獅子の末裔

卯花月影

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12.紀州の烏

12-3. 謀将の思惑

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 二月九日、紀州攻めの号令が発せられた。忠三郎は信長に従い、安土を出立。伊勢・大和・越前・若狭・丹後・丹波・播磨衆との合流地点である都を目指して兵を進めた。

 都にほど近い寺で他国の軍勢と合流。ここで軍議が開かれた。
「此度の合戦では城介を総大将とする」
 信長の重々しい声が響き渡った。静寂が訪れ、その場に居並ぶ家臣たちは、一斉に顔を見合わせる。
「では、上様は如何なされるので?」
 秀吉が尋ねると、
「予は後ろからゆるりと参ろう。城介、よいな」
 城介とは秋田城介。すなわち織田家の家督を継いだ嫡男の信忠のことだ。

「ハハッ。父上に変わり、しかと務めを果たしまする」
 信長の隣に座る信忠は、すでに分かっていたことなのか、驚いた顔もしない。
 家臣たちは心の中でそれぞれの思惑を巡らせる。
 信長が正式に信忠に家督を譲ったのは昨年十一月。これが家督を譲られてから最初の戦さになる。しかし実質、織田家のすべてを支配しているのは信長だ。
 今回の紀州攻めも当然、信長が指揮を取るものと、誰もがそう思っていたが。

(この大軍勢を従えて紀州攻めとは、城介様には些か荷が重いのでは…)
 忠三郎もそう思ったが、無論、信長の命令に反論できるはずもない。この場がざわついているのは、ほとんどの者が、総大将として信忠が立てられることを知らなかったからだろう。
(されど…)
 佐久間信盛、羽柴秀吉、明智光秀も驚いているのに、一益は一人、いつもと変わらず、眉一つ動かすことがない。
(あぁ、なるほど)
 信忠の後見を任されている一益は、紀州攻めが決まる前から、信忠を総大将にすると言い含められていた筈だ。そもそも忠三郎に軍略が立てられないのと同じように、紀州の事情に疎く、経験の浅い信忠に軍略が立てられるはずもない。

(すべて義兄上が…)
 信忠は、一益が緻密な計算をもとに立てた戦略通りに動くだけだ。そして、忠三郎が思っている通りであれば、信忠には決して危ない橋を渡らせるようなことはしない。
(もしや、わしに対しても同じことか)
 前回の天王寺砦の件のような危険な真似はさせないのではないか。

 総勢十万の大軍勢は都を立ち、泉州信達まで進んだ。そこで再度、軍議が開かれ、軍勢を二手に分かれて攻め入ることになった。
 信忠率いる本隊は浜手を行き十ヶ郷を目指して進む。十ヶ郷には雑賀衆が築いた砦があり、ここを攻略しながら雑賀へ向かう。
 もう一隊は三緘みからみ衆を先頭に山手へ回り込み、一気に雑賀を目指す。こちらは名乗りを上げた佐久間信盛、羽柴秀吉をはじめ、荒木村重、別所長治、秀吉とは仲のいい堀久太郎が三万の軍勢を率いて向かうことになった。

 手柄を立てるのであれば、佐久間信盛率いる別動隊に入り、先に雑賀入りするのが一番と思われたが、一益は首を縦に振ってはくれなかった。
「不公平ではないか。久太郎には手柄を立てる機会を与え、わしには城介様の傍から離れるなという。城介様をお守りすると言えば聞こえはよいが、帰するところ、尤も安全な場所におれと、そう申しておるのと変わらぬ」
 忠三郎が不満を漏らすと、義太夫は少し俯き加減に肩を揺らしながら、やれやれと息を吐いた。
 何か愉快な話でも聞いたかのように、穏やかに笑い声を漏らす。

「鶴、おぬしも初陣以来、あちらこちらと戦さ場を潜り抜けてきた。戦さ場で安全な場所などないことくらいは存じておろう。どのようなお役目であれ、命を懸けることに変わりはない」
「詭弁を弄しても、義兄上がわしを危ういと思うておられることくらいは分かっておる」
 堀久太郎と自分にそう差があるとは思えない。いや、むしろ同等の力を持っているはずだ。それなのに、自分だけが何故、腫れ物に触るような扱いを受けねばならないのか。

(おのれ、久太郎…)
 久太郎の顔を思い出すたびに、胸に蓄積された屈辱がじわじわと滲み出てくる。久太郎には前線で活躍する機会が与えられ、忠三郎は後方の安全な場所でそれを見ているしかない。戦場で武功をあげたいという強い思いは、いつも抑え込まれているように感じる。
「戦さはのう、力や腕前だけで動くものではない。巣や幼鳥を襲われると知った烏は、大事な巣を空にしてでも襲ってくるものじゃ」
 義太夫は謎のようなことを言う。
「それは如何なることか?」
「これ以上はわしの口から申すわけにもいくまい。殿に尋ねてみよ」
 功を焦る忠三郎の思いを知ってか知らずか、義太夫は普段と変わらぬ、軽やかな調子で肩を軽くすくめ、微笑みながらさらりと流すように言った。

