投げた。
鳥の子が地に落ちた瞬間、パッと煙が広がり、視界を覆い尽くした。煙が草むらの中に満ちていくと、その中から人影がひょっこりと飛び出してきた。同じ場所にいた何人かが逃げ去る中、一人、逃げ遅れたらしく、くしゃみを連発しながら、人影は驚いたように木の上へ猿のような軽快な動きで飛び上がっていく。
義太夫は余裕たっぷりの笑顔を浮かべ、木の下に歩み寄り、上を見上げた。
「何者じゃ?」
すると、上から意外にも陽気な声が響いた。
「面白かったわい! おぬし、なかなかやるではないか。鳥の子に何を仕込んでおるのじゃ?」
その声の主は、なおも激しくくしゃみをしながら、問いかけてくる。義太夫はその様子を見て、得意げに胸を張った。
「火薬の代わりに胡椒なる薬を仕込んでおるのじゃ。よう効いておるじゃろ?腹下しにもよう効く薬じゃ」
木の上から笑い声がこだまし、相手はくしゃみを止めようともがきつつ、声を張り上げた。その声に誘われるように、助太郎と助九郎も駆けつけ、木の上の者を見上げた。
「参った、参った! 観念したわ。煮るなり焼くなり、好きにせい!」
相手の投げやりな言葉に、義太夫、助太郎、助九郎は一瞬顔を見合わせた。奇妙な展開に、三人の間には微妙な空気が流れる。
義太夫は笑いをこらえ、
「待て、待て。おぬし、弓矢の腕前は見事ではないか。如何じゃ。さっき逃げ去った者どもと供に、我が殿、滝川左近様に仕えてみぬか?」
義太夫が提案すると、しばしの沈黙が続いた。その間、木の上にいる相手がじっと考え込んでいる様子が伝わる。やがて、上から声が聞こえてきた。
「よいのか?」
「無論。我が家も人手が足りぬゆえ、歓迎すること間違えなし」
義太夫は自信満々に答えたが、突然、それまで黙って二人のやり取りを聞いていた助九郎が、眉をひそめて口を開いた。
「義太夫殿、そのような話、軽々しく決めてよろしいので? わしは反対でござります。得体のしれぬ怪しげな奴を、どうして信用できましょう!」
助九郎の懸念はもっともだ。敵であった者をあっさり迎え入れることには、危険が伴う。
義太夫は笑って上を見上げ、
「おぬしら、何者じゃ?」
すると、木の上から少し間を置いて答えが返ってきた。
「我らは池田家を去って以来、誰にも仕えてはおらぬ」
池田家は、荒木村重が摂津国を治める前にその地を支配していた家系だ。しかし、池田家は織田家に従いながらも、荒木村重や中川瀬兵衛によって勢力を奪われ、主であった池田勝正は追放されてしまった。
「ふむ…」
義太夫はその言葉を聞いて何かを考え込んでいる様子だった。忠三郎もそばに近づき、義太夫の表情をうかがった。義太夫の気性からすると、この男たちの境遇に同情しているのかもしれない。だが、助九郎はそれに耐えられない様子で、声を荒げた。
「義太夫殿!」
助九郎は怒りを隠そうともせず、義太夫に抗議しようとする。しかし、上にいる男は、下での揉め事には気付いていないようで、淡々と話を続けた。
「荒木からも誘いが来ておる。明日には返事をせねばならん。それゆえ、また明日の夜、この木の下に来てくれ」
男は、意外にもさらりと告げた。荒木村重がこの男たちを引き入れようとしていることは、義太夫にとっても驚くべきことだった。だが、義太夫はすぐに平静を取り戻し、にやりと笑った。
「よかろう。殿に話を通しておこう」
見ると助九郎は憮然とした表情のまま。助太郎も困惑気味だ。義太夫はどうするつもりなのだろうか。
四人は再び小屋野砦に戻ってきたが折り悪く、一益は自ら物見に出ており、留守だった。その代わりに砦を守っていたのは、武藤宗右衛門だった。
「義太夫殿。あのようなものどもを我が家に迎え入れるなど、何を血迷うておられるので。いきなり石矢を撃ってくるような無法者ども。信用なりませぬ」
助九郎は憤懣やるかたなく、義太夫に文句を言い続けている。義太夫はウムムと唸り、どうしたものかと頭を悩ませた。
騒ぎを聞いて、佐治新介と武藤宗右衛門が姿を見せた。
「如何なされました?」
と、宗右衛門が冷静に尋ねた。義太夫が掻い摘んでこれまでの経緯を説明すると、新介はすぐに不快そうな表情を浮かべ、
「怪しげな奴らめ、わしの手勢に罠を仕掛けてきたのも、そやつらの仕業に違いない。我が滝川家に喧嘩を売るとは、大した度胸ではないか」
と怒りをあらわにした。
その言葉に助九郎は勢いよくうなずき、さらに力強く言った。
