獅子の末裔

卯花月影

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14.謀反の末

14-5. 朧光の果て

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 時は二週間前に遡る。ロレンソとオルガンティノが高槻城に向かっていた頃、大坂湾の封鎖を続けていた九鬼嘉隆と滝川三九郎のもとに、荒木村重の離反を知った毛利水軍が瀬戸内海を渡り、大坂湾を目指しているとの報せが届いた。

 前回の海戦で、織田の阿武船は毛利水軍の火矢攻撃により大敗北を喫していた。毛利水軍は今回も同じ戦法で阿武船を沈めようと、大量の火矢を放って襲撃した。しかし、織田軍の阿武船はすでに鉄の装甲を施されており、毛利の矢をことごとく弾き返した。矢は水面に落ち、一隻も沈めることはできなかった。

 毛利水軍は猶もあきらめず、接近戦に持ち込もうとしたが、織田の大船から放たれる大鉄砲や大筒の轟音が響き渡り、毛利の戦さ船は次々に海へと沈められていった。これを見た瀬戸内海の覇者、村上水軍は踵を返して引き返していった。鉄の装甲と圧倒的な火力による織田家の初勝利だった。
 
 一方、高槻城を降した織田軍は、茨木城へ向かった。この城は、荒木村重とともに離反した城で、石田伊予守、渡辺勘大夫、そして中川瀬兵衛が籠城していた。
 茨木城の攻略にあたって、一益が信長に進言した。
「中川瀬兵衛は利で動く者。城主の座と領地を約束すれば、こちらへ寝返るものと存じまする」
 信長はそれを聞いて頷いた。一益はすぐさま、義太夫、新介を中川瀬兵衛のもとへ送り込み、開城交渉をはじめた。

(三九郎は海戦で大勝利。此度は仙千代までが兵を引き連れてきておるというのに…)
 忠三郎には一向に活躍の場が与えられない。日々の任務といえば、検使ばかり。これではどうにもやる気が出ない。
「上様は何故、わしを戦さ場に出してはくださらぬのか」
 忠三郎は、いつものように町野左近を相手に愚痴をこぼしていた。毎日のようにぼやいていると、そこへ義太夫がひょっこりと顔を出した。
「相変わらず、わかりやすく暇そうにしておるのう」
 義太夫はニヤニヤと笑いながら忠三郎に声をかけた。忠三郎は深いため息をつき、恨めしそうに答える。
「おぬしには分かるまい。かようなみぎりに暇を持て余す辛さなど」

 忠三郎の肩がしおれていく様子に、義太夫はおどけて言った。
「退屈しておると思うて、朗報を持ってきた。鶴の活躍の場がついに訪れた」
「何、それはまことか!」
 忠三郎の顔が一瞬にして輝いた。ついに、自分にも戦場での出番が来るのかと期待に胸を膨らませたが、義太夫のその顔が妙に含み笑いを浮かべている。
「義太夫、まことであろうな?」
 忠三郎は半信半疑のまま、義太夫の言葉を追及しようとする。
「まことじゃ。我らが中川瀬兵衛の元へ行き、話をつけようとしておるのは存じておろう?」
「存じておるが…」
 と、忠三郎は慎重に返答する。義太夫は、にやりと笑って続ける。
「されど、瀬兵衛のやつめ、『上様は信用ならぬ』などと抜かしおったわ。まぁ、当たらずとも遠からずで、急に気分が変わって腹を切れと言い出しかねぬがのう」
 何を言い出すのか、この男は!忠三郎は焦って辺りを見回す。幸い、誰にも聞かれていないようだが、義太夫の無鉄砲な発言には心臓が止まりそうだ。
「滅多なことを申すな!」
 と忠三郎は声をひそめて叱責する。しかし義太夫は意に介さず、のんびりと答えた。

