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14.謀反の末
14-2. 人知を超えた力
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都にある南蛮寺は、信長の館である二条御新造から歩いてほど近い場所に、静かに佇んでいる。都では珍しいその三階建ての建物は、二年前に老朽化した建物が取り壊され、新たに建てられたものだ。
高山右近の父、高山図書は、畿内を巡りながら宣教師や修道士たちと協力し、多くのキリシタン信徒から寄進を集め、建築に尽力した。その結果、会堂は朽ちかけていた姿から一新され、イエズス会の紋章が刻まれた大きな釣り鐘が高く掲げられ、威厳を漂わせている。
釣り鐘の音は、都に住む多くの者たちの心に響き、彼らを呼び寄せた。会堂の内部には広々とした畳敷きの部屋が広がり、静かな光が差し込む中、多くのキリシタンたちが集い、祈りを捧げていた。その場は、信仰と絆が深く息づく場所となり、過去の朽ち果てた姿はもはや影を潜め、静謐さと神聖さが包み込んでいた。
一益は南蛮寺の門前で馬を降り、馬を助太郎に託すと、案内を乞うこともなく迷いのない足取りで教会堂へ向かって進んでいった。
(義兄上は、ここに何度も来られたことがあるのか)
修道士のロレンソと親しいことは知っていたが、南蛮寺に足を運んでいることは知らなかった。なんとも意外で驚かされる。一益はこの異国の宗教にどれほど深く関わっているのだろうか。
ロレンソと神父・オルガンティノは、一益の来訪を聞いてすぐに姿を現した。
二人はすでに事の経緯を知っていた。
「右近殿は、荒木殿の心を変えようと自ら有岡城へ向かわれ、懸命に説得したのじゃ。その上、荒木殿に対して人質を差し出し、留守中は心配する必要はないと諭し、安土へと向かうよう進言されたとのことじゃ」
ところが荒木村重はその人質を盾に、この機を捉えて右近を自らの側に引き込んでしまった。
「再び織田家に従うことは容易ではなかろう」
一益は、当然のごとく静かに言い放った。
摂津の地、荒木村重の領土には、少なからず本願寺の門徒たちが存在している。その門徒たちは、信長の権威に強く反発し、村重に対しても織田家に従わぬよう圧力をかけているのだ。この影響力が、村重の決断をより困難にしていることは明白であった。
「されど、このまま高山右近があくまでも上様に刃を向けるというのであれば、畿内はおろか、織田領全域にいるキリシタンが一向門徒と同じ末路を辿ることとなる」
一益は、無感情な口調で淡々と告げた。ロレンソは、すでに覚悟していたかのように黙して平然と聞いていたが、オルガンティノの表情は一変した。
「お待ちを。わたくしが使者を高槻へ送り、右近殿を説得しましょう。さすれば必ず、右近殿は上様に従うと仰せになるに相違ありません」
オルガンティノは焦燥を隠せないまま、懸命にそう申し出た。
「よかろう。上様にその旨申し伝えよう。されど…もし説得に失敗すれば、この南蛮寺も焼き払われることとなる。明日には、兵がここを取り囲む手筈となっておる」
一益の冷ややかな言葉が場に響き渡る。オルガンティノの必死の申し出にも、一益はわずかな感情も示さず、淡々と事実を伝えるだけだ。
傍らでこのやり取りを聞いていた忠三郎は、驚愕を隠せず、一益を見つめる。
(ここを焼き払う?義兄上は…そのような非情な命を受けて、なにも感じないと?)
