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12.紀州の烏
12-5. 鳳凰が羽ばたくとき
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七月、雑賀荘・十ヶ郷を根城とする雑賀衆が兵を挙げた。二月の合戦で織田方に組した三緘衆のひとつ、南郷にいる国人衆から急を知らせる密使が送られ、佐久間信盛が兵を集めて紀州に向かった。その数およそ八万。
佐久間信盛が大敗を喫して引き上げたという知らせが届いたのは、その四日後だった。
「八万もの大軍を引き連れておきながら、たかが二千や三千の兵を相手に手もなくひねられ、おめおめと引き下がってくるとは」
いかに戦さ上手の雑賀衆相手とはいえ、失態と言わざるを得ない。信長に付き従って都に来た馬廻衆は、ある者は嘆息を漏らし、ある者は冷笑した。
敗戦の報が届いてから、信長は怒り心頭で伊勢にいる一益に上洛を促した。
(これは大事になる)
三九郎は、安土の屋敷で知らせを聞いた。父が呼び出されたことを知り、慌てて上洛し、信長のいる二条御新造に向かった。
二条御新造がある場所には二条晴良が居を構えていたが、信長はこの地を気に入り、二条晴良に替地を用意して引っ越しを促した。こうして信長の館が立て替えられることになり、主殿は松永久秀が使っていた多聞山城の主殿をそのまま移築している最中で、来月には迎える御成の間をはじめ、多くの館が作られる。
普請を任された京都所司代の村井貞勝が忙しそうに館中を飛び回り、人足に指示を与えている姿が見えた。
(上様が望めば、例えそれが人の屋敷であろうとも、それはすべて上様のものか)
安土の滝川家の屋敷を作っていたときのことを思い出す。信長は義太夫、新介がせっせと人員を集めて運び入れた材木を見て、自分が使うから安土山まで運ぶようにと命じた。それに対して一益は一言も言わなかったが、これでは盗賊、山賊のたぐいと変わらない。
何か一言、言いたかったが、信長を相手に物申す者などはいるはずもなく、皆、大人しく従っていた。
(これが権力というもの)
信長がその圧倒的な権力を振りかざす姿を見ているうちに、抑えきれぬ怒りが沸き上がるのを感じた。
信長が怒りに任せて焼き尽くした長島の地は、いまだ復興途中だ。その最中の安土城築城の賦役により、滝川家がどれほど困窮しているかなど、信長が知るはずもない。しかも普請の傍ら、他国まで戦さに駆り出されてる。
冷酷な風が全てを押し流すかのように、信長の威圧感が場を支配するたび、三九郎の心の中で反発の炎が一層激しく燃え上がった。
しかし、どれほど理不尽な要求であろうとも、静かにそれを受け入れる父の姿を見るたびに、三九郎は込み上げる怒りを抑え込むしかなかった。父の忍耐と従順さが、三九郎の胸の内で燃え盛る反発を、火を消す水のように静めていった。
そんな不法が許されるのが、この世の常かもしれない。
「忠三郎、上様にお目通りを願いたい」
信長に付き従って上洛していた忠三郎を呼び出すと、忠三郎は戸惑い、
「今は拙い。義兄上が着くまでしばし待て」
と三九郎を留めた。
(さほどにお怒りか)
三九郎では信長の怒りを鎮めることができないと判断したようだ。信長の傍近くに仕える忠三郎が言うのだから、素直に従った方がいいだろう。
三九郎は信長への目通りを諦め、一益の到着を待つことにした。
忠三郎は忠三郎で、敗戦の報を受け、気になっていることがあった。