「お?おぉ、然様か。もう上様に言うてしもうたがのう」
「上様に言うたのか!」
 よりによって信長本人にそんなことを言うとは。剽者《ひょうげもの》とは、恐ろしいことを平然と言ってのけるものだ。
(こやつが生きておるのが不思議じゃ)
 不思議というよりも奇跡に近い。義太夫はそんな忠三郎の心配など意にも介さず、むしろ面白がっている様子で、わざとらしく肩をすくめて笑った。

「まぁ、わしはまだ生きておるから、案ずることはない」
「上様が存外に寛容で驚かされるわ。…で、上様は何と?」
「瀬兵衛の息子に上様の娘を嫁がせる、それで如何かと。それでも信用せぬかと、そう仰せになった」
 ここにきて信長は急に懐柔策に出たようだ。しかし、その娘というのが気になった。
「上様の娘?」
「然様。章姫様が都におる。鶴も存じておろう?おぬしが行って連れて参れ」
「何、章姫殿を?」
 忠三郎は信じられない思いで声を上げた。知らぬ筈はない。つい先日も、都を訪れた折に章姫の顔を見に行ったばかりだ。しかし、これはまさに「寝耳に水」。

 章姫といえば、忠三郎にとって前世からの縁とまで感じ、密かに何度も文を交わした相手。その思いは一方的なものではなく、確かな絆だと信じていた。
 それなのに、章姫が中川瀬兵衛の息子に嫁がされてしまう。忠三郎の胸中は激しく揺れた。
「それは…その…まことのことか?」
 動揺を隠せない忠三郎に、義太夫はまたしても笑いながら肩をすくめた。

「まぁ、上様のご命令じゃ。我らに異を唱える余地はない」
 忠三郎は苦々しく拳を握りしめたが、現実を受け入れるしかない。それでも、章姫のことを思うと、何とも言えぬ感情が胸に込み上げる。
「わしが…あの章姫殿を連れに行くことになろうとは…」
 胸中には、言いつくしがたい辛さが渦巻く。義太夫はそんな忠三郎の心情を察するでもなく、軽く肩を叩きながら言った。
「章姫様はおぬしの奥方の妹。義妹であろう?義兄であるおぬしが連れてくることに何の問題もあるまい。上様も殿もお待ちじゃ。ゆえに一両日中に都に行き、連れて参れ」
 義太夫の言うことは正論だ。しかし、忠三郎にはその正論が心に突き刺さる。

「義太夫、おぬし、存じていながら、随分と意地の悪いことを申すではないか」
 忠三郎が恨めし気に言うと、義太夫は悪びれもせず、忠三郎の肩を叩いた。
「悪いことは言わん。章姫様のことはあきらめた方がよい。おぬしもわかっておろう?上様の娘を二人などと、上様も殿も、お許しになるはずがない」
 その言葉に、忠三郎は短く「もうよい」と答え、義太夫の手を振り払って立ち上がった。
 心の中には、どうにもならぬ運命に対する苦々しい思いが渦巻いていたが、それをどうすることもできぬこともまた、痛いほどわかっていた。

 武家の娘として生を受けた者に課された最大の使命、それが婚姻だ。大名の娘であれば、敵国との同盟を築くために、家臣の娘であれば、家中の結束を強めるために嫁ぐことが常であった。身分の低い家に生まれない限り、幼き頃より政治の道具とされる運命が待ち受けており、十歳から十二歳頃には、輿入れの準備が整えられる。
 
 しかしながら、そこにはやはり人と人との関わりがあり、必ずしも心が通じ合うとは限らない。
 忠三郎の祖父、快幹もまた、近江の守護代として名高い馬渕山城守宗綱の娘を妻に迎えたが、その夫婦関係は必ずしも良好ではなかった。快幹は嫡男が誕生するやいなや、側室を持つようになり、賢秀には同腹の兄弟がいない。
 正室とは異なり、側室や妾は自由に選ぶことができる。気心の知れた家臣の娘を娶ることも可能だ。嫡男さえ生まれてしまえば、側室や妾を何人持とうとも大きな問題にはならない。

