獅子の末裔

卯花月影

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13.播磨の月

13-2. 石風呂

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 キリスト教とは如何なる教えなのか。
 信長はロレンソやフロイスからキリスト教の教えについて、様々な話を聞いていた。しかし忠三郎は、これまで南蛮人が南蛮文化以外に興味がなかったために、彼らが海を越えて遠い国に来てまで伝えようとしたその教えについて、ほとんど何も知らない。

 高山右近から話を聞きたかったが右近は荒木村重ら摂津衆とともに播磨へ出陣している。
 信長とともに上洛した忠三郎は、なんとはなしに話に聞く南蛮寺に足を向けた。
 南蛮寺には毎日、大勢のキリシタンたちが集まり、熱心に話に耳を傾けていた。その場で語り手として活躍していたのは、ロレンソだった。ロレンソの声は南蛮寺の外まで響き渡り、信仰の力や、遠く異国の地からもたらされた新しい思想に対する期待と共鳴するように、多くの人々を引きつけていた。

(何故にかように人が集まるのであろうか)
 不思議だ。ここに集まる多くの民は、何を求め、何を得ようとしているのだろうか。
 語り終えると、ロレンソが忠三郎に気付いて近づいてきた。
「珍しいこともあるもの。右近殿も、おぬしの義兄も播磨に行き、暇をもてあまして物見遊山に現れたか」
 図星だ。信長に従って上洛したものの、播磨出陣が取りやめになったために、つまらない思いをしていたところだった。

「なんたる無礼な…」
 町野左近が怒るが、忠三郎は可笑しくなり、笑い声をあげた。
「かまわぬ、かまわぬ。ロレンソ殿の申す通り。わしも上様の供をして戦場に行こうと思うておりましたが、都に足止めとなり申した」
 毛利が動いたと聞いた信長は自ら出馬しようとしていたが、一益や光秀に止められて出陣を見送った。

 義太夫は一益とともに摂津へ行き、三九郎は大湊へ行ったまま戻ってこない。
 忠三郎も播磨へ行きたいと願い出たが、信長の許しを得ることはできなかった。
「されど、幾日も経ぬうちに検使として播磨の地へ赴かねばなりませぬ」
 検使とは、いわば戦場における諸将の目付役である。信長の命が確実に実行されているか、諸将の働き振りを細かに見極め、しかるのち、信長に報告しなくてはならない。まさに、諸将にとっては厄介極まりない存在といえる。

「いずれ時が来れば、再びここへ足を運ぶこともあろう。求めよ、然らば与えられん。尋づねよ、さらば見出さん。門を叩たけ、さらば開かれん。 すべて求むる者は得え、たづぬる者ものは見いだし、門をたたく者は開かるるなり。時きたらば、おぬしの求めていた答えが得られるであろう」
 ロレンソの言うことは相変わらずよく分からない。言葉が意味するものは一見明瞭でありながら、そこに秘められた暗示のようなものは測りかねた。

「求めていた答え?」
 ロレンソの言う「答え」とは何を指しているのか。一体、何を求め、何を追い続けてきたというのか。自らの心の深奥を覗き込んだところで、そこには曖昧な影ばかりが漂う。
「それは如何なる…」
 戸惑う忠三郎に、ロレンソは見透かしたかのように、無言で微笑んでいる。
 その言葉の奥には、知るべきものは時とともに明らかにされるという悠久の真理が秘められているのかもしれない。

  ***************************************

 秀吉の救援のため、播磨に送られたのは総大将の織田信忠と弟の北畠信雄、神戸信孝、信長の弟の長野信包らの連枝衆。重臣は滝川一益、丹羽長秀、明智光秀、佐久間信盛といった層々たる面々だ。荒木村重ら摂津衆は秀吉とともにすでに播磨にいる。
 そののちに送り込まれた検使は万見仙千代を筆頭に忠三郎、堀久太郎、長谷川藤五郎、矢部善七郎他、十人以上。検使は二人一組。武将たちとの癒着を回避するために交代制であり、数日たつと、また次の戦場へ向かい、そこで織田家家臣たちの動向を逐一監視する。