「先に手出ししてきたのはあちら。ここは一気に叩き潰すべきと存じ上げる」
血気盛んな者たちは、刀を片手に今にも立ち上がろうとしていた。そんな中、冷静さを保った忠三郎が皆を制し、言葉を挟んだ。
「待て。皆、義兄上のお戻りを待ってはどうか」
しかし、新介は勢いを止めることなく息巻いた。
「やられっぱなしで黙っていれば、こちらが侮られるだけではないか!」
黙って聞いていた武藤宗右衛門は、顰めた眉をわずかに上げ、思案の色を浮かべた。そして静かに口を開いた。
「確かに無法者どもと言えましょう。しかし、この地の事情に通じた者たちを味方につけておけば、後々の戦が有利に運ぶやもしれません。いずれにせよ、その者たちがどこから来たのか、事前に調べ上げておき、その上で左近殿にお伺いを立てては如何なものかと存じ上げる」
その言葉には、策士らしい深謀が見て取れ、場に冷静さが戻った。忠三郎や義太夫は、その意見に思わず頷き、どうするべきかを再び考え始めた。
章姫は何事もなかったかのように安土へと戻り、その一方で、忠三郎はようやく出陣命令を受け、挙兵することになった。日野に戻って兵を整えると、荒木村重の居城である有岡城へ向かった。
当初、信長は圧倒的な大軍をもって有岡城を一気に攻め落とそうとした。しかし、予想に反して城の抵抗は熾烈を極め、信長の寵臣である万見仙千代が討ち死にしてしまう。これにより信長は作戦を大きく転換し、強攻から籠城戦へと方針を変更した。
織田軍は有岡城を取り囲むように各地に砦を築き、長期戦の構えでそれぞれがその地で年を越すことになった。
忠三郎は丹羽長秀の指揮のもと、尼崎の塚口に砦を築き、そこを拠点とした。
冷たい風が吹きすさぶ砦の中で、忠三郎は与えられた任務をこなしていたが、ある日、丹羽長秀から声がかかった。
「小屋野砦にいる滝川左近殿と武藤宗右衛門殿が有岡城へ調略を仕掛けておる。忠三郎殿、首尾は如何なったか、聞いてきてはくれぬか」
長秀の言葉に、忠三郎はすぐさま承諾し、町野左近を伴って小屋野砦へ向かった。一益と宗右衛門の調略如何で、この籠城戦の行方が大きく変わる。
「この辺り、どうも不穏な気配が漂っておりますな」
町野左近は、何かを感じ取ったように、周囲をじっと見回した。
(爺も意外に鋭い…)
町野左近の言うことは的外れではない。というのも、進軍の折、見物に出てきた近隣の農夫たちが、信長の命により無残にも斬り捨てられたという噂が耳に入っていた。それ以来、この辺りに住む者たちの姿は影を潜め、土地自体が人を拒むかのように静まり返っている。
(これでは却って領民の反発を生むのではないか…)
長期戦ともなれば、兵糧の現地調達は不可欠だ。乱捕りにより強引に奪いとることもできる。しかし一度でもそれをしてしまうと近隣の民は恐れをなし、皆逃げ去ってしまう。次からは兵糧調達ができなくなり、遠路はるばる輸送するしかなくなる。むしろ、領民たちを懐柔し、多少不利な取引になったとしても、正当に買い取るほうが長期的な兵站の確保につながるのではないだろうか。
(その上、領民が反発すれば、我らの動きが敵に知られる恐れもある)
領民たちの不満が高じれば、進軍を妨害するばかりか、荒木方に織田軍の動向を知らせる密偵となる危険性も孕んでいる。
こんな考えを抱くようになった背景には、一益の影響が大きかった。調略を得意とする一益の生き方は、忠三郎の心に深く刻まれつつある。
一益の出身地である甲賀は、狭い土地を巡って無数の土豪たちが争いを繰り広げる国だった。彼らはそれぞれ、時に己の利益を守るために刃を交え、また時には自らの生存と権利を守るため、強大な力を持つ者に従って保身を図ってきた。
そうして彼らは、百年近くも続くこの戦乱の世を巧みに渡り歩いてきたのだ。
一益は、力ずくの戦ばかりが道ではないことを知っていた。敵を滅ぼすだけではなく、戦わずしてその力を奪い取り、己のものとして活用することが、明日を生き抜くために真に必要な術であると説いた。そして、忠三郎もまた、その知恵を胸に刻み、ただ戦を仕掛けることよりも、勝敗を超えた生存の策を学び取ろうとしていた。
「今回の調略は、また義太夫が?」
また義太夫かと思っていたが、想像に反して一益は首を横に振った。
「いや、新介じゃ」
佐治新介が動いて、荒木村重の家臣たちと密かに接触を図っているようだ。