 賢秀もまた、そのような父を見て育ったためか、忠三郎が生まれるとすぐに側室を迎え入れた。母・お桐と忠三郎が暮らす三の丸には、母の実家である後藤家からきた家臣が多く、賢秀はそこに馴染むことができなかったのかもしれない。賢秀は側室や彼女たちとの間に生まれた子供たちとともに私邸で過ごすことが多かった。そのため、賢秀が三の丸に姿を見せることはほとんどなく、お桐と忠三郎の生活は孤立したものだった。

 それが当たり前だと思っていた。しかし、家によってその文化が異なることを知ったのは、滝川家の屋敷に出入りするようになってからのことだった。滝川家では、一益の私邸に正室の風花や子どもたちが住まい、一益は政務を終えるとその私邸に戻っていく。日頃から休む間もなく働いているにもかかわらず、時折、風花や子どもたちと食事を共にする姿も見られた。

(素破の家とは奇妙な家だ)
 その光景は、忠三郎にとって見慣れないものであり、最初は強い違和感を覚えた。昔はともかく、今の一益は一介の素破ではなく織田家の宿老という重責を担う身だ。その一益が、わざわざ家族と過ごす時を持つ理由が、忠三郎には理解できなかった。
 それもそのはずだ。忠三郎の記憶の中には、父親が家族と共に過ごす姿は一切存在しない。幼い頃から父・賢秀は忠三郎の前にほとんど姿を見せず、常に遠い存在であったため、父子の情を交わす機会はなかった。だからこそ、一益が風花や子どもたちと共に過ごすという当たり前の光景が、忠三郎には異様に映った。

 しかし、時が経つにつれて、その光景にも慣れていった。日々の中で、一益が風花や子らと共に笑い、穏やかな時を過ごす様子を目にするたび、忠三郎の心の奥底に、少しずつではあるが、羨望の念が湧き上がってきた。自分にはなかったもの――父親との触れ合い、家族との温かい絆――それらを目の当たりにすることで、忠三郎は自らの孤独と欠落感を改めて意識するようになった。

 その姿は、忠三郎にとって憧れであり、同時に決して手に入れることのなかったものの象徴でもあった。

 忠三郎は、自分の幼少期のことを一益や義太夫に話したことがない。幼い頃、父との関係がどれほど希薄だったか、母を亡くしてからの孤独な日々についても、口にしたことはなかった。だからこそ、二人には忠三郎の心中が全く伝わっていなかっただろう。

 滝川家で見せられる光景――風花や子どもたちと仲睦まじく過ごす一益の姿――それは、彼らにとって日常の一部であり、何気ない生活の一場面にすぎない。しかし、その当たり前の光景が、忠三郎にとってどれほど心を抉るものだったか、二人は思いもしなかったに違いない。
 人の温もりを知らずに育った忠三郎にとって、その光景は残酷なまでに対照的だった。目の前にある滝川家の絆を羨ましく思いながらも、同時に、自分には決して手に入らなかったものとして、胸を締めつけられる思いがあった。言葉にしない孤独と欠落感――それを、二人が察することはできなかっただろう。

 朧光の果てにある暖かな空間。忠三郎は気づかぬうちに、いつしかそうしたものを求め、憧れていた。遥かに霞むその光に手を伸ばしてみたい――しかし、それが自分のものでないことを、心のどこかで理解していたのかもしれない。

 その空虚な心を埋めてくれたのが、従姉のおさちだった。幼い頃から親しくしていたおさちは、面倒見が良く、忠三郎が彼女の元へ通うようになってからも、母のように、また時には姉のように、優しく声をかけ、心配し、常に気にかけてくれた。おさちは、忠三郎にとって初めて「家族」と呼べる存在だったのかもしれない。
 しかし、その大切なおさちを失ったことで、忠三郎は再び深い孤独に押し戻されてしまった。家族として心を寄せてくれる存在を失ったことは、耐え難い喪失感を伴うものだった。