 忠三郎は尾張以来の信長の側近である矢部善七郎とともに荒木村重のいる播磨・高倉山へと向かった。
 信長は真面目で忠勤な者を好む。必然的に側近は皆、目端の利く、忠誠心の高い者が多くなるが、そんな中でも矢部善七郎は信長の側近として、忠実にその職務を果たすだけではなく、持ち前の器用さと人当たりの良さで、一癖も二癖もある織田家の家臣たちと主君・信長の仲介を務める股肱の臣だ。

 忠三郎は父と同年代くらいの矢部善七郎と播磨に行く途上、意外な話を聞いた。
「それがしは滝川左近殿とは縁戚にあたるのでござります」
 矢部善七郎の正室の兄が一益の娘婿だという。
「善七殿の奥方…とは」
 矢部善七郎の正室は二百年以上も前から中伊勢に住む国人、雲林院うじい家当主、慶四郎の娘だ。その兄、雲林院うじい兵部少輔祐光の正室が一益の娘と言うことになるが…。
(義兄上の娘?)
 一益の子で、年長なのは三九郎だけ。他にいるとは聞いたことがない。
「この雲林院の家に石風呂がござりまして」
 石風呂とは石組みの中で火を燃やし、簀子すのこの上に敷いたむしろに井戸から汲んできた水をかけて水煙を上げる蒸し風呂のことだ。
 雲林院うじい家の石風呂とは、雲林院うじい家の家臣・野呂氏の屋敷にある風呂のことで、中伊勢でも評判の大掛かりな風呂だった。
「この風呂に、よく滝川殿がお見えになるとか」
「滝川左近殿が?あの義兄上が風呂を楽しむために、わざわざ中伊勢まで出向いていると?」
 忠三郎は一益の厳格な姿を思い浮かべた。風呂場で湯煙に包まれて、くつろいでいる姿はどうにも想像ができない。
(娘?が嫁いでいるのであれば、足しげく通っていても不思議はないのかもしれぬが…)
 すると、善七郎は急いで訂正した。
「いえ。一番家老の義太夫殿で」
「義太夫?」
 一番家老というのも引っかかるが、忙しいはずの義太夫が、風呂でのんびりとは。
(義兄上の目を盗んでそんなところで油を売っておるのか)
 何とも呆れた気持ちになる。
「義太夫殿は、風流を好まれる御仁とお聞きしております。この石風呂、ただの湯治場ではございません。大掛かりな仕掛けがありましてな。心身ともに整うと評判で」
 忠三郎は思わず苦笑した。
(義太夫め。出鱈目なことばかり抜かしおって)
 普段の義太夫は、むしろ大雑把で厚かましく、風流を語るような繊細さなど微塵も感じられない。それどころか、いかにして人を言いくるめて安楽を得るかばかり考えている策士ではないか。
(油を売ることに関しては抜け目ない)
 忠三郎は、義太夫の厚かましさと抜け目のなさに呆れつつも、ある種の器用さを感じずにはいられない。
(全く…義太夫め。出鱈目なことばかり言って歩いておるな)

 そして一益も、違った意味で抜け目なく動いている。
(義兄上の妹とかいう、上様の側室となった章姫殿の母なる女子もよう分からぬ者であるし、義兄上もあちこちから女子をかき集めて、手広くやっておられる)
 一益は、ただの戦術家ではない。織田家や各地の国人たちとの血縁関係を築くことで、着実に自らの領国を固めているようだ。
 領国を安定して治めるためには、単なる軍事力では足りない。特に、地元に根差す国人衆との絆が不可欠となる。

 国を守り治める者にとって、国人衆はただの臣下ではなく、大地に根を張る木のような存在だ。彼らとの結びつきが深ければ深いほど、その土地は安定し、嵐が吹き荒れようとも揺るがない。風雨に耐え、領地を支える強固な根は、国人衆との信頼関係によって形成される。
(義兄上は見事にその絆を築いておられる。国人衆の心を掴み、彼らの信頼を得ることで、北伊勢は堅固な城壁に守られているかの如く、平穏を保たれておる)

