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14.謀反の末
14-3. ロレンソの手紙
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数日後、高山右近のいる高槻城からオルガンティノが送った使者が戻ったとの知らせが届いた。オルガンティノは、深い皺を刻んだ顔に困惑の色を浮かべ、信長の前に跪いた。その声は低く、疲労の色が滲み出ている。
「人質をどうにかして奪い返すことはできぬものでしょうか。右近殿はそのことで深く心を痛めておられます」
オルガンティノの言葉に、信長の表情はすぐさま険しくなった。手元の扇子を苛立たしげに叩きつけるように開くと、冷ややかに言い放った。
「右近の望みを聞いて参れ。降れば褒美を取らす。金なら如何ほどがよいか。いずこなり申せば、望みの領地をくれてやる」
信長の声には苛立ちがはっきりと滲んでいた。人質とした妹と息子を諦める代わりに、褒美を渡すと、そう言っているようだ。その場にいる者がみな、震え上がる中、一益はゆっくりと前に進み出て、落ち着いた声で提案した。
「右近の望みは、ただ人質の奪還のみでありましょう。金や領地で去就を決めるような男ではありませぬ。ここは、我が方に捕らえている荒木摂津守の人質と、右近の人質を交換するよう、摂津守に働きかけるのが得策かと存じあげまする」
信長は一益の言葉を聞きながら、鋭い目で一益とオルガンティノを睨みつけた。手に持つ扇子を音を立てて閉じ、怒りの色を見せながら口を開いた。
「よかろう。そのように右近に話せ。だが、長くは待てぬ。都におる宣教師どもとロレンソを捕らえよ。あやつらの命運は右近の返事如何にかかっておることを、はっきりと右近に示すのじゃ」
静寂が部屋を満たす中、オルガンティノは顔を曇らせ、一益は無言で平伏した。
義太夫と忠三郎は再び南蛮寺へと足を向けた。すでに会堂は京都守護職の村井貞勝の家臣によって囲まれ、かつての賑わいは消え、中は冷え冷えとした静寂に包まれていた。ロレンソがキリシタンたちを都の外に逃がしたようだ。無人の境内には、風が吹き抜け、物寂しさを感じさせる。
会堂内に、薄暗い光が差し込む中、ロレンソとその身の回りの世話をする数人のキリシタンだけが静かに祈りをささげていた。従者たちの顔には疲労と不安の色が見え隠れしていたが、ロレンソだけはどこか穏やかで、全てを受け入れているかのような落ち着きを感じさせた。
義太夫と忠三郎がゆっくりと近づくと、ロレンソはふと顔を上げる。その瞬間、ロレンソの顔にはかすかな笑みが浮かんだ。重苦しい空気の中、その笑顔は一瞬、光が差し込むように場を和ませた。
「よく来たのう、二人とも」
と、ロレンソは穏やかな声で言った。その口調には何の怯えも感じられない。
義太夫は、幾分拍子抜けしたように眉を上げた。ロレンソの笑顔はあまりにも自然で、いま直面している厳しい状況を全く感じさせない。
「かようにおびただしい兵に取り囲まれ、さすがの悪たれ坊主も観念したか」
義太夫が毒舌を履くと、ロレンソは可笑しそうに笑う。
「わしはもう覚悟を決めておる。すでにこの身は我がものではない。この命もまた我がものではない」
ロレンソが厳かにそう告げると、義太夫は大げさにため息をついた。
「妙な覚悟を決めるな。諦められたら、わしが困るのじゃ」
と、おもむろに懐をゴソゴソと探り始めた。案の定、手の中には餅が握られている。
「ほれ、これでも食え」
義太夫はいつもの調子で、ロレンソに餅を差し出した。ロレンソは苦笑しながらそれを受け取る。