あれほど親しくしていたロレンソのいる南蛮寺を、いとも簡単に焼き払うと言うとは――忠三郎は、一益の冷徹な言葉に強い不信感を覚えた。
(義兄上にとっては一向衆もキリシタンも同じか)
もともと感情を表に表さず、自身の感情から乖離していると思わせる面は多々あるが、一益はただ命じられたことを、無感情に遂行するだけの人間なのだろうか。
常日頃から感情よりも論理を優先し、信長の命令は絶対であり、そこに個人的な感情や情は一切介在しない。一軍の将として頼りになる一方、今回に限っては一益の冷静さが、忠三郎にはあまりにも非情に映る。ロレンソへの情や南蛮寺との関わりを思い返すほど、その冷酷さが胸に重くのしかかり、その後の会話が耳に入らないほどだった。
夕暮れ時になり、南蛮寺を後にした。その浮かない顔を見て、義太夫が軽やかな声で問いかける。
「如何したのじゃ。そろそろ酒が恋しくなる時分か?」
一益の冷淡さに加え、義太夫の軽薄さにも苛立ちを覚える。無邪気に見える義太夫の言葉に返答する気も起きず、忠三郎はただ横目で義太夫を一瞥し、深いため息をついた。
「お、ちと、待て。ここじゃ、行きつけの饅頭屋じゃ」
義太夫は突然立ち止まり、得意げに饅頭屋の暖簾を指さす」
「…殿、先にお戻りくだされ。わしはちと饅頭屋に用があり申す」
義太夫は一益と助太郎を先に屋敷へ戻すと、足取りも軽く、何事もなかったかのように饅頭屋へ向かっていく。その様子に、忠三郎は呆れつつも、何も言う気力が湧かない。都の喧騒が耳を塞ぐように響く中、頭の中ではまだ、一益の冷たい決断と、南蛮寺での出来事が何度も繰り返し浮かんでいた。
「待たせたのう。ほれ、ひとつ、食うがよい」
義太夫が上機嫌で饅頭を忠三郎に差し出した。忠三郎が無言で饅頭を受け取ると、義太夫は饅頭を頬張りながら、歩き始めた。
「うまい!やはり饅頭といえば、饅頭屋宗二じゃのう。そうは思わんか」
忠三郎も致し方なく、一口、饅頭を口に運ぶ。飢えている者には苦い物もみな甘いというが、今は甘みを感じる余裕はない。
「先ほどの義兄上のあの態度。おぬしは何も思わぬのか」
忠三郎が非難めいた声で問いただすと、義太夫は饅頭をかじりながら首を傾げた。
「何も思わぬ…とは?常と変わらぬ殿であったが…?」
「そこが可笑しいというておるのじゃ」
「可笑しい?何が?」
忠三郎の焦燥に気づかぬ義太夫の呆けた問いに苛立ちが募る。
「南蛮寺に火をかけ、キリシタンを始末する話をしておるのに、常と変わらぬとは、あまりに冷たいではないか」
その言葉は、義太夫に対するものというより、自身の心に向けた問いかもしれない。一益の無感情な態度は、到底理解できないものであり、それが心を揺さぶり続ける。
「義兄上は何も思われてはおらぬようであった。常よりロレンソ殿と親しくしてきたのは、硝石のためだけか?義兄上はキリシタンが一向門徒と同じ末路を辿ると、そう仰せであった。あれは、如何なる意味か。長島の時と同じことをすると、そう仰せなのか?」
忠三郎は、自分でも驚くほど苛立った口調で問いかけた。普段なら、胸の内に秘めておくような思いだ。こんなことを口にするのは無作法であり、幼いころから慎むべきことと教えられてきた。
だが、この瞬間、自分を押し留めることができなかった。何故こんなことを口にしてしまったのだろう?相手が義太夫だから気を許したのか、それとも抑圧されていた苛立ちが限界に達し、黙っていられなくなったのか――忠三郎自身にも答えは見つからなかった。
自分でもわからない感情に戸惑いながらも、ただ、一益の本心を知りたくて仕方がなかった。あの冷淡な態度の裏に何があるのか。それが、長島の時と同じ悲劇を意味しているのかを。
そんな忠三郎の思いを知ってか知らずか、義太夫は軽く笑う。
「常より目をかけておる鶴がそう思うておるのであれば、殿も報われぬのう」
義太夫の言葉の意味がわからない。
「わからぬか。殿は、明日には兵が南蛮寺を取り囲むと、そう仰せであったろう。帰するところ、あの南蛮寺におるキリシタンどもを今日中に逃がせと、殿はそれをロレンソに伝えるために来たのじゃ」
「…そう…なのか」
忠三郎は驚きと安堵が混じった声で呟いた。まさか一益がそんな意図を持って南蛮寺に来ていたとは、考えもしなかった。
「ロレンソは気づいておるようであったが?というても、ロレンソ自身は逃げるようなことはせぬであろう。後は…」
と義太夫は再び饅頭を一口、口に入れてゴクリと飲み込んでから続ける。