後藤喜三郎や池田孫四郎、青地四郎左ら、江南にいる忠三郎の従弟たちも佐久間信盛と共に紀州に向かったと聞いている。
(皆は無事であろうか)
いかに一益が先を読んでいたとはいえ、まさか八万もの大軍で攻め入り、敗北を喫して戻ってくるとは思いもよらぬことではないだろうか。
「上様、佐久間殿にはいささか荷が重うござります」
堀久太郎がそっと進言すると、信長はじろりと久太郎を睨みつけ、黙り込んだ。
二月の紀州攻めでも、佐久間信盛率いる別動隊は、鈴木孫一の策に嵌り、先陣の堀久太郎が家臣を失うほどの打撃を受けている。しかし佐久間信盛は尾張以来の譜代の臣であり、かつ筆頭家老だ。畿内を任せるのであれば佐久間信盛が順当と思われた。
(多少の戦さ下手であったとしても、佐久間殿を外すなどとはあり得ぬこと)
世間では、信長が古いしきたりを軽んじると言われているが、決してそうではない。むしろ、信長は人々が自分をどのように評しているかに敏感であり、家中の混乱を避けるために、時には古くから仕える老臣たちの顔を立てることさえあるのだ。その冷徹な決断の裏には、常に熟慮が潜んでいる。
古の頃から、鳳凰は徳の高い君子が帝位につくと、姿を現すと詠われてきた。その神鳥は、天と地の調和が保たれ、国が平穏無事である証として、天空を悠然と舞い降りるという伝承は今に至るまで語り継がれている。鳳凰が現れることは、ただの吉兆にとどまらず、その統治者が天命を受けた正当な帝王であることを示す象徴とされた。
この伝説が広まるにつれ、鳳凰は理想の君主の象徴ともなり、その姿はただ一つの王朝繁栄を予言するだけではなく、治世の安寧と民の幸福が訪れる前触れとして、多くの人々に希望を与えてきた。
(上様こそ、この乱れた世を治める君子たるお方)
忠三郎は、心の中で静かにそう呟いた。乱世にあって、人々が信じるべき光を見失いつつあるこの時代、信長こそが真にその徳を備え、世を平定するにふさわしい人物だ。そして、だからこそ、鳳の雛と称されてきた自分がここにいるのだ、と思い至った。
自分の存在がただの偶然や運命の悪戯ではなく、信長を支えるための宿命であることを感じ、忠三郎はその責務の重さを実感していた。鳳凰がその姿を現す時、乱世は終焉を迎え、天下に泰平が訪れる。自分もまた、その未来を築く一翼を担っているのだ。
(この身が、上様のために羽ばたく時が来たのかもしれぬ)
忠三郎は、心の奥底に潜む決意と期待が少しずつ高まるのを感じつつ、これからの己の役割を静かに見据えていた。
その確信を得るため、忠三郎は信長の傍近くあって、その一挙手一投足に神経を研ぎ澄ませつつ、冷徹な振る舞いの裏にある信長の真意を感じ取ろうとしている。
(佐助の言っていた、鳳凰となれとは、上様の傍近くあって天下を泰平に導くことに相違ない)
忠三郎は、不機嫌そうな信長の横顔をちらりちらりと窺いながらも、心の中でそんなことを考えていた。
七月に入った都はとても暑く、大きなうちわで信長を仰ぐ金森甚七郎の額から汗が零れ落ちる。
(紀州は佐久間殿には任せられぬ。となれば、再び上様がご出馬されるしかあるまい)
これは日野に戻って出陣の支度を整えねばならない、そう思った時、
「上様。滝川左近様がお目通りを願い出ておりまする」
息詰まる空気を打ち破る声が広間に響いた。
「左近が参ったか、通せ。皆、下がれ」
再び信長と一益の話が聞けるかと思っていたが、予想に反して忠三郎も、堀久太郎も、小姓たちまで部屋から出された。
(これは余程のこと…)