 その一方で、領主にとっては主君との結びつきもまた欠かせない要素だ。領主がその地を安定して治めるためには、主君からの信任と支持が、見えない力として大きな後押しをする。

 主君からの後ろ盾は、領主を外敵から守り、その統治の正統性を保証する盾となる。もし主君の信頼を失ってしまえば、たとえ国人衆との絆がどれだけ強固であろうとも、上からの圧力に押し潰される危険がある。忠誠を誓うべき主君の庇護がなければ、他の大名や敵対勢力からの攻撃に対抗することは困難だ。
 
 言うなれば、主君との結びつきは、領主にとって大河を遡る舟のような存在である。流れが逆でも、波が荒れようとも、その舟は強い推進力を与え、困難な時にも前進する力となる。主君の信頼を得ることで、領主は領地内外での安定を確保し、困難な状況でも揺らぐことなく国を守ることができる。

(義兄上はその両方を心得ている。国人衆との絆だけではなく、織田家との結びつきも抜け目なく保ち続ける。そうやって北伊勢を守っておるのであろうな)
 その巧妙な手腕に改めて感服せずにはいられない。

(されど荒木摂津守は…)
 荒木村重の場合、そのどちらの基盤も不安定と言わざるを得ない。領主としての地位も、主君との結びつきも、どちらも盤石とは言い難い。そのために、嫡男に明智光秀の娘を、次男に滝川一益の娘を迎えようと躍起になっているのだろう。しかし、元々は摂津の国主ではなく、ただのその家臣に過ぎなかった村重には、領国統治の経験も浅く、権威の裏付けが薄いため、統治は不安定だった。

 忠三郎は、荒木が感じているかもしれない不安を思い浮かべた。おそらく、その基盤の緩さに対する不安が、その胸中を占めているのだろう。もしくは、秀吉に出し抜かれたことへの屈辱が、信長への不満を募らせ、秀吉への怒りを燃え上がらせているのだろうか。

 忠三郎と矢部善七郎が村重のもとを訪れた時、普段は冷静で丁重な態度を崩さない荒木村重が、その面影をかなぐり捨てて荒々しく二人を迎えた。
「此度のことはすべてあの猿の失態じゃ」
 と村重は声を荒げた。
「それもこれも、わしを取次から下ろし、猿なんぞに任せたゆえ。今度はそのわしに、猿の尻を吹けと仰せになる。このような屈辱に耐え得ようか」
 村重の言葉は怒りと苛立ちに満ちていた。村重の内心の動揺が、言葉の端々から滲み出ているようだ。顔には不信の色が濃く浮かび、何かが狂い始めたかのように、かつてのような自信が失われている。

 忠三郎は、目の前の村重を見つめながら、村重が抱える不安と怒りがいかに深いものかを感じ取った。猿と呼ばれる秀吉が次第に台頭していく中で、村重の立場は揺らぎ、その不安が心を苛んでいるのは明白だ。だが、それを表に出してしまうほど、村重は追い詰められているのだろうか。

「善七郎。我らが上様の命に背き、上月城を助けに行くのではないかと、上様はそうお疑いなのであろう」
 荒木村重の口から出たこの思いがけない言葉に、忠三郎は驚きを隠せず、すぐに矢部善七郎の顔を見た。しかし、善七郎は動じることなく、冷静に一言でその疑念を否定した。

「そのようなことはござりませぬ。これは陣中見舞いにございます。上様のご配慮とお受け取りくだされ」
 その声には落ち着きがあり、先刻の村重の激昂を一掃するかのようだった。
 しかし、それでも村重の目には不信の色が残り、疑念を完全に捨てきれずにいる様子が見て取れた。村重は善七郎を探るように、その顔をじっと見つめた。
「戯言を申すな!」
 村重の声が荒々しく響き、空気が一層張り詰めた。
「上様は、織田家に味方した上月城を見捨てるおつもりじゃ。されど、猿がそれに異を唱え、密かに兵を動かそうとしておるのを、上様はすでに存じておられる。だからこそ、おぬしらを監視として送りつけてきたのじゃ!」