(義太夫…。かような時でも食い物なのか…)
どうやら義太夫にとって「食べ物を渡す=解決策」のようだ。もしや、これは餌付けのつもりなのか。
忠三郎はロレンソがもそもそと餅を口に運ぶのを見ながら、
(もう少し違う覚悟が必要なのでは…)
と思ったが、余計な口を出すのを控えた。
「よいか、ロレンソ。これが今生の別れ、二度と会うこともないと、読む者が涙を流すような文を書いて右近殿に送るのじゃ。右近殿が心動かされ、織田家に降るようなやつを一つ頼む」
ロレンソは軽く首を傾げ、不思議そうに微笑んだ。
「わしは見ての通りの盲目じゃ。文なぞ書くことはできぬ」
それを聞いて義太夫は一瞬、目を見開き、すぐに苦笑を漏らした。
「都合のいいときだけ見えぬなどと抜かしおって。全く手がかかる坊主じゃのう」
と呟きながら頭を掻く。
「致し方ない。わしが代筆してやる。紙と筆をもって参れ」
義太夫が自信満々に声を張り上げた。
忠三郎は一抹の不安を覚える。果たして義太夫に代筆など任せて大丈夫なのか…。不安を抱えながらも、紙と筆を従者から受け取り義太夫に渡すと、義太夫はしたり顔で筆を取り、さっそく書き始めた。
「まずは…我らキリシタン、明日をも知れぬ命。どうか、どうか、早う高槻城を出て、上様に恭順してくだされ…」
「待て、義太夫。わしはそのようなことは一言も申しておらぬ」
ロレンソは慌てて声を上げた。
「おや、そうであったか?」
義太夫は平然とした顔で筆を止める。
「おぬしの心を代弁したつもりであったが?」
「わしの名を語らって、勝手な文を書くでない」
「我儘ばかり申すな。ならばこうじゃ。『右近殿。我らは神のごとき第六天魔王に命を握られ、涙に暮れる日々。心根の良い滝川家の一番家老、義太夫殿に餅を差し出されても、心労のあまり、餅も喉をつかえる始末。どうか我らを憐れと思し召し…』」
「これこれ。勝手に話を作るなと申しておる」
「作っておるのではない。これは、おぬしの心の声じゃ」
義太夫とロレンソの間で奇妙なやりとりが繰り広げられる。横で見ている忠三郎は、額に汗を浮かべながら、ますます不安に駆られた。
(まことにこの二人に任せておいて大事ないであろうか)
二人が右近への手紙を書き上げるまでの道のりは、思った以上に遠そうだ。
ロレンソの書状は紆余曲折しながらも完成し、無事、高槻城へと届けられた。
ロレンソの書状を受け取った高山右近は、荒木村重に対し、信長に降伏するよう熱心に説得を行った。その結果、村重は本領安堵を条件に、織田家に戻る意思を示すまでに話が進んだ。和平の兆しが見えたかに思われたが、信長はこの提案を一蹴する。
「そのような虫のよい話は断じて許さぬ。右近は許すが摂津守は許さぬ。されど、右近があくまでも摂津守に同心するというのであれば、高槻城下を焼き払うまで」
間に立たされているオルガンティノは真っ青になった。高槻城下には南蛮寺があり、領民の大半はキリシタンだ。
「何卒、人質奪還まではお留まりいただけますでしょうか」
オルガンティノは、必死に信長に対して猶予を求める。それに対し、信長は冷ややかな視線を送り
「よかろう。されど長くは待てぬ」
というと、すぐさま視線を横に向けた。
「右衛門!左近!」
と声をかける。佐久間信盛と滝川一益は、堅い表情で短く返事をし、一歩前へと進み出た。
「わし自らが出馬し、謀反人どもを血祭にあげる。兵をあげ、高槻城を取り囲め!」
「ハハッ」
かくして織田軍はついに摂津に攻め入った。