「童のようにかようなところで騒ぐほどであれば、屋敷に戻って殿に話せ。殿の心の内を知りたいと、そう思うておるのであろう?」
義太夫の言う通りだ。この苛立ちは、一益の本当の思いが分からないから。一益が黙して語らないからだ。
「されど…」
一益にどう切り出すべきか。ずっと心に溜めてきた疑問や不安を、どう伝えたらいいのか、言葉が見つからない。
「今更、何を恐れておるのじゃ。おぬしらしゅうもない。酔って義兄弟になれと殿に迫った勢いは如何した。あのときのように、殿と真正面から話をしてみい」
義太夫が明るく笑って背中を叩く。
その通りかもしれない。今、感じている不安や苛立ちを、言葉にして伝えれば、一益の本当の思いを知ることができるのかもしれない。
屋敷についたときにはすっかり日が暮れ、空には美しい月が輝いていた。
「義兄上は早、お休みになっておろうか」
深酒をしない一益は夜が早い。忠三郎が心配になり尋ねると、義太夫が笑って答えた。
「案ずるな。今日のおぬしは終始、妙な顔をしておった。殿は気づき、おぬしが来るのを待っておられるじゃろ」
本当だろうか。忠三郎は半信半疑のまま、一益の居間へ向かった。なるべく音をたてないように静かに廊下を歩き、そっと襖の前に座る。
「義兄上、忠三郎でござります」
恐る恐る声をかけると、すぐに短い返事が返ってきた。
「入れ」
扉の向こうから一益の低い声が響いた。義太夫の言った通り、一益はまだ起きていた。忠三郎は、胸の内の不安と期待を抱えながら、そっと部屋へと足を踏み入れた。今こそ、胸に秘めた問いを一益にぶつけるときだ。
「如何した」
一益は、筆を動かしていた手を止めた。書状に目を落としながら、静かに筆を置くと、ゆっくりと忠三郎の方へ顔を向けた。その目には、常と変わらぬ冷静さと重みが宿っている。筆に残る墨の香りが漂う中、しばしの静寂が居室に満ちた。
「それは…今後のキリシタンたちのことで…」
一益は、忠三郎の心の内に渦巻く思いを感じ取ったのだろう。重々しくうなずきながら、落ち着いた口調で返す。
「そなたにも思うところがあろう」
その言葉に忠三郎は少し肩の力が抜けた。
「はい。右近殿の去就次第では、上様はまことにキリシタンたちを…。義兄上はそれについて、如何思われておるので?」
忠三郎が、一益の顔を探るようにじっと見つめて問いかけると、一益はその視線を感じ取り、少し間をおいた。静かに扇子を手に取り、考え込むように目を伏せる。
しばしの沈黙が漂う。やがて、その思慮深い瞳が忠三郎に向けられた。
「鶴。わしはそなたが思うほどに万能ではない」
一益はゆっくりと扇子を閉じた。その表情にはわずかな疲れが浮かんでいる。
――鶴、と呼びかけるその声には、これまでに見せたことのない本音が滲んでいた。
「事ここに至っては、わしにできることは多くはない。柔らかな舌は骨を砕く。オルガンティノが申していた通り、なんとか右近を説き、事を穏便に済ませるしかなかろう」
一益の言葉には、責任の重さと、己の限界を見据える冷静さがあった。忠三郎は、その言葉を受け止めながらも、一益の内にある葛藤を垣間見たような気がした。
(義兄上にも、かように思い悩むことがあるのか)
忠三郎が知っている一益は、常に冷静沈着であり、一切の感情を挟まず、冷徹に判断をくだし、それを実行する将としての姿だった。
それは忠三郎が勝手にそう信じていただけだったのかもしれない。思い返せば長島攻めのときも、越前一向一揆のときも、一益はその内心を表に現すことはなかった。いつのときも憤りは残忍で、怒りはあふれ出るものだ。あの信長に仕えている以上、無慈悲な殺戮を命じられることも覚悟の上だろう。
しかし、今にして思い返せば、怒りに任せた信長の命に対し、なんとか事態を打開し、犠牲を食い止めようと、一益はあらゆる手を尽くしていたではないか。自らがすべてを背負い込みながら、周囲には一切の動揺を見せず、その実、一人、苦悩していたのではないだろうか。
襖の隙間から入り込む風が、灯明の火をかすかに揺らした。薄暗い光の中で、一益の表情がぼんやりと滲んで見える。忠三郎は、その影をじっと見つめながら、言葉にできない感情が胸の奥で膨らんでいくのを感じた。
(義兄上…)
一益は、その強さの裏にある人としての悩みや重圧を、初めて忠三郎に見せてくれたような気がする。この揺らめく灯明の火に照らされた一益の姿は、その強さの裏に潜む葛藤を、忠三郎にそっと示しているかのように思えた。
「されど、案ずることはない」