 信忠本隊は峠を越え、紀州に入ると手前の中野砦を囲んだ。すでに調略が進んでいた中野城は織田の大軍勢を前に、いとも容易く恭順の意を表して開城した。
 次はいよいよ信長の到着を待って紀ノ川を渡り、鈴木孫一の牙城である弥勒寺山に向かう。

「次こそはどうか先陣を務めさせてくだされ!」
 忠三郎は意気揚々と一益の本陣に押しかけ、熱く言葉を放つ。
「この戦、我が身をもって道を切り拓き、皆の勝利を掴み取って参ります!」
 鎧の下で高鳴る鼓動を感じながら、深々と頭を下げた。しかし一益は難しい顔をするばかりで、首を縦に振ってはくれない。
「もうすぐ上様がここへ来られるとか。 上様や織田家諸将の前で大手柄をたて、蒲生忠三郎に勝る者なしと知らしめねば、我が面目は保たれず、これまでの労苦は霞の如く消え去りましょう。今こそ天下万民に蒲生の名を轟かせ、己が名を歴史に刻むときと存じまする」

 忠三郎がしつこく食い下がると、一益は床几から立ち上がり、忠三郎を帷幕の外へと誘う。
 春を迎えた紀州の風は、頬に優しく触れ、心地よさが全身に染みわたる。 空は一片の曇りもなく、澄み切った青がどこまでも広がる。 その清らかな景色に、自然と心も安らぎ、季節の移ろいを感じさせる静かな喜びに包まれた。
「ここでしばしのとき、これから何が起きるか、よう見定めよ。古の所謂、善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり」
 善く戦う者、すなわち戦いに巧みな者は、通常の人では見分けのつかない勝ちやすい機会をとらえて、そこで打ち勝つ者である。
 忠三郎は一益の言わんとしていることが分からず、目の前の川に目を移した。
 悠々と流れる紀ノ川が大きくその姿を現している。 その水面は昨夜の雨を受けて、力強く、濁りを伸ばした流れが一層激しく川幅を広げているようだ。
「増水しておるようで…」
「然様。されど功を焦るものどもは、水が引くのを待たず、渡ろうとするであろう」
 それは誰のことか。

(山の手を進む一隊のことでは…)
 この川の上流から雑賀を目指している別動隊は雄ノ山峠を越え、そろそろ川を渡るころ。いや、もう渡り終えているかもしれない。
「雑賀衆にとって雑賀を取られては戻る場所がなくなる。この先の弥勒寺山におるのは鈴木孫一とその郎党のみ。土橋若大夫をはじめとする雑賀衆の主力は別な場所におる」
「別な場所とは…」
「わしならば、この川を防衛線とし、川沿いに砦を築いて敵を待ち構える」
 雑賀衆の主力が待ち構えるところに、別動隊が突き進み、増水した川を渡ろうとすれば、当然、待ち構えていた雑賀衆の数千の鉄砲が火を噴く。

「あの者どもはこの川を熟知しておる。雨が降り、増水すれば川の水底は見えなくなる。それを見越して罠を仕掛けておるであろう」
「川底に罠?では…別動隊は…」
「無理に川を渡ろうとすれば、いたずらに兵を失うこととなる」
 そこまで分かっていながら、一益は何故、別動隊を先に行かせたのだろうか。
「味方を罠に嵌めてまで、義兄上がなさろうとしておることは、如何なることで?」
「わしの罠はもっと大きい」
 その意図するところを掴みかねていると、一益は忠三郎の顔を見て、口元にかすかな笑みを浮かべた。

「土橋若大夫は三万の大軍を追い返し、慢心するであろう。されど我らが攻める弥勒寺山の鈴木孫一には、これから織田家の恐ろしさを思い知らさねばならぬ」
 これで両者の間には大きな見解の差が生まれる。一方は信長遅るるに足らずと侮り、一方は信長に逆らう是非を問われる。
「我等は雑賀まで攻め入り、そこで雑賀衆と和睦。此度の戦さはこれをもって戦果とする」
「武力をもって制圧するのではなく、目立った戦果もあげずに和睦すると?」
「然様。欲しいのは鈴木孫一とその郎党のみ」
 和睦したのち、孫一を巧みに篭絡し、その心を揺さぶり続ければ、孫一は孤立し、雑賀衆は仲間内で争いをはじめる。
「最早、大掛かりな合戦などは不要」
 放っておいても雑賀は崩壊していく。
「乱は治に生じる。敵に隙がなければ隙を作りだすことで勝利を得ることもできよう。戦さとは刃を交えることばかりではない。まことの戦さは駆け引きで決まる。それゆえ戦う前からすでに勝敗は喫しておる」
 一益にとっての戦さとは戦場で血を流すことではない。敵の心を巧みに操り、自滅に追いやることだ。
(やはり義兄上は恐ろしいお方じゃ)
 一益の冷徹な横顔を見つめながら、改めて一益の底知れぬ恐ろしさを感じる。
 その冷酷さは戦場に留まらず、人の心も道具として操る。一益の目は、もう感情というものが残っていないのだろうか。