摂津国、高槻。古の歴史を秘めたこの地には、古墳が幾つも点在し、悠久の時を刻んできた。そこに広がる田畑や川の流れが、かつての栄華を今に伝えている。
しかし、そんな風景の中に異国の風が吹き込んでいる。高槻には、キリシタンの教えを説く南蛮寺が二十カ所も立ち並び、遠くからでも掲げられた十字架と、その独特な建物の姿が見て取れる。
この高槻の領民の半数以上はキリシタンであり、彼らは祈りを捧げながらも、土に根を張り、日々の営みを大切にしていた。異国からもたらされた文化と信仰が、自然と風土に溶け込み、かつてなかった新たな風がこの地に吹いている。
教会の鐘の音が響き、キリシタンの祭りの日には祈りの歌声が風に乗り、町を包み込む。高槻は、そんな異国情緒と古の文化が交差する不思議な場所であった。
しかし、そんな平穏な空気は突如として破られ、今まさに破壊しつくされようとしている。
織田の大軍が高山右近の篭る高槻城を取り囲み、城下には張り詰めた緊張感が漂った。信長の厳しい眼差しの下、誰もが次の一手を息を殺して待っている。
その静けさを破るかのように、信長は供に連れてきているオルガンティノを呼び寄せた。
「すべてのキリシタンに伝えよ。右近がわしの足元に屈するよう尽力せよ。もし降らないのであれば、キリシタンどもを一人残らず捕らえて首を刎ね、キリシタン宗門を断絶する」
信長の冷酷な言葉がオルガンティノの心を深く切り裂く。それは、まさに最後通牒だった。信仰の自由も、領民の命も、すべてが右近の決断にかかっている。もし右近が織田家に降伏しなければ、キリシタンに対する信長の怒りが降りかかることは避けられない。畿内に広がるキリシタンの信仰、彼らが築いてきた平和な共同体は、一瞬にして消し去られる。教会の鐘の音も、祈りの声も、すべてが消え去る脅威が、信長の言葉に宿っている。
オルガンティノは信長の冷たい眼差しを前に、言葉を失った。深く頭を下げた宣教師の背中には、織田家の非情さがのしかかっていた。
その夜、ロレンソがオルガンティノを伴い、ふらりと滝川陣営に姿を現した。
「かくなる上は、わしとパーデレ・オルガンティノが高槻城へ行き、右近殿を説いて参る」
ロレンソがそう言うと、これは余程のことと義太夫は驚き、急いで一益に知らせた。
「迂闊に城に入れば、密偵と思われ、討たれるやもしれぬ。軽挙妄動は控えてはどうか」
一益が鋭い目を向けて警告する。しかし、ロレンソはそれを受け流すかのように微笑み、
「案ずることはない。上様の元から逃げてきたと言って城に入り、右近殿に取次を頼むつもりじゃ」
と、あっさりと答えた。自分の命が懸かっているとは思っていないかのように、どこか他人事のように平然としている。
「義兄上、このお二方が話せば、右近殿も耳を傾けるやもしれませぬ」
忠三郎が傍で口添えするものの、一益は難しい顔をして、なかなか首を縦に振らなかった。
(ロレンソ殿を危険な目にあわせたくないと、義兄上はそうお考えか)
ロレンソの言う通り、二人が高槻城へ赴けば、説得は成功するかもしれないが、無事に右近に会うことができなければ、ロレンソとオルガンティノの身が危うくなる。しかし時が経つにつれ、織田軍の包囲が強まり、事態は悪化していく一方だ。
「上様の堪忍も二日、三日が限界かと。そうなってからでは遅うござります。佐久間殿にも知らせを送り、ここは二人を行かせてみては?」
忠三郎が再度、そう促す。一益は黙ったまま目を閉じ、しばし考え込んでいたが、やがてゆっくりと目を開け、ロレンソに鋭い視線を向けた。
「行くがよい。我が家の者を供に付ける。必ず右近を説いて戻って参れ」