一益は静かにそう言い切った。その声には、迷いがない。忠三郎は、その言葉に思わず身を乗り出す。
「右近は…必ず、織田家を選び取る」
その言葉が揺れる灯明の炎に乗って忠三郎の耳に届いた瞬間、忠三郎は思わず問いかけた。
「それは何故に…」
何をもってそう断言できるのか。右近の心を揺るがすものは少なくない。有岡城には、右近の妹と息子がいる。
一益は、忠三郎の疑問を感じ取ると、言葉を選ぶように静かに口を開いた。
「焦らせなければよい。兵は多きを益ありとするに非ざるなり。惟だ武進することなく、力を併わせて敵を料らば、以て人を取るに足らんのみ。戦さとは兵の多さではない。猛進することなく、味方の力をあわせ、敵情をはかれば勝機は自ずから見えてくるもの。今は無理強いせず、オルガンティノやロレンソの力を借り、右近に時を与え、出方を見るとき。心の安穩なるは身のいのちなり。右近が信じるデウスなるものの力がどのように働くのか、我らもキリシタンたちとともに見定めようではないか」
心の安穩なるは身のいのちなり。媢嫉は骨の腐なり。一益の静かな言葉は、さながら水が染み込むがごとく、焦りを抱えた忠三郎の心に少しずつ浸透していく。
「案ずるな。正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」
この抜き差しならない状況にあって、一益自身もまた、時を待ち、今後の行く末を見届けることで、人知を超えた深い英知に触れようとしているのかもしれない。
高山右近の父、高山図書は、畿内を巡りながら宣教師や修道士たちと協力し、多くのキリシタン信徒から寄進を集め、建築に尽力した。その結果、会堂は朽ちかけていた姿から一新され、イエズス会の紋章が刻まれた大きな釣り鐘が高く掲げられ、威厳を漂わせている。
釣り鐘の音は、都に住む多くの者たちの心に響き、彼らを呼び寄せた。会堂の内部には広々とした畳敷きの部屋が広がり、静かな光が差し込む中、多くのキリシタンたちが集い、祈りを捧げていた。その場は、信仰と絆が深く息づく場所となり、過去の朽ち果てた姿はもはや影を潜め、静謐さと神聖さが包み込んでいた。
一益は南蛮寺の門前で馬を降り、馬を助太郎に託すと、案内を乞うこともなく迷いのない足取りで教会堂へ向かって進んでいった。
(義兄上は、ここに何度も来られたことがあるのか)
修道士のロレンソと親しいことは知っていたが、南蛮寺に足を運んでいることは知らなかった。なんとも意外で驚かされる。一益はこの異国の宗教にどれほど深く関わっているのだろうか。
ロレンソと神父・オルガンティノは、一益の来訪を聞いてすぐに姿を現した。
二人はすでに事の経緯を知っていた。
「右近殿は、荒木殿の心を変えようと自ら有岡城へ向かわれ、懸命に説得したのじゃ。その上、荒木殿に対して人質を差し出し、留守中は心配する必要はないと諭し、安土へと向かうよう進言されたとのことじゃ」
ところが荒木村重はその人質を盾に、この機を捉えて右近を自らの側に引き込んでしまった。
「再び織田家に従うことは容易ではなかろう」
一益は、当然のごとく静かに言い放った。
摂津の地、荒木村重の領土には、少なからず本願寺の門徒たちが存在している。その門徒たちは、信長の権威に強く反発し、村重に対しても織田家に従わぬよう圧力をかけているのだ。この影響力が、村重の決断をより困難にしていることは明白であった。
「されど、このまま高山右近があくまでも上様に刃を向けるというのであれば、畿内はおろか、織田領全域にいるキリシタンが一向門徒と同じ末路を辿ることとなる」
一益は、無感情な口調で淡々と告げた。ロレンソは、すでに覚悟していたかのように黙して平然と聞いていたが、オルガンティノの表情は一変した。
「お待ちを。わたくしが使者を高槻へ送り、右近殿を説得しましょう。さすれば必ず、右近殿は上様に従うと仰せになるに相違ありません」
オルガンティノは焦燥を隠せないまま、懸命にそう申し出た。
「よかろう。上様にその旨申し伝えよう。されど…もし説得に失敗すれば、この南蛮寺も焼き払われることとなる。明日には、兵がここを取り囲む手筈となっておる」
一益の冷ややかな言葉が場に響き渡る。オルガンティノの必死の申し出にも、一益はわずかな感情も示さず、淡々と事実を伝えるだけだ。
傍らでこのやり取りを聞いていた忠三郎は、驚愕を隠せず、一益を見つめる。
(ここを焼き払う?義兄上は…そのような非情な命を受けて、なにも感じないと?)