 山の手を進んだ別動隊が、渡河しようとしたところで足止めされ、大敗北を喫したとの知らせが届いたのは翌日だった。
 案の定、川底には罠があり、寄せ手は雨で増水していたために気付かなかったらしい。先陣を切った堀勢は、足軽はもとより、付き従った将も何人か討ち取られ、久太郎自身も危うい目に遭いながら、どうにか川から引き揚げたらしい。
(わしが先陣を切っていたら)
 やはり家臣の何人かを失っていただろう。まさに首の皮一枚だった。
(戦う前から勝敗は喫しておるとは…)
 雑賀衆は取った首を前にして、大勝利に酔いしれているだろう。しかし、これこそ一益が仕掛けた罠なのだ。

 信長と合流した織田勢本隊は紀ノ川を渡り、弥勒寺山を取り囲んだ。弥勒寺山、別名御坊山は紀州における一向宗の本拠地だ。鈴木孫一は織田勢襲来に備えて、この弥勒寺山一帯を城塞化し、本城である弥勒寺山城を囲むように、各処に付城を築いていた。
「竹柵を前面に押し立て、突き進め!」
 信忠の下知により、明智光秀、細川藤孝、丹羽長秀、筒井順慶といった並み居る諸将が付城に攻めかかった。ところが孫一は予想を遥かに上回る数の鉄砲隊を擁しており、思わぬ苦戦を強いられることになる。

「ここで孫一めに地獄を見せねば、ここまで来た甲斐もなし」
 信長の声には、焦りや迷いは微塵もなく、それなりに逆境を楽しむかのような響きがあった。目の前に広がる混乱と激戦は、信長にとって単純な障害ではなく、勝利を手繰り寄せるための一つの舞台でしかないようだ。
 信長は織田一門衆と馬廻衆を投入し、力攻めをもって付城を攻略。更に主要な城のひとつであった中津城を落とすと、鈴木孫一の守る弥勒寺山城へと迫った。

 城を囲んで十日ほど過ぎた頃。忠三郎が一益の本陣を訪ねると、義太夫と新介の二人がせっせと支度をはじめていた。
「何を始めようとしておる?」
「無論、烏どもから梅の実を頂いてくるのじゃ」
「梅の実?」
 紀州の山間部は梅が多い。農耕に適さない土地に梅を植えたようだ。
「梅を食すとは烏のくせに生意気じゃ」
 義太夫に限ってはどこへ行っても、何をしていても食べ物の話になる。
「義太夫…紀州まで来て食い物以外には目につかなかったのか」
 忠三郎が半ば呆れてそういうと、義太夫は珍しく、いいや、と言い、
「紀ノ川から川砂鉄が流れ出しておる」
「川砂鉄?」

「然様。恐らくはこれをもとに製鉄しておるのであろう。鉄は土から取られ、銅は石を溶かして取る。人はやみを目当てとし、その隅々にまで行って、暗やみと暗黒の石を捜し出すと言うからのう」
「鉄は山から採掘するものと思っていたが、この地では川から取っていると?」
「いや、山から採るものじゃ。源流付近に砂鉄の原料が埋まっておるのじゃ。あの途方もない築山。あれは採掘で出た残土処理のために作ったもの。それゆえ墓の近くは掘りつくされておる。されど、この辺りは未だ砂鉄が埋まっておるらしい」

 途方もない築山とは?なんのことかとしばしの時、考え、古の帝の墓のことだと分かった。
(古墳を築山と謂うとは)
 義太夫らしい惚けた表現ではあるが、それほどの土を掘り起こしたとなれば、鉄の価値がいかほどのものであったかがかが分かる。
(刀、槍、そして今は鉄砲)
 武器製造に鉄は欠かせない。古の頃から、人を死の命を奪うために作られた忌まわしい道具。それは闇を内包し、血の匂いを纏う呪われた石。暗やみと暗黒の石とは言い得て妙だ。

「ほれ。戯言はやめにし、そろそろ行かねばたどり着く前に日が暮れる」
 新介が義太夫の尻を叩くと、義太夫が慌てて傍にある布切れを丸めて懐にしまう。
(まことに梅の実を取ってくるつもりか…)
 どこに行くにしても手ぶらで戻ることはないようだ。
(大した奴め…にしても…)
 二人が行く先は鈴木孫一の元だろう。手筈通りに事が運んでいるので和睦を申し入れると思われた。
(すべては義兄上の掌中にあるのか)
 紀州入りする前からの計画通り、和議を結んで帰ることになる。

 一益ですら掴めぬ行動を取る者がいるとすれば、思い当たるのはただ一人。
 義太夫だ。どんな時でも食い物のことばかり頭に浮かべている、この能天気な男だけが、この状況を掻い潜って、誰も予測できぬ動きを見せるのかもしれない。
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