 忠三郎は驚き、今、村重が放った言葉を反芻する。上月城を見捨てるという話や、秀吉がそれに異を唱えているという話など、何も聞かされていない。完全に取り残された気持ちだった。
(上月城を見捨てる?それに羽柴筑前が異を唱えていると?)
 信長の計略、秀吉の動き、そして村重の疑念—これらが複雑に絡み合い、何が事実で、何が策略なのか、まるで掴めない。
(なにやら、わしの知らぬところで起きているような…)
 三者三様の思惑が交差し、情勢が急速に動いているのを、忠三郎は肌で感じる。信長、秀吉、村重、それぞれが異なる立場で、この事態に関与している。

 善七郎は村重の鋭い目を真っ直ぐに受け止め、冷静さを崩さぬまま、再び口を開いた。
「そのような疑念を抱かれるのは無理からぬこと。しかし、すべては上様のご深慮あってのこと。密かに動くなどとは不届き千万。上様のご意向に反することなど、許されることではありませぬ」
 善七郎の声は毅然としており、村重の不安と怒りを一喝するかのようだ。しかし、その言葉にはただの弁明ではなく、ある種の警告も含まれているように感じられた。信長の意向に逆らう行動が、どれほどの危険を伴うかを暗に示しているかのようだった。

 結局、話の半分も見えないうちに荒木村重の陣営を後にした。
 上月城は元々、播磨の国人・赤松氏の居城であり、秀吉が攻め落として尼子勝久を入れたことで、中国攻めの重要な拠点となっていた。しかし、その後、播磨の別所長治ら国人衆が織田家に背き、離反を始めた。これにより、上月城を死守する意味は薄れたが、依然として城をどう扱うかは重要な課題だった。

 そこへ、毛利家が大軍を動かし始めたという報せが入り、上月城の命運は風前の灯火となった。しかし、上月城に援軍を送ることには大きな危険が伴っていた。離反した国人衆の城を制圧せずに、播磨の奥深くにある上月城まで軍を進めれば、背後を突かれる恐れがある。一方で、上月城を見捨てれば、織田家に従っている他の国人衆も離反する可能性が高まる。

 この板挟みの状況で、秀吉は信長に援軍を求めた。これに対して信長は、一時、自ら出馬しようと都まで兵を進める決断を下した。しかし、周囲の重臣たちはこの行動を危険視し、信長を思い留まらせた。結果、信長は方針を改め、嫡男の信忠を総大将として送り込むことに決めた。

(上様が上月城を見捨てるなど、些か早急に答えを出しすぎておらぬか…)

 忠三郎は、村重の言葉を心中で反芻しつつ、その判断が拙速であるようにも感じられる。確かに、情勢は厳しく、信長が尼子氏を見捨てることも考えられるが、信長は都まで兵を進めた。戦局が揺れ動く中、答えを出すにはまだ時が早いのではないかと思う。

「矢部殿。先ほどの荒木殿の話は…」
 忠三郎は、どうにも心中がざわつき、矢部善七郎の見解を聞きたくなった。
 村重の言葉がただの苛立ちの発露に過ぎないのか、それともも図星なのか、善七郎に確かめてみたい。
 矢部善七郎は少し間を置き、静かに口を開いた。
「荒木殿も長陣でお疲れじゃ。取沙汰することもありますまい」
 善七郎は先ほどの会話など、気にも留めていないようだ。
(あるいは惚けておるのか…)
 その言葉通り、村重の言葉を戯言として片付けようとしているのか、それとも村重の指摘が的を得ていたため、わざと当たり障りのない返答をしているのか。常日ごろからつかみどころない善七郎の本心を掴むのは難しい。

 そして、村重の不安は、単なる疲労からの過剰反応なのか、それとも戦局を読み切った末の危機感なのか。先ほどの村重の態度が妙に心にかかった。
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