あれほど親しくしていたロレンソのいる南蛮寺を、いとも簡単に焼き払うと言うとは――忠三郎は、一益の冷徹な言葉に強い不信感を覚えた。
(義兄上にとっては一向衆もキリシタンも同じか)
もともと感情を表に表さず、自身の感情から乖離していると思わせる面は多々あるが、一益はただ命じられたことを、無感情に遂行するだけの人間なのだろうか。
常日頃から感情よりも論理を優先し、信長の命令は絶対であり、そこに個人的な感情や情は一切介在しない。一軍の将として頼りになる一方、今回に限っては一益の冷静さが、忠三郎にはあまりにも非情に映る。ロレンソへの情や南蛮寺との関わりを思い返すほど、その冷酷さが胸に重くのしかかり、その後の会話が耳に入らないほどだった。
夕暮れ時になり、南蛮寺を後にした。その浮かない顔を見て、義太夫が軽やかな声で問いかける。
「如何したのじゃ。そろそろ酒が恋しくなる時分か?」
一益の冷淡さに加え、義太夫の軽薄さにも苛立ちを覚える。無邪気に見える義太夫の言葉に返答する気も起きず、忠三郎はただ横目で義太夫を一瞥し、深いため息をついた。
「お、ちと、待て。ここじゃ、行きつけの饅頭屋じゃ」
義太夫は突然立ち止まり、得意げに饅頭屋の暖簾を指さす」
「…殿、先にお戻りくだされ。わしはちと饅頭屋に用があり申す」
義太夫は一益と助太郎を先に屋敷へ戻すと、足取りも軽く、何事もなかったかのように饅頭屋へ向かっていく。その様子に、忠三郎は呆れつつも、何も言う気力が湧かない。都の喧騒が耳を塞ぐように響く中、頭の中ではまだ、一益の冷たい決断と、南蛮寺での出来事が何度も繰り返し浮かんでいた。
「待たせたのう。ほれ、ひとつ、食うがよい」
義太夫が上機嫌で饅頭を忠三郎に差し出した。忠三郎が無言で饅頭を受け取ると、義太夫は饅頭を頬張りながら、歩き始めた。
「うまい!やはり饅頭といえば、饅頭屋宗二じゃのう。そうは思わんか」
忠三郎も致し方なく、一口、饅頭を口に運ぶ。飢えている者には苦い物もみな甘いというが、今は甘みを感じる余裕はない。
「先ほどの義兄上のあの態度。おぬしは何も思わぬのか」
忠三郎が非難めいた声で問いただすと、義太夫は饅頭をかじりながら首を傾げた。
「何も思わぬ…とは?常と変わらぬ殿であったが…?」
「そこが可笑しいというておるのじゃ」
「可笑しい?何が?」
忠三郎の焦燥に気づかぬ義太夫の呆けた問いに苛立ちが募る。
「南蛮寺に火をかけ、キリシタンを始末する話をしておるのに、常と変わらぬとは、あまりに冷たいではないか」
その言葉は、義太夫に対するものというより、自身の心に向けた問いかもしれない。一益の無感情な態度は、到底理解できないものであり、それが心を揺さぶり続ける。
「義兄上は何も思われてはおらぬようであった。常よりロレンソ殿と親しくしてきたのは、硝石のためだけか?義兄上はキリシタンが一向門徒と同じ末路を辿ると、そう仰せであった。あれは、如何なる意味か。長島の時と同じことをすると、そう仰せなのか?」
忠三郎は、自分でも驚くほど苛立った口調で問いかけた。普段なら、胸の内に秘めておくような思いだ。こんなことを口にするのは無作法であり、幼いころから慎むべきことと教えられてきた。
だが、この瞬間、自分を押し留めることができなかった。何故こんなことを口にしてしまったのだろう?相手が義太夫だから気を許したのか、それとも抑圧されていた苛立ちが限界に達し、黙っていられなくなったのか――忠三郎自身にも答えは見つからなかった。
自分でもわからない感情に戸惑いながらも、ただ、一益の本心を知りたくて仕方がなかった。あの冷淡な態度の裏に何があるのか。それが、長島の時と同じ悲劇を意味しているのかを。
そんな忠三郎の思いを知ってか知らずか、義太夫は軽く笑う。
「常より目をかけておる鶴がそう思うておるのであれば、殿も報われぬのう」
義太夫の言葉の意味がわからない。
「わからぬか。殿は、明日には兵が南蛮寺を取り囲むと、そう仰せであったろう。帰するところ、あの南蛮寺におるキリシタンどもを今日中に逃がせと、殿はそれをロレンソに伝えるために来たのじゃ」