やはり再度、紀州に攻め入ることになるのだろうか。今後のことが気がかりで落ち着かず、三九郎と二人、二条御新造からはそう離れていない滝川家の屋敷に戻り、そこで一益の帰りを待つことにした。
「上様や義兄上に限って、手を打ち間違えるなどということがあるとも思えぬが…」
屋敷に戻ると、開口一番に忠三郎がぽつりと言う。何も考えず、思ったことをそのまま口にしたのだろうが、三九郎は自分との温度差を感じざるを得ない。
(まさか、まことに上様を神だなどと思うておるわけではあるまいな)
普段から忠三郎は信長に対しても、一益に対しても、どこか甘えた態度が見え隠れする。二人にとって忠三郎は素直で従順。命じたことに逆らうことはなく、異論も挟まず盲目的に従い、卒なくこなす。戦場に出ると一人で突っ走る悪い癖さえなければ、扱いやすいことこの上ない。
馬廻衆同様、信長子飼いの将であり、信長や一益が可愛いと思わぬはずはないのだが、何を言われても常に笑顔で、どこか人間離れしている。時折、意志があるのだろうかと疑問に思う時がある。
「おぉ、義兄上がお戻りじゃ」
忠三郎が声をあげた。廊下の向こう側から、一益がこちらに向かってくる姿が見えた。
「父上、首尾は?」
「義兄上、紀州の件は如何なりました?」
忠三郎と三九郎、二人が同時に問いかけると、一益は少し眉を挙げて
「何を案じておる。鶴は…江南衆のことか」
「はい。未だ都に姿を見せてはおりませぬ。皆、どうしておるものかと気がかりで…」
一益は頷き、
「たいした損害は出ておらぬが、紀州から引き揚げるのは少し先のこととなろう」
どうやら戦さは長引くようだ。
「上様のご出馬は?」
「それはない」
こうなった以上、信長・信忠が出馬し、前回同様、大掛かりな戦さになるかと思っていたが、予想に反して、信長が赴くことはないという。
「されど、このままでは織田家に恭順し、先の合戦でも先鋒を務めた宮郷の太田左近が危ういのでは?」
織田家に味方した国人衆を敵の手から守らなければ、同じように織田家に恭順した他国の国人にまで影響が及ぶ。
「これは右衛門の将としての手腕以前の問題。いたずらに兵を差し向けても返り討ちに合うだけ。むしろ、雑賀衆同士で潰しあってくれれば、最早、雑賀には本願寺に援軍を送る余力もなくなる」
ここで信長が行き、万一にも負けるようなことがあれば、織田家の威信に傷がつく。信長が出馬するときは、必ず勝つと分かっているときだけだ。
「南郷に次ぎ、宮郷の太田党が力を失えば、雑賀を牛耳るものは鈴木孫一と土橋若太夫の二人になる。両雄倶には立たずという言葉を存じておるか」
『両雄倶には立たず』史記の酈生伝にある。両雄とは始皇帝の死後、天下の覇権を争った楚の項羽と漢の劉邦のことだ。同程度の力をもつものが二人いれば、やがて対立が生まれ、一方が滅びることを指す。
「互いに相手を立てようとせず、共に生きる努力を怠れば、必ず争いの種が芽吹くであろう。されど、これこそ我が狙い。紀州のことは右衛門に任せておけば大事ない。雑賀衆が紀州で争っている間に、我らは大坂本願寺攻めに乗り出さねばなるまいて」
一益の声が蒸し暑い夏の風に乗って胸に響く。それは、茜色に染まる夕焼けの下で、蝉の鳴き声が途切れる瞬間のように、鋭く胸に突き刺さる。
(義兄上は皆を手駒のごとく使って、紀州に混乱をもたらそうとしていたのか)
信長や一益にとって雑賀衆や佐久間信盛はただの道具なのだろうか。忠三郎は一瞬、胸に沸き立った困惑と裏切られたかのような感情を押し殺し、深く息をついた。