 そんな孤独の中、まるで彗星の如く忠三郎の前に現れたのが、章姫だった。
 彼女は、それまで忠三郎が出会ったどの人物よりも、予測のつかない言動を見せた。大胆でありながらも、どこか懐かしい空気をまとい、その存在感は強烈だった。章姫の言葉や行動には、常に驚きと新鮮さがあり、さながら章姫自身が新しい世界の扉を開いてくれるかのようだった。

 その不可思議な魅力に、忠三郎は知らず知らずのうちに惹かれ、章姫の傍にいることで心が引き寄せられていくのを感じた。章姫は、忠三郎の心の空虚さを埋めるかのように、その存在感を忠三郎に刻みつけ、離れがたい存在となっていった。

 章姫は、一度他家に嫁ぎながらも戻ってきたため、すでに婚期を逃していた。
 その状況を知っていた忠三郎は、章姫を側室として迎えられるかもしれないという淡い期待を抱いていた。忠三郎はたびたび章姫の顔を見に行き、心を込めた和歌を添えた文を何度も送った。その行為には、章姫への思慕と、章姫が自分の元に留まるかもしれないというわずかな希望が込められていた。

 しかし、その章姫が再び他家へ嫁いで行ってしまうことが決まった今、忠三郎の心に重い失望が押し寄せた。忠三郎が抱いていた小さな望みも、その瞬間に砕け散り、再び心には孤独が覆いかぶさった。章姫が去るという現実は、忠三郎にとってまたしても大切な存在を失う痛みとなり、その心に深い影を落とした。

 十一月の冷たい風が吹きすさぶ中、忠三郎は、章姫を連れて戻るために都へと向かっていた。
 その途上、偶然にも都の南蛮寺に戻る途中のロレンソとオルガンティノ一行に会った。
「皆さまも都へ?」
 忠三郎が声をかけると、ロレンソが気づいてこちらを向いた。
「右近殿はもう何の心配もいらぬであろう。それよりも朗報を聞き、多くの者たちが都の南蛮寺に駆けつけておる。早う言って、皆に会わねば」
 杖をつきながら歩むロレンソの姿を見て、忠三郎はふとある疑問が浮かんだ。

「ロレンソ殿は今や高名な修道士であられ、上様からの覚えも目出度く、多くの方々に敬愛されていると聞き及びます。それが、このような質素な姿で都へ向かわれるのは、いかなる理由からなのでしょうか?」

 普段の忠三郎であれば、こうしたことを口にすることはなかった。しかし、今日は何かに突き動かされるように、問いかけていた。それは、章姫のことが心に重くのしかかっていたからかもしれない。章姫のことを想いながら、忠三郎はロレンソの歩む姿に何かを重ね合わせ、聞かずにはいられなかった。

 ロレンソは忠三郎の問いかけに、にこやかに笑って答えた。
「あの義太夫なる剽者ひょうげものは未だにわしを乞食坊主などと呼び腐るが、おぬしはまったく違ったことを聞いてくるのう。誰が何を言おうと、わしはわしじゃよ」
 そう言いながら、ロレンソは少し目を細め、穏やかな口調で続けた。
「かつて、イエズスは偉くなりたいと思う者は皆に仕える者となれ、と教えた。さらに、先頭に立ちたいと思う者は皆のしもべとなれ、と弟子たちを諭された。わしも、そしてキリシタンとなった者たちは、その教えを大切にしておる。皆に仕える者になる。それが神を信じる者の生き方の土台なんじゃ」
 
 ロレンソの話はこれまで聞いたことのない、新鮮な教えだった。ロレンソは、その教えに従って自らを慎み、質素な姿で歩むことを選んでいたのだ。忠三郎はその答えを聞きながら、ロレンソの飾らぬ姿勢に一瞬、何か心の奥が静まるような感覚を覚えた。そして、ロレンソの生き方が、ただの質素さ以上の何か深い意味を持つことに気づかされた。
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