「…そう…なのか」
忠三郎は驚きと安堵が混じった声で呟いた。まさか一益がそんな意図を持って南蛮寺に来ていたとは、考えもしなかった。
「ロレンソは気づいておるようであったが?というても、ロレンソ自身は逃げるようなことはせぬであろう。後は…」
と義太夫は再び饅頭を一口、口に入れてゴクリと飲み込んでから続ける。
「童のようにかようなところで騒ぐほどであれば、屋敷に戻って殿に話せ。殿の心の内を知りたいと、そう思うておるのであろう?」
義太夫の言う通りだ。この苛立ちは、一益の本当の思いが分からないから。一益が黙して語らないからだ。
「されど…」
一益にどう切り出すべきか。ずっと心に溜めてきた疑問や不安を、どう伝えたらいいのか、言葉が見つからない。
「今更、何を恐れておるのじゃ。おぬしらしゅうもない。酔って義兄弟になれと殿に迫った勢いは如何した。あのときのように、殿と真正面から話をしてみい」
義太夫が明るく笑って背中を叩く。
その通りかもしれない。今、感じている不安や苛立ちを、言葉にして伝えれば、一益の本当の思いを知ることができるのかもしれない。
屋敷についたときにはすっかり日が暮れ、空には美しい月が輝いていた。
「義兄上は早、お休みになっておろうか」
深酒をしない一益は夜が早い。忠三郎が心配になり尋ねると、義太夫が笑って答えた。
「案ずるな。今日のおぬしは終始、妙な顔をしておった。殿は気づき、おぬしが来るのを待っておられるじゃろ」
本当だろうか。忠三郎は半信半疑のまま、一益の居間へ向かった。なるべく音をたてないように静かに廊下を歩き、そっと襖の前に座る。
「義兄上、忠三郎でござります」
恐る恐る声をかけると、すぐに短い返事が返ってきた。
「入れ」
扉の向こうから一益の低い声が響いた。義太夫の言った通り、一益はまだ起きていた。忠三郎は、胸の内の不安と期待を抱えながら、そっと部屋へと足を踏み入れた。今こそ、胸に秘めた問いを一益にぶつけるときだ。
「如何した」
一益は、筆を動かしていた手を止めた。書状に目を落としながら、静かに筆を置くと、ゆっくりと忠三郎の方へ顔を向けた。その目には、常と変わらぬ冷静さと重みが宿っている。筆に残る墨の香りが漂う中、しばしの静寂が居室に満ちた。
「それは…今後のキリシタンたちのことで…」
一益は、忠三郎の心の内に渦巻く思いを感じ取ったのだろう。重々しくうなずきながら、落ち着いた口調で返す。
「そなたにも思うところがあろう」
その言葉に忠三郎は少し肩の力が抜けた。
「はい。右近殿の去就次第では、上様はまことにキリシタンたちを…。義兄上はそれについて、如何思われておるので?」
忠三郎が、一益の顔を探るようにじっと見つめて問いかけると、一益はその視線を感じ取り、少し間をおいた。静かに扇子を手に取り、考え込むように目を伏せる。
しばしの沈黙が漂う。やがて、その思慮深い瞳が忠三郎に向けられた。
「鶴。わしはそなたが思うほどに万能ではない」
一益はゆっくりと扇子を閉じた。その表情にはわずかな疲れが浮かんでいる。
――鶴、と呼びかけるその声には、これまでに見せたことのない本音が滲んでいた。
「事ここに至っては、わしにできることは多くはない。柔らかな舌は骨を砕く。オルガンティノが申していた通り、なんとか右近を説き、事を穏便に済ませるしかなかろう」
一益の言葉には、責任の重さと、己の限界を見据える冷静さがあった。忠三郎は、その言葉を受け止めながらも、一益の内にある葛藤を垣間見たような気がした。
(義兄上にも、かように思い悩むことがあるのか)
忠三郎が知っている一益は、常に冷静沈着であり、一切の感情を挟まず、冷徹に判断をくだし、それを実行する将としての姿だった。
それは忠三郎が勝手にそう信じていただけだったのかもしれない。思い返せば長島攻めのときも、越前一向一揆のときも、一益はその内心を表に現すことはなかった。いつのときも憤りは残忍で、怒りはあふれ出るものだ。あの信長に仕えている以上、無慈悲な殺戮を命じられることも覚悟の上だろう。