一益の考えに対する戸惑いはあるものの、一益がただの冷徹な策略家ではないことを忠三郎は知っている。そこには必ず、何かしらの大義や未来への計算があるはずだ。そう信じたかった。忠三郎は、その思いを手繰り寄せるようにして、心の中で一つひとつ整理する。
(義兄上の策が、天下を泰平に導く手段であるならば)
その心には依然として疑念が残っていたが、それを払しょくするかのように口をつぐんだ。
一益は、忠三郎と同じように戸惑った表情を浮かべる三九郎を見た。
「三九郎、伊勢に戻り、津田秀重を連れて大湊へ行け」
「はっ、大湊、でござりますか」
「然様。志摩から九鬼右馬允も行き、そろそろ阿武船が出来上がっておるころじゃ」
ここへきて阿武船とは。
(もしや毛利水軍との海戦のためでは…)
先年の合戦で敗北を喫した毛利水軍との海戦。その後、信長の命により一益が動き、大湊で新たな阿武船の造船が行われていた。
「次は勝たねばなるまいて」
その言葉を口にする一益の瞳には、既に冷徹な決意が宿っていた。忠三郎はその鋭い眼差しに、義兄が心の中で何を見据えているのかを察した。
紀州の混乱など、一益の中ではもはや過去のことに過ぎないのだ。その思考は、すでに次なる戦場――毛利、本願寺との対峙へと完全に移っている。
忠三郎は一益の計り知れぬ覚悟と戦略を感じ取る。一益にとって、次の海戦こそがすべてを決する鍵となると確信しているようだ。一益が捉える未来の像には、紀州などわずかな通過点に過ぎず、眼前に広がるのは、さらに大きな局面に向けた準備だ。
気づけば、外はすでに日が暮れ、薄闇が静かに部屋を包んでいた。庭先から、夏の夜を彩る虫たちの声が静かに響き渡り、涼やかな風がふと障子越しに吹き込んでくる。微かなその音色は、昼間の熱気と共に去った喧騒を遠ざけ、どこか懐かしく、また儚い感覚を呼び覚ます。
一益の言葉に圧倒されていた忠三郎の心も、その虫の声にふと和らぎ、心の中に巻き起こる複雑な感情の波が少しずつ静まっていく。
部屋の中には、昼間の重い空気とは対照的な穏やかさが広がり、日中の出来事がまるで遠い記憶のように思えた。
佐久間信盛が大敗を喫して引き上げたという知らせが届いたのは、その四日後だった。
「八万もの大軍を引き連れておきながら、たかが二千や三千の兵を相手に手もなくひねられ、おめおめと引き下がってくるとは」
いかに戦さ上手の雑賀衆相手とはいえ、失態と言わざるを得ない。信長に付き従って都に来た馬廻衆は、ある者は嘆息を漏らし、ある者は冷笑した。
敗戦の報が届いてから、信長は怒り心頭で伊勢にいる一益に上洛を促した。
(これは大事になる)
三九郎は、安土の屋敷で知らせを聞いた。父が呼び出されたことを知り、慌てて上洛し、信長のいる二条御新造に向かった。
二条御新造がある場所には二条晴良が居を構えていたが、信長はこの地を気に入り、二条晴良に替地を用意して引っ越しを促した。こうして信長の館が立て替えられることになり、主殿は松永久秀が使っていた多聞山城の主殿をそのまま移築している最中で、来月には迎える御成の間をはじめ、多くの館が作られる。
普請を任された京都所司代の村井貞勝が忙しそうに館中を飛び回り、人足に指示を与えている姿が見えた。
(上様が望めば、例えそれが人の屋敷であろうとも、それはすべて上様のものか)
安土の滝川家の屋敷を作っていたときのことを思い出す。信長は義太夫、新介がせっせと人員を集めて運び入れた材木を見て、自分が使うから安土山まで運ぶようにと命じた。それに対して一益は一言も言わなかったが、これでは盗賊、山賊のたぐいと変わらない。