もし失敗すれば全てが終わる。ロレンソは一益の鋭い視線にも動じず、微笑みを浮かべながら一礼した。
「人のあゆみは神による。人いかで自らその道を明かにせんや。我が行く道を知る者は全能の神のみじゃ」
オルガンティノもまた、一益に深々と頭を下げ、二人は帷幕を後にした。
出発の日は、朝から静かに細雪が舞っていた。
(この雪の中、城まで向かうのか…)
忠三郎は、足の悪いロレンソの体調を案じながら、胸を痛めつつも、義太夫と共に峠までロレンソ一行を見送るために出向いた。
ロレンソは見送りに来た忠三郎と義太夫の姿を確認すると、どこか楽しんでいるかのように軽く頷き、肩をすくめて、いつものように飄々と言った。
「また会うこともあろう。堅固で暮らせ」
別れの挨拶というよりも、日常の会話の延長のようだった。しかし、その背中が雪の中に消えていく様子は、どこか儚げでもあった。ロレンソは一度も振り返ることなく、笑みを浮かべたまま、ゆっくりと遠ざかっていく。
忠三郎はしばしその背を見送り、ふと呟いた。
「また会うことができようか…」
あるいは、最後になってしまうのではないか。忠三郎がそんな憂いを見せると、隣にいる義太夫がニヤリと謎めいた笑顔を浮かべている。
場違いな笑顔に「一体何を考えているのだ?」という目で見ると、義太夫は胸を張って得意げに言い放った。
「そう悲観するでない。わしが代筆した書状、あれで心動かさぬ者などはおらぬ。右近殿は涙を流して書状を読み、今頃は織田家に臣従を誓っておるはず。二人の顔を見れば、すぐにでも織田家に降るであろう」
義太夫の自信満々の態度からは緊張感がまるで感じられない。忠三郎は、義太夫の横顔をじっと見つめた。どうやら、本気で言っているらしい。
(あの文がまことに右近殿を動かしているのか?)
雪が忠三郎の頬に静かに舞い落ち、ひやりとした感触が伝わる。冷たい風とともに、義太夫の根拠のない自信が、忠三郎の胸中にさらなる不安を募らせた。
「人質をどうにかして奪い返すことはできぬものでしょうか。右近殿はそのことで深く心を痛めておられます」
オルガンティノの言葉に、信長の表情はすぐさま険しくなった。手元の扇子を苛立たしげに叩きつけるように開くと、冷ややかに言い放った。
「右近の望みを聞いて参れ。降れば褒美を取らす。金なら如何ほどがよいか。いずこなり申せば、望みの領地をくれてやる」
信長の声には苛立ちがはっきりと滲んでいた。人質とした妹と息子を諦める代わりに、褒美を渡すと、そう言っているようだ。その場にいる者がみな、震え上がる中、一益はゆっくりと前に進み出て、落ち着いた声で提案した。
「右近の望みは、ただ人質の奪還のみでありましょう。金や領地で去就を決めるような男ではありませぬ。ここは、我が方に捕らえている荒木摂津守の人質と、右近の人質を交換するよう、摂津守に働きかけるのが得策かと存じあげまする」
信長は一益の言葉を聞きながら、鋭い目で一益とオルガンティノを睨みつけた。手に持つ扇子を音を立てて閉じ、怒りの色を見せながら口を開いた。
「よかろう。そのように右近に話せ。だが、長くは待てぬ。都におる宣教師どもとロレンソを捕らえよ。あやつらの命運は右近の返事如何にかかっておることを、はっきりと右近に示すのじゃ」
静寂が部屋を満たす中、オルガンティノは顔を曇らせ、一益は無言で平伏した。
義太夫と忠三郎は再び南蛮寺へと足を向けた。すでに会堂は京都守護職の村井貞勝の家臣によって囲まれ、かつての賑わいは消え、中は冷え冷えとした静寂に包まれていた。ロレンソがキリシタンたちを都の外に逃がしたようだ。無人の境内には、風が吹き抜け、物寂しさを感じさせる。