しかし、今にして思い返せば、怒りに任せた信長の命に対し、なんとか事態を打開し、犠牲を食い止めようと、一益はあらゆる手を尽くしていたではないか。自らがすべてを背負い込みながら、周囲には一切の動揺を見せず、その実、一人、苦悩していたのではないだろうか。
襖の隙間から入り込む風が、灯明の火をかすかに揺らした。薄暗い光の中で、一益の表情がぼんやりと滲んで見える。忠三郎は、その影をじっと見つめながら、言葉にできない感情が胸の奥で膨らんでいくのを感じた。
(義兄上…)
一益は、その強さの裏にある人としての悩みや重圧を、初めて忠三郎に見せてくれたような気がする。この揺らめく灯明の火に照らされた一益の姿は、その強さの裏に潜む葛藤を、忠三郎にそっと示しているかのように思えた。
「されど、案ずることはない」
一益は静かにそう言い切った。その声には、迷いがない。忠三郎は、その言葉に思わず身を乗り出す。
「右近は…必ず、織田家を選び取る」
その言葉が揺れる灯明の炎に乗って忠三郎の耳に届いた瞬間、忠三郎は思わず問いかけた。
「それは何故に…」
何をもってそう断言できるのか。右近の心を揺るがすものは少なくない。有岡城には、右近の妹と息子がいる。
一益は、忠三郎の疑問を感じ取ると、言葉を選ぶように静かに口を開いた。
「焦らせなければよい。兵は多きを益ありとするに非ざるなり。惟だ武進することなく、力を併わせて敵を料らば、以て人を取るに足らんのみ。戦さとは兵の多さではない。猛進することなく、味方の力をあわせ、敵情をはかれば勝機は自ずから見えてくるもの。今は無理強いせず、オルガンティノやロレンソの力を借り、右近に時を与え、出方を見るとき。心の安穩なるは身のいのちなり。右近が信じるデウスなるものの力がどのように働くのか、我らもキリシタンたちとともに見定めようではないか」
心の安穩なるは身のいのちなり。媢嫉は骨の腐なり。一益の静かな言葉は、さながら水が染み込むがごとく、焦りを抱えた忠三郎の心に少しずつ浸透していく。
「案ずるな。正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」
この抜き差しならない状況にあって、一益自身もまた、時を待ち、今後の行く末を見届けることで、人知を超えた深い英知に触れようとしているのかもしれない。
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歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~
城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。
一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。
四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
そして、1907年7月30日のことである。
連合航空艦隊
ypaaaaaaa
歴史・時代
1929年のロンドン海軍軍縮条約を機に海軍内では新時代の軍備についての議論が活発に行われるようになった。その中で生れたのが”航空艦隊主義”だった。この考えは当初、一部の中堅将校や青年将校が唱えていたものだが途中からいわゆる海軍左派である山本五十六や米内光政がこの考えを支持し始めて実現のためにの政治力を駆使し始めた。この航空艦隊主義と言うものは”重巡以上の大型艦を全て空母に改装する”というかなり極端なものだった。それでも1936年の条約失効を持って日本海軍は航空艦隊主義に傾注していくことになる。
デモ版と言っては何ですが、こんなものも書く予定があるんだなぁ程度に思ってい頂けると幸いです。
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