何か一言、言いたかったが、信長を相手に物申す者などはいるはずもなく、皆、大人しく従っていた。
(これが権力というもの)
信長がその圧倒的な権力を振りかざす姿を見ているうちに、抑えきれぬ怒りが沸き上がるのを感じた。
信長が怒りに任せて焼き尽くした長島の地は、いまだ復興途中だ。その最中の安土城築城の賦役により、滝川家がどれほど困窮しているかなど、信長が知るはずもない。しかも普請の傍ら、他国まで戦さに駆り出されてる。
冷酷な風が全てを押し流すかのように、信長の威圧感が場を支配するたび、三九郎の心の中で反発の炎が一層激しく燃え上がった。
しかし、どれほど理不尽な要求であろうとも、静かにそれを受け入れる父の姿を見るたびに、三九郎は込み上げる怒りを抑え込むしかなかった。父の忍耐と従順さが、三九郎の胸の内で燃え盛る反発を、火を消す水のように静めていった。
そんな不法が許されるのが、この世の常かもしれない。
「忠三郎、上様にお目通りを願いたい」
信長に付き従って上洛していた忠三郎を呼び出すと、忠三郎は戸惑い、
「今は拙い。義兄上が着くまでしばし待て」
と三九郎を留めた。
(さほどにお怒りか)
三九郎では信長の怒りを鎮めることができないと判断したようだ。信長の傍近くに仕える忠三郎が言うのだから、素直に従った方がいいだろう。
三九郎は信長への目通りを諦め、一益の到着を待つことにした。
忠三郎は忠三郎で、敗戦の報を受け、気になっていることがあった。
後藤喜三郎や池田孫四郎、青地四郎左ら、江南にいる忠三郎の従弟たちも佐久間信盛と共に紀州に向かったと聞いている。
(皆は無事であろうか)
いかに一益が先を読んでいたとはいえ、まさか八万もの大軍で攻め入り、敗北を喫して戻ってくるとは思いもよらぬことではないだろうか。
「上様、佐久間殿にはいささか荷が重うござります」
堀久太郎がそっと進言すると、信長はじろりと久太郎を睨みつけ、黙り込んだ。
二月の紀州攻めでも、佐久間信盛率いる別動隊は、鈴木孫一の策に嵌り、先陣の堀久太郎が家臣を失うほどの打撃を受けている。しかし佐久間信盛は尾張以来の譜代の臣であり、かつ筆頭家老だ。畿内を任せるのであれば佐久間信盛が順当と思われた。
(多少の戦さ下手であったとしても、佐久間殿を外すなどとはあり得ぬこと)
世間では、信長が古いしきたりを軽んじると言われているが、決してそうではない。むしろ、信長は人々が自分をどのように評しているかに敏感であり、家中の混乱を避けるために、時には古くから仕える老臣たちの顔を立てることさえあるのだ。その冷徹な決断の裏には、常に熟慮が潜んでいる。
古の頃から、鳳凰は徳の高い君子が帝位につくと、姿を現すと詠われてきた。その神鳥は、天と地の調和が保たれ、国が平穏無事である証として、天空を悠然と舞い降りるという伝承は今に至るまで語り継がれている。鳳凰が現れることは、ただの吉兆にとどまらず、その統治者が天命を受けた正当な帝王であることを示す象徴とされた。
この伝説が広まるにつれ、鳳凰は理想の君主の象徴ともなり、その姿はただ一つの王朝繁栄を予言するだけではなく、治世の安寧と民の幸福が訪れる前触れとして、多くの人々に希望を与えてきた。
(上様こそ、この乱れた世を治める君子たるお方)
忠三郎は、心の中で静かにそう呟いた。乱世にあって、人々が信じるべき光を見失いつつあるこの時代、信長こそが真にその徳を備え、世を平定するにふさわしい人物だ。そして、だからこそ、鳳の雛と称されてきた自分がここにいるのだ、と思い至った。