会堂内に、薄暗い光が差し込む中、ロレンソとその身の回りの世話をする数人のキリシタンだけが静かに祈りをささげていた。従者たちの顔には疲労と不安の色が見え隠れしていたが、ロレンソだけはどこか穏やかで、全てを受け入れているかのような落ち着きを感じさせた。
義太夫と忠三郎がゆっくりと近づくと、ロレンソはふと顔を上げる。その瞬間、ロレンソの顔にはかすかな笑みが浮かんだ。重苦しい空気の中、その笑顔は一瞬、光が差し込むように場を和ませた。
「よく来たのう、二人とも」
と、ロレンソは穏やかな声で言った。その口調には何の怯えも感じられない。
義太夫は、幾分拍子抜けしたように眉を上げた。ロレンソの笑顔はあまりにも自然で、いま直面している厳しい状況を全く感じさせない。
「かようにおびただしい兵に取り囲まれ、さすがの悪たれ坊主も観念したか」
義太夫が毒舌を履くと、ロレンソは可笑しそうに笑う。
「わしはもう覚悟を決めておる。すでにこの身は我がものではない。この命もまた我がものではない」
ロレンソが厳かにそう告げると、義太夫は大げさにため息をついた。
「妙な覚悟を決めるな。諦められたら、わしが困るのじゃ」
と、おもむろに懐をゴソゴソと探り始めた。案の定、手の中には餅が握られている。
「ほれ、これでも食え」
義太夫はいつもの調子で、ロレンソに餅を差し出した。ロレンソは苦笑しながらそれを受け取る。
(義太夫…。かような時でも食い物なのか…)
どうやら義太夫にとって「食べ物を渡す=解決策」のようだ。もしや、これは餌付けのつもりなのか。
忠三郎はロレンソがもそもそと餅を口に運ぶのを見ながら、
(もう少し違う覚悟が必要なのでは…)
と思ったが、余計な口を出すのを控えた。
「よいか、ロレンソ。これが今生の別れ、二度と会うこともないと、読む者が涙を流すような文を書いて右近殿に送るのじゃ。右近殿が心動かされ、織田家に降るようなやつを一つ頼む」
ロレンソは軽く首を傾げ、不思議そうに微笑んだ。
「わしは見ての通りの盲目じゃ。文なぞ書くことはできぬ」
それを聞いて義太夫は一瞬、目を見開き、すぐに苦笑を漏らした。
「都合のいいときだけ見えぬなどと抜かしおって。全く手がかかる坊主じゃのう」
と呟きながら頭を掻く。
「致し方ない。わしが代筆してやる。紙と筆をもって参れ」
義太夫が自信満々に声を張り上げた。
忠三郎は一抹の不安を覚える。果たして義太夫に代筆など任せて大丈夫なのか…。不安を抱えながらも、紙と筆を従者から受け取り義太夫に渡すと、義太夫はしたり顔で筆を取り、さっそく書き始めた。
「まずは…我らキリシタン、明日をも知れぬ命。どうか、どうか、早う高槻城を出て、上様に恭順してくだされ…」
「待て、義太夫。わしはそのようなことは一言も申しておらぬ」
ロレンソは慌てて声を上げた。
「おや、そうであったか?」
義太夫は平然とした顔で筆を止める。
「おぬしの心を代弁したつもりであったが?」
「わしの名を語らって、勝手な文を書くでない」
「我儘ばかり申すな。ならばこうじゃ。『右近殿。我らは神のごとき第六天魔王に命を握られ、涙に暮れる日々。心根の良い滝川家の一番家老、義太夫殿に餅を差し出されても、心労のあまり、餅も喉をつかえる始末。どうか我らを憐れと思し召し…』」
「これこれ。勝手に話を作るなと申しておる」
「作っておるのではない。これは、おぬしの心の声じゃ」
義太夫とロレンソの間で奇妙なやりとりが繰り広げられる。横で見ている忠三郎は、額に汗を浮かべながら、ますます不安に駆られた。