(珍しいこともあるもの…)
不思議に思ったが、義太夫には義太夫の仕事があったらしく、探してみると、なにやら旅支度を整えている。
「義太夫、いずこへ参るのか」
と尋ねると、義太夫が辺りを憚るようにきょろきょろと見回した。
「ここではちと拙い。歩きながら話そう」
義太夫は躊躇なくずんずんと砦の外へと忠三郎を連れ出した。その後を、常に影のように仕える素破の助太郎・助九郎兄弟が続く。忠三郎はますます訝しんで尋ねた。
「如何した。内密な用か?」
「然様。これより敦賀に赴くのじゃ」
「敦賀?」
「花城山じゃ」
花城山――それは、ここ数年、常に一益と行動を共にしている武藤宗右衛門の居城だ。信長に従ってからというもの、越前朝倉攻めから越前一向一揆、さらに播磨の戦まで、宗右衛門は一益と同道してきた。
「武藤殿からの命か?」
義太夫は首を横に振り、声を潜めて続けた。
「そうではない。武藤殿のことを調べて参れと言われたのじゃ。武藤殿は我が家の事情にやけに詳しすぎる。殿はそれが気にかかっておられるようじゃ」
言われてみると、確かに武藤宗右衛門は織田家譜代の臣ではない。若狭攻めのころに信長に従うようになり、その後、越前朝倉攻め、越前一向一揆、そして播磨の戦さでも一益と一緒だった。
「義兄上は武藤殿をお疑いか?」
忠三郎が慎重に問う。義太夫は少し考え込むようにしてから、静かに答えた。
「疑うというよりは…殿にしては珍しく、武藤殿を頼りにしておられるのう」
それは確かに珍しい。一益が誰かを特別に頼りにすることなどは、これまで一度もなかった。きわめて稀のことと言える。
「上様の覚え目出度き武藤殿。戦術にも長け、物事の道理をようわきまえておられる。殿の目に留まるのも当然かもしれぬが、それにしても武藤殿は…」
と義太夫は言いかけて、唐突に刀に手をかけ、背後を振り返った。
「鶴、危ない!」
義太夫の声が響いた瞬間、忠三郎は驚きを感じる間もなく、強い力で前に突き飛ばされた。その刹那、石矢が音を立てて飛来し、忠三郎の頬をかすめた。鋭い痛みが走った。
地に倒れ込んだ忠三郎は、顔を上げて周囲を見回した。しかし、どこから石矢が飛んできたのか、敵の姿は確認できない。義太夫は冷静に抜刀し、すでにその刃は微かに光を反射していた。
「そこじゃ、あれなる草むらに!」
助九郎の鋭い声が飛ぶ。助九郎は兄の助太郎と共に一瞬のうちに草むらへと突進した。二人の動きは一糸乱れず、素早く草の陰へ飛び込んでいく。その直後、後ろの大きな木が激しく揺れた。
「釣押しじゃ!」
義太夫が瞬時に状況を読み取り、声を上げる。助太郎と助九郎は即座に反応し、身を引いて飛び下がる。頭上からは木の枝や石が一斉に降り注いできた。
「迂闊に動くな。この辺りは仕掛けだらけじゃ!」
義太夫は冷静に声を張り上げ、助太郎と助九郎に警告を送った。この場所には何か罠が仕掛けられている。義太夫は素早く手元から鳥の子(煙玉)を取り出し、二人がいる反対側の草むらへと放り投げた。
鳥の子が地に落ちた瞬間、パッと煙が広がり、視界を覆い尽くした。煙が草むらの中に満ちていくと、その中から人影がひょっこりと飛び出してきた。同じ場所にいた何人かが逃げ去る中、一人、逃げ遅れたらしく、くしゃみを連発しながら、人影は驚いたように木の上へ猿のような軽快な動きで飛び上がっていく。
義太夫は余裕たっぷりの笑顔を浮かべ、木の下に歩み寄り、上を見上げた。
「何者じゃ?」
すると、上から意外にも陽気な声が響いた。
「面白かったわい! おぬし、なかなかやるではないか。鳥の子に何を仕込んでおるのじゃ?」
その声の主は、なおも激しくくしゃみをしながら、問いかけてくる。義太夫はその様子を見て、得意げに胸を張った。
「火薬の代わりに胡椒なる薬を仕込んでおるのじゃ。よう効いておるじゃろ?腹下しにもよう効く薬じゃ」
木の上から笑い声がこだまし、相手はくしゃみを止めようともがきつつ、声を張り上げた。その声に誘われるように、助太郎と助九郎も駆けつけ、木の上の者を見上げた。
「参った、参った! 観念したわ。煮るなり焼くなり、好きにせい!」
相手の投げやりな言葉に、義太夫、助太郎、助九郎は一瞬顔を見合わせた。奇妙な展開に、三人の間には微妙な空気が流れる。
義太夫は笑いをこらえ、
「待て、待て。おぬし、弓矢の腕前は見事ではないか。如何じゃ。さっき逃げ去った者どもと供に、我が殿、滝川左近様に仕えてみぬか?」