自分の存在がただの偶然や運命の悪戯ではなく、信長を支えるための宿命であることを感じ、忠三郎はその責務の重さを実感していた。鳳凰がその姿を現す時、乱世は終焉を迎え、天下に泰平が訪れる。自分もまた、その未来を築く一翼を担っているのだ。
(この身が、上様のために羽ばたく時が来たのかもしれぬ)
忠三郎は、心の奥底に潜む決意と期待が少しずつ高まるのを感じつつ、これからの己の役割を静かに見据えていた。
その確信を得るため、忠三郎は信長の傍近くあって、その一挙手一投足に神経を研ぎ澄ませつつ、冷徹な振る舞いの裏にある信長の真意を感じ取ろうとしている。
(佐助の言っていた、鳳凰となれとは、上様の傍近くあって天下を泰平に導くことに相違ない)
忠三郎は、不機嫌そうな信長の横顔をちらりちらりと窺いながらも、心の中でそんなことを考えていた。
七月に入った都はとても暑く、大きなうちわで信長を仰ぐ金森甚七郎の額から汗が零れ落ちる。
(紀州は佐久間殿には任せられぬ。となれば、再び上様がご出馬されるしかあるまい)
これは日野に戻って出陣の支度を整えねばならない、そう思った時、
「上様。滝川左近様がお目通りを願い出ておりまする」
息詰まる空気を打ち破る声が広間に響いた。
「左近が参ったか、通せ。皆、下がれ」
再び信長と一益の話が聞けるかと思っていたが、予想に反して忠三郎も、堀久太郎も、小姓たちまで部屋から出された。
(これは余程のこと…)
やはり再度、紀州に攻め入ることになるのだろうか。今後のことが気がかりで落ち着かず、三九郎と二人、二条御新造からはそう離れていない滝川家の屋敷に戻り、そこで一益の帰りを待つことにした。
「上様や義兄上に限って、手を打ち間違えるなどということがあるとも思えぬが…」
屋敷に戻ると、開口一番に忠三郎がぽつりと言う。何も考えず、思ったことをそのまま口にしたのだろうが、三九郎は自分との温度差を感じざるを得ない。
(まさか、まことに上様を神だなどと思うておるわけではあるまいな)
普段から忠三郎は信長に対しても、一益に対しても、どこか甘えた態度が見え隠れする。二人にとって忠三郎は素直で従順。命じたことに逆らうことはなく、異論も挟まず盲目的に従い、卒なくこなす。戦場に出ると一人で突っ走る悪い癖さえなければ、扱いやすいことこの上ない。
馬廻衆同様、信長子飼いの将であり、信長や一益が可愛いと思わぬはずはないのだが、何を言われても常に笑顔で、どこか人間離れしている。時折、意志があるのだろうかと疑問に思う時がある。
「おぉ、義兄上がお戻りじゃ」
忠三郎が声をあげた。廊下の向こう側から、一益がこちらに向かってくる姿が見えた。
「父上、首尾は?」
「義兄上、紀州の件は如何なりました?」
忠三郎と三九郎、二人が同時に問いかけると、一益は少し眉を挙げて
「何を案じておる。鶴は…江南衆のことか」
「はい。未だ都に姿を見せてはおりませぬ。皆、どうしておるものかと気がかりで…」
一益は頷き、
「たいした損害は出ておらぬが、紀州から引き揚げるのは少し先のこととなろう」
どうやら戦さは長引くようだ。
「上様のご出馬は?」
「それはない」
こうなった以上、信長・信忠が出馬し、前回同様、大掛かりな戦さになるかと思っていたが、予想に反して、信長が赴くことはないという。
「されど、このままでは織田家に恭順し、先の合戦でも先鋒を務めた宮郷の太田左近が危ういのでは?」
織田家に味方した国人衆を敵の手から守らなければ、同じように織田家に恭順した他国の国人にまで影響が及ぶ。