(まことにこの二人に任せておいて大事ないであろうか)
二人が右近への手紙を書き上げるまでの道のりは、思った以上に遠そうだ。
ロレンソの書状は紆余曲折しながらも完成し、無事、高槻城へと届けられた。
ロレンソの書状を受け取った高山右近は、荒木村重に対し、信長に降伏するよう熱心に説得を行った。その結果、村重は本領安堵を条件に、織田家に戻る意思を示すまでに話が進んだ。和平の兆しが見えたかに思われたが、信長はこの提案を一蹴する。
「そのような虫のよい話は断じて許さぬ。右近は許すが摂津守は許さぬ。されど、右近があくまでも摂津守に同心するというのであれば、高槻城下を焼き払うまで」
間に立たされているオルガンティノは真っ青になった。高槻城下には南蛮寺があり、領民の大半はキリシタンだ。
「何卒、人質奪還まではお留まりいただけますでしょうか」
オルガンティノは、必死に信長に対して猶予を求める。それに対し、信長は冷ややかな視線を送り
「よかろう。されど長くは待てぬ」
というと、すぐさま視線を横に向けた。
「右衛門!左近!」
と声をかける。佐久間信盛と滝川一益は、堅い表情で短く返事をし、一歩前へと進み出た。
「わし自らが出馬し、謀反人どもを血祭にあげる。兵をあげ、高槻城を取り囲め!」
「ハハッ」
かくして織田軍はついに摂津に攻め入った。
摂津国、高槻。古の歴史を秘めたこの地には、古墳が幾つも点在し、悠久の時を刻んできた。そこに広がる田畑や川の流れが、かつての栄華を今に伝えている。
しかし、そんな風景の中に異国の風が吹き込んでいる。高槻には、キリシタンの教えを説く南蛮寺が二十カ所も立ち並び、遠くからでも掲げられた十字架と、その独特な建物の姿が見て取れる。
この高槻の領民の半数以上はキリシタンであり、彼らは祈りを捧げながらも、土に根を張り、日々の営みを大切にしていた。異国からもたらされた文化と信仰が、自然と風土に溶け込み、かつてなかった新たな風がこの地に吹いている。
教会の鐘の音が響き、キリシタンの祭りの日には祈りの歌声が風に乗り、町を包み込む。高槻は、そんな異国情緒と古の文化が交差する不思議な場所であった。
しかし、そんな平穏な空気は突如として破られ、今まさに破壊しつくされようとしている。
織田の大軍が高山右近の篭る高槻城を取り囲み、城下には張り詰めた緊張感が漂った。信長の厳しい眼差しの下、誰もが次の一手を息を殺して待っている。
その静けさを破るかのように、信長は供に連れてきているオルガンティノを呼び寄せた。
「すべてのキリシタンに伝えよ。右近がわしの足元に屈するよう尽力せよ。もし降らないのであれば、キリシタンどもを一人残らず捕らえて首を刎ね、キリシタン宗門を断絶する」
信長の冷酷な言葉がオルガンティノの心を深く切り裂く。それは、まさに最後通牒だった。信仰の自由も、領民の命も、すべてが右近の決断にかかっている。もし右近が織田家に降伏しなければ、キリシタンに対する信長の怒りが降りかかることは避けられない。畿内に広がるキリシタンの信仰、彼らが築いてきた平和な共同体は、一瞬にして消し去られる。教会の鐘の音も、祈りの声も、すべてが消え去る脅威が、信長の言葉に宿っている。
オルガンティノは信長の冷たい眼差しを前に、言葉を失った。深く頭を下げた宣教師の背中には、織田家の非情さがのしかかっていた。
その夜、ロレンソがオルガンティノを伴い、ふらりと滝川陣営に姿を現した。
「かくなる上は、わしとパーデレ・オルガンティノが高槻城へ行き、右近殿を説いて参る」
ロレンソがそう言うと、これは余程のことと義太夫は驚き、急いで一益に知らせた。