義太夫が提案すると、しばしの沈黙が続いた。その間、木の上にいる相手がじっと考え込んでいる様子が伝わる。やがて、上から声が聞こえてきた。
「よいのか?」
「無論。我が家も人手が足りぬゆえ、歓迎すること間違えなし」
義太夫は自信満々に答えたが、突然、それまで黙って二人のやり取りを聞いていた助九郎が、眉をひそめて口を開いた。
「義太夫殿、そのような話、軽々しく決めてよろしいので? わしは反対でござります。得体のしれぬ怪しげな奴を、どうして信用できましょう!」
助九郎の懸念はもっともだ。敵であった者をあっさり迎え入れることには、危険が伴う。
義太夫は笑って上を見上げ、
「おぬしら、何者じゃ?」
すると、木の上から少し間を置いて答えが返ってきた。
「我らは池田家を去って以来、誰にも仕えてはおらぬ」
池田家は、荒木村重が摂津国を治める前にその地を支配していた家系だ。しかし、池田家は織田家に従いながらも、荒木村重や中川瀬兵衛によって勢力を奪われ、主であった池田勝正は追放されてしまった。
「ふむ…」
義太夫はその言葉を聞いて何かを考え込んでいる様子だった。忠三郎もそばに近づき、義太夫の表情をうかがった。義太夫の気性からすると、この男たちの境遇に同情しているのかもしれない。だが、助九郎はそれに耐えられない様子で、声を荒げた。
「義太夫殿!」
助九郎は怒りを隠そうともせず、義太夫に抗議しようとする。しかし、上にいる男は、下での揉め事には気付いていないようで、淡々と話を続けた。
「荒木からも誘いが来ておる。明日には返事をせねばならん。それゆえ、また明日の夜、この木の下に来てくれ」
男は、意外にもさらりと告げた。荒木村重がこの男たちを引き入れようとしていることは、義太夫にとっても驚くべきことだった。だが、義太夫はすぐに平静を取り戻し、にやりと笑った。
「よかろう。殿に話を通しておこう」
見ると助九郎は憮然とした表情のまま。助太郎も困惑気味だ。義太夫はどうするつもりなのだろうか。
四人は再び小屋野砦に戻ってきたが折り悪く、一益は自ら物見に出ており、留守だった。その代わりに砦を守っていたのは、武藤宗右衛門だった。
「義太夫殿。あのようなものどもを我が家に迎え入れるなど、何を血迷うておられるので。いきなり石矢を撃ってくるような無法者ども。信用なりませぬ」
助九郎は憤懣やるかたなく、義太夫に文句を言い続けている。義太夫はウムムと唸り、どうしたものかと頭を悩ませた。
騒ぎを聞いて、佐治新介と武藤宗右衛門が姿を見せた。
「如何なされました?」
と、宗右衛門が冷静に尋ねた。義太夫が掻い摘んでこれまでの経緯を説明すると、新介はすぐに不快そうな表情を浮かべ、
「怪しげな奴らめ、わしの手勢に罠を仕掛けてきたのも、そやつらの仕業に違いない。我が滝川家に喧嘩を売るとは、大した度胸ではないか」
と怒りをあらわにした。
その言葉に助九郎は勢いよくうなずき、さらに力強く言った。
「先に手出ししてきたのはあちら。ここは一気に叩き潰すべきと存じ上げる」
血気盛んな者たちは、刀を片手に今にも立ち上がろうとしていた。そんな中、冷静さを保った忠三郎が皆を制し、言葉を挟んだ。
「待て。皆、義兄上のお戻りを待ってはどうか」
しかし、新介は勢いを止めることなく息巻いた。
「やられっぱなしで黙っていれば、こちらが侮られるだけではないか!」
黙って聞いていた武藤宗右衛門は、顰めた眉をわずかに上げ、思案の色を浮かべた。そして静かに口を開いた。
「確かに無法者どもと言えましょう。しかし、この地の事情に通じた者たちを味方につけておけば、後々の戦が有利に運ぶやもしれません。いずれにせよ、その者たちがどこから来たのか、事前に調べ上げておき、その上で左近殿にお伺いを立てては如何なものかと存じ上げる」
その言葉には、策士らしい深謀が見て取れ、場に冷静さが戻った。忠三郎や義太夫は、その意見に思わず頷き、どうするべきかを再び考え始めた。
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キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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