「これは右衛門の将としての手腕以前の問題。いたずらに兵を差し向けても返り討ちに合うだけ。むしろ、雑賀衆同士で潰しあってくれれば、最早、雑賀には本願寺に援軍を送る余力もなくなる」
ここで信長が行き、万一にも負けるようなことがあれば、織田家の威信に傷がつく。信長が出馬するときは、必ず勝つと分かっているときだけだ。
「南郷に次ぎ、宮郷の太田党が力を失えば、雑賀を牛耳るものは鈴木孫一と土橋若太夫の二人になる。両雄倶には立たずという言葉を存じておるか」
『両雄倶には立たず』史記の酈生伝にある。両雄とは始皇帝の死後、天下の覇権を争った楚の項羽と漢の劉邦のことだ。同程度の力をもつものが二人いれば、やがて対立が生まれ、一方が滅びることを指す。
「互いに相手を立てようとせず、共に生きる努力を怠れば、必ず争いの種が芽吹くであろう。されど、これこそ我が狙い。紀州のことは右衛門に任せておけば大事ない。雑賀衆が紀州で争っている間に、我らは大坂本願寺攻めに乗り出さねばなるまいて」
一益の声が蒸し暑い夏の風に乗って胸に響く。それは、茜色に染まる夕焼けの下で、蝉の鳴き声が途切れる瞬間のように、鋭く胸に突き刺さる。
(義兄上は皆を手駒のごとく使って、紀州に混乱をもたらそうとしていたのか)
信長や一益にとって雑賀衆や佐久間信盛はただの道具なのだろうか。忠三郎は一瞬、胸に沸き立った困惑と裏切られたかのような感情を押し殺し、深く息をついた。
一益の考えに対する戸惑いはあるものの、一益がただの冷徹な策略家ではないことを忠三郎は知っている。そこには必ず、何かしらの大義や未来への計算があるはずだ。そう信じたかった。忠三郎は、その思いを手繰り寄せるようにして、心の中で一つひとつ整理する。
(義兄上の策が、天下を泰平に導く手段であるならば)
その心には依然として疑念が残っていたが、それを払しょくするかのように口をつぐんだ。
一益は、忠三郎と同じように戸惑った表情を浮かべる三九郎を見た。
「三九郎、伊勢に戻り、津田秀重を連れて大湊へ行け」
「はっ、大湊、でござりますか」
「然様。志摩から九鬼右馬允も行き、そろそろ阿武船が出来上がっておるころじゃ」
ここへきて阿武船とは。
(もしや毛利水軍との海戦のためでは…)
先年の合戦で敗北を喫した毛利水軍との海戦。その後、信長の命により一益が動き、大湊で新たな阿武船の造船が行われていた。
「次は勝たねばなるまいて」
その言葉を口にする一益の瞳には、既に冷徹な決意が宿っていた。忠三郎はその鋭い眼差しに、義兄が心の中で何を見据えているのかを察した。
紀州の混乱など、一益の中ではもはや過去のことに過ぎないのだ。その思考は、すでに次なる戦場――毛利、本願寺との対峙へと完全に移っている。
忠三郎は一益の計り知れぬ覚悟と戦略を感じ取る。一益にとって、次の海戦こそがすべてを決する鍵となると確信しているようだ。一益が捉える未来の像には、紀州などわずかな通過点に過ぎず、眼前に広がるのは、さらに大きな局面に向けた準備だ。
気づけば、外はすでに日が暮れ、薄闇が静かに部屋を包んでいた。庭先から、夏の夜を彩る虫たちの声が静かに響き渡り、涼やかな風がふと障子越しに吹き込んでくる。微かなその音色は、昼間の熱気と共に去った喧騒を遠ざけ、どこか懐かしく、また儚い感覚を呼び覚ます。
一益の言葉に圧倒されていた忠三郎の心も、その虫の声にふと和らぎ、心の中に巻き起こる複雑な感情の波が少しずつ静まっていく。
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