「迂闊に城に入れば、密偵と思われ、討たれるやもしれぬ。軽挙妄動は控えてはどうか」
一益が鋭い目を向けて警告する。しかし、ロレンソはそれを受け流すかのように微笑み、
「案ずることはない。上様の元から逃げてきたと言って城に入り、右近殿に取次を頼むつもりじゃ」
と、あっさりと答えた。自分の命が懸かっているとは思っていないかのように、どこか他人事のように平然としている。
「義兄上、このお二方が話せば、右近殿も耳を傾けるやもしれませぬ」
忠三郎が傍で口添えするものの、一益は難しい顔をして、なかなか首を縦に振らなかった。
(ロレンソ殿を危険な目にあわせたくないと、義兄上はそうお考えか)
ロレンソの言う通り、二人が高槻城へ赴けば、説得は成功するかもしれないが、無事に右近に会うことができなければ、ロレンソとオルガンティノの身が危うくなる。しかし時が経つにつれ、織田軍の包囲が強まり、事態は悪化していく一方だ。
「上様の堪忍も二日、三日が限界かと。そうなってからでは遅うござります。佐久間殿にも知らせを送り、ここは二人を行かせてみては?」
忠三郎が再度、そう促す。一益は黙ったまま目を閉じ、しばし考え込んでいたが、やがてゆっくりと目を開け、ロレンソに鋭い視線を向けた。
「行くがよい。我が家の者を供に付ける。必ず右近を説いて戻って参れ」
もし失敗すれば全てが終わる。ロレンソは一益の鋭い視線にも動じず、微笑みを浮かべながら一礼した。
「人のあゆみは神による。人いかで自らその道を明かにせんや。我が行く道を知る者は全能の神のみじゃ」
オルガンティノもまた、一益に深々と頭を下げ、二人は帷幕を後にした。
出発の日は、朝から静かに細雪が舞っていた。
(この雪の中、城まで向かうのか…)
忠三郎は、足の悪いロレンソの体調を案じながら、胸を痛めつつも、義太夫と共に峠までロレンソ一行を見送るために出向いた。
ロレンソは見送りに来た忠三郎と義太夫の姿を確認すると、どこか楽しんでいるかのように軽く頷き、肩をすくめて、いつものように飄々と言った。
「また会うこともあろう。堅固で暮らせ」
別れの挨拶というよりも、日常の会話の延長のようだった。しかし、その背中が雪の中に消えていく様子は、どこか儚げでもあった。ロレンソは一度も振り返ることなく、笑みを浮かべたまま、ゆっくりと遠ざかっていく。
忠三郎はしばしその背を見送り、ふと呟いた。
「また会うことができようか…」
あるいは、最後になってしまうのではないか。忠三郎がそんな憂いを見せると、隣にいる義太夫がニヤリと謎めいた笑顔を浮かべている。
場違いな笑顔に「一体何を考えているのだ?」という目で見ると、義太夫は胸を張って得意げに言い放った。
「そう悲観するでない。わしが代筆した書状、あれで心動かさぬ者などはおらぬ。右近殿は涙を流して書状を読み、今頃は織田家に臣従を誓っておるはず。二人の顔を見れば、すぐにでも織田家に降るであろう」
義太夫の自信満々の態度からは緊張感がまるで感じられない。忠三郎は、義太夫の横顔をじっと見つめた。どうやら、本気で言っているらしい。
(あの文がまことに右近殿を動かしているのか?)
雪が忠三郎の頬に静かに舞い落ち、ひやりとした感触が伝わる。冷たい風とともに、義太夫の根拠のない自信が、忠三郎の胸中にさらなる不安を募らせた。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
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